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『ラッセル協会会報』n.8(1967年7月)pp.10 & 18. *Guardian, Feb. 17, 1967掲載(訳者の小野修氏は当時ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ留学中) 1 ラッセル卿は会話を強引にベトナム問題にひき込んでくる。それも、プラス・ペンリンから、グラスリン河口を見遙かす息をのむような美しい眺めを居ながらにして満喫しながらやってのけるのである。というのも、多分、彼は今や耳が遠くなっており、はっきりと聞きとれない質問は皆自分の当面の関心事についてのことだときめてかかるためである(あろう)。彼は多忙である。今、「自叙伝」の第二巻を書き終えようとしているが、この作業さえも、アメリカ人たちが極東でしていることを知らせて我々を驚かせようという気持に駆りたてられて、後廻しになりがちである。彼は(1967年)4月にパリで開かれる戦争犯罪裁判をはっきりと次のような口調で説明する。彼に言わせると、「アメリカ人たちは、あらゆる種類のいまわしい武器をべトナムで使用している」とのことである。彼は何か栂指責め器か何かのことをつぶやくが、本気に受けとってよいのか、はっきりしない。 2 悪と思われるものと闘うことは、今日まで彼の驚くべき、また時には孤独な執念であった。ある人々が信ずるように、その執念は時折彼の政治的、社会的判断を左右したのであった。即ち、その理由の故に彼は向う見ずで幼稚な運動にすら名を貸すことを承服させられてきた。その為に入獄もしたし、大学の席を追われもした。いさぎよく道路に坐り込みをし、他の人が行進し弁舌をふるうあいだ、挨の中をおとなしく連ばれて行きもした。彼は米国政府を単に誹謗するばかりでなかった。彼は一人の入獄中の学生の運命のためにソ連政府を相手どって交渉をしたし、また別の学生の投獄のために、東ドイツ政府に向って平和勲章を投げ返しもした。1948年、リース記念講演を行った際、モスクワ放送は、それを「狼の遠吠え」にたとえたのであった。彼は決して一方だけにかたよった人間ではなかった。 彼はいつも敵をぴしゃりとやっつける。「コンゴでやっているベルギーのやりくちは、皆、考えられぬほど恥知らずのことだし、熱心なキリスト教徒がこの不正を支援しているのだからね。」 彼は自分自身のおかした明らかな撞着について問われても、それを受け流し、自分は、アメリカに積極的に出るようにすすめ、ソ連を原爆で攻撃するようにすすめた憶えはないという。「あれは当時としては論じうる見解だった。なぜなら、そうすることによって、ソ連を降参させることもできただろうから。自分もそこまで言えば言えたのだった。」 彼はいつもながらの教育観を今日的状況にもち出してくる。「英国における哲学教育は嘆かわしい状況だ。しかしほかの国ではよくなりつつある。」 彼はこの点についてはそれ以上語ろうとしない。静かすぎてかえって落着かない池に石を落すように彼はぽつりと語った。彼はすぐに当面の関心事に戻ってくる。4月、もし彼の健康が許せば(「そして相手方にとっては、とても不快だろうけど」)彼は裁判のためにパリに行くであろう。彼の副官のラルフ・シェーンマン氏は極東で問題状況を調査し、今、帰路についている。ラッセル卿は、彼がいつ帰国するか定かではない。「彼は自分のやっていることの全部は知らせてくれないのだ。」 3 中国問題はどうであろうか。「中国人が今の怒りに狂った気分にいる限り、扱いにくいのではないか。数年前、彼らが文明人だったころなら、国連に参加させることで処理できただろうけど、今はとても文明人とはいえない。むろん、またもとに戻るだろうとは思う。困った事には、その頃になれば、今度は彼らと戦争をするようになるに違いない。たとえ国際的な平和交渉の方法に頼ってもだよ」(松下注:1966〜1977の間、中国全土で「文化大革命」の嵐が猛威をふるい、多くの者が粛正されたと言われている。/ラッセルは中国の「文化大革命」を批判しておらず「片手落ちだ」という人もいるが、ラッセルはどの国であれ「是々非々」であり、批判はあたっていない。) しかし、これはプラス・ペンリンの高い丘からみた世界の、実在する恐ろしい悩みではない。「問題はすべての人たちが、敵側へ損害を与える方が自分側への利益になることをするより役に立つと考えていることなのだ。そのために政治は今日ますます正気でなくなっている。」(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.) これがバートランド・ラッセルの有限な地平線上に垂れ込めている雲であり、ファーレー氏すらもそれを考えるとき暗然となるのである。この雲は哲学者の詭弁などよりはるかに大きい存在なのである。(終) |