「道」 12月15日bQ3
石原慎太郎氏の『「父」なくして国立たず』(光文社刊)を読んでいて、父親のあり方ということについて考えさせられた。
私自身も「父親」であるけれど、石原氏の言われるところの「父性」で子育てをしているかどうかを考えてみると心もとない限りだ。
一般的に、「母性」というものは、子育てや教育という面においては、
・優しさ、いたわり
・受け入れる、抱え込む
・裁かない、許す
などとして現れる。これに対して「父性」は、
・厳しさ、指示
・突き放し、切り捨て
・裁く、処罰
などとして出てくる、と言われている。
私は、子どもが健やかに育つためには、この「父性」も「母性」もどちらも欠くことはできないと思っている。
どちらか一方が大切というものではない。「父性」と「母性」のバランスを取りながら、子どもを育て教育する必要があるのだ。
父親だから、男だから、「父性」が自然にそなわっているというものではない。最近は「父性」のない父親が多過ぎる、というのが石原氏の言いたいことの一つでもある。『父性の復権』などという本も、昨年来ベストセラーになったりしている。父親たるものは、「父性」を自覚し、「父性」を取り戻し、父親らしくなれということなのだ。
また、一人の父親の中には、「父性」もあれば「母性」もあるようだ。もちろん、一人の母親の中にも「母性」もあれば、「父性」もあるということだ。父親でなければ「父性」が発揮できないというわけでもない。母親でも、十分に「父性」を発揮し、子育てをすることはできるだろう。一般的には、父親が「父性」を発揮し、母親が「母性」を発揮するのが、バランスの取れた家庭教育につながっていくだろう。
石原氏の本の終わりの方に、『マテオ・ファルコーネ』(メリメ作)という小説が紹介されている。要約して紹介したい。
十九世紀の初めの話だ。コルシカ島のある村に、警察に追われているお尋ね者が逃げ込んできた。マテオ・ファルコーネは彼をかくまった。
マテオが留守の間に、警察がやってきて、彼の息子に「お尋ね者を知らないか」と尋ねた。息子は最初は「知らない」と言っていたが、教えてくれたら褒美に銀時計をやると言われて、目が眩んだ。息子はお尋ね者が隠れているところを警察に教えた。
それを知ったマテオは息子を近くの窪地に連れ込み
「このガキはこいつの血筋で初めての裏切りをしたんだ」と言って、泣いて止める母親に「構うな、おれはこいつの父親だ」と言った。
母親は息子に最後の接吻をして泣きながら小屋へ入ったが、銃声に驚いて駆けつけてみると、息子は銃で撃たれてもう死んでいた。「あなた何をしたの?」と叫ばれて、マテオは「裁きをつけたんだ」と答えた。その子はまだ十歳になったばかりであった。
時代も違うし、国も違う。私たちにはこんな真似はできないし、してはいけないが、「父と子の関わり方」そして「父性」というものを考えさせてくれる話ではある。