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「早稲田大学ラッセル関係資料コーナ(ラッセル文庫)誕生経緯」
(「ラッセル徒然草」(Jan. 2008)から抜粋))


[n.0016:2008.01.20(日):早稲田大学ラッセル関係資料コーナ(ラッセル文庫)誕生経緯]

 早稲田大学教育学部教員図書室に「ラッセル関係資料コーナ(ラッセル文庫)」ができた経緯について、ごく簡単に書いておきたい。
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 私は、ラッセルの世界連邦運動に「も」共感を持ち、早稲田大学に入学してすぐに早稲田大学世界連邦研究会に入会した。早稲田の世連の初代会長は(故)時子山常三郎先生(昭和43〜45年、早稲田大学総長/1984年6月26日死亡)であり、伝統のあるサークルであったが、私が入会した時には、会員数はかなり減っていた(今でも毎年忘年会の時にOBが10人ほど集まっている)
 大学を卒業し、就職して大分たってから、どういった経緯だったか記憶に余り残っていないが、何かの縁で「(財団法人)世界平和協会」(時子山総長は、昭和44年に同協会会長)の総会に出席した(海部文部大臣が挨拶していた。Googleで検索しても、「世界平和協会」はひっかからない。解散したのだろうか?)。その時に、当協会理事の(故)山岡喜久男先生(当時早稲田大学教育学部長/昭和61年3月に70歳で定年退職)と出合った。確か、山岡先生から話しかけられてこられたとうっすら記憶している。山岡先生に、私はラッセルについて勉強していること、また、私が集めたラッセル関係資料をもとにして、日本に「ラッセル関係資料室」をつくりたい思っていると話をしたところ、(その日ではなく後日だったと思うが)それなら私のところ(早稲田大学教育学部)で受け入れましょう、と言ってくださった。また、山岡先生が退職された後、ラッセル・コレクションがひどい扱いを受けないようにとの配慮からか、(1983年の第1回目寄贈に対する)西原春夫総長(当時)の感謝状の手配もしてくださった。
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 以上のような経緯で、早稲田大学教育学部教員図書室内にラッセル関係資料コーナ(ラッセル文庫)ができあがったしだいである(現在は、地下1階に「別置」されているそうですが・・・)。

 その後、早稲田のなかに「ラッセル資料室」ができないかと、右図のような資料室のレイアウト(拡大する!)や「ラッセル資料室設置趣意書」を早稲田の関係者にお送りして働きかけてみたが、残念ながら反応はほとんどなかった。
 日本バートランド・ラッセル協会が盛んに活動していた頃には、ラッセル協会会員のなかに出光石油の会長である出光計助氏(出光石油の創業者・出光佐三の弟で、1966年10月から1972年1月まで第2代社長)などの財界人も少しおられた。米国では財界人や篤志家が大学に多額の寄付をし、寄贈者の名前を冠した図書館が多数できているが、日本の財界人や篤志家は、税制も関係あるが、残念ながら、文化活動に余り寄付してくれない。日本も大学等の非営利学術・文化機関や団体に寄付行為をしやすいように、大幅に税制を変えてもらいたいものである。

[n.0017:2008.01.21(月):主題研究者と図書館専門職員の考え方の違い]

マイクロアドとは?

 早稲田大学の図書館の司書をしていた知人から随分昔に聞いた話であるが、中野幸一教授(源氏物語の研究者。研究コレクション収集の意義についても理解ある方で早稲田大学の教育学部長を務め、2003年に70歳で定年退職)が教育学部長をされている時に、できるだけ多くの人に利用してもらうためには、ラッセルコレクションを中央図書館に移したほうがよいということで、中央図書館に話を通し、中央図書館の選定委員会(?)にかけるように働きかけてくださったそうである。しかし、その知人の話によれば、当時の選書担当課長(洋書の整理課長?)が、私のラッセル・コレクションと早稲田大学図書館の蔵書中のラッセルの著作との重複調査を行い、重複率が高いので、中央図書館の蔵書にするのは適切ではないと委員会で報告し、お流れになったとのことであった。
 これには、主題研究者と図書館専門職の関心や考え方の違いがよく現れている。一昨日(1月19日付)書いたように、人文系の研究者にとっては、テキストに違いがあるのであれば版や刷の違ったものも網羅的に収集するということは大事なことであり、図書館にもそれを期待する。しかし、幅広い分野の図書をバランスをとって蔵書構築をしたいと考える(特に中央図書館の)選書担当の司書にとっては、「版」や「刷」の違いにまでこだわって資料を収集することは、予算も限られていることから、良い選書方針とは考えない。図書館職員がそのように考えるのは無理もないことだと思うが、それならば、単に重複が多いからというのではなく、正々堂々と上記の主張をしてもらいたい。そうではなく、「版」や「刷」を無視して、単純に重複率が高いので蔵書化するのは適切ではないと主張することは、図書館職員の知的レベルの限界ととられる恐れがあるのではないだろうか。
 米国の大学図書館の多くでは、1970年代から、主題に関する博士号(あるいは主題に関する修士号を複数)持ち、さらに図書館学の修士号も持っている主題専門家が図書館専門職として就職し、蔵書の選定(蔵書構築)作業を行っているが、日本の大学における選書(蔵書構築)作業は、現在においても、それとはほど遠い状態・レベルにある。米国のレベルに追いつくのはいつのことであろうか?