

| 皆さま、デジタル地図「王家の谷」のコーナーにおいでいただき、ありがとうございます。 当コーナーはエジプト史の中でも特に輝かしく、栄光に満ちた時代である新王国時代に造られた、 王家に連なる者たちの共同墓地「王家の谷」について詳細に解説する場所でございます。 新王国時代がこの世に存在したわずか500年間しか、王家の谷は存続しませんでした。 われわれはその儚さに思いをはせるとともに、その高い芸術性に驚くよりほかないのです。 ここでは、王家の谷が誕生してから忘れ去られるまでの概説的な歴史とともに、 いくつかの著名な例について個別に解説を行っております。
![]() 当館に保管されたデジタル地図のラインアップ、および詳細については上記ボタンをクリックしてください。 また「デジタル地図集成」では、現在以下の地図および解説ページを用意しております。 | エジプト全図 | ピラミッド分布図 | ギザのピラミッド | ルクソール詳細図 | 王家の谷 | | カデシュの戦い | カルナック神殿とルクソール神殿 | 関連する「エジプト王朝興亡史」の該当コーナーへは、以下をクリックしてジャンプできます。 | 第7章 新王国時代(1) | 第8章 新王国時代(2) | 第9章 新王国時代(3) | 第10章 新王国時代(4) | |
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| 当コーナーでは、以下の解説文を用意しております。お読みになりたい題名をクリックしてください。 第1節:| 1.王家の谷」の概要 | 2.その成立と第18王朝時代 | 3.第19〜20王朝、そして終焉 | 第2節:| 1.アメンヘテプ2世王墓(KV35) | 2.ツタンカーメン王墓(KV62) | 3.ホルエムヘブ王墓(KV57) | | 4.セティ1世王墓(KV17) | 5.ラメセス6世王墓(KV9) | 6.ロイヤル・カシェ(DB320) | |
第1節 神秘の谷の歴史1.「王家の谷」の概要 ナイル川を渡って西岸地区に上陸し、今でも石組みの廃墟が残っている葬祭殿群を左に見ながらバスに揺られていくと、ごつごつした岩山の間を縫うような登り坂に入る。道路からはすでにルクソールの街を望むことはできない。岩山に遮られたそこはルクソールの市街地から完全に隠されたところにあり、まさに天然の隠し場所と呼ぶにふさわしい。その終点にあるのが、古代史の奇跡ともいうべき高貴な墓群、「王家の谷」である。 王家の谷という名称は、1400年間忘れられていたヒエログリフを解読し、古代エジプト史への重い扉を開け放った功績者、フランス人考古学者ジャン・フランソワ・シャンポリオンであるといわれている。その名の通りこの涸れ谷には新王国時代500年を彩ったあらゆる世代の王たちが埋葬されているのだ。この谷は、かつて軍事大国にして世界唯一の超大国だった古代エジプト王国の最高権力者だったファラオたちが最後に求めた、永遠の住みかだったのである。 古代エジプトの歴史を飾った王たちが眠った「王家の谷」は東の谷と西の谷に分かれており、東の谷に58基、西の谷に4基の合計62基が現在のところ確認されている。その中には未完成で誰の墓なのかわからないものや、盗掘者が掘ったと思われる盗掘坑までが含まれているのである。学術的な発掘は19世紀に入ってから行われるようになり、イギリス、フランス、アメリカなど欧米諸国が国の威信をかけて数多くの発見を重ねてきた。最新の発見は1922年に見つかったツタンカーメン王の墓であるが、それ以来80年以上も、国王級の墓が発見されたという報告はない。 第二次世界大戦後、エジプトに観光客が大挙して訪れるようになると、ここは学術研究者だけのものではなくなった。観光立国を標榜するエジプト政府の国家プロジェクトによって、ルクソール遺跡探訪の重要な観光コースに指定されたのである。以来半世紀以上にわたって、世界中の人々がその完成された様式美に酔いしれ、壮大な歴史ロマンに心を奪われてきたのである。 しかし、観光客が見学できる王墓の数は、それほど多くはない。62基ある岩窟墓のうち実際に入ることができるのはそのうち半分にも満たないのが実情で、多くは落盤や浸水によって壁面の装飾も著しく傷んでおり、大がかりな修復が必要な状態のものばかりなのである。 現在、修復が終わって見学できる主な王墓は、以下のとおりである。 第18王朝:トトメス3世、アメンヘテプ2世、トトメス4世、ツタンカーメン、ホルエムヘブ 第19王朝:ラメセス1世、セティ1世、ラメセス2世、メルエンプタハ 第20王朝:セトナクト、ラメセス3世、ラメセス4世、ラメセス6世、ラメセス9世 ※西の谷ではアメンヘテプ3世王墓とアイ王墓が公開中 ※この他にも王族や貴族たちの墓も見学できる。さらに上記の王墓も常時公開しているわけではなく、定期的に修復工事が巡回している。本稿執筆現在はホルエムヘブ王墓が工事中) 観光客の見学はチケット制で、通常1枚のチケットで3基の王墓まで見学させてもらえる。日程が厳しい場合はとても全部を回れないので、構造や装飾、規模など特定の狙いをつけて見学するとよい。 王家の谷で発見された岩窟墓には、学術調査が行われた順に番号がつけられている。王家の谷には「KV」(King's Valleyの略)、西の谷にはWV(West Valleyの略)という頭文字がついており、記念すべきKV1は学術調査が始まる前から知られていたラメセス7世王墓で、最後に発見されたツタンカーメン王墓はKV62である。決して墓主の時代順ではない。 19世紀に始まった学術調査は、まさに盗掘との戦いだった。盗掘そのものは古代エジプト時代にはすでに人目を忍んで行われており、その当時から重大な社会問題になっていたほどだった。その後王国政府がいくら対策を講じても盗掘が絶えることはなく、第3中間期など、一時は国家公認で盗掘が行われたこともあった。さらに時が流れて管理者であったエジプト王国の命運は尽きたが、無断で他人の墓に入り込む輩は後を絶たなかったのである。きちんとした警備が行われるようになったのはようやく20世紀になってからであり、それによって結果的に、やっと盗掘は行われなくなった。 盗掘者は考古学者の天敵である。彼らは満足な歴史的知識もないままに美術品を物色し奪い去るばかりでなく、不必要だと思ったものを容赦なく破壊するからである。 どうしてこうまでするのかと思うほど、その荒らし方は酸鼻を極める。その中にはたびたび起こった歴史抹消の動きにともなって意図的に破壊された墓もある(名前やレリーフが消されたりするのでわかる)が、ほとんどは金品目当てに副葬品を盗み去っていった盗掘者たちのしわざと思われる。壁面の美しい装飾は汚され、はぎ取られ、傷つけられてしまった。それだけではなく貴重な石棺もミイラ取りのために無惨に打ち砕かれ、考古学的な価値はあっても金銭的な価値のない護符、カノポス壺、そしてシャブティなどは壊され、打ち捨てられたのである。だがこうして盗まれた貴重な美術品の多くは、イギリスやフランスなど欧米諸国が所蔵している。この事実が示唆するものは何なのであろうか。 数世代にもわたる数々の王たち、またその家族や側近たちが眠る聖なる墓群は、人類が永遠に守っていかなければならない重要な文化遺産である。だがそこはかつて川だった名残の涸れ谷であるため、地盤は軟弱で地下水も豊富なはずである。それはおそらく建造当時から、掘削担当者たちの頭を悩ませたことだろう。 では、どうしてこのような涸れ谷が王墓の建造場所として認知されるようになり、どうしてこれほど多くの王たちがその伝統に従ったのだろうか。その謎を解明するためには、はるか昔にまで歴史を遡らなければなるまい。 2.その成立と第18王朝時代 王家の谷は、新王国時代の始まりとともにその産声を上げ、新王国時代の終わりとともに課せられた役割を終えた。まさにエジプトの新王国時代とともに歴史を刻んだ遺跡であり、それゆえに、新王国時代を語るうえで欠かせない要素でもある。当時世界唯一だったエジプトを率い、波瀾万丈の人生を歩んできた王たちは、自己顕示欲を満足させるためにみずからの墓を美しく飾りたて、さらに宗教的意匠を凝らすことで永遠の安眠を願ったのであろう。その願いが、王家の谷を伝統ある高貴な墓所へと昇華させたのである。 公式な記録によれば、王家の谷で最初に墓の掘削を始めたのはトトメス1世ということになっている。彼は先王アメンヘテプ1世の元宰相であり、王を助けて混乱していたエジプトの内政を軌道に乗せた功労者でもあった。さらに彼は老骨にむち打ってシリアに出かけ、エジプト軍の先頭に立って周辺異民族を平定したばかりでなく、当時のライバル国であったミタンニの領土を奪い取って、ユーフラテス川沿いの商業都市カルケミシュの対岸に戦勝碑を打ち立てるほどの武功を示した。わずか12年の在位期間ながら、まさに彼は陸軍国エジプトの王として先駆けとなる、重要な足跡を残したのである。 そんなトトメス1世だったが、即位当時の年齢が高かったこともあって、彼は自分の墓所として満足なものを用意することができなかった。だがおそらく彼は、中王国時代の王たちのように、ピラミッドを建てたかったのではないだろうか。エジプトの領土を中王国時代以上にまで広げることができた彼にこそ、伝統の墓所であるピラミッドがふさわしいはずなのだ。それなのに如何せん、彼の死は目の前に迫っていた。 自分の眠る墓をどうすべきか、そのことで頭がいっぱいだったトトメス1世の目に飛び込んできたのは、まるでピラミッドのように天に向けて尖端を突き上げている、テーベ近郊の岩山エル・クルンであった。そのとき彼はこの天然のピラミッドともいえる山の麓に横穴を掘ることを思いついたのである。こうして最初に建造されたのが、クルナ山の山肌に掘り抜かれたKV20号墓だったのである。先王アメンヘテプ1世の時代から建築主任だった廷臣イネニがこの仕事を任されたが、神殿式王墓の建造にたけた彼はその期待に充分応えることができたようだ。 こうして王家の谷は墓所としての伝統をスタートさせ、新王国時代の王たちは何の疑いもなく、この伝統に従って涸れ谷に墓所を設けるようになった。さらにピラミッドにおける盗掘の惨状を目の当たりにしたトトメス1世は、王家の谷の外れにある丘陵地帯デイル・エル・メディーナに専門の職人村を作らせた。高い壁に囲まれた村は完全に世間一般と隔離され、その住民は村の外に出ることを固く禁じられたという。おそらくそれは王墓建造に関する秘密が漏洩することを防止するためだっただろうと推測されるが、その後も続いた盗掘の現状を見るかぎり、効果のほどには疑問が残る。 こうして成立した王家の谷の王墓群は、ピラミッドに似たクルナ山の麓に建造するという当初のコンセプトとは離れて、しだいに涸れ谷全体に広がっていった。しかし広がりを見せたのはコンセプトと墓域だけではない。最初のうちは王専用とされていた王家の谷だったはずが、いつしか王族に名を連ねる王妃や王子・王女たち、さらには政治に貢献した重臣たちにも王家の谷に墓が与えられるようになっていったのである。 中には、こうした前へならえの伝統に反発する王もいた。第18王朝後期の王アメンヘテプ3世は贅を尽くしたルクソール神殿や西岸のマルカタ王宮、そして今となっては「メムノンの巨像」のみが残る巨大葬祭殿など、時代を画するような新機軸の建築スタイルを意識して実践した人物である。そんな彼は王家の谷から西に山ひとつ隔てた谷地を選び、そこに王墓を建造させたのである。だが西の谷での王墓建造は伝統にまで昇華することはなく、ここに埋葬された王としてはアメンヘテプ3世、そしてアイ王のふたりだけで終わった。 そして第18王朝時代に建造された墓のうち、今でもまだ未発見、または被葬者不明のため発掘調査が続いていて、できるだけ早い考古学的発見が待たれている王墓がある。エジプト初の宗教改革を断行し、「人類最初の個人」と呼ばれたアクエンアテン王の墓と、その共同統治者で業績、出自、さらに性別までも謎に包まれているスメンクカラー王の墓である。 アクエンアテン王は宗教改革開始以来、聖都アケトアテンから一歩も外に出なかった。そのため彼はテル・エル・アマルナに残るいくつかの王墓群のどれかに埋葬されたとされてきた。懸命な発掘調査によってその墓が特定され、盗掘者用防壁が残されているのも見つかったが、だが王の改革が失敗し、勢いを盛りかえしたアメン信者によってアケトアテンの街が徹底的に破壊されたのと同じように、その墓もまた完全に破壊されていた。王の遺体が聖なるものである限り、もはやアメン信仰の再興にともなう過激な復古運動に王墓がさらされることは確実となった時点で、埋葬は中止されたと考えるのが普通であろう。ゆえに現在、アクエンアテン王の遺体はそこに安置されることなく運び出され、最終的に王家の谷のどこかに埋葬されたと考えられている。ただそれを裏付ける王家の谷での墓はまだ見つかっておらず、発見が待たれるところだ。 スメンクカラー王の墓は、すでにKV55号墓ではないかと特定されているが、いまだに多くの謎が残る興味深い墓である。 スメンクカラー王は第18王朝の王の中では珍しく出自不明な人物で、依然アクエンアテン王の弟だという説が有力ではあるが、アクエンアテン王の息子という説や、極めつけは王の第1王妃ネフェルティティが即位したものであるという学説まである。その業績もテーベのアメン神官団との調整役だったということがわかっているだけで、テーベはおろか彼が住んでいたというメンフィスでの足跡もまったく残っていない。知れば知るほど不思議な人物なのである。 王家の谷で1907年に見つかった未完成の墓KV55は、近くにあるラメセス2世の墓やラメセス9世の墓と同じように、浸水でひどく傷んでいた。その玄室と思われる一室からは、これも腐ってボロボロになった木製のリシ棺(羽根の装飾が施された棺のこと)が見つかり、さらに玄室内からはバラバラになった女性らしいミイラも発見された。体格が華奢で、腰骨のあたりが異様に盛り上がっていたからである。 これを発見したセオドア・デイヴィスらはさっそく世界中に、アメンヘテプ3世の第1王妃ティイのミイラが見つかったと発表した。その当時、もっともその発見が待たれていたのがティイ王妃だったからである。世界中のエジプト考古学者たちはこの情報に驚いたが、その後の解剖検査により、そのミイラは女性ではなく男性のものだとわかると、間もなく沈静化した。それでそのミイラは一時期、アクエンアテン王のものだとされたときもあったが、あらゆる情報を総合してみると、どうやらその遺体は謎に包まれた人物スメンクカラー王のものではないかともいわれているのである。 KV55号墓からは遺体のほかにも、ボロボロになったリシ棺が見つかっていることは前にも述べた。だがこの棺の顔部分は大部分が剥ぎ取られるように壊され、さらに棺に刻まれたヒエログリフには念入りにカルトゥーシュだけを削りとるという、湿気で腐ったためだけとは思えないような人為的な破壊の跡がみられるのである。エジプトの言い伝えでは、死者の魂(バー)は復活の際、ミイラに戻るためにマスクや人型棺に刻まれた顔など自分の似姿、あるいは自分の名前を目当てに飛来するのだという。そもそも名前に対するエジプト人の執着は異常なほどであり、王はおろか一般人ですら数種類の名前と称号をもっていたともいわれているくらいで、彼らは自分の名前に限りない誇りと自尊心を抱いていたのである。死者の復活を妨げるために名前を抹消することはたびたび行われたようだが、エジプトの風習からすると死者に対するこれ以上の冒涜行為はなかったはずである。顔を剥ぎ取られ、カルトゥーシュを消されたこの木棺から読み取れるのは、行為者の燃え立つような憎しみだけだ。 では、このリシ棺はいったい誰のものなのか。その点については現在でも議論が絶えない。 リシ棺に刻まれたヒエログリフは、ほとんどが女性形で表現されていた。古代エジプト語は現代語以上に男性形・女性形の使い分けが厳格で、その多くは決定詞(名詞の後につけて、同じ綴りの文字列の意味を明確化した。通常は読まない)によって、文章の主語にある人物の性別をしっかり示したのである。つまり、このリシ棺は女性に捧げられたものなのである。そればかりでなく、木棺とともに見つかったカノポス壺に掘られていた頭像もまた、女性のものだった。この墓の被葬者が女性であったことの証拠であろう。 この木棺に入れられていた人物が誰であるにせよ、男性であるということはこの墓への埋葬当時、かなりの混乱が発生していたことは想像に難くない。現在の定説では、このリシ棺はアクエンアテンの副妃でツタンカーメン王の母ともいわれるキヤ王妃のために作られたもので(アクエンアテンの称号やキヤ自身の称号が残っていた)、彼女の死後、何者かが憎しみにかられてその存在を抹消したうえで、リシ棺は再利用されてスメンクカラー王の遺体が入れられた…となっている。だがスメンクカラー王とネフェルティティ王妃が同一人物だと考える学者たちは、この遺体はアクエンアテン王のものだと主張している。 こうした混乱はツタンカーメン王の時代にまで持ちこされ、若くしてこの世を去った少年王は立地の悪い小さな墓に埋葬される羽目になったばかりでなく、彼を継いで王になった元宰相のアイ王は混乱を避けるかのように、西の谷に築いた王墓に埋葬されることになったのである。あるいは西の谷に作られた墓がもともとツタンカーメン王のためのもので、アイ王は自分のために小規模の墓を王家の谷に造っておいたが、少年王のあまりにも早い死によって予定が狂ったため、先に完成していた自分の墓に押し込んだのかもしれない。 いずれにせよツタンカーメン王の墓は、小規模であったおかげで盗掘者の目から逃れることができたのである。記念碑からアマルナ王家の名前を猛然と抹消し、その治世年間をすべて自分のものにしたホルエムヘブ王も、何の罪もない旧主君の墓にだけは手をつけなかった。埋葬場所に関する秘密が固く守られたためなのか、親子ほど年の離れた自分の主人を思ってのことなのか、今となってはわからない。
3.第19〜20王朝、そして終焉 第19王朝時代に作られた王墓の共通した特徴は、より奥深く長大になった坑道の壁面全体に白い漆喰を塗り、それをキャンバスにして色鮮やかな壁画が、壁面全体にびっしりと描かれるようになったことである。また「死者の書」をつづったヒエログリフも以前は黒と赤(エジプト語は改行をせず、最初の文字を赤で書くことで段落を示した)だけで書かれるだけだったものが、文字にもすべて美しい彩色を施すようになり、文字も壁画の一部と見なされるようになった。これも第18王朝時代には見られなかった手法である。 このような美しい彩色の王墓は、ホルエムヘブ王の墓が最初の例である。白い漆喰を紺色で下塗りしたキャンバスに、神々や亡き王の姿、そして文字とは思えないほど色彩豊かなヒエログリフが、伝統を守りながらものびのびと思いのままに描かれているのである。これはまさに一級品の壁画美術であろう。色彩を重視し、文字にまで着色するという手法は第19王朝時代の主流になり、第20王朝においても数例をみることができる。 第19王朝を創始したラメセス1世王墓の壁画はホルエムヘブ王墓のものとタッチがそっくりなので、両者の墓の壁画は同一の職人によって制作されたものであることがわかる。ただしラメセス1世の墓は未完成で、その規模もホルエムヘブ王の墓に比べればごく小さいものである。おそらく王の急死によって工事が中断されたのだろう。ラメセス1世のミイラは2003年秋に再発見され、現在は彼の祖国エジプトに戻っているが、まだそのミイラが本当に彼のものなのか、調査が行われているところだ。 第19王朝といえばラメセス2世、誰もがそう連想するだろうと思う。だが王家の墓にある王の墓としては、彼の父であるセティ1世の時代ですでに完成形が見られる。1817年にイタリア人冒険家ベルツォーニが発見したセティ1世王墓がそうで、その規模といい壁画の芸術性といい、まさに驚嘆に値する。さらに従来は描かれなかった死者の書もセティ1世王墓で初めて現れるようになり、彼の墓に描かれた天体図のモチーフはその後の時代の様式にも受け継がれ、最終的に第20王朝のラメセス6世王墓において完成するのである。保存状態の良さからいえば、セティ1世王墓とラメセス6世王墓はまさに双璧をなしているといえよう。 この時代のエジプトはますます周辺諸国に勢力を及ぼしており、世界唯一の超大国、または裕福な経済大国としての地位を揺るぎないものにしていた。セティ1世・ラメセス2世親子の建築事業はこうした潤沢な国家予算のおかげで、以前に比べるとけた外れに大規模になった。セティ1世が寄進したカルナック神殿の大列柱室、ラメセス2世のラメセウムやアブ・シンベル大神殿などは、それを見上げる現代のわれわれにまで、彼らの絶大な権力を思い知らせようとするかのようである。 ラメセス2世は父セティ1世とほぼ同規模の墓KV7を造ったが、現在では地下水による損壊が激しく修復中である。だが彼が生前に情熱を傾けたのはどうやら自分の墓ではなく、自分より早くこの世を去らねばならなかった王子たちの墓だったらしい。その巨大な集合墓ともいうべき王子たちの墓はつい最近、1995年に再発見されて世界中を驚かせた。再発見されたのはKV5号墓。この番号からして、かなり早くから考古学者たちの目には止まっていたようだ。しかしどういった理由によるものか、発掘作業が中断されたまま忘れられてしまったらしい。アメリカ人考古学者ケント・ウィークスらによってKV5号墓が再調査されたのだが、実はまだ発掘調査そのものは完了していない。 KV5号墓は誰か特定の人物のためではなく、ラメセス2世の数多い子供たちのために造られたもので、前室や副室、玄室といったオーソドックスな構造をもたない、マンションのような小部屋の集合体だった。しかしその小部屋の数が相当なもので、現在のところ95室もの小部屋が見つかっているのである。しかもまだ未発掘の部分が残っているらしい。このまま発掘が進み、全貌が明らかになれば、このKV5号墓こそが王家の谷で最大の墓ということになるだろう。まさにこの時期が、王家の谷における王墓造営のピーク期だったといえる。 ところがピーク期を迎えた王家の谷は、それ以後は凋落の一途をたどることになる。それは第19王朝が急激に衰退したことと歩調を合わせているかのようだ。 あれほど華やかで大規模だった王家の谷にかげりが生じ、時代とともにその風習は衰退していった。数多くの文献に目を通し、これまでの研究を総合するならば、わたしは3つまでその原因を挙げることができる。 まずひとつ目の原因は、第19王朝と第20王朝にそれぞれ一時期だけ長命な王がいて、彼らがその後継者たちの分まで長生きしてしまったことである。悪くいえば、長生きしたことは結果的に後継者たちの治世期間までをも奪ってしまったのだ。 第19王朝の繁栄が一気にどん底にまで落ち込んだのは、ラメセス2世があまりにも長生きだったからである。長命でなかなか王位を明け渡さない彼は後継者に先立たれることが多く、しかも彼の死後に後継者となったメルエンプタハ王もすでに60歳を越えており、そのまた後継者となるはずの王子たちもやはり壮年を越えていたはずである。古代世界では先進国だったとはいえ平均寿命が35〜40歳だった当時のエジプトであるから、必然的に彼らの治世期間も短いものにならざるを得ず、為政者としての実績を残す前にこの世を去らねばならなかったのである。治世期間が短いということはすなわち、王家の谷における掘削事業を完遂させるだけの時間的余裕を得られなかったということになろう。そこに、王家の谷が凋落を始めた最大の原因がある。 王家の谷に手の込んだ墓を造ることができないという状態は、第20王朝の時代になっても変わらなかった。 第20王朝にもまたラメセス3世という偉大で長生きの王がいたが、それは彼が近親結婚という王家の「悪習」の犠牲者ではなかったからである。ラメセス3世もまた王家内での近親結婚を受け入れ、積極的に実践したが、それによって生まれた子供たちは遺伝的に何らかの障害を負わなければならないことが多く、実際に障害を背負ったまま王位についた人物もいる。第19王朝と第20王朝がエジプトを統治した約230年間に即位した王は、実に18名にものぼる。だがそのうち10年以上の治世期間を実現できたのはわずか6名、20年以上となるとラメセス2世とラメセス11世の2名のみという惨憺たる状況なのである。 そこで当時の王たちは、先王が完成させることができなかった墓を自分のものとし、工事を継続させて完成させるという苦肉の策をとらざるを得なかった。その傾向は第20王朝時代に多くみられる。初代のセトナクト王は先王タウセルトの未完成の墓(KV14)を自分のものとして拡張し、新たな玄室を設けて自分の石棺を置いたことがその始まりである。さらにその息子のラメセス3世が、父セトナクト王が最初に掘り始めたものの、アメンメセス王の墓(KV10)にぶつかったため放棄されていた墓(KV11)を再整備することになった。ラメセス3世の墓であるKV11には当時の民衆や宮廷の生活が生き生きと描かれており、中でも2人の盲目のハープ弾きが描かれた部分は素晴らしい。そうした壁画は貴族たちの墓に多くの例がみられるものだが、王家の谷では珍しい部類のものであろう。 王家の谷が凋落したふたつ目の原因は、掘削好適地がすでに払底していたことである。それは王家の谷に王墓掘削を望む王たちを、大いに悩ませたことだろう。 18世紀の考古学者たちが整理と管理のために、王家の谷にある墓(貴族の墓や試掘坑、盗掘坑も含む)に発見順にKV番号をつけていったことはすでに述べた。その番号はラメセス4世がKV2、ラメセス6世がKV9、ラメセス7世がKV1などといったように、時代が進めば進むほど若くなっていくのにお気づきだろうか。それはすでに好適地である谷奥が祖先たちによって占められていたせいで、第20王朝後期の王たちはやむなくより外側に造営地を求めなければならなかったからであろう。外側にあればそれだけ発見される時期も早くなるわけである。こうした時代の墓が盗掘者の手から逃れられるはずがなく、偽装など思いもよらなかった外側の墓が激しく盗掘される運命にあったのは、むしろ必然といえる。 そして3つめの原因は、第20王朝後期から顕著になった国力の減退にともなう、テーベの治安悪化である。これが王家の谷を結果的に衰退から消滅に追い込んだ最大の要因といえよう。 ラメセス4世の死後、即位した弟のラメセス5世の治世期間中に内戦が起こった。内戦の詳しい状況は不明だが、ラメセス5世の弟が王位を欲するあまり、兄に対してクーデターを起こしたという可能性も捨てきれない。そしてその戦場となったのは、首都のあるペル・ラメセスではなくテーベだったのだろう。デイル・エル・メディーナの職人たちは折しも造営中だったラメセス5世の墓(KV9)の掘削を中止し、周辺へ疎開しなければならなかった。そのことを記したオストラコン(陶片)も見つかっている。 王家の谷が最後の輝きを放ったのも、またこの時期だった。兄ラメセス5世を追い落として王位についた弟のラメセス6世は、兄の墓KV9を奪って自分のものとし、さらに拡張して美しい装飾を施したのである。衰退期にある王朝にしては破格の費用をかけて仕上げられた壁画は素晴らしい状態で現在に残り、今でも観光客の目を楽しませてくれる。それはアジアにおける領土を失い、さらに混乱する経済を代償にして実現された芸術であるだけに、壁画を見上げるわれわれに訴えるものもまた特別である。 歴史的に最後となった黄金時代を終えると、王家の谷の役目はすでに終わってしまったといえよう。ラメセス9世はかなり大がかりな盗掘者の一斉摘発を行ったが、有罪となった容疑者はテーベの西岸地区にあった収容施設に拘留するにとどめたようである。もはや王家も、首都から遠く離れた古い王墓群にそれほど関心を抱かなかったのだろう。ラメセス9世はかつての偉大な王ラメセス2世が眠る墓の向かい側に自分の墓を造営したものの、造りも粗雑で壁画の保存状態もよくなく、見る者にはさらに隔世の感を強くさせるだけである。この時期になると、ラメセス8世のように、その墓所の場所すら不明な王や貴族たちも散見されるようになってくる。 第20王朝最後の王ラメセス11世の在位年間は30年にも及ぶが、彼をもってエジプトの新王国時代、さらには王家の谷の伝統が歴史からその姿を消すことになる。 カルナック神殿において聖俗両面で強大な権勢を誇っていた大神官アメンヘテプに対し、ヌビア総督だった将軍パネヘシが討伐軍を起こしてテーベに乱入したのである。これによってテーベで再び市街戦が勃発し、掘削中だった王の墓もまた工事中止のやむなきに至った。 今回も集団疎開を決め込んだデイル・エル・メディーナの住民は、またすぐ戻るつもりだったのだろう。家財道具がそのまま残されていたところを見ればそれがわかる。しかし内戦は想像以上に激しくなった。戦火はすぐデイル・エル・メディーナにまで迫ったらしく、住民たちは着の身着のまま最後の守備隊が立てこもっていたメディネト・ハブへと避難した。彼らがその後どうなったのかは、記録がないため皆目分からない。ラメセス11世が埋葬されるはずだった墓KV4はもちろん放棄され、被葬者になるはずだった王のミイラも行方不明になってしまった。 こうして、王家の谷の歴史は幕を閉じた。その後テーベを統治したアメン大神官たちも、さらにタニスに正統王朝を組織した第21王朝も、もはや王家の谷に目を向けることはなかったのである。 王家の谷に関する最後の記録は、紀元前969年ごろ、カルナックのアメン神官団による王墓の調査と副葬品の回収、そしてロイヤル・カシェへのミイラの移送についてである。そのとき神官たちは盗掘者の手から聖なるミイラを守るためにまず一カ所に集め、名札をつけて整理した上で、デイル・エル・バハリの外れに造られた隠し場所(ミイラ保管庫というべきか)へと収容したのである。 このようにして、古代の偉大なファラオたちは守られた。王家の谷は滅びたが、新王国時代という輝かしい時代を担った王たちのミイラだけは、当時の様子を物語る数少ない証人として、現代も存在しつづけることになったのである。
第2節 「王家の谷」遺跡めぐり 1.アメンヘテプ2世王墓(KV35) 第18王朝中期の王であるアメンヘテプ2世(在位前1427年頃〜前1392年頃)は生まれつき体格がよく、しかも勇猛果敢な性格で、その軍事的才能においては決して父トトメス3世に劣る人物ではなかった。 実際、彼は父の死によって浮き足立とうとする征服地を抑えるため即位してすぐに遠征を敢行したばかりでなく、反乱を企てた首謀者たちを厳罰に処することで、エジプトの勢威を諸外国にとどろかせることにも成功した。これによって長期間にわたる、エジプトを中心とした古代オリエント世界の軍事的秩序が出来上がったわけである。 そんな彼が眠る墓(KV35)ではあるが、それほど大規模なものではなく、入口である階段を下りると「井戸の間」という小部屋に続いて第1列柱室があり、そこから左に折れて第2列柱室、そして王が眠る玄室というコンパクトな構造になっている。生前の彼に合わせた、質実剛健そのものな造りといえよう。 内部の装飾には華美さはないが、壁面には所せましと「死者の書」が描かれていた。色彩はそれほど豊かではなく、ほとんどは白い漆喰のキャンバスに赤と黒のインクで文字を書き、その中に絵をあしらっている。その絵は大部分が質素な線画で占められており、父トトメス3世の時代に流行した線画ブームが彼の墓にも活かされているとみることができる。 壁画にされた「死者の書」の題材は、当時一般的だった「アム・ドゥアトの書」と呼ばれるもので、太陽神が12に分けられた夜の世界を順番に聖船で通過し、夜明けにまた復活して東の空に昇るまでを描いている。こうした題材は本人が復活するために用意される「死者の書」とは異なり、墓の装飾として欠かせないものだったのである。この壁画を見ると、当時のエジプト人が自然界に対して抱いていた考え方や思想といったものを把握できる。そういった点でこうした壁画は貴重な資料であろう。アメンヘテプ2世の墓は小ぶりであり、その上長い間秘密が保持されたため発見されずに数百年を過ごしたようだが、第20王朝時代になってついに発見され、徹底的な略奪を受けてしまった。 しかし、盗掘者たちの目当ては装飾品や宝飾品などの「金目のもの」であり、宗教的なものや美術的なものなどにはそれほど注意を払わなかったようである。その結果、1898年にフランス人考古学者ヴィクトル・ロレが彼の墓を再発見した際、王墓内は例によって荒らされており、残骸の山になっていたものの、石棺の中にアメンヘテプ2世のミイラがそのまま残されているのが見つかったのである。現在のところ、第20王朝以前に即位した王のうち、ミイラが「自分の墓で」発見された人物はアメンヘテプ2世ただひとりである。 アメンヘテプ2世のミイラは現在カイロ博物館にあり、王墓にある石棺には何も入っていないのであるが、ミイラの上面に残った押し型によると、かつてはミイラとともに多数の首飾りやペンダント、胸飾り、そして大きな弓などが納められていたことがわかっている。だが1898年に発見されたとき、彼の石棺には弓しか残されていなかった。その弓はエジプト兵が装備していた標準のものに比べかなり大きく、もしそれが王の愛用品だとすれば、彼が大柄な体格の持ち主だったということを裏付ける資料となったはずだった。だが現在、その弓は調査中に紛失してしまい、残念ながら今なお発見されていない。 だが、アメンヘテプ2世の墓は壁画の意匠や王のミイラの存在だけでなく、さらに大きな歴史的意義をもつことがわかった。それは彼のミイラが眠っていた玄室の隣にある小部屋から、彼の子供たちや王妃たち以外にも、なぜか彼とは関係のない数体のミイラが発見されるという信じられない出来事があったからである。 これより先の1881年に、デイル・エル・バハリにあったパネジェム2世の墓(DB320)から大量のミイラが見つかっていた。ここは当時の神官たちが盗掘者の横行に対処するために設けた「カシェ」(フランス語で隠し場所という意味)で、40体という驚くべき数のミイラが隠されていたのである(この「ロイヤル・カシェ」については後述する)。 「ロイヤル・カシェ」からは本来の墓主であるパネジェム2世をはじめ、イアフメス王やセティ1世、ラメセス2世など伝説上の王たちがミイラとなって次々と現れ、世界中をあっと言わせた。だが分析を進めるうちに、その中にはまだ、文献上では実在が確認されている王たちのうち数人が含まれていないことが判明した。考古学者たちはどこかにもうひとつの隠し場所があるはずだと血眼になって探したが、それから17年後、ついにそれがアメンヘテプ2世の墓にあることが発見されたのである。それ以来、この側室は「アメンヘテプのカシェ」と呼ばれるようになった。 隠されていた王たちのミイラについては、この一文の最後にリストとして掲載するが、修復されたミイラのうち、数体はカイロの考古学博物館に展示されている。
2.ツタンカーメン王墓(KV62) 王家の谷にあったと思われる重要な墓がすべて掘り尽くされ、もはや新たな発見は見込めないという風潮がすっかり定着していた20世紀初頭にあっても、イギリス人考古学者ハワード・カーターはまだ諦めていなかった。 のちに世界的な有名人になるハワード・カーターは1891年、17歳でイギリスのエジプト考古学調査隊の一員として王家の谷を訪れた。彼が採用されたのは、古代エジプトに対する限りなき憧れをもち、さらに考古学者としては珍しく、絵画の素養があったからだといわれている。若きカーターはそこで新進気鋭の第一人者フリンダーズ・ピートリーと出会い、彼のもとで6年間発掘の腕を磨いた。そんなカーターの働きは当時のエジプト考古局長だったガストン・マスペロに高く評価され、ピートリーの推挙もあって、カーターは上エジプトの遺跡監督官という要職を得ることができたのである。 だが、発掘には多額の経費が必要である。そこで彼は王家の谷の採掘権を保持し続けていたアメリカ人大富豪セオドア・デイヴィス(クレタ島でのクノッソス宮殿発見でも知られる)の協力を仰ぐことにした。遺跡好きの好事家だったデイヴィスの潤沢な資金を背景に、彼はトトメス4世の墓やトトメス1世王墓の発掘など多くの考古学的発見をなし遂げたが、いずれも過去に盗掘者たちが「仕事」を終えた後であり、めぼしい発見はなかった。なかなか成果を上げることができないままカーターは、ついにデイヴィスと決別することになる。 そんなカーターは再び発掘ができる日を待ち望みつつ、遺跡監督官としての仕事に専念していたが、現地でフランス人労働者たちともめ事を起こしたことから監督官の職からも追われ、ルクソールで旅行者向けに水彩画を売って生活費を稼ぐという羽目に陥ってしまった。 しかしカーターはエジプトを離れず、自分の腕を買ってくれる新たな出資者を探していた。そこに現れたのが、第5代カーナヴォン伯ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートという長い名前のイギリス人貴族だった。カーナヴォン伯は若い頃かなり放蕩の限りをつくした挙げ句、それがもとで呼吸器の病気をわずらっており、エジプトにはその治療のために訪れていた。そんな彼もまたすっかりエジプトの遺物や神秘的な遺跡に魅せられてしまい、何とか自分でも発掘ができないかと思っていた。だが彼には考古学者としての実績どころか、発掘者としての腕前すらない。そこで腕のいい発掘者を求めて考古局長のマスペロに相談したところ、カーターの存在を知るのである。 こうして出会ったカーターとカーナヴォン伯はまず王家の谷周辺で数々の発見を積み重ね、1914年に王家の谷での採掘権を得てからは王家の谷での発掘活動をすることになった。だが王家の谷はすでに穴だらけで、たとえ掘ったとしても見つかるのは小ぶりの貴族の墓や盗掘者たちの試掘坑ばかりで、もはや新たな発見はないものとされていた。 だがカーターは、ある王に期待をかけていた。それは名だたる第18王朝の王たちのうち、まだその王墓が発見されていないツタンカーメン王だった。彼は若くしてこの世を去っており、のちにホルエムヘブ王によって徹底的にその存在が抹消されたにもかかわらず、王家の谷の至るところから彼の名を刻んだ遺物が発見されるに及んで、20世紀初頭の時点ではすでにその実在は間違いないとされていたのである。カーターも1905年にツタンカーメン王の名前が入ったファイアンス製のカップを、さらに1909年にはツタンカーメン王と宰相アイの連名がある戦車の残骸などを発見していた。ツタンカーメン王の墓を求めて、発掘は1922年まで続いた。それでも何も出てこない。羽振りがよかったカーナヴォン伯もすっかり諦めムードで、翌年の採掘権を更新するための資金を渋るという有様だった。 そこでカーターは、従来の考古学者なら思いもよらない、意外な場所を掘ることを考古局に申し出た。そこはラメセス6世王墓(KV9)の前面にある小高い丘で、当時はラメセス6世王墓の珍しい壁画を見るために訪れる観光客のため、道路の一部にされてしまっていたところである。そこを掘るためにはラメセス6世王墓を閉鎖しなければならないが、カーターの熱意に負けた考古局もようやく発掘を認めてくれたのである。 掘り始めるとすぐ、当時ラメセス6世王墓の建造に当たっていたデイル・エル・メディーナの職人たちが設営していたと思われる、作業小屋の残骸が出てきた。従来であればそれで終わりになるところだが、それが堆積した土砂の上に建てられていたことを見てとったカーターは、さらにそこを掘り続けることにしたのである。 そしてついに、現地作業員のひとりが土砂の下で下降階段を見つけた。1922年11月4日のことだった。 階段は16段あり、慎重に掘っていくと、11月24日、9人の外国人捕虜を組み敷いたジャッカルをかたどったラベルが押された封印壁が見つかった。このラベルは王家の谷における王墓であることを示す正式の印章であり、また封印壁が残っているということは、未盗掘の王墓であることの証拠でもあった。カーターとカーナヴォン伯はこの壁を破って進んだが、さらにその先に第2の封印壁があった。さすがにこの壁を崩すのにはまる2日かかったが、ここでカーナヴォン伯の娘エヴェリンと、助手としてイギリス人考古学者アーサー・カレンダーが発掘に加わったおかげで、どうにか先に進むことができたのであった。 第2の封印壁を崩すと、そこは王墓の前室であった。前室と副室にはツタンカーメン王が生前に愛用していたと思われる寝台、椅子、マネキン、壺、小箱など多数の生活用具がぎっしりと詰め込まれていた。それらに目立った損傷はなく、3000年以上もの間、誰かに発見されるのをずっと待っていたのである。だがその量はあまりにも膨大で、カーターらはこの前室と副室に納められた物品を整理するのに、3年もの時間を費やすことになるのである。 前室の右側には、等身大よりやや大きいツタンカーメン王自身の木像2体が守る、スカラベの封印がされた玄室への扉があった。扉を開けてみたカーターはまたびっくり。巨大な木製の厨子が、玄室全体を占領するかのように据えられていたのである。組み上がった状態では王墓に入りきらないので、おそらく建造途中の坑内で組み立てたのだろう。その厨子の扉を開けると、さらに小さい厨子がその中に入っていた。それを開けるとまたさらに小さくなった厨子が2重に入っており、実にその厨子は4重もの入れ子になっていたのである。王の石棺は、これほど厳重に包まれた4重の厨子の中に納まっていたのだった。 4重の厨子に守られていた石棺は長さ2.7メートル、高さ・幅ともに1.47メートルの赤色珪岩製で、四隅にはそれぞれイシス、セルケト、ネフティス、ネイトという4人の女神が翼を広げて護るという意匠の浮き彫りがされている。この石棺はもともとアクエンアテン王もしくはスメンクカラー王のために作られたものだったらしく、当初彫られていたであろう文字やレリーフをいったんすべて削りとり、新たに図柄を彫りなおしたのだろう。異様に薄くなった石棺の厚みがそれを物語っている。また蓋は石棺とは材質が違う花崗岩製で、王があまりにも早くこの世を去ったので、さずがに蓋までを調達することはできなかったのだと思われる。逆に花崗岩なら、テーベの周辺でも採集できたのだ。 石棺の中には、人型棺がすっぽりと納まっていた。ところがこの人型棺もまた3重で、外側の2棺は木製に金箔張り、そしてもっとも内側の人型棺は純金製だった。だがおかしなことに、外側の第1人型棺を開けてみると、次に出てきた第2人型棺に彫られた顔は、どうも別人のものだというのである。外側の第1人型棺と内側の第3人型棺はほぼ同じ顔だったにもかかわらず、である。どうやらこれも、あまりに早すぎるツタンカーメン王の死のために製作が追いつかず、やむなく他人の人型棺を流用させてもらったというところだろう。第2人型棺はスメンクカラー王のために作られたものではないかとされ、最近ではそれが定説化しつつある。 3重の人型棺のうち外側になる第1人型棺、そして顔が違う第2人型棺は木製に色ガラスという簡易的な装飾だが、もっとも内側の第3人型棺は純金に色ガラスをあしらったもので、22金、110.4キログラムにも及ぶ大量の黄金を使用するという特別なものだった。それを開けると、ようやく王のミイラが現れたのである。少年王のミイラは残念ながら劣化が激しかったが、黄金のマスクをはじめ170点以上もの装飾品を身にまとっていた。世界的に有名な黄金のマスクは高さ54センチ、肩幅39.3センチで、純度の高い22金の黄金板を打ち出して作られている。色のアクセントとして色ガラス、ラピスラズリ、石英、長石などが使用され、亡き少年王の面影を残す顔面はピカピカに磨きあげられていた。さらに黄金のマスクの背面には、本来ならパピルスに書かれるはずの「死者の書」のうち、死者にかぶせるマスクに関する部分だけが抜粋で彫られていた。 黄金のマスクに刻まれた「マスクの使命」は、このように記されていた。 「汝(マスクのこと)の右目はセテケト(太陽が夜に乗る船)、左目はマネジェト(太陽が昼間に乗る船)。汝の両方の眉は九柱神、額はアヌビス神、後頭部はホルス神、巻き毛はプタハ・ソカル神である。汝はオシリス神(ここでは亡きツタンカーメン王のこと)の前にあり、彼は汝の中より外を見る。汝は彼を正しい道へと導く。汝は彼のためにセト神の一味を討つだろう(以下略)」(「死者の書」第151章からの抜粋) 玄室の奥には、カノポス壺を納めた厨子が据えられていた。厨子の四面には石棺にあったのと同じ4人の女神が、まるで厨子の内部を護るかのように両腕を広げ、後ろ向きで立っている。イシス女神はどうやら正面向きになるよう設計されていたようで、女神像の後頭部には「正面」という意味のヒエログリフが書かれてもいる。だが急いで作られたらしく、セルケト女神とネイト女神の位置は逆になっていた。またカノポス壺の蓋には王自身の顔が彫られていたが、そこに付けられた名前は「トゥトアンクアテン」から「トゥトアンクアメン」に修正された跡があったという。 ツタンカーメン王のミイラには医学的解剖が施され、頭蓋骨に亀裂があったことから、彼は鈍器のようなもので殴り殺されたのだとか、そうではなく落馬した際に負傷し、その傷がもとで死んだのだとか、さまざまな解釈がなされている。だが死因が何だったにせよ、ツタンカーメン王は宗教改革の事後処理という困難な任務を完遂し、9年の在位を経て、このように最大の敬意をもって埋葬されたのである。 ツタンカーメン王墓は王家の谷にある王墓のうち、もっとも小さい部類に属する。内壁もまた急いで装飾が行われたようで規模は大きくなく、また仕上げも雑だが、鮮やかな色彩は当時の状態をとどめている。ここには豹の毛皮をまとったセム神官の衣装で「口開けの儀式」を行うアイ王の姿が描かれているが、それは王位を襲ったアイ王の陰謀などではなく、口開けの儀式は死者の後継者が行うというしきたりに沿ったものである。また一連の壁画には、ハトホル神に対面する王やアヌビス神、ネイト女神に迎えられる王が描かれており、時間の門を守る12頭のヒヒで表された「アム・ドゥアトの書」も色鮮やかに描かれていた。 今では観光の目玉になったツタンカーメン王墓だが、そこに安置された石棺には、解剖調査を終えた王自身のミイラが第1人型棺に覆われてきちんと横たわっている。そうするよう願い出たのは、この墓の発見者であるカーター本人だったという。それは、黄金のマスクを発見した際に見たあるものが、彼をいたく感動させたからだった。 第3人型棺をようやく開けると、黄金のマスクには大きな花飾りが添えられていた。おそらくツタンカーメン王の姉にして妻だったアンクエスエンアメン王妃が手向けたものであろう。それを見たカーターは衝撃を受けた。波乱の時代に翻弄されながらも強く生きようとした、若い夫婦の苦闘と悲しみを思い知ったからである。
3.ホルエムヘブ王墓(KV57) 老王アイの後を受けて即位したホルエムヘブ王(在位前1315年頃〜前1295年頃)は、アメンヘテプ3世の時代に頭角を現した元軍人である。出身地がヘラクレオポリスだったこと以外、出自については不明なことの多い人物ではあるが、軍人でありながら権力指向が強く、またみずからの王位を正当化するために先王の記録を徹底的にこの世から抹殺したりといった暗躍ぶりも伝えられており、既得の政治的地位を守るために手段を選ばなかった彼の政策など、現在では彼の人格や行動理念などもかなりわかってきている。 しかし彼は長年国家の枢要に関わってきただけあり、すぐれた能力を有する人物だった。まさに「仕事のできる男」だったことは疑いない。 アクエンアテン王による宗教改革が頓挫したとき、彼は身を挺して国家宗教をアテン信仰からアメン信仰に戻すため尽力したり、また首都移転という政治的混乱にも的確に対処して悪影響を最小限に抑えた。さらに王になってからは、従来の官僚体制に鋭く切り込んで、廷臣をはじめ公務員の勤務意識の改革を行ったりなどした。人間的にどうだったかはさておき、彼は第18王朝の掉尾を飾る王として充分な働きをしたのである。 そんなホルエムヘブ王は、人生50年にも満たない時代にあっては当然のことながら、50歳を迎える時点ですでに自分の死を見つめていた。彼は50代でツタンカーメン王の総司令官職に補任されていた時期、すでにサッカラに自分の墓を造っていたのである。サッカラの墓のレリーフには総司令官ホルエムヘブの勇猛な戦闘ぶりや、宮廷人ホルエムヘブの優雅な生活など、位人臣を極めた自分に向けた最大の賛辞で満ちあふれていた。ところが思いがけず王として即位することになったため、彼はついにこのサッカラの墓には眠ることがなかったのだった。サッカラはかつて古王国時代の王たちが永眠の地に定めたほどの聖地でもあったのだが、王になった彼はやはり王朝の伝統に従うことにしたらしく、この墓は放棄されたのである。その後、ここには彼のふたりの妻が眠ることになり再整備されたようだ。 王家の谷におけるホルエムヘブ王の墓(KV57)は、1908年にアメリカの大富豪セオドア・デイヴィスとその助手アイルトンによって発見された。第18王朝の王たちのほとんどは、墓の入口から「井戸の間」に至る付近でその坑道を直角に曲げるという構造を多用したが、アクエンアテン王だけは太陽信仰の教義に合わせて独自の設計を採用した。アマルナの墓で彼は玄室にまっすぐ太陽の光が差し込むようにと坑道を曲げず、「井戸の間」から前室、玄室まで一直線になるように配置していたのである。だがこの構造を、なぜかホルエムヘブ王も採用しているのである。理由は不明だが、その存在を抹消したもののかつて仕えた主君の流儀を尊重したのか、それとも墓掘り職人たちにその時代の様式が染みついていた結果か、そのどちらかだろうと思われる。 発見された当時、墓はすでに徹底的な盗掘を受けていた。破壊された葬具や副葬品の山が坑道を覆っており、足の踏み場もなかったという。 ところが、墓の壁面いっぱいに描かれた壁画だけは、汚れてはいたが創建当時の色彩がほとんどそのまま残っていたのである。従来の様式に比べるとその色数が飛躍的に多くなったことがその特徴だが、丹念に下塗りを施し、さらに人物や神々の像にも細かく彩色をし、そればかりでなくヒエログリフの一文字一文字にまで細かく色を入れてあるのである。壁画の主題は「死者の書」をはじめとする宗教的なものだが、壁画そのものの完成度の高さは、もはやひとつの芸術に達しているといえる。 壁画として描かれた死者の書は、「門の書」と呼ばれるものである。主題は従来の「アム・ドゥアトの書」と同じく太陽神が夜の世界をめぐり、12の関門を経て東の空に復活するまでを扱ったものだが、それまで12人の門番(ツタンカーメン王の墓では12匹のヒヒ)で表されていた関門だったものが、さまざまな形態となって現れた太陽神がくぐろうとする門という形で表現されているため、このように呼ばれているのである。「門の書」が描かれた例は彼の墓が初めてだが、その後王家の谷では多くの王が「門の書」を描かせるようになる。後述するセティ1世の墓では、同じ主題であるはずの「アム・ドゥアトの書」と「門の書」の両方を描かせてさえいるのである。 しかし、ホルエムヘブ王は最初の試みである「門の書」を自分の目で確かめることはできなかった。「門の書」が完成する少し前に、彼がこの世を去ったからである。 前室に描かれていた、神々に謁見する王の壁画はすでに完成していた。だが「門の書」の方はついに完成しなかった。王の急死を受けて王墓の建造は突然中止され、王の遺体は未完成の墓に眠ることになったのである。そのため豪華な色彩に覆われるはずだった玄室は、下書きだけが残る殺風景な部屋になってしまった。 王が急逝したからといって、完成間近にまでこぎ着けた壁画そのものを未完成に終わらせるというのは、現代に生きるわれわれからすると何とももったいないような気がするが、その当時の職人たちはそう考えなかったのだろう。だがそのおかげで、第18王朝時代の壁画制作法が現代に伝わったともいえるのである。 玄室に残された下描きにはまだ輪郭線がはっきりと残っており、さらに絵画の構図を示すとされる赤色インクで引かれた線、ヒエログリフを整然と配置するために引かれたと思われる赤色の方眼など、そのまま残された下描きからは、当時の職人たちがどのように作業を進めていたのかが手に取るように分かるのである。デイル・エル・メディーナの職人たちは国に養われ漫然と働くことができる身分だったにもかかわらず、現場で働く彼らには職人としてのプロ意識もしっかりと存在しており、それを示すためにも緻密な仕事を身上にしていたのだろう。 ホルエムヘブ王はほぼ間違いなく、この未完成の墓に埋葬されたのだろう。だがデイヴィスとアイルトンが調査した段階では、玄室にあった彼の石棺には何も入っていなかった。玄室にはバラバラにされた遺体の断片が4つほど散乱していたが、部位が一定でないことから、それらは王自身の遺体ではないとされている。壁面に刻まれた落書きによれば、王の遺体は第3中間期に修復のため別の場所に移されたらしいが、その先が不明で、今でも彼のミイラがどこにあるのかわからないままなのである。
4.セティ1世王墓(KV17) 第19王朝において二番目の王にあたるセティ1世(在位前1294年頃〜前1279年頃)は、アマルナ時代を経て歪められたエジプト文化を復興することをみずからに与えられた任務だと感じていた。さらに彼は、忘れられた陸軍国エジプトの威光を取り戻すために、老いた父ラメセス1世がなし遂げられなかったアジア遠征を敢行して国威発揚を試みたりもした。 即位当時すでに壮年を越していた彼の在位期間はわずか15年にすぎないが、アビュドスのセティ1世葬祭殿やオシレイオンの建造、またカルナック神殿の大列柱室献納やペル・ラメセスの着工など、「富める国エジプト」を象徴するかのように壮大な建築事業を次々と打ち出してこれを実現している。セティ1世は第19王朝を空前の勢力に押し上げることに成功したが、歴史的見地に立って考えるとき、それは彼の卓越した行動力と先見の明があったからこそ可能だったのだと思わずにはいられない。 そんなセティ1世が最後に行った大規模建築事業は、王家の谷に自分の墓を造営することだった。 セティ1世王墓掘削事業においては、アビュドスのオシレイオンや葬祭殿のものをはるかに上回る労力と費用が投入されたはずであり、単純に事業規模で見るならば、セティ1世が行った建築事業のうち最大かつ集大成となることに疑いはない。その長さ、深さとも100メートルを超えており、王家の谷に存在する王墓の中ではもちろん最大である。 発見されたのは1817年、発見者はイタリア人冒険家ジョヴァンニ・ベルツォーニである。数多くの幸運に恵まれてこの墓を発見した彼は、持ち前の好奇心と勇気を振りしぼって困難な探検を行い、王墓内の構造から壁画まで、数年をかけてようやくその全貌を明らかにした。彼が発見し感嘆したのは玄室にあったアラバスター製の石棺であったが、「それは特筆すべきものであり、世界に比類がない」と報告書の中で述べている。 セティ1世王墓の構造は、かつて当地を訪れたギリシア人旅行家たちが「注射器型」と呼びならわした、細長い坑道が最深部の玄室までひたすら伸びるという、当時としてはもっとも一般的な管型である。そしてその壁面にはほとんどすべてにわたって、細密な壁画が施されていた。今ではかなり色彩が褪せてしまっているが、よく見るとホルエムヘブ王墓のものと同じく下塗りをしっかりと行い、肖像画に添えられたヒエログリフにまで丹念に着色するなど、約20年前とほぼ同じ理念で描かれていることがわかる。おそらくホルエムヘブ王墓を装飾した職人たちの系譜を継ぐ者たちの仕事であろう。 アマルナ文化を清算すべく芸術復古を志したセティ1世だったが、やはり彼もまた入口から玄室まで一直線に坑道を掘り進めるという、アマルナ文化の影響を色濃く残した構造を採用している。もはや直線坑道はアマルナ時代に限った様式だとは考えられていなかったのかもしれない。しかし彼の墓は、単純な直線型に終始することはなかった。当時からすでに社会問題にさえなっていた盗掘者からの被害を最小限に食い止めるために、さまざまな対策がなされているのである。入口を抜けると、ほとんど垂直にも思えるほど急な傾斜をもつ下降路が待っている。登るときはそうでもないが、降りる場合にはまるで垂直の穴にしか見えない。しかも階段は途中までしかなく、その効果を一層倍加させている。おそらく雨水対策も兼ねていたものと思われる。 下降路が切れると、目の前には暗黒の穴が現れる。穴の向こうには玄室らしい部屋が見えるが、一見して石棺も何もなく、偽の玄室であることがわかる。この墓を設計した職人はこの竪坑と偽の玄室を設けることで、この竪坑の底にこそ本当の玄室への入口が隠されているものと思わせようとしたのだろう。この竪坑は実に20メートル以上の深さがあるが、もちろん玄室への入口などあるはずがない。真の玄室への入口は、偽玄室の脇にある彩色された壁を外すと現れる構造になっていたのである。 隠し扉を開けると、今度は入口付近のものとは比較にならないほど緩やかな下降階段が現れる。 下降路を抜けると第1列柱室、前室、そして玄室へとほぼ一直線に坑道が伸びている。その通路の両側の壁には神々に迎えられるセティ1世が描かれており、われわれはいよいよ聖なる永眠の地に到達するのだという、一種の高揚感と期待感で胸を膨らませるはずだ。壁画におけるセティ1世自身や神々は赤を基調とした彩色で統一され、蝋燭による弱い光ではその幽玄さを引き立てる効果を醸し出している。その中で王のカルトゥーシュだけが白くはっきりと彩色されており、名前に対する彼のこだわりが見てとれるだろう。 そして坑道は玄室に到着するが、訪れた観光客はほぼ例外なく、その壮大な光景に対する感嘆を禁じえないだろう。 通路から続く壁面には、従来からの伝統的な題材である「アム・ドゥアトの書」が色鮮やかに描かれており、われわれはその壮大さに胸を打たれる。内壁をぐるりと見わたすと第1時から順番にストーリーが展開していき、側壁が第2時、そして玄室の正面が第3時になり、それから奥にある第2列柱室にまで流れるように壁画が伸びていくのである。「アム・ドゥアトの書」の完成後に追加されたと思われる側室には、共通の主題をもつ「門の書」が描かれているが、一見して絵柄が異なっており、別の職人の作であることがわかる。 だがわれわれの度肝を抜く壁画は、「アム・ドゥアトの書」と「門の書」だけではない。ドーム型に整形された天井を見上げると、観光客は誰もが声を失うだろう。漆黒に下塗りされた天井には、美しい黄色でふちどられた壮大な天体図が広がっているのを目の当たりにするからである。 天井に描かれているのは古代エジプト人が考えていた天体運行図で、「天の牡牛の書」という宗教文書の一部である。カマボコ型に整えられたドームはそれぞれ半分に分割されており、入口から見て手前側が北天の星座図、そして奥側が南天の星座図になっている。 現代のわれわれには古代ギリシアの星座図(北天ではこぐま座やペルセウス座など)の方がなじみが深いが、古代エジプトの当時考えられていた星座はかなり異なっていたようで、ワニやライオン、ホルス神やカバのトゥエリス神などが縦横に配置されているのである。だがその中にも北斗七星らしき位置関係の星たちが確認できる。「天の牡牛」というのは北極星のことで、尻尾を掴まれている牡牛の首部分に北極星が位置していることからその呼び名があるものと思われる。 南天の星座図は、北天のものと明らかに違っている。北天のものが星座の配置を図柄化したものであるとすれば、南天のものは星の運行をマス目で区切り、それぞれの時間帯に神々の名前を掲げている、いわゆる時間表のようなものなのである。次に紹介するラメセス6世王墓の天井に描かれた天体図は、セティ1世王墓の天体運行図に「アム・ドゥアトの書」の要素を加えたものであるといえる。 セティ1世のミイラはもちろんこの玄室にはなく、ベルツォーニが石棺を発見してみると、アラバスター製の豪奢な蓋は無惨にも粉々に破壊されて、玄室に破片が散乱していたという。だがそれから64年後の1881年に見つかった「ロイヤル・カシェ」(パネジェム2世王墓、DB320)から、王のミイラは無事に見つかった。ミイラに添えられていた記録によると、この王墓は第20王朝末期に最初の盗掘に遭い(石棺の蓋が粉砕されたのもその時)、ミイラが著しく破損したため、アメン大神官ヘリホルの命令によって修復されたらしい。だがその後も周辺は盗掘が絶える気配もなかったらしく、第21王朝の創始者スメンデスの命令で、一時的に息子であるラメセス2世のミイラがこの玄室に同居したこともあったという。記録にはそれから86年後の紀元前968年ごろ、サアメン王の治世10年に、付近のミイラがパネジェム2世の墓へ移されたと書かれていた。 修復の手を経たセティ1世のミイラは丁寧に包み直されており、ロイヤル・カシェで見つかったミイラの中ではもっとも保存状態のよい部類に属する。
5.ラメセス6世王墓(KV9) 第20王朝の国力減退を象徴する王・ラメセス6世(在位前1143年頃〜前1136年頃)の時代は、かつて古代オリエント世界に覇を唱えていた強国エジプトの姿はまったく見られず、政権はまったくの無策に終始したため、国力が衰えていくのをどうにも止められなくなっていた。そしてラメセス6世の治世中、ついにエジプトはヌビア以外の外国領土をすべて失ってしまったのである。 在外領土の喪失を抑えられなかったのは、エジプトの国力そのものが衰えたということ以外に、政権内部における、暗く血塗られた闘争があったことが理由であると考える学者もいる。それは内戦にまで発展したらしく、国内の秩序は徹底的に乱れてしまったようだ。ラメセス6世はそうした内戦を経て、王位にのぼっているのである。クーデターによるものとしか考えられない。 ラメセス6世は、「最後の偉大なエジプト人ファラオ」と称されるラメセス3世の息子である。ラメセス3世には数多くの王子たちがいたが、長生きでずっと王位にあり続けたラメセス3世は存命中につぎつぎと王子たちを先立たせてしまい、いざ王位継承の段になって生き残っていた息子たちは、すでに成年に達していたラメセス4世と5世、そしてまだ少年だったラメセス6世、そして幼いラメセス8世の4名にすぎなかった。あいついで王位に上がった彼らの双肩には第20王朝の未来が重くのしかかっていたが、彼らのうち10年間玉座にあり続けた者は、ついにひとりもいなかった。 兄ラメセス5世を追放して王位についたラメセス6世はいくつかの建造物および彫像にカルトゥーシュを残したが、実は彼は誕生名の中に「ラメセス」というフレーズを含んでいないのである。彼の本名は「アメンヘルケプシェフ・ネチェルヘカイウヌ」(アメンは彼の力、神、ヘリオポリスの支配者)という。ラメセスの名はおそらく後世の学者たちが奉ったものか、彼が幼少時代に名乗っていたものなのだろう。そんな彼の関心事はどうにかして兄を追い落として王位につくかということであり、国政の舵取りにはほとんど関与しなかった。どうも玉座を得た後のことは、それほど考えていなかったのではないだろうか。 だが、政治に興味を失ったラメセス6世を唯一熱中させたのは、壮麗な王墓を王家の谷に造営することだった。 彼の治世期間はわずか7年で、見るべき業績といったものをこの世に残すことができないまま亡くなった。だが彼が残した唯一の「生きた証」は王家の谷にしっかりと刻みつけられ、今も訪れる観光客に感嘆の声を上げさせている。それがツタンカーメン王墓の上に覆いかぶさるように造られた、ラメセス6世王墓(KV9)なのである。ラメセス6世王墓はかなり早くからその存在が知られていたが、入口が特に隠されることはなく、むしろ王墓はここだと示さんばかりに土を盛り上げていた。そのため学術調査も1820年代という早い時代にイギリスのジェームス・バートン率いる考古学調査隊が行っており、1888年にはフランスのジョルジュ・ダルシーらによって詳細な報告書が刊行されている。KV9という若い番号がそれを物語っている。 この王墓は当初、ラメセス5世のために掘削が開始されたものである。ところがテーベで内戦が始まったため作業が中断され、デイル・エル・メディーナの村人が別の土地に疎開している間はすっかり放置されていたらしい。工事がいつ再開されたのか定かでないが、記録によると、死せるラメセス5世は弟ラメセス6世の治世2年目に、弟の手によってここに埋葬されたのだという。通常であれば後継者は70日以内に埋葬を完了しなければならないはずなのに、ラメセス6世はなぜ1年以上も、兄の遺体を放置していたのだろうか。もしかしたら、王位を奪われた兄は処刑を免れたが幽閉され、新王ラメセス6世の即位後も1年以上は存命していたのではないだろうか。だがそれはあくまで、想像の域を出ない。 兄を埋葬したラメセス6世だったが、今度は自分の墓を新たに掘削する必要に迫られた。これもあくまで想像だが、ラメセス6世はすでに病を得ていたのかもしれない。そう考えるならば、自分の生命が残りわずかだと察したラメセス6世が、すでに一旦は完成していた兄ラメセス5世の墓に目をつけたのだとしても不思議はない。さっそく彼は、兄が眠る玄室の奥に、自分のための玄室を増築することを命じた。 ラメセス6世王墓(KV9)は、セティ1世王墓と同じく直線型の構造をもっている。下降通路から前室までには従来どおりの「アム・ドゥアトの書」、そして太陽と天体の運行を図柄化した「昼の書」と「夜の書」の壁画が描かれている。前室からさらに坂を下りて玄室に入ると、そこでは今までの王墓には見られない「大地の書」や「洞穴の書」が壁面いっぱいに描かれ、さらにドーム型になった天井には、前室と同じ「昼の書」と「夜の書」がカマボコ型ドームを半分に分ける形で美しく描かれていた。 「昼の書」とは東の空で生まれ出た太陽が天の河を流れ、最後にヌト女神に飲み込まれるまでを描いた太陽運行の概念図である。一方の「夜の書」は、西の空に沈んだ太陽神が船に乗り、12の門を経て東の空にまた昇るまでを概念的に描いたものである。「昼の書」と「夜の書」はこれまで「アム・ドゥアトの書」や「門の書」、そしてセティ1世王墓に代表される天体運行図などの要素を統合した、いわば「宇宙思想の集大成」ともいえるものである。ヌト女神の体を宇宙に見立てた天体運行図は第20王朝になってから主流化したもので、最後の作品として、損傷し色あせてはいるがラメセス9世王墓(KV6)にもコンパクト化された同様の図柄が認められる。だがラメセス6世王墓の玄室に残るものがもっとも完成度が高く、かつ損傷が最小限に抑えられた例なのである。 前室にも同様の「昼の書」「夜の書」が残っているが、同じ墓に同じテーマの壁画が重複するというのも奇異な感じがする。だがよく見ると、前室のものと玄室のものでは、微妙にそのデザインおよび作風が違っているのが認められるのである。見てすぐわかる大きな違いは、太陽を飲み込むヌト女神と夜を見守るヌト女神が背中合わせになっているか否かである。さらによく見れば、色づかいも下塗りの丁寧さも、輪郭線の仕上げの完成度も、玄室のものとは明らかに違っているのがわかるはずである。おそらく前室は、かつて兄ラメセス5世のための玄室だったのだろう。兄のミイラは一応この部屋に安置されたが、弟ラメセス6世がこの先に自分用の玄室を増築したので、かつての玄室が前室になってしまったのかもしれない。玄室へと伸びるスロープには飾り付きの門枠が設けられているが、どう見ても後付けである。前室において神々と謁見する王の像には当初ラメセス5世のカルトゥーシュが添えられていたと思われるが、弟はこの墓に自分も入ると決めたとき、兄のカルトゥーシュを自分のものに刻み直してしまった。それで彼は兄の墓を横取りしたのだ、という悪評が後世まで伝わったのである。 その悪評を物語るかのように、玄室に置かれた王の石棺は無惨にも粉々に破壊され、さらにひっくり返されてもいる。誰のしわざなのか見当もつかないが、墓泥棒も思いきったことをしたものである。石棺がこの状態では、中に納められていたはずのミイラもさぞや無惨な状態なのだろうと想像された。 1898年に、ラメセス6世のミイラはアメンヘテプ2世王墓(KV35)で発見された。石棺の状態を知る学者たちはミイラの破損状況を懸念していたが、1905年にミイラの調査をしたエリオット・スミスはわが目を疑った。 それはもはや、人間の形をしていなかった。盗掘者たちによって胴体と首、四肢は完全にバラバラにされたようで失われた部分も多く、修復は施されていたものの単なるパーツの継ぎ合わせにすぎなかった。解剖の結果、少なくとも3人のミイラが部分的に使われていることがわかったのである。そのうちのひとりは女性であった。 考古学的な考察はさておき、わたしは当時の状況をこのように推理する。 入口が目立つKV9には、かなり早くから盗賊が目をつけていたものと思われる。彼らは夜陰に乗じて素早く「仕事」を終わらせたが、その中にラメセス6世に対する恨みをもつ者がいて、石棺を破壊した際に露出した王の遺体を力任せに斧で叩き切ったと考えられる。彼らの怒りは相当に激しかったらしく、同居していたミイラ(誰のものかは不明)まで同じくバラバラに切断して去ったのだろう。彼らはバラバラ遺体を玄室にまき散らしていった。 時は流れて第21王朝時代、カルナック神殿のアメン神官団によるミイラ修復作業が行われた。ラメセス6世王墓にも当然調査隊が入ったが、彼らは修復しなければならないミイラの状態を見て唖然としたことだろう。だが遺体を修復せよという大神官の命令は絶対である。彼らは仕方なく板を持ち込み、散乱したミイラの各パーツを回収してつなぎ合わせることにした。 しかし不思議なことに、明らかにパーツの数が多い。どうやら複数のミイラが混じっているようだ。医学的知識に欠けた神官たちはそれでも何とか人間の形にしようと焦り、無慈悲な盗掘者を呪いつつも、多少の不自然さは気にせず組み合わせて人間らしい姿に仕立て上げ、それで再び包帯で包んだのである。 その作業から約2900年後、エリオット・スミスがその包帯を丁寧に取りのぞいたとき、当時の神官たちのずさんな仕事が明らかになった。右腕は誰か別の男性のものであり、さらに右手には別の女性のものが縫い合わされていた。そればかりではなく首の骨があるはずの位置には、なぜか骨盤が配置されていたのである。アメンヘテプ2世王墓をはじめデイル・エル・バハリのロイヤル・カシェでも数多くのミイラが見つかっているが、これほど激しく破壊されたものは他に類を見ないという。
6.ロイヤル・カシェ(DB320) フランス人考古学者ガストン・マスペロが第2代のエジプト考古局長官として赴任したのは、1881年のことだった。彼の任務はエジプトで発掘される文化的遺物を管理し、または盗掘者を取り締まることであった。若き日のハワード・カーターも、彼のもとで遺跡管理官として働いたことがある。 しかしながらマスペロは考古学者として、いつかは世界を驚かせるような発見をなし遂げたいと願っていた。実際、彼の前任者であり同じフランス人だったオーギュスト・マリエット(初代エジプト考古局長官。考古学博物館の庭に彼の像もある)も執務のかたわら発掘活動を行い、サッカラで巨大な聖牛の地下墓地セラペウムを発見するという偉業を果たしていたのである。 そうは言っても当時もうすでに盗掘の横行は下火になっており、また発掘の成果も一時期に比べかなり冷え込んでいた。古代からすでに社会問題にすらなっていた盗掘であるから、19世紀当時はもうやり尽くされた観があり、たとえ新たな岩窟墓が発見されたとしても、はるか昔の先輩たちが「仕事」をした後であることが多かったためである。1922年に発見されたツタンカーメン王墓(KV62)も完全に未盗掘だったわけではなく、すでに2度ほど盗掘を許していたくらいなのである。そのため、当時はもうエジプトにおける歴史的な発見はないだろうとさえ言われていた。 しかしその発見は、誰にも知られることなく、発見した当人でさえ知らずになし遂げられていたのである。ルクソールのナイル川西岸に位置するクルナ村には、発掘活動をする考古学者から道案内や穴掘りなどを請け負って生きる人々が住んでいた。だがその中には、夜陰にまぎれて盗掘をし、盗品を売りさばいて利ざやを稼ぐ不逞な輩もいたのである。ラスール一家もそんな連中の一部だった。 ラスール家には3人の兄弟がおり、昼間は穴掘り人足、夜は墓泥棒という二足のわらじで生活していた。その中の一人が、デイル・エル・バハリ近郊の山間部で偶然に岩窟墓を発見していたのである。そこには副葬品などの「売れる」お宝はなく、見つかったのはまるでワイン樽のように積み上げられた石棺や、剥き出しのミイラばかりだった。付近で悪戦苦闘している考古学者に通報すれば一躍大スターになれたのに、いかんせん彼らにはその考古学的価値がわからず、ミイラに添えられていた護符や石棺などを細々と引っぱり出し、盗品市場に小出しし続けたのであった。もちろん場所は極秘にされ、ここは彼らの生活を保障してくれる宝の山になるはずだった。 就任間もないマスペロのもとに、ミイラに関する遺物が盗品市場に出回っているという知らせが舞い込んだのは、ラスール一家がこの岩窟墓を発見してから数年が経過した後のことだった。もしかしたら新たにミイラが発見されたのかもしれないと感じたマスペロはさっそく調査を開始し、ついにラスール一家のしわざであることを突き止めたのである。ラスール一家も秘密の場所を渡すわけにはいかず一時は隠し通したが、3兄弟の兄弟ゲンカのため裏切り者が出て、ついに一切を白状するに至ったのだった。 マスペロはさっそく、部下の管理官エミール・ブールクシュを派遣して現地調査にあたらせた。その結果、その岩窟墓は第21王朝時代のアメン大神官パネジェム2世のものだとわかり、そこには40体という大量のミイラが集積されているということが判明したのである。 ミイラや石棺には来歴が記されているものもあり、書き込まれたヒエログリフにより、そのミイラが誰の遺体であることがわかるようになっていた。解読してみたところ、驚くべきことにこのミイラ群は誰だか分からないような民間人のものなどではなく、文献や後世の伝記を賑わしている王たちやその家族たち、すなわち古代エジプトの頂点にあった君主たち、およびその家族のものだということが判明したのである。それを聞いた世界中が興奮に包まれたことは言うまでもない。 このとき世界に向けて公開されたDB320は、「ロイヤル・カシェ」と名づけられた。英語の「王家」を意味するロイヤルと、フランス語の「隠し場所」を意味するカシェが合成されたという変わったフレーズだが、発見者であるマスペロがフランス人であったということから「カシェ」がそのまま名称に採用されたということだ。 ロイヤル・カシェで発見されたミイラには、以下のものがある。
誰がどういった経緯でデイル・エル・バハリの隠し場所にミイラを隠すよう命じたのか。詳しいことはまだ研究段階だが、おそらくアメン大神官パネジェム2世と同時代、タニスで政権を維持していた第21王朝のサアメン王がミイラの移動を部下に命じたものと考える学者が多い。ロイヤル・カシェに移されたミイラを包み直す際に使われた包帯に、サアメン王の名前があったからである。 だが、王墓を築くときには場所を秘密にし、盗掘者から完全にその存在を秘匿するというのが当時の風習だった。デイル・エル・メディーナの職人村はそうした理由で世間から隔絶されていたのである。ではなぜ、サアメン王は対立政権ともいえる大神官の墓の所在地を知り得たのだろうか。 サアメン王はテーベを事実上統治していたパネジェム2世とは家系的に近い間柄だった。第21王朝はプスセンネス1世の政策によりテーベのアメン大神官政権との接近をはかっており、互いに政略結婚を行ってもいたからである。プスセンネス1世の息子アメンエムオペト王の死後、大オソルコンという出自不明の王が第21王朝を引き継いだが、サアメン王は大オソルコン王の死後に王位を受け継いだ人物である。サアメン王が大オソルコン王の息子であったという証拠がない以上、彼がパネジェム2世の家系に属する者であったという可能性も捨てきれない。そうなると、パネジェム2世の墓の場所を知り、そこを隠し場所に利用できたことも納得できる。サアメン王もまたロイヤル・カシェで眠ることになったのだが、次王朝である第22王朝の開祖シェションク1世がサアメン王の遺体を隠すように命じたらしい。 しかし、ロイヤル・カシェに隠されていたミイラが誰の遺体だったのか分かってくるにつれて、さらなる隠し場所が別に存在する可能性が浮上してきた。ロイヤル・カシェで見つかったミイラが第18王朝や第21王朝時代のものに割合的に集中していたばかりでなく、王家に属する家族のミイラに限るならば、まず初代のイアフメス王とその王妃や子供たちが集中し、そして長い空白があり、第21王朝時代におけるテーベ政権を支えた女性たち(大神官妃や王女たち)がまた集中するなど、時代構成に偏りがあったためである。 そしてそれから17年後の1898年、王家の谷を調査していたヴィクトル・ロレが率いるフランス隊がアメンヘテプ2世王墓(KV35)を発見したのだが、側室に十数体もの別家系のミイラが安置されているのが見つかり、それが第2のカシェであることが判明したのである(前述)。 アメンヘテプ2世王墓からは、完全に修復されたもの10体を含む16体のミイラが見つかった。墓主アメンヘテプ2世は自分の石棺に納められているというおまけつきだった。これらのミイラ群にもきちんと名札がついていたため、ロイヤル・カシェと同時代に行われた作業であると推定された。 アメンヘテプ2世王墓は「アメンヘテプのカシェ」と呼ばれるようになった。アメンヘテプのカシェからは、以下のミイラが見つかっている。
しかしながら、まだミイラが見つかっていない王または王族、さらに貴族たちはどこへ消えたのだろうか。19世紀には世界中にミイラブームが広がり、数多くのミイラがヨーロッパやアメリカに持ち出されてコレクターズアイテムとして取り引きされたらしいが、それらは種々雑多な一般国民のミイラだったのだろう。王家のミイラが別格であり、隠蔽される対象でもあったのは、カシェの存在で裏付けられている。まだ未発見のカシェがある可能性もあるし、あるいは前記2カ所のカシェが学者たちに発見される前に盗掘者に見つかり、細々と売りさばかれていたという可能性もまた捨てきれないのだ。 2003年秋にラメセス1世のミイラが発見されたというニュースは、それを暗示している。
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