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震災前東京復活大聖堂の屋根形式について

近世ロシアの建築 その2

正会員 ○ 池田 雅史

はじめに

Fig. 1: 竣工当時の東京復活大聖堂

大日本正教本会*1が1891年, 神田駿河台に竣工させた東京復活大聖堂(通称・ニコライ堂)は, 1922年の関東大震災で大きな被害を受け, 岡田信一郎の設計で修理・改修された. その過程で, 八角形の鉄骨ドームが半球形のRC造のものに置き換えられるなど, 特に焼失していた屋根部分が構造・意匠共に著しく改変されたことはよく知られている. しかしその震災前の形態については現在まであまり顧みられて来なかった.
日本における正教会の建築については, 1980年に鈴木が最も多くの作品を網羅し, かつ充実した研究*2を残している. このなかで鈴木は東京復活大聖堂の意匠を主にコンドルの手によるものと推定している. これが以後の研究に引き継がれ, コンドルによる大幅な改作という説が, 今日では一人歩きしている観がある.
本稿は, これとは逆に東京復活大聖堂をロシア建築史上に位置付けようと試みるものである.
この東京復活大聖堂について, 本稿に先立つ一連の報告では原設計者ミハイル・シシュールポフ Mikhail Arefievich Shchurupov の略歴*3および作品*4を紹介してきた. その際, 震災前の同大聖堂と酷似した八角形の鉄骨造ドームを持つ集合住宅がサンクトペテルブルク市内にシシュールポフ作品と近接して現存することを報告した. 先行の報告ではまた, 同じ日本ハリストス正教会教団に属し, 同様に震災で失われた小田原聖神降臨聖堂を紹介した*5. またその設計にもシシュールポフの関与があった可能性を示唆した*6.
本稿では上記のドームに加え, 震災で完全に倒壊した鐘塔の意匠も取り上げ, 東京復活大聖堂の形態的なルーツについてロシア建築史の文脈から考察する.
参考となる同時代ロシア建築の形態を収集するため1999年10月にサンクトペテルブルク(ロシア)とタリン(エストニア)及びシシュールポフの出身地クレッサーレ(エストニア・旧アレンスブルク)を訪れた. それらの建築的背景を知るため Brumfield*7及び Kirikov*8の作成した資料を用いた. 時代のより広範な背景については Brumfield*9, Gulyanitskii*10, Ruble*11, 田中・倉持・和田*12, Ushakov*13らの文献に依った.

Fig. 2: ベッカーの集合住宅

ベッカーの集合住宅

シシュールポフの設計によるクズネッツ小路の集合住宅*14と斜向かいに, 東京復活大聖堂と酷似した八角形のドームを持つビルがあることは, 既に報告している*15. これは1879年にベッカーの設計で竣工した集合住宅である. これはシシュールポフの集合住宅が着工した年にあたる. また, 日本で正教の布教をしていた修道士ニコライからシシュールポフに, 東京に建てる大聖堂の設計依頼があったのも同年である.
ニコライ・フョードロヴィッチ・ベッカー(或いはベッケル) Nikolai Fedorovich Bekker は1838年生まれのロシア人建築家である. その姓から恐らくはドイツ系と思われる. 1864年26歳のときに美術アカデミーを卒業して建築家になっている. 一方シシュールポフがアカデミーの教授になったのは1861年であるから, 両者に師弟関係が存在したかは判断に苦しむが, 面識はあったと思われる. 1867年には早くもアカデミー会員になっているから優秀だったのであろう. 1865年から内務省建築技術委員. 1867年から73年まで県庁に勤めた後, 1901年までペテルブルク市役所に勤務. 1904年から17年の革命まで再び内務省で役職に就いており, 職歴は一貫して公務員であった. 一方で, 1870年にはシュレーテル Viktor Aleksandrovich Shreter の誘いに応じペテルブルク建築家協会の発起人に名を連ねてもいる. サンクトペテルブルクとその周辺に37の作品を残した他, モスクワやガッチナにも作品を残した. 1917年のロシア革命以降は消息がわからなくなっている. 既に80歳に近く, 自然死したと思われるが, 亡命或いは内戦で死んだ可能性もある.
こうしたベッカーが1878年に設計し翌年竣工させた作品が, プーシキン通り19番地とクズネッツ小路16番地が接する角地に立つ前述の集合住宅である. 1878年にベッカーは市役所の建築家であったから, この住宅も市当局のプロジェクトであったと思われる. 構造はロシアの民間建築では一般的な煉瓦造である.
この作品にベッカーは, 当時ペテルブルクで流行を見せていたロシア・ビザンチン復古主義のファサードを与えている*16. 1階の外壁は漆喰の溝を深くし荒石積み風とし, 2階との境界にも太いコーニスを入れているが, 全体のプロポーションのなかでは1・2階の連続性は強い. 両者を併せて視覚的なベースメントに見せている. これは西欧古典主義建築の一般的な手法である. この作品も, 1・2階の細部はコーナー及びエントランス上部の窓配置を除くと古典建築のそれである. 3・4階はコーナーを回り込む巨大な3連アーチが特徴である. このアーチは確かにビザンチン的な意匠だが, 配置はバロック以降のジャイアント・オーダーを置き換えたに過ぎない. またコーナー以外でも同様に2層を貫く太い角柱を並べているが, その出隅に細い円柱を入れる処理はゴシック・リヴァイヴァルの手法である. 5階のコーナー部分で窓を飾っている3連アーチは確かにこの建物をビザンチン的に見せている. 軒下のデンティルもビザンチン建築によく見られるものだが, ネオ・ロマネスク建築にも珍しいものではない. このように見ると, この時期から世紀末にかけロシア建築を席巻したビザンチン復古主義が実は西欧諸様式との折衷であることがわかる. 尖頭アーチのないこの壁面に, ネオ・ロマネスク建築との差異はほとんどない. この集合住宅をロシア的に見せているのは, 問題のドームなのである.
そのドームは, コーナー部分のコーニスを八角形のドラム代わりに緩い角度で立ち上がり, 途中から急に角度を増してドーマー窓の開いた中腹に至る. その後再び角度を緩めていき, 頂点近くで段がついて奇妙な八角錐に収束する. ドーマー窓の意匠は周囲に対してあまりに簡素であることから, 後年の改築によるものと思われる. 東京復活大聖堂のものと比べて, 上下に潰れた形のようでもあるが, 頂部の八角錐を玉葱型の塔と十字架で置き換えれば似ていることがわかる.
1878年冬, 東京に建てる大聖堂の設計を依頼されたシシュールポフが, 間近で見て知っていたこの作品の細部意匠を借用したことは十分に考えられよう.

バルト海風の鐘塔

鈴木はその論文のなかで, 東京復活大聖堂の鐘塔について以下のように述べている

以上述べた聖堂部分に比して鐘塔自体はやや均整を欠いている. 正方形平面でほとんど低減なく立ち上がるが, 屋根部分は塔身と分断されているかのように傾斜の緩い宝形屋根の上に急に細い八角形のドラムが立ちそこに小さなドームを架け八角錐状の天幕型屋根を載せている. 塔身と屋根の連結が唐突であり全体としてデザインの洗練度が低いように感じられる.

洗練されているか否かはともかく, 確かにロシアの主要都市では見られない形式の屋根である. しかし, 小さなドームの上に尖塔を載せた教会堂建築は, 当時ロシアの支配下にあったバルト諸国ではよく見られるという. エストニアの建築史家 Ojari はこれを, 北方バロックの尖塔を簡易化したもので, エストニアでは特に地方の教会堂によく見られると語った*17. 予算の少ない教区などで, バロックの瀟洒な尖塔を作ろうと意図しつつ果たせなかったとき, 角柱や半球など単純な立体の組み合わせで遠目にはバロックの塔に見えるものを作ったというのである.

Fig. 3: クッレッサーレのルター派教会堂

シシュールポフは1815年7月に, バルト海に浮かぶサーレマー島のアレンスブルク(現在のクレッサーレ)に生まれているが, ここでもそうした塔を見ることが出来る. ルター派教会の塔である.
シシュールポフの父は中央から派遣されたロシア人官僚であったが, 母はドイツ系エストニア人*18であり恐らくはルター派教徒である. 従ってアレンスブルク唯一のルター派教会であるここで洗礼を受け, 結婚のために帰正*19するまではここに通っていた筈である. 小さな町であるから, ロシア正教徒の少年シシュールポフもルター派教会の存在は知っていたであろう.
ただし, 現在の教会堂が完成したのは1836年のことであるから*20, シシュールポフが現在の塔を見ている可能性は低い. 彼がアレンスブルクを去ったのが何歳のときか正確にはわかっていないが, サンクトペテルブルクで少なくとも数年の中等教育を受けた後, アカデミーに入学していることから, 遅くとも1825年前後には町を出ていたと思われる. しかし土地のルター派教区自体は非常に古く, シシュールポフの少年時代も別の教会堂が建っていたことは間違いない. エストニアではバロック様式の塔はルター派教会の最も一般的な付属物であるから, 以前の教会が似たような尖塔を持っていたとしても不思議はない.
なおシシュールポフ自身が洗礼を受けたと思われるロシア正教会は, 1790年に奇しくも聖ニコライの名で成聖されており, 現在もほぼそのままの姿を維持している. ここでは内部の装飾に, 中央に目のある三角形から後光が出ているパターンが多用されており, 神秘主義の強い土地であったことを物語っている. 或いは近世ロシアの建築界に強い影響を与えたとされる神秘主義者たち*21の幾何学指向も, 東京復活大聖堂の鐘塔デザインのルーツである可能性がある.
いずれにしても, ロシア本土で一般的に見られない屋根であることを理由に, シシュールポフが東京復活大聖堂の鐘塔をデザインした可能性を全否定するのは早計に過ぎよう.

ロシア建築としての東京復活大聖堂

1962年に東京復活大聖堂が重要文化財に指定されるに際して, 日本建築学会の文化財保護委員会は以下のように書いている*22.

(前略)原設計はペテルブルグの建築家シチュールポフ(ママ)が行い, コンドルが実施設計に当った. (中略) それはさておき, しからばその時コンドルは意匠を改変したか否か. 残念ながらこの点については, シチュールポフ(ママ)の原図が発見されていない今日では, 不明という他なく, 他日を待つ他はない. しかし, 一部にゴシックの手法がある所などから, コンドルの手直しがあったと考える説もある. 大方の御教示を願う次第である. (後略)

すなわちこの時点では, 原設計シシュールポフ, 実施設計コンドルという見方が学会から示されていたのである. ところがこの末尾の部分が拡大解釈され, 時を追うに連れてコンドルによる改作とする説が強まっていく. 鈴木の論文を経て, 1984年には藤森*23が著書で鐘塔の意匠を「英国国教会のもの」と書くなど, 改作説が既成事実化した観がある. しかしこの間に新たな史料が発見された事実はない.
本稿は, コンドルによる大幅な改作を必ずしも否定しようとするするものではない. 文化財保護委員会の報告にも, また鈴木の論文にも述べられているようにシシュールポフによる原図が発見されない以上, 結論の出しようがないからである. ここでは,この問題を1962年に確認された事実まで戻って再検討するため, 東京復活大聖堂をシシュールポフが「設計し得た」ということのみを状況証拠により示すに留める.
東京復活大聖堂のものに類するドームが, 復古趣味の意匠として1870年代末のロシアに現れたということは, ベッカーの作品から明らかである. ドーマー窓のないものではバシン Nikolai Petrovich Bassine によるバシン館*24が既に有名である. 鐘塔に関しても, バルト海の沿岸で北方バロックが簡素化したものとの類似性が明らかになった.
ドームの項でも示した通り, 19世紀ロシアにおける復古様式と呼ばれる建築は, 古典やゴシック・リヴァイヴァルの手法のうえにロシアの伝統意匠を盛り付けるように作られている. この様式が元々, ゴシックやロマネスクを得意とした建築家ニコライ・ブノワ Nikolai Benois によって成熟の域に達したことは別の稿で述べた*25. 美術アカデミーの教授としてこれらの手法を知っていたであろうシシュールポフの設計に, ゴシックの要素が見出せても不思議はない.
東京復活大聖堂の屋根形式は, 同時代のロシア及びバルト海沿岸諸国の建築と類似点を見出し得るものである. のみならず, 大聖堂それ自体もロシア建築史の文脈に十分に位置付け得るものである.



























東海大学大学院 - 日本学術振興会特別研究員 - 工学修士
Tokai University, Graduate School - JSPS Research Fellow - Master of Engineering


執筆者: 池田 雅史
電子郵便: michel@zc4.so-net.ne.jp
HTML 生成: 2002年7月2日
最終修正: 2002年10月22日