無知の知
インターネットで「無知の知」を検索するとソクラテスやプラトンが出てくるが、彼らが「無知の知」というフレーズを使っているわけではない。
「無知の知」(doctaignorantia) 〔独 das Wissen des Nichtwissens〕はニコラウス・クザーヌス(1401−64)の哲学の原理である。
以下、若いころに読んだ野田又夫『ルネサンスの思想家たち』(岩波書店、岩波新書498、1963)から抜書きする(35−38頁)。

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3 ニコラウス=クザーヌス ――神秘主義的綜合――
〔 (1) ドイツ人枢機官 (2) 神について (3) 世界について (4) 人間論・キリスト論 〕
(2) 神について
クザーヌスの主著『学識ある無知について』(1440)は、第一部で神を論じ、第二部で宇宙を考え、第三部では人間における神の啓示としてのキリストについてのべている。これらを次々に見てゆこう。
クザーヌスの神学は、神秘主義の神学すなわち神は有限な差別の否定という道を通じて直観されると考える「否定神学」である。六世紀のディオニシウス=アレオパギタ(六世紀の神秘主義的諸著『神の名について』『神秘神学』等の著者)と九世紀のヨハンネス=スコトス(810−880、エリウゲナともよばれフランク王カール二世に仕えた神秘主義哲学者)と十三世紀のエックハルト(いわゆる「ドイツ神秘主義」の祖)とが、かれの先人である。しかしクザーヌスにはその「否定の道」を論理的にとらえようとする努力があらわれている。
大小という差別を介して神を考えてみよう。すると神は、それ以上に大きなものがないようなもの、すなわち「極大者」である(初期のスコラ哲学者でカンタベリー大司教となったアンセルムスによって示された神の存在証明の大前提は、神が極大者である、ということであった)。しかし極大ということが神についていわれる場合、大小の有限な相対的な差別は消されるから、神は「絶対的な極大者」であって、「極小者」に対立する「相対的な極大者」ではない。したがって同時に「極小」でもあるところの「極大」である。神は「極大者と極小者との統一」である。
そして神はこのように大小の対立のみならず、およそあらゆる対立を超えたものである。すべての対立、矛盾も反対も差別も、神において一つである。神は「対立(反対)の一致」である。エックハルトがいったように、「神においては人間もライオンも異ならない。」
さらに神が「一」であるという規定をとって見れば、この「一」は数において二三四・・・・・・とならぶ一ではなく、すべての数の原理であるところの「一」であり、すべての数的差異を内にたたみこんでいながらみずからは単純な統一であるところのものである。キリスト教の三位一体性、すなわち「父」と「子」と「聖霊」との三つが一つであるということも、同じ論理によって理解される。
さらにこのような神の直観は、「理性」のとらえる差別や対立の否定を通じて達せられている。したがって、「神を知ること」は、普通の理性の見地からいえば「神を知らぬこと」である。神については、「知ること」は「知らぬこと」である。ただこの「無知」は、単なる無知でなく、理性的分別を通じていたった無知であり、「学識ある無知」いいかえれば「無知の知」なのである。神をわれわれは「不可解な仕方で見る」とか、「不可解な仕方で理解する」とか、「無知の知において神に触れる」とかいわれている。
否定と無知とを介してのみ神に触れうるということが大切な点である。神を肯定的に「一にしてすべて」なるものとする「肯定的神学」は「否定的神学」を介してのみ真実なものとなる。でなければ、有限物を神としてあがめる偶像崇拝におちることになる。
『学識ある無知について』が書かれてまもなく、ハイデンベルク大学のヴェンクが、クザーヌス説は汎神論の異端であると批難したが、これに対するクザーヌスの答えは、自分の考えが否定の道を通じて神にいたるものであって、汎神論という偶像崇拝でない、というにあった。
クザーヌスはこのような「否定の道」「反対の一致」を示すために好んで数学的象徴を用いた。たとえば円周は、もしその半径を限りなく大きくすれば、直線になる。つまり円は直線である。そして円をその直径のまわりに回転させることによって球が生ずるのであるから、円と一つであるところの無限な直線は、また球とも一つである。また三角形も、その一辺を無限に長くするかその一角を二直角に限りなく近づけるかすれば、直線に一致するものとなる。三角形が同時に一なる直線であることは神の三位一体性の象徴とも見られるであろう。
このようにすべての図形が無限な直線に帰するとするならば、さらにその直線の生産原理として、無限な一をあらわす「点」を考えることもできるであろう。
もともとクザーヌスの考えでは数や図形は、存在の一領域である「量」の規定にすぎぬものでなく、実体と属性とのすべてに通ずる一般的な規定であり、存在全体についていわれる「比例」をあらわすものであった。理性的認識とはそういう意味での比例の探求であり、「測ること」である。「精神」(mens)は「測るもの」(mensura 尺度)であるという。クザーヌスは数学を、後のデカルトやライプニッツの普遍学に近い形で考えていたのである。
しかしながら同時に、精神の測定すなわち認識は、つねに不定性(無限定性)をふくんでいる。われわれが物を測るとき、その物に物指しを当てて、物の上の点と物指しの上の点とを一致させねばならないが、この一致すなわち「相等性」は、決して完全なものでなく、いつも「不等性」をともなう。絶対的一義的な相等性はわれわれの測定の限りなく近づきうる極限にすぎない。だからクザーヌスはわれわれの有限な認識がいつも「蓋然的知識」にすぎないという。認識のこの性格が神に関していわば拡大されて現われた姿が、すなわち「無知の知」なのである。
(2007/06/05)
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