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★「ラッセル徒然草」では、(あくまでもラッセルに関したものという限定のもと)ラッセルに関するちょっとした情報提供や本ホームページ上のコンテンツの紹介、ラッセルに関するメモや備忘録(これは他人に読んでもらうことを余り意識しないもの)など、短い文章を、気が向くまま、日記風に綴っていきます。 m ↑ (最新の日付のものがいつも先頭です!) 2009年へ 2008年 2月 3月 4月 5月 6月 7月(ナシ) 8月 9月 10月 11月 12月 [n.0025:2008.01.31(木):大正10年(1921年)の『哲学雑誌』から]
ラッセルは、大正10年(1921年)7月17日に日本を訪れ、30日に日本を離れたが、中国での大病から回復していなかったため、日本での講演は慶應義塾大学大講堂で行ったのみであった(ただし、労働者の集会での短いスピーチは神戸や大阪などで行っている)。ラッセルの健康がすぐれないのは関係者は皆知っていたはずであるが、新聞記者などはそのような事情はおかまいなしにフラッシュをいっせいにたいたり(この時、ドラは妊娠中のため、ドラに何かがあってはいけないと、ラッセルは激怒してステッキを振り上げた)、ラッセルになにか面白いことを言わせようと、インタビューをいろいろ試みた。しかし、日本の某新聞がラッセルが北京で病死したと世界に向けて誤報を流したため、日本に到着した時押しかけた新聞記者に対し、ラッセルは、ドラを通じて「ラッセルは死亡したため、残念ながら取材に応じることはできません」というビラを配り、取材に応じなかった。右は、『哲学雑誌』414号(1921年)の「近事片々」欄に載ったラッセルの消息記事である。(このコピーは、電子化したため廃棄) [n.0024:2008.01.29(火): 近代デジタル・ライブラリとWARPシステム] 昨日の「日本経済新聞」朝刊に、国会図書館の「近代デジタルライブラリ」及びWARPシステム(特定時点でのホームページ情報の蓄積事業)に関する記事(「変る図書館(4)−ネット情報を後世に」)が載っていたので、久しぶりに、このサイトを訪れ、明治・大正時代の電子化された雑誌を「ラッセル」をキーワードにして検索してみた。(アクセスが集中しているせいか、なかなか接続できない。) ★国会図書館「近代デジタル・ライブラリ及び、WARPシステムについて (説明文)当館所蔵の明治期・大正期刊行図書を収録した画像データベースです。平成19年7月現在、約143,000冊を収録しています。収録されている資料は、児童図書と欧文図書を除いたもののうち、著作権保護期間が満了したもの、著作権者の許諾を得たもの及び文化庁長官の裁定を受けたものです。20件ひっかかったが、ほとんどは祖父のジョン・ラッセル(首相)に関するものであり、バートランド・ラッセルのものは土田杏村の「教育の革命時代」(第六編「ラッセル氏の哲学及び自由思想論」を含む)だけであった。大正時代の書籍が多数入力されるようになれば、ラッセル関係文献はたくさんひっかかるようになると思われる。 近代デジタルライブラリ・システムでは、検索して表示したものを印刷もできるが、一度に印刷できるのは10ページまでとなっているので、少し手間がかかる。また、明治・大正時代の印刷物(活字)は見難く、読み難い。 もう一つ、WARP事業であるが、現在のところ行政機関のホームページなど約2,000件だけということなので、もちろんこのラッセルのホームページも対象になっていない。印刷物は国会図書館は納本制度もあるので積極的に資料を収集しているが、インターネット上の電子情報については、貴重な情報であっても、いつしか消えてしまっているものも少なくないと思われる。 [n.0023:2008.01.28(月): 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(補遺3)] 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館については今後も時々ふれることになるだろうが、連載をとりあえずこれで中断したい。 本日『夜の旅人』を読了した。大変興味深く読むことができた。この本の内容については、『夜の旅人』からの抜書き」をお読みになることをお勧めしたい。この抜書きを読めば、通読してみたいと思われる人も多少おられるのではないかと思う。 図式的に、端的に粉川氏を紹介すると、若い頃からの信念のもと一直線にゲーテ関係資料の収集に努められたように見える(本人も、手短に言わなければならないときは、そのように受け取られそうな言い方をしてしまいがちであったと思われる)が、やはり粉川氏も人間の子、何度か、実業の世界で成功してお金をもっと儲けてからゲーテ関係資料の収集をしようかと思ったりする。(若い頃、他人から一切援助を受けないと誓いをたてるが、その誓いを立てる前は、村長である父親から経済的な支援を受けようとするが断られている。)終戦が近い頃、粉川氏が会社の発展のためにゲーテ関係資料の収集を一時中断しようか・続けようか迷ったとき、妻のきぬよさんは以下のように言ったとのこと。奥さんの意見は手厳しく、愛情に満ちている。今の時代にはこのような女性はほとんどいないであろう。 粉川氏がいつ亡くなったかGoogleで調べても検索できなかった。そこで、昨日地元の公共図書館に行き、『20世紀日本人名事典』で調べたところ、1989年7月17日に亡くなったことがわかった(因みに、『20世紀日本人名事典』には、昭和63年に西ドイツ功労勲章一等功労十字章、平成元年に吉川英治文化章受賞と書かれている。)。1975年の夏に、粉川氏(1907.6.19〜1989.7.17)にお会いして2時間ほどいろいろお聞きしたことが懐かしく思い出される。(なお、『夜の旅人』読後の成果として、1月22日から1月27日の「ラッセル徒然草」の記述について、数箇所、追記または表現の訂正を行っている。) * 参考:山田元久「新『東京ゲーテ記念館』オープンされる(1988年10月) [n.0022:2008.01.27(日): 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(補遺2)] 昨日、粉川忠氏(1907-1989)の生涯を描いた長編の伝記小説、阿刀田高『夜の旅人』(1983年発表/文春文庫=1986年刊)を地元の図書館で借り、早速読み始めた。 巻末に作者・阿刀田高のあとがきがあり、pp.244-246に、次のように書かれている(以下は抜書き)。 現在、1/3ほど読み進んでいるが、以前書いた文章(例:ゲーテを読んで感銘を受け、結核がなおったため、ゲーテ資料の収集を生涯の仕事にすることを決意)は、間違ってはいないがニュアンスが多少違うので、「書き方」を少し修正する必要がありそうである(読み終わったら、修正の予定)。なお、『夜の旅人』の詳細は、この「ラッセル徒然草」に関係のないことであるため、読書メモ(抜書き)として、別ファイルとする。興味のある方は、 「→ 抜書き」 をどうぞ。) [n.0021:2008.01.26(土): 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(補遺)]
ところで、粉川忠氏をモデルにした小説としては、「ナポレオン狂」以外に、阿刀田高氏の長編小説『夜の旅人』(文春文庫)がある。私はまだ読んでいないので、本日は紹介できないが、大変評判のよい小説のようである。そこで地元の図書館に予約してあり、明日受け取り読む予定である。インターネット上に感想がいろいろ書かれているので、とりあえず、関係のページのURLを2つ少し紹介しておきたい。ただし、かなり事実に忠実だとしても、やはり小説であるため、フィクションの部分があり、すべてが事実だととらえない方がよいだろう。たとえば、若い時に粉川氏は結核にかかり、ゲーテを読み感動し、ゲーテを読んでいるうちに健康を回復したというのが事実であるはずだが(私も直接粉川氏にそうお聞きしたし、先日ご紹介した某高校先生も同様に報告している。)、下記の一番目のページで紹介されている、その件(くだり)の描写は違っている。(2008.01.27追記:私だけでなく、1月24日に紹介した大阪府立高校の先生も粉川氏から「結核」に罹ったと聞いている。なぜ『夜の旅人』でそのことが書かれていないのかよくわからない。) ![]() 資料を整理していたら、大阪府立高校のある先生が東京ゲーテ記念館を訪問した時の紹介記事が載っている『大阪府立三島高校図書館報』n.14(1986年)が出てきた。この教師が粉川氏を訪れたのが1986年、粉川氏が78歳の時だから、私がお邪魔した11年後のことである。記念館の資料もより充実していると思われるので、以下、参考まで、画像の形式でご紹介しておきたい。(抜書き:経営する機械製造会社の収益金をすべて注ぎ込み、睡眠時間を4時間に減らし、一年365日無休で、ファウスト的衝動に駆られたように資料を収集し、日々ゲーテ三昧の人は、粉川忠氏78歳である。・・・。同氏のゲーテへの道は小説的だ。事実、阿刀田氏は同氏の克明な伝記小説を一本仕上げている。『夜の旅人』(文藝春秋)。茨城師範在学中『ファウスト』を読み、感動。・・・。昭和7年、35冊の本を並べて「粉川ゲーテ文庫」と命名。・・・。味噌こし機の特許13件・実用新案13件の取得。・・・。ゲーテ研究の泰斗(たいと)、木村謹治・東大教授との、本郷の古本屋での運命的な出会い。昭和20年10月まで5年余り、毎週土曜日273回も、個人的に謝礼なしの出張講義を受ける。・・・。)
[n.0019:2008.01.23(水): ナポレオン狂のモデル・粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(2)] 「ナポレオン狂」のなかの記述と、実際の粉川氏及び東京ゲーテ記念館に関する事実を、以下、対象表にしてみよう。
[n.0018:2008.01.22(火): ナポレオン狂のモデル・粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(1)]
バートランド・ラッセル資料室を創りたいということから、慶應の大学院生の時、歴史上の著名人に関する資料を収集・閲覧に供している専門図書館について少し調べたことがあった。その中に、粉川忠(こがわ・ただし:1907.6.19〜1989.07.17)氏の(財団法人)東京ゲーテ記念館というのがあった。ラッセル資料室創りについてヒントを得るために、渋谷区の神泉駅から徒歩5分位のところに当時にあった東京ゲーテ記念館に粉川忠氏(当時68歳)を訪ね、2時間ほど話を伺った(当時のメモによると、1975年7月11日、14:00〜16:00 訪問)。遠い昔のことなので、不正確なところがあるかも知れないが、手元のメモを参考にしつつ、思い出すと、大体次のような話だったと記憶している。
私が粉川氏にお会いした3年後(1978年=昭和53年)に、阿刀田高氏は短篇小説「ナポレオン狂」を『オール読物』に発表しており、「ナポレオン狂」が収録された短篇集『ナポレオン狂』(講談社、昭和54年4月刊)で第81回直木賞を受賞している。この小説に登場するナポレオン関係資料のコレクターである南沢金兵衛のモデルは、粉川氏である。小説であるから創作(虚構)の部分も少なくないだろうが、粉川氏のゲーテ関係資料収集がナポレオン関係の資料収集に翻案されたと考えてよいだろう。(注:講談社文庫の解説のなかで、尾崎秀樹は、「「ナポレオン狂」では、かつてナポレオン関係のものなら何でも集めている紳士と出合ったことがあり、こういう人の前に、ナポレオンそっくりの人間が現れたらどうなるかと想像したのがひとつのヒントになったそうだ」と書かれているが、これは尾崎氏が阿刀田氏の話を聞き間違ったか、阿刀田氏が尾崎氏に言い間違ったか、あるいはナポレオンとゲーテの話を阿刀田氏がごちゃまぜにしてしまったか、いづれかだろうと想像される。) 粉川氏に、私もバートランド・ラッセル資料室を創りたいと申し上げたら、はげましてくださったが、私には粉川氏のような経済力も気力もない。バートランド・ラッセルの好きなお金持ち(篤志家)が寄付してくれるか、宝クジでも当たらないと無理そうである。あるいは多くの人から募金を集めるという手もあるだろうが、「幼い子供の心臓移植のための募金活動」のように短期間に大金を集めることは不可能であろう。 [n.0017:2008.01.21(月): 主題研究者と図書館専門職員の考え方の違い] 米国の大学図書館の多くでは、1970年代から、主題に関する博士号(あるいは主題に関する修士号を複数)持ち、さらに図書館学の修士号も持っている主題専門家が図書館専門職として就職し、蔵書の選定(蔵書構築)作業を行っているが、日本の大学における選書(蔵書構築)作業は、現在においても、それとはほど遠い状態・レベルにある。米国のレベルに追いつくのはいつのことであろうか? [n.0016:2008.01.20(日): 早稲田大学ラッセル関係資料コーナ(ラッセル文庫)誕生経緯] 早稲田大学教育学部教員図書室に「ラッセル関係資料コーナ(ラッセル文庫)」ができた経緯について、ごく簡単に書いておきたい。
私は、ラッセルの世界連邦運動に「も」共感を持ち、早稲田大学に入学してすぐに早稲田大学世界連邦研究会に入会した。早稲田の世連の初代会長は(故)時子山常三郎先生(昭和43〜45年、早稲田大学総長/1984年6月26日死亡)であり、伝統のあるサークルであったが、私が入会した時には、会員数はかなり減っていた(今でも毎年忘年会の時にOBが10人ほど集まっている)。 その後、早稲田のなかに「ラッセル資料室」ができないかと、右図のような資料室のレイアウト(拡大する!)や「ラッセル資料室設置趣意書」を早稲田の関係者にお送りしてお願いしたが、残念ながら反応はほとんどなかった。 日本バートランド・ラッセル協会が盛んに活動していた頃には、ラッセル協会会員のなかに出光石油の会長である出光計助氏(出光石油の創業者・出光佐三の弟で、1966年10月から1972年1月まで第2代社長)などの財界人も少しおられた。米国では財界人や篤志家が大学に多額の寄付をし、寄贈者の名前を冠した図書館が多数できているが、日本の財界人や篤志家は、税制も関係あるが、残念ながら、文化活動に余り寄付してくれない。日本も大学等の非営利学術・文化機関や団体に寄付行為をしやすいように、大幅に税制を変えてもらいたいものである。 [n.0015:2008.01.19(土): ラッセルの著作における「版」と「刷」の違い] ラッセルの著作においても、版(edition)や刷(printing/impression)により、大幅にあるいは微妙にテキストが異なっていることがあり、ラッセル'研究者'だけでなく、ラッセル'愛好家'としても注意する必要がある。 よく知られているのは、たとえば、Marriage and Morals, 1929 の初刷〜第5刷(?)までと6刷では、一部記述が異なっている。よく言及される箇所は、5刷までは黒人とそれ以外(白人、黄色人種)との間には知能の面で差異があるかのごとく書かれているところがあり、知人に指摘されて、ラッセルは第6刷(?)から修正している。 版の違い(第2版、改訂版、増補版等)により大幅な違いがあるのは不思議なことではないが、同じ年に英国と米国で出された同一の著書でも大きく異なることがあり、注意が必要である。たとえば、ラッセルの Education and the Social Order, 1932 などは、アメリカ人が興味を持ちそうもないところは削除され、即ち原著の第2,3章及び、第4,5章がそれぞれ1章にまとめられ、Education and the Modern World というタイトルで出版されている。 そういう事情があるため、私は、長い期間をかけて、ラッセルの著作のいろいろな版のものを集め、また、内容が一部でも異なる場合は(版は同じでも)刷の違うものも収集した。そうして、縁あって、1983年に、早稲田大学に約500冊のラッセル関係書籍を寄贈させていただいた(ラッセル研究論文のコピーも含め、現在までに約2,000点のラッセル関係資料を寄贈済)。 [n.0014:2008.01.18(金): 大学におけるラッセルに関する講義(or「シラバス公開」)] 試しに、Google で(1)「"バートランド・ラッセル" シラバス」、(2)「"B.ラッセル" シラバス」、(3)「"Bertrand Russell" シラバス」、(4)「"B. Russell" シラバス」、(5)「"バートランド・ラッセル" syllabus」等で検索してみた。件数は省略するが、ラッセルをメインに取り上げているものはそれほど多くはない。実際はもっとたくさんあると思われるが、ホームページ上での記述の仕方にも問題があるかも知れない。興味を引いたものを以下、ご紹介しておく。
[n.0013:2008.01.17(水): 久木田水生氏の「ラッセルの論理主義」に関する博士論文] 地震学者の尾池和夫先生(京都大学総長)は、B.ラッセルが好きなようであり、挨拶や講演でよく(時々?)ラッセルについて言及されている(私が京大にいた時も何度か耳にした)。 2006年1月23日に開催された、京都大学の学位授与式でも、次のように、久木田水生(くきた・みなお)氏の書かれた「ラッセルの論理主義」に関する博士論文について紹介されている。 http://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/01_sou/060123_1.htm 少し長いが、京都大学のホームページから引用させていただく。 「・・・。2006年を迎えて、このようなことを考えながら、皆さんの学位論文審査報告を私も読ませていただきました。因みに、久木田水生氏は、自分のホームページを開設しておられ、ラッセルに関する以下の2つの論文を閲覧することができる。 http://www.geocities.jp/minao_kukita/ ・ラッセルの記述の理論とタイプ理論の関係について ・ラッセルの論理主義における非基礎付け主義について [n.0012:2008.01.16(水): 出版中止?(「御茶ノ水書房刊「イギリス思想研究叢書」]
出版できるかどうか不確実なものを出版社のホームページや愛読者用雑誌などに「出版予定」として掲載してもらいたくないが、出版社の倒産や経営陣・編集者の交代などで、やむをえず出版とりやめになることも時々ある(たとえば河出書房新社など、「新社」がついている会社は、倒産したり会社更生法が適用されたりしている出版社であり、新しい会社においては、角川書店のように、出版方針がまったく変ることがある)。倒産ならば仕方がないが、倒産ではないのに、シリーズもので途中で出版中止になるのはいただけない。以前、お茶の水書房では、日本イギリス哲学会監修で、イギリス思想研究叢書(第1期・全12冊)というのを、原稿が用意できた順に出版をしていた。右の画像は、御茶ノ水書房の1982年の出版カタログに載っていた出版予定のページを電子化したものであるが、このシリーズの第11巻に「ラッセル研究」というのがあがっており、当時私も出版を心待ちにしていた。しかし、いつまでたっても出版されないので、かなり経ってから、御茶ノ水書房に電話して直接聞いたところ、(電話に出た人はよくわからないらしく)要領を得た返事をもらえなかった(参考:日本イギリス哲学会のページ)。 著者の一人である碧海純一先生と何かの縁でお会いしたときに、いつ出版される予定かお聞きしたところ、キョトンとされていたような記憶がかすかにあるが、あるいは私の記憶違いかもしれない。いづれにしても、昔はしっかりした出版契約(執筆契約)などは結んでいなかったのが大きな原因かも知れない。あるいは、日本イギリス哲学会の事情かもしれない。この叢書の第5、7、8、11、12巻の5冊は結局出版されなかったようである。なお、研究社からもイギリス思想叢書というのが出されており、まぎらわしいが別物である。(電子化したので、このコピーは廃棄) [n.0011:2008.01.15(月): 新聞切抜記事より(「話題を呼ぶラッセル最後の覚書」] 以下は、『朝日新聞(東京本社版)』の「海外文化欄」からの切り抜きであるが、日付を書き忘れたので、ここに明記できない、記事中に「さる二月、九七歳で亡くなった・・・」となっているので、1970年であることは間違いない。(電子化したので、この切抜きは廃棄)
さる二月、九七歳で亡くなったバートランド・ラッセルが死の数週間前に書いた「覚書」が、このほど英国のアングラ新聞『黒い小人(Black Dwarf)』に発表されて話題を呼んでいるという。一九六九年十二月十二日の日付のあるこの「覚書」は、主としてこの十年間、ラッセル平和財団(Bertrand Russell Peace Foundation)を実質的に切り回してきたラッセルの秘書、ラルフ・シェーンマン(Ralph Schoenman/右写真)について語ったもの。ことし三十五歳になるアメリカ生まれのこの革命的社会主義者がラッセルと知り合ったのは、一九六〇年(のことで)、それ以後一九六六年まで彼の秘書をつとめ、その最晩年をもっぱら偉大な反戦運動家としてすごしたラッセルの片腕ともいうべき存在であった。しかし、シェーンマンの余りにも過激な行動に対して多くの非難があびせられ、ラッセルは一九六九年七月、彼と一切の関係を断つという手紙を書いている。 なぜもっと早くシェーンマンとの関係を断つことができなかったか、という疑問に対して、ラッセルは、「自分がやりたいと思っていたことをあれほどの熱意で実行してくれるのは彼しかいなかった」と答えている。(オブザーバ特約) [n.0010:2008.01.14(月): 新聞切抜記事より(「ラッセルの恋文」] 以下は、『朝日新聞(東京本社版)』1970年2月23日付朝刊「海外トピックス欄」から転載したもの(電子化したので、この切抜きは廃棄) カナダのマクマスター大学にある「ラッセル文庫」(Bertrand Russell Archives)は、この(1970年)2月初め九七歳で亡くなった英国の哲学者バートランド・ラッセルについてのあらゆる資料がそろっていることで有名だが、なかでも十二万通以上に及ぶ個人書簡が最近一部公開され話題を呼んでいる。さすが、'二十世紀の巨人'だけあって、書簡をかわした相手はアインシュタイン、ホー・チ・ミン、シュバイツァー、J.F.ケネデイ、フルシチョフと、豪華な顔ぶれ。 [n.0009:2008.01.13(日): 新聞切抜記事より(故・松下正寿氏)] 以前「朝日新聞」紙上で「新人国記」という連載があり、各県別にいろいろな分野の著名人の紹介がなされていた。手元にある新聞切り抜き記事の、「青森県(19)−海外文化との接点(新人国記'83)」のなかに、松下正寿氏(ラッセル協会設立発起人の一人/東京都知事選に立候補し、美濃部氏に敗北)がラッセルと対談したことについてごく簡単にかかれている。 松下正寿氏の著作(単行本)は読んだことはないが、下記のラッセルに関する松下正寿氏の2つの評論・エッセイは秀逸であり、このホームページに掲載しているので、一読をお薦めしたい。 ● 松下正寿「自由を識る巨人−核実験反対運動で捕らえられた自由人ラッセル卿の真骨頂」 ● 松下正寿「バートランド・ラッセルの宗教観」 下の画像のごとく電子化したので、この切抜きは廃棄することにする。 (・・・。弁護士の松下正寿氏(82)は昭和30年から11年余、立教大学総長をした。岸首相の特使として、英政府にクリスマス島の原水爆の中止要請に行ったり、文化、教育交流の日米合同会議日本代表となったり、国際外交の表舞台に登場した大学人。・・・。八戸市の牧師の家に育った。・・・。その松下は戦後、極東国際軍事裁判で東条英機の副弁護人。・・・。首相特使として訪英した際、晩年のバートランド・ラッセルと一時間余話したことは、松下の会心事の一つ。「核反対の日本の声をよくわかってくれた。偉い爺さんだったよ。」) ![]() [n.0008:2008.01.12(土): ウィキベディアから逆リンク] 記述内容に多少問題があっても、ウィキペディアにリンクする人が多いので、Googleの方針では、どうしてもウィキペディアが一番最初に来てしまう。 ラッセルのホームページが昔のように一番になるにはどうしたらよいだろうか? もしかしたら、ウィキペディアからラッセルのホームページのコンテンツへのリンクを増やしたらよいのではないだろうか? そう考えて、ウィキペディアからラッセルのホームページ上のコンテンツへのリンクを10個ほど追加してみた。今後もこのリンク作業を折にふれてやっていきたい。そうすれば、いつかは再逆転するのではないだろうか? [n.0007:2008.01.11(金): ラッセル関係文献の探索−発見か、徒労か] http://homepage1.nifty.com/ta/sfm/merril.htm 当然のこと、是非入手したいと思った。(ただし、英文は、B. Russell's Fact and Fiction, c1961 に含まれていて私も所蔵しているので、私の興味はあくまでもラッセルの創作が Satan in the Suburbs, 1953 及び Nightmares of Eminet Persons, 1954 以外に、日本にどれだけ紹介されてきたか、ということであった。) http://sgenji.jp/power.html 上記のホームページをよく読むと、「創元社の傑作選は、1955年から1968年に出版された12冊の年刊SF傑作選をもとにしていますが、全てが訳されているわではありません。・・・。『年刊SF傑作選』に収録されているものは*マークをつけました。」とあった。 冷静になってよく読めばすぐにわかったことであるが、見落としていた。時間とお金の浪費であった。 (自分用の備忘録:手持ちのラッセル関係の資料の整理がなかなかできない。そこで、このようなメモを書いて電子化し、どんどん処分していくことにしたい。) [n.0006:2008.01.10(木): 私の好きな一節(『ラッセル自叙伝』より)] ラッセルの著作を読んでいると、一見どうってこともない内容であっても、はっとするような描写を見つけることがよくある。以下は、私の好きな一節の一つ。 (自分が4歳になるまでに)両親は亡くなっていたので、私は、両親はどんな人たちだったのだろうかとよく考えたものだった(右写真:4歳の時のラッセル)。私は一人で庭を歩き回る習慣があった。鳥の卵を集めたり、'時間の経過' について物思いに耽ったりした。 自分の記憶から判断すると、重要かつはっきりと形をなす幼年時代の印象は、子供らしく何かに夢中になっている最中のほんの一瞬にのみ意識にのぼってくるだけであり、しかもそれを決して大人には話していない。 外から強いられてするということは決してない幼年時代(periods of browsing: 漫然と気の向くままにいろいろとやってみる時代)は、人生の初期において、重要な時期であると私は思う。なぜならば、その時期は、外見上はとりとめなく見えるが実は生涯消えることのない非常に重要ないろいろな印象を形成する時間を与えるからである。(松下訳) [n.0005:2008.01.08(火): Collected Papers of Bertrand Russell編纂事業の困難さ]
私も出版前から予約し、現在 Collected Papers の本体が17冊、K. Blackwell 氏編纂の『ラッセル書誌』(3巻本)を含めれば計20冊もっているが、高価なので、(またお金ができたら買うことにして)途中で予約を中止してしまった。残念ながら、現在でも数冊購入できないままの状態にある。 ★ Collected Papers は下記のページからご購入ください。 http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/index.htm [n.0004:2008.01.06(日): '引きこもり'の若者にも Basic Income を?] 「最近、('引きこもり'の若者の救済ということに関連して)Basic Income を全ての人に与えたらどうかという議論がよくされるようになっている。現在'引きこもり'の若者は約100万人いるが、その内の半分位は何らかの手助けで救済できるだろうが、半分位、あるいは2,30万人は救われないだろう。そのような若者に「頑張れ、頑張れ」といっても仕方(効果)がない。頑張らなくても大丈夫だよと言ってやり、働かなくても死なない程度の収入 basic income を保障してあげれば、彼らは救われるだろう(そういう世の中の方がよい世の中ではないか)。・・・。」 (・・・。即ち、生活必需品を購入するのに必要な最低限の収入は、働くか否かにかかわらず。全ての人に保障すべきである、という主張である。)ラッセルが言っているのは現在の生活保護制度のことではなく、「まったく働かなくても、死なない程度の生活必需品を購入できるだけの収入は保障すべきである」という主張であり、basic income の考え方と同じである。ラッセルは、同じようなことを別の角度から、In Praise of Idleness, 1935(邦訳書『怠惰への讃歌』/角川文庫n.1720 絶版)の中でも言っている。 新しい考え方だと言われているものも、過去の偉大な思想家が既に明確に言っていることが少なくない。しかし、そういったものを探して読む人よりも、自分の意見を言いたい・書きたい人が多い。ブログの隆盛もそれを反映しているのだろう(私のこの文章も同じだろうが、自分の主張よりもラッセル思想の紹介を主目的としているところが違うといえば違う。) それぞれの人間に与えられた時間は多くはない。自分の頭で考えることは大事だが、基本的なことは先人や先覚者に学んだほうがよいだろう。時間は大事に使いたいものである。 [n.0003:2008.01.05(土): 角川文庫は魅力に乏しくなりにけり?] だが幸いにも、ラッセルの著書の中でも売れゆきの良い『幸福論』『教育論』『結婚論』の三部作は、現在、岩波書店から出されている。1年間で売れる冊数はそこそこでも何十年に渡ってロングセラーとなるような本を捨ててしまう角川書店の短期決戦型のやり方は、長い目で見れば、良いことはないだろうと思われる。会社経営の視点からは、角川春樹氏を擁護する人も少なくないであろうが・・・。 [n.0002:2008.01.04(金): ラッセル関係の学部の卒論、ゼミ論文など] (例:一橋大学基督青年会編の1975年小平祭用文集「Why I am not a Christian by B. Russell」) 最近では学部の卒論について相談を受けることはないが、若い頃は、何人かからアドバイスを求められたことがある。ラッセルの業績は幅広いので、卒論としてとりあげるテーマも様々である。手元に津田塾大学の学生が「ラッセルの平和思想と平和運動−パグウォッシュ運動の理念と実践を通じて」という、30年も前の(綺麗な)手書きの(卒論の)目次がある。その女子学生の印象はぼんやりとではあるが、遠い過去の記憶として残っている。 [n.0001:2008.01.01(火) 元旦: 「ラッセル徒然草」連載開始にあたって] 新年あけましておめでとうございます。 昨年は、ラッセルのホームページ上に掲載してある約3,000のラッセル関係のコンテンツについて、もっぱら不適切なHTMLの修正、間違った記述の訂正、誤記や脱字の訂正、表現のまずかった記述の修正、関係画像やリンクの追加等の作業を行ってきました。過去の記事の修正作業がほとんどでしたので、ほぼ毎日ホームページを更新することができました。しかし、その影響で、残念ながら、『ラッセル自叙伝』や『ラッセル教育論』の邦訳作業が遅々として進みませんでした。そこで、修正すべきHTMLは(松下彰良編の『バートランド・ラッセル書誌』を始めとして)まだかなり残っていますが、ほぼ山を越しましたので、今年は新しい記事の追加を増やしていきたいと思っています。 それから、ラッセルのホームページの読者から(掲載許可のある)投稿があれば、投稿コーナー(あるいは読者欄/読者広場)も設けたいと思っていますので、よろしくお願いします(以前にも同じような呼びかけをしましたが、これまでそのような投稿はありませんでした。) 本年も、ラッセルのホームページ(ポータルサイト)をよろしくお願いします。(なお、1月2、3日は、ホームページの更新をお休みします。) ![]() |