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皆さま、ようこそデジタル地図集成においでくださいました。
デジタル地図「ギザのピラミッド」では、世界的に有名な観光地でもある、
第4王朝〜第6王朝にかけて栄えたギザの大ピラミッド群を扱います。
さらにそればかりではなく、ギザのピラミッド群の構造に関する解説や、
その規模、歴史、建築様式などについての記述も豊富に用意いたしました。

デジタル地図「ギザのピラミッド群」概要
作成時使用アプリケーション: Adobe Illustrator 8.0.1 日本語版(Windows Millennium Edition)
画像形式/画像詳細: 画像形式/色数:
GIF形式、透明あり、全63色、インターレースなし
画像サイズ/表示速度他:
48.9KB、10秒@56kbps/1秒@1.0Mbps、505×553pixel
作成原図/参考文献 作成原図:
『増補版・標準世界史地図』(亀井高孝、三上次男、堀米庸三・編、吉川弘文館、1993年) 3ページ
参考文献:
『図説・古代エジプト1 -ピラミッドとツタンカーメンの遺宝-』(仁田三夫・著、河出書房新社、1998年)
『古代エジプト・ファラオ歴代誌』(ピーター・クレイトン・著、吉村作治・監修、藤沢邦子・訳、創元社、1999年)



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また「デジタル地図集成」では、現在以下の地図および解説ページを用意しております。

エジプト全図ピラミッド分布図 | ギザのピラミッド | ルクソール詳細図王家の谷
カデシュの戦いカルナック神殿とルクソール神殿
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第3章 古王国時代:第3節2項「クフ王の苛烈な統治」


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ギザのピラミッド群
1.様式と時代背景

 ナイル川西岸に位置するギザ台地は、現在の首都カイロから南西約15キロの場所にあり、世界中から観光客が訪れる有名な観光地である。紀元前2世紀に「世界の七不思議」と銘打った旅行記がビザンティウムのフィロンによって発表された当時から、ギザに建つ3基の大ピラミッド群は驚異の的だったのである。「世界の七不思議」はギザのピラミッドの他にハリカルナッソスのマウソレイオン、エフェソスのアルテミシオン、バビロンの空中庭園、オリュンピア神殿のゼウス神像、ロードスの巨像、アレクサンドリアのファロス灯台が数えられているが、現存するのはギザのピラミッド群だけである。
 ギザ台地に最初のピラミッドが造営されたのは紀元前2520年ごろとされ、第4王朝の2代目であるクフ王によって創建されたピラミッド複合体が一連の石造建造物群の始まりとなった。
 クフ王は第4王朝の創始者スネフェル王の息子で、「神の子」ファラオが天より授けられた絶対的権力を、より強固なものに仕立て上げた専制君主である。父スネフェル王もまた3基ものピラミッドを個人で建造するほどの権力と財力を誇った。
 ギザに建造されたクフ王のピラミッド以来、ここには彼に続く3人の王がみずからの生涯を賭けてピラミッドを建造した。クフ王のピラミッドから正しく南西方向に分布する、彼の次男カフラー王のピラミッドと孫メンカウラー王のピラミッドである。
 ここに建造されたピラミッドは小さなものを除けばわずか3基で、サッカラやアブシールなどピラミッドの集中地域に比べればその数こそ劣るものの、規模および建築技術の精巧さにおいてはギザ台地ものものの右に出るものはない。現代にまでほとんど崩壊せずに残ったのも、それが第一の理由であろう。
 今でも砂漠の彼方にそびえ立つ大ピラミッドの勇姿は驚くほどのものだが、実はピラミッドだけで構成されているわけではない。ピラミッドの他にも葬祭殿、ピラミッド参道、そして河岸神殿など多くの施設によって成り立っている「複合体」なのである。考古学者および建築史家などの間では「ピラミッド複合体」、もしくは「ピラミッド・コンプレックス」と呼ばれている。こうしたスタイルは以前のピラミッドにも若干みられたが、クフ王のピラミッドによってひとつの様式として完成したのである。
 もっとも古いクフ王のピラミッドには、すでに砂に埋もれたり崩壊したりして、こうした付属施設の存在は認められない。だがカフラー王のピラミッドやメンカウラー王のピラミッドのものは比較的よく残されており、創建当時の姿を想起させてくれる。メンカウラー王の河岸神殿脇には、石材採取後に余った岩山を彫り抜いて作られたと思われるスフィンクス像や、その神殿までがしっかりと残っているのである。
 河岸神殿はおそらく、ナイル川を使って船で運ばれてきた石材を積み下ろす集積基地を神殿に転用したものと考えられ、参道は石材の運搬道ではないかといわれている。こうした構造物は、ギザのピラミッド群以降に建てられたピラミッドのほとんどに共通する様式である。
 ピラミッドは古王国時代における権力の象徴として、王の墓として計画・建造された施設であるとされてきた。だがピラミッドは本当に、墓として造られたのであろうか? 葬祭殿や葬送施設などの存在から、葬儀に関する施設であることだけは確かなのだが、現在発見されているどのピラミッドからも遺体らしきものが発見されていないので、墓であるとする従来の学説に異を唱える学者も多いのである。近年では宇宙人がその交信のために建造したなどという異説が発表されているほどである。



2.クフ王のピラミッド

 この世界最大のピラミッドは正四角錐で、底辺の長さは230メートル。高さは137.5メートル(創建当時は146.6メートル)であり、正確に東西南北に面して建てられている。傾斜角は51度52分。
 建造責任者は、クフ王の従兄弟で宰相のヘムオンという人物だった。彼は本来建築家ではなく政治家である。王の右腕として多くの政策立案にかかわった傑物であり、彼のマスタバ墳がピラミッドのすぐ横に残されている。膨大な数にのぼる労働者を束ね、史上空前の難工事をなし遂げた彼の功績は非常に大きなものであるばかりでなく、ギザにある3基の大ピラミッドの建造にあたった現場監督としては、唯一現代にまで名を残すこともできた。
 だがこのピラミッドはそうした絶対的な政治力だけでなく、その建築技術の精巧さにおいても、世界の古代建造物に冠絶している。正確に東西南北の方位を割り出す天文学的知識もさることながら、一辺を正確に230メートルに設定し、それを実現できる測量技術の高さも特筆される。方位は東西方向でわずか約0.5度の誤差、辺の長さは最長と最短との差がたったの20.3センチメートルのみという精度はまさに奇蹟と言っていい。
 クフ王のピラミッドに使用された石材はすべて石灰岩で、基部のものがもっとも大きく、上に積み重なるに従って小さくするいう方法で重量軽減をはかっている。1798年にフランス軍を率いてこの地に進駐したナポレオン・ボナパルトは、クフ王のピラミッドに使われた石材の数を約230万個と想定し、ギザにある3基のピラミッドすべての石材を使ったならば、フランス全土を囲む高さ3.7メートル、厚さ30センチメートルの壁を築くことができるだろうと計算した。最近の調査結果により、ピラミッドの芯部には寸法不明の自然石もしくは巨大なマスタバ墳らしきものがあることが確認されている。
 ギリシア人歴史家ヘロドトスは現地の神官から聞いた話として、以下の記述を残している。
「エジプトではランプシニトス王(ラメセス3世と考えられる)の時代までは、申し分のない政治が行われ、エジプトの国は大いに栄えたが、彼の後にエジプト王となったケオプス(クフ王のこと)は、国民を世にも悲惨な状態に陥れた、と祭司たちは語っていた。この王は先ずすべての神殿を閉鎖し、国民が生贄を捧げることを禁じ、つづいてはエジプト全国民を強制的に自分のために働かせたという。アラビアの山中にある石切場から石をナイルまで運搬する役を負わされた者もあれば、船で河を越え対岸に運ばれた石を受け取り、いわゆるリビア山脈まで曳いてゆく仕事を命ぜられた者たちもあった。常に十万人もの人間が、三ヶ月交替で労役に服したのである。
 石材を曳くための道路を建設するのに、国民の苦役は実に十年にわたって続いたという。この道路というのが、全長二十五スタディオン(4440メートル)、幅十オルギュイア(17.8メートル)、高さはその最も高い地点で八オルギュイア(14.2メートル)あり、さまざまの動物の模様を彫り込んだ磨いた石で構築したもので、私の思うには、これはピラミッドにもあまり劣らぬ大変な仕事であったに相違ない。なお右の十年間には道路のほかに、ピラミッドの立つ丘の中腹をえぐって地下室も造られた。これは王が自分の葬室として造らせたもので、ナイルから堀割を通して水をひき、さながら島のように孤立させてある。
 ピラミッド自体の建造には二十年を要したという。ピラミッドは(基底が)方形を成し、各辺の長さは八プレトロン(236.8メートル)、高さもそれと同じで、磨いた石をピッチリと継ぎ合わせて造ってあり、どの石も三十フィート以下のものはない。」…『歴史』上(ヘロドトス・著、松平千秋・訳、岩波文庫、1971年、240〜241ページ)
 この記述は聞き書きで、クフ王よりラメセス3世の方が先になっていること、在位23年のクフ王が30年をかけてピラミッドを建造したことなど、現在の研究成果とは整合しないことも多い。だが内容にはピラミッド参道や玄室の状況など興味深い記述も含まれており、無視できない存在ではある。
クフ王の大ピラミッド クフ王のピラミッド南脇には、王の葬儀の際に使用されたと思われる巨大な木造船をおさめていた「船坑」を保存した博物館が建っている。この博物館は船坑をそのまま覆ったもので、中にはここから発見された木造船を組み立てたものが展示されている。木造船は1954年に発見されたもので、全長43.3メートル、全幅9メートル、高さ7.9メートルのレバノン杉(レバノン杉とは杉ではなく松)製で、1224個のパーツに分解して収納してあった。太陽信仰によれば王は死後、船に乗って太陽神のもとに向かうとされるので、この船は葬儀の際に昇天の儀式のために使われたものと推定された。
 だが太陽信仰はクフ王の生前それほど盛んではなく、次の第5王朝の初代ウセルカフ王が広めたものである。またギザ台地じたい第4王朝以降も第6王朝時代まで墓地として使われていたため、クフ王時代のものではないのかもしれない。またこの船には数回だが実際に水に浮かんだ形跡もあったため、葬儀用に限ったものではないらしい。
 またクフ王のピラミッド周辺には多くのマスタバ墳があり、多くの政府高官たちが王とともに眠っている。これらの周辺遺跡のうち最大のものは3基の「王妃のピラミッド」と呼ばれるもので、それぞれにクフ王の姉妹たちが葬られていたらしい。マスタバ墳群にはクフ王に仕えた高官たちをはじめ、第6王朝時代に至るまでさまざまな官僚たちが埋葬された。
 このマスタバ墳群の脇から、1925年に大きな発見があった。新たな竪穴が見つかったのである。
 竪穴の深さは30.2メートルもあり、底部には小さな玄室があった。ここはおそらく墓らしく、古王国時代のもので、掘削当時に密封されて以来誰にも発見されていなかった。玄室にはアラバスター(雪花石膏)製の石棺と内臓を入れる箱、木製のベッドや肘掛けイス2脚、輿などが納められていた。これらの副葬品に彫られた銘文から、墓主はクフ王の実母にして、先王スネフェルの妻だったヘテプヘレス1世だと判明したのである。
 石棺にはすでに遺体はなかったが、アラバスター製の箱は内部が4つに仕切られており、かつて内臓を実際に保存した証拠となる人体細胞の残滓が検出された。ミイラ作りの際に内臓を抜き取り、「ホルスの4人の息子」の加護のもとに保管するという風習がわかる最古の例と考えられる。
 ヘテプヘレス1世は当初、夫スネフェル王の「赤のピラミッド」のそばに埋葬されたと思われる。だが死後数年にして早くも墓荒らしに遭い、ミイラは盗み出されてしまった。副葬品のうち数点は警備兵の奮闘によりどうにか守ることができたが、不安になったクフ王は自分のピラミッドの脇に母の遺体を移したのだろう。もしかしたら、クフ王は母の遺体がもう盗まれてしまったことを知らなかったのかもしれない。
写真:
 エジプトの空に今でも変わらずにそびえ立つクフ王のピラミッド。
 「古代世界の七不思議」のひとつに数えられていたギザのピラミッド群においてもクフ王のピラミッドは最大規模を誇っており、唯一現存する建造物である。19世紀末にパリのエッフェル塔が完成するまでこの建物は世界一の高さであり、それまでの4500年間、その記録を古代のエジプト人が保持していたのである。


3.カフラー王のピラミッド

 クフ王の次男カフラー王は、短命だった兄ジェドエフラー王の後を継いで王位にのぼった。兄ジェドエフラー王は父と離れてアブ・ロアシュという場所にピラミッドを作ろうとして未完で終わったが、カフラー王は再びギザにある父のピラミッドの近くに自分のピラミッドを計画したのである。
 完成したピラミッドは高さ136.5メートル、底辺210メートル、傾斜角53度10分。並べてみると父クフ王のピラミッドより高く見えるが、カフラー王のピラミッドはそれより高い場所に建っているからそう見えるだけなのである。実際には創建当時の父のピラミッドより10メートルも低い。今でも頂部を9メートルも失った父のものよりもまだ1メートルも低いのである。おそらくカフラー王は父を意識して、わざわざ父よりも高い場所を選んでピラミッドを建造したのだろう。
カフラー王のピラミッドと河岸神殿 カフラー王のピラミッドは父クフ王のものとは違い、ピラミッドそのものに内部構造物はない。入口は北側に2カ所あり、それらは内部で合流する。そこからほぼまっすぐ平らな通路が続き、玄室に至るが、今では花崗岩製の簡素な石棺があるだけである。その玄室はピラミッドの頂点からちょうど真下にあたり、地表とほとんど同じ高さにある。つまりピラミッドそのものは単なる積み石であり、あらかじめ造られた玄室の上に「乗っている」だけなのである。
 だがカフラー王のピラミッドにおいて特筆すべきなのは、創建当時の「ピラミッド複合体」を今でもそのまま見ることができるという点であろう。完成時にピラミッド複合体を構成していたピラミッド、葬祭殿、ピラミッド参道、河岸神殿、そしてスフィンクス像とスフィンクス神殿のすべてが今でも残っているのである。
 河岸神殿はピラミッド建造時に石材積み下ろし基地として整備され、ピラミッドの完成後は死せる王を死者の世界に送り出すための儀式の場として跡地に神殿が建てられた。ピラミッド参道は石材を運搬した斜道の跡であろうと思われる。現在の河岸神殿は天井もなく当時の姿を推定するしかないが、主要部分に使われた建材は地元産の石灰岩で、かつてははるか南のヌビアから運ばれてきた美しい赤花崗岩で壁面が装飾され、天井を支える列柱のそれぞれの間には、明かり取りから差し込んでくる淡い光に照らされた23体ものカフラー王像が並んでいたのである。1860年にそのうちの9体が河岸神殿の地下から発見された。この河岸神殿は当時最新の建築技術が集中されており、硬い花崗岩を「ほぞ」と「ほぞ穴」で接合するという技術で、すき間なく組み合わせるという工法の先進性には脱帽するばかりだ。実際に、河岸神殿は現存する古王国時代の神殿建築物の中では最大の部類に属する。
 河岸神殿の北側には、世界的に有名なスフィンクス像とスフィンクス神殿が残っている。
 スフィンクス像は高さ20メートル、全長73メートルで、人間の頭部にライオンの胴体という「人面半獣」の姿をしている巨大な「彫刻作品」である。スフィンクス像は別の場所で作られてここに運ばれたのではなく、もともとその場所にあった石灰岩の岩山を彫り抜いたものなのである。定説では、ピラミッドを築くのに使う石材を採取した岩山の残りだとされている。
スフィンクス像全景 ピラミッド参道はこの像を避けるかのように南側にそれているが、従来はここにあった岩山を崩すことができなかったためこれを避けて参道を曲げたが、岩山が残っているのも体裁が悪いのでスフィンクス像に仕立てたのだ、と考えられてきた。だが石灰岩など容易に切り出して建材として使用し、また花崗岩や閃緑岩などの硬い岩石で彫像まで作ることができた当時のエジプト人がもつ技術水準からして、それは理由として不十分である。おそらくその山はもともとスフィンクスの形をしていて、ピラミッドの守護神として建造計画の段階からすでにスフィンクス像として仕立て上げるように決まっていたのではないだろうか。実際、スフィンクス像は南にある河岸神殿より5メートル高い場所にあり、石組みの工法も河岸神殿とは違うのである。そうなると、この像は岩山の残りではなく当初からスフィンクス像として彫り抜かれ、ピラミッドより先に完成していたと考えるのが妥当なのである。
 スフィンクス像という名称は、この像の本来の名前ではない。真の名称は「ラー・ホルアクティ」という。
 ラー・ホルアクティ神は太陽信仰に関わる神で、古王国時代から首都のメンフィスで信仰されていた「ホル・エム・アケト(地平線のホルス)」という王権を象徴する神ホルスの一様態が太陽神ラーと習合し、それがなまってラー・ホルアクティと呼ばれるようになったのである。この神は必ずしも胴体がライオンであるというわけではなく、新王国時代になるとむしろ頭に日輪を乗せ、ハヤブサの顔と人間の体という形で表現されることが多くなる。そもそもスフィンクス像は「力強き王」の象徴として、王の顔をしたライオンが敵を踏みつけるというモチーフによく登場する。このライオンの体というのはとりわけ神聖な意味があり、カルナック神殿にあるラメセス2世が奉納したというスフィンクス像は、牡ヒツジの頭をしているのである。
 現在一般的になっているスフィンクスという名称は、エジプト語の「シェセプウ・アンク(王の似姿)」がギリシア語に転訛したものである。紀元前5世紀ごろに多数訪れたギリシア人旅行者たちが現地人に聞いたからなのだろうが、そうなるとすでに当時、この像は現地人からも「王の似姿」と呼ばれていたことになる。スフィンクス像がカフラー王の生前の容貌をモチーフに造られたというのは有名な話で、かなり古くから一般的に信じられていたのだろう。それがもし本当ならば、実物大以上の大きさとしては世界でもっとも古い肖像であるということになる。
 ちなみにスフィンクス像の鼻は、1798年にナポレオン率いるフランス軍がやってきて、大砲の試射の際に標的にされて破壊されたとよく言われるが、彼らが来たときには像は現在とまったく同じ姿だった。実は1380年にイスラム教徒による狂信的な異教排斥運動にともなってすでに破壊されていたのである。また男性王の象徴としてよく表現される顎についた長い髭も同様に破壊されたが、1818年に砂に埋まっているのが発見された。現在は大英博物館に保存されている。

写真(上):
 カフラー王のピラミッド複合体。奥にあるカフラー王のピラミッドに併設された葬祭殿は石組みの跡しか残っていないが、そこから続くピラミッド参道、そして手前にある河岸神殿はほぼ原形をとどめている。これほど明らかに残っている構造物群はこれからの研究を大いに助けることだろう。
写真(下):
 スフィンクス像を北側から見た写真。スフィンクス像の胴体は長年の砂による風化で見る影もないが、雨による浸食の跡も確認されており、古代におけるギザは今のような砂漠の突端などではなく、緑あふれる庭園だったのかもしれない。


4.メンカウラー王のピラミッド

 ギザにある3基の大ピラミッドの中でも、もっとも小さいのが、カフラー王の息子メンカウラー王のピラミッドである。
 高さ約66.5メートル(創建時は70メートル)、底辺約108.5メートル、勾配51度20分という規模のピラミッドだが、大きさだけでいえば祖父クフのものと比べればおよそ半分しかない。その理由はさまざまに考えられるが、財政逼迫説、メンカウラー王人格者説、そして彫像の作りすぎによる建造費用の払底説などがある。
 メンカウラー王がまれにみる人格者だったという説は、ギリシア人歴史家ヘロドトスが伝えているところである。彼は古王国時代において最良とされる仁政を行ったが、祖父と父が行ったピラミッド建造にともなう強制労働をどうしても是認できず、自分用のピラミッドそのものも規模を削減するか、廃止しようと考えていたとする説である。当初の計画ではメンカウラー王のピラミッドはわずか高さ30メートルにすぎず、実際にその高さで一度は完成したが、父と祖父の残した大ピラミッドとのバランスを考えた家臣たちの強硬な進言により増築を決断し、最初のピラミッドを覆うように現在のものを建て増ししたのである。科学的な検証によりその形跡も確認されている。この事実はメンカウラー王の人格者説を裏付けるかに思われた。
 だがその事実は、財政逼迫説をも同時に裏付けうる。クフ王とカフラー王による空前の大事業によって、すでに国庫は底をつき、新たな大事業を行うだけの財政的な余裕がなくなっていたのではないかという考え方である。可能性としてはこちらの方がより現実的であろう。そのためピラミッドを建造するだけの余裕がないことを知ったメンカウラー王が、別の方法で自分の姿と業績を残そうと考えたとするなら納得できる。別の方法とは数多くの彫像を制作することであった。
メンカウラー王のピラミッド 彫像の形式はほとんどが二体像(ダイアド)または三体像(トライアド)と呼ばれるもので、王と並んでさまざまな女神たちが彫られた。エジプト全土はいくつもの行政区(ノモス)に分かれており、そのそれぞれに土着の信仰と縁の深い、象徴となる神がいた。メンカウラー王はそのすべてのノモスの女神たちと自分とが並んだ像を作ることで、自分がエジプト全土を支配しているのだということをアピールしようとしていたのではないか。おそらく彼は全国のノモス女神たちと自分との二体像(または三体像)を連作する構想をもっていたものと思われる。数多く見つかっているメンカウラー王の彫像がその壮大な計画を物語っている。
 メンカウラー王のピラミッドは第1期工事として高さ30メートルを計画し、一度は完成したと先に書いたが、第2期工事として増築され現在の形になったとき、最初のピラミッドで玄室だったものは前室となり、新たにその真下に玄室も増築されていた。
 1835年からエジプトを訪れており、当時そこを支配していたオスマン・トルコの太守ムハンマド・アリーから許可を得たイギリスの駐在武官ハワード・ヴァイス大佐は、1837年にメンカウラー王のピラミッド脇で入口を発見した。彼は通路を埋めていた土砂を取りのぞきながら50メートルほど進んだが、前室の下にある玄室はすぐに見つかった。
 ヴァイス大佐が玄室に入ると、玄室の隅に玄武岩でできた蓋なしの石棺があり、そこにはセレクが刻まれていた。彼がその意味を判別することはできなかったが、石棺の中には木製の人型棺が入っているのを見つけた。人型棺は新王国時代以降の様式なので、古王国時代のものではないことはすぐにわかった。おそらく宗教ブームが起こった末期王朝時代に復元されたのだろう。ヴァイス大佐は苦労して石棺と人型棺をピラミッドから引き出し、大英博物館に宛てて船便に乗せた。だが、人型棺を積んだ船は無事にロンドンに着いたのに、石棺を積んだ船はリボルノの港を出てからすぐに暴風雨に遭遇して沈没してしまったのである。今でもその難破船は見つかっていない。亡きメンカウラー王の霊がそうさせているのだろうか。
 ちなみにメンカウラー王のピラミッドの玄室からは、布に包まれた肋骨や大腿骨、背骨の一部が見つかった。これがまだメンカウラー王のものだという証拠はないが、その当時ピラミッドから遺体の一部が発見されたという例がまだなかったので、これはピラミッドが墓だったという説を裏付ける数少ない証拠である。

写真:
 メンカウラー王のピラミッド。右側にあるのは王妃の小ピラミッドである。
 彼のピラミッドは苦しくなる財源の中でようやく完成したが、彼に続く第5王朝の王たちは比較的経済が順調だったにもかかわらず、メンカウラー王のピラミッドを上回るものを建てられなかった。
 事実上、古王国時代におけるピラミッド建造の伝統は、メンカウラー王のピラミッドを最後にピリオドを打ったのだろう。