(トップページ) 粉川忠と東京ゲーテ記念館 |
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(注:以下は、「ラッセル徒然草」から、粉川忠氏(1907.6.19-1989.7.17)及び財団法人・東京ゲーテ記念館に関係する部分を抜き出したものです。粉川忠氏の詳しい伝記をお読みになりたい方は、阿刀田高『夜の旅人』(文春文庫)をお読みください。) ![]() [n.0018:2008.01.22(火): ナポレオン狂のモデル・粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(1)]
バートランド・ラッセル資料室を創りたいということから、慶應の大学院生の時、歴史上の著名人に関する資料を収集・閲覧に供している専門図書館について少し調査した。その中に、粉川忠(こがわ・ただし:1907.6.19〜1989.07.17)氏の(財団法人)東京ゲーテ記念館というのがあった。ラッセル資料室創りについてヒントを得るために、当時、渋谷区の神泉駅から徒歩5分位のところにあった東京ゲーテ記念館に粉川忠氏(当時68歳)を訪ね、2時間ほど話を伺った(当時のメモによると、1975年7月11日、14:00〜16:00 訪問)。遠い昔のことなので、不正確なところがあるかも知れないが、手元のメモを参考にしつつ、思い出すと、大体次のような話だったと記憶している。
粉川氏に、私もバートランド・ラッセル資料室を創りたいと申し上げたら、はげましてくださったが、私には粉川氏のような経済力も気力もない。バートランド・ラッセルの好きなお金持ち(篤志家)が寄付してくれるか、宝クジでも当たらないと無理そうである。あるいは多くの人から募金を集めるという手もあるだろうが、「幼い子供の心臓移植のための募金活動」のように短期間に大金を集めることは不可能であろう。 [n.0019:2008.01.23(水): ナポレオン狂のモデル・粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(2)] 「ナポレオン狂」のなかの記述と、実際の粉川氏及び東京ゲーテ記念館に関する事実を、以下、対象表にしてみよう。
資料を整理していたら、大阪府立高校のある先生が東京ゲーテ記念館を訪問した時の紹介記事が載っている『大阪府立三島高校図書館報』n.14(1986年)が出てきた。この教師が粉川氏を訪れたのが1986年、粉川氏が78歳の時だから、私がお邪魔した11年後のことである。記念館の資料もより充実していると思われるので、以下、参考まで、画像の形式でご紹介しておきたい。(抜書き:経営する機械製造会社の収益金をすべて注ぎ込み、睡眠時間を4時間に減らし、一年365日無休で、ファウスト的衝動に駆られたように資料を収集し、日々ゲーテ三昧の人は、粉川忠氏78歳である。・・・。同氏のゲーテへの道は小説的だ。事実、阿刀田氏は同氏の克明な伝記小説を一本仕上げている。『夜の旅人』(文藝春秋)。茨城師範在学中『ファウスト』を読み、感動。・・・。昭和7年、35冊の本を並べて「粉川ゲーテ文庫」と命名。・・・。味噌こし機の特許13件・実用新案13件の取得。・・・。ゲーテ研究の泰斗(たいと)、木村謹治・東大教授との、本郷の古本屋での運命的な出会い。昭和20年10月まで5年余り、毎週土曜日273回も、個人的に謝礼なしの出張講義を受ける。・・・。)
[n.0021:2008.01.26(土): 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(補遺)]
ところで、粉川忠氏をモデルにした小説としては、「ナポレオン狂」以外に、阿刀田高氏の長編小説『夜の旅人』(文春文庫)がある。私はまだ読んでいないので、本日は紹介できないが、大変評判のよい小説のようである。そこで地元の図書館に予約してあり、明日受け取り読む予定である。インターネット上に感想がいろいろ書かれているので、とりあえず、関係のページのURLを2つ少し紹介しておきたい。ただし、かなり事実に忠実だとしても、やはり小説であるため、フィクションの部分があり、すべてが事実だととらえない方がよいだろう。たとえば、若い時に粉川氏は結核にかかり、ゲーテを読み感動し、ゲーテを読んでいるうちに健康を回復したというのが事実であるはずだが、下記の一番目のページで紹介されている、その件(くだり)の描写は違っている。(2008.01.27追記:私だけでなく、1月24日に紹介した大阪府立高校の先生も粉川氏から「結核」に罹ったと聞いている。なぜ『夜の旅人』でそのことが書かれていないのかよくわからない。) ![]() [n.0022:2008.01.27(日): 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(補遺2)] 昨日、粉川忠氏(1907-1989)の生涯を描いた長編の伝記小説、阿刀田高『夜の旅人』(1983年発表/文春文庫=1986年刊)を地元の図書館で借り、早速読み始めた。 巻末に作者・阿刀田高のあとがきがあり、pp.244-246に、次のように書かれている(以下は抜書き)。 現在、1/3ほど読み進んでいるが、以前書いた文章(例:ゲーテを読んで感銘を受け、結核がなおったため、ゲーテ資料の収集を生涯の仕事にすることを決意)は、間違ってはいないがニュアンスが多少違うので、「書き方」を少し修正する必要がありそうである(読み終わったら、修正の予定)。なお、『夜の旅人』の詳細は、この「ラッセル徒然草」に関係のないことであるため、読書メモ(抜書き)として、別ファイルとする。興味のある方は、 「→ 抜書き」 をどうぞ。) [n.0022:2008.01.28(月): 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(補遺3)] 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館については今後も時々ふれることになるだろうが、連載をとりあえずこれで中断したい。 本日『夜の旅人』を読了した。大変興味深く読むことができた。この本の内容については、『夜の旅人』からの抜書き」をお読みになることをお勧めしたい。この抜書きを読めば、通読してみたいと思われる人も多少おられるのではないかと思う。 図式的に、端的に粉川氏を紹介すると、若い頃からの信念のもと一直線にゲーテ関係資料の収集に努められたように見える(本人も、手短に言わなければならないときは、そのように受け取られそうな言い方をしてしまいがちであったと思われる)が、やはり粉川氏も人間の子、何度か、実業の世界で成功してお金をもっと儲けてからゲーテ関係資料の収集をしようかと思ったりする。(若い頃、他人から一切援助を受けないと誓いをたてるが、その誓いを立てる前は、村長である父親から経済的な支援を受けようとするが断られている。)終戦が近い頃、粉川氏が会社の発展のためにゲーテ関係資料の収集を一時中断しようか・続けようか迷ったとき、妻のきぬよさんは以下のように言ったとのこと。奥さんの意見は手厳しく、愛情に満ちている。今の時代にはこのような女性はほとんどいないであろう。 「でもねえ、会社が大きくなって、そのあとで急に図書館を建てるとか、美術館をつくるとか、そんなことは他の人がだれでもやっていることだわ。お金さえあれば、それで簡単にできるようなことなら、わざわざあなたが一生を賭けることもないわ。子どもを育てるときだって、毎日毎日面倒を見てあげなきゃ、いい子に育たないでしょ。10年も20年も子どもを放っておいて、お金儲けをして、さあお金ができたから今度は教育してやろうと思ったって駄目じゃないですか。ゲーテ図書館も毎日育てなくちゃ。建物はお金さえあればりっぱなものができるでしょうけど、中身は一朝一夕で充実したものにならないのと違いますか。どこかのお金もちがやるようなこと、私、嫌いです。」粉川氏がいつ亡くなったかGoogleで調べても検索できなかった。そこで、昨日地元の公共図書館に行き、『20世紀日本人名事典』で調べたところ、1989年7月17日に亡くなったことがわかった(因みに、『20世紀日本人名事典』には、昭和63年に西ドイツ功労勲章一等功労十字章、平成元年に吉川英治文化章受賞と書かれている。)。1975年の夏に、粉川氏(1907.6.19〜1989.7.17)にお会いして2時間ほどいろいろお聞きしたことが懐かしく思い出される。(なお、『夜の旅人』読後の成果として、1月22日から1月27日の「ラッセル徒然草」の記述について、数箇所、追記または表現の訂正を行っている。) * 参考:山田元久「新『東京ゲーテ記念館』オープンされる(1988年10月) |