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● お 読 み い た だ く に あ た っ て ●
当室では、古代エジプト文明の揺籃となった先史時代、つまり石器時代から筆を起こし、
王朝が始まる前、「先王朝時代」と呼ばれる神話上の時代を取り扱います。
また、付録として、当時の貴重な石碑や文書史料などについても解説しました。
つきましては、お知りになりたい事項について、以下の目次に概略とともにまとめておきましたので、
ご参考のうえ、充分にお楽しみいただきたいと思います。
また、
掲載されております画像をクリックしますと、別ウィンドウにおいて説明文が展開いたします。
合わせてご利用くださるようお願いいたします。
説明文が展開しないブラウザをご使用のお客様は、「図版解説コーナー(2)」へご来室ください。
● 内 容 目 次 ●
 第1節 歴史年代以前
 1.先史時代 先史時代とは考古学年代のことで、日本では正式な歴史の記録が始まる前、例として縄文時代や弥生時代がこれにあたります。最初にエジプトに定住を果たした旧石器時代人とは、どこから来て、どのように生活していたのでしょうか。
 2.都市国家への発展 先史時代の遺跡の多くは、この当時さかんに建造され、至るところに点在していたと思われる都市国家のあった場所から見つかっています。超古代のエジプトが都市国家の集合体からどのように領域国家へと生まれ変わっていったのか。のちの先王朝時代を知るうえでのヒントがあります。
 3.先王朝時代 統一されるまでのエジプトは、いくつかの小国が乱立し、それぞれ王をいただき、互いに争っていたと思われます。のちに「上エジプト」「下エジプト」といった対立関係を収拾し、統一国家へとエジプト全土を作りかえた人物は誰か。先王朝時代における「メネス王」の位置づけについて考えます。
 第2節 年代記資料
 1.パレルモ石 ここからは付録として、エジプトにおける代表的な文字史料について一括して取り上げます。
イタリアの都市パレルモに収蔵されているパレルモ石は、現時点で最古の「年代記」です。われわれの研究に欠かせない年代記の走りとして、たいへん貴重なものです。
 2.カルナック王名表 カルナック神殿に刻まれていた王名表には、ほかのものではみられない特別な要素がありました。それはこれまで暗黒の時代だと言われていた歴史に、最初の光を与えるものでした。
 3.アビュドス王名表 アビュドスのセティ1世葬祭殿に刻まれていた王名表には、のちの研究で判明した多くの王たちが、意図的に削除されていました。歴史から削除するなどという行為は誰の意志によるものだったのでしょうか。王名表はその罪業を今に伝えています。
 4.サッカラ王名表 サッカラで墓から見つかった王名表は、これまた特別なものでした。1500年間で47名しか掲載できなかったその王名表の特性とは?
 5.トリノ王名表 ひょんなことからイタリアで見つかったトリノ王名表は、エジプト史を研究する者にとってはまさに「夢の巻物」にほかなりませんでした。薄汚れて虫食いだらけになったパピルスの巻物が、なぜ夢の巻物になったのでしょうか?
 第3節 ファラオの儀式
 1.戴冠式 エジプトの王にとって、神になるための儀式である戴冠式は、まさに神聖この上ない行事だったはずです。ここではその国家的イベントの進行を見ながら、その底流にあるエジプトの伝統文化についても考えてみたいと思います。
 2.王位更新祭 「ナルメル王のメイスヘッド」にも描かれている王位更新祭は、宗教的にも政治的にも重要な行事でした。われわれはその聖なる祭にスポットを当て、当時どのような儀式が行われていたかをつぶさに検証します。エジプト史を読むうえで、ぜひとも知っておいていただきたい知識です。


第1節 歴史年代以前


1.先史時代

先王朝時代の女性裸像。
写真をクリックすると説明を表示します ナイル河畔の砂漠地帯、もしくは砂漠の高原地帯から旧石器時代の遺跡が発見された。また、新石器時代の遺跡がナイル川流域により近い沼沢地帯、デルタ地方に現れることから、おそらく4000年以上の長い年月をかけてアジアやアフリカの各地からやってきた旧石器時代人がエジプトの地に達し、そこでナイル河畔の限られた肥沃な大地を開墾して、少しずつ古代エジプト文明を作り上げていったのではないかと推定されている。
 メソポタミアではすでに農耕が開始されていた時期、エジプトはいまだ狩猟・採集生活だったと思われる。氷河期が終了して間氷期に入ったばかりのエジプトは現代と違って雨量も多く、森林面積もかなりあったというが、そうした時期に、エジプトでも原始農耕が始まったと推定されている。年代的には紀元前8000年から紀元前7000年の間のことだったろうと思われる。
 だが旧石器時代が終わるころには気候が急激に変わり、それまで熱帯雨林に覆われていた高原地帯は乾燥したサバンナになり、サバンナだった場所は砂漠化していった。狩猟・採集生活をしていた旧石器時代人は移動を余儀なくされ、わずかに残ったオアシスを転々として生活するよりほかなくなっていったのであろう。
 エジプトに定住を果たした最古の「エジプト人」は、紀元前5000年ごろの新石器時代人であったと思われる。
 最初、彼らはオアシスを基点にほんの小さい村落を形成し、そこで狩・農両方による共同生活をいとなみつつ、農耕がアジアから伝わってくるにつれて狩猟生活を脱し、小規模の農業や動物の飼育で生活するようになったと考えられる。
 農業だけがエジプトの産業すべてではなかったにしろ、彼らはナイル川の氾濫で肥沃な土地が毎年更新され、それを利用すれば多くの実りを得られることを経験で知っていたのである。彼らは住宅地として人工の台地を設け、さらに低地には畑をつくって灌漑水路を掘り、井戸や道路なども生み出していった。その原動力となったのが、共同生活であった。
 そしてそうした生活のなかで磨製石器の製作、機織りなどの文化を生み出しつつ、少数住民の寄り集まりである集落は徐々に大きくなっていったのではないだろうか。
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2.都市国家への発展

 大きくなった集落はしだいに都市へと姿を変え、それ自体がひとつの国家としての意味合いをもつようになる。それは「ノモス(州)」という行政単位の起源とされ、王朝時代のエジプトでもそれは変わらずに受け継がれた。最初の都市はほんの小さなものだったのだろうが、経済的優位に立つ都市国家が他の都市を征服する形で着々と勢力を広げて領域国家となり、最後にはそれぞれ王をいただくようになったと考えられる。
 考古学者たちは、こうした先史時代を数々の文化名で呼んでいる。時代区分よりも、そこに存在した都市国家群の所在地名から命名されることが多い。
 ナイル川上流域には「バダリー文化」「アムラー文化」「ゲルゼー文化」などがあり、素焼きの土器や彫像などが出土している。またナイル川下流域のモエリス湖周辺のオアシスには「ファイユームA文化」と呼ばれる独自の文化形態が生まれていた。下流域の文化はさらに「メリムデ文化」「マアディ文化」と、名前を変えつつも存続していくことになる。
 この時代にはすでに下エジプトを中心に手工芸などの工業分野が発達しており、貧富の差による身分の分化が進んでいったものと考えられる。ファイユームA文化では土器、アクセサリー、織物などかなり進んだ工芸品の数々が出土している。副葬品として彫刻や塑像を納める形態もこのころ始まったものと思われるが、文字のない当時、こうした副葬品は文化程度を示すよすがとなっている。


3.先王朝時代

 新石器時代の終わりごろに、後世のテーベ近郊のナガダを基点とする「ナガダ文化」が始まった。
 ナガダ文化にはメソポタミアの優れた文化が大規模に流入してきた。中でもシュメール人による文字文化は、象形文字ヒエログリフのモデルになったと考えられている。また金属文化の発展は鉱物資源の採掘をうながし、それが都市国家間の経済格差をより深刻にさせた。
彩文土器。
写真をクリックすると説明を表示します 考古学年代では「先王朝時代」と呼ばれる時期になると、都市国家の集合体は領域国家へと姿を変え、それぞれに「神の化身」である王が君臨した。
まだエジプトが統一されておらず、南北に長いその国土の至るところで、小規模な勢力どうしの領土獲得紛争が続いていたと思われる。日干し煉瓦の発明で良質な建材が大量に製造できるようになると、古来から地域信仰の中心地であったナガダ、アビュドス、ヒエラコンポリスなどは強大な勢力を誇示するようになっていく。
 初期王朝時代に入る寸前には、エジプトは「上エジプト王国」と「下エジプト王国」のほぼ2大勢力にまで統合されていたというが、それは第1王朝の祖メネスが両王国を統一したという伝承に基づいている仮説でしかない。だが第1王朝は確かにエジプト全土を支配下に入れていたのであるから、メネス王がいなくても、文化・経済レベルではかなり統合が進んでいたのではないかと思われる。
 ここでいう上エジプトとはナイル川の上流、すなわちエジプトの南部である。そして下エジプトはナイル川の下流で、デルタ地帯を含むエジプトの北部である。上エジプトは内陸アフリカの文化を、下エジプトはアジアやリビアの文化をそれぞれ色濃く反映した土地柄だったと考えられるから、政治的には対立関係が生じていたのではないかと推測される。
 伝承では、先王朝時代の末期には、後述する「スコルピオン」王やナルメル王などの有力な王がおり、いくつかの都市国家を連合させた地域を独自に支配していたといわれる。ただし文字資料がほとんどない(エジプトで広く使われる「ヒエログリフ」は先王朝時代末期の発明)ので、この時代の王たちについてはわからないことが多い。「スコルピオン」王やナルメル王は数少ない例外でしかないのだ。
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第2節 年代記資料


パレルモ石。
写真をクリックすると説明を表示します1.パレルモ石

 エジプトの絶対年代を特定するのはもはや不可能であるが、当時記された「年代記」を解読すれば、ある程度の年代を割り出すことはできそうである。年代記とは、「○○の治世○年に○○○が行われた」という記録法によって書かれた年表のようなもののことをいう。
 イタリア・シチリア島のパレルモ博物館にある(断片がロンドンにもある)「パレルモ石」は、先王朝時代の伝説上の王数名から、第5王朝のネフェルイルカラー王までを記した、年代記としては現時点で最古となるものである。黒色閃緑岩でできた記念碑の断片であり、もともとは2メートル以上はあったのではないかと推測される。両面にわたり、きちんと四角に区画されてびっしりと彫ってある年代記によって、われわれは歴代王の在位期間を知ることができるようになった。
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2.カルナック王名表

 現在パリのルーヴル美術館にある「カルナック王名表」は、テーベのカルナック神殿の壁面に刻まれていたもので、初代の王から第18王朝のトトメス3世までの年代記を列記している。
 この碑文は、第13王朝から第17王朝までの第2中間期に属する王たちの名前を残しており、当時の事件や王たちの事績を記したものがほぼ皆無なので、今までわかっていなかった当時の支配者たちを知るうえで貴重な史料といえる。ただし、事績といった詳細な記録はなく、アジアや地中海域で発掘される遺物などに頼るほかないのが現状である。さらなる記録の発見が待たれる。


3.アビュドス王名表

 第19王朝のセティ1世がみずからの葬祭殿に刻ませたもので、「祖先または記録の間」という部屋に通じる廊下の壁面にびっしりと彫られている。ここでは王セティ1世とその息子(ラメセス2世)が、初代の王からセティ1世までの76人分におよぶカルトゥーシュの先頭で、彼らの名前を指し示しながら誇らしげに立っているという図柄である。
 カルトゥーシュの列は3列あり、1列目と2列目にこれまで在位した歴代の王たちを順番に並べてある(3列目はセティ1世の名前だけがずらりと並んでいる。意味不明)。ただし、第2中間期の王については述べられていない。また、第18王朝の末期に実在したアクエンアテン、スメンクカラー、ツタンカーメン、アイの4人は表から削除されている(というより、初めから載っていない)。そのため、アメンヘテプ3世の次にホルエムヘブ王が来るというおかしな図式になっているのである。
 セティ1世葬祭殿の破損が激しく、一部は解読できないものの、運よく息子のラメセス2世が自分の神殿「ラメセウム」に複製を残したのであらかた読むことができる。


4.サッカラ王名表

 サッカラの私人墓である書記テンロイの墓から発見されたもので、第1王朝のアネジイブ王からラメセス2世までの47人分を記載している。これも、第2中間期の王たちの名前がない。現在はカイロ・エジプト博物館に切り出されたものが展示されている。


5.トリノ王名表

 別名「トリノ・パピルス」というパピルス製の巻物で、もともとはサルデーニャ王の持ち物であったものがトリノ博物館に眠っていたのが再発見された。第19王朝から第20王朝時代に書かれたと思われる巻物には、約300名にもおよぶ王の名前、事績が神官文字(ヒエラティク)によってびっしりと並んでいる。
 これまでにない詳細なもので、世紀の大発見だともてはやされた。記載されている王の名前が多数であるというだけでなく、先王朝時代以前の伝説の王たちから筆を起こし、各王の正確な在位年間、または治世中のおもな出来事が、ときには月日までしっかりと記されているので実に有用である。こうした詳細な資料の出現は、エジプト考古学者たちにとってまさに夢であったといえる。
 それなのに、パピルスという有機物に書かれたからでもあろうが、保存状態が最悪で、ところどころ破れ、穴があき、引きちぎられてしまっているのである。修復が進めば、さらに新たな発見がもたらされると思われるが、修復にあたる学者たちにとっては、夢の巻物が逆に悪夢そのものになっているのだ。
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第3節 ファラオの儀式
ジェセル王の王位更新祭用神殿群。
写真をクリックすると説明を表示します

1.戴冠式

 エジプトの王として君臨し、その日から「神」になる者にとって、みずからが王となったことを宣言する戴冠式には特別な意味があったと思われる。それは先王朝時代の昔から変わらずに行われてきた伝統ある行事で、政治・宗教の両面から重要なイベントであった。
 戴冠式が行われるのは王みずからが帰依する神をまつった神殿がある都市か、第1王朝以来の聖都メンフィス、アメン神の守護する都市テーベ、オシリス神の膝元アビュドスなど、さまざまであった。
 その都市で戴冠式が行われることが発表されると、街はにわかに慌ただしくなる。近在の各方面から人が集まり、国じゅうから厳選された作物が輸送されてくるのである。人々が集まってくるのは、この作物で作られ、振る舞われる最高の食卓に呼ばれるのが目的である。官僚や神官はもとより、都市住民までもが参列する一大イベントであった。
 地方豪族、大神官ら来賓の列席のもと、新たな国王は儀式用の船で自分の家族を引き連れて現れ、うやうやしく迎えられて席につくと、王の象徴である5つの名前が宣言された。名前は聖なるものとしての扱いを受けて参列者に布告され、国内はこのとき新国王の即位を知ったのである。また重要な行事として、新国王は地面に寝かせてある「ジェド柱」という彩色された木製の柱を起こして立てるという儀式に参加した。ジェド柱はオシリス神の背骨とみなされ、これをみずから大地より引き起こすことで、王は神性を付与された者となったのである。
 儀式の最後に、王は参列した地方豪族に手ずからパンをちぎって渡した。これは国民に慈愛を施す者としての王の最初の仕事であり、パンは豊かさと寛大さの象徴であった。
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2.王位更新祭

 王は即位後30年を経過したとき、陳腐化した王位の神聖さを神々の前で更新し、支配権を新たにするという目的で「王位更新祭」(セド祭)を行った。エジプトの暦法で元日にあたる日(現在の7月19日くらい)から5日間にわたって行われ、国内すべてが祭日になった。
「ナルメル王のメイスヘッド」に彫られた王位更新祭のようす。
写真をクリックすると説明を表示します この日のために、神殿の中庭には神々をまつるためのカマボコ型の半円ドームの拝殿がいくつも建設され、拝殿の中には神の像がそれぞれ安置された。ここを「祭礼の中庭」といい、すべてのイベントの中心になる。また隣接して「祝典の広間」も整備され、そこにはふたつの玉座が並べてすえられた。
 王位更新祭が始まると、神官たちの列席のもと王とその側近、王族らはそれぞれの拝殿へと列をつくって入り、神々の像に深々と頭を下げて犠牲の動物(動物の彫像だったりもした)を捧げ、終わると「祝典の広間」へ行って、並べられた玉座に1度ずつ座った。頭にはそれぞれ「白冠」と「赤冠」をかぶって。
 祭りはいよいよクライマックスである。王は玉座から立ち上がると、おもむろに服を着替えた。
 それまでの薄くてきらびやかな布地を脱ぎ捨て、身体にぴったりフィットする服を着た王は、東西南北それぞれの方向に全力で疾走する。4回連続して全力疾走するという行為により、王は全国民の前で「余は健在なり」という様を見せなければならなかったのである。このイベントはヒエラコンポリスで見つかった先王朝時代の遺物「ナルメル王のメイスヘッド」にも彫り込まれていた。その起源は想像がつかないくらい古いのであろう。
 当初は在位30年で行われていた王位更新祭だったが、第19王朝のラメセス2世はそのような規定は無視して、自分がやりたいときにやったのであった。おそらく彼は、王位更新祭の宗教的な側面よりも、支配権更新という政治的な目的を重視したのだろう。
 実に、ラメセス2世が自分の在位期間中に行った王位更新祭は14回を数えたという。
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