

| デジタル地図「カルナック神殿とルクソール神殿」のコーナーに、ようこそおいでくださいました。 ここは「聖なる都」ルクソールにおける象徴の双璧であるカルナック神殿とルクソール神殿の、 詳しいルーツとその歴史、建造物の開設などをメインとしております。 数多くのファラオたちが巨費を投じた壮麗な大伽藍は、たび重なる危機を乗り越えながら、 実に1500年にもわたる輝かしい繁栄を誇りました。 ここではカルナック神殿、そしてルクソール神殿の平面図を使用しながら、 両神殿がいかなる発展を遂げてきたのかを読み解くことにいたします。どうぞお楽しみください。
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第1節 神殿建築の最高峰・カルナック神殿 1.大伽藍の基礎 エジプト・ルクソール市のナイル川東岸地区は、現在でも観光を中心とした産業がさかんな大都市である。ここには今でも年間数百万人の観光客が訪れるが、数多く残る遺跡群は、彼らを壮大な古代エジプトの宗教世界へといざなってくれるのである。かつて古代エジプト時代、ルクソールはギリシア人によってテーベと呼ばれ、エジプト人たちはワセトと呼んでいた古くからの宗教都市だった。市内を縦断するナイル川は都市を東西に分断しているが、ナイル川はただ単に地域区分を隔てるという役割以上に、東岸と西岸とを事実上「彼岸と此岸」とに分ける働きをしていたのである。その中でも「此岸」にあたるナイル川東岸地区は、現世に生きる人間が日常生活を送るための場所だった。彼らエジプト人たちはこの聖なる都市で生まれ、働き、そして死んでいったのである。 人間の世界において神を祀るために、カルナック神殿はナイル川東岸に建造された。創建は中王国時代といわれ、最終的にはアメン・ラー、ムト、コンスの3神を祀る神殿としてギリシア人に認知されていた。東西540メートル、南北に600メートル(最長部)の台形をしており、その入口に当たる参道から塔門、中庭、至聖所といった主軸は正確に東西を指しており、時代が進むとともに増改築がくり返されてきた。最初の基礎部分は紀元前21世紀の中王国時代にまでさかのぼるが、ここに最後の増築を行ったプトレマイオス8世は紀元前2世紀の人物である。実に1900年以上にわたって神殿は姿を変え続けてきたのである。 では、カルナック神殿はどのような移り変わりを経て、現在見られるような「林立する大理石」といった偉観を呈するようになったのだろうか。 カルナック神殿は、古代エジプト語では「イペト・スウト」(選ばれた最良の地)という地名で呼ばれており、そのヒエログリフには3つの玉座の図柄が含まれる。その文字が示すとおり、この神殿は単一の建造物から成っていたのではなく、新王国時代には少なくとも同時に3つの神を祀っていたことがわかっている。 だが、祀られる対象は、エジプトが経てきた時代とともに移り変わってきた。それはテーベを支配した勢力がどのような神に帰依していたかによって決まっていたようである。 のちにカルナックという神殿複合体にまで発展することになる広大な神域の基礎は、第11王朝時代に建造されたメンチュ神殿にある。現在のメンチュ神殿はアメン大神殿の北側にその残骸をとどめるにすぎないが、かつては全エジプトの最高神であった時期すらあったのである。 メンチュ神はもともとテーベ土着の神ではない。この神はテーベからほど近いところにあるアルマント(ギリシア名ヘルモンティス)という都市で古くから信仰されていた軍神であった。この当時広く信仰されていたのはヘリオポリスを中心とするラー神だったが、地方の独立政権として生まれた第11王朝が、強大な対抗勢力である第10王朝を凌駕するための宗教的シンボルとして軍神であるメンチュ神に目をつけたのである。結果的に第11王朝は全エジプトの統一者となったが、メンチュ神はそれにともなって最高神としての地位を得ることになった。中王国時代のメンチュ神はハヤブサの頭部をもつ男性の神で、頭上には二本の羽根飾りをつけた太陽円盤を戴くという姿で表されており、新王国時代になると、王が戦場で敵に臨むときには内反りの剣ケペシュを手渡す神として表現されるようになった。メンチュ神は牡牛としての姿も持っており、プトレマイオス朝時代になると、聖牛ブキスとして崇められるようになる。 このようにして軍神メンチュはテーベに建造された神殿に祀られ、中王国時代前半を通じて名誉ある最高神の座を奉られたが、その栄光もそう長くは続かなかった。第11王朝がメンチュヘテプ4世をもって断絶し、宰相アメンエムハトが新たな政権を誕生させるにあたって、新たな地方神アメンがテーベにやってきたのである。 アメン神をテーベ主神の座に持ち上げたのは、第12王朝の開祖アメンエムハト1世である。彼は平民の出身ながら恐るべき才能とカリスマ性を武器に、官僚の最高峰である宰相にまで登りつめた人物である。だがクーデターによって王位まで手にした彼は、第11王朝を過去のものとして否定し、新たに誕生した第12王朝が正当な革命政権であることを国民にアピールする必要に迫られた。そこで彼が持ち出したのが、これまで「隠れた神」として抽象的な存在でしかなかった、ヘルモポリスのアメン神だったのである。ヘルモポリスの創世神話において世界の誕生にかかわった4つの属性を司る8柱の神と女神(深淵の水=ヌン神・ネネト女神、暗闇の暗黒=ケク神・ケケト女神、無限の宇宙=ヘフ神・ヘヘト女神、不可視の真理=アメン神・アメネト女神)は男神をカエル、女神をヘビとして表現していた。アメン神はこのうち「目に見えない真理」を示すカエルであったわけで、アメンという名前じたいが「隠れた者」という意味をもっている。つまり当初から、抽象的でよくわからない存在だったのである。 この当時、アメン神はヘルモポリスだけでなくテーベなどの田舎町でも信仰されるようになっていた。アメンエムハト1世はこの「よくわからない神」であるアメン神を新たな政権のシンボルにし、従来の至高神メンチュを追いやろうと考えたのだろう。 もともと固定した神性をもたなかったアメン神は、言うなれば真っ白なキャンバスも同然で、どのようにでも色づけしていくことができる存在だった。まず「目に見えない」という面では同じといえる大気の神シュウを取り込んで生命を育む神となり、さらにすべての神々の頂点に立つという属性を得るために、アメン神は神々の魂であり神格そのものである「神々のバー」という神格を与えられたのである。その後アメン神は生殖を司るミン神、クヌム神を取り込み、最後には古王国時代の最高神だった太陽神ラーを習合させ、アメン・ラー神となった。このようにしてアメン・ラー神は最高神という色に塗りかえられていったのだ。軍神として固定していたメンチュ神には、これに対抗する手段はなかったはずである。 アメンエムハト1世はメンチュ神殿の南側に、新たにアメン神殿を建造した。だが「よくわからない神」であるアメン神に捧げるべき祈りも象徴も体系化されていなかった当時において、神殿の規模もまた局限されたものだったようだ。トトメス3世祝祭殿の前にある中庭にいくつか古い石組みがあるが、それが第12王朝時代に建てられたアメン神殿の基礎部分が残ったものだということに気づく人は少ないだろう。 それだけに、第12王朝に属する王たちはそれほどテーベのアメン神殿に関心を払わなかった。それはアメンエムハト1世がファイユーム地方のイティ・タウィに首都を移してしまったことも大きな原因として考えられるが、この頃の王たちは政権を維持するために神の力を借りることがなくなり、より世俗的で現実的な政治を行うようになったことも要因として数えられるだろう。さらにピラミッド建造の方に情熱を傾ける王が多くなり、冥界に関する神々(オシリスやアヌビスなど)が脚光を浴びるようになったこともまたその一因である。よって中王国時代におけるアメン神殿への寄進は限られたものになり、目立った増築といえば、センウセルト1世が神域内のどこかに建てた聖船安置所くらいであろう。ただその聖船安置所も、新王国時代における増築の際に、石材の不足分を補うための詰め石(タラタート)にする目的で解体されてしまった。現在は周壁跡のそばにある庭園風の野外博物園に復元されている。
2.第18王朝のもとでの発展 新王国時代に入ると、首都はテーベに戻ってきた。苦労してヒクソスを追放したもののエジプトは混乱期から脱しきれず、そのため新たな社会秩序を構築するという必要に迫られた第18王朝の王たちは、イデオロギー政策の一端として、やむなく再び宗教の力を借りることにしたようだ。その最初となる人物が、実質的に第18王朝の血統を創始したトトメス1世である。 トトメス1世は王家の谷での王墓建造を初めて行った人物として知られるが、彼はナイル川の東岸地区でも大規模な市街地再開発を始めていたのである。先王アメンヘテプ1世が寄進した小祠堂など、まだ小規模な礼拝堂が点在している程度だったカルナックのアメン神殿も、当然その対象となった。彼が寄進したのは巨大なオベリスクと、中王国時代の神殿を取り囲むように作った列柱室、そしていくつかの塔門にすぎなかった。しかしいまだ厳しい財政状況の中で行った事業としては、驚くべき業績であろう。 それ以来、カルナック神殿は歴代の王たちの寄進によって徐々に拡大していった。 トトメス1世が行った増築によって一応は神殿の体裁を整えていたアメン神殿だったが、歴代の王たちはそれをまたさらに取り囲むように増築することによって、徐々に神殿そのものの規模を拡大していったのである。それぞれの王たちが行った寄進の詳細は別表にまとめたのでご参照いただきたいが、増築の最盛期は第18王朝の時代だったといっても過言ではない。なぜなら第18王朝が終了するまでに、現在みられる神殿の基本的な構造の大部分がすでに確立していたからである。その後の王たちのほとんどは、いわばそれらを修飾・修復したにすぎないのだ。 だがそうして順調に拡大を続けるかに見えたカルナック神殿だったが、早くもそれを背景にした政治的問題が宮廷を苦しめることになったのである。トトメス3世やアメンヘテプ3世らが推しすすめた経済政策によって、エジプトは空前の経済成長をなし遂げた。為政者である王は敬虔にも、それをアメン神の加護があったからだと考えてさらに寄進をくり返した。そうすることで寄進が半ば恒常化してしまい、国家の経済成長が維持される限り、寄進に歯止めがかからないという異常な状態になっていったのである。それによって最大の恩恵を享受できたのはただひとつの団体、アメン大神官を頂点とするアメン神官団だった。 アメン神官団はトトメス3世の息子アメンヘテプ2世の時代すでに、王宮を中心とするエジプト政府を除いては、早くも国内最大の巨大組織にまで成長していた。その頂点である大神官は代々土着の地方豪族によって地位が世襲化されており、テーベにおける陰の実力者となって王宮と対立、さらにその有り余る財力を背景に、アメン神の神託と称して政治にまで口を出す有様となった。アメンヘテプ2世、トトメス4世親子はこれを嫌悪したらしく、カルナック神殿への積極的な寄進を手控えるようになった。このようにして、王宮と神殿の対立はますます深まっていったのである。 事態を憂慮した後継者アメンヘテプ3世は、久しぶりの増築として第3塔門を捧げるなど太っ腹なところを見せたが、彼は王宮をカルナック神殿の隣から西岸のマルカタ地区に移したり、ムト神殿やメンチュ神殿、さらにはルクソール神殿などに莫大な国費を注ぎ込むことで寄進のバランスを保とうとしたふしも見てとれる。そうは言っても、やはり彼もまたアメン神官団の専横には制限を加えるべきだと考える為政者のひとりであった。彼は国内の官僚制度改革に際して宰相、総司令官、ヌビア総督と並ぶ高級官僚として、アメン大神官を置くことにしたのである。この措置によって地元貴族による大神官位の世襲はなくなり、一応は王宮の息のかかった人物を大神官にすることができ、さらにその任免権も王宮が保有するように改められたのである。 だが、その息子アメンヘテプ4世が行った改革は、それをもはるかに凌駕する規模だった。彼は唯一神としての性格を有する新しい太陽神アテンを持ち出して、アメン信仰そのものを否定したのである。その手始めとして行ったのが、カルナックの神域にアテン神の神殿を加えることだった。 ここで登場してきたアテン神はもともと、唯一神として存在していた神ではなく、太陽神ラーの属性のひとつとして、南中高度にあるもっとも力強い太陽の化身とされていた。むしろ多様性および多面性を重んじる多神教の神々に名を連ねる、一個の神でしかなかったのである。ただしかつての最高神ラーの属性のうちもっとも強力な一面を示す神として、「神々の王」であるという素質は備えていた。アメンヘテプ4世はそれを、唯一神という特異、あるいは絶対的な位置にまで高めたのである。 絶対唯一の神にまで押し上げられたアテン神は、太陽神というだけでなく全知全能、地上と天界の支配者、そして真理の象徴であるマアトを体現する者と位置づけられた。それと同時にアテン神からはいっさいの神格(人格というべきか?)が排除された。さらにアテン神は決して感情を表に出さず、すべての民衆(外国人も含めて)に慈愛をほどこす優しい神とされ、その姿も以前のようなハヤブサ頭に太陽円盤というオーソドックスなものが否定され、簡略化された太陽円盤から光線を表す無数の手が伸びたものに変更された。このようにしてアテン神は一介の太陽神から、現在あるキリスト教やイスラム教の神のような、愛を信条とする唯一神になったのである。 ところがこの画期的ともいえる信仰は、それまで宗教界を支配していたアメン神官団を排除するというためだけに考案されたものだった。唯一神としてその他の神をほとんど否定したことも、またその神官を王ただひとりとした制度も、宗教界からアメン神官団の影響力を取りのぞくという、ただそれだけのために生み出されたものだったのである。そしてそれは一定の成果をおさめ、非合法化されたアメン神官団は弱体化した。 それで満足しておけばよかったのだが、アメンヘテプ4世は自分が生み出した唯一神であるアテン神の完璧さに心底惚れこんでしまったのである。そればかりでなく彼は名前をアクエンアテンと改め、さらに首都もテーベから新造の聖都アケトアテンに移してしまった。そして彼はそこで思索的生活にのめり込むようになり、王としての重要な責務である政務をおろそかにするようになっていく。そして晩年になってその誤りに気づいたときには、古代オリエントの覇者というエジプトの威名は地に墜ちていたのである。 宗教改革の失敗を悟ったアクエンアテン王はやむなく旧体制の復興による軌道修正を決断し、共同統治者に任じたスメンクカラー王をカルナックに派遣した。 謎の人物でもあるスメンクカラー王はメンフィスを本拠地とし、メンフィスのプタハ神官団、ヘリオポリスのラー神官団、そしてテーベのアメン神官団などと精力的に折衝をくり返したようだ。その過程でカルナック神殿の神域に加えられたばかりのアテン神殿は解体されて、宗教改革運動にともなって破壊されたアメン神殿の修復のため、詰め石として使用されることも決められたらしい。スメンクカラー王自身は激務がたたったためか、即位後わずか2年でこの世を去ってしまうが、その遺志を継いだツタンカーメン王らによってアメン信仰は完全に復活した。逆に、その当時アメン神殿に次ぐ規模をもっていたというアテン神殿は跡形もなく破壊されたのである。
3.史上空前となった勢力 それ以後のカルナック神殿は、その発展をまたゼロから始めなければならなかった。第18王朝が終わり、第19王朝時代になるとさすがにアメン神官団は政治の表舞台から姿を消し、代わって本来の支配者である王が強いリーダーシップを発揮するようになる。セティ1世やラメセス2世は国内の神殿に分け隔てなく莫大な資金を投じ、決してカルナックのアメン大神殿ばかりを特別扱いすることはなかった。現にセティ1世はアメン大神殿に壮大な大列柱室を捧げたが、アビュドスにこれまた大規模なオシリス神殿(オシレイオン)を築いたり、精巧な装飾で彩られた自分の葬祭殿を設けたりもしているのである。アメン神官団ばかりに財産が偏らないようにする、これは第18王朝の王たちを悩ました社会問題を解決するための貴重な訓戒であったのだ。 そうは言っても、アメン・ラー神がエジプトの最高神であるという制度そのものには変わりがなかったから、官僚としてのアメン大神官には国家の枢要にかかわる重要人物が任命された。ラメセス2世の時代に25年間という長期にわたって大神官を務めたバクエンコンスという人物は、まさにその典型だった。 アメン大神官バクエンコンスは、王家の血縁に属する人物である。彼は日常的にアメン・ラー神に対する祭儀を執り行いながら、ときに王宮に参内して王の相談役になり、また政治的に働きかけて国庫から予算を引き出し、神殿の修復費を捻出させたりもした。神殿はバクエンコンスの在任中にめざましく財力を伸ばしたが、これは間違いなく彼の政治行動によるものである。 彼は自分の墓碑銘に、「私は神殿内部にオベリスクを建立した。花崗岩でできており、その美しさは天にも届かんばかりであった。オベリスクの前には、石造の建物が、テーベに面して建っていた。庭には水が引かれ、樹木が植えられていた。私は、ふたつの黄金の塔門を建造した。その美しさは、天にも届かんばかりであった」(『ラメセス2世〜神になった太陽王の物語〜』〔ベルナデット・ムニュー・著、吉村作治・監修、南條郁子、福田ゆき・訳、創元社、1999年〕141ページより)と刻ませている。費用は国庫から出ているはずなのに、まるでそれを自分の功績であるかのように書きつけている。彼はそれほど縦横に権力を振るった男だったのだろう。 とは言っても、第19王朝時代のアメン大神官バクエンコンスはあくまでも官僚のひとりであり、王を頂点として緻密に組織されたエジプト政府の枠組みから抜け出すことはできなかった。実際、アメン大神官は王による宗教政策の忠実な推進者であり、彼もまたそのように行動したのである。 その役割が維持される限り、政教一体であるエジプトの政権基盤は安泰であるはずだった。 ところが第20王朝時代に入ると、第18王朝の為政者たちが残した遺訓は時とともに忘れられたのか、アメン大神官を中心とするカルナックのアメン神官団の政治的発言力が再び台頭するようになったのである。その原因を作ったのは、みずからも第1中庭の横に小神殿を捧げているラメセス3世であった。 ラメセス3世は政治的という以上に熱烈なアメン信者だった。彼の最大の歴史的功績は襲いくる「海の民」を撃退したことに尽きるが、いかに戦場におもむく王がアメン神の加護を標榜するという伝統があったにせよ、これほどの歴史的勝利はアメン神の威光がなくては実現できなかったと考えた。その時から、ラメセス3世は熱烈なアメン信者になったのである。その信仰ぶりはすさまじいの一言だったが、とりわけ寄進の気前よさは歴代の王たちの群を抜いていた。彼は生涯のうちに数度にわたり武装リビア人と戦火を交えているが、その中には戦利品をほとんどアメン神官団に寄進してしまったという例もあるくらいである。ラメセス3世の寄進内容については息子のラメセス4世が作らせた「大ハリス・パピルス」にある寄進リストに詳しいが、それほど彼のアメン神への寄進は意識的に行われたのだろうと推定できる。 気前のいい寄進をアメン神に対する生涯の徳としたラメセス3世によって、カルナック神殿の財力はついに史上最高となった。テーベの街はほぼカルナックの所有物となり、同地の産業を手中に収めただけでなく、国内各地にいくつも存在する支神殿をも支配下に入れた。その結果、エジプト国内には古来のオシリス神やプタハ神などに捧げられた多くの神殿があり、神域として広大な神殿領を保有していたが、カルナックはそのうち3分の2を占有するようになったというのである。恐るべき経済力である。アメン神官団の政治的発言力もまた、財力と比例するかのように上昇した。第18王朝時代のように国政すら動かすほどにまで至らなかったのは、首都がテーベには所在していなかったからである。そのためアメン神官団はテーベの政治・経済を掌握したとしても、エジプト全体を支配下に入れることはできなかったのである。長期間にわたってアメン大神官の地位を保持する人物が現れなかったのもその理由だ。 ところが、新王国時代も終わりに差しかかろうとしたころ、ついに個人的に強大な権力をもとうとする人物が現れた。ラメセス9世が任命したアメン大神官、アメンヘテプである。 アメン大神官アメンヘテプは、エジプト新王国が衰退する中においては現れるべくして現れた政治的聖職者であった。彼は高級官僚の一角として国家制度に組み込まれていたアメン大神官の地位を20年以上にわたって保持したばかりでなく、「アメン神のご意志」と称する神託によって実質的に政治的支配権をも手中にしたのである。この時点でもまだ王は「全エジプトの神にして支配者」というカリスマ性を維持してはいたものの、大神官アメンヘテプのもとで上エジプトでは、王とその代理人である彼との区別がつきにくくなっていった。カルナック神殿には、主君であるラメセス9世と同じサイズに描かれたアメンヘテプの浮き彫りも残されている。本来であればアメンヘテプは臣下にすぎない立場であり、通例であれば数分の一という小ささで描かれねばならないはずなのである。 その後、クシュ総督パネヘシ率いるヌビア軍が大挙侵攻し、軍事力を持たないアメンヘテプは失脚して北へ逃げた。その当時のカルナック神殿がどのような状況にあったのかは想像するしかないが、ヌビア軍が市街に攻め入ってかなり大規模な市街戦が繰りひろげられたことは明らかである。デイル・エル・メディーナの職人村がこの時期に放棄され、もう二度と復興されなかった事実から考えると、東岸に位置していたとはいえカルナック神殿も、無事であったとは思えないのである。 クシュ総督パネヘシはテーベの行政権を掌握し、さらに空席になったアメン大神官の地位も襲った。ラメセス11世の治世12年のことであったと、年代記には記載されている。 ところがパネヘシには政治的な才能が備わっていなかったらしく、テーベにおける散発的なゲリラ事件ですら取り締まることができなかったようである。そこで登場したのが、当時は国軍総司令官として国家の枢要にあった高官ヘリホルである。ヘリホルは宮廷内においてパネヘシの無能を執拗に説き、ついにはその地位を奪い取ることになるのだが、彼は前アメン大神官アメンヘテプと姻戚関係を結んでおり、いわば私情によって高級官吏の人事を動かしてしまったことになる。 テーベの実効支配をもくろむヘリホルは、息子で軍司令官だったピアンキに兵力を与え、パネヘシ討伐のために差し向けた。結果的には、ピアンキはテーベに乗り込んで現地の支配権を奪い返すことには成功したものの、パネヘシ自身を討ち取ることまではできなかった。しかし上エジプトを平定した功績によりアメン大神官の地位を得たヘリホルは勇躍カルナックに着任したのである。それと引き替えに、パネヘシがその後エジプトからの分離独立を宣言したため、エジプトはそれまで経済的基盤のひとつであったヌビアを失うという国難に見舞われることになった。カルナック神殿の発展の源ともいえる新王国時代の繁栄は、この事件によって終止符を打たれることになる。この後、テーベはヘリホルを王として独立する。だが後世の歴史家マネトーは、これを王朝とは認めようとはしなかった。 歴史的な見地からこの一連のクーデターを評価するならば、ヘリホルの野望とテーベの独立は、カルナックそのものの発展をストップさせるという結果しか生まなかったようである。その最大の原因はこれまで神殿の財源であったエジプト政府からの寄進が行われなくなったからで、テーベ政府は神殿その他の維持管理を自前で行わなくてはならなくなったのである。そのため分裂期であった第21王朝時代にあたる124年間で行われた増築はほとんどなく、壁面にレリーフを刻んだり、すでにあった王たちの像にあった署名を刻みなおしたりする程度だったようだ。ただしパネジェム1世によるスフィンクス参道の延長事業は、この時代における数少ない寄進として数えられるべきものであろう。
4.大伽藍の消滅と忘却 タニスに首都を移していたエジプト政府は政治的に優越していたものの、テーベの存在を無視することはできなかった。 第22王朝の開祖シェションク1世によってエジプトが再び統一され、テーベのカルナック神殿はタニスの所管に復帰したが、宗教政策を重視するシェションク1世は、血を分けた息子であり腹心の部下でもあった総司令官イウプトに対し、南の宰相、そしてアメン大神官という要職をも兼務させたのである。もちろん、弟のジェドプタハアウタクを第3予言者という高位の神官として兄を補佐させるという条件付きではあったが。 またシェションク1世は、長い間絶えていたカルナック神殿の増築を行っている。彼は家族経営システムの充実によって国内を安定させる一方でパレスティナに攻め込んで、覇権国家エジプトの威光をわずかながら回復することに成功しているのだが、その業績を誇示するレリーフを壁面に刻んだだけでなく、第2塔門の前面に広大な中庭を造営し、ラメセス3世神殿の横に「ブバスティスの門」(ブバスティスはシェションク1世の出身地)という小さな塔門を寄進した。第1中庭の整備は久しく滞っていた神殿増築としてはかなり大規模なものであり、いかに彼が宗教政策を重視していたかの証拠にもなるだろう。 ところが第22王朝における家族経営システムも、シェションク1世の死後早くもほころび始めた。 オソルコン1世が息子シェションク(のちのシェションク2世)にアメン大神官の地位を与えたのを皮切りに、第22王朝の前半においてカルナックのアメン大神官の地位は、王家にとって常に念頭におくべき要職として扱われることになる。この期間において神殿建造物の増築はまったく行われていないが、それは財政の逼迫と内戦によるものだった。エジプト国内では総じて平和が保たれていたものの、テーベの周辺だけは権力争いが絶えることがなく、神殿の建造物も破壊と修復の繰り返しだったことだろうと推測される。 第22王朝の弱体化は年を追って進み、ついには安泰だったデルタ地帯も家族間で分裂するに至り、第23王朝、第24王朝といった独立政権が誕生するにおよんで、その支配系統は破綻してしまった。権力者たちは互いに争い、エジプト全土に戦火が広がることになる。それは紀元前715年まで続いた。 混乱の極みにあった第3中間期の終わりは、ヌビアから来た第25王朝によって戦乱が収拾され、再び国内が統一されたときだった。ヌビアは第20王朝の末期にエジプトから独立し、単独の王朝を築いていたが、彼らが国教としたのは旧宗主国エジプトと同じくアメン信仰であった。ヌビアの首都ナパタの近郊にあるジェベル・バルカルには巨大なアメン神殿があり、規模においてはすでにテーベのカルナック神殿をしのいでいたともいわれている。そこでもエジプトと同様、神官の政治的発言力が増していたという。 ジェベル・バルカルのアメン神殿は、テーベのカルナック神殿を模して造られたといわれている。それだけにヌビアの王たちにとってカルナック神殿に詣で、さらに寄進を行うということは、彼らの宗教的願望でもあった。ところがこの当時にわかにメソポタミアで勃興したアッシリアの脅威が高まり、国家財政を国防に振り向けなければならなくなったため、彼らの願望はほとんど実現しなかった。シャバカ王が比較的広範囲な寄進活動を行ってはいるが、カルナック神殿においては唯一、甥のタハルカ王がテーベ知事メンチュエムハトに命じて造らせた第1中庭のキオスクが現在も残っている。今となってはほとんど崩れ去り、完全なものは列柱のうち一本だけになってしまった。 第25王朝の統治時代は、そのままエジプトの独立を守るためにアッシリアと戦った時代でもあった。エジプトは祖国防衛の生命線としてアジアへの介入を積極的に進めていたが、方法といえば現地の独立勢力に対して救援の一個軍を送って支援させたり、アッシリアに対する反乱を支持したりなどする程度だった。ところがこれが意外にも有効で、これが一定の効果を上げたのが、紀元前673年におけるアシュケロンの反乱である。パレスティナ都市アシュケロンがアッシリア王エサルハッドンに反旗を翻したのを、タハルカ王が成功せしめるために一個軍を送って支援させ、ついにアッシリア軍を退けることができたのである。このときが、第25王朝がもっとも順調な時期であった。タハルカ王はカルナック神殿ばかりでなく、ヌビアのジェベル・バルカル神殿でも大規模な寄進事業を行っているが、それはちょうどこのときであった。 ところがそれからわずか2年後、アッシリア王エサルハッドンがエジプトに対する大討伐作戦を発起したのである。国境を守っていた守備隊もこれには太刀打ちできず撃退されたため、アッシリアの大軍がエジプト領内に流れ込む結果となり、ついに古都メンフィスまでが占領されてしまった。タハルカ王はテーベへと逃れていった。 これが、覇権国家エジプトの終わりを告げる歴史的大事件の始まりとなった。そして古都テーベとカルナック神殿の運命もまた、この急変する国際情勢の中で最後を迎えることになるのである。 その崩壊の歴史を演出するはずだったエサルハッドン王はその後急死し、息子のアッシュール・バニパル王が王位を継いだが、彼は本国のクーデターを理由にエジプトから兵を引き上げさせた。だがエジプトはこの天佑ともいうべき状況を有効活用することができなかった。タハルカ王はこの猶予期間を利用して国内の安定化に臨むべきだったにもかかわらず、再びメンフィスを拠点に対アッシリア強硬政策を激化させ、デルタ地帯で巻き起ころうとしていた反アッシリア闘争に政府公認を与えるという失策を犯すのである。ただひとり、サイスの地方長官ネコだけが、これが大惨事の前触れになるだろうことを恐れて、アッシリアへの恭順を示しただけだった。 果たして紀元前667年、国内の問題を片づけたアッシュール・バニパル王が再びエジプトへの大遠征軍を繰り出した。表向きはデルタ地帯で巻き起こった反乱の気運をつみ取ることだったが、本当の目的はメンフィスで采配をするタハルカ王を打ち破ることだった。タハルカ王はじめエジプト軍はガザ回廊で敢然とこれを迎え撃ったものの戦運つたなく敗退し、その結果、デルタ地帯の諸侯たちはサイスのネコを除く全員が処刑された。 タハルカ王はテーベに再び逃げ帰ることになったが、地方長官メンチュエムハトには、来たるべきアッシリア軍の手からカルナック神殿をはじめとする輝かしい古代の遺産を守るように命じてテーベを去り、故郷のナパタへと逃れていった。メンチュエムハトはこの指示をよく守り、アッシリア軍が侵攻してきた際にはいさぎよく城門を開け、敵軍駐留の屈辱に甘んじながらも、カルナック神殿の大伽藍を敵の破壊から守り通したのである。 これでカルナック神殿の壮麗な建造物群は守られたが、アッシリア軍の主力が本国に帰り、わずかな守備隊を残すのみとなったとき、突如として南からヌビア軍が進撃してきたのである。テーベのアッシリア軍は抵抗することもなく退散した。その後ヌビア軍の指揮官はテーベ市民の熱狂的な歓迎のもとカルナックのアメン神殿に詣でた。彼はタハルカ王の従兄弟で王位を引き継いだばかりのタヌトアメン王であり、前の年にこの世を去ったタハルカ王の遺志でもあった「強大なエジプトの復活」を期して北上の途についたのである。 タヌトアメン王はテーベから出撃すると、精強ヌビア軍を率いて連戦連勝。ついにメンフィスを奪回してそこを前線基地に定めるところまで行ったのである。彼は思わず、アメン神の加護に感謝したに違いない。 ところがタヌトアメン王はまたも、詰めを誤った。メンフィスに進出した時点で兵力を増強させ、また戦費も調達して来たるべきアッシリアとの戦いのために準備をするべきだったのに、彼は何を思ったかデルタ地帯への個人的な報復作戦を起こしたのである。これを迎え撃ったサイスの長官ネコは大敗して野戦の露と消えた。 アッシュール・バニパル王はこれを危険視し、大軍を繰り出した。彼はおそらく、3年前に途中で兵を引いたことを後悔したのだろう、今度は甘い顔を見せることなく反撃し、各地でエジプト軍を打ち破った。タヌトアメン王はこれに対処することもできずにメンフィスを奪われ、南へと逃げ帰るより他なかった。アッシュール・バニパル王はこれの追撃を命じたが、もはやエジプト国民の保護などということは念頭になかった。そのため統制がなくなったアッシリア軍は南への進撃にともなって、略奪行為をくり返したのである。 とくにテーベはアッシリア兵にとって見上げるばかりの壮麗な古都であり、また先年、退却を余儀なくされた屈辱の地でもある。地方長官メンチュエムハトの努力もむなしく、なだれ込んだアッシリア兵によってカルナック神殿の宝物は根こそぎ奪い去られ、壮大な大伽藍は見る影もなく破壊しつくされた。これに対しエジプト人はなすすべもなく、先祖から伝わった輝かしい文明の象徴が破壊され、持ち去られるのをただ見ているだけだったに違いない。 時に紀元前664年。この年は覇権国家エジプトの終わりであった同時に、カルナック神殿発展の歴史にも終止符を打つ出来事だったのである。 その後のカルナック神殿は、テーベの街の復興とともにゆっくりと修復が進められ、ともかくアメン神に対する行事を執行できるところまで回復することができた。だが付属の建造物群はおそらく破壊されたまま放置されただろうし、それを修復するための資金を捻出するだけの力も、アメン神官団には残されていなかった。第30王朝のネクタネボ1世が寄進した第1塔門は現在、カルナック神殿遺跡を訪れる観光客のための表玄関になっているが、それも実は未完成で、塔門の北側はまだ上部までレンガを積み終わらないうちに放置されたらしい。この当時でもまだ政治情勢は揺れ動いており、こうした修復・寄進事業を安定した計画のもとで行いうる為政者はまだ少なかったのである。その中にあってネクタネボ1世はペルシアの侵攻に怯えながらも、カルナック神殿に対しては第1塔門だけでなく、ルクソール神殿へと続く川沿いの参道にスフィンクス像をいくつも寄進するなど格段の業績を残した。だが、完全復興にはほど遠かったようだ。 アメン信仰という流行が去ったことも、カルナック神殿の復興を妨げた。エジプト人から政権を引き継いだプトレマイオス朝はギリシアの神とオシリス神を融合させたセラピスという神を信仰しており、そのための神殿をアスワンのフィラエ島に建てることに熱中していったのである。もはやカルナック神殿は過去の遺物でしかなかった。 カルナック神殿に手が加えられた記録として最後となるのは、紀元前2世紀にプトレマイオス8世が行ったオペト神殿の新築である。ラメセス3世が建てたコンス神殿に隣接するように位置する神殿の建築は久方ぶりに活気溢れる大事業で、彼の治世中には完成しなかったと思われるもののかなり大規模な寄進だったようだ。だがそれ以後は、プトレマイオス王家の混乱が進んで建築事業そのものが停滞するようになる。 アメン神官団の解散が命じられたのは、おそらくローマ時代になってからだろう。それがいつ頃のことなのかは判然としないが、4世紀になってキリスト教がローマの国教になり、エジプトでもそれが形を変えてコプト教として花開いた時期のことなのだろう。もはや異教の象徴であるカルナックの大伽藍は、風化するばかりになっていった。 破壊され、引き倒された列柱が散乱し、ただオベリスクと若干の塔門が林立するだけとなった「大理石の巨大遺跡」が再び西洋人の関心を惹きつけるようになるのは、忘れ去られてからおよそ1400年が経過してからのことになる。
第2節 壮麗な列柱群・ルクソール神殿 1.その誕生と大拡張ナイル川に沿うようにして建つルクソール神殿は、エジプトの神殿建築としては珍しく方形ではない、南北に細長い形をしている。だがこれは塔門から奥へ進むほど神聖で深遠な空間へ至るという新王国時代建築のひな形をなすもので、建造当時の様式からすればかなり斬新なデザインだった。神殿には付きものの周壁や聖池、神官の居住区といった付属施設をもたないのもまた特徴のひとつである。 ルクソール神殿は古都テーベのナイル川東岸に建てられているが、「死者の街」である西岸に対して東岸はテーベの中心街であった。新王国時代にはここに首都が置かれており、初期にはカルナック神殿の隣に王宮および官公庁が建ち並んでいたという。 テーベの街は、中王国時代に最初の建物ができたというカルナック神殿を中心に発展していった。いわば門前町である。それを示すかのように東岸地帯にはアメン神殿、メンチュ神殿、コンス神殿やムト神殿など、数多くの伽藍が立ち並んでいた。ルクソールという都市名はアラブ時代に生まれたものだが、それはアラビア語のエル・クソール(複数の建造物)という言葉から発生したと考えられているから、その当時からこれら大理石の神殿遺跡が人々の目を引いていたのだろう。 さて、ここに紹介するルクソール神殿だが、神殿と名が付いていても厳密にいえば神殿ではないのである。 かつてこの神殿があった場所には、中王国時代にできたという小さな祠堂があったという。もはやそれは跡形も残っていないが、そこにハトシェプスト女王は小さな礼拝堂を造らせた。アメン神、ムト神、コンス神のために3部屋に仕切られた、こぢんまりしたものだったという。この小さな礼拝堂はその後も残り続け、ラメセス2世による大増築の際にも取り壊されずに中庭に取り込まれ、今でも第1塔門の裏でひっそりと観光客を待っている。 ハトシェプスト女王が小祠堂を建ててから約100年後、アメンヘテプ3世はテーベ市街における大規模な都市計画の一環として、この付近に壮大な「アメン神の離宮」を建造することを思い立った。そのためには現時点である程度神聖な要素のある土地を選ばなければならないが、ハトシェプストの小祠堂はその選定の決め手になったはずである。カルナック神殿から3キロという距離もまた重要な要素だった。 神殿の設計および建築監督を命じられたのは、「ハプの子アメンヘテプ」という人物である。この王と同名の人物は生前当時から高名な天才芸術家であり、もとは彫刻家の家系に生まれており、父の後を継いで彫刻家となった。その後彼は宮廷で王や王妃たちの彫像を手がけるようになったが、その腕前を見込んだ王によって、神殿建築というおよそ畑違いの任務を帯びることになったのである。一介の彫刻家でしかない彼はおそらく戸惑ったに違いないが、天才の能力は芸術の分野を選ばなかった。 この神殿の目的は、カルナック神殿からゆっくりと担がれてきたアメン神の聖船を、年に一度のナイル川増水期の間だけ安置しておくための離宮である。その目的が達せられるのであれば、神官の居住区域や聖池などは必要ないのである。ハプの子アメンヘテプはそれらの一切を省いた、斬新な構造を発案した。 建造当時の正門は、今では奥まった場所にある第2塔門であった。 第2塔門を抜けると、アメンヘテプ3世が寄進した大列柱廊がある。高さ17メートルもの開花式パピルス柱が2列、14本が整然と並んでいる。建造当時は屋根があったらしく梁が残っているが、現在は屋根がすっかり落ちて露天になってしまった。 大列柱廊を通り抜けると、そこは列柱が林立する中庭である。中庭にはそれを取り囲むように未開花式パピルス柱が50本以上立ち並んでおり、往事の姿をとどめている。神域はこの中庭を抜けた南側にあり、王と高位の神官以外は立ち入ることのできない空間だった。 神域の至聖所跡には今でも屋根が残っている。至聖所脇の部屋は「誕生の間」と呼ばれているが、そこはかつて神官たちの控えの間であったらしく、アメンヘテプ3世がアメン神の子であるという意味のレリーフが刻まれている。至聖所の前は建造当時は広間だったが、ずっと後になってアレクサンドロス大王が資金を出し、カルナック神殿から運ばれてきた聖戦を安置する台座が置かれることになった。 神域の西側外壁に、オペト祭の場面がレリーフとして刻まれている。そもそもこの神殿はオペト祭のためだけに建てられた離宮で、アメン神とその妻ムト神が増水の季節(夏〜冬)の間に過ごす場所として造られた。それまではオペト祭のすべてがカルナック神殿で執り行われていたにもかかわらずこの神殿を建てさせたのは、アメンヘテプ3世の政治的配慮だったと考えられている。オペト祭はテーベ市民にとっても楽しみな祭りだった。増水期は耕地がすべて水没してしまうため市民は灌漑施設の清掃や食糧の保存作業にかり出され、休むヒマもない忙しさである。しかしこの祭りの期間だけはすべての作業が休みになり、普段は家に閉じこめられている女性たちも、街頭に出る露店へ買い物に行くことができたためである。またいつもは顔を拝むこともできない雲の上の存在である王やアメン大神官を、間近に見られるという楽しみもあった。 王はまずカルナック神殿の聖池で身を清めた後、アメン大神官をともなってカルナックの至聖所に入り、黄金でできたアメン神の像をうやうやしく聖船に乗せる。聖船はさまざまな神のモチーフと標章で飾られ、アメン神の黄金像が乗った台座は亜麻布で覆われており、それがますます神秘性を演出しているのである。これが8〜10人の神官に担がれ、ルクソール神殿へと続く参道をゆっくりと練り歩く。 練り歩く聖船の後には、輿に乗った王と大神官が続く。テーベ市民は参道沿いに鈴なりになってこれを見守り、中には普段見ることもできないアメン神に向かって願い事をとなえる者もいる。 ルクソール神殿に着いた聖船からはアメン神の黄金像が下ろされ、あらかじめ清められた至聖所に安置される。その期間はおよそ10日間で、この間にアメン神は妻ムト神をともなって、豊穣の神オペトのもとを訪れるとされていた。現在のキリスト教にある「謝肉祭」の原型ではないかと考える学者もいる。この期間は市民が飲めや歌えの大騒ぎになり、街にはダンサーや楽師たちが行列をなして踊り狂う。それは現在もカトリック教国で行われるカーニバルさながらだったことだろう。 祭りの期間が終わると、王がルクソール神殿の至聖所に詣でて神像に供物と香を捧げ、再び聖船に乗せる。バカ騒ぎの余韻が醒めやらぬ市民が見つめる中を聖船はまたゆっくりと練り歩き、カルナック神殿へと帰っていくのだった。この祭りが終わるとナイル川の増水期も明ける。また人々は穀物の種まきや畑の土起こしなどの農作業に明け暮れなければならないのである。
2.ラメセス2世による寄進事業 ルクソール神殿を形づくっているいくつかの記念建造物のうち、第2塔門から南は第18王朝のアメンヘテプ3世が、そして第1塔門から第2塔門までの広大な中庭は第19王朝のラメセス2世が寄進したものである。つまり神殿全体の70パーセント以上が、このたった2人の王によって建てられたことになるのだ。 アメンヘテプ3世はテーベ市街の都市計画の一環としてルクソール神殿を発案し、ここは市民が楽しみにしているオペト祭のための施設となった。その結果テーベの街には活気があふれるようになり、商業活動も豊かになり、国庫がますます潤うという利益を得たのである。ただこの神殿は単にオペト祭のために使われるにすぎず、それ以降の王たちは積極的にその価値を見いだそうとしなかった。 そうした風潮を変えたのが、第19王朝のラメセス2世だった。多数の民衆が集まる祭礼を重要な宣伝の機会だと考えた彼は、すでに完成していた神殿に追加寄進することでその財力を誇示し、また壁面に戦争の場面を彫り込んで自分の武勇を示したいと思った。 そのためには、アメンヘテプ3世の当時以上に壮麗な建造物を建てる必要がある。そこでラメセス2世は新たな神殿の表玄関として、第1塔門を寄進した。この塔門は正面に立つと神殿全体を覆いかくすほどに巨大で、まさに神秘の神域の玄関口にふさわしい出来映えである。その前にはラメセス2世自身の座像を6体(現在は2体のみ、残りは台座だけが残る)配置し、さらにその前には天を突くようにそびえ立つオベリスク2本を立てた。 このオベリスクはラメセス2世によって「太陽神が沈む地平線」と名づけられたもので、彼の称号がくり返し、3列にわたって彫り込まれている。だが現在ルクソール神殿にあるのは左側の一本だけで、右側にあったもう一本は1831年、言語学者シャンポリオンの推薦により、当時のエジプト太守ムハンマド・アリーからフランス王ルイ・フィリップに寄贈された。世界有数の観光名所であるパリのコンコルド広場にオベリスクが一本立っているが、これがラメセス2世が作らせた右側のオベリスクなのである。オベリスクには3列のヒエログリフが彫られているが、中央の列のみ彫り方が異なっているので、これが以前どこかにあった他人のものを奪い取ってきて、自分用に彫りなおしたものだということがわかる。 第1塔門には、ラメセス2世の基本政策でもあった宣伝が施されている。現在では風化が進んだため判別しにくいが、かつては紀元前1275年にシリアで起こった「カデシュの戦い」の図が物語調に彫り込まれているのである。 レリーフは2段構成で、上段には戦場の情景、下段にはアメン神に対する感謝文が奉納されている。 上段にはカデシュの戦場で戦車を駆り、暴れ回るラメセス2世の勇壮な姿がいくつも描かれた。退却するヒッタイト軍とそれを追撃するエジプト軍がその主題だが、中にはひときわ大きく描かれたラメセス2世が、たったひとりで同時に数人の敵兵に矢を命中させているといったおよそ信じられない図もある。ただしそこには文字がまったく存在していないので、識字率の低かった当時の民衆に対するプロパガンダとして描かれた可能性が高い。 下段の主なテーマは、アメン神の加護によって戦争に勝ったというメッセージである。ここには文章があるためプロパガンダとしての使い道は考慮されなかったと思われるが、アメン神とムト神が立ち会う前で捕虜を打つラメセス2世の図、そして玉座に座るアメン神に対して供物を捧げるラメセス2世の図が左右対称になって描かれていたようである。このエジプト伝統のモチーフは純粋に神々に捧げるために描かれるもので、ラメセス2世固有のものではない。 ラメセス2世が増築したのは第1塔門とオベリスク、そして第1中庭のみにすぎず、アメンヘテプ3世が寄進した規模からすると3分の1程度でしかない。だが第1中庭に立ち並んだ柱とラメセス2世の立派な像を見ていると、果たしてこの建物が神殿であるのか、それとも王個人のために建てられた葬祭殿であるのか、区別かつかなくなってしまいそうである。 だが彼が建てさせた第1塔門は、かつてアメンヘテプ3世が寄進した第2塔門よりはるかに巨大で、神殿全体を覆いかくしてしまいそうである。 わたしはラメセス2世が過去の有名な為政者たちが残した事業を現世において追い越すことで、より進歩したエジプトの建築技術と財力を誇らしげに表示しているかのように思えてならない。
3.その後のルクソール神殿 繁栄を謳歌するテーベにあって、ルクソール神殿は毎年行われるオペト祭の舞台として年を重ねていった。だがラメセス2世の死後は大規模な改築が行われることもなくなり、古代エジプトの中にあってもこの建物は古代の記念物として、大切に守り伝えられるべきものとして位置づけられたようである。実のところ、ルクソール神殿の改修にまで回す資金がなかったのだろう。 ラメセス2世以降、ルクソール神殿に加えられた大規模な寄進は、王国時代においてはわずか2回しか記録されていない。 そのうち最初のものは、第30王朝の開祖ネクタネボ1世が行ったスフィンクス参道の建造である。この参道はオペト祭の際にカルナック神殿から聖船を捧持して練り歩くためのものであり、おそらくアメンヘテプ3世が神殿を建造した当時からあったと思われるが、ネクタネボ1世はそこにスフィンクス像を追加したのである。 カルナック神殿から直線距離にして約3キロもの道程に、果たしてスフィンクス像を間断なく並べていたのかどうか。現在残っているのはわずかなスフィンクス像だけなので推測によるほかはない。しかしルクソール神殿の門前に残るスフィンクス像の中には破損の著しいものもあるが総じて保存状態がよく、また出来映えもすばらしい。その一体一体にネクタネボ1世のカルトゥーシュが刻まれており、王がいかにこの事業に力を入れていたかが想像できる。 しかしながらこうした寄進事業は、エジプト王国がいかに多く内外の問題を抱えているか、さらに国庫の状態がいかなるものか、残念ながらそうしたことを後世において歴史家たちが判断する材料になっている。 新王国時代においては国家経済も順調で、またアメン神に対する信仰熱も相当なものがあり、カルナック神殿その他のアメン神関連神殿に対する寄進は引きもきらなかった。どんなに困難な国内問題を抱えていようとも、それがアメン神の加護を得るためならと、王たちは積極的に寄進をくり返してきたのである。それが国家の威信を内外に示すことに直結していた時代は、なおさらであった。 ところが第3中間期以降、エジプトの政治・経済の中心地はテーベから離れて、はるか北のデルタ地帯へと完全に移ってしまった。第21王朝の首都となったタニスには新たなアメン神殿が建造され、巨額の寄進はデルタ地帯に限定されるようになっていったのである。その流れの中でテーベは忘れられた存在となり、ただ「アメン大神官」という高級官僚だけが在任する僻地へと追いやられていったのである。 テーベの運命を分けた紀元前664年、この年に起きたアッシリア軍による大破壊でテーベは息の根を止められたにも等しく、歴史の表舞台からもすっかり消え去ることになってしまった。第30王朝のネクタネボ1世によるスフィンクス参道の建造は、そうした中にあってひときわ特殊な、輝かしい業績なのである。 ところがペルシアの侵攻後は、エジプト国内における寄進事業すらほとんど行われなくなり、この期間は古都テーベ、そしてルクソール神殿にとってまさに冬の時代だったといえる。実際にこの期間において、ルクソール神殿が積極的に運営されていたという記録はないのである。だがこれは推測だが、伝統のオペト祭は例年変わることなく行われていただろうし、そうでなければ、アレクサンドロス大王もこの神殿に寄進しようなどとは思わなかったはずである。第30王朝の命運はわずか43年で尽き、その後はペルシアによる統治が始まった。以前にエジプトを支配したペルシア王たちは土着の文化に一定の理解を示したが、第2次支配となる第31王朝のペルシア王たちはそうではなかった。彼らはエジプトの宗教を邪教として排斥し、その神殿をも破壊したのである。この時期、数多くの壮麗かつ荘重な神殿群がこの世から失われたとされる。ルクソール神殿もおそらくその奔流から免れることはできなかっただろう。 そんな抑圧と屈辱の時代に登場したのが、はるか北のマケドニアからやってきた冒険者アレクサンドロス大王であった。 アレクサンドロスは当時世界最強の陸軍国だったペルシア帝国の精鋭に連戦連勝、ついにペルシア帝国を骨抜き同然にまで追い込んだのである。そして紀元前332年、アレクサンドロスはデルタ地帯の沿岸域を経てエジプト入りし、シワ・オアシスにあるアメン神殿で「神の子」として認められるに至る。 アレクサンドロス自身の戦略眼からすればエジプトはペルシアの一大物資補給基地である以上、何としてもアジアとの連絡を断ちきっておきたい地域であった。しかもエジプトの国民は長い間、ペルシアの太守に抑圧されている。彼はエジプトに入り、王として支配権を得ておくことは決して無駄なことではないと考えたことだろう。歴史的にはデルタ地帯の都市アレクサンドリアの建設がひときわクローズアップされるところだが、アレクサンドロスは決して、エジプト王としての責務をおろそかにはしなかった。その具体的成果が、カルナック神殿の浮き彫りとルクソール神殿の聖船安置所であった。 ルクソール神殿の聖船安置所には現在、アレクサンドロスのカルトゥーシュを戴いたレリーフがある。ミン神に対面するアレクサンドロスを描いたものだが、彼はこうした浮き彫りだけでなく、神殿に対して巨額の援助も行ったとみるべきである。現代にまでこれほどの建造物群が残っているのは、あるいはアレクサンドロスのおかげなのかもしれない。 その後のルクソール神殿はアメン神殿、セラピス神殿、そしてローマ皇帝を顕彰する礼拝堂として使われ続けた。砂に埋もれることなく、常にその姿をナイル河畔にそびえさせていたからかもしれない。 そして最後の大改修といえるのが、13世紀ごろに建てられたとされるモスクである。 この地に布教を行ったイスラム教の聖者エル・ハガッグのために建てられたもので、アブー・エル・ハガッグのモスクという。ラメセス2世の第1中庭を約4分の1ほども占領したこのモスクは、数ある古代遺跡侵入建造物の中でもほとんど唯一、現在でも使用されている建物である。 夕方になるとルクソール神殿は褐色の、燃え上がるような色彩に変化する。かつては白く輝いていたであろうこの「アメン神の離宮」では現在、毎週金曜日の朝になるとアザーン(イスラム教で行われる集会の合図)が響きわたり、多くの門徒が集まって祈りを捧げる場になっているのである。白い漆喰で飾られたモスクの偉観が、時代が変化しつつも人間が共有し続けてきた宗教というものの不思議さを感じさせるのだ。
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