【梁上の君子】
陣寔が太丘県の県令をしていた頃のこと。ある時、飢饉で大いに民衆が苦しみ中には食べるために罪を犯す者も出た。
陣寔の家にも泥棒が入り、家人の寝静まるのを待って家内を物色しようと梁の上に身を潜めていた。彼はそれに気づき、子や孫を呼び集めて威儀を正して一場の訓話をした。
「それ人は自ら勉ざるべからず。不善の人も必ずしも本より悪ならず。習いて以て性善なり、遂に此処に至る。梁上の君子も是なり・・・」
梁の上に隠れていた泥棒は、この訓話を聞きびっくりして梁から飛び下り罰を受けようとしたが、陣寔は泥棒を諭し食料、衣服を与えて許したという。
このエピソードが有名になって泥棒の事を「梁上の君子」と呼ぶようになった。
【蒼天すでに死す、黄天立つべし】
後漢の十二代皇帝・霊帝の世に張角が率いる黄巾党が各地を荒らし回った。だが、頽廃と内争で乱脈を極めていた中央政府は、討伐の兵を出す余裕もなかった。
黄巾党は瞬く間に各地に勢力を広げた。髪を黄色の布で包んで全軍の旗も黄色を用いた黄巾の徒党は、総大将・張角がつくった「蒼天すでに死す・・・」の歌を歌い、全国に流行らせた。
この歌は中国の古代思想の一つ「五行説」を土台にしていた。五行説は万物が木、火、土、金、水という五つの要素から成り立ち、全ての事物には五要素のいずれかが備わっていると説いている。
そしてこの時代、五行説は王朝の交代を説明する有力な根拠にもなっていた。例えば「木の王朝から火の王朝へ、そして次は土の王朝が天下を支配する」という思想だった。
後漢の時代、漢は火の王朝だとされていた。したがって次に立つ王朝は土の性格を持つものということになる。
張角が「・・・黄天立つべし」と歌い、黄色い旗を立てたのも中国の大地の黄土を象徴して漢帝国と交代する意志を表明したものだった。
ちなみに五行説は三国にも深い影響を与えている。曹丕が後漢の献帝を廃して魏を建国したときは年号に黄初を使っているし、呉の孫権も皇帝を称して年号を黄武と定めた。
蜀は劉備が漢の景帝の玄孫、中山王の後裔と唱えていたところから漢王朝再興を大義名分に立て、国名も漢を使い、年号も黄の文字を使わず章武を採用した。
【月旦評】
後漢の末、洛陽の都に許劭という人物がいた。従兄弟の許靖と共に人間批評家として知られ、月の初めに自宅に多くの人を集めて人物批評会を開いていた。
許劭らの評論が適切なところから、この会は当時の名士のランクづけに大きな影響を与えていた。
後年、魏の創始者となる曹操が許劭に「太平の世なら有能な官僚だが、乱世だったら姦雄となる」と言われたのは有名な話(
「治世の能臣、乱世の姦雄」
参照)。
月旦は毎月の一日という意味。後漢の許劭伝にこの話が載っているところから、後世、人物批評、品定めを月旦評というようになった。
【登竜門】
黄河が狭い狭谷を抜けて急に大河となる韓城県付近の急流、この関門を「竜門」と呼び、下流から川を遡ってきた鯉が竜門を登れば、竜に変身するという言い伝えがあった。
後漢の重臣に李膺という人物がいた。彼は綱紀の緩みきった朝廷にあって、ただ一人高潔を保っていた。心ある人々はその知遇を得ようとしたが、それは容易なことではなかった。そして幸いに知遇を得ることが出来た者は竜門を登ったと言われたのである。
この故事が後に出世の関門という意味での登竜門として使われるようになった。
【治世の能臣、乱世の姦雄】
魏の太祖となった曹操の若かりし日の逸話である。後漢の末、人物評で評判の高い許劭という人間研究家がいた。
ある時、友人の橋玄という男が曹操に「君はまだ無名の一将校にすぎないが、将来何事か成し遂げる人物のような気がする。ひとつ許劭に鑑別してもらったらどうだろうか」と勧めた。
乗り気になった曹操は一日、許劭の家を訪ねた。客間には評を乞う大勢の客や弟子が詰めかけていた。曹操は自分の順番が来ると名乗りを上げ、忌憚のない批評を求めた。
だが、許劭はじろりと一瞥しただけでそっぽを向いてしまった。おさまらない曹操は「当代一の人間研究家といわれている貴方でも私ほどの大才を見たことがないのでしょう。それで批評が出来ないというわけですな」と噛みついた。
許劭は曹操の悪たれに「何を言うか。貴様なんぞは治世の能臣、乱世の姦雄だ」と答えた。世の治まった平和な時代なら有能な役人だが、世が乱れた戦時には奸智に長けた英雄になるという評価は穏やかではない。しかし曹操は気に入ったようだった。
「乱世の姦雄、大いに結構」と満足そうに大笑いした。
【矛を逆しまにして柄を相手に与える】
後漢の霊帝は臨終にあたって王美人との間にもうけた子供・協を即位させようとした。一方、大将軍の何進は霊帝の皇后になっていた妹が生んだ弁を後継者に推挙。霊帝の死後、協を廃して弁を皇帝に擁立した。
当時、国政を牛耳っていた宦官の張譲らは密かに何進を除く計画を立てていた。それを知った何進は袁紹に対策を尋ねた。
袁紹は「地方の豪族に兵を率いて上洛するよう呼びかければ、宦官共も震え上がり手も足も出せないでしょう」と言った。
だが、傍らでこの話を聞いていた陳琳が「これまさしく矛を逆しまにして柄を相手に与えるもの」と反対した。
動向さだかならぬ豪族達を都へ集めるなど、反乱の機会を与えるようだという意味だが、何進は聞かず宦官に暗殺され、群雄割拠のきっかけを作ってしまった。
【狼を除いて虎を得る】
曹操が献帝を擁して董卓討伐の軍を起こしたときの話。同盟軍は袁紹を盟主として、洛陽攻めの先陣に長沙の太守・孫堅を抜擢した。
孫堅は兵を率いてシ水関を攻めたが、董卓軍の守りは固く長期戦の状態になった。孫堅は兵糧を補充するため糧秣を司る袁術に使いを出した。
この時、袁術の参謀が「孫堅は江東の虎と言われている男です。彼が洛陽を占領して董卓を殺せば、狼を除いて虎を太らせるようなものでしょう」と進言した。
袁術がこの意見を入れて兵糧を送らなかったため、孫堅はシ水関の戦いに敗戦した。が、虎は一年後、洛陽を占領、その牙を見せた。
洛陽に一番乗りをした孫堅は、宮殿の古井戸に沈んでいた伝国の玉璽を見つけ、密かに江東へ持ち帰った。袁術の家臣が見抜いたように孫堅は天下を狙う虎だったといえよう。
【郭公が鵲の巣を奪う】
曹操に敗れた袁熙・袁尚兄弟は数千の兵を率いて遼東の太守・公孫康を頼った。この頃、公孫康も曹操と対立していたので、とりあえずその庇護を受け、機会があれば公孫康を殺し領土を乗っ取るつもりだった。
一方、公孫康の方では二人の受け入れについて意見が分かれていた。家臣の多くは「曹操がいつ攻めてくるかわからぬから袁兄弟を味方にして手を組んで備えると良い」と言った。
だが、公孫康の叔父・公孫恭は反対してこう言った。
「二人の父・袁紹は生前たびたび遼東を取ろうと隙をうかがっていた。兄弟が我らの所へ来たのは、郭公が鵲の巣を奪うように遼東を乗っ取るつもりに違いない。この際、城内に誘い込んで殺してしまうべきだ」
公孫恭は袁兄弟の下心を見抜いたいたわけで、公孫康も叔父の意見に従い、袁兄弟を殺し、首を曹操の元へ送った。
「郭公・・・」は中国に古くから伝わる言い伝えで、カッコウはカササギが巣を作るのを待っていて、それを奪い取ると信じられていた。
【良禽は木を択ぶ】
建安元年(一九六年)曹操は都を洛陽から許に移した。その途中、楊奉と韓センの二人が献帝を奪い返そうと襲ってきた。
曹操が戦況を見守っていると敵陣に見事な武者ぶりの将がいた。除晃と名乗り曹操麾下の豪傑・許チョと一騎打ちをしても五分の戦いぶりだった。
曹操は除晃を味方にしたくなり部下にはかった。席上、満寵が「私は除晃と面識があります。彼の心をとらえてみましょう」とその大役を買って出た。
雑兵に変装した満寵は敵陣に忍び込んで除晃に会い「良禽は気を択んですみ、賢臣は主を択んで仕える」と説得した。
除晃はこの説得に応じて曹操に仕え、魏の勇将として活躍する。以後、「良禽・・・」の一句も長く人々に愛用された。
【髀肉の嘆】
建安六年(二〇一年)、劉備は汝南で曹操と一戦して敗れ、荊州の劉表の元に身を寄せた。劉表の宴に招かれた劉備は、厠で己の髀(内腿)にたっぷりと贅肉がついているのに気付いた。
劉表は座に戻った劉備が愁然としているのをいぶかしんでわけを尋ねた。劉備はふっと溜息をついてこう答えた。
「私は、こちらへお世話になるまで戦場を駆けめぐっておりましたゆえ、腿に肉がつくことなどありませんでした。ところが、ここしばらく馬に乗ることもなく、すっかり内腿に贅肉がついてしまいました。月日は矢のように過ぎて老いが近づいているというのに、成すところなく貴方のお世話になっている己の不甲斐なさを嘆いていたのです」
蜀志・先主伝の中のエピソードだが、戦功をたてたり力量を発揮する機会に恵まれない無念さを表す。
【隴を得て蜀を望む】
後漢書の岑彰伝にある言葉。後漢の光武帝の勅書の中に「人は足るを知らざるを苦しむ。すでに隴を得てまた蜀を望む」とある。
隴も蜀も中国の国名で光武帝は「隴を平定したら、蜀も欲しくなった」と言い、この勅書を出して蜀に攻め入り、蜀の支配者、公孫述を滅ぼして望みを達した。後世の人は「一つ望みが叶うと、さらにその上が望まれる」という意味で、人間の欲望に限りのない例えとして、この言葉を使うようになった。
だが魏の曹操は光武帝とは逆の形でこの言葉を使った。三国時代初期、曹操は漢中に攻め込みこれを手中に収めた。
漢中の隣は蜀の国である。麾下の各将は蜀攻略を進言した。曹操は諸将の勧めを断り「すでに隴を得る。また蜀を得んと欲せんや」と答えた。
【英雄は英雄を知る】
建安元年(一九六年)、献帝を擁して都を許に移した曹操はこの地一帯に君臨し、専横な振る舞いが目立つようになってきた。
宮廷の高官の間には密かに曹操暗殺計画が立てられていた。その実行責任者に押されていたのが、客分格で曹操の元に身を寄せていた劉備だった。
実行の機会を狙っていた劉備の所へ、ある日曹操から宴会の招きがきた。何食わぬ顔で宴席に連なった劉備に、曹操がこう語りかけた。
「今天下の英雄は、ただ使君(貴方)と操(曹操のこと)とのみ。本初(袁術の字)の徒は救うるに足らず」
劉備はぎくりとしたが、折からすさまじい雷鳴に耳を塞いでテーブルに突っ伏した。
曹操はそんな劉備の姿を疑わしげに眺めていたが、劉備の「私は雷が嫌いで、とんだ醜態をお目にかけてしまいました」との言葉に大笑いした。
呂布に徐州を追われて曹操の厄介になっていた劉備だったが、人望と情義の人として知られていた。曹操は劉備の中に潜む英雄の資質を見抜いていたのだった。このエピソードが「英雄は英雄を知る」の一句の始まりだった。
【臥竜・鳳雛】
臥竜は、まだ雲雨を得ないため天に昇れず地に隠れ潜んで寝ている竜のこと。鳳雛は、鳳凰の雛のことで将来大物になる素質を備えた若者の例え。
いずれもまだ志を得ないで民間に隠れている英雄を意味する。蜀志・諸葛亮伝に「諸葛孔明 臥竜也」と記されている。ちなみに鳳雛は孔明と共に劉備に軍師として仕えたホウ統を指している。伏竜・鳳雛と書かれるケースもある。
現在でも野に隠れて世に知られていない大人物や逸材を表す言葉として使われている。
【三顧の礼】
劉備は参謀の徐庶が新野を去るにあたって、別れ際に残した「諸葛孔明こそ当代きっての大才で比べる者なき大軍師です」との言葉を信じ、隆中の草庵に潜む孔明を訪ねた。
しかし、建安十二年秋、そして初冬と二度、孔明の庵に足を運んだが、いずれも会えずに終わった。
晩冬のある日、劉備は「三度、孔明を訪ねよう」と大雪をおして隆中へ向かった。幸い孔明は庵に戻っていたが、草堂で午睡をしていた。劉備は階下にたたずみ、孔明の目覚めを待った。
午睡から覚めた孔明は「失礼しました」と、謹んで劉備を迎え入れ、その求めに応え、幕下に加わることを約した。この故事から、その後、目上の人物が礼を尽くして人に仕事を頼む際に使われる慣用句となった。
【水魚の交わり】
孔明を軍師に迎えた劉備は彼の力量に深い信頼を抱き、常に側近に置いて何事についてもその判断を仰いだ。劉備が若輩の孔明を譜代の臣の上席に据えて師の礼をとるため、関羽と張飛が「いかに大切な軍師といえどもほどがあります。孔明にどれほどの才能があるのですか」と不平を漏らした。
劉備はこれに答えて「わしが孔明を得たのは魚が水を得たようなものだ」と言った。蜀志・諸葛亮伝にも「孤(私)が孔明を得たるは魚が水を得たようなもの。諸君、再び言う事なかれ」とあり、以来、魚と水のような関係、親密で離れがたい友情や交際の例えに使われている。
【白眉】
劉備に仕えた馬一族は襄陽郡宜城の出で五人兄弟だった。いずれも文武両道に優れていたが、中でも長兄の馬良は群を抜く逸材として知られていた。蜀に仕えて劉備に愛され武将として将来を嘱望されていたが、夷陵の合戦で陣没した。
蜀志・馬良伝の「馬氏の兄弟五人は皆、才名が高かったが、特に眉毛が白毛だった長兄の馬良が最も優秀だった」という記事から、同類の中で一番傑出している人物や物を指す熟語として使われるようになった。
【士、別れて三日、刮目してあい侍す】
孫権の幕僚の中に呂蒙という人物がいた。若いときは勇猛一点張りで字も読めない武将だった。孫権はそんな呂蒙にいつも「今は一騎駆けの武者でも済むが、いずれは重要な地位に付く身だ。学問を怠らず己を磨かなければいけない。それも主君への忠義だ」と説いていた。
学を修め自分を磨くのが忠だと悟った呂蒙は、以来かかさず読書に励み学者も及ばぬほどの知識を身につけた。
ある時、呉の重臣・魚粛が呂蒙の任地を訪れた。酒を酌み交わしながら議論をしてみると、博識をもって知られているはずの魚粛がたじたじとなるほど呂蒙は成長していた。
「武力だけの男だと思っていたが、いつの間にか文武両道の立派な将軍になった。いや、たいしたものだ」と感服する魚粛に呂蒙はこう言った。
「士たる者、三日に会わなければ、よくよく目をこすって注意して見なければいけませんよ」
呂蒙の言葉はその後、名言として今日まで長く引用されている。
【後人、再び青嚢を見る事なし】
三国時代に神医とうたわれた華佗という名医がいた。内科、外科を問わず、あらゆる病気も彼の手にかかると薄紙を剥ぐようにみるみる快癒した。
晩年、慢性の頭痛に悩まされていた曹操は、臣下の勧めで華佗を召しだした。
診察をした華佗は「病根が脳中にあるから鋭い刃物で頭を切り開かねばなりません」と言った。
これを聞いた曹操は怒って「貴様は関羽と親しかったが、さては関羽の仇を討つためわしを殺そうとするつもりだな」と華佗を獄に繋いだ。
入獄した華佗の面倒を何くれとなく見た獄卒に呉押獄という男がいた。華佗はその恩義に感じ医術の奥義を記した「青嚢」という書を呉に贈った。
呉は華佗が死ぬと獄卒をやめて、その医術を継ごうと決心した。職を辞して家に帰ると妻が青嚢の書を庭で焼いていた。仰天して詰め寄る呉に妻は「貴方がたとえ華佗先生のような名医になっても牢屋で殺されてしまってはなにもなりません」と言い放った。
【危急存亡の秋】
蜀の建興五年(二二七年)、孔明は国力を傾けて魏討伐の兵を挙げた。力が数倍勝る魏に立ち向かうため、兵力はもとより国内の物資全てをかき集めて総力戦だった。
孔明は出陣にあたって成都に残る二十二歳の若い主君・劉禅に有名な「出師の表」を残して中原を目指した。この出師の表の冒頭の文句が危急存亡の秋だった。
蜀志・諸葛亮伝に「今、天下は三分し益州・疲弊せり。これ危急存亡の秋」とある。「出師の表を読んで泣かざる者、男子にあらず」と評価された有名な文章のリードは、後世永く伝えられ「危険が迫って生き延びるか、亡びるかの瀬戸際」の時という意味で常用されている。
【泣いて馬謖を斬る】
魏の太和二年(二二八年)、孔明は魏の前線基地・南安、天水、安定の三郡を攻撃した。先鋒を任された馬謖は街亭に軍を進めたが、孔明の指令に反して街の南側の山に立てこもり水路を断たれて大敗した。
先鋒が壊滅したため蜀軍は撤退を余儀なくされ、中原制覇の好機は失われた。馬謖は「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」と言われた有能な参謀で孔明に愛されていたが、重大な作戦を挫折させた責任は免れない。
孔明は全軍にわびるために、愛弟子の馬謖を涙をふって処刑した。この故事から後世、規律を保つためには、愛する者もやむを得ず処分する意味に使われるようになった。
【白眼視】
阮籍は魏王朝末期の人。竹林の七賢の中心的存在として有名だった。司馬氏の魏王朝乗っ取り計画が進行する中で、身を全うするため酒に溺れたふりをして陰謀に加担させられる危険から逃れた。
司馬政権に批判的だった阮籍は、司馬氏が唱える孝を強調した礼法に反発して、むやみに礼を尊ぶ礼法主義者に会うと白目をむいて素っ気なく対応した。
この阮籍の態度から人を冷たい目で見ること、冷淡に扱うことを白眼視するというようになった。
【死せる孔明、生ける仲達を走らす】
五度にわたる魏討伐戦を戦った蜀の忠臣・孔明も魏の名将・司馬懿仲達の持久戦に阻まれ、二三四年ついに五丈原で病死した。孔明は臨終の床にあって最も信頼する武将の姜維に死後の作戦を授けた。
一夜、北斗七星の一星の光が薄れているのを見た仲達は「孔明、死せり」と総攻撃を開始した。しかし、五丈原のはずれまで来たとき、突然、戦意にあふれた蜀の軍勢が仲達の前に立ちふさがり、反撃に出てきた。
蜀軍の中心には死んだと思っていた孔明が四輪車に乗り、悠然と端座していた。実はかねてから死を覚悟していた孔明が工人に作らせておいた人形だったのだが、仲達は孔明が生きていると思い込み、我を忘れて退却した。
死者が敵軍を敗走に追い込んだ作戦に、世の人は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と孔明の智謀を讃えた。
【破竹の勢い】
魏、蜀、呉の三国鼎立は二六三年、魏が蜀を滅ぼして終止符を打った。その後、魏の重臣・司馬氏が帝位を奪って晋を建国。晋と呉の対立となった。
二八〇年(晋の年号・太康元年)、晋軍は陸路と海路から呉の首都・建業に迫った。呉の軍勢は必死の防戦を試みたが、侵攻をくい止められず長江の重要拠点・武昌も陥落した。
晋の大将軍・杜預はここで全軍に号令した。「呉は抵抗力を失った。後は竹を割るようなものだ。一押しすれば一気に割れてしまう。皆、奮って進め」
晋の軍勢は一挙に建業に殺到し呉はあっけなく滅亡した。この故事から猛然な勢いを「破竹の勢い」と言うようになった。
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