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デジタル地図「ピラミッド分布図」にようこそおいでくださいました。
ここでは古王国時代に最盛期を迎えたピラミッドが建造された位置を、
建造者とピラミッドの形状によって分類した便利な分布図です。
また解説文では、ピラミッドを建造した歴代ファラオたちを総覧できるよう、
古王国時代から第2中間期にわたる歴史を、ピラミッドに特化して記述しております。
建築史を研究しておられる方は必見の内容です。

デジタル地図「ピラミッド分布図」概要
作成時使用アプリケーション: Adobe Illustrator 9.0 日本語版(Windows XP Home Edition SP1)
画像形式/画像詳細: 画像形式/色数:
GIF形式、透明あり、全63色、インターレースなし
画像サイズ/表示速度他:
29.17KB、6秒@56kbps/1秒@1.0Mbps、371×819pixel
作成原図/参考文献 作成原図:
『図説・古代エジプト1 -ピラミッドとツタンカーメンの遺宝-』(仁田三夫・著、河出書房新社、1998年) 16ページ
参考文献:
『古代エジプト文化とヒエログリフ』(ブリジット・マクダーモット・著、近藤二郎・監修、竹田悦子・訳、産調出版、2003年)
『古代文明の旅・エジプト』(ジョルジョ・アニェーゼ、モウリチオ・アレ・著、大塚茂夫、小笠原景子・訳、日経ナショナルジオグラフィック社、2003年)
『古代エジプト・ファラオ歴代誌』(ピーター・クレイトン・著、吉村作治・監修、藤沢邦子・訳、創元社、1999年)


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また「デジタル地図集成」では、現在以下の地図および解説ページを用意しております。

エジプト全図 | ピラミッド分布図 | ギザのピラミッドルクソール詳細図王家の谷
カデシュの戦いカルナック神殿とルクソール神殿
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ピラミッド分布図

1.第3王朝時代


 第3王朝のジェセル王が「階段ピラミッド」を最初に建造したのが、現在はサッカラと呼ばれている砂漠地帯だった。最初のピラミッドは従来の形式であるマスタバ墳を何層も積み重ねることによって生まれたものであり、天才的建築家イムヘテプの設計によるといわれるその工法が、すべての始まりとなった。
 ここは初期王朝時代より、代々の権力者がマスタバ墳をいくつも残していた「聖地」であり、ジェセル王がみずからの眠る地をサッカラに定めたのは自然なことであった。ここは古来よりの首都メンフィスのちょうど対岸にあたり、農耕地帯が切れてあとはひたすら砂漠が広がるだけの土地であり、古代のエジプト人がここを死後の世界と考えたのも納得できる。
 ジェセル王が紀元前2620年ごろに最初のピラミッドを造営してから、このサッカラが伝統的なピラミッド造営地となるはずだった。サッカラにはジェセル王の息子セケムケト王の未完成なピラミッドをはじめ、第5王朝〜第6王朝時代の小規模なピラミッドが並んでいるが、セケムケト王以降は、長らくピラミッド造営の槌音がサッカラから離れてしまうことになるのである。それは、セケムケト王の後継者であるカバ王がサッカラでのピラミッド造営を諦め、やや北にあるザーウィエト・エル・アリアーンという地域に造営地を定めたからである。
 ザーウィエト・エル・アリアーンという地域は大ピラミッドで有名なギザの南寄りにある狭い場所だが、彼はここに壮大な階段ピラミッドを打ち立てようとして、それを見ずにこの世を去ってしまった。
 カバ王が亡くなってから即位したフニ王もまた、ピラミッド建造に情熱を燃やしたひとりである。だが彼が造営地に選んだのは先祖代々の聖地サッカラでなければ、父カバ王の眠るであろうザーウィエト・エル・アリアーンでもなく、はるか南に離れたメイドゥムという人跡未踏の土地だったのである。どうして彼がこの地を選んだのか、今でも解明されていない。


2.第4王朝時代

 第4王朝の開祖となるスネフェル王はフニ王の息子だが、彼は血縁関係において正統より地位が劣っており、新たな血統を興さなければ王位につく資格がない人物だった。だがそれだけに逆境に強く、卓越した指導力でエジプトを繁栄に導いた功労者として、歴史に記憶される王であろう。
 だが彼が歴史上で大きな位置を占めるのは、政治家としてではなくピラミッド造営者としての側面である。スネフェル王は父フニ王が未完のまま残したメイドゥムのピラミッド(現在は「崩れピラミッド」として無惨な姿をわれわれに見せている)を完成させたが、彼自身はそこに葬られることなく、葬祭殿も未完成のまま放棄された。どういう理由かは不明だが、スネフェル王はその後続けざまに「屈折ピラミッド」と「赤のピラミッド」を独力で完成させたのである。これ以降の歴史をみても、個人が複数のピラミッドを建造した例はほとんどない。
 理由はいろいろ考えられるが、古い風習に「偽墓(セノタフ)」というものがあり、彼はこれにならったのだと今では考えられている。偽墓とはかつて初期王朝時代(第1〜第2王朝)、首都を移したメンフィスの近くに王が自分のマスタバ墳を建造しておき、さらに伝統的な墓地であったアビュドスにも同じ墓を建造したという風習のことである。アビュドスはケンティ・アメンティウというヤマイヌ姿の死者の神を祀っていた聖地であったから、両方に墓が必要とされたのだといわれている。
ギザの3大ピラミッド しかしスネフェル王はメイドゥムのピラミッドを完成させると、その地でのさらなるピラミッド建造を取りやめ、再び首都メンフィスの近郊にピラミッドを造営したのである。それが「屈折ピラミッド」と「赤のピラミッド」なのである。彼はこの2基のピラミッドを建造する地として、サッカラの南にある砂漠地帯ダハシュールに求めた。
 スネフェル王の息子でピラミッド時代を代表する王クフは、ピラミッド建造を国家的な事業と位置づけ、絶対的な権力のもとに労働力を調達し、空前絶後となる巨大なピラミッドを残した王として知られる。彼は定期的な洪水によって否応なく農閑期に入る農民たちにピラミッド建設を請け負わせることで、決まった期間に膨大な労働力を確保できたのである。
 クフ王は父スネフェルの眠るダハシュールを離れ、カバ王のピラミッドがあるザーウィエト・エル・アリアーンからさらに北にあるギザという地をピラミッド造営の地に選んだ。クフ王の息子ジェドエフラー王だけは、ギザからはるか北に離れたアブ・ロアシュという場所にピラミッドを作ろうとして未完に終わったが、ジェドエフラー王の弟であるカフラー王は再びギザにある父のピラミッドの近くに戻り、かの有名なスフィンクス像とともに巨大なピラミッドを残したのである。その息子メンカウラー王もまたギザをピラミッド造営地に選んだため、ギザにはきわめて保存状態のよい3基ものピラミッドが残ることになった。これらのピラミッド群は付属施設や官僚たちのマスタバ墳も近くに付帯させており、この地域そのものが「死者が眠るための場所」であったことをうかがわせる。
 ところが、ピラミッド建設には膨大な費用がかかるものである。国家財政が順調なうちはいいが、それが厳しくなるとピラミッドなどに資金を回す余裕がなくなってしまった。メンカウラー王の小さなピラミッドがそれを如実に物語っている。メンカウラー王はまれに見る人格者で、国民を苦しめるだけのピラミッド建造など無駄と考えたのだという説はギリシア人歴史家ヘロドトスの伝えるところだが、実のところ財政の逼迫によって計画の小型化を余儀なくされたのだろう。彼の息子シェプセスカフ王の時代にもそれはますます悪化したようで、シェプセスカフ王はピラミッドの建造すら諦めざるをえなかったのである。
 シェプセスカフ王は父の眠るギザを離れ、かつて第3王朝のジェセル王、セケムケト王がピラミッドを残したサッカラの地に永眠の場所を求めた。だが彼がようやく残すことができたのは小さなマスタバ墳にすぎず、エジプト経済の衰退を無言のうちに叫び続けている。彼の墓はアラビア語で「マスタバ・アル・ファラウン(ファラオのベンチ)」と呼ばれており、同様に長方形をした墳墓の形式名マスタバ墳の語源ともなった。

写真(1):
 壮麗なギザの大ピラミッド群。手前からメンカウラー、カフラー、クフのピラミッドがほぼ一直線に並んでいる。メンカウラー王のピラミッド前面にあるのは、メンカウラー王の王妃たちが眠る小ピラミッド。
 小高い丘の上に建っているカフラー王のピラミッドがいちばん大きいように見えるが、高さにおいては奥にあるクフ王のピラミッドに9メートル及ばない。
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3.第5王朝時代

 ジェドエフラー王の孫と伝えられるウセルカフ王によって、第5王朝は開かれた。数多くの太陽神殿を建造したことで知られるウセルカフ王とその子孫たちだが、伝統的なピラミッドの建造は絶やすことなく続けていた。ウセルカフ王ははるか昔のジェセル王の「階段ピラミッド」の近くをピラミッド建造の地としたが、やはり第4王朝の時代とくらべると規模の小ささは否めない。この頃から石組みの技術が粗雑になるらしく、第5王朝の王たちが残したピラミッドのいずれも、なかば崩れてしまっているのが残念である。
 ウセルカフ王の弟であるサフラー王は、兄が選んだサッカラを離れてアブシールをピラミッド建造の適地とした。
アブシールのピラミッド群 サフラー王以来しばらくは、ギザと同じようにアブシール地域にピラミッド建設が集中するようになる。サフラー王のピラミッド本体は小さく、しかも崩れ去って小山のようになってしまっているが、河岸神殿や葬祭殿などの付帯施設は比較的保存状態がよく、散乱する石材には彼のカルトゥーシュすら認められるほどである。彼の双子の弟ネフェルイルカラー王もまた兄が眠るアブシールにピラミッドを建造したが、ウセルカフ、サフラー、ネフェルイルカラーの三兄弟以降は短命な王が続くようになり、彼らはピラミッドを残す前にこの世を去ってしまうようになる。
 アブシールにはサフラー王のものを筆頭に北からニウセルラー王、ネフェルイルカラー王のピラミッドと葬祭殿跡がひとまとめになり、比較的良好な状態で見ることができるが、わずか3年の在位だったネフェルエフラー王のピラミッドは未完で終わっており、同じく3年間だけ王位にあったシェプセスカラー王のピラミッドは発見すらされていないのが実情である。
 24年という長期政権を誇ったニウセルラー王が世を去ると、第5王朝は徐々に闇に覆われていく。彼の息子メンカウホル王は短命に終わり、ピラミッドも未完成だった。それ以来伝統的なピラミッド建造地だったアブシールは放棄されるようになり、再び初代ウセルカフ王が眠るサッカラにピラミッドの適地を求めるようになる。ジェドカラー王が建造したものはかなり大規模で、河岸神殿も葬祭殿も備えていたと思われるが、今はうずたかい土砂の山しか残っていない。
 ジェドカラー王の息子で、第5王朝の最後となる運命にあるウナス王のピラミッドもまたサッカラに造営された。彼のピラミッドも複合体で、河岸神殿からピラミッドに続く参道もしっかり造られたが、ピラミッドそのものは造りが粗雑ですっかり崩れてしまった。
 ところが1881年に内部を調査したフランス人考古学者ガストン・マスペロは、玄室を見回して驚愕した。内部は美しい装飾で覆われていたが、壁面にびっしりと描かれていたものは装飾ではなく、縦書きのヒエログリフだったのである。のちにそれは死者がきちんと冥界に行けるようにと記された「死者の書」であるということがわかり、現在では「ピラミッド・テキスト」と呼ばれてエジプト宗教学の一時代を成すものとして大切に保管されている。
写真(2):
 アブシールにある第5王朝時代のピラミッド群。
 第5王朝中期の王たちがここに集中してピラミッドを建造した。奥からサフラー王、ニウセルラー王、ネフェルイルカラー王のピラミッドが今でも残っている。
 左端にありプラットフォームしか残されていないのは、短命だったため未完に終わらざるを得なかったネフェルエフラー王のピラミッド。葬祭殿や参道など立派な複合体施設をもち、完成すればアブシールで最大規模のピラミッドになったことだろう。

4.第6王朝時代

 第6王朝を創始したテティ王は、30年以上の長きにわたって斜陽のエジプトを支えるべく奮闘し、崩れようとする繁栄をわずかながら再生させることに成功した。彼もまたみずからの永眠の地としてサッカラを選び、偉大な祖先ジェセル王の「階段ピラミッド」近くを造営地に決めたが、彼がその完成を見ることはなかった。どういった経緯によるものかは不明だが、テティ王は執務中に凶刃に倒れたのである。
 テティ王の息子ペピ1世は、地方貴族の勢力が日増しに高まっていく中で、絶対王権を復興するために努力し続けた。どうも第6王朝を率いた王たちは長命の家系だったようで、ペピ1世もまた30年以上の間王位にあり、精力的に活動している。だが財政はどうしても火の車で、自分のピラミッドを建造する余裕はなかったらしい。これほどの長期政権を誇りながら、ペピ1世のピラミッドは規模も小さく、付属施設もお粗末だからである。玄室にはピラミッド・テキストも記されてはいるが、ピラミッド本体はすでに崩れ去ってしまった。
 ペピ1世の長男メルエンラーは長命の家系にして珍しく、即位して10年もしないうちにこの世を去ってしまう。生前からピラミッドの建造は始まっていたようだが、未完成だった。
 メルエンラー王の死後に即位したペピ2世は、おそらく人類の為政者としては最長と思われる94年もの在位期間を誇る。ところが彼の治世はただ長いだけで無気力に満ちており、混乱の度を増していくエジプトを救う力は持ち合わせていなかったようだ。経済状態も目をおおうばかりになり、地方貴族の増長は国家権力に壊滅的打撃を与えた。
 そんな中でも、ペピ2世のピラミッドは形ばかりではあるが残された。だが父ペピ1世の崩れ去ったピラミッドと比べても規模はさらに小さく、老いて数々の名誉に彩られたはずの王が眠るには狭すぎる観すらある。

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5.第1中間期

 輝かしい古王国時代が終わり、混乱と無秩序の時代である第1中間期に突入すると、かつて名実ともにエジプト全土の支配者だったファラオの権力は弱体化し、ある一定の地域しかその勢力を維持できない存在にまで堕落した。プトレマイオス朝時代の歴史家マネトーは大まじめに、第7王朝は70日間しか存続しなかったのにもかかわらず、70人の王が即位したと書いているほどである。
 第1中間期についてはほとんどわかっていないだけに、この時代に残されたものでは唯一と思われるイビ王のピラミッドには資料的価値が大きい。だが小さかったペピ2世のものに隣接している彼のピラミッドは、それよりもさらに小さい。それ自体が混乱と激動の時代を物語っているかのようである。


6.第12王朝時代

 第11王朝によって再統一されたエジプトは、中王国時代を迎えて経済的な復興をとげた。
 だがテーベに興った第11王朝はピラミッドの建造をしなくなり、代わってベニ・ハサンに残る列柱式墳墓を発展させた神殿のような王墓を多く残すようになる。これはのちの新王国時代に一般化する墓の形式を先取りしたもので、テーベのデイル・エル・バハリにあるメンチュヘテプ2世葬祭殿は壮大で神聖な美しさを誇る。
 ところが、第11王朝の断絶後に王権を引き継いだ第12王朝は、次世代の様式として完成に向かっていた神殿式王墓を放棄し、再びピラミッドの建造を始めるのである。その嚆矢となったのは、第12王朝を興して首都をテーベからイティ・タウィに移したアメンエムハト1世である。
 一介の平民から身を起こしたとされるアメンエムハト1世は、第1中間期を通じて強くなりすぎた地方貴族の勢力を弱体化させるとともに、古王国時代のような絶対的で神聖不可侵の王権を理想とした。そういう考え方であった彼にとって、ピラミッドの建造は偉大な先祖に肩を並べるためにも、是非とも必要な大事業だったに違いない。彼のピラミッドは首都イティ・タウィにほど近い(イティ・タウィの詳しい場所は現在でも不明)と思われるエル・リシュトのナイル川沿いに建てられた。
 第6王朝の創始者で懸命に祖国を復活させようとしたテティ王と同じように、第12王朝の創始者であるアメンエムハト1世もまた、志なかばにして凶刃に倒れてしまった。だがその息子センウセルト1世は父譲りの能力と粘り強さを武器にしっかりと王権を守り通し、ともすると崩れそうになるエジプトの繁栄をどうにかして軌道に乗せることに成功した。彼もまた父のそばにピラミッドを作ったが、今となっては両方とも玄室が地下水で満たされてしまっており、発掘調査は事実上できない状態である。
 次いで王位にのぼったアメンエムハト2世は、モエリス湖の干拓やファイユーム地方の農業政策などで知られる王である。彼もまたピラミッドの造営に取りかかったが、彼が選んだ土地は祖父と父が眠るエル・リシュトではなく、古王国時代の英主スネフェル王が残したピラミッドがあるダハシュールだった。ここにはのちにセンウセルト2世、アメンエムハト3世もピラミッドを造営するが、その出来は決していいとは言えず、今では崩れかかってしまっている。総じて中王国時代のピラミッドは無惨な状態になっているものばかりだが、それは石材節約のために石組みを芯部だけに限定し、外装は日干しレンガに転換したからである。古王国時代の緻密で頑丈なピラミッド建造技術はすでに絶えてしまったのだろうか。
ラフーンのピラミッド アメンエムハト2世の息子であるセンウセルト2世は、ピラミッドの建造そのものを国家事業として推しすすめた王である。彼が建設地として選定したのは、歴代ファラオが残したピラミッド群の中では最南端にあたるアル・ラフーンという土地で、ファイユーム地方の入口になる場所だった。彼が作ろうとしたピラミッドはややナイル川から離れていたため、水運による資材運搬が困難だったこともあり、資材集積場と労働者宿舎を兼ねた街を新たに設けることで対処した。ヘテプセンウセルトと名付けられたその街は、全国から集まる多くの労働者たちによりきわめて繁栄したようである。
 ところが、ヘテプセンウセルトの街は突如として放棄され、あっという間に砂に埋もれてしまった。王が急死したためピラミッド建造が中止されたからか、それとも外敵に攻められたからか、その理由は今でもわかっていない。
 その息子センウセルト3世もダハシュールにピラミッドを残したが、彼の後を継いだアメンエムハト3世こそは、エジプトにおけるピラミッド建造史に名を残す王のひとりである。彼は決して楽とは言えない財政状況の中にありながら、ひとりで2基のピラミッドを造営した人物なのである。ピラミッドを残した王は数多く存在するが、個人で複数のピラミッドを建造できたのは第4王朝のスネフェル王と、彼だけである。
 アメンエムハト3世のピラミッドはダハシュールとハワラに残っているが、彼自身が埋葬されたのはおそらくハワラの方で、ダハシュールにあるピラミッドは建造途中で作業が中止され、放棄されたようである。
 ハワラのピラミッドには広大で宏壮な葬祭殿が付属していた。今では瓦礫の山になっているが、本来ならば葬儀終了後はほとんど使用されなくなる葬祭殿でありながら神殿に転用され、ギリシア人旅行者がエジプト各地を回る時期まで存続していたという。ギリシア人たちはこの葬祭殿を「ラビュリントス(大迷宮)」と呼んで、その壮大さを後世にまで伝えた。
 だが、アメンエムハト3世の死後はエジプトの勢力そのものがすっかり衰えてしまい、彼の後を継いだアメンエムハト4世とセベクネフェル女王がどのような業績を挙げたのかも定かではない。もちろんピラミッドについても同様だが、ダハシュールの南に広がるマスグーナという砂漠地帯に、完全に崩れ去って見る影もないピラミッドが2基、寄り添うように建っているのがみられる。それがアメンエムハト4世とセベクネフェル女王夫妻のピラミッドではないかとする学者もいる。

写真(3):
 ラフーンに残された、第12王朝の王センウセルト2世のピラミッド。
 ピラミッド建造のためだけに作られた街ヘテプセンウセルトを拠点に、巨額の資金を投じて建造されたにもかかわらず、建材が日干しレンガだったため劣化が激しく、今では砂漠にそびえ立つ岩山にしか見えない。

7.第2中間期

 第13王朝は正式な中王国の後継王朝であるが、その勢力は比べものにならないほど弱体だった。国内のあちこちに独立政権が生まれたため王権が行きとどかなくなり、さらにはデルタ地帯に入り込んだヒクソスが商業を独占してしまったために、王朝の財政までが急速に悪化した。
 そんな中でも、ピラミッドを建造することのできた王がいる。サッカラの南端、ダハシュールに立つセンウセルト3世のピラミッドの北寄りに、4基の粗末なピラミッドがある。もうほとんど崩れてしまって年代測定もできずにいたが、その中の1基から発見された遺物にあった「ケンジェル」という名前から、これらが第2中間期に属する第13王朝のケンジェル王のピラミッドであることが判明したのである。だが彼のピラミッドに用いられた建造技術はすでに救いようもないほど破綻しており、ピラミッド時代が終わりに近づいたことを否応なく感じさせられる。
 そしてついに、ピラミッド時代の終わりがやってきた。現在発見されているピラミッドの中ではもっとも時代が新しいものが、なぜかナイル川西岸のピラミッド地帯ではなく、デルタ地帯のアヴァリス近郊で見つかったのである。ピラミッドの主はアイという王で、第13王朝の末期に存在した人物のようである。しかも見つかったのはピラミッドそのものではなく、最頂部に置く三角錐の石(キャップ・ストーン)だけだった。
 アイ王の治世が終わると、程なくして第13王朝はデルタ地帯に消え去り、残された土地にはヒクソスが第15王朝を打ち立てることになる。彼らはアジアからやってきた商業民族の集団であり、土着の宗教は尊重したもののピラミッドの建造を引き継ぐことはなかった。
 ヒクソスを倒して再びエジプトを統一し、輝かしい新王国時代への足がかりを作ることになる第17王朝は、テーベにおいてすでに神殿式王墓の様式を完成させていた。こうしてピラミッドの建造技術を担うべき文化は消滅し、建造費を捻出する意志のある為政者もいなくなって、長かったピラミッドの時代は終わりを告げたのである。