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ようこそ、「ルクソール詳細図」のコーナーにおいでくださいました。
当コーナーは、エジプト観光の目玉であるルクソール市をより詳しく解説しようというコンセプトで、
ルクソールの歴史を概説的に物語るとともに、各地に散在する歴史遺産についても、
平面図や写真を用いて、その概要を解説しようというものです。
これからエジプト旅行を計画されているお客様は、当コーナーを熟読いただけば、
現地で実物の歴史遺産に触れる楽しみが、まさに数百倍にもなることでしょう。
また冒頭に用意されました地図中の地名をクリックしますと、解説文にジャンプする仕組みになっております。
それでは皆様、ルクソールが経てきた波乱の歴史をお楽しみください。

デジタル地図「ルクソール詳細図」概要
作成時使用アプリケーション: Adobe Illustrator CS 日本語版(Windows XP Home Edition SP1)
画像形式/画像詳細: 画像形式/色数:
(1):GIF形式、透明あり、全83色、インターレースなし
(2):GIF形式、透明あり、全38色、インターレースなし
(3):GIF形式、透明あり、全28色、インターレースなし
画像サイズ/表示速度他:
(1):77.8KB、15秒@56kbps/2秒@1.0Mbps、804×650pixel
(2):35.95KB、7秒@56kbps/1秒@1.0Mbps、461×735pixel
(3):26.85KB、6秒@56kbps/1秒@1.0Mbps、424×768pixel
作成原図/参考文献 作成原図:
『図説・古代エジプト2 -王家の谷と神々の遺産-』(仁田三夫・著、河出書房新社、1998年) 16〜17ページ、77ページ、71ページ
参考文献:
『ラメセス2世〜神になった太陽王の物語〜』(ベルナデット・ムニュー・著、吉村作治・監修、南條郁子、福田ゆき・訳、創元社、1999年)
『古代エジプト・ファラオ歴代誌』(ピーター・クレイトン・著、吉村作治・監修、藤沢邦子・訳、創元社、1999年)
『古代文明の旅・エジプト』(ジョルジョ・アニェーゼ、モウリチオ・アレ・著、大塚茂夫、小笠原景子・訳、日経ナショナルジオグラフィック社、2003年)



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また「デジタル地図集成」では、現在以下の地図および解説ページを用意しております。

エジプト全図ピラミッド分布図ギザのピラミッド | ルクソール詳細図 | 王家の谷
カデシュの戦いカルナック神殿とルクソール神殿
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第1節 「百門の都」テーベの歴史


1.聖都ワセトの誕生

 現在の首都カイロから南に670キロメートル。ナイル川沿いの航路を山地に入ろうとする手前、川の湾曲部を抜けたところに、エジプト屈指の観光都市ルクソールがある。この都市は古代エジプト人により「ワセト」と名づけられており、ここには混乱期を脱して全エジプトを再統一した第11王朝、または古代オリエント世界の覇者としての地位を確立した第18王朝の首都が置かれていた。のちにギリシア人旅行家によって「テーベ」と名づけられ、現代もその名で呼ばれることが多い。テーベとはギリシア・ボイオティア地方の中心都市の名前で、ワセトと同じ宗教都市である。
 ワセトの名は、古王国時代にはすでに碑文などで散見される。だがここはあくまで数ある地方都市のひとつでしかなく、オシリス神の聖都アビュドスやハトホル神の膝元であるデンデラなどにくらべると、アルマントの地方神メンチュの支神殿がある街というだけでほとんど無価値であった。かなり以前から存在こそしていたものの、人口希薄な、ほんの集落でしかなかったと思われる。
 ところがこの町は、古王国時代末期から第1中間期にかけて急成長をとげる。河岸の水運都市としての地位を確立したものか、第1中間期にはすでに地方長官が所在する中心都市に変貌していたのである。
 ワセトの転機は、ヘラクレオポリスの第10王朝により地方長官に任じられたメンチュヘテプ1世という人物が帰郷し、この地に着任したときだった。彼の名前メンチュヘテプは「メンチュ神は満足である」という意味で、彼はワセトの地方神メンチュの神官をしていた家系の出身ではなかったかといわれている。もともと自立心が強く、独自の経済基盤と住民の支持を得ていたメンチュヘテプ家は勢力を増大させていき、ついに彼の息子アンテフ1世は王を名乗って第11王朝を創始し、ファラオの特権とされた王名枠カルトゥーシュを使用し、即位式まで断行するようになる。アンテフ1世は初期王朝時代の王たちを理想としており、誕生名には形式上カルトゥーシュを使ったものの、即位名は残さずにセレクを表示し、ホルス名を後世に伝えるようにした。歴史上においてはアンテフ1世が、ワセトに王宮を開いた記念すべき先駆者なのである。
 アンテフ1世の息子アンテフ2世は、この都市を基点にエジプト統一の大作戦を発起した。王位を公言しながら地方長官程度でしかない地位を脱却すべく、彼は生涯を賭けてこの大事業に取り組んだのである。結果をいえば彼の存命中に統一をなし遂げることはできなかったのだが、ワセトの後世における地位は、アンテフ2世の壮挙なくしてはあり得なかったわけである。
 そしてアンテフ2世の孫メンチュヘテプ2世が祖父の宿願を成就させることによって、エジプトは再び統一された。メンチュヘテプ2世は慎重に事を進めたのちに突如として軍を北上させ、ついにはデルタ地帯やパレスティナ地方、リビアにまで兵を進めて第10王朝を葬り去った。彼がすなわち、エジプトを事実上の覇権国家にまで押し上げた人物なのである。彼の統一事業によってエジプトは往事の繁栄を取り戻し、国家経済はようやく危機を脱した。それによって諸国の富がエジプトに流れ込み、豪壮な建造物が数多く建てられるようになり、国民生活もようやく安定した。そして一躍世界帝国になったエジプトの首都が、このワセトだったのである。アンテフ1世がワセトの第一人者であるならば、メンチュヘテプ2世は飛躍的発展の功労者であるといえる。
 だが第11王朝はほんの短期間で断絶してしまい、クーデターによって王位を奪取した第12王朝の祖アメンエムハト1世はこの地を嫌ってか、平野部のイティ・タウィに首都を移してしまった。ワセトの繁栄はそれほど長くは続かなかったのである。
 しかしワセトには、新しい役目が与えられていた。第12王朝は新たな王アメンエムハト1世が深く帰依していたヘルモポリスの地方神(ヘルモポリス神話では創世の神)アメンをこの地に移してきて、メンチュ神殿の南側にアメン神殿を造営したのである。それからというもの第12王朝の慎重と歩調を合わせるようにしてアメン信仰は勢力を広げていき、ついには国家宗教としての地位を確立するにいたったが、ワセトはアメン神殿が所在する「聖なる都市」としてもてはやされるようになったのである。首都が移動すれば寂れるのが通例でありながら、ワセトは幸運だった。しかしながら、ワセトにはこれ以降296年間、王宮が置かれることはなかった。

  
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2.新王国の首都として

 第12王朝の断絶と並行して、アメン神の信仰も下火になった。国家神であるアメン神は一般国民の間にはそれほど馴染みがなく、王家はほぼ唯一の宗教的保護者であったわけだが、第2中間期になると、頼みの綱である王家の支持すら得られなくなってしまったのである。イティ・タウィで政権を維持した第13王朝の王たちは、ファイユームで信仰されていたワニの神、セベク神に傾倒していったからである。
 ところが北部デルタ地帯にヒクソスが侵入し、商業都市アヴァリスを根拠地にして第15王朝を創立すると、それとほぼ時を同じくして上エジプトにも第17王朝が興った。かつての聖都ワセトに宮廷を構えた第17王朝はアヴァリスの第15王朝に対する穏健なレジスタンス勢力のようなものである。アジア人にエジプトを乗っ取られるのをどうしても見過ごせなかった彼らは、どうにかしてエジプト人王家の血筋を維持しようというのを国是とした。彼らは第15王朝との争いは極力これを避け、細々とではあるが、彼らは中王国の正統の後継者であるという誇りと自負心をもって生き延びる道を選んだのである。
 その一方で、ワセトの財政は苦しかったものの、以前に比べていくらか余裕が出てきたようである。そればかりでなく、エジプト人の王たちはようやく土着文化の重要さに気づいたのか、ワセトの神殿への寄進を再開したのである。第17王朝の王セベクエムサフ2世はその名の通りファイユームのセベク神を信仰していたが、カルナック神殿内にあるメンチュ神殿に自分の礼拝所を寄進しており、メンチュ神に捧げものをする自分の像を残すほどだった。
 こうしてワセトは息を吹き返し、さらに幸運に恵まれる。これまで冒険を避けてきた第17王朝の国是を打ち破ってヒクソスに挑戦し、そして無念にも敗れ去ったセケンエンラー・ターア2世の息子イアフメスが、ワセトを出発点にエジプトを再統一したのである。それはかつて第11王朝のメンチュヘテプ2世がたどった道と同じ、ワセトを基点として周辺諸都市をおさえ、それを踏み台にして一気にデルタ地帯を席巻するというものだった。イアフメスはメンチュヘテプ2世の先例をそのまま踏襲し、首都をワセトから移すことをしなかったが、歴史的、戦略的な是非はともかく、ワセトには諸国の富が再び集中することになったことだけは確かなことだった。
 イアフメス王が創始した第18王朝は、それ以前のエジプトの諸王朝とは違い、対外介入を積極的に行うことを外交政策の柱にしていた。第18王朝が誕生した紀元前16世紀は、当時の先進地域であるメソポタミアが政治的に安定(バビロンにカッシート政権が創始された)して文化が爛熟期に達し、交易路も整備されたため商業がめざましく発展していたのである。イアフメス王がヒクソスを追った最大の目的は商業路を開くことにあり、その恩恵は予想以上だったといえる。商業に従事する国民は格段に裕福になったが、王家はそれ以上に莫大な財力を誇ったのである。
 さらに第18王朝前期に活躍したトトメス1世やトトメス3世などは、鍛え抜かれたエジプト軍を率いて中東へ進出し、大成功をおさめている。この遠征によって得られた広大な被征服地からは巨額の貢納収入が約束され、国庫はますます潤うことになった。こうした「戦う王」たちは再び国家神となったアメン神に戦勝祈願をし、神の加護を胸に戦場におもむく。そして実際の遠征で成果を上げると、その感謝の印として、アメン神への喜捨と称してカルナック神殿の増改築を行うことが習慣化していったのである。その先鞭をつけたのがトトメス3世であり、彼はカルナック神殿内に列柱室、祈念碑を寄進してみずからの武勲を宣伝し、また壮麗な祝祭殿をも寄進してその財力を誇示した。彼の後継者たちもそれにならい、礼拝所や塔門などを追加的に寄進するようになる。ついには、カルナック神殿は東西540メートル、南北600メートルもの規模となったのである。
 カルナック神殿を管掌するアメン神官団は、国家神アメンに仕える「選ばれたエリート集団」であり、アビュドスのオシリス神官団やメンフィスのプタハ神官団などとは一段高いレベルにあった。だが彼らは王たちの喜捨にすっかり気をよくし、その財力とその能力ゆえにますます増長し、政治への発言力を強めていくことになった。
 当初は神官団の求めに応じて気前よく建造物の喜捨をしていた王たちだったが、さすがに神官団のあまりの高慢ぶりに反感を抱くようになった。そのためトトメス4世は公然とラー・ホルアクティ神への傾倒を示すようになったし、その息子アメンヘテプ3世は神殿横の王宮を引き払って、本来は「現世」とは見なされないナイル川西岸地区へ王宮を移すなどしたのである。だがさすがに、アメンヘテプ3世はこの聖都ワセトを去ろうとまではしなかった。
 ところがその息子アメンヘテプ4世は、父とは違う考えをもっていた。彼は、国政が立ちゆかないのはアメン神官団の過剰な権力指向にあることを早くから見抜いており、親政への移行後は可及的速やかに、これの政権内からの排除を決意していたようである。彼は当初こそアメン神を奉じてアメンヘテプという本名で即位したものの、新しい太陽神であるアテン神に対する信仰を公然と認めると同時にアテン神殿をカルナック神殿の脇に建造しはじめ、ついには自分の名を「アクエンアテン」に変えて、アメン信仰までをも排除しようと画策したのである。現在歴史家の間において、当初彼は本気で国の将来を憂えており、アテン神を持ち出すことでいくらかでもアメン神官団の勢威を削減しようと考えたのだろうが、いつしか本当にアテン神に心を奪われてしまい、アメン信仰全体を敵視するようになったと推測されている。
 この政策は王による独裁を確立し、政権運営を円滑化するという面では立派な改革に値するものといえるが、都市ワセトにとっては不幸なことだった。アクエンアテンはアメン神の呪縛から逃れるために新首都アケトアテン(現テル・エル・アマルナ)の建設に着手し、首都機能を徐々にワセトからアケトアテンに移しはじめたからである。
 首都機能がアケトアテンに完全に移ってからは、ワセトの重要性は忘れ去られてしまった。また非合法化されたアメン大神殿は無人の野と化し、都市住民(とくに富裕層)の大量移住によって人口も激減した。国教アメン信仰という「拠って立つ」基盤を失ったワセトは、存在そのものを非合法化されたといっても過言ではなく、神殿は荒れ果て、それを修復・管理する者もなく、急速に寂れていくしかなかったのである。考えてみれば、これは都市ワセトにとって、混乱した第2中間期以上の試練だったのかもしれない。
 その一方で、非合法化されたはずのアメン神官団はまだ生き残っていた。彼らはいずれ来るであろう旧教復活の日を息をひそめながら待ち続けたのである。
 それはアクエンアテン王が躍起になって体系化し、いわば「上からの改革」によって強制したアテン信仰が、国民に受け入れられなかったからである。かつては国教であり壮麗さだけが目立ったアメン信仰も、一般国民から見れば縁遠い存在ではあったが、アテン信仰はさらに国民の無宗教化を促進させただけだった。それは神に礼拝できる神官が、アクエンアテン王ただひとりだったからである。アクエンアテン王は神官団という集団そのものを否定することで将来的な禍根を取りのぞこうと考えたのだろうが、王が唯一の礼拝者であるという制度は明らかに失敗だった。そしてアメン神官団と都市ワセトにとっては、またも訪れた幸運だった。
 宗教改革の失敗を見てとったアクエンアテン王は、彼の弟(と考えられる)であるスメンクカラーを共同統治者として王位につけ、アメン神官団への歩み寄りを始めた。そこには宰相アイ、総司令官ホルエムヘブなど政界の大物たちの後押しがあったはずだが、アメン神官団がそれに難色を示したという形跡はみられない。スメンクカラー王の急死とそれに続くアクエンアテン王の死という問題はあったものの、旧教への復古は思いのほかスムーズに進んだのである。ツタンカーメン王の時代には一時的に首都機能がメンフィスに移され、すぐに以前のような政治的地位を回復することはできなかったが、その後は首都機能も無事ワセトに復帰したので、ようやく都市ワセトはかつての姿を取り戻したのである。
 そのときの状況はまさに歴史的大変革だったわけだが、ワセトが首都として君臨できるのがあとわずか50年程度だと、当時の誰が想像できたであろうか。



3.宗教都市テーベ

アメン神とセティ1世 紀元前16世紀から約500年間、エジプトは古代オリエントどころか、世界でもっとも大きい統一国家としての地位を確立していた。驚くべき強大な軍事力で周辺諸国を制圧しただけでなく、商業活動にも熱心で、またその文化も他者の追随を許さない壮麗さと規模をもって、世界最高水準にある国家。この期間は確かに、世界はエジプトを中心に動いていた。まさに現代のアメリカも及ばない、世界で唯一の超大国だったのである。そしてその首都ワセトは、世界の首都に違いなかった。
 それほどの繁栄を誇った首都ワセトだったが、ついに転機が訪れた。その転機とは、第18王朝を継いでさらなる世界帝国の実現を画策する第19王朝が、この都市から首都機能を抽出する決定をしたことだった。
 数多くの建造物を現代に残し、エジプトを空前絶後の繁栄に導いた偉大な王ラメセス2世が、父セティ1世が着工していたデルタ地帯の新都ペル・ラメセス(現カンティール)への遷都をついに実行する決断を下した。これには当時の商業的中心地がデルタ地帯に移っていたという経済的見地と、よりアジアに近く、ナイル川の支流に守られて防衛上も申し分ないという戦略的見地との二面的な理由が考えられる。ワセトは確かに長期間にわたってエジプト支配の重鎮であり、国教アメン信仰の膝元という精神的支柱であったのだが、第19王朝はすでにこの都市の政治的価値は薄れたと判断したのだろう。これ以後、統一国家としてのエジプトの首都機能が、ワセトに帰ってくることはなかった。
 ところが、政治上の首都はペル・ラメセスに移り、その後も首都はタニス、サイスなどデルタ地帯の都市を転々とするようになるのだが、国家神アメン・ラーの聖都としての役割は、むしろ強化されることになった。それは第19王朝、そして第20王朝の王たちがこの地に宗教的価値を認め、国庫を傾けてまで壮麗な記念建造物を建造し、信仰の証としてアメン神官団への積極的な寄進を行うようになったからである。その先駆者は、ラメセス2世の父でありペル・ラメセスへの遷都を打ち出したセティ1世だったのだから皮肉である。
 セティ1世はカルナック神殿に巨大な大列柱室を寄贈して名を上げ、さらに精巧な王墓を王家の谷に建造した。伝統文化を誰よりも理解し、その再生を願っていたセティ1世の思いは、もはや首都ではなくなった都市ワセトを古代随一の文化都市に仕立て上げた。そしてその遺志を継いだ息子のラメセス2世は、カルナック神殿やルクソール神殿をさらに増築してその敬虔さを示す一方、ナイル川西岸地区には自分のために壮大な大葬祭殿ラメセウムを建造するなど、ワセトの偉容をさらに高めたのである。その後もメルエンプタハ王が巨大な葬祭殿を建造したり、ラメセス3世がメディネト・ハブに葬祭殿を建造したりしており、当時のワセトは、まさに石造りの宗教建造物が林立する聖なる都へと変貌したのだった。
 それに歩調を合わせるように、カルナック神殿を本拠地とするアメン神官団の勢力は上昇の一途をたどった。第18王朝時代の教訓を生かして神官の任命権は政府が握っており、その最高位に位置する大神官は中央からエリート官僚が派遣されてきて着任したものだが、「集団としての」アメン神官団は、エジプト政府に肩を並べる巨大な団体に成長していく。第20王朝末期に相当するラメセス9世の時代(在位前1126年頃〜前1108年頃)にはその勢力が最高潮に達し、アメン神官団だけでエジプト全土の神殿領の3分の2、儀式用聖船の約9割、献納用品の工房のうち約8割を所有するに至っていたのである。
 この最盛期を現出したのは、ラメセス9世によってアメン大神官に任命され、中央からワセトに着任したアメンヘテプというエリート官僚だった。
 大神官アメンヘテプは大神官として日々の宗教行事を指導・監督したが、アメン神からの神託を受けられるのは彼ひとりである。本来は世俗の権力をもたず、もっぱら宗教行事に専念するのが神官の任務のはずなのだが、彼はアメン神の神託という形で地域行政を左右しており、2名の市長が行政権を持っているにもかかわらず、アメン大神官である彼が事実上のワセトの支配権を手にしていたのである。大神官アメンヘテプはカルナック神殿に自分のレリーフを刻むことを王より許されたが、事もあろうに彼は、自分の姿を王と同じ大きさに描かせることまでした。伝統的手法によれば王のみが大きく描かれるのが通例で、臣下に過ぎないアメンヘテプはその3分の1以下の大きさにされるはずだったのだ。
 この大神官アメンヘテプによる越権行為は多くの非難を浴びるようになり、彼は南から攻め上がってきたヌビア総督パネヘシの猛攻に耐えきれず、ワセトを脱出するという憂き目を見ることになる。
 しかしすでに都市ワセトは、ペル・ラメセスに所在する中央政府の手から完全に離れていた。パネヘシは住民の支持を受けられずに政権を投げ出す羽目になり、それを名目に征討軍編成の詔勅を得た総司令官兼宰相のヘリホルによってヌビアに追放されてしまった。宮廷はもはやこの老獪な宰相の手にワセトを委ねるほかに道はなく、当然の成りゆきで、大神官をも兼務したヘリホルはワセトにおいて独立政権を創始したのである。第20王朝最後の王ラメセス11世がこの世を去る数年前の出来事だった。
 都市ワセトに独立政権が誕生し、独自の政府を組織したのは、歴史上これで3度目になる。
 ところが前の2回とは違い、ワセト政権は上下エジプト統一の遠征軍を編成することはなかった。それはデルタ地帯で第20王朝が後継者のないままにこの世から消滅し、ヘリホルの後を受けて総司令官となった軍人官僚スメンデスによって第21王朝が創始されていたものの、彼にもまた後継者がなく、その死に際しては次期ファラオとしてワセトで独立したヘリホルの息子、アメンエムニスウが招かれて即位したからである。このときワセトでは大神官パネジェム1世が王位を名乗り、事実上の独立国家を形成していたため、形式的に両国は別々の政権を保有していた。こうして第21王朝の続くかぎり、上下エジプトは王家とアメン大神官が肩を並べるような形で奇妙な並立関係を保っていたのである。
 それから約200年後、トロイ戦争を題材にした『イーリアス』という大叙事詩を著して世界的にその名を知られるギリシア人作家ホメロスによって、ワセトは「テーベ」として書き残されることになった。ホメロスがワセトを訪れたかどうかは不明だが、彼は『イーリアス』第9書においてワセトを「エジプトのテーベには黄金が山と積まれ、光り輝いている。テーベには百もの門がある」と紹介して讃えた。
 これ以降、より正確なギリシア人の歴史書がエジプトの正史だと考えられるようになると、本来の都市名であるワセトの名前は歴史上から消え、ギリシアの聖都の名をもじった「テーベ」として記述されるようになったのである。
 テーベが歴史の表舞台から姿を消す、約200年前のことだった。

写真:
カルナック神殿に今も残る、第19王朝2代目のセティ1世が刻みつけたレリーフ。セティ1世と向かい合っているのは、ワセトの守護神にしてエジプトの国家神アメン・ラー。その後ろに従っているのはアメン神の妻であるムト神である。
 セティ1世はこの伝統に輝く都市とその守護神の価値をしっかりと理解しており、デルタ地帯で新たな事業を開始する一方で、ワセトにも数多くの文化遺産を残した。


4.末期王朝時代におけるテーベの最期

 微妙な並立状態にあったテーベの大神官国家と第21王朝との関係は、第21王朝最後の王プスセンネス2世を引き継いだシェションク1世によって終わりを宣告された。彼は即位するとすぐに上下エジプト統一の大号令を発し、これまで世襲になってしまっていたアメン大神官として次男のイウプトを送り込んできたのである。イウプトは父シェションク1世の後を継いで総司令官になった人物で、上エジプトの行政を統括する南の宰相も兼務していた。またその弟ジェドプタハアウタクをアメン神の第3予言者として派遣し、兄を助けるように命じた。これはシェションク1世が再びアジアを攻めるための布石として行った政策にすぎないが、これによって上下エジプトは実質的に統一され、テーベは元の宗教都市に戻ったのである。
 ところが、この家族経営システムはすぐに破綻してしまう。シェションク1世の没後に後を継いだ長男のオソルコン1世は、テーベで大きな勢力になり始めていた弟のイウプトを排除し、新たに自分の息子であるシェションクをアメン大神官に任命するという行動に出たのである。こうした恣意的な人事によって、先王がせっかく作りあげた分家政策が、早くも王家の専有物になってしまったのだった。
 破綻は、アメン大神官に任命され、その後引き続いて共同統治者に昇格したシェションク2世が急死し、そのショックからか父のオソルコン1世までが後を追うように亡くなってしまったことから始まった。
 オソルコン1世の後継者になったのは下位の王妃との息子タケロト1世だったが、彼の死とほぼ同時に、アメン大神官も空位になった。タケロト1世を継いだオソルコン2世はさっそく自分の息子ニムロトを大神官にしようと思ったが、ここでシェションク2世の息子と称するハルスィエセという人物が出現し、かつて大神官が世襲だった時代の慣例を持ち出して勝手に大神官に居座ってしまったのである。
 このハルスィエセという人物は権力欲が旺盛で、アメン大神官としての職務よりも、テーベの行政権を支配する方に熱心だった。彼はついに王位を僭称し、テーベの実質上の支配者に成り上がってしまう。奇妙なことだが、大神官を任命するのも罷免するのも自由なはずのオソルコン2世が、この正体不明の従兄には手出しができなかった。おそらくオソルコン2世の父タケロト1世が下位の家柄であり、祖父オソルコン1世の長男で共同統治者だったシェションク2世の息子と称するハルスィエセに、負い目を感じていたからとも思える。
 しかし、ここでのシステム破綻はそれほどの影響をもたらさなかった。王位を僭称したハルスィエセがその後すぐにこの世を去ったのである。オソルコン2世はこの大チャンスを逃さず、当初の計画どおり、息子のニムロトをアメン大神官に任命してテーベを再び安泰にし、さらにその弟シェションクをメンフィスのプタハ大神官に任命して守りを固めたのだった。オソルコン2世はこの当時としては珍しく24年もの在位期間を維持したが、彼はアメン大神官に任命した息子のニムロトが思いのほか大きな勢力になってきたことに焦りを感じていた。ニムロトはすでにテーベの行政権を握り、ヒエラコンポリス周辺までもその支配下に入れるほどに成長していたのである。
 オソルコン2世は紀元前850年ごろに没し、その後はタケロト2世が引き継いだ。タケロト2世も叔父ニムロトがあまりにも大きな勢力になったことで任免権を行使することを躊躇し、従来どおりに自分の息子をアメン大神官として送り込むことができないでいた。ニムロトはこれを見て王家との宥和政策を展開し、叛意のないことを示すことにした。こうして約10年間は、王とその叔父との微妙な関係が続く。
 ニムロトがこの世を去ると、第22王朝とテーベとの関係は再び悪化した。タケロト2世は自分の息子オソルコンを次期のアメン大神官にするべくテーベに送り込んだのだが、赴任してみるとそこはすでに何者かによって固められていた。反乱軍の親玉はハルスィエセといい、かつて王位を僭称したハルスィエセと同名の孫だというのである。彼はすでにテーベの住民の支持を得ており、数多くの民兵を組織化していた。
 オソルコン王子は仕方なく引き返したが、悪いことに彼もまた権力欲が旺盛な人物だった。オソルコン王子は父からアメン大神官を拝命した正統の後継者である。その思いから彼は従兄弟のヘラクレオポリス長官プタハウアジアンクエフに助けを求めた。プタハウアジアンクエフはこれを快諾し、兵力を援助することにした。こうして政府軍を率いたオソルコン王子は反乱軍を完膚無きまでに打ち破ることができ、ようやくテーベに入ってアメン大神官として着任できたのである。
 ところがテーベの住民は、この大神官を認めようとしなかった。再び内戦が起こったが、今度の反乱軍はテーベの市街を利用してゲリラ戦術に出る。大神官オソルコンはこれに手を焼くあまり、ゲリラの巣窟になりそうな建造物を破壊するしかなかった。また戦費調達のために、王家の谷の王墓群を公的に盗掘するという挙にも出た。この内戦は10年近く続き、テーベの街は荒廃した。この過程で大神官オソルコンは失脚し、アメン大神官の地位を奪われる。簒奪したのは、またもハルスィエセという人物だった。しかもオソルコン王子は父タケロト2世の正式な後継者だったにもかかわらず、この地位もまた、弟のシェションク3世に奪われてしまったのである。オソルコン王子は権力と人心を希求しながらも、その両方とも得られなかったのだった。
 それから後は、政治の表舞台がデルタ地方に移り、テーベはあまり注目されなくなる。デルタ地帯では第23王朝の独立や内紛、サイスの第24王朝の反乱などが相次いで情勢がめまぐるしく動くが、テーベではそうした記録がなくなるのである。ようやく平穏な日々がやってきたからとも思えるが、テーベが再び歴史の脚光を浴びるのは、ヌビアの第25王朝がエジプト統一の遠征軍を発動したときであった。
 ヌビアは第20王朝末期にエジプトから離反し、独自の王朝を創始して連綿と歴史を織りなしてきたが、ヌビアの中心都市ナパタに興った第25王朝は、史上初めてヌビア人に王朝番号が割り当てられた記念すべき血統である。ナパタではエジプト式のアメン信仰が大人気で、ジェベル・バルカルにはカルナック神殿をもしのぐほどのアメン神殿が築かれていた。第25王朝は、ジェベル・バルカルのアメン大神官から発展した家柄である。
 第25王朝の王たちにとって、旧宗主国エジプトのアメン信仰はお手本であり目標だった。だがそのエジプトは権力争いにばかり終始しており、国家神であるアメン・ラー神をないがしろにしていると王たちは考えた。王朝の3代目に当たるピアンキ王はこれに心を痛め、みずから軍を率いて北上し、乱れた旧宗主国とアメン信仰を救うべく行動を始めたのである。彼は憧れのテーベに入り、伝統的なオペト祭(アメン神が妻であるムト神とともに離宮ルクソール神殿へ詣でることを記念した儀式)を主催してテーベの面目をほどこすと、軍を北上させてデルタ地帯を牛耳っていた連合軍を打ち破ってしまった。こうして、第25王朝はテーベとアメン神の名のもとにエジプトを平定したのである。これが、テーベに訪れた最後の栄光となった。
 ピアンキ王の弟であるシャバカ王は、テーベに壮大な記念建造物を寄進してアメン神への帰依を示したばかりでなく、デンデラやメンフィス、アビュドスなどでも建築事業を行ってエジプト宗教の保護者を任じた。彼の治世当時、メソポタミア地域では新たな勢力アッシリアが強大な軍事力を背景に大規模な征服活動を展開していたが、アッシリア王サルゴン2世がパレスティナ攻めに苦心しているのを見たシャバカ王は、これへの積極的な介入の必要を認めなかった。
 しかし、シャバカ王を継いで王になった甥のシャバタカ王は、逆に危機感をいだいた。そこで彼はサルゴン2世がパレスティナを脅かしたことで起こった反乱に介入して、アッシリアの動きを抑えようと企図する。ところがサルゴン2世の子センナケリブはこれを牽制するために出兵し、エジプトに援助されたユダ王ヒゼキヤに対し猛攻をかけてきたのである。驚いたシャバタカ王は必死になって防戦につとめ、ようやくこれを追い払うことができたが、彼はその後アッシリアに対する挑戦を手控えるようになってしまった。
 その後アッシリアでは、カルデア王メロダク・バラダンの反乱を鎮圧するためバビロンを無慈悲にも壊滅させたセンナケリブ王が暗殺され、新たにエサルハッドンが王位についていた。彼は軍事的手腕に恵まれておらず、もっぱら政治の方に手腕を発揮するタイプの人間だったが、どういうわけか彼はエジプトを恐れていた。そんな彼の焦りは行動に移され、禍根は早くつぶすのが最善だとばかりに外征軍が組織された。精強を誇ったアッシリア軍がついに、数回にわたってエジプトに攻め込んできたのである。
 シャバタカ王の弟タハルカ王は、ガザ近郊の都市アシュケロンと連合で防衛戦を構築してこれを打ち破り、その後も優勢に戦闘を進めていたが、つぎつぎと大軍を送り込んでくるアッシリアの圧力についに抗しきれなくなり、防衛線を破られてしまった。これによってエジプト領内に流れ込んだアッシリア軍はメンフィスを奪い、破壊・略奪を行って、数千年もの歴史をもつこの大都会を壊滅に追い込んだのである。タハルカ王はほとんど身ひとつで、テーベに落ちのびてきた。それは彼にとって父祖の地であるナパタを守るために、テーベを最終防衛線へと作りかえるためだった。
 ここで歴史は、テーベに最後の幸運をもたらす。上エジプトを支配下に入れるべく再び侵攻を開始したエサルハッドン王が、途上で急死したのである。
 ここでアッシリア国内の混乱を抑えるため、エサルハッドンの息子で王位を継いだアッシュール・バニパルは賢明にも軍を引いた。だがこれに反して、タハルカ王は愚かだった。彼はこれを好機だと見誤り、軍の再建もままならぬうちにこれを率いて北上、メンフィスを奪回してデルタ地方の諸侯たちをも味方に引き入れることに成功したものの、本国での混乱を収拾したアッシュール・バニパル王による鎮圧軍にまったく歯が立たずに敗れてしまったのである。タハルカ王はテーベをも捨ててナパタに逃げ失せるしかなかった。この状況を前にテーベは破壊と略奪をまぬがれるために、みずから軍門を開いてアッシリアに降伏する道を選ぶ。アッシュール・バニパル王はこれを認め、カルナック神殿の広大な神域を保護することを約束したのだった。
 ところが、歴史はついにテーベを見放した。それはナパタで王位を継いだ従兄弟のタヌトアメン王が再起を期して、再び北上してヒエラコンポリス、テーベ、メンフィスを奪回したときである。彼はナイル川の氾濫や数々の幸運にも恵まれて成功を続け、一時はアッシリアをエジプトから追い出すかにみえた。だがタヌトアメン王には、そこから先の戦略的ビジョンがなかった。メンフィスを奪回し、アッシリアになびいていたデルタ地帯の諸侯たちをどうするべきか決めかねているうちに、もっとも恐れていたアッシリアの逆襲が始まってしまったのである。タヌトアメン王はほとんど対策を講じることができないまま敗れ、そのままナパタへ逃げ帰ってしまった。
 もはやアッシュール・バニパル王に慈悲はなかった。テーベを包囲しこれを落城させたアッシリア軍は、市内に流れ込んで大規模な破壊と略奪を行った。あのカルナック神殿の壮大な大伽藍も、ルクソール神殿の荘重な記念建造物群も、惨めなまでに破壊され、持ち去られてしまった。都市住民は捕らえられ、奴隷にされた。
 テーベが破壊されたのは紀元前664年である。その後デルタ地帯で独立した第30王朝によって修復の事業が行われ、当時の王ネクタネボ1世によってルクソール神殿の第1塔門が寄進されたりなどしたが、もはやテーベが歴史の表舞台に立つことはなかった。エジプト最後の王朝となるプトレマイオス朝はこの都市の宗教的価値を認めず、もっぱらナイル上流域の美しいエレファンティンやフィラエ、エドフなどに記念建造物を寄進するようになったからである。所詮、テーベはエジプト人だけの精神的支柱でしかなかったのだ。
 こうして聖都テーベ/古名ワセトは、18世紀末にフランスのナポレオンがエジプトに攻め入り、その壮大な文明に着目するようになるまで、長い眠りについたのである。



第2節 ルクソール遺跡案内

1.メンチュヘテプ2世葬祭殿

 ルクソールのナイル川西岸地区は、平地が途切れると突然急峻な山地が始まるという特異な地形である。古来数万年におよぶナイル川の氾濫が、こうした特異な河岸地形を形づくったのであろう。河岸崖がまるで屏風のようにそそり立つデイル・エル・バハリ地区は、その奥まった位置にある。
 デイル・エル・バハリとは「北の僧院」という意味のアラビア語で、かつてここに、コプト教の小さな祠堂があったことに由来する地名である。現地の人々によって聖なる地と見なされてきたデイル・エル・バハリ地区は、やはり古代の人々も聖なる地と見なしてきたのであろう。発掘調査の結果、ここには3つもの神殿が並立していることが確かめられた。北から順に、ハトシェプスト女王葬祭殿、トトメス3世小神殿、そしてここで紹介するメンチュヘテプ2世葬祭殿である。
 テーベを拠点として独立した第11王朝は、発足当時はほんの小規模な地方政権でしかなかった。
 時代区分としては混乱期と定義されている第1中間期だが、テーベの北、ナイル河岸の都市ヘラクレオポリスには軍事政権・第10王朝が厳然と存在しており、実権は制限されていたもののその軍事力はエジプト全土を平定するだけの力をもっていたと考えられている。第10王朝の王家であるケティ一族の記念物が、エジプト全土から見つかっているのもそれを裏付けているのだろう。
 メンチュヘテプ2世はテーベ王アンテフ3世の息子(弟かもしれない)であり、第11王朝の4番目の王として紀元前2007年ごろに即位した。着実な地固めをしつつ北方をうかがっていた彼は、治世14年目にティニスが反乱を起こしたことを口実に勇躍征途にのぼって以来25年間、戦陣の中に身を置いてエジプト平定のために尽力した。はっきりとした年代は特定されていないものの、彼のホルス名が「ふたつの土地の統一者」に変わった治世39年目(紀元前1968年ごろ)がエジプト再統一の時期とみてよかろう。第10王朝の勢力は駆逐され、長く続いた群雄割拠の混乱期にようやく終止符が打たれたのである。
 デイル・エル・バハリにあるメンチュヘテプ2世葬祭殿は、エジプト史上屈指の偉業をなし遂げた彼にふさわしい偉容を誇る建築物である。ギリシア神殿を思わせる列柱の跡や広大なプラットフォームは、建造当時の壮大さを現代に伝えているといえよう。屏風のようにそそり立つ断崖を背に葬祭殿を眺めたとき、古代の偉大な人物の威徳を思わずにはいられないはずだ。
 メンチュヘテプ2世の以前にテーベで即位した3人の王(アンテフ1〜3世)は、デイル・エル・バハリからさらにナイル川寄りに張り出した傾斜地ドゥラ・アブー・エル・ナガ地区に葬られている。彼らが造営したのは「サフ墓」という形式の岩窟王墓で、傾斜地に掘削した横穴を装飾し、神殿風に列柱をあしらったものとして発展したものである。メンチュヘテプ2世はまずデイル・エル・バハリの断崖に横穴を掘り、内部に玄室を設けて伝統的なサフ墓として整備した後で、その前面に広がる平地に葬祭殿を築いた。王墓に葬祭殿を併設するというシステムは、古王国時代以来のピラミッド複合体にならったものであろうといわれている。
 前庭の奥にある斜道を登ってプラットフォームの上に立つと、目の前には折れた柱に囲まれた盛り土が見える。ここには祭儀を行うための正方形の神殿が建てられており、その屋根の上には底面約20メートルのピラミッドが乗っていたとされるが詳細は不明である。この葬祭殿の周囲には80本もの円柱が立ち並んでいるが、もし屋根があったのであれば、相当巨大な建造物だったはずである。
 1920年に葬祭殿の西端にある敷石の下からメンチュヘテプ2世の6人の娘たち(ヘンヘネト、ケメシト、カウィト、スアデフ、アシャイト、ムイェト)ものと思われる竪穴墓が見つかったが、最年長のヘンヘネト王女でさえ20歳に満たない若さでこの世を去っており、最年少のムィエト王女はわずか5歳前後で亡くなったことが判明した。ヘンヘネト王女の墓にあった石棺は砂岩製の立派なつくりだが、蓋にはなぜかカウィト王女の姿が彫られている。現在その石棺はカイロの考古学博物館に収蔵されているが、そこには若いカウィト王女が召使いの女に髪を結わせている姿が生き生きと描かれており、当時の宮廷生活を示す資料として重要なものである。
 ピラミッドつき葬祭殿の地下には初期王朝時代以来の伝統である偽墓(セノタフ)と思われる空間がある。そこへは前庭から続く長いトンネルを通らないと行けないようになっているが、その入口はバーブ・アル・ホサン(騎手の門口)と呼ばれている。のちにツタンカーメン王墓の発見で名を上げることになるイギリス人考古学者ハワード・カーターがこの葬祭殿を調査中、乗馬がいきなり何かの穴につまずいて倒れ、彼は投げ出されて落馬した。ところが、その穴は偽墓へと続く長い通路への入口だったのである。
デイル・エル・バハリ平面図 それでこの切り込みが「騎手の門口」と呼ばれるようになったのだが、そこを入ると続いているトンネルの先には狭い地下空間が隠されており、メンチュヘテプ2世のすばらしい座像が安置されていた。座像は赤冠をかぶり、ぴったりした白いガウンをまとって王位更新祭にのぞむ王の姿で、ミイラのように布に巻かれた状態で発見された。その顔は黒く塗られているが、それはメンフィスのプタハ神か、もしくは冥界の神オシリスにあやかったものと思われる。
 メンチュヘテプ2世葬祭殿の北には後世、ハトシェプスト女王葬祭殿とトトメス3世小神殿があいついで建てられたわけだが、その資材ははるか遠くから運ばれたものだった。隣にあるこの古びた神殿を取りこわし、資材を再利用すれば、わざわざ石材を運んでくる費用も節約できたのだろうに、そういった形跡はみられないのである。それはいかにメンチュヘテプ2世が偉大な人物として尊敬されており、その葬祭殿も大事にされていたかを物語る証拠であろう。


2.ハトシェプスト女王葬祭殿

 トトメス2世の第1王妃として政界に登場し、のちに夫の死によって幼いながらも即位した甥トトメス3世から実権を奪い、事実上の王として君臨した「簒奪者」。それがハトシェプスト女王が現代のわれわれに残したイメージである。
 しかしそれは、軟禁されたことを恨んだ甥トトメス3世による歴史の書きかえにすぎない。ハトシェプスト女王は15年にわたって確かにエジプトの主権者であり続けたのだ。戦争によらず経済政策のみで祖国を「富める国」へと変貌させ、平和的な手段でエジプト王国を古代オリエント世界唯一の超大国へと押し上げたのはまぎれもなく彼女なのである。現在、彼女の業績を正当に評価しようという動きが急速に広まっているのは、希代の名政治家であった女王の政策が歴史的に重要な位置を占めていることがわかってきたからである。
 ハトシェプストは古代エジプト3100年の歴史のうち、10人にも満たない女王のひとりである。さらに単独統治を行った女性は第12王朝のセベクネフェル女王、第19王朝のタウセルト女王、そしてプトレマイオス朝のベレニケ4世のわずか3名にすぎない。彼女ら3人に共通しているのは、血統払底の末、やむなく即位したにすぎないことである。そのため短命であり、歴史上に残すべき政治的業績がほとんどないのである。
 それとは逆に、ハトシェプスト女王が行った政治的業績は後世に多大な利益をもたらし、経済大国エジプトの土台を築き上げた。だが彼女には正統性がないのである。おそらく正式な即位式を行っていない女王は、彼女だけではないかと思われる。ゆえに、彼女はあらゆる手段で自分の正統性を主張しなければならなかったのであろう。そうした彼女の焦りと虚栄心が生み出したのが、ここで紹介するハトシェプスト女王葬祭殿である。
 ハトシェプスト女王葬祭殿は、巨大な自然の円形劇場ともいうべきデイル・エル・バハリの断崖下に築かれた古代エジプト神殿建築では最高傑作のひとつである。当時からすでに高価だった石灰岩を主な建材とし、ステージのように広大なテラスを階段状に3段設けるというスタイルは、隣にすでにあったメンチュヘテプ2世葬祭殿を模したものであることは疑いない。
 ところがその使用目的は、メンチュヘテプ2世の時代とはかなり違っていた。当時から約500年も前の葬祭殿にはピラミッド時代の影響が色濃く残っており、葬祭殿は文字通り王墓に併設されるものであり、亡き王の葬儀を行うために建造される施設であった。メンチュヘテプ2世葬祭殿はその伝統を守ったほぼ最後の建造物である。その証拠に、葬祭殿には儀式用祠堂、空墓(セノタフ)、そして王墓・玄室まですべてが完備されているのである。
 対してハトシェプスト女王葬祭殿は、純粋に葬祭殿として計画されたものではない。女王自身が残した記録によるとこの施設は「父なるアメン神の庭」という正式名称をもっており、建造目的に限っていえば、葬祭殿というよりはむしろカルナック神殿に並ぶアメン神の神殿であるという性格が色濃い。それにもかかわらず葬祭殿という名称になっているのは、神殿につきもののエジプト風塔門がひとつもなく、周壁もなく、聖なる池もないからだろう。だがこの建物にはアメン神に捧げられた正式の至聖所があり、さらにハトホル神、アヌビス神の祠堂までが併設されている。これはまさに神殿といえるものであろう。
 葬祭殿に入り、第1テラスから第2テラスへと登っていく坂道を上がると、そこには数多くの樹木が浮き彫りされている。「父なるアメン神の庭」という正式名称のとおり、まさに庭園を思わせる造りである。もしかしたら創建当時には、庭園さながらに美しく植樹されていたのかもしれない。白い大理石の列柱はそれを引き立てるのに充分で、やはりハトシェプスト女王の女性らしい感性と、設計主任者センムトのセンスが光る外観を実現している。
 実のところ、第2テラスはハトシェプスト女王のルーツから業績まですべてを展示した「個人資料館」のようなものである。これを制作することで、女王がみずからの政権を正当化するために宣伝効果を狙ったのだとする学者も多い。
 第2テラス北壁には、ハトシェプスト女王の誕生から戴冠までをレリーフで飾った連作「誕生のレリーフ」が残されている。その最初の場面ではアメン神がトトメス1世の第1王妃イアフメスのもとを訪れており、さらに誕生に関わる神であるクヌム神、ヘケト女神、そしてハトホル女神などが周囲を固めている。文字はかなり少なく、ほとんどをレリーフが占めているのである。そういったことから、アメン神の訪問を受けたイアフメス王妃から生まれたハトシェプストには「アメン神の娘」であるという神性が付与されており、それは誕生を司る神々により保証されていて、その内容は文字の読めない一般国民にもわかるように絵画主体で示された、と理解することができるだろう。
 次の場面では、少女時代のハトシェプスト女王が神々の列席する前で父トトメス1世より王冠を授けられている。その日付は1月1日だったと記されているが、それにより戴冠の喜びに神聖さが加味されているのである。しかし冷静に考えると古代エジプトの王制に譲位というシステムは原則として存在しておらず(若干の例は認められるが)、この内容がフィクションであることはすぐに判断できるのだが、それでも彼女は国民に自分の正当性をアピールしたかったのだろう。驚くべきことに、葬祭殿に彫られた彼女は男性として描かれることも多く、アヌビス神殿列柱ホールには、男性としてソカル神(ハヤブサの神ホルスの一形態)に捧げものをするハトシェプスト女王が彫られているのである。そこに残されたカルトゥーシュには、しっかりと彼女の即位名「マアトカラー」が記されている。「マアトカラー」を現代語に直すと「真実はラーの魂」ということになるが、現代からみるとそれは皮肉でしかない。
 ハトシェプスト女王の業績を示している第2テラス南壁でのハイライトは、何といってもプントへの遠征と、それに続く交易活動の場面だろう。
 プントは現在の北ソマリアかジブチのあたりにあったと思われる国家であるが、今でもはっきりした場所は不明である。そこはアフリカ大陸における物資の積み出し港として栄えていたといわれており、紅海で獲れる豊富な魚介類をはじめアフリカ奥地からもたらされる貴金属や香木、珍獣などの物産がプント経由で国内を潤したおかげで、エジプトは劇的な経済発展を実現させたのである。
 プントとの交易を描いたレリーフには、貴重な物品を満載して意気揚々と紅海を航行するエジプト船が彫られている。そこには紅海に棲む魚たちまでがしっかりと彫られ、また船上で艪を漕ぐ若い漕ぎ手たちの躍動した姿、さらに荷物の積み出しに精を出す港湾荷役たちの生き生きした姿などが細かく描かれており、浮き彫り絵画としてもまた一級品であるといえよう。
 ここには交易に従事する商人たちのほかに、プントから朝貢に訪れた国王夫妻の姿が描かれている。
 葬祭殿にあるレリーフは残念ながらレプリカであり、本物はカイロの考古学博物館に収蔵されているが、そこに描かれたプント王夫妻は見る者の興味をそそらずにはいない。痩せて年老いたプント王ベレフが行列の先頭に立って貢納品を示し、女王への忠誠を誓っているが、彼の後ろにいる王妃エティは対照的にでっぷりと肥え太っており、いかにもハトシェプストと彼女の夫トトメス2世との関係を暗に示しているようではないか。こうした絵画を残すという当時の職人たちのセンスもまた、現代人の関心を集める要素なのではないだろうか。
 第2テラスを抜けて坂道を登っていくと、列柱に囲まれた第3テラスがある。
 この第3テラスはどうやら一般人の立ち入りを制限していたらしく、第1、第2テラスの華やいだ雰囲気から一転して厳かな印象に満ちている。ここはすでに神域なのであり、奥にはアメン神を祀った至聖所がある。また左脇にはもともとこの場所にあったとされるハトホル神の祠堂、そして右脇には珍しいアヌビス神の祠堂が配置されている。このふたつの祠堂へは第2テラスを通らないと行けないが、アメン神の至聖所だけは聖なる雰囲気に満ちた第3テラスを経て到達するようになっているのである。
 ハトシェプスト女王は自分に神性を付与してくれたアメン神に対して、特別な思い入れがあったようである。それだけに東岸のカルナック神殿にもさらに巨額の投資をしており、見上げるほど巨大なオベリスクを2対、合計4基奉納した。そのオベリスク建立の場面はハトシェプスト女王葬祭殿の第1テラスに誇らしげに飾られているが、そこには、アスワンで切り出された石材を全長100メートル、幅30メートルもの巨大な台船に乗せて川下りさせたという逸話が紹介されている。実際、女王は建築事業の大部分をアメン神のためだけに行っているといっても過言ではない(また彼女は、ヒクソスに荒らされた神殿を復興するためにも多額の費用を支出している)のである。
 カルナック神殿とハトシェプスト女王葬祭殿とは、それぞれの至聖所の位置が東西でぴったりと一致しているといわれている。そう聞いただけでも、当時のエジプト人が保有していた卓越した測量技術、さらにアメン神の威光を政治的に利用し尽くそうという女王のしたたかさを思い知らされる。



3.トトメス3世神殿

 叔母ハトシェプスト女王の死後、宮廷内で軟禁状態におかれていたトトメス3世が正式な単独統治者となった。トトメス3世はシリア・パレスティナ地方に対する活発な軍事遠征を大々的に展開し、新王国時代におけるエジプトの版図を最大にまで広げたことでよく知られている。だが彼の業績は文化の面にもわたっており、カルナック神殿内にトトメス3世祝祭殿、メディネト・ハブにアメン神に捧げた小神殿といった特殊で壮麗な建造物を残してもいるのである。
 そうしたトトメス3世の文化政策は、自分を宮廷に閉じこめていた叔母ハトシェプストへの復讐から始まった。
 さきに紹介したハトシェプスト女王葬祭殿に残されたレリーフのうち、生前の女王の面影を伝えていたはずの顔部分は、一部を残してほとんどが削りとられている。そればかりでなくカルトゥーシュまでが抹消されて(それでも「アメン」というフレーズだけは念入りに残して)いる。これは生前の容貌や名前に異常な執着を示す古代のエジプト人にとっては耐えがたい仕打ちといえる。この行動に踏み切るためには行為者にも多大な精神的苦痛を与えるはずであり、葬祭殿におけるレリーフの有様を見るにつけても、トトメス3世の計り知れない叔母への憎悪を感じずにはいられないところである。
 この一連の抹消政策における総仕上げが、ここで紹介する、デイル・エル・バハリにおけるトトメス3世神殿なのである。
 位置的にはメンチュヘテプ2世葬祭殿の北東斜面、ハトシェプスト女王葬祭殿からすれば南西側斜面に建てられており、デイル・エル・バハリの巨大な自然の円形劇場の正面に立つと、ちょうど中央奥に見えるようになっている。こうした立地選定は既成の両葬祭殿に対する優位性をアピールするためであったことは明白で、若き為政者としてのトトメス3世の人間性もかいま見られよう。
 こうして建てられたトトメス3世神殿は、アメン神とハトホル神に捧げられた至聖所をもっている。男性である彼がハトホル神を祀るのは奇異な感じがするが、ハトシェプスト女王葬祭殿がそうであったように、この場所がもともとハトホル神の聖地だったことに対する配慮であろうと思われる。その証拠に彼はこの近くにも、ハトホル神の小さな岩窟礼拝所を建造しているのである。
 この神殿は至聖所と前室、そして大列柱室が一列に並んだシンプルな構造で、建造当初は大列柱室前のテラスから麓まで、長い参道が伸びていたと考えられている。大列柱室には大小72本もの石柱が並んでいたとされ、完成当初は小さいながらも白亜に輝く、華麗で尊厳に満ちた建物であったと思われる。
 ところが個人的宿怨に根ざした抹消政策を神が見とがめたのか、この神殿は完成後すぐに大規模な地滑りに巻き込まれ、すっかり土砂に埋めつくされてしまったのである。トトメス3世はよほどショックだったのか、この神殿を掘り返して再建しようとはしなかったようである。その後、第20王朝時代にはこの地方で起こった地震によってハトホル神の岩窟礼拝所もまた崩落した土砂に埋められてしまった。それ以来トトメス3世がこの地に残した両神殿は、廃墟となって忘れ去られたのである。
 発見されたのは、ハトホル神の岩窟礼拝堂が先である。19世紀初めにこの地点を調査していたスイス人考古学者エドゥアール・ナヴィルが発掘作業をしていたところ、偶然土砂が崩れて、岩窟礼拝所への入口がぽっかりと姿を現したのである。その奥にはアメン神に捧げものをするトトメス3世の姿が保存状態もよく残されていたが、それは現在そっくりそのまま礼拝所から引きはがされて、カイロの考古学博物館に所蔵されている。
 トトメス3世神殿が発見されたのは、岩窟礼拝所から遅れること約150年後である、1962年のことだった。ポーランドの発掘隊によって調査された至聖所跡からは色鮮やかなまま打ち砕かれた壁画やレリーフが見つかっており、新品のまま埋もれてしまったことを裏付けている。現在、これらの美術品は、ナイル川東岸にあるルクソール博物館に復元されて展示されている。



4.デイル・エル・メディーナの集落跡

 デイル・エル・メディーナ遺跡は「王妃の谷」の近くにあり、「王家の谷」からも2キロの位置にある集落跡である。古代エジプトにおける庶民の生活をうかがい知ることのできる貴重な資料がいくつも発見されているこの集落は、当時としても特殊な位置づけにあった。この街は、王家の谷で王墓を築くために集められた職人、書記、石工などとその家族だけが住むことのできる、「特別な村」として造られたのである。
 集落の建造を命じたのは第18王朝のトトメス1世だといわれている。彼は集落の奥にそびえるクルナ山のふもとに初めての王墓を造営しており、その現場で建造作業に従事する労働者のために、特別な定住地の必要を認めたからだという。集落が丸ごと高い周壁で囲まれているのは、王墓造営に関する秘密が外部に漏れないようにとの配慮だと思われる。だがこの集落で見つかった記録では、住民たちはトトメス1世の前に王だったアメンヘテプ1世を神として崇拝しており、もしかしたら集落はアメンヘテプ1世が造らせたのではないかという説もある。
 この集落は周囲を高さ6メートルもの壁で囲まれており、さらに出入り口は北側にひとつしかないため、集落の住民が外部と接触することはほとんどなかったと推定される。最盛期には約70戸ほどの住居があり、700人程度の人口を擁していたという。彼らはここで生まれ、ここで生活し、そしてここで死んでいくしかなかった。
 住居の形や間取りはほぼすべて同じであり、現代の集合住宅のように互いの壁を共有している。メソポタミア地方のユーフラテス川中流域などで新石器時代の密集した集落跡がよく見つかるが、デイル・エル・メディーナはそれよりもさらに密集している。約6500平方メートルという狭い区域内に700人も詰め込むのだから、自然と恐ろしいほどの人口密度になったのだろう。住民たちはまるでひしめくように暮らしていた。
デイル・エル・メディーナ遺跡 こんな牢獄のような集落に生活させられている住民たちは、さぞ虐げられていただろうと考える向きもあるかもしれないが、彼らは神聖な王墓を造る「特別な職人たち」と見なされており、その社会的地位は驚くほど高かったのである。この村で生まれた男たちは例外なく職人になる運命にあり、職業選択の自由はまったくなかったが、畑を作ったり狩りをしたりなどして自給自足する必要もなければ、都市住民のように自宅の前で露店を開帳する必要もなかった。彼らは国に直属する立派な「国家公務員」なのであり、その食糧から日用品などもすべて政府から支給されていたからである。そのため彼らの教育水準は非常に高く、書記だけでなくほぼすべての住民が読み書きをすることができたという。その証拠に彼らが書いた手紙や、仕事のつらさを嘆いた日記などが出土しており、さらに詩や絵画などもたしなんでいたのである。
 生活が保証されていた代わりに、住民たちは徹底的に管理される。この村の最高責任者は南の宰相であり、数人の宰相直属の監督官が村に常駐していた。生活に必要な物資は近くにあった倉庫(隣接するラメセウムには大規模な倉庫群が残っている)に貯蔵され、監督官たちは王墓の造営に使われる道具から足場のための木材、水を飲むためのコップにいたるまで、また食糧は毎月28日、小麦粉や大麦、野菜、魚、肉類などの主食を中心に塩、食用油、ビールやワイン、調味料などもしっかりと計量されて支給され、不足や余剰がないように数値で管理されていた。そのためこの村で残された記録類は、資料性が高いものからほとんど無価値なものまで膨大な量に及ぶ。
 王墓の建造現場で掘削・装飾作業に従事する労働者は、村の総人口に対して10分の1程度である。
 彼らは現場の近くに天幕を張って軍隊のような集団生活をしており、起きると隊列を組んで現場へ行き、監督官の点呼を受けてから仕事を始める。仕事には労働者一人ひとりにノルマがあり、監督官たちはその日に何メートル掘り進めただとか、昼食に出したパンの数、運び出した石の数や土砂の籠の数まで細かく記録していったという。そしてその日の仕事が終わると点呼をし、露営地へ隊列を組んで帰るという一日だった。作業を休むのにもいちいち報告書の作成が必要で、そのおかげでわれわれは、当時の労働者の状況がわかるのである。見つかった記録には、今日は二日酔いだから休むとか、友人のミイラ作りの手伝いをするから休むとかいった欠席理由が記されているものがあった。
 労働者たちは10日間ほど同じ場所で泊まり込みで働くと、別のグループと交代して現場を移動し、また新たな天幕を張って集団生活をする。そんな彼らにも月に3日の休息日とカルナック神殿の祝祭日は作業を休むことができ、その期間を利用して村に帰った。村では休みごとに数家族が集まって会食をしたり、村の外から知識人を呼んで、食事したり議論したりなどして過ごしていたという。まるで現代のサラリーマンそっくりではないか。
 現代人そっくりなのは、労働の日々ばかりではない。まるでマンションのように、村人たちはその高い教養に見合うだけの組合による自治が認められていたのである。
 デイル・エル・メディーナ遺跡を南北に貫く大通りを隔てて、村は2つの区画に分けられている。その区画それぞれに班長がおり、班長は副班長や書記を部下として労働計画を起案したり、監督官に提出する報告書などを作成したりしていた。しかもそれとは別に何と「村議会」のようなものまであった。議会は60名の男子で構成されており、彼らは自分たちの中から選挙によって村長を選び出す。選ばれた村長は住民を代表して政府と交渉したりなどしていたというのだから驚きである。
 この村議会は村の総意を代表しており、政府との交渉が不首尾に終われば、実力を行使することもあった。紀元前1160年ごろ、ラメセス3世の時代、労働条件が過酷になる一方で食糧の支給が遅れるという事態が発生したとき、デイル・エル・メディーナの労働者たちは村議会での決議に応じ、作業をいっさい中止して現場に寝そべり、労働条件の改善と食糧の支給再開を求めたというのである。これはいわゆるストライキで、記録に残っている限りは世界最初の例であるといわれている。その後もストライキはたびたび行われたようだが、その時すでに政府には、この村を積極的に維持管理する意志が薄れていたともいえる。デイル・エル・メディーナ村には最後の時が迫っていたのだ。
 第19王朝時代に最盛期を迎え、一時は人口700人を超えたこともあったデイル・エル・メディーナ村だったが、政府の財政が逼迫し、王家の谷への投資が抑えられるようになると、村の衰退が始まったのである。政府も彼らを積極的に保護しようとはしなくなった。
 そして第20王朝の終わり近く、ラメセス11世の治世の時、デイル・エル・メディーナは突如として歴史から姿を消した。テーベで権力をほしいままにし、王に並ぶほどの権勢を誇ったアメン大神官アメンヘテプに対してヌビア総督パネヘシが挙兵し、彼に率いられたヌビアの大軍勢がテーベに押し寄せてきたのである。エジプト軍守備隊が撃退され、大神官アメンヘテプがハルダイへ逃亡してしまうと、ヌビア兵と民兵との間で市街戦が始まった。500年近い歴史をもつこの村にも、ついに危険が迫ったのだ。
 住民たちは合議の結果、村を放棄して安全な場所へ避難することに決した。おそらく彼らはすぐに帰ってくるつもりだったのだろう。日用品や家具、書記たちが残した記録類に至るまで、そのままの状態で出土したことがそれを物語っている。
 だが彼らの思惑は外れた。その当時まだ守備隊が抵抗を続けていたと思われるメディネト・ハブを頼りにテーベを脱出した住民たちが、再びこの村へ帰還することはなかったのである。こうして新王国時代の誕生とともにこの世に創造されたデイル・エル・メディーナの職人村はその役割を終え、新王国時代の最後とともに長い歴史に幕を引いたのだった。
 それからもこの村に定住する者はおらず、集落そのものは数世紀にも及ぶ長い眠りにつくことになった。プトレマイオス朝時代の神殿が集落の外れに造られ、それはエジプトの滅亡後もコプト教会として使われ続けたらしいが、神殿が建造された時点でこの集落跡が地上にあったかどうかは疑わしい。おそらく地震か地滑りなどの自然災害によって地下に埋まったのだろうが、ナイル川の氾濫によるものでないことは確かである。もし洪水が集落を襲ったのなら、日干しレンガで作られたにすぎない建造物がこれほどいい状態で保存されるはずがないからである。
 そして現在、この村の存在によってわれわれは、新王国時代における生き生きとした庶民の生活を細かく知ることができるのである。また村の外れに残されている職人たちの墓に入れば、王家の谷にある「官製の」芸術ではない、ほんの庶民でしかない彼らの信仰の様子や、その素朴な願い、日々の生活、そしてその高度な技術をかいま見ることができるのである。その中でも第19王朝時代に作られた「センネジェムの墓」(TT1)、「パシェドゥの墓」(TT3)、「インヘルカウの墓」(TT359)などはその白眉といえるもので、一見の価値がある。

写真:
 デイル・エル・メディーナの集落跡。残された基礎部分を見るかぎりでは、集落とはいえ整然と区画された一個の建物であるかのようにも見える。
 実際、集落の住人たちはほとんど外部と独立した環境にあり、自治制度と独自の高い文化水準を維持していた。ここから出土する数多くの遺物から、当時の墓掘り職人たちがどんな生活をしていたのかがわかるという。


5.メムノンの巨像

 ナイル川を渡り、デイル・エル・メディーナへと続く舗装道路をバスに乗って西に向かい、観覧券を販売している考古学事務所に着こうとするころ、車窓には巨大な2体の座像が見えてくる。激しく傷んだこれらの像は2体まとめて「メムノンの巨像」と呼ばれており、われわれにミステリアスな印象を与えずにはいない観光スポットになっている。
 この像は2体とも、第18王朝時代に文明の爛熟期を現出した王アメンヘテプ3世の座像である。これら座像の背後には広大な土地が広がり、今はすっかり片づけられて空き地のようになっているが、ここにはかつてアメンヘテプ3世が建築主任ハプの子アメンヘテプに命じて造らせた壮大な葬祭殿が建っていた。2体の像はもともとその門前に据えられて参詣者を迎えていた王自身の像だったのである。アメンヘテプ3世の座像の脇には小人のようにひっそりと立つ2体の女性像があるが、小さいながらもこれらは王にとって重要な存在であった彼の母ムテムイアと、恋女房でもあった第1王妃ティイの像なのである。
 アメンヘテプ3世葬祭殿そのものは完全に消失しており、その存在を示すよすがとしてはメムノンの巨像と、かつて至聖所があったと思われる雑木林に立つ大きな石碑が残るのみである。空き地の広大さからしてよほど大きな建物であったことは容易に推定できるが、一説ではカルナック神殿よりも大規模な建造物だったといわれている。だがその潤沢な石材は後世の王たちに目をつけられないわけがなく、数百年かけて徐々に持ち去られていった。最終的にここが更地になったのは第19王朝のメルエンプタハ王時代であるとされる。メルエンプタハ王は有名な「イスラエル碑」を書き残しているが、その石材はここから運ばれたアメンヘテプ3世の顕彰碑を再利用したものであり、イスラエル碑の裏面には今でもアメンヘテプ3世に関する文章が読み取れるのである。
メムノンの巨像 葬祭殿の石材が完全に持ち去られたのに、どうしてこの門前の巨像2体だけが残されたのか。それは今になっても推測の域を出ないが、すでに像として完成されており再利用ができなかったのか、それともアメンヘテプ3世が肥満体であったというからその像もまた肥満体であり、後世の王たちもさすがに再利用を遠慮したのか。やはりはっきりとした理由はわからない。さらに何もない広場にぽつんと立つ2体の座像がギリシア人たちの来訪前に何と呼ばれていたのか。わからないことは山ほどあるのである。印象どころか、その来歴もまたミステリアスな像であるといえよう。
 2体の像は両方とも高さ20メートルであり、おそらくまったく同じ像であったと考えられるが、北の像(写真では右側の像)のほうが傷みが激しい。当時の記録には、紀元27年に起こった地震によって南の像よりも北の像の方がさらに傷んだためとある。
 だがそれ以来、北の像は朝夕になると、まるで人が泣いているかのようなきしみ音を立てるようになってしまった。この地方は砂漠地帯で昼夜の気温差が激しいので、おそらく石材が膨張し、地震でできた亀裂や隙間で石材どうしがこすれ合うことによって発生した音だと思われる。いつ頃からこのような音を発するようになったかは定かでないが、この地を訪れたギリシア人旅行者(多分、碩学な人)が、この音はいにしえの英雄メムノンがその死後巨像に変化し、母である暁の女神イオに向けてあいさつをしているのだという出任せを述べた。それ以来、この2体の像は「メムノンの巨像」と呼ばれるようになったのである。
 メムノンはギリシア古典叙事詩作家ホメロスの最高傑作『イーリアス』に登場するエチオピアの英雄で、エチオピア王ティトノスと暁の女神イオとの子である。彼は、ギリシア軍に攻囲された都市トロイの王であり伯父でもあるプリアモスの求めに応じて救援に馳せ参じた。彼は「木馬」によって城内に侵入したギリシア兵と戦い、勇猛さを謳われてもいる。ところがトロイの王子ヘクトルが討たれた後に後任指揮官として奮戦したものの、ギリシア人の英雄アキレスと戦って敗れ、善戦むなしく命を落としたのである。彼の遺体はエチオピアに運ばれたが、息子の遺体を前にして嘆き悲しむ母イオの涙は朝露になり、毎朝にように大地を潤すようになったと伝えられる。メムノンの奮戦を題材にした叙事詩『アイティオピス』は現在失われてしまっているが、これがエチオピアという地名の由来にもなっている。
 紀元27年の地震以来、奇怪なきしみ音を上げるようになってしまったメムノンの巨像だが、今ではそのような音は聞こえない。それははるか昔に修復されたからである。
 紀元199年、この地を時のローマ皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193年〜211年)が訪れた。彼もまたこの奇怪で切ない音を聞いたに違いなく、心を痛めた彼は、わざわざ石工を呼び寄せて像を修復させたのである。それ以来、メムノンのあいさつは聞こえなくなった。だがメムノンの巨像という呼び名がよほど耳触りが良かったのか、本来はアメンヘテプ3世の像であるにもかかわらず、これらは今でもメムノンの巨像と呼ばれ続けているのである。
 メムノンの巨像は、ナイル川西岸で葬祭殿が立ち並ぶ「聖なる場所」への入口に位置している。そうしたことを考えると、このミステリアスな2体の像が、まるで古代エジプト人たちの墓守をしているように思えてならない。

写真:
 ナイル西岸地帯の入口に位置しているメムノンの巨像。現在はギリシア神話の登場人物メムノンの像という名前がついているが、実は第18王朝のアメンヘテプ3世が造らせた葬祭殿の跡なのである。葬祭殿の石材がすべて持ち去られたのちに、正面玄関にあったと思われるアメンヘテプ3世の二体像だけが残されたのである。このひと組の像だけを残すことにした古代人の心理は読めないが、そのおかげで、この巨像は葬祭殿の存在を現在に伝える役割を演じることになったのである。


ラメセウム平面図6.ラメセウム

 第19王朝の最盛期を現出した「太陽の王」ラメセス2世は、その栄華を後世に示すために、自分のために豪勢な葬祭殿を建造した。メムノンの巨像から北に700メートルほど歩いた先にあるこの古代遺跡は、とてつもなく広大な敷地にいくつもの建造物跡が散乱している。中でも建造当時は高さ17メートル以上もあったという巨像「ラメセス、君主の太陽」は推定重量1000トン超ともいわれ、イギリスの諷刺詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの小詩「オジマンディアス」は、この倒れて割れた像を主題にして書かれたとされる。
 ラメセウムというのは後世の呼び名で、建造当時は「ラメセス・メリアメンの永遠の城」とか「生命の家」などと呼ばれていた。石造りである葬祭殿はずっと後になっても使われ続けていたようで、およそ葬祭殿には似つかわしくないような施設がたくさん付属している。一時期はこれを神殿と見なして「ラメセイオン」と呼んでいたこともあったが、もちろん単なる神殿ではない。現在ではその用途もほとんど明らかになった。それについては後述する。
 ラメセス2世は残念ながら、クフ王やツタンカーメン王に比べて知名度が若干低く、彼のことが掲載されていない世界史の教科書も多い。しかしながら古代エジプト王国において彼ほど思いのままに統治できた専制君主はいない。さらに彼は他の王たちが足元にも及ばないほど多くの建造物を残してもいるのである。ラメセス2世の名前を知らなくても、アスワンにあるアブ・シンベル大神殿の写真を見たことがあるという人もいるだろう。それらは潤沢な財政収入と豊富な労働力、そして彼自身の旺盛な自己顕示欲なくては実現しなかったはずだ。
 彼の旺盛な自己顕示欲と建設趣味は葬祭殿の建造にも現れている。
 ラメセス2世の父セティ1世もまた建造物マニアで、彼はみずからをエジプト伝統美術の復興者として任じており、カルナック神殿の大列柱室やアビュドスのオシレイオンなど壮麗で活気にあふれた建造物を残した。セティ1世は自分の葬祭殿においても決して手を抜かず、未完に終わったもののアビュドス、テーベの2箇所に大規模な葬祭殿を建造させている。
 その息子であるラメセス2世の身上は、「親父に負けてはいられない」であった。何につけても偉大だった父を超えなければ気が済まなかった彼もまた葬祭殿を建造したが、規模といい数といい、望みどおり父を上回った。ラメセス2世は父の葬祭殿をふたつとも完成させただけでなく、ヌビアのベイト・アル・ワーリ、ゲルフ・フセイン、デール、ワディ・エッ・セブァ、そしてヌビアの中心都市ナパタにまで葬祭殿を建てたのである。彼の死に際してどの葬祭殿が葬儀会場になったのか定かでないが、テーベにあるラメセウムはその中でももっとも大規模で、かつ壮麗なものである。
 ラメセウムは日干しレンガの周壁に囲まれており、葬祭殿に入るには第1塔門を通らなくてはならない。第1塔門の裏にはラメセス2世の大活躍を物語る「カデシュの戦い」のレリーフが大っぴらに飾られているが、それは背後に控える第2塔門脇の隔壁にまで伸びる壮大な連作であることがわかる。戦いにおける王はどれも大きく描かれていて、敵兵はおろか部下までもが小さく、みすぼらしく表現されているのが特徴である。
 第1中庭に入ると、正面にラメセス2世の巨大な像が2体見えてくる。しかしそれは建造当時のことで、今では左側に1体しかなく、しかも倒壊してバラバラに割れた姿になっている。立っていれば高さ17メートルにもなったというその巨像「ラメセス、君主の太陽」は周辺に残骸が散乱しており、復元が可能であるらしいことから、修復が計画されているという。右にあった巨像も倒れてしまっていたが、それは1816年にイタリア人冒険家ジョヴァンニ・ベルツォーニがイギリス総領事ヘンリー・ソールトに贈るために運び出した。現在、その巨像は大英博物館1階のエジプト室に展示されているはずである。
 第2塔門を通り抜け、第2中庭を経て階段を上ると、ここからは屋内になる。入口を抜けると眼前に展開されるのは整然と並んだ巨大な48本の柱で、この部屋を列柱室という。現在は見る影もないが当時は屋根がついていて、明かり取りから漏れてくる光が幻想的な雰囲気を醸し出していたという。ここでみられる柱のデザインは、屋内のもののうち小さい柱の方が閉じた集束型パピルス柱、中心線上にある12本の大列柱が開花型パピルス柱になっているのに対して、列柱廊では四角柱の柱にオシリスの姿をしたラメセス2世の像が寄りかかっているのがわかる。
 列柱室から奥室に入ると、室内面積はどんどん小さくなり、さらに暗くなっていく。奥室前の「天体の間」には、古代エジプト時代の天体運行図がレリーフとして刻まれ、ほとんど光は入らない。そして奥室から至聖所に入ると外光は完全に遮断され、灯火がないと何も見えない、完全な暗黒になるように設計されていた。至聖所内にはアメン神の聖なる船が安置されていたという。
倒された巨像 ここまで見れば、ラメセウムは神殿であるかのように見える。ところがそうした固定観念を根底から揺るがすようなふたつの施設が、ラメセウムには付属していたのである。
 ひとつめは、第1中庭の南側に併設されている王宮である。控えの間から謁見の間まで備えた立派なものだが、その規模からして、王が常時滞在するという目的で併設されたものではないようだ。おそらくアメン神の祭りが行われる際に来訪した王が、神官たちに謁見するためだけに建造されたものなのだろう。王宮としては珍しく石造りだったが、今では基礎部分と、列柱の礎石しか残っていないのが残念である。
 そしてもうひとつ、葬祭殿に似つかわしくない施設が、敷地の北西部分にある。それは日干しレンガで造られた何棟もの倉庫群で、その貯蔵量は計り知れないといわれる。この倉庫群が建造された目的は、葬祭殿に勤務する神官たちのためではなく、ラメセウムの背後に隣接するデイル・エル・メディーナの職人村を養うためだろうといわれている。こちらも王宮と同じく日干しレンガの基礎部分が残るだけだが、整然と区切られた部屋には穀物や副食物、さらに生活用品など種類別に分割されて物資が貯蔵されていたとされ、最盛期には約700人もの村人を扶養していたのである。ラメセウムには食糧管理官が常駐し、毎月末に決まった分だけの物資を各家族に支給していたらしい。もしかしたらラメセウムの建造以前からここに倉庫群があったが、設計段階で敷地内に取り込まれたのかもしれない。
 葬祭殿という建造物の使用目的は、かつてさかんに建てられたピラミッドに付属していた時代に限るならば、王の死に際して葬儀を執り行う場所だと特定できただろう。古王国時代、中王国時代に建造されたピラミッドには必ず複合体として葬祭殿が付属していたが、参道、河岸神殿に比べて葬祭殿の残存率が低いのも、その永続性を重視していなかったことの証拠である。ところが新王国時代以降、葬祭殿の残存率は飛躍的に向上している。これは何を物語るのであろうか。
 その理由は、ラメセウムの来歴を知るほどに明らかになってくる。
 ラメセウムは、ラメセス2世の即位後すぐに建設されている。その後ここは「生命の家」と名づけられ、神官を養成する学校として使われたようである。国内からは貴重な文書や書籍類が惜しげもなく集められ、それらを自由に書き写して研究できるようにもなっていた。そのため次第にラメセウムは総合大学のようになり、医師、天文学者、地質学者、建築家、数学者などを養成する「学部」も開設されたらしい。中にはラメセウムの豊富な蔵書を活用して百科事典を編纂する人々もいたらしく、動物、神々、職業、地理などさまざまな項目に分類された注釈つき単語集の断片も見つかっているのである。事典編纂そのものはメソポタミア文明の時代からあり、これは決して最古の試みではないのだが、おそらくプトレマイオス朝時代より以前ではもっとも活発な事業だったはずである。考古学者たちはこの事典を「オノマスティコン」(語彙集を表すギリシア語)と呼んでいる。
 ラメセス2世の死後も、ラメセウムは政府の重要な施設として使用された。庇護者であった王の死後も最高学府としての地位を保ったばかりでなく、ここには上エジプトの農地管理局、ワイン生産の管理局などが置かれた。国の役人たちは、今は亡き偉大な王ラメセス2世の彫像が見守る中で、職務に励んだのである。
 ラメセウムがいつの時代に放棄されたのか定かでないが、デイル・エル・メディーナ村との密接な関係をもとに考え合わせるならば、職人村がその歴史を閉じると同時に、ラメセウムの歴史にも終止符が打たれたのだろう。それ以後は二度と修復されることなく歴史から消えていったのである。紀元1世紀にエジプトを旅行したギリシア人歴史家ディオドロス・シクルスの記述によると、彼の時代にはまだ建造物としての姿を保っていたらしいが、その後の地震や石材流用などによって完全にその姿を消した。
 ラメセウムが再び歴史の表舞台に現れたのは18世紀以後のことで、当時の絵画には現在と同じ状態のラメセウムが描かれていた。目下、フランス政府による調査・修復プロジェクトが進行中である。

写真:
 倒壊した像「ラメセス、君主の太陽」。もともとはこの像の対向にも倒壊した像があったが、それは破損状況がこの像よりやや軽かったために持ち去られ、現在ははるか大英博物館に鎮座している。この像はあまりにも破損が激しく、ほとんど原型をとどめていないため残されたのだろう。
 イギリスの詩人シェリーはこの像の無惨な姿を見て、「オジマンディアス」の詩想を得たのだろうといわれている。


7.王妃の谷

 第19王朝以降における王族の墓群「王妃の谷」は、メディネト・ハブ遺跡を抜けて右折し、2キロほど山間部に入った先の谷あいにある。ここには大昔にナイル川が流れており、王妃の谷はその氾濫原だった場所のようだ。洪水による浸食でできた自然の洞窟がいたるところに散在しており、当初はこうした自然洞窟を利用して墓が掘削されたのである。
 一連の墓群が建造されるようになった当時、ここに埋葬される権利を得ていたのは王族のみで、ラメセス2世の最初の第1王妃ネフェルトイリや、彼の娘で第1王妃の地位を継いだメリトアメン王女、さらにラメセス2世の息子で夭折したアメンヘルケプシェフ王子の墓などはもっとも古い部類に属する。そうでありながら大金をかけただけあって、保存状態は最高である。
 その後は第20王朝のラメセス3世も王族の墓地として利用し、自分より早く亡くなったカエムワセト王子の墓を建造している。現在ここは王妃の谷という名前をもっているが、埋葬されたのは王妃ばかりではなく、王子たちや政府高官、さらに後世になると一般庶民の墓も造られるようになったのである。ただし王族以外の墓についてはその保存状態が劣悪で、地盤も軟弱なためその多くは掘削開始後すぐに工事が中断されている。ようやく完成しても洪水で流されたり、コプト信者やイスラム教徒などに破壊されたりもした。王妃の谷に建造された墓は時代が新しいほど痛みが激しいという、皮肉な遺跡なのである。
 王妃の谷には、現在約100基の墓が存在することが確認されている。しかしここを訪れる観光客が見たいのは各時代におけるバリエーション豊かな崩れかけの墓などではなく、たったひとつの特定の墓なのである。それはもっとも古い時代に属する、ラメセス2世の第1王妃ネフェルトイリの墓である。
 ネフェルトイリ王妃の出自は、現在でも明らかになっていない。かなり地位の高い貴族の家に生まれたことは確かなようで、第18王朝でツタンカーメン王の後継者となったアイ王の家系に属していたらしい。絶世の美女という呼び名も高く、ラメセス2世は王になる前に彼女を見そめ、妻として迎えたほどであった。それ以来ネフェルトイリ王妃は5〜6人の子供をもうけたが、王妃としてだけでなく、政府高官としての仕事も充分こなせる女性だった。彼女はヒッタイトとの外交政策にも重要な役割を果たすなど王の補佐官として立派に役目を果たし、王妃としては空前の高評価を得たのである。だがその激務のせいか彼女は病床にあることが多く、その死に際してラメセス2世は大いに悲しみ、アブ・シンベルに小神殿を捧げたりなどして、その功績に対し最大限の讃辞を与えた。国王級であるこの墓は、愛した妻に対するラメセス2世の最後の贈り物でもあったのである。
ネフェルトイリ王妃の墓 この墓は1904年、イタリア・トリノにあるエジプト博物館館長であるエルネスト・スキャパレリが率いる考古学調査団が王妃の谷を発掘している際に偶然見つかったもので、発見時期としてはツタンカーメン王墓と並んで比較的新しい。その保存状態があまりにも良好だったことに驚いた調査団は、賢明にも観光客への公開を禁止して封鎖したのである。それ以来誰にも入られることなく眠り続けた墓だったが、1988年にようやく修復の手が差しのべられることになり、4年後の1992年に完了して、1995年から一般にも公開されることになった。
 修復のおかげで、われわれは創建当時と同様の色鮮やかな壁画を見ることができる。その至るところにネフェルトイリ王妃の生き生きした美しい画像が描かれており、さらにまた多くの神々が所せましとあしらわれている。壁画はすべてエジプトの冥界に対する思想を反映した「死者の書」から抜粋されたものであり、文字が読めなくても、これらの絵画を見ているだけで自然に古代エジプトの神話体系が理解できるかのようである。
 新王国時代における王以外の墓の多くは、入口を抜けるとすぐに突き当たりになる単純なT字型構造になっている。だがネフェルトイリ王妃の墓は例外で、前室と副室、そして通廊の向こうに2つの副室と1つの小室をもつ玄室が位置しているのである。まさに王家の谷に建造される大規模設計のミニチュア版ともいえ、彼女に対するラメセス2世の愛情がいかに深かったかが思われる。
 「死者の書」に現れる神々が総登場する壁画は、墓主ネフェルトイリの冥界旅行を一連の物語として描いたものである。冥界旅行はすなわち神々に面会することであり、王妃でありながらカルトゥーシュ(中には「ネフェルトイリ・メリト・エン・ムト」と書かれている)を戴いた彼女が何度も神の前に進み出る姿がくり返されている。王妃や神々も美しいが、呪文であるヒエログリフはきちんと引かれた縦罫に沿って整然と書かれており、これもまた芸術品として一級の価値があろう。躍動的に、かつ華麗に描かれた人物と神々は古代エジプト芸術の最高到達点であることは間違いないが、そこには夫であるラメセス2世の姿はいっさい登場しないのである。自己顕示欲が異常に強かった彼にしては珍しいと言わざるを得ない。
 壁画は純白の漆喰に描かれたもので、ところどころ剥落してはいるが、修復のおかげで当時の色彩が蘇った。絵が描かれていない部分はほとんどなく、藍色に塗りつぶされた天井は星の連続模様でびっしりと埋めつくされており、それを四角柱に切り残された柱が支えている。柱の上部には初期王朝時代以来の伝統であるケケル・フリーズ(アシを束ねたもの)がきちんと描かれ、四角柱の三方には神々やヒエログリフ、一方にはオシリス神の背骨であるジェド柱が必ず描かれているのである。
 現代のわれわれは、これらの装飾を見るだけで当時の神話体系を知ることができる。ヒエログリフがほぼ解読された今では、「死者の書」を普通に読むことができるのであり、描かれた神々にもすべて名前が添えられているからである。名前が添えられているのは神々だけではなく、聖なる8頭のウシすべてにも名前があり、さらに玄室で来訪者を待つセム神官にも名前が、そして「敵を倒す者」という名前が添えられた二刀流ナイフをもつ子供、「照らす者」という名前のワニなどもいる。古代エジプトの冥界思想において、死者はいくつも設けられた門を通るために門番の名前を呼ばなくてはならないと考えられていたからで、これらの絵画群もただ飾りとして描かれただけでなく意味と目的があるのである。
 王妃の谷は観光地として整備され、修復中のもの以外はほとんど見学可能である。だがネフェルトイリ王妃の墓だけは特別で、美しい壁画を守るためという名目で、入場者を1日150人に制限しているのである。もし見学したいのであれば、朝早く起きてチケット売り場に並ぶよりほかない。

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 ネフェルトイリ王妃の墓の内部。美しく彩色された芸術品ともいえる墓の中に入れるのは、事前に予約した観光客に限られる。それほどこの墓の価値は大きいのである。
 絵が描かれていない場所はほとんどなく、壁面から柱、さらには天井まで、びっしりと細密な絵画で飾られている。


8.メディネト・ハブ

 テーベ(現ルクソール)のナイル川西岸ではもっとも南に位置し、なおかつもっとも最後の黄金時代を担った神殿遺跡が、第20王朝における最大の建造物を含む「メディネト・ハブ遺跡」である。メディネト・ハブとはアラビア語で「ハブの街」という意味であり、決して一個の遺跡を指した名称ではない。その名の通り、ここには年代もバラバラの建造物が混在しているのである。
 メディネト・ハブで最古の建造物は、第18王朝のトトメス3世が建てたアメン神の小神殿と礼拝堂である。トトメス3世の小神殿には立派な塔門もしっかり残っており、デイル・エル・バハリにあった廃墟同然の小神殿と比べると雲泥の差である。この神殿の付属施設としてトト神の礼拝堂、身を清めるための聖池、そしてナイロメーター(ナイル川の水位計)もいい状態で残存している。だがこの遺跡群の南にあったはずであるアメンヘテプ3世のマルカタ王宮やその前の人工池はすっかり消え去っており、そのあまりの違いに驚かされる。
 だがこの遺跡群を代表しているのは、やはり第20王朝初期に建てられた、ラメセス3世の葬祭殿であろう。
 ラメセス3世葬祭殿は、ナイル川西岸においては晩期に相当する建造物で、時代が新しいだけに保存状態も比較的よい。構造そのものはさきに紹介したラメセウムとよく似ており、ふたつの塔門とふたつの中庭、そして進むごとに狭く、暗くなっていく神域というほぼ共通した設計になっている。壁面や列柱にはラメセス3世の勇壮な姿が至るところに描かれており、二頭立て戦車に乗って牛狩りを楽しむラメセス3世の姿や、王宮内でレスリングに興じる側近たちのレリーフなど、躍動的なモチーフに満ちているのが特徴である。
 自分と同名であり、当時すでに伝説にもなっていた偉大な王ラメセス2世は、血統的に何の関係もないラメセス3世にとって永遠の目標であり憧れだった。内政の整備やうち続く外敵との戦いに明け暮れた彼は、目標であるラメセス2世ほど多くの文化的遺産を残すことはできなかった。だが彼の勇名が現代にまでとどろいているのは建造物の多さによってではなく、この葬祭殿に残されている「海の民」との戦いを描いたレリーフによる要因が大きい。彼もまた自分の業績を誇大宣伝するという、ラメセス2世の政策を受け継いだわけである。
 ラメセス3世葬祭殿は彼の即位後すぐに起工され、数万人の労働力をもって数年後にいったん完成した。完成当初は王宮と居住区、後宮の女性を集めたハーレム、そして政府機関と神殿が同居したような、ラメセウム同様の多目的施設だった。内壁と列柱群は精巧なレリーフと極彩色にいろどられ、まさにこの世に現れた楽園を思わせたことだろう。この施設は「ラメセス3世の百万年の館」と名づけられた。
 ところが国際情勢は年を追って不穏になり、風雲急を告げる外交課題はラメセス3世に平和な暮らしを許さなくなった。そこに来襲してきたのが、今も世界史の謎とされる「海の民」である。ラメセス3世は祖国を守るため、外敵に対し敢然と立ち向かうことを余儀なくされた。
 「海の民」との戦いについての詳細は本編に譲ることにするが、ここで概略として述べるならば、彼は天才的な戦略眼と奇抜な戦術によって武装難民を押し返すことに成功し、古代オリエント世界では唯一、破壊と略奪から祖国を守ったのだといえる。
 新王国時代最後の軍事的成功である「海の民」との戦いは、彼をして「最後の偉大なエジプト人ファラオ」という名を為さしめた。だがその当時、「海の民」の来襲はエジプトの存亡にかかわる一大事であったことは確かであり、100パーセントの勝算などなかったに違いない。そのため彼は自分の最後の砦として、メディネト・ハブの要塞化に踏み切ったのである。それまではラメセウムと同じく華やかで、ハーレムまで併設された王宮は笑い声と悦楽に満ちていたのに、一転して二重の城壁に囲まれた、軍事色ばかりの城塞に生まれ変わってしまった。以前からあったトトメス3世の小神殿も、外周を守る日干しレンガの城壁に取り込まれてしまった。古い神殿を取りこわして石材を再利用しなかったのは、敬虔なアメン信者だった彼が示した信仰心の現れだったのだろう。
 城壁に設けられた門はいつもの塔門ではなく、ミグドルという形式の城門である。ミグドルはシリア地方に昔からある城門の方式で、入口は狭くしかも通廊が長くて、攻め込むためには一列縦隊にならざるを得ない構造になっている。これは単に外国の建築様式を取り入れただけのお遊びなどではなく、効果的に敵を排除するための方式を外国に学んだものだったのである。
 城門をくぐると、目の前には見上げるほどに高い第1塔門が見えてくる。高さ20メートル、幅63メートルにも及ぶこの塔門も入口が狭く造られており、しかも砲弾すら受け付けないほど分厚い。ひときわ大きなその規模からして、一種の軍事施設ともいえる。さらに外壁には捕虜を棍棒で打つという伝統的な図柄のラメセス3世像が彫られており、王の武勇を宣伝するモチーフに彩られている。今はもう残っていないが、この第1塔門の両翼からは堅固な石造りの城壁が伸びており、葬祭殿全体を取り囲んでいたという。
 第1塔門を過ぎると、そこは広大な第1中庭である。左側には8本の彩色された柱廊、右側にはオシリス神をあしらった7本のオシリス柱が並ぶという特殊な構造をしている。これもラメセウムの模倣と思われるが、正面にそびえる第2塔門には門前の巨像がなく、ラメセウムとの相違を見せている。第2塔門はそれほど分厚くないため城塞化されていないらしく、ここから先はおそらく創建当時の姿をとどめているのだろう。
 第1塔門に比べて半分の厚さしかなく、装飾にも華美さはない第2塔門を抜けると、第2中庭に入る。第2中庭には両側とも円柱があしらわれた柱廊があり、レスリングをする王族や隊列を組んだ兵士たち、そして王宮から来訪者たちに謁見したという「臨御の窓」がある。第2中庭の南隣には王宮があり、ラメセス3世がここから葬祭殿を訪れる人々を、文字通りかいま見たともいわれている。今では封鎖されており、ここを通って王宮跡へ行くことはできない。
 第2中庭から奥は、屋内になる。ラメセウムよりは小規模ではあるが立派な列柱室は薄暗く、幽玄な雰囲気に包まれていたことだろう。この奥には副室つきの前室があり、前室の向こうは至聖所になっている。至聖所には他の葬祭殿と同じようにアメン神の聖なる船が安置されていたという。前室に付属した副室にはムト神とコンス神に捧げられた2つの礼拝堂と、ラー・ハルマキス神に捧げられた祠堂、そしてラメセス3世を祀った小さな礼拝堂があった。
 メディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿には、当時の軍事制度や王宮の華やかな生活、そして祭礼をリストアップした暦など、エジプトを研究するわれわれにとって資料性に満ちたレリーフがたくさん存在しており、まさに宝の山であるといえよう。この葬祭殿もラメセス3世の死後、政府機関として使われ続けた。幸いなことに、彼の存命中に要塞として使われることはなかったのである。
 だがこの堅固かつ華麗な葬祭殿の寿命は短かった。ラメセス3世の死後100年もたたないうちに新王国時代が終わりを告げることになるのである。
 第20王朝末期に巻き起こったテーベの混乱は、アメン大神官アメンヘテプの失脚と、ヌビア総督パネヘシの侵攻と占領へと続いた。テーベの守備軍は早々に打ち破られて四散し、歴史あるテーベ市街がヌビア兵の蹂躙に委ねられたとき、生き残った守備兵はこのメディネト・ハブに立てこもったのである。彼らの末路は定かではないが、同じように逃げ込んできたデイル・エル・メディーナの住人たちを保護しつつ勇敢に戦ったことだろう。
 外敵に備え葬祭殿を要塞化したラメセス3世の先見性は、みずからの血統が最後を迎えようとしていたときにようやく役に立ったのである。