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日本バートランド・ラッセル協会設立発起人索引


(1922-1989)
市井三郎氏
略歴
市井三郎ホームページ
  1. バートランド・ラッセル−核時代のモラル」(1963.08.04)
  2. ラッセル哲学の基調」(1966.02)
  3. ラッセルと日本」(1970.02.23)
  4. ラッセルの価値観」(1970.05)
  5. ラッセルと自由人の信仰」(1973.09)
  6. ラッセル協会、解散すべし」(1975.05)
  7. ラッセル随想」(1980.03)

「病気がちな市井三郎氏」(『理想』1980年1月号より)

『理想』誌新年号のためにご依頼を受けましたが、左の理由で辞退せざるを得ないのが残念です。先月より、小生、関東労災病院へ入院しており、持病の慢性腎炎以外に、肝炎、糖尿、眼底出血、とやっかいな病気が併発し、来月まで入院していなければならず、書斎(蔵書)を使わねば今度のご依頼には答えられませんので、悪しからずご了承ください。


『朝日新聞』1985年2月26日付夕刊「新人国記1985:大阪府n.25」より
(久野収氏の紹介文省略)・・・。
の画像  久野に近い立場の哲学者・市井三郎(62歳)は(大阪府)南区の生まれ。都島工業、大阪高校を経て阪大理学部のとき、海軍の舞鶴火薬廠に動員され、人間魚雷に装備する火薬の改良を担当した。同世代の特攻隊員を死なせる兵器を研究した苦悩から、戦後、哲学の道へ入った。
 イギリス留学後,かつて人間魚雷に乗っていた哲学者・上山春平の後任として愛知学芸大学(現・愛知教育大学)に赴任した。この頃、5年間にわたって雑誌『思想の科学』を編集。大学がある岡崎市と編集部がある東京との間を、毎月1回、オートバイで往復した。時速110kmで突っ走ると、エンジンが真っ赤になった。取り締まりはほとんどなかった。現在は成蹊大学教授。オートバイは四輪の車に換えた。夫のスピード出しすぎを心配した妻が免許をとったのでだんだん運転席に座れなくなってきた。
 本業では、転換期に決定的な役割を果たす「キーパーソン」を重視する歴史観を提唱した。「不条理な苦痛を減らすこと」を歴史の進歩ととらえている。「キーパーソンが重要といっても、理念を掲げる人と実行する人の両方がそろわないとうまくいかない。明治維新は、たまたま両方がそろったので、日本の近代化の起点となった。