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| ● お 読 み い た だ く に あ た っ て ● |
| 当室は皆さまお待ちかね、ピラミッドとミイラといった謎に満ちた「古王国時代」について解説します。 できうる限り詳細な記述を心掛けましたので、ページサイズがたいへん大きくなっております。 ダイヤルアップ接続でご利用のお客様にはご不便をおかけいたしますが、ご容赦をいただきたいと思います。 また扱う時期的にも長いと存じますので、下表目次をご参照のうえ、 お読みになりたい時代・事項をクリックしますと、即座にジャンプいたします。 また、掲載されております画像をクリックしますと、別ウィンドウにおいて説明文が展開いたします。 合わせてご利用くださるようお願いいたします。 解説が展開しないブラウザをお使いの方は、「図版解説コーナー(4)」へご来室ください。 |
| ● 内 容 目 次 ● | |
| 第1節 ピラミッド時代 | |
| 1.「神王」ファラオ | 総論です。古王国時代になり王権はこれまでになく強大なものとなりましたが、どうしてそうなったのか、またそれによって古王国時代がどのような時代になったのか、を第3王朝の興り、文化的な変化、ファラオという地位の特異性を例にとって解説します。 |
| 2.権力の象徴・ピラミッド | 古王国時代における文化的な変化を、ここではピラミッドを例にとって解説しようと思います。初期王朝時代における葬儀方式と一線を画する記念物としてピラミッドを挙げる向きは数知れませんが、時代的、文化的背景もあわせて考えてみます。 |
| 第2節 第3王朝 | |
| 1.サナクト王の基礎作り | 第3王朝の創始者であるサナクト王の名をご存じの方は、おそらくそう多くはないと思います。しかし彼がいなければ、ジェセル王もスネフェル王も、クフ王もあのピラミッドを建造することはできなかったかもしれません。基礎作りに生涯を捧げた、知られざる王のストーリーです。 |
| 2.「聖なる王」・ジェセル | 「聖なる」という名前をもつ唯一のファラオ、ジェセル王の生涯とその事績、またピラミッドの建造にいたるエジプトの繁栄の状況について解説します。世界初の「階段ピラミッド」を残した王の人物像はもとより、伝説の建築主任イムヘテプのエピソードも網羅します。 |
| 3.セケムケト王の壮大な夢 | ジェセル王という偉大で長寿な父をもったセケムケト王は、どうにかして父を超えるような存在になろうと粉骨砕身します。ですが天命つたなく、彼はわずかな治世期間でこの世を去ってしまいました。セケムケト王がなし遂げようとした壮大な夢とは何だったのでしょうか? |
| 4.「メイドゥムの崩れピラミッド」 | 果てしなく広がるメイドゥムの田園地帯に、「崩れピラミッド」は孤立する灯台のように、ぽつんと淋しくたたずんでいます。世界初の真正ピラミッドとして記憶されるべきこのピラミッドは、いったいどのような運命をたどったのでしょうか。第3王朝最後のファラオ、フニ王について解説します。 |
| 第3節 第4王朝 | |
| 1.スネフェル王と3基のピラミッド | 個人で複数のピラミッドを建造するのは容易なことではありません。ここで紹介するスネフェル王は、エジプト史上でも2人しかいない、複数のピラミッドを建造することができた人物です。それも、2基ではなく3基です。彼の実力と事績、後世に与えた影響について論じます。 |
| 2.クフ王の苛烈な統治 | 「ギザの3大ピラミッド」の最初となる「大ピラミッド」を建造させたクフ王は、神の化身としての絶対的な権力をもつファラオとして君臨し、世にも壮大な事業を行いました。後世の歴史家たちが伝えるクフ王像とはどんなものでしょうか。もちろん、「大ピラミッド」についても言及。 →デジタル地図「ギザのピラミッド」はこちら |
| 3.ジェドエフラー王と「太陽神の子」 | 偉大な父をもった不幸な王としては、第3王朝のセケムケト王にも通じるジェドエフラー王。ですが彼は、後代のファラオたちがこぞって伝統として守ったある風習を始めた王でもありました。偉大な父と有名な弟との狭間で忘れ去られた彼の実像に迫ります。 →デジタル地図「ギザのピラミッド」はこちら |
| 4.カフラー王の第2ピラミッド | 見ようによっては父の「大ピラミッド」よりも大きく感じるカフラー王の「第2ピラミッド」ですが、史上最大の繁栄を謳歌したエジプト王国のトップに君臨した彼はどんな人間だったのでしょう。また、「第2ピラミッド」はもとより、河岸神殿、スフィンクス像についても詳細に解説します。 →デジタル地図「ギザのピラミッド」はこちら |
| 5.メンカウラー王とシェプセスカフ王 | 歴史家ヘロドトスによって「まれに見る人格者」として讃えられているメンカウラー王ですが、彼が本当に熱中したのは彫刻でした。祖父クフの「大ピラミッド」の半分にも満たない「第3ピラミッド」の墓主であるメンカウラー王と、その息子で粗末なマスタバ墳しか残せなかったシェプセスカフ王の物語。 →デジタル地図「ギザのピラミッド」はこちら |
| 第4節 第5王朝 | |
| 1.ウセルカフ王と太陽信仰 | 第5王朝の創始者であるウセルカフ王は、ヘリオポリスの太陽神ラーの信仰にのめりこんでいました。それを国政にまで持ち込んだ彼の狙いは何だったのでしょうか。また衰退する王国の象徴ともいえる、形骸化したピラミッド建設のその後についても述べております。 |
| 2.ネフェルイルカラー王の試み | 双子の兄弟、サフラー王とネフェルイルカラー王の事績について説明します。とくにネフェルイルカラー王は、ジェドエフラー王と同じく後代伝統となる、ある風習を広めようとした人物でした。その風習が根づいたかどうか、またその後どうなったかを追跡します。 →デジタル地図「ピラミッド分布図」はこちら |
| 3.ピラミッド・テキスト | のちに「コフィン・テキスト」となり、さらにパピルスによる「死者の書」へと発展していく「ピラミッド・テキスト」とはいったいどのようなものでしょうか。さらにそれを後世に残したウナス王はどんな人物だったのでしょうか。短命な第5王朝の王たちとあわせて解説します。 |
| 第5節 第6王朝 | |
| 1.テティ王の暗殺 | 乱れた政情を憂い、メンフィスから立った貴族出身のテティ王は、国内を安定させるためにさまざまな政策を打ち出します。しかし時代はそんな彼の努力をあざ笑うかのように、最後には暗殺という過酷な運命を用意していました。安定という夢を求めて孤軍奮闘するテティ王のエピソードです。 |
| 2.ペピ1世の苦悩 | ますます権力を増大させ、専横の限りをつくす地方貴族たちの動きを封じ込め、積極的に交易政策を推しすすめるペピ1世の努力は、クーデター未遂という大事件によって根底から揺らいでしまいます。衰退という時代の趨勢に対抗し、ついに敗れたペピ1世の人物像に迫ります。 |
| 3.老王ペピ2世 | 94年という人類最長の治世期間をほこるペピ2世の時代は、その長寿とは裏腹の淋しいものでした。行政に対する情熱を失った老いたる王の功罪と、一気に第1中間期の混乱期へと転落していくエジプト王国の歴史的位置づけを学びましょう。 |
| 第1節 ピラミッド時代 |
1.「神王」ファラオ 現代のエジプト歴史学界では、第3王朝の始まりをもって「古王国時代」の幕開けと位置づけている。 しかし、初期王朝時代の第2王朝と、時代を画することになる古王国時代の第3王朝とには、歴然とした区分があるわけではない。第2王朝最後の王とされるカセケムイ王の最期がどのようなものだったのか、どういった政権交代がなされたのか、ほとんどわかっていないからである。後述するが、おそらく母系社会のエジプトにおいてはごく一般的な、「婿入り」が行われたのではないかというのが一般的な説ではあるが。 果たして第3王朝を形成することになった家系の出自はどこか。現代においてそれをたどることは不可能に近いが、王朝初期においては祭儀の形式も政体も、第3王朝は第2王朝のものをそのまま引き継いでいることから、両王朝は出身母体や地域も似通っていたのだろうことは言える。 だが初期王朝時代と古王国時代とを画する制度的、政治思想的な区分があるとすれば、エジプト王が単なる支配者ではなく、神の化身と考えられるようになった、ということが一番に挙げられるだろう。 従来にもファラオは王権を象徴する神ホルスによって支配権を認められた者として、「ホルスに守護された王宮」を表すセレクの中に自分のホルス名を入れることを許されていたのであったが、王の立場はメソポタミアと同じく、「祭司の長」でしかなかった。だが古王国時代になるとその意味合いはさらに強められていき、王は神の下僕ではなくホルス神そのものとなったのである。ゆえに太陽神ラーの息子であるという考え方も生まれるに至る。 その背景には、国定宗教の全国的な普及と、それを巧みに利用した中央集権体制の確立、といった要素があったことを見逃してはならない。それまで国家・祖国といった意識のなかった国民にとっても、王国は「マアト(調和)」そのものであるとされるようになり、その頂点に立つファラオは神でなくてはならなくなったのである。この考え方は、国民に独自の宗教観が生まれ、解釈が多様化しても、たとえ形骸化してさえも、エジプト王国が続くかぎりは維持され続けた。第6王朝が倒れ、エジプトの統一が維持できなくなったときの、国民の精神的ショックの度合いにも如実に表れていよう。 そうした思想は誰が、どういった目的で抱くようになったのだろうか。議論が絶えない。 ホルスの化身であるという自称そのものは第3王朝のジェセル王からであり、また太陽神ラーの息子という定冠詞(名前の前に「サ・ラー」が付けられる)は第4王朝のジェドエフラー王から始まったことはわかっているが、誰か特定の人物が考案したものというよりは、伝統的な考え方に従った結果、そう名乗るようになっただけなのかもしれない。それどころか、単に権力を手中にするための宣伝文句だったかもしれないのである。 王は即位する前はただの人なのに、即位したとたんに神様になってしまうという矛盾した思想にも、それが現れていると言えなくもない。 2.権力の象徴・ピラミッド 第3王朝が始まったときにはそれほど変化がみられなかった文化にも、時代が進むにつれてようやく発展の動きが現れるようになった。それはピラミッドに代表される葬儀の形態に、より顕著にみられる。もともとエジプト人は死後の世界に対して特別な感情をもっており、エジプトでの生活において葬儀は重要な文化的行為でもあった。 まず変わったことといえば、初期王朝時代にはさかんに作られ、王の権威を象徴するものであった化粧板(パレット)や象牙のナイフ、槌矛の頭部(メイスヘッド)など、聖なる儀式に使われる「宝物」が作られなくなったことがあげられる。こうした石や象牙など特別な素材を加工する技術が王家の専売となり、特権階級にしか伝承を許さなくなったからだと考えられる。また王が祭司ではなく「祀られる存在」になった宗教体系は、そうした神聖アイテムの存在を必要としなくなったのであろう。だが王が神となり、絶大な権力と経済力を手にするようになると、葬儀はその財力に物をいわせた大規模で華美なものへと変化していった。その代表がピラミッドである。 もともとエジプト人の有力者はマスタバ墳という、半地下式の小規模な石造りの墳墓(マスタバとは、アラブ語で「ベンチ」の意)に埋葬されるというのが一般的だったが、第3王朝のジェセル王が始めたピラミッドの造営は、「マスタバ墳以上の規模」を強調するものとして登場したのである。当初のピラミッドが階段式で、マスタバをいくつも積み重ねたようなものに見えることでもわかる。 マスタバを積み重ねることのできる特別な存在、それが第3王朝以降のファラオだったのである。 王の権力は絶大なものになり、さらに彼らが「神の化身」と考えられるようになるにつれて、ピラミッドはますます大規模になっていった。ジェセル王に始まったピラミッドの造営は習慣のように諸王の時代に伝えられ、スネフェル王はひとりで3基ものピラミッドを残し、クフ王、カフラー王、メンカウラー王は世界的に名高い「ギザの3大ピラミッド」を後世に伝えたのである。 王たちは不朽の巨大石造建築を残すことで、みずからの権力がいかに絶大で、エジプト王国が繁栄の極みに達したかを永遠に語り継がせようとしたのであろう。そういう意味では、彼らの思惑は今でも、観光客の度肝を抜くことで実現され続けているのかもしれない。 →写真についての解説はこちら |
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| 第2節 第3王朝 |
1.サナクト王の基礎作り 紀元前2650年ごろ、サナクト王(在位前2650年頃〜前2630年頃)が即位することで第3王朝が始まった。このサナクトなる人物についてはその出自がまったく不明で、どのように王位についたのかもはっきりとはわかっていない。おそらく、第2王朝最後の王カセケムイに男子の継承者がなく、女子の王位継承資格者と結婚することでサナクトが王位を得たとするのが現在では定説である。エジプトは母系社会であるから、家系そのものは母方から受け継がれていくものなのである。それをマネトーは新たな家系の創始ととらえ、彼から始まる家系を第3王朝としたのであろう。 サナクトはまたの名をネブカーという。サナクトというのはホルス名だが、もしかしたらネブカーというのは、彼の本名(誕生名)なのかもしれない。セレクしか残さなかった当時の王にとって、こうして本名が伝わっているだけでも奇跡に近い。 第2王朝のカセケムイ王が死んだ後、統一の象徴を失った王国は再び乱れようとしたかもしれない。だがサナクトは先王カセケムイが推しすすめた宥和政策を引き継ぎ、さらにシナイ半島の鉱物資源の採取に執心するなど、重大な内政問題をクリアし、国家経済の育成につとめた。そのおかげで、第3王朝は巨万の富を誇ることができたのである。 サナクト王は名前こそ知られていないが、彼がいなければ、弟ジェセルの絶大な権力は実現できなかったかもしれない。 2.「聖なる王」・ジェセル 2代目のジェセル王(在位前2630年頃〜前2610年頃)は、ホルス名を「ネチェルケト」という。彼が残した碑文でも、階段ピラミッドでも、もちろんネチェルケトと記したセレクしか確認できていない。世界的に有名な階段ピラミッドに、新王国時代の落書きで「ジェセル王の」と記されていたのが見つかったが、長くそれがネチェルケト王と同一人物だとは信じられていなかった。だがアスワンのセヘル島に刻まれていた第3王朝期の年代記碑文(プトレマイオス朝時代にコピーされたもの)には、ネチェルケトではなくジェセルと彫られていたのである。碑文にある7年間の干ばつが、パレルモ石などの当時の記録と一致したことも証拠になった。それ以来、ネチェルケト王=ジェセル王という定説になったのである。 ネチェルケトとは「神の肉体」を意味するが、ジェセルは「聖なる」という意味の接頭語である。先王サナクトの弟である彼は、みずからの神聖性をアピールすることによって中央集権体制を整えようとした。そのためには、「王は神」という図式を国民に理解させないといけない。民衆にもっとも効果的にアピールできる手段は、荘厳な大規模建築にみずからを神として祀らせることに尽きる。 先王サナクトが残した遺産にものを言わせて養成した国軍を、彼は積極的に南方に向けて送り出し、現在のアスワンにいたる地域を新たにエジプト領に加えた。その目的はヌビアを手中にすることである。ヌビアから産出される良質な金・銀、宝石などの交易路をおさえ、さらなる国庫の充実を実現させるために実行した国策であった。 多くの施策を実行し、王国を空前の発展に導くためにジェセル王は努力したが、自分が晩年に達したことを悟ると、神たる自分にふさわしい「死」の姿を考えるようになるのはエジプト人として当然である。 ジェセル王は生前から、サッカラのマスタバ墳墓群から少し離れた場所に、自分のための「死後の宮殿」を建造しはじめていた。多くの葬祭関係施設が寄り集まった複合建造物の走りである。そこには王の生前の生活をしのばせる本物の施設の「偽物」が並べられている。それらは一見本物のようだが、実際には用をなさないものばかりである。数多くある扉も「偽扉」で、死者の魂だけが通れるものである。葬祭複合体の周壁には14もの門があるが、実にそのうち13までが偽扉である。この壮大な施設の建造を任されたのが、宰相で財務長官でもあったイムヘテプという人物だった。彼は王以外の人物で、墓が残っていないエジプト人の中では異例とも言える、「名前が後世に残った」男でもある。 ジェセル王の希望は、「マスタバ墳に勝る墳墓の建造」であった。そこでイムヘテプは、当時考えうる建築技術でより大規模な建造物を造る方策として、マスタバ墳を積み重ねるという方法を思いついた。そこで通常どおりのマスタバ墳と地下の玄室(墓室)をまず設けておいて、今度はその上に、階段状になるように徐々に小さなマスタバを積み重ねていったのである。試行錯誤の末、6段重ねのピラミッドが出現したのだった。 巨大なピラミッドは5キロ先からも見えた。ジェセル王はさぞ喜んだに違いない。イムヘテプはその功績もあって強大な権勢を誇るようになり、また後世、建築家としてだけではなく医学、法学、神学、書記(エジプトにおいて書記の職能は非常に重要だった)の神として崇められるようになった。 ジェセル王は20年足らずの治世でこの世を去り、この階段ピラミッドに埋葬されたものと思われる。盗掘を何度も受けたピラミッドにはほとんど副葬品は残っていないが、盗掘者たちが掘り進めたであろう坑道で見つかった人間の左足だけが、ジェセル王の唯一の遺品である。 →写真についての解説はこちら 3.セケムケト王の壮大な夢 マネトーによれば、第3王朝は計8名の王により統治されたことになっているが、現在のところ、全部で5名の王しか確認できていない。ジェセル王があまりにも有名なために、残りの4人の影が薄くなっているのも事実ではある。ジェセルの子セケムケト王(在位前2610年頃〜前2603年頃)は、1951年にシナイ半島でその名を刻んだレリーフが見つかるまで、第1王朝のセメルケト王と誤認されるなどしてその存在が無視されつづけてきた不幸な人物である。実際、両者のセレクには1文字の違いしかないのだ。 セケムケト王はわずか7年ほどしか、王として君臨することはできなかった。彼の姿と名前を彫り込んだレリーフがシナイ半島で見つかったという事実からも、セケムケト王もシナイ半島経営に力を入れようとしていたことがわかる。レリーフは棍棒を振り上げて今にも敵捕虜を打ちすえようとする姿を模してはいるが、実際のところ、セケムケト王はどのような軍事行動を行ったのであろうか。 セケムケト王には壮大な夢があった。それは父と同じか、それをしのぐほどの巨大なピラミッド複合体を自分も残したいという望みであった。 高さ8.2メートルもの周壁に囲まれた施設内には、長さ518メートル、幅183メートルにもおよぶ広大なプラットフォーム(舞台、ステージ)を築き、そこにマスタバ7層、高さ70メートルものピラミッドを建造する計画があったのである。それはもし完成すれば、父ジェセルよりもさらに8メートル高いピラミッドになっていたはずであった。 だがセケムケト王の夢は、彼の死という意外な結末で幕を引くことになってしまった。ピラミッド複合体は玄室の設置まで進んでいたものの中止され、そのまま放棄されたのである。王の遺体は、現在でも見つかっていない。 →写真についての解説はこちら 4.「メイドゥムの崩れピラミッド」 セケムケトの後継者であるカバ王(在位前2603年頃〜前2600年頃)はそのあまりにも短い在位期間のゆえに、みずからのピラミッドを見ることなく終わってしまった。ただ彼自身は、もう即位当初から自分のピラミッドを造る計画をもっていたようで、伝統的に墳墓が集中していたサッカラから離れ、ギザの付近にピラミッドの建造を始めていた。彼はカイロ近郊のギザにピラミッドを造営しようとした最初の人物である。 だが入り口が完成したところで王が死去したために工事が中断したらしく、そのままこのピラミッドの基礎も放棄され、砂漠に消えゆく運命となったのである。付近に残された、彼の宮廷で高官だった人物たちのマスタバ墳にあった石壺にカバ王の名が記されていたことから、王の存在が判明したのである。 第3王朝の最後を飾るフニ王(在位前2600年頃〜前2575年頃)については、治世期間に関する史料がほぼ皆無であることから事績がまったくわかっていない。唯一残った彼の「生きた証」は、見るも無惨な姿で現在も見ることができる。ファイユーム地方のはずれ、メイドゥムという人跡未踏の場所に、彼はピラミッドの造営を始めた。それはマスタバ墳を積み重ねたいわゆる階段ピラミッドではなく、基礎を正方形にし、はじめに塔の形をした骨格を築いてそれを石灰岩の化粧石で覆うという、現在一般的に知られる正三角錐の「真正ピラミッド」として計画、建造された最初のものである。 ただ、現在ではその面影すら見いだすことはできない。フニ王は約25年もの長期政権を実現したものの、ピラミッドの完成を自分の目で見ることはできずに世を去った。第4王朝の創始者で義理の息子でもあるスネフェル王の手で一応の完成に至り、ピラミッドは壮麗な姿を砂漠に現したものの、葬祭殿は未完成で、何も彫られていない葬祭ステラ(石碑)がいくつか並び、窓のない神殿跡が残るだけである。 ピラミッドを完成させたスネフェル王自身はここに埋葬されず、新王国時代には外壁を覆っていた化粧石の崩落が始まって見るも無惨な姿になってしまったのである。真正ピラミッドの特徴として重要な河岸神殿はまだ未発掘で、かなり破損した参道と、王妃たちのものと思われる小ピラミッドがわずかに残されている。フニ王の遺体も見つかっていない。 今はただ「メイドゥムの崩れピラミッド」として、ピラミッドは訪れる人も少なくひっそりと立っている。 →写真についての解説はこちら |
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| 第3節 第4王朝 |
1.スネフェル王と3基のピラミッド マネトーが第4王朝の創始者としたソリス王が、3基ものピラミッドを残したことでも名高いスネフェル王(在位前2575年頃〜前2551年頃)である。彼は先王フニの義理の息子であり、また実の子でもあった。 スネフェル王の母メルサンク1世は下位の妃で、母系社会であるエジプトでは母の地位によって息子の地位も決まってしまうことから、彼は当初、王太子ですらなかったらしく、貴族として別の家系を形成していたと考えられる。だが巡りめぐって自分が王位を継承することになって、スネフェルは自分の母より高位であった妃より生まれた異母妹ヘテプヘレス1世と結婚し、新たな家系を形成して王家としたのである。マネトーはそれを新王朝の誕生ととらえたのであろう。 自分より上位の家系と結びつくことで政権基盤を強固にしたスネフェル王は、積極的に国外に遠征し、レバノン杉を求めてシリアへ、トルコ石を求めてシナイ半島へ、とみずから足を運んでいる。それらの遠征は自分のコレクションを収集するためと、神殿への捧げものを獲得するために行われたのであった。スネフェル王はこれまでの王がなし遂げ得なかった、個人で複数のピラミッドを建造するという偉業を行ったことで有名である。それを実現するためには専制的な権力と巨万の富がなくてはならないが、彼には「神」としての普遍的なカリスマ性と、父フニ王の遺産その他遠征によって得られた莫大な経済力もあった。複数のピラミッド建造は、彼でなければ実現できなかったと言ってもよい。 エジプトの権力者は元来、自分の出身地に生前からひっそりと墓を作っておき、さらに別の場所にも造り、どちらかに自分が入るのが通例だった。自分が入らない方の墓を「偽墓(セノタフ)」という。 スネフェル王がそれにならったのか定かではないが、彼は父が未完のまま残したメイドゥムのピラミッドを完成させると、続けざまに2基のピラミッドを造り上げたのである。ひとつは「屈折ピラミッド」と呼ばれるオベリスク型のピラミッド、もうひとつは「赤のピラミッド」という、完全な姿で現存する世界最古の真正ピラミッドである。それらは見渡すかぎりの荒野であったダハシュールに建造された。 先に起工されたとされる「屈折ピラミッド」は、下半分は54度31分の急角度であるのに、上半分になると急に角度が浅くなり、43度21分に変わるという奇妙な形をしている。王の急死のため工期が短縮されたためとか、現行の角度では化粧石の接着がうまくいかないから、などこれまで諸説あったが、わたし自身は、当時流行が始まっていたヘリオポリスの太陽信仰にあやかって、ご神体のベンベン石(ずんぐりしたオベリスク。天然石)の形をまねたからだと考えている。 屈折ピラミッドの玄室はふたつあり、それぞれ入口が違う。重量軽減のために天井をじょじょに狭めていく「持ち送り式」という工法(クフ王の大ピラミッドのものが有名)が使用されているが、どうして入口がそれぞれ違う玄室がふたつあるのか、さらにここに石棺が置かれた形跡がないのも謎である。ピラミッドの敷地内で見つかった葬祭ステラ(石碑)にスネフェル王の名前があったことから、これが彼の手になるものだということが判明した。後に完成された「赤のピラミッド」は、夕日に当たると赤く美しく映えることからそう呼ばれている。正方形の基礎に頂点まで角度が不変であるという点では、息子クフ王の大ピラミッドと同じだが、角度は43度36分と浅い。そのままの形で現存する真正ピラミッドとしては世界最古である。 内部の石室は3つで、2つの前室とその奥の玄室という構造になっているらしいが、今では落盤していて入ることができない。ピラミッドの化粧石のいくつかにスネフェル王の名前があったことや、「スネフェル王の2基のピラミッドの神官に対する免税規定」という後世の石碑が見つかったことなどで、これがスネフェル王のピラミッドであることがわかった。おそらく王はここに埋葬されたと思われるが、もちろん遺体は発見されていない。 →写真についての解説はこちら 2.クフ王の苛烈な統治 マネトーによりスフィス1世とされている王こそが、かの有名な、古代世界七不思議のひとつにして現存する唯一の建造物を建てさせたことで知られる、クフ王(ギリシア語ではケオプス、在位前2551年頃〜前2528年頃)である。 後世の年代記はこぞって、クフ王の恐怖政治を非難している。本当に彼が苛烈な政治を行ったかどうかは不明だが、あの巨大なピラミッドを残すことができるほどの権力と財力を実現させるためであればやむを得ないことかもしれない。だが当時、ファラオは「神」そのものとする思想が定着し、王権は揺るぎなかったはずである。であるならばなぜ、恐怖政治などする必要があったのであろうか。今となっては、彼の人柄をしのばせる何物も残っていない。ただ現代になり、ピラミッドの建造は、農閑期になり経済的に苦しむ農民たちを救うための巨大公共事業だったとする考え方も生まれており、クフ王にとってはせめてもの慰めになるだろうと思う。 クフ王が造営したピラミッドは、単体としては世界最大の建築物であり、19世紀になるまで、世界でもっとも高い建物だった。そればかりでなく、非常に高度な建築技法を使用しており、勾配51度50分は頂点に至るまで不変である。また天文学的な意味もあったことは、ピラミッドが正確に東西南北に面していることからもうかがえる。その誤差は、東面で20分の1度あるだけに過ぎないほどである。建造責任者は、クフ王の従兄弟で宰相でもあったヘムオンという人物である。数学的にも天文学的にも寸分の狂いもない建築技法には脱帽するばかりだが、あれほどの石材(平均2.5トンの石灰石を230万個)をどのように積み上げたのか、いまだに詳しくはわかっていない。ナイル川沿いにある河岸神殿が石材積み入れ港、そこから伸びる参道が運搬道であることは確かなようなのだが、運搬方法はわからない。 持ち送り式の天井をもつ廊下をはい上がっていくと、「王の間」という玄室にたどりつく。そこには石棺がぽつんと置かれているが、発掘調査が行われたときには遺体はなかった。石棺は玄室の天井が閉じられる前に搬入されたようである。だが「王の間」は建造途中で2度もの計画変更により急遽作られたもので、当初、ピラミッドの地下に玄室を掘る設計だったらしいが、予定が変更されて下降路の途中に「女王の間」を築き、そこを玄室にすることに変更された。だがさらに計画が変わって、「王の間」が作られたというわけなのだ。だが、これほどの巨大な建造物であるピラミッドも、建造方法が不明であり諸説入り乱れているほか、最近では、あれは墓ではなく宇宙との交信のための施設であるとする説すらある。だが、ピラミッドの周辺にある小規模のピラミッドは王妃や娘たちの墓と思われ、さらにその周囲には、高官たちのマスタバ墳が多数残っている。さらに1954年に発見された船坑の中にていねいに分解されていた木造の船(全長43メートル)は葬祭用に使われたものと思われ、ピラミッドが墓であるという事実を裏付けている。 「クフ王の聖船」と呼ばれる木造船は、ピラミッドの南側脇にあった30.8メートルもの船坑(岩盤を掘り抜いたもの)に安置されていたが、船はそれよりもさらに13メートルも長いため、650パーツに分解されて保存されていた。この船は葬儀用に使用されたと思われるが、ほんの1回か2回、水に浮いた形跡も発見されたため、一概に葬儀専用とはいえないのである。今では近くでもう一隻の聖船(早稲田大学古代エジプト調査隊の発見)も見つかっているが、状態はよくないようだ。 クフ王は強烈なカリスマ性と恐怖政治でピラミッドの造営をなしとげ、財力も空前の規模にまで押し上げ、母および妻たちにきらびやかな副葬品を贈ったのだが、彼自身の像は、1903年にアビュドスで発見された小さな象牙製座像のみ。これほどの大事業をなしとげた人物の存在感がこれほど希薄なのは皮肉としか言いようがない。彼の生前の行いがそうさせたのだろうか。 →写真についての解説はこちら 3.ジェドエフラー王と「太陽神の子」 クフの息子ジェドエフラー王(在位前2528年頃〜前2520年頃)はわずか8年の治世にすぎず、その事績もほとんど知られていないが、父のピラミッドを完成に導き、また聖船を船坑に納めさせたのもおそらく彼であっただろうと思われる。彼の政治の大半が「父を葬ること」であったとするならば、何と不幸な男であったろうか。ただジェドエフラー王は、自分の名前の接頭語として「太陽神の子(サ・ラー)」という称号を用いた最初の王であったとされることでは、後世の王たちにとって大先輩にあたる存在である。流行していたとされるヘリオポリスの太陽信仰と関係があるとする推測がなされているが、彼自身は若くして亡くなったためか、太陽神殿などは残していない。「太陽神の子」という称号はのちに一般化し、プトレマイオス朝時代まで受け継がれることになる。 父や弟とは離れ、ジェドエフラー王はギザの北8キロのアブ・ロアシュに自分のピラミッドを作りはじめた。ただし彼の急死によって計画は頓挫し、ピラミッドの基部と葬祭殿の基礎部分ができただけで放棄されてしまった。今はピラミッドや葬祭殿の基部、崩壊しかけた参道、半分砂に埋まった船坑などがひっそり残るだけである。河岸神殿の存在は確認されていない。 ジェドエフラー王がどのような人物だったのかを知ることはできないが、アブ・ロアシュで見つかった彼の石像頭部で見るかぎり、柔和で優しげな王の人柄がしのばれる。 →写真についての解説はこちら 4.カフラー王の第2ピラミッド ジェドエフラーの弟カフラー王(ギリシア名ケフレン、在位前2520年頃〜前2494年頃)は、マネトーはスフィス2世と呼んでいる。『エジプト史』では彼は66年も在位したとしているが、前後の歴史からすればそれはありえない。およそ26年程度の政権であっただろうといわれている。カフラー王による政権運営がどうだったか、今ではわからないが、経済的に潤い、王権は絶対で神聖不可侵とあれば、比較的大らかであったとも思える。第2ピラミッドの周囲に残された高官たちのマスタバ墳にある彼らの「遺言」を見ると、王は気前がよく、街のひとつやふたつは簡単に下賜したという。息子と思われるネクラー王子の墓には、自分は王から14もの街を賜ったと記されているほどである。 カフラー王の時代に、第4王朝は最盛期を迎えた。彼は短命だった兄の遺志をつぎピラミッドの造営を始めたのだが、場所は再びギザに戻り、父の大ピラミッドより少し高い場所に、まるで寄り添うように建てはじめたのである。だが規模からいえば父のものにわずかに及ばない。父のピラミッドより大きく見えるのは、さらに高い場所にあるからである。 第2ピラミッドの玄室は地表と同じ高さにあるため、ピラミッドはただその上に「乗っている」にすぎない。だが特筆すべきは河岸神殿が比較的よく残っていることで、おもな構造を花崗岩にしたことがその理由であろう。「ほぞ」と「ほぞ穴」との結合によって組み上げるという精緻な造りで、23体もの王の座像が並んでいたものと思われる。そのほとんどは盗まれてしまったが、そのうち9体だけが近くの船坑から見つかった。とっさに隠されたのだろう。カフラー王といえば、ピラミッドを背に、まるで門番のように伏せている大スフィンクス像が有名である。この像は石切場で残った岩山をそのままくり抜いて作られており、建造物というより、巨大な彫刻である。スフィンクスというのは後世になってギリシア神話の神獣名があてられたもので、本来は「ラー・ホルアクティ」という。 スフィンクスはカフラー王のピラミッド複合体の一部をなすもので、ピラミッドの建造に並行して掘り抜かれたものと推測される。半獣人面であるその顔はカフラー王の似顔だとされており、本当ならば、現存する巨大王像のうち世界最古ということになる。その鼻とつけヒゲは落ちてなくなっているが、よく言われるように、進駐したフランス軍が大砲で標的にしたという武勇伝はまっ赤なウソである。すでに1380年に狂信的イスラム教徒によって破壊されていたことがわかっているのだ。 新王国時代にはすでに埋まっており頭しか見えなくなっていたが、それを掘り起こしてやった第18王朝のトトメス4世による記念碑が、スフィンクス像の胸元に立っている。後世再び砂に半身が埋もれたが、今度は考古学者たちによって完全に掘り出されるにいたった。 →写真についての解説はこちら 5.メンカウラー王とシェプセスカフ王 カフラーの子メンカウラー王(ギリシア名ミケリノス、在位前2490年頃〜前2472年頃)は、マネトーがいうメンケレス王にあたる。メンケレス王は63年間統治したと書いてあるのだが、現在では在位28年というのが定説になっている。ヘロドトスは著書『歴史』の中で、メンカウラー王をこのように書いて賛美している。 「彼は父の所行を是認できるような人物ではなく、閉鎖されていた神殿を開き、これまで極度の苦難に虐げられてきた国民を解放して、自由に生業に就き、神事を行うことを許し、また歴代の諸王中、最も公正な裁判を行ったという」 「ブトの町から、王の寿命はあと6年で、7年目には死ぬという託宣が届いたのである。王は怒って神託所へ使者を送り、神を責めた。自分の父と叔父は神殿を閉鎖し神々を顧みなかったのみならず、人民を虐待したにもかかわらず、長寿を保った。然るに信仰の念の厚い自分がかくも早逝せねばならぬというのは納得できない、というのである。(中略)これをきいた王は、もはや逃れられぬ運命が宣告されたものと観念し、無数の燭台を作らせ、日が暮れるとこれに火を点し、夜昼をおかず酒宴を催し歓楽に耽り、沼沢地といわず森林地帯といわず遊山して廻り、特に遊楽に適した場所があると知れば必ずそこを訪れる、という有様であった。ミケリノスがこんなことを考え出したのは、神託が偽りを告げたことを立証したいばかりに、夜を昼に直して自分の定命の6年を12年に延ばそうと思ったからである」 まれに見る人格者だったというメンカウラー王にしてみれば、ピラミッドの建造など、民衆を苦しめるばかりでいいことはないと思ったのかもしれない。それでも彼はピラミッドを残しているが、完成したピラミッドは高さ70メートルで、祖父クフの大ピラミッドの半分にも満たない。だがこれでも拡張されたほうで、当初の計画では30メートルしかなく、途中で変更されたのだそうである。この事実に関してはさまざまな説明がなされてきたが、財政の逼迫がおもな原因ではなかったかと思われる。 メンカウラー王の第3ピラミッドには前室と玄室しかなく、玄室には石棺が置かれていた。石棺の中にはメンカウラー王のカルトゥーシュが記された木製人形棺があった。古王国時代には人形棺を作る習慣がないので、ずっと後世の第21王朝、第22王朝時代に改葬されたのだろう。イギリスの駐在武官ハワード・ヴァイス大佐はこれを梱包して本国に船便で送ったが、石棺を積んだ船が時化にあい沈没してしまった。石棺はいまだ発見されていない。メンカウラー王はピラミッドこそ小さいものの、その分だけ多くの彫像を残している。しかもそれらは驚くほどの完成度と芸術的な美しさをもっており、その表情や顔の特徴などは生前の王をモデルにしたものと思われる。未完成の作品が多いが、王が急死したからだと説明されている。 急死したメンカウラー王を継いで王になったのは、次男のシェプセスカフ王(在位前2472年頃〜前2465年頃)であった。彼の短い治世ではピラミッドを造営することもできず、苦しい財政状況の中では、自分の墓すらも満足に用意することはできなかったのだろう。彼の墓としては、第3王朝の先祖たちが眠るサッカラの地に、つつましやかなマスタバ墳があるにすぎない。マスタバ・アル・ファラウン(ファラオのベンチ)と呼ばれる長方形の墳墓は、今はほとんど崩れかかって、原型を想像することはできないほどである。隣に並ぶ第6王朝のペピ2世のピラミッドもまた無惨な状態で、王国の衰退を如実に物語っているかのようである。 シェプセスカフ王には娘がひとりだけいたが、男子が産まれる前に王はこの世を去ってしまったのである。彼の代で、スネフェル王から続いた第4王朝の直系は断絶し、王朝も終焉を迎えた。 →写真についての解説はこちら |
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| 第4節 第5王朝 |
1.ウセルカフ王と太陽信仰 シェプセスカフ王で第4王朝の血統は絶えてしまったが、ジェドエフラー王から始まる傍系が残っていた。第5王朝の祖となったウセルカフ王(在位前2465年頃〜前2458年頃)は、ジェドエフラーの孫にあたる人物である。即位当時、すでに王家において何らかの地位についていた思われるウセルカフ王であるが、即位に際してメンカウラー王の娘ケンタカウエスを妻に迎えて両家の統合を果たした。スネフェル王の故事にならったのであろう。ウセルカフ王は若い頃から、ヘリオポリスの太陽神ラーに深く帰依していた。太陽信仰はかなり古くからあり、第4王朝のファラオたちも個人的に太陽信仰に傾倒してはいたのだが、ウセルカフ王はそれを「太陽神殿」という目に見える形にした。国家事業で太陽神殿を建造させたのは、おそらくウセルカフ王が最初である。 第5王朝の王たちは、太陽信仰をみずからのステータスにしたようである。ヘリオポリス以外の地にわざわざ太陽神殿をいくつも造営し、みずからの信仰を全国に広める努力も怠らなかった。中でもウセルカフ王は熱心で、5基もの太陽神殿を残している。アブ・グラブ(ギザの南にある村)にある太陽神殿跡はウセルカフ王が初めて造営したものであるが、立派な障壁と祭壇が設けられ、至聖所の真向かいには、ヘリオポリスのご神体ベンベン石(四角錐の中間から角度が変わっている自然石)を模したと思われるずんぐりしたオベリスク(新王国時代の針のようなオベリスク群の先祖)が立っていた。 だが、ウセルカフ王をはじめとして、第5王朝の王たちは自分の墓として、ピラミッドの造営だけは伝統的に続けていた。だがその造りは粗雑で、サッカラにあるウセルカフ王のピラミッドはすでに瓦礫の山になっている。そこに併設された葬祭殿跡から、実物よりかなり大きな王の頭像が発見された。カフラー王のスフィンクス像についで大きなものである。 →写真についての解説はこちら 2.ネフェルイルカラー王の試み ウセルカフの弟サフラー王(在位前2458年頃〜前2446年頃)はシリアと積極的に交易をし、国家の経済力を回復させようとした。とくにシリアで伐採されるレバノン杉(実はマツ科)は神殿や船などの大規模建築にとってなくてはならないものであったが、サフラー王をはじめ第5王朝の王たちはわざわざ自分からシリアに出向いて、買いつけた材木を仕立てた船団に満載してエジプトに運んだのである。サフラー王がシリアの土を踏んだことは、レバノンやシリアに残る当時の史料にもある。 サフラー王のピラミッドはほとんど崩壊しているものの、第5王朝のうちで最大のもので、当時は化粧石や葬祭殿に精巧な彫刻がほどこされていたという。ただし今は往事を偲ぶことすら不可能で、形が崩れたピラミッドに、半壊した葬祭殿が残っているだけである。彼は兄ウセルカフのピラミッドから離れてアブシールに自分のピラミッドを造営したが、その理由はわからない。彼の後継者たちも、しばらくはアブシールにピラミッドの適地を見いだすようになる。サフラーの双子の弟ネフェルイルカラー王(在位前2446年頃〜前2426年頃)の時代から、第2カルトゥーシュの使用が始まった。ただ後世と違うのは、第1カルトゥーシュの方に即位名を、第2カルトゥーシュの方に誕生名を、という使い方をしていることである(のちに逆になった)。並列させたふたつのカルトゥーシュは以降の王たちのほとんどがならって採用しているが、彼はまだ試験的に導入しただけで、本格的な普及には至っていない。息子のシェプセスカラー(在位前2426年頃〜前2419年頃)やその後継者ネフェルエフラー(在位前2419年頃〜前2416年頃)がまだ第2カルトゥーシュの導入を見合わせていることからも推測できる。 後世とは逆であるというルールに従えば、第2カルトゥーシュにある「カカイ」というのが彼の誕生名であるらしい。 →写真についての解説はこちら 3.ピラミッド・テキスト ウセルカフ王によって開かれた第5王朝であったが、彼自身がそうであったように、その政権は短期である。ネフェルイルカラー王が20年という比較的長期の政権を維持できたのに対して、その息子シェプセスカラー以降は短命な王が続くようになり、太陽神殿に振り向ける費用がかさんだためか、ピラミッドもさらに粗末なものになっていった。 短命な彼らの事績を知るすべは、今となってはほとんど考えられない。現在に残る王の事業として特筆すべきなのは、6代目のニウセルラー王(在位前2416年頃〜前2392年頃)が第5王朝の王たちのうちもっとも大規模な太陽神殿を残していることと、彼の息子であるメンカウホル王(在位前2396年頃〜前2388年頃)がひとりだけダハシュールに孤立したピラミッドを造営したことくらいであろう。 8代目のジェドカラー王(在位前2388年頃〜前2356年頃)は、創始者ウセルカフ王の眠るサッカラの地にピラミッドを戻したのだが、現在では高さ24メートルのうずたかい小山になってしまっている。だがその規模はこれまでになく大きく、きちんとした葬祭殿がそなえられていたという。今となってはピラミッドも葬祭殿も、内部を含めて徹底的に破壊されており、葬祭殿発掘の際にジェドカラー王の名前が見つかったことから、これが彼のピラミッドだということが判明したのである。 その息子で王朝の最後を飾ることになるウナス王(在位前2356年頃〜前2323年頃)については、治世期間中のことはいっさいわかっていない。ただ彼が埋葬されたと思われるピラミッドは葬祭殿、河岸神殿、参道をそなえた本格的なピラミッド複合体で、規模こそ小さいものの、ピラミッドは砕石を積み上げた芯部を基礎とした、しっかりした造りである。数千年を経たウナス王のピラミッドは、今ではほとんど瓦礫の山になっているものの、内部はきちんと残されており、内壁は美しい装飾でおおわれているのが1881年に発見されたのである。それまで瓦礫の山だったものが、いきなり脚光を浴びたのである。 入口から内部に入っていくと、壁といわず天井といわず極彩色の装飾で埋め尽くされているのに目を奪われる。それは縦書きでびっしりと並べられたヒエログリフ(神聖文字)で、葬儀の際に唱えられたと思われる呪文が書かれていたのである。 この文書は「ピラミッド・テキスト」と呼ばれ、228もの呪文からなっている。第6王朝の王たちによってほぼ定式化するが、第5王朝のウナス王が用いていたものがその起源だったのである。ピラミッド・テキストを現代でも見ることができるのは、新王国時代に一度修復されているからであるが、それを行ったのは、第19王朝のメンフィスの大神官で、ラメセス2世の息子であるカエムワセト王子であった。 ピラミッド・テキストは第6王朝でいったん消滅するが、中王国時代に棺に描きこむ「コフィン・テキスト」として復活し、その形式はパピルスに記す「死者の書」へと受け継がれていくのである。 →写真についての解説はこちら |
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| 第5節 第6王朝 |
1.テティ王の暗殺 ウナス王は33年もの長期政権を実現したが、男子の世継ぎを残すことはできなかった。彼の死をもって、第5王朝の血統は断絶し、国内の政情は不安に包まれた。エジプトの王は天地をつなぐ役目も負っているとされ、その玉座は一日たりとも空席であることが許されないのである。しかし、このときは数ヶ月、玉座が空席だったらしい。 第6王朝の祖となるテティ王(在位前2323年頃〜前2291年頃)はメンフィス出身の貴族で、すでに宮廷内では重きをなしていたらしい(彼が宰相の地位にあったかどうかは不明)。テティはエジプトに巻き起こった政情不安を払拭すべく王位にのぼったのである。 テティ王が即位に際してウナス王の娘イプトと結婚して正統な王位継承者になると、まもなく国内は安定した。ホルス名に「セヘテプ・タウィ(2つの地〈上下エジプト〉に平和をもたらす者)」を選んだことも、安定を願う彼ならではである。 彼の理想は国内の政治的な安定で、それはまず宮廷内から始められた。王は積極的な結婚政策で部下を懐柔し、平和な宮廷を実現させるべく奮闘したのである。娘セシュセシェトを宰相メレルカと結婚させたのもその一例である。 だが中央集権体制はすでに崩壊寸前にあり、各地で地方豪族たちが権利を主張する時代になっていた。こうした王の積極的な統一への努力はときに反感を買ったようである。 テティ王は国内安定のために努力し、ヌビアやフェニキアと交易をするなど平和外交を貫いた。だが彼は王宮で執務中、警護の兵士に襲われて惨殺されてしまう。彼は生前からピラミッドの造営をはじめ、非業の最期を遂げたにもかかわらず丁重に葬られた。サッカラにある崩れかかったテティ王のピラミッドの玄室には、ピラミッド・テキストの抜粋だけが刻まれている。 2.ペピ1世の苦悩 テティ王の息子ペピ1世(在位前2289年頃〜前2255年頃)は若くして王位につき、父が夢見た国内政治安定という目標を引き継ぐ立場になった。だが、その行程はイバラの道だった。各地に散った地方貴族の富と権力はますます増大するばかりで、彼らは王から得たという権力を誇示するために、数々の大規模な墳墓を造営し、きらびやかな装飾品を個人で製作したりした。明らかに彼らは王の権威を軽んじ、機会あらば取って代わろうとすら思っていたかもしれない。 そんな国内事情を忘れるかのように、ペピ1世はアジア方面と積極的な国策外交を展開し、みずからの趣味である建築のための資材を自分で調達したりもした。そのためには遠征をもいとわなかったらしい。彼のピラミッドは葬祭殿もそなえた立派なものだったが、メンフィスという地名の由来にもなるほど有名だったらしい。 そんな中、ペピ1世の王妃のひとりウェレト・イムテスが加担したと思われるクーデター未遂事件が勃発した。 未遂で終わったこの事件は厳格に裁判が行われ、メンバーは極刑に処されたものの、エネルギッシュに国内統治に邁進していたはずのペピ1世のまさにふところの中に、獅子身中の虫がいたことに彼はショックを受けた。現実に彼がどんなに奮闘しようとも、地方貴族の急成長と増長は世の中の流れであり、押し戻すことなど不可能なのであった。 ペピ1世は30年以上の治世を全うして世を去り、息子のメルエンラー(在位前2255年頃〜前2246年頃)が王位にのぼったが、彼はわずかな期間、統治を行っただけだった。異母弟のペピがメルエンラー王の生前からすでに次期ファラオと目されていたようで、幼いながらもすでに王として表現された弟ペピの彫像が出土している。メルエンラー王が病弱で、明日をも知れない命だったのかもしれない。10年にも満たない在位期間がそれを物語っている。 →写真についての解説はこちら 3.老王ペピ2世 幼くして王位を約束されていたメルエンラーの弟ペピ2世(在位前2246年頃〜前2152年頃)は、6歳で即位し、100歳(一説には102歳)でこの世を去るまで、94年もの在位期間を誇った。現時点で、世界史上の国家元首としては最長の在位期間を誇る。だがエジプトの歴史記述法は「○○王は在位○年で亡くなった」という方式で絶対年代ではないため、「64」を「94」と書き間違えた可能性も、なきにしもあらずである。長期間の治世は繁栄の象徴であるはずだが、ペピ2世の治世に限っては例外であろう。彼の統治下で、エジプト古王国の権威と隆盛は徐々に崩れていった。彼の治世が長かったから、それが実感できなかっただけかもしれない。 政治権力は年を追うごとにメンフィスから離れていき、地方に根を下ろし事実上の自治を行っていた地方貴族の鼻息がますます荒くなるばかりになった。権力を得て勢いづく地方貴族を抑えるためには、王からの利益供与によって彼らを懐柔させるより手はなかった。だがそれは結果的に失敗で、ますます地方分権を増進させるだけという結果を生んだだけだった。 地方権力の専横によって中央政権の権威が無視された結果、各地方からの税収が期待できなくなり、対外交易に依存せざるをえなくなったことも、王朝の崩壊に拍車をかけたと思われる。 ペピ2世はまれに見る高齢に達したが、ファラオとしての地位は絶対に手放さなかった。通常なら高齢を理由に王位を後継者に譲ってもいいはずなのに、エジプトにはその習慣がないために、ペピ2世にとってそのようなことは考えも及ばないことだった。彼は年を重ねるごとに政治への情熱を失っていった。それは宮廷への求心力を失わせるだけだった。 ペピ2世には少なくとも5名の王妃がいた(ほとんどが血縁者)とされるが、後継者はどうやらいなかったようである。マネトーはペピ2世の死後、メルエンラー2世という息子が王位を継ぎ、彼の死後はその妻ニトクリスが即位したと書いている。ニトクリス女王はテティ王の暗殺者たちに復讐してみずからも命を絶つという烈婦だったとヘロドトスは書いているが、残念ながら以上両名の実在は確認されていない。 ペピ2世の長すぎる治世は、紀元前22世紀中ごろに幕を閉じた。だがペピ2世は、みずからの人生とともに、輝かしい古王国時代にも幕を引いたのである。 →写真についての解説はこちら |
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