「砂護岸」造成は第二湾岸道を通すための布石

〜“大坂城の外堀”と同じ〜


公共事業と環境を考える会



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 2002年1月から2年間開かれた「三番瀬円卓会議」は、今年(2004年)1月、「三番瀬再生計画案」をまとめて知事に提出した。
 この再生計画案のなかには、「三番瀬の自然再生のための具体的施策」として、「市川市塩浜2丁目の改修護岸前面における干出域の形成」が盛り込まれている。


●「砂護岸」造成を三番瀬再生計画案にシャニムニ盛り込む

 「干出域」というのは人工砂浜のことである。つまり、塩浜2丁目の直立護岸を改修して石積み傾斜護岸などをつくり、その前面海域に土砂を投入して人工砂浜をつくるということだ。「人工砂浜」という言葉を使うと批判がでるというので、「干出域」というマヤカシ言葉を用いている。県は、この事業を「砂護岸」造成と呼んでいる三番瀬再生事業がスタートを参照)
 この「砂護岸」造成は、多様な生き物が生息している浅瀬をつぶすことになる。そこで、パブリックコメント(意見公募)では、多くの環境団体や市民らが反対の意見を寄せた三番瀬再生計画素案に79件の意見を参照)
 しかし、円卓会議は、これらの意見を無視し、強引に人工砂浜造成を再生計画案に盛り込んだ。


●外堀を埋められ、難攻不落の大坂城が落城
  〜徳川家康がしかけたワナ〜

 この「干出域の形成」(人工砂浜造成)あるいは「砂護岸」造成については、“外堀を埋めるもの”と言われているが、それが現実のものとなりつつある。
 ご存じのように、“外堀を埋める”というのは、「ある目的を達成するために、まず遠まわしに相手の急所をおさえる」(『岩波国語辞典』)という意味である。この言葉は、徳川家康の大坂(阪)城攻めに由来する。

 そこで、蛇足になるが、“大坂城の外堀”について説明させていただく。
 1603年に征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開いた徳川家康は、安定政権をつくるため豊臣家をつぶしにかかった。
 1614年、家康は豊臣家が再建した方広寺の鐘銘に難癖(なんくせ)をつけ、謝罪と領地の没収(転封)を要求した。豊臣家がこれを拒否したことから、「大坂城冬の陣」がはじまった。
 徳川軍は約20万もの大軍で大坂城を包囲して攻めた。しかし、大坂城は難攻不落の城だった。静岡大学の小和田哲男教授(歴史研究家)はこう書いている。
     「大坂城は、もともと石山本願寺があったところで、あの軍略家の織田信長ですら、11年間も攻めあぐねた天然の要塞であった。つまり、西は難波の海をひかえ、北は天満川・淀川が自然の堀となり、東も大和川の支流が流れて深田地帯となり、わずかに南側がなだらかな丘陵となって天王寺方面に続くという地勢であった。そこに秀吉が天下統一者としての富と力で堅固な城を築いたのだから、そう簡単には攻め落とすことはできない」(『日本の歴史・合戦おもしろ話』三笠書房)
 さらに、真田幸村や木村重成らの大活躍もあり、徳川軍は大坂城を落とすことができない。
 そこで、家康はワナをしかけた。和平をもちかけたのである。徳川方が提案した和平条件は次のようなものだった。
  • 秀頼や淀君(よどぎみ)たちはこれまでどおり大坂城に留まる
  • 豊臣家の領地・禄高や大坂方諸将の身分・領地禄高はこれまでどおりにする
  • 大坂城の二の丸、三の丸を大坂方で壊す
  • 大坂城の外堀を徳川方で壊す
 この条件を家康のワナと感じた真田幸村や木村重成らは、「家康の計略であり、見せかけだけの和議」と主張し、和平に強く反対した。しかし、大坂城内の実権を握っていた淀君や大野治長は和平を承知した。
 和平が成立すると、徳川方は直ちに外堀を埋めた。そればかりか、二の丸、三の丸も徳川方の手で壊した。さらに、内堀も埋めてしまった。豊臣方は「約束とちがう」と抗議したが、徳川方はおかまいなしである。
 結局、豊臣方は老獪な家康にダマされたのである。「難攻不落の城」は、「丸裸の城」あるいは「紙で作ったも同然の城」にされてしまった。前出の小和田教授はこう書いている。
     「難攻不落といわれた大坂城であるが、惣構えはもとより、二の丸・三の丸の堀まで埋められてしまっては裸城も同然である。講和条件では、二の丸・三の丸は大坂方で埋めるということで、年月をかけてゆっくり埋めるうちに家康の寿命も尽きるであろうと考えていたようである。しかし、実際は、家康方の手によって二の丸・三の丸の堀も埋められてしまった。もちろん大坂方では抗議したが、抗議を適当にあしわれている間に埋め立てが進んでしまったのが真相である。さらに家康は秀頼の転封か浪人の放逐かの二者択一を迫り、転封が拒否された上、浪人をまだ抱えていることを理由に、再戦に踏み切った」(前出書)
 外堀はおろか、内堀もない“裸の城”では、大坂方の勝ち目はまったくない。こうして、「大坂夏の陣」では大坂城が簡単に落城し、秀頼も淀君も自害して豊臣家が滅んだ。


●「三番瀬の自然再生のための具体的施策」は
   次々とホゴにされている

 さて、三番瀬である。
 「三番瀬再生計画案」には、「三番瀬の自然再生のための具体的施策」として次の7項目が盛りこまれた。
    (1) 行徳湿地の大水深部の浅水化、湿地への淡水導入、
      三番瀬との連絡水路の開渠化
    (2) 猫実川の後背湿地・干潟化
    (3) 市川市塩浜2丁目の現護岸の一部撤去とその陸側区域の湿地化
    (4) 市川市塩浜2丁目の改修護岸前面における干出域の形成
    (5) 浦安市日の出地区の現護岸陸域側区域の後背湿地・干潟化
    (6) ふなばし三番瀬海浜公園周辺の海と陸との自然的連続性の確保
    (7) 江戸川から小河川や水路を通じた三番瀬への淡水導入
    
 前述のように、三番瀬保全団体などは、(4)の「干出域の形成」(人工砂浜造成)に強く反対した。しかし、“環境派”の委員も賛成したため、これが「再生計画案」に盛り込まれてしまった。
 「干出域の形成」に賛成した“環境派”委員の言い分はいろいろある。そのうち一つは、「行徳湿地と三番瀬との連絡水路の開渠化」や「猫実川の後背湿地・干潟化」「浦安市日の出地区の現護岸陸域側区域の後背湿地・干潟化」など、評価できる点がたくさん含まれているため、「市川市塩浜2丁目前面海域での干出域形成」ぐらいは譲歩してもよい──というものである。
 しかし、この7項目は、徳川家康が豊臣方に提示した和平条件とおなじである。(4)の「干出域の形成」以外の項目は、すでに次々と反古(ほご)にされつつある。

 まず、(5)の「浦安市日の出地区の現護岸陸域側区域の後背湿地・干潟化」だが、この土地を所有している都市再生機構(旧都市基盤整備公団)は、所有地の「湿地・干潟化」に強く反対している。浦安市や浦安市議会も反対を表明している。
 そして先月(10月)、その土地の一部にスパリゾート施設「浦安温泉泉物語」を建設することが決まった。経営するのは、ゼネコンなど数社が設立した「有限会社 浦安温泉物語」である。

 また、(2)の「市川市塩浜2丁目の陸側区域の湿地化」も、土地所有者の市川市が、「市民の税金で確保した市有地を湿地として使うわけにはいかない」と反対している。市は最近、この土地を含めた再開発計画の方針を打ち出したと聞く。JR京葉線「市川塩浜駅」の前なので、高層ビルなどを配した計画になりそうとのことである。

 さらに、(1) の「行徳湿地と三番瀬との連絡水路の開渠化」や、(2)の「猫実川の後背湿地・干潟化」は、県がまったくやる気を示していない。(7) の「江戸川から三番瀬への淡水導入」も、江戸川を管理している国土交通省が「実現は難しい」と述べている。
 要するに、問題の(4)以外はすべて絵空事になる可能性が高いのである。

 さらにつけくわえれば、円卓会議が条例案をつくって制定を求めた「三番瀬保全再生条例」も、堂本知事や県はまったく制定する気がない。


●「砂護岸」造成を最優先事業として実施

 こうしたなかで、実施されるのは、(4) の「市川市塩浜2丁目の改修護岸前面における干出域形成」(「砂護岸」造成)だけになりそうである。
 じっさいに県は、この「砂護岸」造成を先発事業(最優先事業)として位置づけ、すぐに調査をはじめることを決めた。今年度(2004年度)は5000万円の調査費がついた。調査が終われば、工事に着手である。4月26日付けの『千葉日報』(4月26日)は、「動き出す三番瀬再生計画案 『砂護岸』県が整備着手へ」との見出しをつけ、これを大きく報じている。記事の一部はこうである。
     「東京湾の干潟・浅瀬「三番瀬」の保全へ住民参加で作り上げた『三番瀬再生計画案』が、具体化に向けて動き出す。同案を策定した『三番瀬再生計画検討会議(円卓会議、岡島成行会長)』が実現を強く求め、完成すれば全国初となる『砂護岸』が、国庫補助事業として内定されたため」
     「砂護岸は、陸と海が寸断されている市川市の直立護岸の一部を石積み護岸に改良し、前面に波に浸食させる砂を投入する新たな発想。削られた砂で自然に近いなだらかな海底と干潟再生をめざす」
     「今年度の国庫補助事業として国交省から内定されたのは、『市川海岸高潮対策事業(都市高潮)』。市川市塩浜2丁目と3丁目の1700メートルが対象。総事業費は数十億に上る見込み。調査費として今年度5000万円が計上される見通しで、設計やボーリング調査、測量を行う予定。2000万円が国費で、残り3000万円が県費となる」


●なぜ「砂護岸」造成だけを急ぐのか
  〜ネライは第二湾岸道建設〜

 重要なのは、県がなぜ「砂護岸」造成だけを急いで実施するのかということだ。
 それは、第二湾岸道をなんとしてでも三番瀬に通したいから、と言われている。第二湾岸道の用地は、陸上部分の9割が確保されている。しかし、三番瀬埋め立て計画が白紙撤回されたため、三番瀬で中ぶらりんとなっている。
 少なくとも、猫実川河口域(三番瀬市川側海域の一部)だけは橋を架けないと、第二湾岸道がつくれなくなる。しかし、この海域には多様な生物が生息している。水質浄化能力も非常に高い浅瀬である。そんな大事な海域をつぶして第二湾岸道を通すとなると、大反対がおきる。
 そこで、「高潮対策のための護岸改修」をブチ上げ、傾斜護岸と人工砂浜(干出域)がセットになった「砂護岸」をつくるというわけである。

 10月26日の説明会で、県はこう説明した。
     「先の台風で市川塩浜の護岸は高波をかぶった。護岸改修は、台風時の高潮も防げるようにしなければならない。しかし、堤防をあまり高くするわけにはいかない。どのような護岸にするかは、今後検討することになる」
 これは、2年前の円卓会議の席上で県(事務局)が次のように主張したことと同じ理屈である。
     「伊勢湾台風並みの高潮被害を避けるためには高さ8メートル(AP 8.0m。現在は AP 5.0m)の堤防を塩浜地区の前面につくることが必要である。しかし、沖合方向に300メートル(1:50の勾配)の人工砂浜を造れば6メートルの高さですむ」
 要するに、県は、猫実川河口域の広範囲に土砂を入れて人工砂浜をつくりたいのだ。大量の土砂を投入すれば、生き物は全滅である。浄化能力も格段に落ちる。そうすれば、第二湾岸道をつくりやすくなる。
 つまり、「ある目的を達成するために、まず遠まわしに相手の急所をおさえる」という“外堀を埋める”手法と同じである。


●いまならまだ間に合う

 大坂城の場合は、淀君や秀頼、大野治長らが家康にダマされたと気がついたのは、内堀の埋め立てや二の丸・三の丸の取り壊しが進んでからだった。気がついたときは、すでに手遅れだった。
     「淀君も秀頼もいまになってようやく、真田幸村の読みと言い分の正しさを思い知らされた。だが、すでに手遅れだったのだ」(笹沢佐保『真田幸村大坂城入城』双葉文庫)
 しかし、三番瀬の場合は、まだ工事がはじまっていない。今年度は調査だけであり、工事は来年度以降である。したがって、いまならまだ間にあう。

(2004年11月)







三番瀬再生事業の柱は「砂護岸」造成
〜ウラに第二湾岸道あり〜





「石積み傾斜護岸+人工砂浜」のイメージ図










「砂護岸」造成着手を報じた『千葉日報』(2004.4.26)





第二湾岸道の予定ルート


























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