

| デジタル地図「カデシュの戦い」に、ようこそおいでくださいました。 ここは世界戦史にその名を刻む「カデシュの戦い」を軍事史的・戦術学的に分析し、なおかつ、 その推移をデジタル地図4枚で詳細に解説するためのページとして開設されました。 カデシュの戦いについて、これほど詳細に研究・記述された例をわたしは知りません。 「第9章 新王国時代(3)」とあわせてご参照になることにより、 第19王朝の繁栄とラメセス2世の事績について、より深くご理解いただけます。
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1.その歴史的背景 古代戦史に名高い「カデシュの戦い」は、世界で初めて公式な軍事記録が残された戦闘であり、またその戦後処理に当たって成文化された平和条約が取り交わされたという点でも、世界初となるできごとであった。現在ではその世界戦史に占める意義の大きさから研究が飛躍的に進んでおり、われわれは今から約3300年も前の詳細な戦闘記録を読むことができるようになった。 古代史の大事件として世界史の教科書にも登場するカデシュの戦いは、紀元前13世紀初頭に古代オリエント世界に並び立った両雄エジプト王国とヒッタイト王国が、シリアの利権と覇権を賭けて争った決戦であった。 エジプトは通商路を確保するため、第18王朝時代からシリア北部に居住するアムル人を支配下におき、親エジプト政権を樹立させて自治を認めていた。この地方における安全が確保されたことにより商業活動は遅滞なく行われるようになり、超大国エジプトは経済的にめざましい発展を遂げたのである。まさにシリアは、エジプト経済の生命線だった。 一方、小アジアに興ったヒッタイト王国は、鉄器文明を確立したことにより軍事史に一定の地歩を占める強国ではあったが、隣国ミタンニの発展に押されて国力が減退し、およそ200年もの間、アナトリア高原に逼塞させられていた。だが紀元前14世紀後半に登場したシュッピルリウマ1世の卓越した戦略眼と拡大政策によってヒッタイトは息を吹き返す。引き続いてシュッピルリウマ1世はアッシリアと結ぶことによってついに宿敵ミタンニを壊滅に追い込むことに成功。かつて世界的な大都市バビロンを初めて陥れた実績をもつ軍事大国ヒッタイトを復活させたのである。 だがシリアを領有するエジプトにとって、これは安全保障上、看過できない軍事的脅威である。シュッピルリウマ1世の後を受けて拡大政策を維持したヒッタイト王ムルシリ2世は積極的な南下作戦を推進しており、両国間の国境地帯は慢性的な緊張状態に置かれることになった。エジプト王セティ1世はこの動きに対し、支配下に入れているアムル人の居住地にエジプト軍を進駐させ、また自身も毎年のように遠征軍を率いてシリアでの示威行動を行うことでようやく押しとどめている状態だった。そうした緊張状態が続くなか、両国の指導者ムルシリ2世とセティ1世が相次いで世を去った。主役たちの退場により一時は膠着状態に入ったシリア情勢だったが、セティ1世の息子ラメセス2世はこの地域の重要性をしっかり理解しており、治世4年目にしてシリア方面に遠征して反抗的な諸都市を平定し、国境地帯に居住するアムル人に親エジプト政権の樹立を強要したのである。このときエジプトの側について戦った族長ベンテシナがその首班に指名された。 一方、南下政策を続けるヒッタイトの新たな君主となったのは、ムルシリ2世の息子ムワタリである。彼の出自や少年時代についてはほとんどわかっていないが、即位後に見せた大胆な行動や、その基礎ともなった深い洞察力、さらに抜群の戦術眼と統率力などを見ても、当代随一の英主であったことは疑いがない。ムワタリの戦略目的は、アムル人居住地をはじめとしたシリア北部地方の安定確保であった。そこでムワタリは父ムルシリ2世ですらなし得なかった、国の総力を挙げての決戦をエジプトに突きつけようと考えた。そのために彼は国内の全地方に動員命令を下しておいてから、親エジプト政権を樹立していたアムル族長ベンテシナに対して軍事的威圧をかけはじめたのである。エジプト軍を誘い出すのが目的だった。 ヒッタイト王の不穏な動きを知ったラメセス2世は、これをむしろ好機だと考えたに違いない。あらゆる面で父を超えたい、いや超えなければならないと考えていたこの青年王にとって、父の夢であったシリアの直轄領化はその証明にもなっただろう。さらに「戦うファラオ」としての姿を国民に知らしめることは、古来よりエジプトの王たる者の当然の義務とされていた。 ラメセス2世はすぐさま国内に動員命令を発した。動員規模は約2万人。これまでエジプトが編成したどの野戦軍よりも規模が大きい。国内で集められた2万人の軍勢はすべて正規兵のみで構成されており、編成管区である各都市ごとに約5000名ずつに分割した。アメン、ラー、プタハ、セトといった神の名前を与えられた各軍団には個別に軍司令官が任命され、それぞれ重装歩兵(戦斧を装備)、軽装歩兵(戦車に随伴、槍装備)、戦車兵、弓兵が同じ割合で配分されていた。さらに王に従う親衛隊を別に編成して司令部とし、アムル人、ヘブライ人、フェニキア人など外国の傭兵で編成された傭兵隊をそれに増強した。これらの各軍団はいわゆる「諸兵科連合」といわれる編成方式で、1個の軍団内にすべての兵科がバランスよく配されており、自己完結式であり単独でも会戦を遂行することが可能である。のちにこの集団は「師団」という名前になり、近代のフランス軍やプロイセン軍などが取り入れ、最終的に日本陸軍もこの形式で完成した。まさに時代を先取りしたともいえる先進的な軍隊運用思想である。だが兵科を単独で集中運用することによる身軽さは期待できず、個別機動による戦略的運用には最適だが、兵科が細分化されているため打撃力、あるいは防御力に特化することができず、野戦における衝撃力に欠けるという弱点もある。 これに対するヒッタイト軍は戦車軍を約3500両、本隊となる歩兵軍をそれぞれ1万8000人、1万9000人の2個軍団に分けるという大編成で、戦車の数でエジプト軍を1000両上回っており、歩兵では実にエジプト軍の倍以上であった。総兵力は4万人を超えていたと思われる。ここで注意するべきなのは、ヒッタイト軍はエジプト軍とは異なり、各兵科の単独運用であったということである。この形式では行軍速度の違いによって隊形が長大になり、さらにこれらをひとまとめに動かすとなると、指揮官には相当な統率力と計算能力が要求される。むしろこれは各兵科を熟知した部隊長に指揮権を委譲し、総司令官は部隊配置のみを考慮するだけにとどめ、各部隊長にある程度の自由裁量を認めることでスムーズな運用が可能になるものである。だがヒッタイト王ムワタリにとって、これは防御戦である。会戦地の選択権は独占的に彼のものであり、素早い行動を心がける限り行軍を度外視して配備に専念できる。また戦車軍団は機動戦を、歩兵軍団は防御戦を、というように役割を決めてしまえば指揮官の負担も軽減される。軍隊に対する一元支配によって強国にのしあがったヒッタイトの王として、ムワタリはこの方式を変更することなど考えなかった。だがこの運用法では予定外の事態に対応するための柔軟性に制限があるばかりか、もし危機に陥った場合には泥縄式に人員をつぎこんで損害を増すばかりという、兵法の外道に迷い込む可能性が高かった。 こうしてカデシュで相まみえることになる両者は、それぞれ空前の大軍勢を擁し、さらに内包する諸問題を抱えて激突することになったのである。この会戦が、まさに古代史におけるターニング・ポイントのひとつであることは間違いない。
2.罠に落ちたエジプト軍 紀元前1274年春、ラメセス2世は地中海の沿岸都市ペルシウムを出発した。指揮官先頭の慣例に従い、王自身は親衛隊とともに戦車に跨乗して先発し、その後をアメン、ラー、プタハ、セトの各軍団が約10キロの間隔をおいて続くという隊形をとった。各軍団とも行軍隊形となり不測の事態に対処すると同時に兵站線を確保しながら進む、教科書どおりの編成である。 トトメス3世がパレスティナ攻めのときに通った道をそのままなぞり、ラメセス2世率いるエジプト軍はパレスティナ地方の南端の都市ガザに到着した。彼はそこに補給物資を集積して策源地に指定するとともに、外国人傭兵を各軍団から抽出して1個軍団を編成し、高級軍人ネアリムを新たに軍司令官に任じて地中海沿岸を通って別働隊となり、本隊とは別にカデシュを目ざせと命じた。このままでは兵站線の長大化は避けられなかったため、兵站線の複数化によって本隊の負担を軽減しようと考えたのである。当時の地中海沿岸地方はエジプトの支配下にあり、補給物資の現地調達が可能だった。本隊がこのルートを選ばなかったのは、夏の炎暑を迎える前にすべて終わらせようと、ラメセス2世の中に焦りがあったからだとも考えられる。 ガザを出発したエジプト軍本隊は、パレスティナを通過してカデシュを目ざした。このルートはかつてトトメス3世がシリア遊撃戦の際に通ったもので、山岳地帯と乾燥地帯が続く困難な道である。ラメセス2世はこれをわずか1ヶ月という驚異的な短期間で駆け抜けたが、やはり兵站線が伸びきってしまって補給が滞り、兵士たちは糧食はおろか飲料水にも事欠くことになり、落伍者が続出した。さらに後続部隊がこれに追いつけず、約10キロの距離を保っていたはずの部隊間隔はいつしか50キロ以上になった。自然と、先頭を進む親衛隊とアメン軍団のみが突出することになる。しかし若く血気盛んなラメセス2世はこれをまったく意に介さず、ただひたすらトトメス3世の幻影を追い求めて前進あるのみだった。 これに対しヒッタイト王ムワタリは、すでにカデシュに到着して防御態勢を固めていた。ヒッタイト軍はエジプト軍の倍ともいえる大軍勢ではあったが、指揮官ムワタリはこれまでの歴史でエジプト軍が示してきた粘り強さや突撃力などをよく知っていたので、無駄に軍を動かして開豁地(開けた土地)での決戦を挑もうなどという気はさらさらなかった。カデシュの町はオロンテス川とその支流が合流する地点にある丘陵の上にあり、ムワタリは町を囲む土塁の中に司令部を開設してこれを秘匿し、そしてみずからの企図を隠すかのように主力部隊を丘陵の反対側に潜ませ、進んでくるエジプト軍からは見えない位置に配備したのである。こうして彼は、手ぐすね引いてエジプト軍がやってくるのを待った。一方、エジプト軍を率いるラメセス2世には朗報が届けられていた。アメン軍団の動静を探るかのような行動をしていたふたりのベドウィン人を捕らえたところ、彼らはヒッタイト軍のスパイで、エジプト軍を偵察するように命じられていたという。スパイたちは尋問を受けたが、ヒッタイト軍は現在地から160キロ北にあり、カデシュまではまだ100キロを残しているとあっさり白状した。 これを聞いたラメセス2世は、わが意を得たりとばかりに喜んだ。そこですぐさま軍議を開いて諸将を集め、 「諸君、どうやら先にカデシュに到達するのはわれわれのようだぞ。朝から急げば、エジプト軍の方が最低1日は早くカデシュに到着するはずだ。聞けばカデシュを守っているのは少数のヒッタイト兵だけだというではないか。一刻も早くカデシュをわがものにし、遠征に決着をつけよう」 決断の早さは彼の美点でもある。動員当時はカデシュに陣取るヒッタイト軍を平原に誘い込み、エジプト軍が得意とする野戦によって決定的打撃を与えることを想定していた。だが状況が好転したこの期に及んで、既定方針などに捕らわれるべきではない。拠点を先取りして防御戦をしようと彼は力説したのである。もちろん諸将に異論のあるはずがない。王は自分の戦術眼を自画自賛するとともに、勝利に対する絶対の自信を深めた。 翌朝早く、王とその親衛隊、ならびにアメン軍団は準備もそこそこに急いで出発した。一刻も早くカデシュのヒッタイト兵を蹴散らし、入城して防備を固め、来たるべきヒッタイト本隊を迎え撃たなければならないからである。だがこれにより、後続のラー軍団との間隔はさらに開くことになってしまった。 親衛隊とアメン軍団は強行軍の結果、その日の夕方までに、カデシュから約10キロの地点にまで到達することができた。後続のラー軍団も強行軍を敢行しており差は縮まってはいたが、周囲にヒッタイト軍の姿はなく、宿営地も適地を選んで設定できるという好条件にもめぐまれた。敵に先んじたことを確信したラメセス2世は成算の少ない夜間攻城を見合わせ、翌朝の攻撃を期して兵士たちを休ませることにした。はるか向こうにはカデシュの丘が見え、沈みゆく夕日を背に青黒く佇んでいる。兵士たちは明日の決戦に身の引き締まる思いで眠りについた。闇に沈む丘の向こう側に、恐るべき敵が潜んでいるとも知らずに…。 次の朝、アメン軍団の野営地を見回っていたラメセス2世のもとに、ふたりのスパイが引き立てられてきた。以前捕らえたスパイとは別で、カデシュから偵察に来たヒッタイト兵であった。さっそく尋問が始まったが、彼らの自白は驚くべきものだった。先に捕らえられた2名は実は偽スパイで、ヒッタイト本軍の行軍遅延を信じ込ませるためにムワタリ王が放った密偵だったというのである。またヒッタイト軍がすでに到着しており、丘の向こう側で待ち伏せしていることもわかった。罠にかかったと悟ったラメセス2世は、冷水を浴びせられたように顔色を失った。 ちょうどそのとき、ヒッタイトの主力戦車部隊は砂塵を巻き上げながら突進していた。目標はオロンテス川の浅瀬を今にも渡ろうとしていたエジプト軍後続、ラー軍団の無防備な側面である。 ヒッタイト軍の戦車は馬2頭立ての木製3人乗りで、御者、盾持ち、槍兵で1両を構成している。御者、槍兵の2人乗りであるエジプト軍の戦車より身軽さでは劣っていたが、攻撃力と突破力ではこれ以上のものはない。夜を徹しての強行軍でラー軍団は先発隊から5キロの地点にまで到達していたが、疲れ果てた彼らにはこれに対処する力は残されていなかったのである。 2500両もの戦車軍団の突撃を受けたラー軍団は、なすすべもなく壊滅した。 3.王の奮戦 ラメセス2世が状況の急変を知ったとき、後続のラー軍団は見るかげもなく壊乱し、精鋭を誇ったはずの諸兵科連合は跡形もなく散り散りになってしまった。戦闘隊形をとっていなかったことと、各兵科が細分化されバランスよく配置されていたがゆえに、攻撃力・防御力の相対的低下を招いていたことが弱点となったのである。 勝ちに乗じたヒッタイト戦車軍団は「宿営地に突進し、これを捕捉殲滅せよ」という命令のもと、敗走するラー軍団を追って右方向に旋回した。ヒッタイト軍は戦車兵だけで編成されていたため機動力が一定で、こうしていっせいに方向転換することも難なく、しかも最高速を維持したまま行うことができた。この突破力と衝撃力を前にしては、戦闘隊形でない宿営地の兵士は烏合の衆にも等しかった。 壊乱したラー軍団の敗残兵は、アメン軍団の宿営地にもなだれ込んできた。その背後には、砂塵を巻き上げながらヒッタイトの戦車軍団が迫ってくるのが見える。たちまち、アメン軍団は蜂の巣をつついたような大混乱に陥り、兵士たちはわれ先にと後ろ向きに逃げ出しはじめた。味方の敗走に触発されて浮き足立つのは戦場心理の連鎖反応によるもので、弱点である一角が崩れると、恐怖のあまり守備担当地を投げ出して全軍が敗走に移ってしまうのである。戦線そのものが比較的小さく、全軍をまとめて会戦地に投入することが常識だった前近代の戦争においては、よくみられた現象である。驚いたラメセス2世は壊走をはじめたアメン軍団をまとめようとしたが、もはやその混乱を収拾することはできなかった。彼は部下のふがいなさに激怒したが後の祭りである。戦果を急ぐあまりに強行軍を繰り返して隊列を伸ばしてしまったのは彼の責任にほかならないのだ。 この場をいかに切り抜け、反撃に転じるべきか。状況をすばやく判断したラメセス2世はすぐさま後続のプタハ軍団に伝令を送り、ラー軍団の壊滅とアメン軍団の危機を通報して急速追及を命じた。 このときラメセス2世はアメン神に勝利の誓いをたて、天なる神々に祈りを捧げたという。これは彼の宣伝による虚飾であろうが、戦場に臨むにあたって神の名を念じることは、不思議なことではない。 大混乱する戦場においてラメセス2世がようやく掌握できたのは、王直属の親衛隊の一部だけだった。彼はこの小部隊を率いてヒッタイト軍の包囲を突破すると、自分の戦車に飛び乗って弓をとり、 「私にはアメン神がついておられる。勝利を信じて私に続け!」 と怒号して先頭に立った。親衛隊も押っ取り刀でヒッタイト軍に突っ込んでいく。 「国王陛下の戦車御者」であるメンナは、優秀兵の中からさらに選び抜かれ、軍における将来を約束されたほどのすぐれた兵士である。彼が頭立ての馬にひと鞭をくれると、ラメセス2世の戦車は疾走をはじめた。彼の手には、長さ2メートルにもなろうかという巨大な弓が握られている。大柄で筋肉質だったという彼にしか扱えないほどのしろものだったが、彼はその弓によって、一般の矢の射程外から敵兵を射つことを得意としていたのである。 3人乗りで小回りのきかないヒッタイト軍の戦車は、御者と射手の2人乗りですばしこく動き回るラメセス2世の戦車をなかなか捉えられない。王は戦場を駆けめぐって弓を引きながら、ヒッタイト軍の手薄な部分を必死に探した。 すると、オロンテス川に沿って内側に旋回しようとする敵戦車の一隊が、放棄されたアメン軍団の宿営地を略奪しているのが目に入った。その当時戦場における略奪行為はなかば日常茶飯事で、たとえそれが戦闘中であろうとも略奪の横行を止めることができないほどだった。これを反撃の好機だと判断したラメセス2世は部下を呼び、残りの兵力をこの一点に集中させるように命じた。 劣勢だったエジプト軍は烏合の衆と化した戦車兵に襲いかかり、ここでようやく勢いを盛りかえすことに成功した。わずか数百名の小部隊が、戦車2500両のヒッタイト軍を徐々に押し戻しはじめたのである。こうして絶体絶命の危機はどうにかして脱したが、王の周囲には戦車1台とておらず、敵兵の返り血でまっ赤に染まった胴鎧を着たラメセス2世は、戦場のただ中に孤立してしまっていた。 そうした戦況の推移を、ヒッタイト王ムワタリはカデシュの高台から見ていた。 当時のヒッタイト軍は全軍が王の直接指揮下にあり、個々の集団を率いる部隊指揮官は存在しなかった。そのため総司令官である王は全般指揮を行うため司令部を高台に設置し、命令はすべて伝令を立てて行っていたのである。つまり常に部隊の中にいたラメセス2世がすばやく戦況を把握し命令できたのに対し、ムワタリの指揮・命令系統には距離と伝達時間という制約があった。 折しも、乾燥地帯であるシリアの平原では砂塵がひどく、遠く離れた高台からは戦場が砂ぼこりに覆いかくされてよく見えなかったという。風が吹いて砂塵が飛ばされ、ようやく戦場が望めるようになった王は、このとき初めて、自軍の一角にエジプト軍の反撃が集中され、崩壊しかかっているのを知った。 しかし、一流の戦術家であるムワタリは慌てなかった。彼は主力の戦車軍団を正面からぶつけておいて、その他の部隊を使って側面から襲いかかろうと考えていたのである。 彼は戦場に孤立しているラメセス2世を認めると、敵はすでに指揮官に従う者がないほど弱体化したものと判断し、ここで一気に決着をつけるべく城外に待機している予備戦車隊に出撃を命じた。狙うは敵将の首である。そしてエジプト軍が指揮官を失って敗走を始めたところを、城内に温存していた約4万名にもおよぶ歩兵部隊で一気に踏みつぶしてやろうという計画だったのである。ヒッタイト軍にはまだ1000両もの戦車が予備として残されていた。腕を撫して待っていた彼らは命令一下、雄叫びを上げてオロンテス川の向こうにいるエジプト軍に殺到していった。 ムワタリはそれを見送りながら、勝利を確信した。 4.援軍の登場 その頃、戦場ではすでに戦闘が下火になり、ヒッタイト戦車軍団の兵士は思い思いに略奪行為にいそしんでいた。 圧倒的な兵力でエジプト軍を蹂躙したヒッタイト戦車軍団の攻撃力をもってすれば、完全にエジプト軍の息の根を止めることができただろう。だが現実は、そうはならなかった。それはなぜか。 ラー軍団を追い散らし、さらにアメン軍団の宿営地を破壊したヒッタイト戦車軍団の戦術目標は達成された。これがもしエジプト軍のように、最高司令官たる王より指揮権を委譲された軍司令官による直接指揮下にあったならば、戦車軍団はさらに戦果を拡大すべく次に親衛隊に襲いかかり、ラメセス2世の首を取るまでは執拗に攻撃を繰り返したはずである。しかしヒッタイト兵は「追及中の手薄なラー軍団を捕捉撃滅し、目下のところ陣地を設営中のアメン軍団の宿営地を壊滅させよ」というムワタリ王の命令を個人単位で直接受けていたため、アメン軍団を壊滅させた時点で任務は完了したと判断した兵士が大半だったと思われるのである。 任務が完了した彼らが次にすることは、戦利品の獲得である。現代でこそ略奪行為は戦時国際法により厳しく規制されているが、古代からつい200年前くらいまでは、戦場における略奪行為は戦闘に参加し勝利した者が当然に享受しうる権利であり、「仕事」のようなものだったのである。この「仕事」が始まってしまったら、統制は容易には回復できなかったともいう。烏合の衆と化した戦車軍団は背後を衝かれ、算を乱して逃げ出しはじめた。 反撃の機会は今をおいてほかにないと、ラメセス2世は声をからして督戦し、戦車に乗って駆け回りながらさらに弓を引いた。後続のラー軍団が到着するまでは、なんとしても持ちこたえなければならないのだ。若い王は戦塵を浴びて興奮し、事あるごとに絶叫した。 だがその興奮も長くは続かなかった。オロンテス川の対岸でにわかに砂塵が巻き起こったかと見るや、新手のヒッタイト戦車軍団がこちらへ向かって突進してくるのが目に入ったのである。その数は実に戦車1000両。現在のエジプト軍の兵力では、とてもこれを押し返すことはできそうもない。ラメセス2世は死を覚悟して瞑目し、もはやこれまでと、武運つたない我が身を呪った。 その時、ラメセス2世は再び奇跡によって救われた。ヒッタイト戦車軍団とは反対の西側から、外国人傭兵の一団が姿を現したのである。1ヶ月前に外国人傭兵を別働隊として分割し、新任の軍司令官ネアリムに地中海沿岸を独力で進撃するよう命じておいたものが、ようやく到着したのだった。兵站線の維持のためにやむなく分離した別働隊が、若き王の土壇場を救ったのである。危機に陥った王にとっては、この別働隊はまさに神が率いる天の軍隊に見えたことだろう。 ネアリムは軍団を3つに分け、オロンテス川を渡って殺到してくる予備戦車軍団に左翼の歩兵部隊をぶつけて拘束しておき、中央の集団で王および傷ついた親衛隊とアメン軍団を収容し、右翼に展開させた戦車隊をもって略奪に忙しいヒッタイト戦車軍団主力を追い散らした。そこに遅れていたプタハ軍団も到着し共同戦線を構築したので、ヒッタイト兵はわれ先にとオロンテス川を渡り対岸へと逃れていった。 ラメセス2世は勝ちに乗じて追撃を命じ、プタハ軍団を主力として川を渡ろうとしたが、事態の急変を知ったムワタリ王が送り出した歩兵軍団がすでに橋頭堡(「きょうとうほ」と読む。軍事用語で、上陸地点に作る陣地のこと)を築いており、プタハ軍団は大損害を受けて撃退された。実は遅れて到着したプタハ軍団の後衛、そしてセト軍団が南の方でヒッタイト軍の別働隊に捕捉されていて戦場に到達することができず、渡河攻撃に参加したのはほんの一部だったのである。自分の無謀な作戦によって苦杯をなめさせられたラメセス2世はこれ以上の損害を出すわけにはいかず、やむなく兵を引いて川沿いに野戦陣地を構築するように命じた。 こうして、長かった戦場の第1日が暮れていった。 5.勝ったのはどちらか? 会戦第2日が明けてから数日間、エジプト軍とヒッタイト軍はオロンテス川を挟んでにらみ合った。 ヒッタイト軍が河畔に築いた橋頭堡は強力で、エジプト軍がいくら突撃をかけてもびくともしなかった。そうしている間にもカデシュの町はますます防衛力を強化させていくのが見える。初日の奇襲戦で徹底的に痛めつけられたエジプト軍が独力でこれを奪取できなくなったことは、もはや誰が見ても明らかだった。 だがラメセス2世は、そのまま諦めることができなかった。カデシュの占領は、亡き父セティ1世が果たそうとして果たせなかった、エジプトの国運を賭けた戦略目標である。このまま手ぶらで帰ったのでは、シリアの安定による経済発展と超大国復活を夢見る国民に、合わせる顔がないではないか。あらゆる面で父を超えなければならないと考えるラメセス2世に敗北はありえない。若く血気にはやる王はどうしても負けを認めるわけにはいかなかったのである。 そうしているうちに、糧食が不足しはじめた。策源地から遠く離れ、兵站線が伸びきってしまったエジプト軍にとって、充分に想定しうる状況だったはずである。だがもともと予定ではすでにカデシュを陥落させ、帰国の途についていてもいい時分なのである。敵を過小評価し、鎧袖一触を当然のことと思っていた首脳陣の判断ミスであった。だがそれはヒッタイト軍にとっても同じだった。本国から離れていることではエジプト軍に劣ることはないばかりか、彼方に倍する兵力を養っていくには、ヒッタイト軍が備蓄した糧食では少なすぎたのである。ムワタリもまた、これほどの長期戦になるとは予測していなかったのである。 ここに及んでは致し方なく、ムワタリは和平条約の締結をラメセス2世に提案した。このときのラメセス2世の心境は推測するしかないが、幕僚の熱心な勧めもあったため彼はこの提案を受け入れ、戦場を退去することに同意したのである。 しかしカデシュを含むシリア北部の領有権に関する交渉はついに妥結を見ず、依然としてこの地を係争地として保留させてしまった。だがエジプト軍はこうして背後を脅かされることなく帰途につくことができ、ヒッタイト軍もようやく兵をまとめて本国に帰ることができたのである。ラメセス2世とムワタリの胸中には、やがて遠からず再戦することになるだろうという思いが芽生えていたことだろう。 結局、ラメセス2世はこの遠征における戦略目標を達成することはできず、シリアの地に寸土の領地も得ることはできなかった。さらに外国人傭兵軍団による分進合撃という構想以外はすべて戦術が裏目になり、膨大な犠牲者を出して兵力が格段に低下して作戦継続を断念せざるを得ない状況に追い込まれてもいる。結果として会戦そのものは痛み分けに終わり、エジプト軍は武運に恵まれどうにかして壊滅を免れることができたものの、カデシュの奪取を放棄した時点で、エジプト軍の負けが決まったことになる。カデシュの戦いは、古代オリエント世界に覇を唱えようとしたエジプトの限界点を示す歴史的事件となった。 そればかりではなく、指揮官のたった一度の油断によって全軍が危機に陥る可能性があること、さらに諸兵科連合による打撃力の細分化が集団全体における作戦遂行能力を相対的に減殺すること、このふたつの事項はエジプト軍が後世に残した軍事的教訓となった。 軍事的教訓はヒッタイト軍も存分に残している。せっかく全軍を分割して機動力を向上させても、そのすべてを最高司令官の指揮下に動かそうとすること自体が無理であったということだ。またその最高司令官が戦場から遠く離れた位置にあり、命令系統も伝令を介さなければならなかったため即応性にも欠けていた。そのため戦車軍団の背後が危機に瀕していることを知るのが遅れるなど、刻々と変化する戦況情報をつかみ損ねて戦術の齟齬をきたした。その結果、弱体化したエジプト軍を押しつぶす機会を何度も逃し、ついに長蛇を逸したのである。 両者は再戦を誓ってカデシュの戦場を後にしたが、歴史は彼らを再び戦場でまみえさせようとはしなかった。この会戦から5年後にヒッタイト王ムワタリがこの世を去ったからである。 |