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小説/随筆

文章を書くことを職業にする人たちにとって、まず目指すべき目標は、
小説や随筆を書き、それを読んでもらうことによって余禄を得る、作家になることです。
また、人に読んでもらわなくても、自分の満足のために、手記程度の文章を書く人もいます。
小説という文体は読むのは面白いのですが、書くとなるとたいへんな労力が必要です。
読み手を意識した筆運びをすることを余儀なくされるからです。
ここでは小説の書き方を初心者でもわかりやすく、簡単な説明で、
実際に書けるようになることを目標に、わたしの経験をまじえて紹介します。
それと随筆は、わたし自身がまだそれほどの腕前ではないので、
読者のみなさんとともに練習するつもりで書き進めてみたいと思っております。

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1. 小説/フィクション/ノンフィクション
 ●小説の構成について 小説はストーリーで読ませる文章です。その背景にはしっかりとした骨組みが備わっていなければなりません。ここでは簡単な図を使って、小説に最低限なくてはならない骨組みの考え方と、ストーリーの具体的な展開のしかた、さらには効果的な話の進め方について解説します。
 ●発想の原点 小説を書き始めるためには、それなりの決心やきっかけが必要だということは、わたし自身も実感しています。そうしたきっかけをつかむために、小説の母体となる発想をどこに求めたらいいかを、「描いてみたいテーマ」「描きたいシーン」「登場させたいキャラクター」という3つの視点から考えていきます。
2. 随筆(エッセイ)/手記
 ●柔らかな視点で書く それほど格調高い構成が要求されるわけでもない随筆は、もっと肩の力を抜いて、書きたいことを書けばいいのです。まず心に残った事物を柔らかな視点でとらえなおし、あなたが思うがままを紙にぶつけてみるのもいいでしょう。
 ●語彙力をつける 語彙力(ボキャブラリー)をつけるための訓練は、並大抵の努力では成し遂げられません。ここではわたしの経験をもとに、楽しみながらみるみるうちに語彙力がついていくという方法をご紹介します。また、語彙の強い味方、類語辞典の使い方も解説。
3. 表現技法をマスターしよう
 ●描写力を伸ばす 文章を読めば、その状況がまざまざと眼前に浮かぶ、それが理想の描写です。いきなり突飛な描写に挑戦しようとせずに、まずは基本をマスターしましょう。ここを読めば、あなたにも理想的な描写力が身につくかもしれません。
 ●比喩表現を柔軟に ウィットな表現は、適切で柔軟な比喩表現によって可能になります。日本語における比喩表現の世界は実に多彩で、研究する価値は大いにあります。ここでは言語学的な用法よりも、柔軟な比喩の使い方に力点を置いて解説しています。
 ●会話文を書く 小説でも随筆でも、会話文を書くことは必須の条件です。会話文に決まった形式などを追い求めるのは無謀なことですが、美しい文体を維持するためにぜひとも守っていただきたいことはあります。ここで、わたしとともに勉強しましょう。

1. 小説/フィクション/ノンフィクション

●小説の構成について
 日頃読んでいる小説でも、読み手を楽しませるためには多くの努力が払われているものです。読み手を飽きさせないで、最後まで読み進めてもらいたい。それは「本が売れる」ということ以上に、書き手が望んでやまないことなのです。その努力は、ここで説明する「構成」に結実しているといえます。
 構成を考えることは、生半可な努力ではできないでしょう。ですが、「書きたい」という意欲さえあれば、誰にでもできることです。そのためには基本となるいくつかの概念がありますので、ここでアドバイスしてみましょう。
物語の流れを概念図にしました。1. 物語の鍵となる場面(キーシーン)
 物語を「骨組み」から考えることは、どんなに設定に慣れていても不可能なことだとわたしは思います。そこで、いくつかの断片をつなぎ合わせて、一本の通った筋道を作るという方法を使いましょう。この断片を、ここではキーシーンと便宜的に呼ぶことにします。
 たとえば、自殺しようとしていた若い女性が、さまざまな思い出の世界をめぐっているうちに自殺を思いとどまったという場面を思い浮かべたとしましょう。自分なりに「これは感動的なシーンだ」と思い定まったら、それをキーシーンに選択します。それがクライマックスになるのか、それとも冒頭になるのか、それを今決める必要はありません。
 今度は、ある町工場の老社長が、取引先の信用金庫が破綻したことによって窮地に陥るという場面が浮かんだとします。現代的な問題シーンでもあるのでどうしても盛り込みたい、と思ったら、これもキーシーンに選びます。キーシーンはいくつあってもOKです。しかも、多いほどいいのです。
 いくつか考えついたら、今度はそのうちのいくつかを無作為に選んで、「関連づけ」をやってみましょう。自殺しようとした女性と、経営が立ちゆかなくなった社長との間の共通点は、ずばり「背水の陣」です(たぶん)。人生の窮地に陥ったという共通点があるのです。性別や年齢など、この際はどうでもいいのです。ひとつでも共通点が見つかったら、このふたつのキーシーンは「細い糸で」つながったということになります。
 この共通点を獲得したなら、今度はキーシーンの絞り込みです。シチュエーションに合わないと思ったシーンは、思い切って削除しましょう。こうすれば、ストーリー的に一本の線が通るのを実感することでしょう。
 「まず書いてみること」とうたっている文章作法の本を見かけますが、それは随筆や手記の世界でのこと。小説を書こうと思ったら、それなりの準備が必要なのです。
2. 中心となるテーマを考える
 キーシーンどうしが結びついたなら、今度はそれをより太い線でつなぐことにしましょう。それは、テーマ(主題)を考えることです。
 この作業はそれほど難しいことではありません。キーシーンどうしを結びつけている共通点をテーマに仕立てればいいだけなのです。ただし、ここで決めたテーマは、作品を執筆している間は、決して変更が許されないものです。途中でテーマを変えてしまうと、その時点で、その小説は死んだも同然です。
 中心となるテーマは、ある意味で全体を律するものです。たとえば例に挙げた女性と社長との共通点は「人生の窮地」ですから、テーマは窮地からの脱出の過程ということになります。ですから、登場人物や背景、キーアイテムの説明もあとでしますが、それらの設定もテーマに従ったものでなくてはならないのです。書いている途中で「こんなテーマじゃ読んでくれる人もいないよな」と思いこみ、一転して窮地に押しつぶされてしまうふたりに変更したとします。両テーマは一見似通っているようですが、結末を変えてしまったことで、読者は「で、結局、何が言いたいの?」と感じてしまうことでしょう。いったん練り上げた設定を完全に変更するのは不可能に近いからです。途中で変えるよりも、所期のテーマを貫くほうが楽だということです。
3. キーシーンを置く場所を決める
 さあ、今度はキーシーンをどこに置くべきかを考えましょう。キーシーンはテーマを物語る重要な場所ですから、慎重に考えてください。
 散文には「起」「承」「転」「結」の4要素があると、われわれは小学生のころから教えられてきています。日本語の文章はそうすることでまとまり、ストーリーを語りやすくなると考えられているからです。つまり「起」は物語の起こりで読者を小説の世界へと導入する部分、「承」は起で提起された世界をより展開させる部分、「転」は物語の状況を変えて一気に引き込んでいくべき重要な部分、「結」は終結、となります。キーシーンは一般的に、「転」か「結」に置かれるものだという固定観念があるもののようですが、わたしは別に、どこにあってもいいと思うのです。これから説明する基本さえわきまえれば。
帰納法と演繹法の図です。 それは、物語の出発点をどこにするかということです。ストーリーを考えるときに、最初にどこから練り上げるべきかということでもあります。それを考えるにあたって、修辞法の技法のひとつであった「帰納法(きのうほう)」と「演繹法(えんえきほう)」を思い出してみてください。
 帰納法とは、まず結末を用意しておき、それに至る過程をつぎつぎと編みだし、それらを集中させることによって最終的な結末へと導いていくという技法です。この方法ならば、全体的な矛盾が少なくなります。たとえば自殺を思いとどまった女性は、そうした精神状態に至るまでにもさまざまな状況を体験し、そう思わざるを得ないところまで追い込まれていたわけですから、小説ではその過程を語ればいいわけです。その過程(要素)は複数あるべきです。この場合、書き始めるのは結末からで、あとで前後に話をつけ加えていくという方法が可能です。帰納法は「転」「結」にキーシーンを持ってくる場合に多用されるものですが、最初にキーシーンを決めてしまっているために自由な発想が阻害されるという欠点もあるのです。
 演繹法とは、「起」「承」部分にキーシーンを持ってきた場合に使われます。テーマとなる問題提起をまず読者に与えておき、そこから物語を展開させていくという技法です。この方法ならば自由な発想をしてもストーリー的な矛盾は発生しませんが、要素などいくらでも考えられるため、小説そのものが長ったらしくなってしまうことが欠点です。演繹法を選択した場合、結末部分に第二のキーシーンを持ってこないと、物語がまとまりません。
 演繹法をうまく演出するためには、キーシーンに至る過程となるサブシーンの配置を考えないといけません。
 配置には基本的に、「直列法」と「並列法」があります。直列法は時間の経過によってサブシーンを縦に並べることです。推理小説などにうってつけですが、よほど展開の奇抜性を狙わないと、読者にはダラダラ感を与えてしまうことでしょう。逆に並列法はいろいろなサブシーンを横に並べることで同時性を狙い、それらを糾合することでキーシーンに肉付けを与えることです。副次的要素を一気に結末に結びつけるやり方でノンフィクションやドキュメンタリーにはお似合いですが、重要性の優劣によって要素の取捨選択が迫られます。どちらも難しいのですが、どちらかにしなければなりません。
 基本は理解できましたか? では、今度はストーリーの要素を考えていきましょう。

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●発想の原点
 小説の主題を考えるのは面倒くさいし、よく「ネタがない」ということを、わたしの仲間たちも口にしたりします。わたし自身もそれを感じます。
 今の世の中は情報化社会ですから、心を研ぎすませれば、小説のネタなど無数に転がっているものです。でもネタがないと感じるのは、それらの要素の断片を、小説という形にまで昇華させようとする意志がないからです。大多数の人が小説など書いたことがないというのも、それが原因ではないかと思います。
 小説やノンフィクションを書こうと決めるには、自分の文章の腕前に自信がなくてはなりませんが、やはりいちばんに、「書きたいこと」を見つけることが重大な起因になると思うのです。ここでは参考文献などを用いながら自分の経験を語りたいと思いますので、参考になれば幸いです。
1. 描きたいテーマがある
 新聞を読んでいて、あるいはテレビを見ていて、世の中の不条理に腹を立てたことはありませんか。または、近くのゴミ捨て場で、あまりの分別観念のなさに憤ったことはありませんか。もしくは、映画を見に行って、心に残ったシーンはありませんか。これらのことは、すぐに小説のテーマになりうるのです。ただ、それをどのように膨らましていくか、その次にあるプロセスがあるかないかだけなのです。この世の中は、テーマ候補の宝庫なのです。
 本当におもしろい作品には、作者も意図していないほどのテーマ性が潜んでいるものです。作品を読んで笑ってくれたり、感動してほろりと涙ぐんでくれたりすれば、作品に設定したテーマが伝わっているということになります。そのためのプロセスは、文章を書いて、相手に伝えることだけです。
 あとは、そのテーマに共有性があるかどうかです。自分が家庭内で感じたことでも、たとえば姉はいつも何か気に入らないことがあると、すぐ自分に八つ当たりをする。これをテーマに選ぼうと決めたとしましょう。それは確かに自分にとっては何よりも腹が立って仕方がないことでしょうが、腹が立っているのは自分だけです。それをテーマに選ぶのは勝手ですが、怒りの共有性がありません。単なる内輪ネタでは、書いている本人は満足かも知れませんが、その意味が大多数の読者には伝わらないのです。
 共有性で言うならば、作者の伝えたいことが逆になって読者に伝わってしまうという失敗も考えられます。
 たとえば、数人の仲間が力を合わせて伝説の剣を探しもとめ、ついに発見し凶悪な魔法使いを倒すことができるというストーリーを考えたとしましょう。テーマはずばり、仲間が力を合わせれば、できないことは何もないということです。協力や友情の大切さを伝えるためには格好のストーリーでしょう。ですがここで気をつけたいのは、ストーリーを変えることによって、意図していたテーマが逆になる現象もあるということです。作者が悲劇性を持たせるために、伝説の剣を発見できなかった、というように変えてしまったとするならば、悲劇性は生まれるかも知れませんが、仲間が力を合わせて目的に挑むというテーマを犠牲にしてしまうのです。
 以前にも触れましたが、テーマを途中で変えることは絶対にしないでください。多大な労力が必要ですし、何よりも作品自体がそれで破壊されてしまうのです。一度破壊された作品は、どう繕っても、元に戻ることはありません。
2. 描いてみたいシーンがある
 わたしはたいてい、小説を書くきっかけにしているのは、この「描いてみたいシーンがある」ということと、次に説明する「描いてみたいキャラクターがいる」ということです。これらのことは容易にストーリーへと発展するからです。
 たとえば、ある村の山道で、若者がどこからか流れてくる「いい匂い」を感じた、という場面を思い浮かべたとしましょう。
 このシーンを読者と共有し、ありありと眼前に再現させるには、表現技法もさることながら、それを可能にするだけの背景と前後とのつながりがなくてはなりません。また、若者が山に入った理由や時代背景、そして流れてくる匂いが何であるのか、といった設定も必要です。とすれば、もうこれだけで、短いながらも物語ができてしまうのです。あとは、そうしたシーンをいくつもつなぎ合わせて、小説として耐えうる長さとストーリー性を持たせればよいわけです。
 そのためには、ある一定の努力がいります。思いついたシーンを忘れないようにすることです。
 わたしは、よく小説を書いていた学生の頃、ネタ帳というか、ネタファイルなるものを持っていました。B5サイズのルーズリーフなのですが、最後のほうには書類を入れておけるクリアポケットがついていました。
 思いついたシーンは、その時点で少々の文章にしてしまいます。もうそのルーズリーフは紛失してしまって参照できないのですが、確か、印象的なシーンを絵に描いたり(絵心はまったくないのに…)、そのシーンに関する説明書きを入れていたと記憶しています。そこから物語を膨らませていったのですが、最初のきっかけになったのは、そのルーズリーフに書かれた一片のネタメモだったわけです。
 ここで思いついたシーンは、最後まで大切にしてください。小説にもシーンに対する印象の優劣というものがあり、メインのシーンの周囲に配置されたシーンは、それを補完する役目をもっているとみなすことができます。もしそうしたシーンの優劣を設定しないならば、もっとも描きたかったシーンが埋没してしまうでしょう。実際の映画や小説にも、最後か中間にあるシーンを描きたいがために、2時間とか200ページとかを費やしているものもあるのですから。
3. 描いてみたいキャラクターがいる
 わたしはかつて、ある霊能者の少女を主人公にした小説を書きました。これまでに4作ほど書いています。
 その少女は霊能者の家系に生まれ、代々霊現象によるトラブルを解決する職業をなりわいとしていたのですが、その少女はなんと、幽霊嫌いだったのです。しかし家系の要求とみずからの向上心のために、幽霊嫌いを克服していく…。
 わたしはこうしたキャラクター設定から、多くの印象的なシーンを創作してきました。いつか世に問うてみたいという意欲すらあります。これは、キャラクターからストーリーが生まれたという例の最たるものでしょう。これに関しては自分に関する経験しか語ることができないのが残念です。ですが、よくサスペンス(探偵)小説などがテレビドラマでいくつもシリーズ化されているのは、おそらくキャラクターが最初にあったからではないかと推測します。
 主人公にしたいキャラクターができたなら、今度は設定をしてみましょう。
 その他のキャラクターについては、単なるキーワード(例:「背が高い」「口うるさい」)程度でいいのですが、主人公についてはある程度の詳細さが求められると思います。とくに何作にもわたって描かれる主人公であったならば、それは慎重に行いましょう。例として、テレビゲームのRPG(ロールプレイング・ゲーム)を引きます。
 RPGを作るにあたって、主人公を決定するまでに何日も費やすということもざらにあるそうです。そしてその設定は微細にわたります。身体的特徴や性格、言動や好き嫌いまで、実際のストーリーに適用されるかどうかもわからないことまで、きっちりと決めるそうです。それは何より、数多くの人が制作に関わっていることもありますが、そうしてイメージを固定化してしまう方が、キャラクターを動かしやすくなるからだと思います。あやふやなキャラクターだと、物語の最初と最後では別人になってしまうでしょう。わたしも未熟だったころは、そうした失敗を幾度もくりかえし、先輩から「キャラクターが破綻している」と教えられたものです。
 あとは、そのキャラクターを愛することです。どう扱おうが自分の勝手なのですから、いろいろとイメージの中で活躍させてみてください。今まで悩んでいたネタも、すらすらと出てくると思いますよ。わたしも、前記の霊能者をさんざんひどい目に遭わせたものです(苦笑)。

 これまでに挙げた3つにおよぶ発想の原点のほかに、「描いてみたい世界がある」「描いてみたい時代がある」「言わせてみたいセリフがある」など、小説を書き始めるにあたっての発想の原点は、意外と多岐にわたっていることに気づかされます。それでも書けないならば、書こうという意欲が足りないからだと推察します。
 小説は表現技法やいわゆる「行間からにじみ出るもの」で読ませる文体です。現代の日本において、散文としては最高、文章全体としては詩や俳句などの定型文に次ぐ難解な文体ではないかと思います。多くの流派が生まれ、また今でも新たな流儀で文壇をにぎわせる新人が出てくる現状をみれば、小説という文体がもつ奥の深さに、一応は先輩に師事して小説を学んだわたしでも舌を巻いている次第です。多分、わたしは一生かかっても、その真理には到達し得ないでしょう。
 ですが、小説は読んでくれる人がいる限り、果てしなく発展し続ける分野だと思っています。

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2. 随筆(エッセイ)/手記

●柔らかな視点で書く
 随筆は、小説などとは違って、より自由な発想で書ける文章です。いわば、小学校のころによく書かされた作文(読書感想文や反省文)も、修学旅行が終わったあとに提出させられた旅行記も、すべて随筆の仲間です。さらに、みずからの体験をまとめた「自分史」や手記程度のものも、随筆の仲間です。そうした観点からすれば、一般の人が書く機会がより多いのは、随筆の方だと思います。
 しかし、いざ「書こう」となると、詰まってしまう方が多いのも実情です。構えてしまうと、逆に題材が思い浮かばなくなってしまうのです。
 そうしたときは、普段から物事を文章と結びつけるような訓練をしておくことをおすすめします。たとえば仕事中に、通勤途中に、食事中に…、と、考える機会はいくらでもあるはずです。ただ、物事を文章的にとらえるには、それなりに心の余裕が必要です。
 練習してみましょう。例として、あなたはある春の晴れた日の昼下がり、ベランダに出て安楽椅子に座っていたとします。まずは風景を描写してみましょう。

 うららかな日射しが、見慣れた街に優しく降り注いでいる。
 ようやく散りそめた桜の花が、ビルの谷間に点々と、まるでピンク色に着色したワタアメのように、そこかしこにふわふわと浮かんでいるように見える。この陽気につられたのか、電線にとまって羽を休めているスズメたちも楽しげである。
 電車が通り過ぎた。いつもはあれに乗って、わたしは日々の戦いに臨むのであるが、いま、わたしはワイングラスを片手に、それを遠くから見つめている。
 ふとわたしは、毎日の自分の姿を電車に重ねあわせて、冷めた思いでそれを見つめている自分に気づいて苦笑したのだった。

 あまりいい文章ではありませんが、わたし自身も練習中ですのでお許し願いたいと思います。
 心に残った風景を描写してみるのは、表現力を磨くのに最適だと思います。まずは日記などをつけて、毎日練習してみてはいかがでしょうか。わたしも練習のために、日記帳には必ず毎日、その日の天候や心に残った風景などを書き込むようにしています。文章の巧拙は、まだ考える必要はありません。随筆は小説とは違って、書かなければ上達しないものと考えるからです。
 この世の中のものを柔らかな、いつもと違った視点でとらえてみるのも大事です。いつも通勤に使っている電車も、休日に乗ってみて、そのあまりの違いに驚いたことがあるはずですが、視点を変えるというのはそれと同じことです。いつもと違った視点で見てみると、新しい発見がきっとあるはずです。

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●語彙力をつける
 さて、実際に書いてみて、「俺はどうして、こうまでボキャブラリーが足りないんだ」と感じた方も多いのではないでしょうか。
 語彙(ごい)力、英語でボキャブラリーというのは、その言語においてどのくらいの単語を知っていて、文章に実際に使えるかという知識のことです。こればかりは、いくら文章の技術を磨いてもなかなか上達しません。文章を書く職業に就いている人にとっては、死活問題ともいえる悩みの種です。とくに日本語は、詩などの定型文を除いては「反復表現」を嫌う性質がありますので、同じフレーズが何度も出てくると、もうそれだけで「ヘタ」と決めつけられかねないのです。こうしたことは、大学入試の小論文講座か何かで耳にタコができるほど聞かされた人もいるのではないでしょうか。
 語彙力をつけるためには、やはり日々の努力が欠かせません。ここでは、その練習法をいくつかご紹介します。
1. 読んで盗む
 盗むというのはあまりいい表現ではありませんが、人の書いた文章を読んで、そこから知識を得ようということです。
 真の語彙力というものは、会話などでは絶対に身につきません。日常会話で使っているのは、実際の単語数からすれば微々たるものです。英語を学ぶとき、まず英会話から入ると上達が早いというのは、その辺が根拠です。やはり、文章を読むことによってしか、語彙力を伸ばすことはできないのです。効率は悪いのですが、現実ですから仕方がありません。
 読むものはとくに決めませんが、やはりわたしは、エッセイや手記、そして新聞や雑誌がいいと思います。前者では表現技法が、後者では単語力が身につくからです。
 名のある作家が書いたエッセイなどを読んでいると、ありふれた言葉なのに、実に多彩で魅力的な使い方をしているのに驚くことがあります。こればかりはその作家の実力のなせる技です。たとえありふれた言葉でも、表現技法を駆使して一編の文章に仕立てれば、目からウロコが落ちるほどに輝いて見えるものなのです。そしてこれほど、盗むのに絶好のターゲットはないともいえます。
 そして新聞や雑誌は、今まで自分が知らなかった単語を教えてくれます。エッセイは既存のありふれた言葉をうまく操っているだけなので、こうした新しい言葉を取り入れるのには向かないのですが、新聞や雑誌などのように情報提供を主眼としたものを読むことは、新しいものを取り入れるためには最適なのです。もちろん、きちんとその単語を理解し、自分の知識としてメモリーすることが前提であることはいうまでもありません。いくら情報量が多くても、理解できなければ意味がないのです。パソコンにまったく興味がない人がJavaの本を読んだところで、情報は頭の上を素通りしていくでしょう。あなたの興味のある、たとえばファッションの雑誌やバイクの雑誌でもいいのです。
 今度は、得た知識をアウトプットしてみましょう。実際に書いてみるのです。手始めは、日記帳がいいでしょう。毎日書けますし、短くてすみますし、何より誰にも見られないのですから、好き勝手に練習できます。
 上達のポイントは、その日に覚えた単語をできるだけ文中に出すことです。実際に紙の上に書いてみなければ、自分の血肉にならないからです。
2. 情報メディアから取り入れる
 読むのがどうしても苦手だという人には、テレビやラジオ、またはインターネットなどの情報メディアから単語を仕入れるという手もあります。
 まずテレビは、ただ聞いているだけという人は、目の不自由な方を除いては皆無ではないでしょうか。どんなバラエティ番組でもニュース番組でも、必ず「字幕」というものが出るはずです。それを意識して読むようにしていれば、単語力は自然と身につくはずです。さらに時事ネタにも強くなれるという、まさに一石二鳥です。わたしは加入していないのですが、字幕放送なんかはおすすめです。さらに言えば、ドラマなんかもいいでしょう。あれは字幕はありませんが、役者は台本(もしくは脚本)をもとにしてしゃべったり演技しているのですから、彼らのセリフからも単語を読みとることができるのです。脚本は、立派な文学作品なのです。
 ラジオはとくに集中しなくても、聞いているだけでどんどん情報が頭の中に流れ込んできます。音楽番組を除いては、コマーシャルも生活情報番組も、さらにニュースも視覚情報に依存できないのですから、すべて言葉で伝えなくてはならないのです。アナウンサーの美声と名調子に乗せて、その情景を脳裏にまざまざと再現してくれる構成作家の実力はさすがだと思います。表現技法を学ぶには絶好の教材ですね。
 インターネットを閲覧するときは、画像が主体のものではなくて、当サイトのような、文字情報が主体のものを意識して選ぶようにしましょう。それも、ニュースサイトのように定期的に更新されているものがいいと思います。なぜかというと、常に新しい情報がそこにあるということは、決して読み尽くしてしまうこともなく、いつも新鮮な単語情報が提供されているからです。そうした面では、新聞や雑誌と同様の効果を期待できるわけです。しかも新聞や雑誌は100円以上かかるメディアですが、インターネットは契約料さえ払えば、あとは電話代だけで読むことができるのです。
3. 類語辞典を使う
 いま、わたしの手元には、角川書店刊の『類語国語辞典』があります。
 類語辞典とは、その言語において用法が似ている言葉、またはそこから派生した用語などを、最上層にある原語(たとえば「見る」「走る」など)を筆頭に、現在はあまり使われなくなった死語までカテゴリー別に並べたものです。有名作家の中にも、愛用者はかなりいるようです。ただ、一般の国語辞典からすると少々高めで、小さな書店には置いていないなど、制約もありますが。
 さきに、わたしは「日本語は反復表現を嫌う」と申しましたが、このような辞書が出回っていることが、それを裏付けています。いみじくも文章を書くことを生活の資にしている人にとって、語彙力が弱いということは命取りです。だからといって、5万語も6万語も覚える必要まではありません。こうした類語辞典が、足りない部分を補ってくれるからです。もし「見る」という単語を思い浮かべたが、すでに前の行にも使ってしまったなぁ…、というときには、類語辞典を手に取り、「見る」と同じ意味をもつ別の単語を捜せばいいわけです。「見る」の項には、最上層の「見る」を先頭に、「見える」「見かける」「見受ける」「見取る」「認める」…など、実に多くの単語がならんでいます。
 角川『類語国語辞典』の序文には、このように記されています。
「語彙が豊富であるとは、一つの単語と潜在的関係を保っている単語を、数多く思い浮かべることができるということである。学習者の語彙を豊かにするとは、個々の語を、ばらばらに数多く記憶することではなく、本書に示したような、群としての単語を豊富に持ち、それを場に応じて的確に使用できることである。」

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3. 表現技法をマスターしよう

●描写力を伸ばす
1. 「物」が心理を物語る
 描写するというのは、絵画や写真の世界にはない概念です。なぜなら、絵画や写真はそれそのものが真実であり説明の必要がなく、またそれ自体が雄弁に、被写体の心理や境涯を物語ってくれるからです。しかし、文章の世界ではそうはいきません。見るもの、聞くものを克明に拾い上げ、細かく説明しなければならないのです。それを、文章の世界では「描写」と呼びます。
 たとえば、あなたは戦争で悲惨な体験をしたとしましょう。「悲惨な体験だった」「苦しかった」「悲しかった」と、心理的な描写だけではそれで終わってしまい、どのように悲惨だったのか、どのように悲しかったのかが読者に伝わりません。いや、むしろ、悲しかっただとか、苦しかっただとかの主観的な感情表現はやめるべきです。描写力を駆使すれば、それらの感情はおのずから伝わるはずです。
 例として、周囲の描写だけで文章を書いてみましょう。テーマはさきに示した、戦争での悲惨な体験です。

 フィリピンのジャングルの奥深く。見たこともない大きな葉っぱや名も知らぬ毒々しい色をした小動物。乱舞するマラリア蚊。ぬかるんだ地面とじめじめした空気。
 肩にのしかかる三八式歩兵銃。とうに空になった水筒。靴下に入れたなけなしの米。ガリガリに痩せた戦友と自分。重い鉄帽。肩に食い込む背嚢。水滴が銃からしたたり落ちる。むくんで落ちくぼんだ顔が並ぶ。錆びついた軍刀。そこかしこに倒れ、生きているのか死んでいるのかもわからない戦友たち。
 突然、遠くから砲声がドロドロと聞こえる。急いでタコツボを掘る。掘れども掘れども水がしみ出てくる泥土。ジャングルの雑草が邪魔をする。
 数秒のうちに周囲に炸裂しはじめる砲弾。爆発が泥土を天高く噴き上げる。吹っ飛ぶ雑草、幹から裂けた棕櫚の大木。直撃を受けてバラバラになった戦友。枝に引っかかるピンク色の小腸、軍刀を握ったままの右腕が目の前に転がっている。砲弾の破片が唸りをあげて飛んでくる。思わず頭を地面にすりつけてそれを避ける。そこかしこから聞こえる悲鳴。「痛い、痛い」とうめく声。「お母さん」とつぶやきながら息絶える新兵。
 機関銃の掃射が始まった。敵が近くまで来た証拠だ。がくがくする右手を叱咤しつつ銃に弾丸をこめる。鉄帽をかぶり直す。水のたまったタコツボ。泥だらけの靴、頭を上げて周囲を見回す班長殿。「行け、出ろ」という小隊長の声。だが姿は見えず。炸裂する手榴弾。叫び声、怒号、断末魔。聞き慣れない英語。東北弁。

 どうでしょうか、悲惨さは伝わりましたか。ここではわたしは、周囲にみられる単語を並べただけで、「悲惨だった」という形容詞や、「悲しい」といった心理表現はいっさい使っていないことに注目してください。しかし、上に挙げたのはただの骨組みですから、そこに克明な描写を加えることで文章が形作られていくのです。そこには心理表現も加わることでしょう。ですが、それ以上に「物」は、雄弁に心理状態を語ってくれます。「水筒」も「タコツボ」もただの物体ですが、感情を込めて書くと、それ自体が作者の心の中を代弁してくれるのです。
 実際にこうした体験をなされた方々にとっては、つらい例文になってしまいました。申し訳ありません。
2. 人物描写は「行動や癖」から
 克明に描写するということは、「物」に対してはその外観を詳しく説明すれば足りるのですが、人物というとそうはいきません。とくに小説では、登場人物について読者に感情移入を求めなくてはなりませんから、外観だけを描写したところで、その人を「描ききった」とはいえないのです。
 例文を示しましょう。以下の人を、外観だけの描写と、「行動や癖」といった性向の描写とに分けて書いてみます。

・ほっそりした長い顔で、髪は長いけれども茶髪ではない。神経質そうに整えられた眉毛は、すらりと垂れた鼻筋にみごとにマッチしている。口紅はさほどけばけばしくなく、彼女が笑うと口元にうっすらとえくぼができた。
・彼女はわたしの顔を見ると、にこやかに微笑んで、「いつもご苦労さまですね」と、のどが渇いた客がすぐに飲み干せるようにと、温めの茶を入れてくれた。彼女の口元にできたえくぼを見て、わたしは少々どきりとしたものだ。

 彼女の姿をもっともよく表しているのは、やはり性格や癖が出ている後者ではないでしょうか。前者はいかにも写真的で、じっと観察していないとできない表現である。とくにあまり特徴がなく平均的な人を描写するなら、性向をとらえた方が有利です。物を描写するようにその人を説明しても、読んだときには確かに特徴が伝わるかも知れませんが、記憶には残りません。逆に、性向を描くことで、その人の「人となり」が人物像に輪郭を形づくり、印象深くしてくれるのです。上記の例文では「えくぼ」を身体的特徴として共通事項としましたが、伝わり方からすれば、やはり後者の方にインパクトがあります。
 性向を描くことで、あたかもその人が実際に動いているのを見るような錯覚すらいだかせることもできるのです。またこうも考えられます。身体的特徴だけを克明に描写された人と、性格を行動として描写された人と、実際に会ってみてあなたはどのように対処しましょうか。まるで、写真と会うのと生身の人間に会うのと、それくらいの違いを覚えるはずです。

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●比喩表現を柔軟に
 比喩とは、世界各国の言語に共通する表現技法のひとつで、「〜のような」で表します。「AのようなB」「AみたいなB」といった使い方をするのが一般的ですが、「〜に似ている」とか「〜と同じような」というのも比喩表現のひとつです。
 比喩を使うとき、引き合いに出す例えは、できるだけ一般的なものを選ぶ方がいいでしょう。「瀬戸内海の家島付近のような風景」というよりも、「松島のような風景」といったほうが、より一般的な例えを使っているので、相手に伝わりやすいのです。しかしここで気をつけなければならないのは、必ずしも読者は、作者の意図したようなイメージを共有してくれないということです。
 たとえば「ここの風景はまるで中国の農村みたいだ」という表現をしたとしましょう。作者は赤茶けた山々、家の屋根から立ちのぼる炊煙、のどかに歩き回る放し飼いの犬と荷物を運ぶロバ、という意味で中国の農村を引き合いに出したとしても、読む人によっては、都市部との貧富の差、痩せた土地、共産党の支配、一人っ子政策、といった負の部分を思い浮かべることもあるでしょう。比喩を使うとき注意するべきなのは、その前後で補足的な文脈を入れないと、たやすく誤解されてしまうということです。それさえわきまえていれば、新鮮な表現が生まれるでしょう。
 また、例えられる主体と例えとは、できるだけかけ離れたものにすれば、作者の意図はより限定され、それだけ相手に伝わりやすくなります。たとえばかつて室生犀星は小説の中で「彼女はうどんのように笑った」という比喩を用いましたが、読者は女性の顔とうどん玉とを強引に結びつけられることによって、「うどんのように庶民的で、白っぽい」以外の着想ができないのです。つまり、より一般的で、さらに限定されたイメージを提示する比喩表現こそ、完成されたものなのです。
 では、比喩表現にあるさまざまな種類について説明しましょう。
 今まで述べてきたのは「直喩法」(明喩法)といい、「〜のような」という決まったフレーズがあります。使用する目的は、書き手が知っていて読み手が知らないことを説明するとき、またはその特徴を強調したいとき、のふたつです。前者はこれまでに説明してきたことですが、後者は「この包丁はよく切れる」を「この包丁は日本刀のようによく切れる」といったように、強調したい特徴を、例示をもってさらに際だたせようとするために用います。
 そのほかにも、「隠喩法」(暗喩法)、「諷喩法」のふたつがあるのをご存じでしょうか。
 隠喩法は、「〜のような」という固定のフレーズを使わないスタイルです。「彼の頬に、熱い川が流れ下った」というのは、すぐに「彼の頬に、川のように熱い涙が伝った」と直喩法に言い換えることができますが、伝わるインパクトは違います。また隠喩法は、相手にその意図が確実に伝わらなくてはならないという制約がありますので、強調表現のみに使われるのが一般的です。
 いっぽう、諷喩法は、本当に言いたいことを伏せておいて、たとえ話を引き合いに出すという形式です。故事成語やことわざなどは、ほとんどが諷喩法です。たとえば「李下に冠を正さず、瓜田に沓を直さず」というのは、李(すもも)の木の下で冠をいじったり、瓜の畑で靴を直したりすると、まるでそれらを盗もうとしているかのように思われる。やましいことをすれば疑われるという意味ですが、故事成語はずばり、短いフレーズでそれを言い切っているのです。まさに、先人たちの文学的センスには脱帽するばかりですが、現代文でも、こうした故事を効果的にちりばめることで変化と斬新さをもたせることもできます。
 これらの比喩表現を柔軟に使いこなせば、よりわかりやすい文章を書けることは受けあいです。

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●会話文を書く
 会話文をいきいきと書くことは、小説や随筆などの散文を形づくるうえで重要な技術です。事実、会話文だけで成り立っている小説や、いわゆる一人称小説といった、対話形式のみの文体だけでできている小説も存在しているのです。また、平叙文(地の文)が主体の三人称小説であっても、会話文を効果的に使うことによって、よりストーリーに説得力を与えてくれます。ここでは、会話文を効果的に書く技法について説明します。
1. 会話文の形式
 会話文は、人間が人間に言う言葉を文章化したもので、日本語では「 」でくくられて表現されます。また諸外国の言語でも、" "でくくることで平叙文と分類しています。英語などでは、わざわざ主語を逆転させたりなどして強調するほどです。
 しかし、会話文は一対一、つまり対話だけではありません。二人以上の場合もあるし、ときには自分自身に問いかける独語(ひとりごと)、さらには人間以外のもの(物・動物・神仏など)に話しかけるときなど、その相手を擬人化して用いることもあります。ですが、やはり会話文は一対一の対話が基本ですから、その人数が増えていけば、それだけ複雑な技術を要求されます。
 そうした技術的な難解さをいとわずに会話文を入れたいと思うのは、平叙文だけで形成された文章がいかにつまらなく、また無味乾燥なものであるかということを、書き手はみな知っているからだと思うのです。中には、ストーリーの転換点を会話文に求めるというやりかたも見られます(ドラマの脚本など)。小説や随筆を書くうえで、会話文はぜひともマスターしたい技術なのです。
 しかし、会話文というのは、実際の会話とはまた表現方法が違うのです。
 日常会話を思い浮かべてください。あなたは相手と話すとき、「えーっと」とか「あのー」とかいう間投詞をどのくらい差し入れて話しているでしょうか。たぶん、全体の3〜4割におよぶものと考えられます。それだけ、日常会話は無駄が多いのです。
 戯曲や演劇、ドラマの脚本の世界では、そうした間投詞の役割が意外なほど大きな役割をもっています。演劇の脚本は書かれた時点ではそれで完成なのではなく、それを役者が演じた時点でようやく完成になるものです。しかも、小説のように説明文が使えない限り、すべて会話文だけでストーリーを進めなければならないのですから、キャラクターの特徴の一端である間投詞は重要な役割を帯びているのです。
 ところが、小説や随筆は、書かれた時点でもう完成ですから、会話文に余計な動きは必要ありません。単にストーリーを進めるのみという役割に特化するならば、会話文は作者がストーリーを解説する平叙文に肉付けがされた程度でいいのです。小説ではとくに、会話文にそのキャラクターの行動や心理描写を絡ませることで、よりいきいきとキャラクターを動かしてみせたりもできるのです。また、会話文だけでも、独立してキャラクターの行動や心理を表現できたりもできます。どのような手法を用いるかは、作者であるあなたの選択にゆだねられています。
2. 会話文を書くうえで
 会話文を書くとき、実際に犯しがちな失敗をいくつかご紹介しましょう。
 まず、会話導入部はなるべく書かない方がいいでしょう。会話導入部とは「こんにちは」「ちょっといいですか」といった、日常ではよく使われる会話のきっかけですが、特別な効果を狙うものでないならば、これは会話文における両者の緊張感を阻害するおそれがあります。例文を示しましょう。

 彼はわたしが席を立ったとき、ふと側へ寄ってきて、
「俺、離婚することにしたんだ」
 と、ささやくように言った。

 実際の会話では、「あのさ、俺さ、…」などと導入部が入るはずです。これは明らかに緊張感を阻害するもので、入れるべきではありません。
 次に、もっとも犯しやすいミスとしては、「説明口調」があげられます。これはどんなベテランになっても、ついやってしまうミスのひとつです。ドラマなどではやむを得ませんが、小説などで登場人物がいきなり身の上話をはじめたり、対話文でふたりのキャラクターがこれまでの事態の推移を話し合ったり、ひとりごとで自分の心理状態を説明したりするのは、いかにも作者の力量のなさをキャラクターが代弁しているように思えてなりません。
 会話文は、あくまでもストーリーを補足するするものにとどめるべきです。よく、会話文が異様に長い小説を読むことがありますが、三人称主体の小説ではあまり感心できません。とくに、会話文の途中に段落を入れるなどという技法には、わたしは断固反対します。理想的な小説は、会話文自体が独立したものではなく、平叙文にたくみに絡みつきながら、ストーリーを形成していくものだと考えるからです。少し長くなりますが、例文を示します。

 おじさんは酒の勢いもあってか、顔をまっ赤にして怒鳴りちらした。
「俺はな、今まで必死な思いで工場を守ってきたんだ。俺の苦労もわからん連中につべこべ言われて、はいそうですか、って放り出せるほどクズ人間じゃねえんだ。俺の苦労も知らねえ連中がノコノコ来てだな、金が返せないなら機械を差し出せなんて、よくも言えたものだな。
 だいいち、景気が悪いのは誰のせいなんだ。お役人どものせいじゃねえか。事業のひとつやふたつ失敗したって、あんたらに損させたわけじゃあるめえ」

 これを、平叙文を織りまぜた文体に書きかえてみます。

 おじさんは酒の勢いもあってか、顔をまっ赤にして怒鳴りちらした。
「俺はな、今まで必死な思いで工場を守ってきたんだ。俺の苦労もわからん連中につべこべ言われて、はいそうですか、って放り出せるほどクズ人間じゃねえんだ」
 銀行関係者はそろって、苦々しい表情になった。わたしはそんな両者のやりとりを、はらはらしながら見守るしかなかった。
 そんなわたしの心理をよそに、おじさんの口調は徐々にエスカレートしていく。
「俺の苦労も知らねえ連中がノコノコ来てだな、金が返せないなら機械を差し出せなんて、よくも言えたものだな」
 ここまで言って、おじさんはコップに残った冷酒を一気にあおった。
「だいいち、景気が悪いのは誰のせいなんだ。お役人どものせいじゃねえか」
 おじさんはじろりと、銀行関係者たちをにらみ回して、やや口調をゆるめた。そこには、自嘲の意味も含まれているようだった。
「事業のひとつやふたつ失敗したって、あんたらに損させたわけじゃあるめえ」


 会話文にもリズム感が大切だと思うのです。あまりに長々と続く文章は、読んでいて苦痛になってくるのは仕方のないことです。そうした苦痛をやわらげるために、句読点が存在するのです。そしてそれは、1フレーズの長さにも当てはまると思います。こうして会話文を意識的に中断して、その間にキャラクターの行動を織りこむことで、本当にキャラクターが生き生きとしゃべっているように感じられるのです。でなければ、会話文は単なる説明文になってしまうでしょう。
 あなたは、書き直された方を「長くなってしまったな」とお思いでしょうか。それとも、わかりやすくなった、と感じられたでしょうか。

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