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バートランドラッセルのポータルサイト(Bertrand Arthur William Russell, May 18, 1872 - Feb. 2, 1970)松下彰良(編)「バートランド・ラッセル年譜」 (A Biography of Bertrand Russell, compiled. by Akiyoshi MATSUSHITA) |
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1872年(ラッセル誕生) 1890年(ケンブリッジ大学入学)へ 1900年(20世紀)へ 1914年(第一次世界大戦勃発)へ 1921年(ラッセル、日本訪問)へ |
1939年(第二次世界大戦勃発)へ 1945年(第二次世界大戦終結)へ 1955年(Plas Penrhyn 山荘購入)へ |
1970年(ラッセル逝去)へ |
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[ラッセルの親兄弟] * 母 Lady Russell: 1874.06.28 死亡 * 姉 Rachel: 1874.07.03 死亡 * 父 Lord Amberley: 1876.01.09 死亡 * 兄 John Francis Stanley Russell: 1931.03.03 死亡 |
(1863)ロンドンに地下鉄ができる。(電気がない時代なので、蒸気機関車が客車を牽引 (1869)スエズ運河開通 (1870)イタリア統一 |
(1868)天皇、江戸を東京とする詔書を出す (1870)東京 横浜間の電信開通 (1871)東京、京都、大阪間で郵便開始 | |
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1872年(0歳) 5.18,午後5時45分頃、Wales (Monmouthshire 州 Trelleck の近く、Wye 河畔に建てられた Ravenscroft と呼ばれる家)で、英国初の女医 Dr. Garrett Anderson の手で生まれる。8ポンド3/4(約4,000g)。愛称 Bertie。 | オーストリアの北極探検隊、フランツ ヨーゼフ島発見 |
学制を発布 徴兵の詔書 太陰暦をやめ、太陽暦採用の詔書 新橋=横浜間に鉄道開通 | |
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1873年(1歳) J. S. Mill(1806.5.20〜1873.5.7)、「自伝」出版、同年没(ミルはラッセルの名付け親) | 農業児童法案英国議会通過(8歳以下の児童の雇用を禁止) | (11月10日)内務省を設置 | |
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1874年(2歳) 母 Lady Amberley(旧姓 Kate Stanley;1842〜1874)及び姉 Rachel(1868〜1874)、ジフテリアにかかり死亡 Victoria 女王(1819.5.24〜1901.1.22/ 在位:1837〜1901)、Pembroke Lodge(Victoria 女王から祖父に下賜されたもの)に住む祖父John Russell を訪問。ラッセルは、丁度祖父宅に滞在中で女王に謁見。 祖母は厳格なスコットランド長老教会派の家柄(a strict Scottish Presbyterian family)の出身。 | スイスのベルンで第1回万国郵便会議 | 閣議で台湾征討を決定 | |
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1875年(3歳) |
英国政府、エジプト保有のスエズ運河の株17万6千株を1億フランで購入 パリで、メートル法条約調印 | お雇い外国人527名(内訳:学術教師144、技師205、事務69、職工36、その他73) | |
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1876年(4歳) 父 Lord Amberley(1842-1876)死亡。母と同じく、Ravenscroft で火葬。その後、ロンドン郊外 Richmond Park 内の Pembroke Lodgeの父方の祖父母のもとで18歳まで過ごすこととなる。(ラッセルは兄フランクとともに1876年2月、Pembroke Lodge に到着) 4歳の誕生日にトランペットをもらう。 英語と同様、すでに独語が話せた。 毎朝7時半から8時までピアノの練習;朝8時、家族の祈祷;食事は質素;1年中冷水浴励行 [Pembroke Lodge の住人: 祖父母、ラッセル、兄フランク、Agatha 伯母さん、Rollo 伯父さん、及び、8人の使用人。] |
コッホ、炭疽病菌の純粋培養に成功(伝染病の基本的メカニズム解明
| 4月1日から、満20年をもって青年とする(大布) | |
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1877年(5歳) 5歳になる少し前から幼稚園に通う(約1年半)。その後、祖母の方針で、Bertie(=愛称)は学校へはいかず、ドイツ人やスイス人家庭教師によって教育を受けることとなる。 祖母は、仏語、独語、伊語を間違いなく話せた、とのこと。 |
ビクトリア女王、デリーでインド皇帝となると宣言 米国ベル電話会社設立。エジソン、蓄音機を発明 | 東京開成学校と東京医学校を合併し、東京大学を設置 | |
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1878年(6歳) 5月28日,祖父 John Russell没(1792〜1878:第6代ベッドフォード公爵の三男で初代ラッセル伯爵;1846〜1852及び1865〜1866の2度英国首相) | (10.19)ドイツ帝国議会、社会主義者鎮圧法案可決 | 文部省、東京大学に学位授与権を与える | |
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1879年(7歳) G. Frege: Die Begriffsschrift(『概念文字』)出版 | エジソン、炭素線電球を発明/ジーメンス、最初の電車をベルリン貿易博覧会場で発表 | 琉球藩を廃止し、沖縄県とする旨布告 | |
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1880年(8歳) 1880/1881 冬、Bournemouth に滞在し、スケートを覚える。 |
英国、第2次グラッドストーン自由党内閣成立 | 文部省内に教則取調掛を設置(公私立学校教則の適否と教科書の内容を調査) | |
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1881年(9歳) 9歳の時の写真 |
英国、ロンドンに世界初の火力発電所を建設し、電灯事業を開始 パナマ運河、建設工事開始 | 政変(御前会議で大隈重信の参議罷免決定) | |
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1882年(10歳) C. R. Darwin(1809.2.12-1882.4.19)没 |
犯罪防止法案、英国議会を通過;アイルランド自治運動への弾圧強化される。 コッホ、結核菌を発見 | 天皇,軍人勅諭を陸軍大将の大岩巌に下す(海軍卿出張中) | |
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1883年(11歳) 8月9日、兄より初めてユークリッド幾何学を学ぶ。38歳で Principia Mathematica を完成させるまで、数学が主たる関心事となる。(次に興味を持ったのは '歴史') 宗教について疑問を持つ。 Rollo 伯父さん、結婚して Pembroke Lodge を出て Surrey 州 Hindhead(ロンドン南西約40マイル)に家をもつ。 K.Marx 没(1818〜1883) | シカゴ=ニューヨーク間に電話開通 | 文部省、東京大学において英語による教授を廃し、日本語を用いること、またドイツ学術を採用する旨上申(5月1日、太政官裁可) | |
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1884年(12歳) 12歳の時、初めて性の事実を知る。 12歳の誕生日に、扉に、"汝、群衆の為す悪に従うことなかれ(Thou shalt not follow a multitude to do evil)" と書かれた聖書を祖母からもらう。 G. Frege: Die Grundlagen der Arithmetik(『算術の基礎』)出版 |
フェビアン協会設立 米最高裁、公職における人種差別撤廃に違憲判決 英国で、第3次選挙法改正法案、議会を通過(実質上の男子普通選挙実施) |
小学校の教科として、初めて英語の初歩を加える 華族就学規則を定め、華族の子弟を1885年から必ず学習院に入学させることとした。 | |
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1885年(13歳)
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ベンツ、ガソリン車を発明 パスツール、狂犬病の予防法を発見 |
内閣制度確立(太政官制廃止) 紙幣整理によるデフレ(松方デフレ) | |
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1886年(14歳) 祖母の知的限界がラッセルにとって耐えがたいものとなる。 |
英国で、第3次グラッドストーン自由党内閣成立(2.12〜7.20と短命) 「自由の女神」完成 | 文部省、教科用図書検定条例公布(小 中 師範各学校教科書の検定制始める) | |
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1887年(15歳) 我慢出来ないほどの強烈な性欲を感じ始める。自慰の習慣が20歳になるまで続く。毎日、女性の身体を見たいという欲求に長時間を費やす。 キリスト教信仰の根本的かつ合理的論拠と考えられるものを系統的に検討し始める。最初に「自由意志」を槍玉にあげる。 |
英国、ハワイ王国から真珠湾の使用権を獲得 米国議会で、インディアンに関するドーズ法案通過(インディアンの保留地を指定) パリ=ブリュッセル間に世界最初の国際電話開通 | 学位令公布(学位授与権は文相) | |
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1888年(16歳) 3月3日より、"Greek exercise"(『ギリシア語練習帳』)と名付けた日記帳に、主として宗教問題に関する若き日の思索を綴り始める。 神の実在について疑問を抱く。 5月9日、ケンブリッジ大学の Trinity College 受験のため Old Southgate にあるギリシア語、ラテン語の速成塾に入寮(18ケ月間/ただし土、日は帰宅) 16歳〜17歳にかけて多くの詩を読む。ミルトンの詩全部、バイロンのものほとんど,シェークスピアのもの多数、テニスンの大部分。シェリーに共感。 |
ヘルツ(独)、電気振動による電磁波の存在を確認(光の電磁波理論を実験的に証明) イーストマン(米)、小型フィルムカメラ(コダック)完成 | 市制・町村制公布 | |
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1889年(17歳) 夏,Surrey 州 Hindhead にある Rollo 叔父さんの家で初めて、当時米国の Bryn Maur College の学生であった Alys Pearsall Smith(ラッセルより5歳年上)と出会い、一目惚れ。翌年から毎夏、ロロ叔父さんと過ごす3ケ月の間、毎日、4マイルの道を歩いて Friday's Hill にあるアリスの家にいくことを日課とした。 ケンブリッジに行く前、『ミル自伝』を読み、無神論者になる。(死後の生命はない、と確信するようになる。) 12月、a minor scholarship 合格。初めてケンブリッジにいく。 Edward Fitzgerald の家族に招待されて、ヨーロッパにいく(2歳の時以来の、2回目の海外旅行)パリ万国博で完成したばかりのエッフェル塔にのぼる。スイス登山。 4月14日、Arnold Toynbee (1889.4.14-1975.10.22)生まれる。 4月26日、L. Wittgenstein (1889.4.16-1951.4.29)生まれる。 | パリ万博開催(パリにエッフェル塔建設) |
大日本帝国憲法発布 北里柴三郎、コッホのもとで破傷風菌の純粋培養に成功 大磯海岸で泳ぐ婦人の水着姿が話題となる | |
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★1890年 1872年へ 1890年(18歳) 10月,Cambridge大学の Trinity College(1546年創立)入学。数学と哲学を専攻。 "18歳でケンブリッジに入学した私は今や知性が評価され、明晰な思考がよいものとされる世界に自分がおかれていると気づいて、心が酔うほどの歓喜を覚えた"。(『ラッセル自叙伝』より) |
(3月20日)ビスマルク、宰相を退く;(9月30日)社会主義者鎮圧法(ドイツ帝国議会)失効 ロンドンでチューブ型の地下鉄開通 コッホ、ツベルクリンを創製 |
府県制・郡制公布 教育勅語発布 第一通常議会召集 | |
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1891年(19歳) R. Carnap(1891.5.18〜1970.9.14)生まれる。 |
アレクサンドル3世、シベリア鉄道建設の勅書(5.31着工) |
帝国議会議事堂全焼 | |
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1892年(20歳) 2月27日,Apostles(the Society) の一員に選ばれる。 大学3年次に G. E. Moore(1873.11.4-1958.10.24)が新入生として入ってくる。 |
英国に、第4次グラッドストーン内閣成立(1892年8月15日〜1894年3月5日) 米国で最初のガソリンエンジン自動車完成 | 田中稲城ら、日本文庫協会(図書館協会の先駆)設立 | |
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1893年(21歳) 5月18日、成人(21歳)に達し、亡き父の遺産2万ポンド(現在の貨幣価値で、約4億円位か?)を相続。 問題を解くことが中心のケンブリッジの数学のあり方に疑問をもち、しだいに数学の勉強の手を抜いたが、それでも、6月、数学優等試験で7番目の一級合格者(7th wranglar)となる → 今度は、哲学の系統的研究を始める。 9月13日,アリスにプロポーズ 4年次、E. McTaggart 教授の影響で一時ヘーゲリアンとなる。 4年次、おびただしい量の数理哲学及び哲学の本を読む。ジェームス・ワードに、カントールとフレーゲの著書を紹介される。 F. H. Bradley: Appearance and Reality; metaphysical essay 出版 |
英国で、ケア・ハーディら、独立労働党を結成(フェビアン協会も同党に加入) ハワイで、米人支援のクーデタがおこり、王政が廃止される(米国公使、ハワイを米国の保護領とすると宣言) | 文部省、女子の就学を促進するため、小学校にできるだけ裁縫の教科を置くよう勧奨(この年の女子の就学率は約41%) | |
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1894年(22歳) 1月4日、ロンドンの Grosvener Road 49番地にあるアリスの両親の家を訪ね、食事の時間を除いて、朝から晩までキスをして過ごす。(Pearsall Smith 家は120年続いた Philadelphia Quakers) 9月〜11月16日:パリ英国大使館名誉館員(9月10日パリ着) 秋、Cambridge 大学を卒業 12月13日、フレンド公教会にて、5歳年上のアリスと結婚(婚約発表は5月31日/ラッセルもアリスもそれまで性体験がなかった)。 → 祖母への最初の反逆となる。 (自叙伝によると、ラッセルは、1894年から第一次大戦にいたる間、毎年イタリアに旅行した(しかし、その後は1949年までイタリアにはいかなかった)とのこと。 |
日英通商航海条約(領事裁判権廃止) 清国に宣戦布告(日清戦争) | 文部省、就学者の増加をはかるため小学校の2部授業を奨励し、貧困児童就学のため夜学 日曜学校等勧奨 | |
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1895年(23歳) 1985年始め、二種類の一連の著作を執筆していくことを決意:'一つは、最も抽象的な論理学や数学から始めて具体的なものに向かう研究であり、もう一つは最も具体的な社会や歴史から始めて一般的抽象的な原理に遡る研究' 1月〜3月、ベルリン大学で経済学を学ぶために、アリスとともにドイツに旅行(ラッセルは祖母の教育方針のおかげでドイツ語を話せた。)ベルリン滞在中、週に3回ほどコンサートにいった。 春、イタリア旅行 初夏、英国にもどり、Fernhurst(Friday's Hill のアリスの両親の家から2マイルのところ)にある Millhanger と呼ばれる労働者の小さなコテージを手にいれ、2つの寝室を増築。そこで、フェロウシップ取得のための学位論文を執筆('幾何学はユークリッド空間のみについて可能であって、非ユークリッド空間については成立しないという、やがて一般相対性理論によって一掃される結論であった。'(石本新『世界の名著』第58巻、p.15より) 秋、トリニテイカレッジのフェロウシップ(1901年まで5年間)を得、2、3日後に、ドイツ社会民主主義の研究のため、再びベルリン訪問。 | レントゲン、X線を発見 |
日清講和条約調印 独仏露三国干渉(遼東半島を清国へ返還するよう日本に要求) | |
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1896年(24歳) 1896年2〜3月、London School of Economics でドイツ社会民主主義に関する一連の講義(全6回)をする。LSE は、フェビアン協会設立者として有名なウェッブ夫妻が創立したもので、ラッセルはその最初の講師(この講義は、ラッセルにとって苦痛であり、講義の日の前に、足でも折れてしまえばよいと思った由) 秋、アリスとともに,初めて訪米(3ケ月滞在)し、Bryn Maur College(学長はアリスの従姉妹 Dr. Carey Thomas)及び Johns Hopkins 大学で非ユークリッド幾何学について講義。また、米国の著名な民衆詩人 W. Whitman の旧居を訪問(ホイットマンは、1892年に既に死亡) Fabian Society に入会。 最初の著書 German Social Democracy 出版 'しかし、私は、それ(この本の出版)に少しも興味を持たなかった。数理哲学に専念しようと決心していたからである。'(『ラッセル自叙伝』) J. M. E. McTaggart; Studies in the Hegelian Dialectic 出版 |
トイツ、清国に膠州湾の50年間租借を要求 第1回オリンピック、アテネで開催(13ケ国参加) ニューヨークで世界初の有料映画会開催 マルコーニ、無線通信法を発明 ベックレム、放射能を発見(ウラン鉱) |
貴族院、小学校修身教科書の国費による編纂決議案を建議 | |
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1897年(25歳) 1月14日、Master 取得 An Essay on the Foundations of Geometry 出版(これは、修士論文を書き直したもの) |
独軍、膠州湾を占領、青島砲台占拠 ブラウン(独)、ブラウン管を発明 パーソンズ、世界最初の蒸気タービン船を完成 |
京都帝国大学設置(従来の帝国大学を東京帝国大学と改称) 綿糸の輸出額、輸入額を超える | |
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1898年(26歳) 1898年にラッセルとアリスは、毎年何ケ月かをケンブリッジで過ごす慣例を始めた。これは、1902年まで続いた。 この年の始めに祖母死亡 1898末ごろ、G. E. Moore とともにヘーゲル主義を脱する。カントも捨てる。 ホワイトヘッド、処女作 A Treatise on Universal Algebra, v.1 出版 |
ロシア、中国に大連、旅順の租借を要求 米西戦争勃発 |
市町村立学校に学校医を置く旨公布 岡倉天心、横山大観ら、日本美術院を創立 | |
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1899年(27歳) Lent Term に、母校トリニティカレッジで(マクタガートの代理で)ライプニッツの哲学を非常勤で講ずる。 義和団蜂起 南阿戦争(ボーア戦争)勃発当時ラッセルは、「自由党員で帝国主義者」であった。 | 10月、南阿戦争(ボーア戦争)勃発 | 中学校令改正公布(尋常中学校を中学校と改称、男子の高等普通教育機関とし実科教育を排し、修業年限を5年とする。) | |
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★1900年 1872年へ 1900年(28歳) 7月,第一回国際哲学会議(パリ)にてイタリアの数学者 G. ペアノ(1858〜1932)にあう。 '関係の論理' の定式化、雑誌に発表。 19世紀の終わり(1900年12月末)に The Principles of Mathematics の原稿(初稿)を書き終える。 数学者・論理学者 G. Frege(1848.11.8〜1925.7.26)の影響 Critical Exposition of the Philosophy of Leibniz 出版 F. W. Nietzsche(1844.10.15-1900.8.25) 没 |
英国に、労働代表委員会(1906年より労働党) プランク、量子仮説を導入 ヒルベルト、パリ国際数学者会議で「ヒルベルトの23問題」発表 |
治安警察法公布 陸軍省、海軍省官制改正(軍部大臣の現役大中将制確立) 夏目漱石、文部省留学生として渡英のため出帆(1903年1月帰国) | |
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1901年(29歳) 春、矛盾の一つを発見 1901年2月26日の夜、ホワイトヘッド夫人(Evelyn Whitehead)が心臓発作で苦しむのを目撃し、突如として人間一人一人の魂の孤独がラッセルをとらえる。/このような体験から、ボーア人の味方をするようになる。(帝国主義者→平和主義者に転換) 秋、突如として,もはやアリスを愛していないことに気付く。その事実をアリスにかくしておけず告白。(『ラッセル自叙伝』) 秋より2学期に渡って、Cambridge 大学(トリニティ・カレッジ)で記号論理学の講義を行う |
ヴィクトリア女王死去 オーストラリア連邦発足 第1回ノーベル賞発表(レントゲン他) ランドシュタイナー、血液型(3種)発見 |
福沢諭吉没 東亜同文会、南京に設立した同文書院を上海に移し、東亜同文書院と改称(1939年東亜同文書院大学となる) | |
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1902年(30歳) Gilbert Murray(1866〜1957)との生涯にわたる交友始まる。 5月23日、Principles of Mathematics 完成。 ラッセルとアリスはクリスマスをイタリアの I Tatti にある Bernard Berenson の家で過ごす。そこで、ラッセルは A free man's worship の大部分を執筆 H. Poincare: Science et Hypothese 出版 |
1月30日、日英同盟調印(英国の光栄ある孤立の終焉) | 東京専門学校を早稲田大学と改称し、創立20周年記念式典開催 | |
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1903年(31歳) Lucy M. Donnelly への手紙(2月7日付)、'自分の愛情を余りに一人の人間に集中し過ぎるのは危険です。なぜなら、愛情というものはよく裏をかかれるものですし、人生というものはもろくて誘惑にかかりやすいものだからです。' 1903年と1904年は、ラッセルにとって、「知的行き詰まり」の時代 12月、Independent Review 誌に 'A free man's worship' 発表 The Principles of Mathematics 出版 G. E. Moore: Principia Ethica 出版 Herbert Spencer(1820.4.27〜1903.12.8)没 |
ライト兄弟、初飛行 フォード自動車会社設立 ラザフォード、放射性元素の原子崩壊説を提唱 パブロフ、この頃条件反射現象を発見、大脳生理学の基礎を築く |
岡倉天心、The Ideals of the East を英国で出版 内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦、それぞれ退社の辞を発表し、開戦論に転じた朝報社を去る | |
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1904年(32歳) 知的行き詰まり。冬はロンドンで過ごして仕事せず。
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2月10日、日本、ロシアに宣戦布告 4月8日、英仏協商調印 米国、ウィルソン天文台設立 ルーベル、オフセット印刷を考案 ニューヨーク発の地下鉄開業 |
日本、ロシアに宣戦布告 丘浅次郎、この頃進化論の解説書多数出版 岡倉天心、The Awakening of Japan をニューヨークで出版し、反響を呼ぶ | |
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1905年(33歳) オックスフォード近くの Bagley Wood に家をたて、春そこに移り住み、すぐに The theory of description (記述理論)を発見 Mind 誌に "On denoting" 発表 Morrell 夫妻は、1905年、"Bedford Square 44番地" に居を構える。1915年に Garsington Manor に引っ越すまで、ここが文学者、芸術家、政治家、平和運動家たちのサロンとなる。 E. Mach: Erkenntnis und Irrtum 出版 |
ペテルブルクに最初の労働者代表(ソビエト)成立 アインシュタイン、「特殊相対性理論」発表 シャウディン(独)ら梅毒スピロヘータを発見 |
(明治38年) 連合艦隊、日本海でロシアのバルチック艦隊を破る(5.27〜5.28 日本海海戦) | |
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1906年(34歳) The theory of types (タイプ理論)発見 ロンドン数学会会員に選ばれる。 |
英国労働党成立 |
日本社会党第1回大会 岡倉天心、The Book of Tea をニューヨークで出版 | |
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1907年(35歳) Wimbledon 選挙区より(婦人参政権、自由貿易論を主張して)全国婦人参政権協会連合会の推薦を受け、下院議員補欠選挙に自由党から立候補 → 落選(対立候補は保守党の大物 H. Chaplin) 1907〜1910年の間:年に約8ケ月間、日に10〜12時間、Principia Mathematicaの執筆に費やす。 | リュミエール、天然色写真考案 | 満鉄調査部設置(本社は大連) | |
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1908年(36歳) Fellow of the Royal Society of London(英国学士院会員)に選ばれる。 | ロンドン海事会議開催(10ケ国参加) |
森鴎外、臨時仮名遣調査委員会で演説し、新仮名遣に反対 文部省に教科用図書調査委員会設置 | |
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1909年(37歳) H. Poincare: Science et Methode 出版 |
プレリオ(仏)、初めてドーバー海峡を飛行機で横断 ピアリー、初めて北極に到達 | 渋沢栄一、70歳に達し、財界引退を発表 | |
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1910年(38歳) 1月、自由党の P. Morrell のために応援演説 ・ラッセル自身は、無宗教であるため(英国国教徒でないため)、ベッドフォード選挙区から下院議員選挙に立候補できず。 10月、学期始めに Bridge Street に家を持つ。Bagley Wood の家は売り払う。 10月、トリニティ・カレッジで論理学、数理哲学を教え始める(5年契約/年棒210ポンド)。 (1910.5.27付、ホワイトヘッドからの手紙)'トリニティカレッジ評議会は、本日向こう5年間、あなたに『論理学』と『数学原理』の講師の地位を与えることを決定しました。義務は、(1)各学期とも一課程(24時間)の講義をすること、(2)学期間はケンブリッジに在住すること、の2つです。') Principia Mathematica、v.1 出版。『プリンキピア・マテマティカ』全3巻の草稿が一応完成(「分枝階型理論」を提唱) Philosophical Essays 出版 ホワイトヘッド、ロンドン大学に移る(1914年まで)。 W. James(1842.1.11〜1910.8.26)没 |
南アフリカ、英国自治領として発足 クーリッジ、タングステン電球発明 モーガン、遺伝子説を提唱 | 韓国併合 | |
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1911年(39歳) 3月19日、ソルボンヌ大学への講演旅行の途中、ロンドンの Philip Morrell 邸で一泊。Ottoline Morrell(1873.6.16〜1938.4 : P. Morrell の妻で Portland 公爵の腹違いの妹)と恋に陥る。最初の情交。(Ottoline は St. Andrews 大学と Oxford 大学に在学したが、健康上の理由で両方とも1年ほどで退学。Oxford 大学において、P. Morrell(1870〜1943)と出合い、1902年に結婚/モレルは、1906-1910 は South Oxfordshire 選出、1910〜1918年は、Lancashire 州の Burnley 選出の自由党下院議員) Fernhurst で週末を過ごしている時、アリスにオットラインとのことを打ち明ける。そこから、自転車にのってアリスのもとを去り、Trinity College のラッセルの研究室に引っ越す。以来1950年まで、アリスと二度とあうことはなかった。(39歳になるまで、ラッセルは妻以外の女性と「完全な関係」(complete relation)をもたず、又、その年になるまで9年間、アリスとさえ性的関係をもたなかった。) 10月18日、ウイットゲンシュタインと初めて会う。 President of the Aristotelian Society(英国哲学会会長:1911〜1913)となる。(注:アリストテレスの研究団体にあらず。) この頃、ラッセルは歯槽膿漏を患っていた。 | フォード、自動車の大量生産開始 |
工場法公布(日本最初の労働立法) 平塚らいてう(雷鳥)ら、青鞜社発起人会(雑誌「青鞜」を創刊し、平塚の「原始、女性は太陽であった」を掲載) | |
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1912年(40歳)[大正1年] ベルグソンの哲学を批判。 ウィトゲンシュタイン、ラッセルのもとに留学 G. E. Moore も Cambridge 大学の哲学講師となる。 Principia Mathematica,v.2; 及び The Problems of Philosophy 出版 'The Problems of Philosophy は、英語で書かれたものの中では、最良の哲学入門書(A. J. Ayer の評価)' H. Poincare(1854.4.29〜1912.7.12)没 |
中華民国成立(南京臨時政府成立、孫文、臨時大統領に就任) ボリシェビキの新聞、プラウダ創刊 ウェーゲナ、大陸移動説 英国のタイタニック号沈没 | 7月30日明治天皇没し、大正と改元(明治45年→大正元年) | |
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1913年(41歳)[大正2年] オットラインの紹介で, Joseph Conrad との交友始まる。 ラッセル、価値情緒説に転換(G. Santayana の影響) Principia Mathematica,v.3 出版 '数学でいう実数論までがほぼ記号論理学に還元できることが示されたのであるが、残る幾何学をどう処理するかという問題で、ラッセルとホワイトヘッドの考えがどうしても一致しなくなり、Principia Mathematica 第4巻は出ずに終った。(市井三郎、『ラッセル』(講談社)p.42より)' 岡田哲蔵:ラッセル著「自由人の崇拝」紹介(日本最初のラッセル文献か?) G. Santayana: Winds of Doctrine を出版し、ラッセルの倫理観を批判 |
ウィルソン、米国大統領に就任 ニューヨーク、現在のグランド セントラル駅完成 ボーア(デンマーク)、量子仮説を応用して原子の構造を解明 |
陸海軍省官制改正公布(大臣・次官の任命資格より現役の制限を除く) 京大柳沢総長、京大7教授に辞表を提出強制 | |
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★1914年(第一次世界大戦勃発) 1872年へ 1914年(42歳)[大正3年] 二度目のアメリカ旅行。シカゴの著名な婦人家医の娘M Helen Dudley(2〜3年前、G.Murray のもとでギリシア語を学ぶ)との情事。ラッセルはアリスと離婚が成立したら彼女と結婚をすることを約束。その後、戦争の勃発(でラッセルの主たる関心が反戦活動に移ったことや)、ラッセルの心変わり等のため彼女に対する熱がさめ、それらが原因で(?)彼女はついには発狂(遺伝的な問題だとする説もあるが・・・。) 3〜4月にかけて、ハーバード大学で Lowell 記念講義(学生の一人に T. S. Eliot がいた)。 6月、英国にもどる。 8月4日、英国、宣戦布告。群衆が英国の参戦に歓呼の声をあげている姿を目撃してショックを受ける。 11月、反戦運動開始。 自由党を離れて労働党に入党 この年、歯槽膿漏直る。 Our Knowledge of the External World 出版(ラッセルの口述を速記者が筆記したもの) '分析的方法はその後のラッセル哲学の最も強力な武器として、様々な領域に適用される。その最初の収穫が、即ち、Our Knowledge of the External World なのである。(石本新他解説:三人の科学哲学者(「世界の名著」v.58,中央公論社、1971年9月)、p.20 より) 'Newton 的な絶対時間と絶対空間、それに、物質粒子を放棄して、事象(events)の系に置き換えるようにしたのは、ホワイトヘッドに導かれてのことであった(ラッセル自叙伝?)' C. S. Peirce(1839.9.10-1914.4.14)没 |
6月28日、オーストリア皇太子、暗殺される。 7月28日、第一次世界大戦勃発 8月4日、英国、ドイツに宣戦布告 |
8月23日、日本、ドイツへ宣戦布告 | |
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1915年(43歳)[大正4年] 2月頃、Ottoline Morrell によって D. H. ロレンスを紹介される。 11月29日付けの Stanley Unwin の手紙により、Allen & Unwin 社との関係が始まる。 Principles of Social Reconstruction 執筆 NCF(No-Conscription Fellowship:徴兵反対協会)の委員となる。 顕著な哲学上の業績に対し、コロンビア大学より、Nicholas Murray Butler Prize を贈られる。 Morrell 夫妻、1915年に Oxford の中心部から東南約10キロに位置するGarsington Manor に居を移す(1927年にロンドンの Gower Street に引っ越すまで)。 |
アインシュタイン、一般相対性理論発表 英客船ルシタニア号、アイルランド沖で独潜水艦によって撃沈(米国人139人死亡) | 日本、中国に対し「21ケ条要求」 | |
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1916年(44歳)[大正5年] 1916年初め、Westminster の Caxton Hall で8日間に渡って講演(Principles of Social Reconstruction として後に出版) Wilson 米国大統領に公開書簡 6月15日、有罪確定:120ポンドの罰金刑 7月11日、トリニテイカレッジの評議会でラッセルの免職決定 夏、Dora Black (当時、ドラはケンブリッジ大学の Girton College の学生)と初めて会う(1919年に再会)。 オットラインとの恋愛関係終わる。7月31日、女優の Collete O'Niel (Lady Constance Malleson)と出会い恋愛し、2ケ月近くで肉体関係を持つ。 Justice in War Time 出版 Principles of Social Reconstruction 出版。これはかなりの収入源となる。 E. Mach(1838-1916)没 | 12月4日、英アスキス内閣辞職し、ロイド ジョージ戦時内閣成立 | チャップリン映画、多数上映 | |
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1917年(45歳)[大正6年] 1917年末には、反戦運動に見切りをつけ始める。 Political Ideals を米国で出版。この本には、陸軍省によって禁じられた公開講演を含んでいた。 |
10月、ロシア革命(10月革命) 米国、禁酒法成立(1920年1月施行) | 『主婦之友』創刊 | |
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1918年(46歳)[大正7年] 1月3日、「ドイツの和平提案」を Tribunal 誌に発表 1918年始め、ロンドンにて The Philosophy of Logical Atomism に関して8回の講義 5月初め入獄(ブリクストン監獄:囚人番号2917番。禁固6ケ月の判決)。兄フランクの努力等により、絨毯が敷きつめられた、普通の独房より広い特別室(週2シリング6ペンスの室料)に入ることができた。机、椅子、ベット付。。毎週3人だけ面会が許された。普通は午後8時消灯であるが、特別に午後10時消灯。 [刑務所での日課]4時間の哲学に関する著述、4時間の哲学関係の読書、4時間の一般的読書) 刑務所内で、An Introduction to Mathematical Philosophy 執筆 Analysis of Mind 着手 9月出獄 Mysticism and Logic, and Other Essays;及び、Roads to Freedom; socialism, anarchism and syndicalism 出版 G. Cantor(1845.3.3〜1918.1.6)没 |
Max Planck(1858〜1947)、ノーベル物理学賞 11月11日、第一次世界大戦終戦 |
原敬内閣成立 1歳未満乳児の死亡率増大18.9%(約34万人) | |
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1919年(47歳)[大正8年] 6月より,ケンブリッジ大学の数学者 J. E. Littlewood(1885.6.9〜1977.9.6)教授とともに、Dorcet 海岸の Lulworth の近くで3ケ月の休暇を過ごす。そこで Dora Black と再会し、恋愛関係となる。 北欧、南欧に旅行。 『論理哲学論考』について議論するために、ウィトゲンシュタインに会いに行く。 An Introduction to Mathematical Philosophy 出版 |
(4月)デューイ、中国訪問 (5月4日)五四運動 (6月)ベルサイユ条約調印 A. Eddington の日食観測によって、アインシュタインの理論が実証される。 | ラッセル著、松本悟朗訳『社会改造の原理』出版 | |
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1920年(48歳)[大正9年] スペインのバルセロナにあるカタラン大学で講演 5.12〜 6.17:英国労働党代表団に加わって革命ロシアを訪問し、Lenin や Trotsky と会見(5.12:ペテルブルグ=今のレニングラード着) 10月、ドーラとともに中国を訪問(1920年10月12日の朝9時に上海に上陸し、「一品香(イピンシャン)旅館」に宿泊/1921年7月まで北京大学客員教授 10月末、長沙で講演(演題:"ボルシェビーキと世界政治") The Practice and Theory of Bolshevism 出版 D. H. Lawrence: Women in Love 出版(ここに登場するジェラルドはラッセルがモデルと言われている)。 |
国際連盟発足 米国議会、第19憲法修正(婦人参政権を認める) |
(2月11日)東京で数万人の普通選挙示威行動 (7月24日)天皇の病状を公表 (2月5日)慶應義塾大学及び早稲田大学、大学令による初めての私立大学として認可 東京帝大、聴講生に関する規定を制定(女子の入学を許可) | |
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★ラッセル、日本訪問 1872年へ 3月初旬、肺炎にかかり、3月下旬危篤に陥る。 (日本の3月28日付の大阪毎日新聞は、3月27日にラッセル死亡と誤報) 5月3日、アリスとの離婚、正式に成立。 7月10日、北京を離れる。 7月12日、中国、天津港出港(郵船 営口丸) 7月16日、朝、営口丸、門司港着。山本実彦の出迎えを受ける。(ただし,門司には上陸せず)。山本によれば、ラッセルは '卵色の背広' を着ていた由。 7月17日〜7月30日: 日本訪問 7月17日正午: 営口丸にて神戸着。神戸クロニクル主筆ヤングの出迎え。最初の夜は、神戸 北野のトア ホテルの2階57号室に泊まる。(現在跡地は「神戸外国倶楽部」となっている。) 7月18日、大阪ホテルにて、大阪毎日新聞副主幹と午餐。夜、神戸の阿弥陀寺で開催された演説会に出席し、約1,000名の労働者の前で短い講演を行った(通訳は賀川豊彦)。その後、自動車でトア・ホテルに帰り、夜12時頃まで歓談。トアホテル泊(2泊目)。 7月19日、ラッセル、ヤング、ブラック、及びパワー(Eileen Power,1889〜1940)は、午前11時2分神戸三宮駅発の列車で大阪に向かう。大阪ホテルにて昼食をとり、自動車で奈良へいく。奈良公園などで遊ぶ。夜は、奈良ホテル泊。 7月20日、奈良の大仏見学、夕刻、同じ車で京都にいく。夜は、都ホテルに泊まったものと思われる。 (7.20〜7.24、京都) 7月21日: 京都大学荒木総長と短時間会見。夕方5時より、改造社主催の都ホテルでの歓迎会に出席。京都大学教授その他の学者27名(新聞報道では26名)出席。 7月22日、午前中、祇園、知恩院、本願寺等見学。午後は、ホテルで静養。 7月23日 この日の詳細不明(要調査)(注:金子務『アインシュタイン・ショック(1)』(p.71)には7月22日箱根に1泊と書いてあるが、『東京朝日新聞』1921年7月25日付朝刊には「前日」京都を立ったと書かれている。ラッセルの行程に関する金子氏の記述は間違いが多い。) 7月24日,7.49p.m.:東海道線特急で横浜着。山下町のグランドホテルに一泊 7月25日、午後5時入京。夜、改造社の山本社長の案内で帝劇見物。帝国ホテルにて東京の第一夜を過ごす(2階32号室)。 7月26日、午前11時より、帝国ホテルにて日本の著名な思想家達と会見(大杉栄、堺利彦、桑木厳翼、姉崎正治、上田貞次郎、阿部次郎、和辻哲郎、北澤新次郎、鈴木文次、与謝野晶子、福田徳三、石川三四郎他) 7月27日、午前11時〜12時半まで、都下新聞記者20名と共同記者会見。午後は、上野及び日本橋丸善へ(桑木或雄が同行) 7月28日、夜、慶応大学大講堂にて講演(講演開催にあたっては小泉信三などが尽力/聴衆は3,000人以上(2,000人と書いてある文献もあり)。通訳は、帆足理一郎) 7月29日、横浜のグランドホテル泊 7月30日、午後、Canadian Pacific 社の Empress of Asia 号でバンクーバー向け出帆 8月27日、ロンドンに戻る。生まれてくる子供のために Sidney街31番地に引越す。 9月27日、Dora Black と再婚 11月16日、長男 John 誕生 この年、成人した時に相続した財産(約2万ポンド)をほぼ使い果たす。 The Analysis of Mind 出版 ウィトゲンシュタインの Logisch-philosophische Abhandlung が『自然哲学年報』(1921年刊行)の最終号、v.14,n.3/4、p.185〜262 に掲載される。 |
(5月5日)連合国、ドイツに賠償総額1320億マルク支払い計画の受諾を要求 中国共産党創立大会 11月12日、ワシントン(軍縮)会議開催 A. Einstein,ノーベル物理学賞授賞 A. S. Neill(1883.10.17〜1973.9.23)によって Summer Hill School 創設される。 Mahatma Gandhi、対英非協力運動開始 |
原首相刺殺される 東京天文台設置(東京帝大の付置研究所となる) | |
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1922年(50歳)[大正11年] 春、コーンウォールに別荘 'Carn Voel' を購入 保守党の牙城であるチェルシー選挙区から、労働党の候補として下院議員選挙に立候補し、落選(ロンドンのフラット:シドニー街13番地) The Problem of China 出版 ウィトゲンシュタインの Tractatus Logico-Philosophicus(独英対訳版でラッセルの長文の序文付)が出版される。 |
ハーグ常設国際司法裁判所発足 バンディング、膵臓からインシュリンを抽出 |
日本共産党結成(非合法) 11月17日〜12月29日:アインシュタイン来日(改造社の山本実彦社長に聞かれ、ラッセルは第一番目にアインシュタインを推薦→山本氏最終決断) | |
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1923年(51歳)[大正12年] 再び、チェルシー選挙区から下院議員選挙に立候補して落選 → 職業的政治家になる道を断念 12月29日,長女 Katharine Jane Russell(愛称 Kate)生まれる。 The Prospects of Industrial Civilization;及び The ABC of Atoms 出版 |
(1月11日)ドイツ軍は、仏ベルギー郡、ルール地方に侵入し占領(〜1924.9.1) ドイツ・マルク紙幣大暴落(8月の平均、1ドル=460万マルク) 英国、BBC放送を正式許可 |
(9月1日)関東大震災(朝鮮人暴動の流言で、朝鮮人数千人殺害される) 憲兵大尉甘粕正彦、大杉栄や伊藤野枝らを憲兵隊内で殺害 | |
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1924年(52歳)[大正13年] アメリカに講演旅行(3度目の訪米) Icarus; or, the Future of Science 出版 ホワイトヘッド、米国に渡り、ハーバード大学の哲学教授となる。 Dora 立候補 F. H. Bradley(1846.1.30〜1924.9.18)没 |
(1月)英国で初めて労働党内閣(J. R. MacDonald 首相)成立 英国、ソ連邦を承認 国際連盟総会で、「国際紛争の平和的解決に関するジュネーブ議定書」を採択 |
(1月26日)摂政裕仁親王、久邇宮良子女王と結婚式を挙行 荻野久作、黄体と子宮粘膜の周期的変化の関係を発見(オギノ式) | |
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1925年(53歳)[大正14年] The ABC of Relativity,1st ed.; What I believe、出版。 Principia Mathematica,2nd ed.,v.1 出版 (第2版では、論理的パラドックスと意味論的パラドックスとを区別:単純階型理論) Whitehead: Science and the Modern World 出版 F. P. Ramsey: Foundations of Mathematics 出版 G. Frege(1848.11.8〜1925.7.26)没 J. M. E. McTaggart(1866.9.3〜1925.1.18)没 |
ヒトラー、『わが闘争』出版 チャップリン、「黄金狂時代」 ベアード、実用的テレビ発明 ハイゼンベルク、量子力学の基礎を確立 |
普選法案、衆議院及び貴族院で修正の後可決 治安維持法案可決 | |
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1926年(54歳)[大正15年/昭和1年] Trinity College で、「物質の分析」 に関する Tarner 記念講義 On Education 出版(ベストセラーになってようやく経済的に安定) |
英国、炭鉱スト(250万人が参加) ロッキード航空機会社設立 米NBC創立(ネットワーク放送化意思) モルガン(米)、遺伝子説を体系化 | (12月25日)大正天皇没し、昭和と改元(大正15年=昭和元年) | |
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1927年(55歳)[昭和2年] 9月より、ドーラとともに Chichester と Petersfield の間、South Downs にある兄の家 Telegraph House(120エーカの私有地付) を借りて Beacon Hill School(寄宿制の実験学校)を始める。 アメリカへ講演旅行(4度目の訪米) 資金稼ぎのために本を執筆しなければならず、学校の運営に全力をささげることができなかった。 The Outline of Philosophy;The Analysis of Matter;及び、Selected Papers of B. Russell 出版 |
パンアメリカン航空会社設立 リンドバーク、大西洋横断無着陸飛行(ニューヨーク=パリ間)成功 ハイゼンベルク、不確定性原理発表 ロンドン=ニューヨーク間の無線電話開通 |
金融恐慌始まる 岩波文庫刊行開始 | |
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1928年(56歳)[昭和3年] Sceptical Essays 出版 R. Carnap:『世界の論理的構築』出版 |
イギリスの全女性に参政権 11月15日、ファシスト大評議会、イタリアの正式の国家機関となる |
第16回総選挙(最初の普通選挙) 張作霖、奉天に引き上げの途中で、関東軍の謀略で列車を爆破され死亡 4月18日、京都帝大教授河上肇、辞職をせまられ依願免官となる | |
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1929年(57歳)[昭和4年] 秋、アメリカ講演旅行(5度目の訪米) Dora、下院議員選挙に立候補し、落選 Marriage and Morals 出版 1929年の始め、ウィトゲンシュタインはケンブリッジにもどり、研究生として登録し、既刊の『論理哲学論考』により Doctor of Philosophy の学位を取得し、トリニティのフェロウとなり、講義を始める。 中欧にウィーン学団、結成される。 |
世界大恐慌(10月24日、ニュ−ヨーク株式市場大暴落) フレミング、ペニシリンを発見 ベルガー、脳波を発見 | 文部省、国体観念明微のため、教化動員を実施 | |
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1930年(58歳)[昭和5年] Cambridge 大学以来の生涯の友、Charles Percy Sanger 死亡 The Conquest of Happiness 出版 F. P. Ramsey(1903.2.22-1930.1.19)没 | 1月21日、ロンドン海事軍縮会議 |
昭和恐慌(世界恐慌、日本に波及) ロンドン条約締結に関し、統帥権干犯問題起こる 11月14日、浜口雄幸首相、東京駅で狙撃され重傷 | |
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1931年(59歳)[昭和6年] 兄 John Francis Stanley Russell(1865.8.12〜1931.3.3)、借金を残して死亡:ラッセル、第3代伯爵となる。以後、兄の先妻に年400ポンドの扶助料を兄のかわりに支払うこととなる。 アメリカのハースト系の新聞 雑誌に、毎週エッセイを寄稿し始める(以後4年間) 秋、アメリカに講演旅行(6度目の訪米) 1921年までの『自叙伝』の大要を口述 Scientific Outlook 出版 ゲーデル(K. Godel: 1906-1978)、「不完全性定理」発表 タルスキー(Alfred Tarski: 1902-1983)、「形式言語における真理概念」(ポーランド語で)発表 |
9月23日、国際連盟、満州事変のため緊急理事会召集 エンパイア ステート ビル完成 パウリ、ニュートリノ仮説発表 |
9月18日、満州事変(関東軍参謀ら、満州占領を企て、奉天郊外柳条溝の満鉄線路を爆破、これを中国のせいにして総攻撃を命令) ラジオ聴取契約者120万人突破 | |
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1932年(60歳)[昭和7年] 春、Beacon Hill School より手を引く。テレグラフ・ハウスを去り、パトリシア・スペンスとコーンウォールに移り住む。(離婚手続きが難航し、決着がつくまで、以後3年間を要することとなる。) (兄の2度目の妻に年400ポンドの別居手当を支払うだけでなく、さらに)ドラに別居手当を支払う義務を負うこととなる。 Royal Society(英国学士院)より Sylvester Medal Education and the Social Order 出版 Peano(記号論理学の開拓者:1858〜1932)、 Goldsworthy L. Dickinson(1862-1932.8.3)没 |
W. K. ハイゼンベルク(1901-1976)、ノーベル物理学賞受賞 ナチス、第一党となる。 | 日本が清朝廃帝薄儀をかつぎだし、満州国を成立させる。 | |
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1933年(61歳)[昭和8年] パトリシア・スペンスの協力を得て、Freedom and Organization の執筆に着手
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1月30日,ヒトラー、ドイツの首相に就任 アインシュタイン、トーマス マンら、アメリカに亡命 「プリンストン高等研究所」設立 |
3月末、国際連盟脱退通告 東京商科大学教授大塚金之助、続いて(京大元教授)河上肇検挙される 海軍、射程40Kmの酸素魚雷完成 日本の綿布輸出、英国を抜き世界一となる | |
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1934年(62歳)[昭和9年] Freedom and Organization 出版
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12月、ソ連で粛正始まる。 ボーイング航空会社設立 キューリー夫妻、人工放射能発見 | 東北地方の例外 大凶作で、娘の身売り、行き倒れ、自殺など惨状をきわめる | |
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1935年(63歳)[昭和10年] 法的に、ドーラとの離婚成立。裁判所が John と Kate の後見人となる、との採決がくだされた。 哲学上の名声を再び得ようと決意 In Praise of Idleness;及び Religion and Science 出版 | この頃、英国でレーダーを実用化 |
2月18日、菊池武夫、貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を攻撃 3月23日、衆議院、国体明微決議案を満場一致で可決 | |
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1936年(64歳)[昭和11年] 1月、Patricia Spence と結婚(3度目) Which Way to Peace? 出版 A. J. Ayer: Language, Truth and Logic 出版 J. M. Keynes: General Theory of Employment,Interest and Money 出版 | ケインズ、『雇用 利子および貨幣の一般理論』;オパーリン、『生命の起源』出版 |
2.26事件起こる (11月25日)日独防共協定、ベルリンで調印 人絹糸生産高、米国を抜き世界一となる | |
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1937年(65歳)[昭和12年] 次男 Conrad Sebastian Robert Russell、生まれる。 11月、再び、英国哲学会会長(1937〜38)となる。 上院で外交問題に関する処女演説(ラッセルは伯爵であるので有資格者) The Amberley Papers、2 vols 出版(Patricia Spence の協力) 『ライプニッツの哲学』の再版に新しい序文をつける。 J. R. MacDonald(1866.10.12〜1937.11.9)没 | ピカソ、パリ万博に「ゲルニカ」出品 |
日中戦争始まる(7月7日、盧溝橋で日中両軍衝突) 12月13日、日本軍、南京を占領し、虐殺事件起こす | |
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1938年(66歳)[昭和13年] Oxford 大学で、"Language and Fact" というテーマ(Inquiry into Meaning and Truth の初期の形)で連続講義 Ottoline 死亡(ラッセルはオットラインに、1911年〜1938年の間に約2,000通の手紙を書いたといわれる)。 秋、妻子とともに渡米(6年間の米国生活始まる。7度目の訪米) 1938年末、Chicago 大学でゼミナール(R. Carnap, C. Morris ら参加)
Power 出版 |
3月、ナチス・ドイツ、オーストリアを併合 カロザース、ナイロンを発明 | 4月1日、国家総動員令 | |
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★1939年(第二次世界大戦勃発) 1872年へ 1939年(67歳)[昭和14年] 1939年初め、引続き Chicago 大学で講義 California 大学(ロサンゼルス校)で講義・演習 夏休み、John, Kate, Patricia とともに、カリフォルニア州 Yosemite 国立公園にいく。 *フロイト没(1856.5.6〜1939.9.23) |
(8月2日)アインシュタイン等、ルーズベルト大統領に書簡を送り,米国が原子爆弾の研究を開始するよう進言 (9月1日)第二次世界大戦勃発 独メッサー・シュミット、最大速度755kmを記録 | 1月28日、東京帝大総長平賀譲、経済学部河合栄治郎、土方成美両教授の休職処分を文相に上申 | |
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1940年(68歳)[昭和15年] 2月下旬、ラッセルがニューヨーク市立大学客員教授として任命されたことが公表された(訴訟がおこされ、裁判にまけ、4月半ばに正式に取消される:いわゆるバートランド・ラッセル事件。(ラッセルの経済的困窮状態を救ったのが、C.バーンズ博士であり、8月上旬、バーンズ博士は飛行機で、ラッセル一家が夏をすごしていたタホー湖にでかけ、バーンズ財団におけるラッセルの職務について話し合い、1941年1月から5年間とすることに合意した。なお、ラッセルの最初の講義は、財団の中央展示室で、1941年1月2日に行われた。) 秋、Harvard 大学で William James Lectures An Inquiry into Meaning and Truth 出版 |
トロツキー暗殺 英客船クイーン・エリザベス号(8万3673トン)完成 |
9月27日、日独伊3国同盟、ベルリンで調印 10月12日、大政翼賛会発会式 | |
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1941年(69歳)[昭和16年] 1月より、バーンズ財団で西洋哲学史の講義を開始。(5年契約であったが、実際は1942年の末でうち切られる。) Let the People Think; a selection of essays 出版 Henri Bergson(1859.10.18〜1941.1.4)没 |
5月1日、スターリン、ソ連首相に就任、副首相兼外相にモロトフ 12月8日、米英、対日宣戦布告 |
4月13日、日ソ中立条約、モスクワで調印 10月18日、東条英機内閣成立 12月8日、ハワイ真珠湾攻撃 | |
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1942年(70歳)[昭和17年] (1942.3.23付 G. Murray への手紙)'。日本の参戦が事情を変化させたと思います。英米の、慈悲深そうにしていながら実は帝国主義だというやり方は、もう通用しないでしょう。「アジア人のためのアジア」は認めなければなりません。ただ問題なのは、インドと中国が解放されるだろうか、それとも日本に支配されるだろうかということです。もし解放されるとすれば、アジア的なロシアの方に引きつけられるでしょう。ただし、そうはいってもそこには何ら文化的結合というものはないでしょう。' |
1月18日、ベルリンで日独伊軍事協定調印 (12月2日)フェルミ(伊)、米国シカゴ大学で原子炉によりウランの核分裂連鎖反応に成功 |
6月5日(〜6月7日)、ミッドウェー海戦で日本4空母失う(戦局の転機となる) 東京帝大に第二工学部(千葉)新設 | |
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1943年(71歳)[昭和18年] プリンストンに転居してアインシュタインとの親交始まる。
Beatrice Webb(旧姓:Beatrice Potter,1958.1.22〜1943.4.30)没
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サルトル、「存在と無」出版 |
日本軍、ガタルカナル島撤退開始 西田幾多郎、国策研究会の求めに応じて「世界新秩序の原理」を執筆 (8月20日)閣議、「科学研究ノ緊急整備方策要綱」を決定(大学その他の科学研究は、戦争遂行を唯一絶対の目標すべきこととする) | |
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1944年(72歳)[昭和19年] 6月(ノルマンディ上陸作戦の直前)、英国に戻る。 Trinity Collegeから5年契約の講師として紹聘される。傍ら、英国政府に協力して各地で講演を行う。 (1944.1.13付、ホワイトヘッド夫妻からの手紙)'わたしたちは、今ちょうど、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ評議会の議事録で、あなたがフェローと講師の地位に再任されたことを知りました。その議事録は、その決定が全員一致であったことを強調しています。' The Philosohy of B. Russell,1st ed. 出版 Romain Rolland(1866.1.29〜1944.12.30)没 |
(6月6日)連合軍、ノルマンディー上陸開始 (6月15日〜6月16日)ドイツ、報復兵器1号(V1)でロンドン爆撃 (11月7日)米大統領選挙、ルーズベルト4選される |
(1月8日)閣議、緊急学徒勤労動員方策要綱を決定 (6月19日)マリアナ沖海戦で空母・航空機の大半を失う) (7月18日)東條内閣総辞職 | |
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★1945(第二次世界大戦終結) 1872年へ 1945年(73歳)[昭和20年] 11月28日、上院で演説:水爆の実用化を予言(上院での演説は2回目) 世界政府運動を開始 Human Knowledge の執筆に着手 A History of Western Philosophy 出版(英国初版は1946年) ホワイトヘッド、Order of Merit 受賞 |
(2月4日)米英ソ、ヤルタ会談 (7月16日)米国ニューメキシコ州アラモゴルド砂漠で原爆実験 (7月17日)米英ソ、ポツダム会談開催(トルーマン、チャーチル、スターリン) 国際連合成立 アメリカで電子計算機ENIAC完成 |
(4月1日)米軍、沖縄本島に上陸 8月6日広島に、8月9日長崎に、原爆投下 (8月14日)御前会議でポツダム宣言受諾決定、中立国を通じて連合国へ申し入れ (8月15日)日本は無条件降伏(第二次大戦終結) | |
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1946年(74歳)[昭和21年] ケンブリッジ大学 Newnham Colledge において、Henry Sidgwick 記念講義 (1946.6.23付、Lucy Donnelly への手紙)'私は今、スイスに短期の講演旅行にきています。1週間後には、長期休暇をとって、北ウェールズにいるピーターとコンラッドのところに帰ります。その後、ケンブリッジのトリニティ カレッジに戻ります。トリニティでは、ずっとニュートンが使っていた部屋で暮らしています。' J. M. Keynes(1883.6.5〜1946.4.21)没 |
1.10〜2.14、ロンドンにて国連第1回総会 (3月5日)チャーチル、米国ミズリー州フルトンで「鉄のカーテン」演説 10月1日、ニュルンベルグ国際軍事裁判判決 |
(5月3日)極東国際軍事法廷開廷 (11月3日)日本国憲法公布(1947年5月3日公布) 鶴見俊輔、鶴見和子、都留重人ら、『思想の科学』創刊 政府、当用漢字表(1850字)および現代かなづかいを告示 | |
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1947(75歳)[昭和22年] 1947年末、ウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学教授を辞職 Alfred N. Whitehead(1861〜1947.12.31)、 G. H. Hardy(1877.2.7〜1947.12.1), Sidney J. Webb(1859.7.13〜1947.10.13)没 |
(6月5日)米国務長官マーシャル、ヨーロッパ復興計画(マーシャルプラン)発表 (8月15日)インド独立(首相=ネール、首都=ニューデリー) |
(4月17日)地方自治法公布 (5月3日)日本国憲法施行 (8月4日)最高裁判所発足 (12月17日)警察法公布 (10月1日)政府、「帝国」大学の名称を廃止(東京帝国大学→東京大学) | |
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1948(76歳)[昭和23年] 核兵器の拡散を阻止するためにソ連を原爆で脅かすことを主張 'ラッセルの主張の問題点は、彼がソ連は武力で脅かすことによって原子力国際管理を西側の主導権のもとで行うことに同意させることが可能であると表面上は主張しながら、その私信で明らかなように、ソ連が妥協することはありえないから、対ソ戦のための口実(ソ連のバルーク案拒否もそのひとつ)をとらえ、開戦も止む得ないと考えていた点にある'。小野修、1977年) 10月、オスロから Trondheim にいく水上飛行機が墜落し、冬の北海に投げ出されたが九死に一生を得る。(反ソ同盟にノルウェーを参加させるため、労働党英国政府の委嘱でノルウェーへ行く途中) (1948.3.27付、Lucy Donnelly への手紙)' 。私は自叙伝を「書き始め」ました(→「再開」というころか。なぜなら,1931年のところに1921年まえの自伝について口述と書かれている!)。そしてそれがいかに大変なものであるかわかりました。あなたにさしあげた手紙を拝借できれば幸いです。 娘のケイトは、ちょうど、Charles Tate という名前のアメリカ人と結婚したばかりです。ケイトは現在なおマサチューセッツ州ケンブリッジに住んでいます。私はまだケイトの相手にあったことはありませんが、聞いた範囲ではとてもいい人のようです。 ' ラッセル理論哲学の集大成, Human Knowledge 出版 |
Mahatma Gandhi(1869.10.2〜1948.1.30)暗殺される (4月1日)ソ連(スターリン),ベルリン封鎖を開始する (9月9日)朝鮮民主主義人民共和国樹立(首相に金日成) (12月10日)国連総会、「世界人権宣言」を採択 世界保健機関(WHO)発足 |
(2月9日)国立国会図書館法公布 (6月23日)文部省、1府県に1大学の設置など、国立大学設置の11原則を発表 | |
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1949(77歳)[昭和24年] Patricia と別居 BBCラジオを通じて Reith Lectures (Authority and the Individual) 6月、Order of Merit をジョージ6世より授与される。 マルセイユ大学より名誉博士号。 Authority and the Individual 出版 |
7月、ソ連、原爆実験 10月、中華人民共和国、成立 |
GHQ、日本円に対する公式為替レート設定の覚書(1ドル=360円) (5月31日)東大に教養学部設置 | |
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1950(78歳)[昭和25年] 6月、オーストラリヤへ講演旅行 12月、ノーベル文学賞授賞(Marriage and Morals(1929年刊)が授賞理由の一つ プリンストン高等研究所へ行き、アインシュタインと会う。 コロンビア大学で連続講義 アリスと再会
Unpopular Essays 出版 G. Bernard Shaw(1856.7.26〜1950.11.2)没 |
(1月)トルーマン大統領、水爆製造計画を発表。これに対し、アインシュタインは声明を出し、「国家の武装を通じて安全保障を達成し得るという信念は、軍事技術の現段階では、人類全体を破滅に導く幻想にすぎない」と訴える。 (2月)共和党の上院議員 J. McCarthy(1908〜1957)は、国務省内の赤色分子120名の追放処分を要求 (6月)朝鮮戦争勃発 米国でマッカーシー旋風 |
(5月3日)吉田茂首相、東大南原繁総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難 (8月10日)警察予備隊令公布 朝鮮動乱特需景気起こる | |
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1951(79歳)[昭和26年] 1月21日、アリス死亡 アメリカへの講演旅行(これがアメリカへ行った最後か?) New Hopes for a Changing World;及び The Wit and Wisdom of B. Russell 出版 4月29日、ウィトゲンシュタイン(1889.4.26〜1951.4.29)、ガンで死亡 |
(2月15日)英国、鉄鋼業の国有化実施 (7月10日)朝鮮休戦会談 |
9月、サンフランシスコにおける講和条約調印と同時に日米安全保障条約調印 | |
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1952(80歳)[昭和27年] 6月、パトリシアと正式離婚。パトリシアに11,000ポンドの慰謝料を支払う。(ちなみに、ノーベル賞の賞金は1万ポンド) 12月15日、Edith Finch と再婚(4度目) The Impact of Science on Society(enlarged ed.); 及び Bertrand Russell's Dictionary of Mind, Matter and Morals 出版 J. Dewey(1859.10.20〜1952.6.1) 及び Santayana(1863.12.16〜1952.9.26)没 |
(2月26日)英首相チャーチル、英国の原爆所有公表 (11月1日)米国、エニウェトク環礁で水爆実験 |
(4月28日)日米安全保障条約発効 (7月4日)破壊活動防止法案成立 | |
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1953(81歳)[昭和28年] ロンドン郊外に4階建ての家を購入して、1、2階を長男一家に使わせる。(長男には3人の子供あり) 肺炎で死にかかる。
The Good Citizen's Alphabet;及び Satan in the Suburbs 出版 H. Reichenbach(1891.9.26-1953.4.9)没 ウィトゲンシュタインの『哲学研究』出版される。 |
(1月20日)アイゼンハワー、米大統領に就任 (3月5日)スターリン死亡(フルシチョフが葬儀委員長/スターリンの後任にマレンコフ) (7月27日)朝鮮休戦協定調印 (8月8日)マレンコフ、最高会議で水爆保有を発表 (9月12日)ソ連共産党第一書記にフルシチョフ選任 | (2月28日)吉田茂首相、衆議院予算委員会で質問の右派社会党西村栄一氏に「バカヤロー」と暴言(→3月14日、衆議院で吉田内閣不信任案可決。いわゆる「バカヤロー解散」 | |
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1954(82歳)[昭和29年] 12月23日、BBCを通じて核兵器の廃止を訴える(Man's Peril)。
Human Society in Ethics and Politics、及び Nightmares of Eminent Persons 出版 市井三郎氏は、Human Society in Ethics and Politics を「学問的労作」である、として評価 |
(3月1日)ビキニ水爆実験 (7月22日)ジュネーブ休戦協定発効 |
(3月1日)第五福竜丸、ビキニの米水爆実験により被爆 (4月21日)犬養健法相、指揮権を発動し、造船疑獄の自民党佐藤栄作幹事長を逮捕許諾請求を認めず (6月9日)防衛庁法及び自衛隊法公布 | |
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★1955(Plas Penrhyn 山荘購入) 1872年へ 1955(83歳)[昭和30年] 北ウェールズの Plas Penrhyn(プラス ペンリン)山荘を購入して、エデイス夫人ととともに、移り住む。 7月9日、ラッセル=アインシュタイン宣言を発表;世界科学者会議を提唱(アインシュタインは亡くなる1週間前(4月11日)に声明に署名!) ローマにおける世界連邦国会委員会国際会議、パリにおける世界連邦世界協会世界大会、ロンドンにおける世界科学者会議等に出席 A. Einstein(1879.3.14〜1955.4.18)没 |
(3月1日)英首相チャーチル、水爆製造計画発表 (5月14日)ソ連、東欧8カ国、有効相互援助条約(ワルシャワ条約)統一司令部設置議定書に調印 |
(8月6日)広島にて第1回原水爆禁止世界大会開催 下期より神武景気(1957年上期まで) (11月15日)自由党と日本民主党が合同し、自由民主党(自民党)結成(いわゆる55年体制) | |
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1956(84歳)[昭和31年] 英国のスエズ出兵とソ連のハンガリー干渉(1956.10.23)を強く非難 英国下院において、世界政府協会主催のラッセルのための晩餐会が開かれる。
Portraits from Memory,and Other Essays;及び Logic and Knowledge; Essays 出版 |
(2月26日)フルシチョフ第一書記、ソ連共産党20回大会秘密会でスターリン批判→(6月4日)米国務省、内容を発表 (5月2日)毛主席、中国最高国務会議で、中国共産党と民主諸党派間の「長期共存 相互監督」を提唱 |
(10月19日)モスクワで、日ソ国交回復に関する共同宣言 (12月18日)国連総会、日本の国連加盟案を全会一致で可決 | |
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1957(85歳)[昭和32年] 7.7 - 7.10: カナダの寒村パグウォッシュにおいて、第一回パグウォッシュ会議(Cyrus Eaton :サイラス イートンの財政的援助):ラッセルは健康を損ねて欠席。10ケ国から22名、日本からは(湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩男)出席 フルシチョフとアイゼンハウアーに公開書簡を送り、米ソ巨頭会談を呼びかける。 英国における哲学の傾向を批判 ユネスコより、科学的知識普及の功績で Kalinga 賞を授賞 Understanding History and Other Essays;及び, Why I am not a Christian, and other related subjects 出版 A.Wood: Passionate Sceptic; B.Russell 出版 George Gilbert Murray(1866.1.2〜1957.5.20)没、10月には A. Wood 没 |
5月15日 英国,中部太平洋クリスマス島で水爆実験(3番目の水爆保有国となる) 10月、ソ連、スプートニク打上げ成功 | 「なべ底不況」(1957年下期〜1958年下期) | |
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1958(86歳)[昭和33年] 1月、CND(Campaign for Nuclear Disarmament)発足、初代総裁となる。(議長は,聖職者コリンズ) 2月17日、Westminster の Central Hall でCND創立大会(10,000名を越える参加者) 第2回パグウォッシュ会議(オーストリアで開催)に出席 9月、第3回パグウォッシュ会議に出席:19ケ国から70名出席、ウィーン宣言出される。 The Vital Letters of Russell, Khrushcev, Dulles 出版 G. E. Moore(1873.11.4〜1958.10.24)没 ウィトゲンシュタインの『青色の本』出版される。 |
1月、米国も人工衛星の打ち上げに成功 | (11月27日)皇太子明仁と正田美智子の婚約発表 | |
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1959(87歳)[昭和34年] Edith Russell の家政婦宛の手紙(4月6日付)によると、ラッセルはのどに障害があり、流動食しかとれない状態とのこと。また、K. Blackwell 氏によると、晩年の12年間は流動食しかとれなくなった由。 Common Sense and Nuclear Warfare 及び My Philosophical Development 出版 6月頃?、日高一輝氏、ヨーロッパに渡り、ラッセルの側近の1人として活動する。(1962年春まで) 朝日新聞がラッセルを日本に招待するプランは実現出来ず。 |
(1月1日)カストロ指揮のキューバ革命軍、パチスタ政権を打倒(米国、新政権を承認/2月16日、カストロ、首相に就任) (9月30日)フルシチョフ首相、中国を訪問し毛沢東と会談(意見あわず、中ソの意見対立激化) | 「岩戸景気」(1959年下期〜1960年下期) | |
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1960(88歳)[昭和35年] 7月末、初めて Ralph Schoenman(当時24歳)が訪ねてくる。 CND総裁を辞し、Committee of Hundred (百人委員会)を組織 9月24日、トラファルガー広場で演説 ヨーロッパ文化の振興に貢献した業績により、デンマークより Soning 賞
B. Russell Speaks His Mind 出版 |
ソ連、対中国経済技術援助停止: 中国「自力更正」へ → 中ソ対立に発展 (7月9日)フルシチョフ首相、キューバへの干渉に対しては、ロケットでキューバを支援すると米国に警告 (7月20日)米国、潜水艦からのポラリスミサイル水中発射に成功 中ソ国境紛争起こる (11月8日)ケネディ(民主党)、米国大統領に当選 (12月20日)南ベトナム民族解放戦線結成 |
(6月23日)新安保条約批准書交換、発効(岸首相、閣議で退陣の意思発表) (7月19日)池田内閣成立 (12月27日)国民所得倍増計画を閣議で決定 | |
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1961(89歳)[昭和36年] 百人委員会を結成し、委員長となる。 2月18日、英国の核政策に抗議するトラファルガー広場における2万人の大集会 9月、百人委員会、国防省前に座り込み 9月12日、2ケ月の懲役の判決(後に1週間に減刑) 9月24日、トラファルガー広場で「市民不服従」の大集会(10.29も?) 11月、ブリクストン刑務所付属病院に一週間拘束される。 12月9日、英国全土の核兵器基地と米軍基地への5万人の抗議デモ Fact and Fiction; Has Man a Fututre? 及び The Basic Writings of Bertrand Russell 出版 |
(4月12日)ガガーリン、地球一周飛行に成功 (5月16日)韓国で軍事クーデタ(親米・反共を宣言。政治活動を禁止) | (4月19日)ライシャワー、駐日大使として着任 | |
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1962(90歳)[昭和37年] 4月23日、米国に核実験不再開要請 5月18日、90回目の誕生日 5月19日、ロンドンのロイヤル・フェステバル・ホールにおいて、ラッセル生誕90年記念コンサート開催 7月、核と軍縮問題についてウタント国連事務総長と会談 10.25〜10.26、キューバ危機:ケネディ大統領とフルシチョフ首相に電報を送って調停に尽力 Niels H. D. Bohr(1885.10.7〜1962.11.18)没 George Macauley Trevelyan(1876.2.16〜1962.7.21) |
(2月20日)米国初の人間衛星フレンドシップ7号打ち上げに成功 (7月11日)米テルスター1号、欧米間のテレビ宇宙中継に成功 (10月22日)キューバ危機 中印国境紛争 | (5月7日)第1回科学者京都会議開催 | |
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1963(91歳)[昭和38年] 百人委員会解散 8月27日、全米人種会議への声明 ベトナム反戦活動始める。 9月29日、Bertrand Russell Peace Foundation(バートランド・ラッセル平和財団)及び、Atlantic Peace Foundation(大西洋平和財団)創設 Unarmed Victory 出版 |
8月、部分的核実験停止条約(地下実験は野放し) 10月、中国が始めての核実験 11月22日、ダラスでケネディ大統領暗殺 | 力道山、12月8日にヤクザに刺され、12月15日死亡 | |
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1964(92歳)[昭和39年] R. シェーマンや C. ファーレイをベトナムに派遣
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フルシチョフ首相辞任 7月にジョンソン大統領の下で公民権法(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)制定される。 10月12日、ソ連、3人乗衛星船ウォストーク1号打ち上げに成功 10月16日、英国総選挙、労働党勝利 10月16日、中国初の核実験 UNCTAD 第1回ジュネーブ総会 |
(4月)日本,OECDに加盟 (10月)東京オリンピック | |
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1965(93歳)[昭和40年] 10月14日、ロンドンにおける「核兵器撤廃青年運動」の集会で、労働党の党員証を破り捨てる。 On the Philosophy of Science 出版 ラッセル平和財団日本協力委員会(吉野源三郎委員長)設立 日本バートランドラッセル協会、1965年1月20日、早大大隈会館にて設立総会 T. S. Eliot(1888.9.26-1965.1.4)没 |
(2月7日)米国、北ベトナム爆撃開始 (4月17日)ワシントンで1万人の反戦デモ 米国B52爆撃機30機、沖縄から発信してサイゴン南東を爆撃 |
(4月20日)大内兵衛、宮沢俊義、谷川徹三ら学者文化人、首相に北爆停止などベトナム問題の解決に積極的行動をとるよう要望 (6月22日)日韓基本条約に調印 | |
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1966(94歳)[昭和41年] ★年齢関係記事 6月4日、ロンドンのマハトマ・ガンジー・ホールで Vietnam Solidality Campaign を組織し、ヴェトナム戦争犯罪国際裁判の開廷準備を決議 長崎大学の岩松繁俊氏、9月11日,自宅に「バートランド ラッセル平和財団日本資料センター」を設立し、同センター資料 No.1を発行 |
(2月3日)ソ連の無人月探査機ルナ9号、月の「あらしの大洋」に軟着陸 (8月18日)北京天安門広場で、紅衛兵ら「文化大革命勝利祝賀」の120万人大集会開催(11月26日までに8回開催) | (9月18日〜10月16日)サルトルとボーヴォワール来日(「知識人」のあり方に関し講演) | |
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1967(95歳)[昭和42年] 5.2〜5.10:第一回国際戦争犯罪法廷(いわゆるラッセル法廷/ストックフォルムにて) 11.20〜12.1:第二回ラッセル法廷(コペンハーゲンにて)
War Crimes in Vietnam 及び The Autobiography of B. Russell、v.1 出版 A Detailed Catalogue of B. Russell 出版 |
(6月)中国、初めての水爆実験 (6月5日)アラブ諸国とイスラエル間で戦闘が起こり、中東戦争勃発 (7月23日)米国デトロイトで、史上最大の黒人暴動 (10月16日)米国30都市でベトナム反戦デモ (10月21日、ワシントンで10万人の反戦集会) |
(6月6日)閣議で「資本自由化」基本方針決定 (6月28日)東京法廷(ラッセル法廷の日本版)開廷 国民総生産1140億ドルで資本主義国中第3位となる。 | |
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1968(96歳)[昭和43年] 3月28日、ラッセル関係文書、カナダの McMaster 大学に売却(ラッセルの蔵書は、Edith が亡くなってからマクマスターへ) 8月20日、ソ連、ポーランド、東独、ブルガリア、ハンガリーの軍隊、チェコ侵入 → ラッセル、ソ連を非難するとともに、全世界の共産主義者及び社会主義者にアピール Autobiography、v.2;及び The Art of Philosophizing and Other Essays 出版 |
核拡散防止条約 (3月16日)南ベトナムのソンミ村で米軍が民間人を大量虐殺 (4月4日)マーティン ルーサー キング牧師暗殺 (6月5日)ロバート ケネディ議員暗殺 |
(6月15日)東大医学部学生が安田講堂を占拠 (9月7日)東大医学部学生が安田講堂を占拠 (10月17日)川端康成ノーベル文学賞受賞 | |
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1969(97歳)[昭和44年] ★年齢関係記事 2.1〜2.2:チェコスロバキアに関するストックフォルム会議 5月:同上、ロンドン会議 Autobiography,v.3、及び Dear Bertrand Russell 出版 | (7月20日)米国、人類初の月面着陸に成功 | (6月10日)経済企画庁、1968年の日本のGNPは西側諸国で第2位と発表 | |
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★1970(B.ラッセル逝去) 1872年へ 1970(数えで98歳)[昭和45年] 2月2日、プラス・ペンリンにて死亡(約97歳10ケ月) |
(4月10日)ビートルズの解散を発表 (同年死亡者)1月5日:マックス=ボルン/9月14日:ルドルフ=カルナップ ジャンボジェット、ニューヨーク=ロンドン間就航 |
(3月31日)日本で始めての航空機ハイジャック「日航よど号事件」起こる (3月14日〜9月13日)大阪万博開催 (6月23日)日米安全保障条約改定 (11月25日)三島由紀夫割腹自殺 |
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[ラッセルの妻] 1) Alys Pearsal Smith,1867〜1951. 2) Dora Black,1894.04.03〜1986.07.02? 3) Patricia Spence, 4) Edith Finch,1900.11.05〜1978.01.01 [子供]John と Kate は Dora との間に出来た子供 Conrad は Patricia との間の子供 1) John Conrad Russell, 1921.11.16〜1987 * 第4代ラッセル伯爵 2) Katharine Russell(Katharine Tait),1923.12.29〜 * 四男一女あり。Tait 氏と結婚し、後に離婚 3) Conrad Russell, 1937〜2004.10.14 * 第5代ラッセル伯爵。ケンブリッジ大教授(妻も2003年死亡/2人の子供あり) [孫] * Lucy Russell: 長男ジョンの三女、1975年04月11日,焼身自殺 |