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『ラッセル協会会報』n.15(1970年5月)p.17. * 松下正寿氏(1901/04/14〜1986/12/24)は当時、参議院議員。元立教大学総長。 バートランド・ラッセルは無神論者であると言われている。一九二七年出版された彼の講演「なぜ私はキリスト教徒でないか(Why I am not a Christian?)」その他、彼の宗教論を読むと当然無神論者という結論がでてくる。ラッセルは教会の歴史的過誤を痛烈に非難するだけではなく、教会の基本的教義に挑戦する。またラッセルは宗教の定義を「自分自身を楽しくする目的をもって、ナンセンスの集合を信じようとする欲求」であると放言している。ところで彼自身が自分をどう思っていたかというに彼は「私が無神論者であるか、不可知論者であるか、私は確かではない。だから時としては前者になり、時としては後者になる」と言っている。私はこれが彼の本音だと思う。ところでどっちに重点がおかれていたかというに若い頃、即ちキリスト教会やキリスト教の教義が権威を持っていた頃には彼の無神論が目立ち、晩年(この晩年が実に長く続いた)になってからは不可知論の方が強く現われている。ラッセル自身にとっては実はどっちでもよかったのではあるまいか。ラッセル自身にとってどっちでもよかったのであるから、世間が彼の思想をどう思っても大した問題ではないはずである。 欧米キリスト教国においても、日本のような非キリスト教国においても、自らをキリスト教徒であると思っている人たちの何パーセソトがバートランド・ラッセルとはっきり違った信念または信仰を持っているか。慣習的に宗教行事に従事している点は違うであろう。神を信じていると漠然と考えている点でも違うであろう。 しかしそれで「神を信じている」ことになるか? 神を信じようと信じまいと大した違いはないと信じ、そういう信念の下に生活している人は「神を信じている」とは言えない。神を信じていると思い、神を信ずることが大事なことだと考えている人でも、その考えが日常生活の支配的動機になっていない限り「神を信じている」とはいえない。神を信じていると思い、その人の日常生活がそういう考え方に強く支配されている人でも必ず「神を信じている」とは断定できない。教会の仕事と自分の衣食とが依存関係にある場合には信じているのは「神」よりは生活の安定であるという疑いが濃厚である。先祖代々「神を信ずる」ことが慣習になっているから今さら違った信じ方をしたり、違った生活様式をとるのは面倒であるから従来通りの生活をしている人は「神」を信じているというよりは慣習を信じているのである。そういう種類の人を除き、真から底から「神を信じ」、その信仰が生活を支配しているという場合は極めて例外であろう。ところがこの例外的場合ですら分析して見ると多少あやしくなる。なるほど彼または彼女は何物かを強く信じ、その信じ方が生活を強く支配しているという意味において「神を信じている」と一応見られるであろう。しかし実際問題としてそのいう人たちの大部分は狂信的で、迷信的で、他の批判に耳を貸さない。何故耳を貸さないかというに、万一耳を貸し、自分自身の信仰なり信念なりがぐらついたら大変だからである。だから彼または彼女は自分の信仰を固守し、他を排斥する。これは物質的生活の安定には直接の関係はないが精神生活の安定とは大いに関係がある。彼または彼女の場合は「神を信じている」と思っていることは事実であるとしても、その事実は実は妄想であって真に欲しているのは精神生活の安定ではないか。精神生活の安定は物質生活の安定と同様人間自然の欲求であるから悪いと言って非難してはかわいそうである。 バートランド・ラッセルにとってはいいかげんな信じ方をするよりは何も信じない方がましであった。彼は信ずることを信じなかった。彼は信じて「安神」するよりも信じないで考えたかった。彼は一生考え、考え、考え貫いて天寿を全うした。ラッセルを無神論者と断定するのは結構である。その断定に非難が含まれていなければ私は同感である。非難が含まれていたら私は、「ではあなたは無神論者でないか」と反問したい。そして私はこの反問に正直に答え得る人の数は極めて少数であると思う。(元立大総長・参議員) |