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| ● お 読 み い た だ く に あ た っ て ● |
| いよいよ、新王国時代のお話はこれが最後となりました。今回は第20王朝の歴史です。 第10章においては、世界史の謎である「海の民」についても大胆な私論を展開しております。 その理解を助けるため、ギリシア史の初期部分を先行して解説させていただきました。 緊迫する地中海地域、さらには古代オリエント世界の情勢の理解にも、あわせてご利用ください。 また第20王朝は、「エジプト人最後の偉大なファラオ」とされる、ラメセス3世を輩出したことでも知られています。 エジプト新王国の最後の繁栄、そして凋落の歴史ドラマを、どうぞご堪能ください。 また、掲載されております画像をクリックしますと、別ウィンドウにおいて説明文が展開いたします。 合わせてご利用くださるようお願いいたします。 解説が展開しないブラウザをご使用のお客様は、「図版解説コーナー(11)」をご利用ください。 |
| ● 内 容 目 次 ● | |
| 第1節 地中海世界と「海の民」 |
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| 1.ミケーネ文明の発展 | 「海の民」が地中海世界を荒らし回る以前、エーゲ海には華やかな都市文明、ミケーネ文明が栄えていました。本項ではその前史となるミノア文明から筆を起こし、ミケーネ文明が成立し、それらがエジプトをはじめとする諸文明とどのような関係にあったのかを解説します。 |
| 2.「海の民」とは何者か? | 世界史の謎といわれる「海の民」の大移動ですが、この呼び名はエジプトの記録に出てくるものに過ぎません。多様な民族が集結し、みずからの生活を守るために地中海を荒らし回らなければならなかった「海の民」の実情、さらに彼らの正体について、私説をもって解明します。 |
| 第2節 エジプト人王朝、最後の繁栄 |
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| 1.出自不明の王 | ここでは、第20王朝の祖となったセトナクト王の来歴、業績について解説いたします。彼はこれほどの王朝を設立した人物にしては珍しく、生まれた場所をはじめその素性がまったく謎に包まれているのです。わたしはここで、時代背景を考えながら彼の本当の姿について、推論してみようと思います。 |
| 2.ラメセス3世と「海の民」 | 「最後のエジプト人ファラオ」とされるラメセス3世の課題は、いかに祖国を防衛するかということでした。彼の人生最大のピンチにして、同時にエジプト存亡の危機ともいえる「海の民」の来襲に対し、敢然と立ち向かった王の行動のすべて、さらに戦術的見地からする祖国防衛戦争について解説します。偉大な王ラメセス3世の実情にも迫っています。 |
| 3.繁栄に落ちる暗い影 | ラメセス3世の最高傑作「メディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿」は、まさにエジプト建築史に冠たる建造物のひとつです。しかしこうした建築をもたらした繁栄にも、暗い影が差すようになります。またラメセス3世の晩年には、彼の想像を絶するような災難が待っていました。 |
| 第3節 ラメセスたちの84年 |
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| 1.ラメセス4世の願い | 長命な父ラメセス3世を引き継ぎ、全エジプトの王となったラメセス4世は、真剣にみずからの長命を願っていました。重要な歴史資料「大ハリス・パピルス」を残し、誠実に生を希求した王ラメセス4世がこの世に示した、精いっぱいこの世を生きた男の記録です。 |
| 2.無能なラメセス6世 | 兄ラメセス5世を廃し、王位を強引に奪い取った弟ラメセス6世の治世をテーマにしています。華美な王墓で有名なラメセス6世でしたが、アジアにおけるすべての領土をバビロニアに奪われるなど、政治的にはまったくの無能ぶりを露呈してしまいました。ここではラメセス6世が行った業績と罪を明らかにしようと思います。 |
| 3.消えゆく王の権威 | 本項ではラメセス6世の後継者として即位し、血統を受け継いで消えていったラメセス7、8、9、10世の4名について解説します。この時代においてエジプトの王権はイデオロギー的な力を失い、国そのものも衰退していきます。決定的に記録が少ない王たちの、生きざまのすべてです。 |
| 4.新王国の終わりとラメセス11世 | 30年もの在位期間を誇ったラメセス11世をもって、第20王朝はおろか、統一王朝が存在した新王国時代もまた終わりを迎えます。その歴史の陰には、混乱期が生んだ風雲児ヘリホルという人物の暗躍がありました。本項ではのちに王を僭称することになるヘリホルの野望を主に解説します。 また付帯解説として、当時の世相がわかる文学作品『ウェンアメンの物語』のあらすじをご紹介いたします。皆さまもお楽しみいただける内容です。 |
| 第1節 地中海世界と「海の民」 |
1.ミケーネ文明の発展 古代地中海世界の文化は、エーゲ海に発達した初期青銅器時代が終了し、クレタ島に宮殿文化として知られるミノア文明が誕生したときに始まるとされる。ミノア文明の中心都市クノッソスは城塞都市であり、またその当時は相当栄えた商業都市でもあった。最盛期は紀元前16世紀で、エジプトではヒクソスが支配していた第2中間期にあたる。第15王朝の3代目キアン王のカルトゥーシュが刻まれたアラバスター製容器のふたがクノッソス宮殿遺跡で見つかっていることはすでに紹介したとおりだが、その当時からエジプトとクレタ島は密接な関係にあったことがうかがえる。 ところがミノア文明は、エーゲ海において永続的な文化としての地位を確立することはできなかった。クノッソス宮殿をはじめとする多くの都市が突如として破壊され、文明そのものも崩壊していったのである。紀元前17世紀にクレタ島の北にあったサントリーニ島が大噴火を起こしたことによって島の大半が成層圏にまで吹き飛ばされ、有力な都市であった島南部のアクロティリが火山灰に埋まるという事件はあったが、これは単なる危機でしかなかった。一時はこの噴火がミノア文明を崩壊に追い込んだのではないかと真剣に議論されたことがあったが、ミノア文明の崩壊は紀元前15世紀初めのことであり、サントリーニ島の大爆発はその時点より150年も早い。現在ではこの説は否定されている。 ミノア文明の崩壊と前後して繁栄を迎えたミケーネ文明は、アルゴス平野の山手に誕生した都市ミケーネから始まった。ミケーネは地中海を渡ってくるメソポタミアやエジプトなどからの豊富な物産で財を成し、またたく間に強大な中央集権国家を築き上げたのである。彼らはミケーネのほかにもアルゴス、ティリンスなどに強固な城塞都市を建造し、ペロポネソス半島を中心とする農耕と交易権を掌握していたものと思われるが、ミケーネで発掘された円形に石組みされた竪穴墓(円形墓域Aと呼ばれる)からは金・銀、アメジスト、琥珀などの宝石や象牙、アラバスター、そしてダチョウの卵など、外国でしか産出されないような素材から作られた副葬品が見つかっていることがその裕福さを如実に示している。エジプトではハトシェプスト女王が統治していた紀元前1450年ごろ、ミケーネではミノア文明から宮殿建築の技法を取り入れて城塞を建造したり、都市から放射状に伸びる軍道を整備したりなど、急速に武装化を進めていた。その時代はミケーネ文明が商業の発達にともなって地中海に海運網をめぐらし、その文化が周辺地域に影響を与え始めた時期に当たっており、ペロポネソス半島一帯を中心としたエーゲ海周辺ではかなり人の出入りが激しくなってきたと思われる。それにともなって外敵に対する警戒心が増大したのだろう。この時代には馬二頭立ての戦車がミケーネにも導入されている形跡もあり、舶来の最新兵器である戦車にも当然のごとく注目してさっそく配備したのだろう。 その一方で、地中海周辺諸国にもミケーネの物産が多量にもたらされていた。そうした輸出品の大半は土器である。 ミケーネ土器は優美な曲線と精緻な線形文様を特徴とする土器で、甕、壺、容器など数多くの意匠が生まれて地中海世界に広まった。それらは当時としても非常に高価で、その多くは副葬品として使われている。だがミケーネ土器の出土地は広範囲に及んでおり、これらはキプロス島、イタリア半島、小アジア西岸地方、フェニキア地方、シリア・パレスティナ地方やヒッタイト、そしてもちろんエジプトでも出土している。エジプトにおいてミケーネ土器の大量輸入を奨励したのはどうやらアクエンアテン王のようで、彼が造営した首都アケトアテン跡のテル・エル・アマルナ遺跡からは多数のミケーネ土器の破片が見つかっている。 そればかりでなく、ミケーネ文化圏の人々は積極的に外部へ移住していった。彼らは海運網の発達に合わせるようにして海を渡り、その土地に定住して独自の文化を成立させていたのである。シリア・パレスティナ方面で見つかる壺や鐙壺などは特産品のオリーブを詰めるための容器として使われていたため、主として商人がギリシアから一方的に運び込んでいたことがわかる。だが小アジアのトロイやタプソスなどでは甕、コップ、水差しやフラスコ型など多様なミケーネ土器が出土していることから、ミケーネ人がそこに定住しており、生活スタイルに合わせた土器を必要に応じて生み出していったと考えられるのである。だがその逆に、彼らは海運を利用して多くの文化を取り入れることにも熱心で、ミケーネやティリンスなどの城塞建築はクレタ島やエジプトから、そしてボイオティア地方のグラという都市にあった大規模な城壁などはヒッタイトからその工法を輸入したものであろうといわれている。その証拠に、後世のギリシア人たちはそれほど大規模な土木工事を行う習慣がなかったのに対して、ミケーネの人々は沼沢地帯に排水路を設けて干拓事業を行ったり、都市全体を囲む大周壁を建造したりすることもできたのである。 エジプトとミケーネの関係も深く、当時の超大国であったエジプトには数多くのミケーネ人が移り住み、商業活動や開拓事業などに従事して定住地を広げていき、第18王朝時代までにはある一定のグループを形成していた可能性がある。それを示す遺物として、テル・エル・アマルナで見つかったパピルス片に行軍する兵士の絵が描かれているのを近年大英博物館が獲得したが、その兵士はミケーネ人兵士の特徴である、イノシシの牙を並べて作った兜をかぶっていたのである。もしそれがミケーネ人兵士を描いたものであるとすれば、すでにその当時から、ギリシア人兵士が陸軍国エジプトの国防を担っていたということになる。 →写真についての解説はこちら 2.「海の民」とは何者か? エジプトでは第19王朝のメルエンプタハ王がこの世を去り、アメンメセス王にその統治が移行されようとしていたちょうどその頃、地中海世界はこれまで経験したことのないほどの危機に見舞われていた。 初期青銅器時代におけるサントリーニ島の大噴火や、ミノア文明を代表する都市クノッソスの破壊など、ギリシア人たちはそれまでにも多様な危機に直面し、これを乗り越えてきた。だが紀元前1200年ごろに起こった民族大移動に対してはほとんどなすすべなく飲み込まれてしまった。これによって、結果的にはギリシアにあったほとんどのミケーネ文明都市は破壊・放火され、弱体化していたヒッタイト王国はその命運を絶たれるという事態にまで発展したのである。ただエジプトだけが、この影響を最小限に食い止めえたのであった。 民族集団の大移動が古代オリエント世界に与えた影響と経緯は、以下のとおりである。紀元前1200年ごろ、突如として海から見たこともない武装集団が現れてペロポネソス半島全域に上陸し、ミケーネ文明における中心都市として君臨していたミケーネ、ティリンスなどの宮殿と城塞の多くを攻撃してこれを破壊し、火を放ってこれを完全に無力化して回ったのである。被害をこうむったのはミケーネやティリンスなどの中核都市だけではなかった。ペロポネソス半島ではミデア、メネライオン、ピュロス、ニホリアなど多くの都市や定住地が襲われて破壊され、ほぼ例外なく放火されて炎上したのである。また彼ら武装集団は海を渡り、クレタ島のハニアやエウボイア島のレフカンディ、ボイオティアのテーベ、そして小アジア・イオニア地方のトロイやミレトスなどにも攻め入ってこれを破壊した。ミケーネ文明の諸都市は発達した交易路を利用して相互依存の関係にあったので、中心都市が破壊されて無力化すると将棋倒しのように経済的危機に陥ってしまい、たとえ破壊を免れたとしてもその命運を長らえることはできなかった。 彼ら武装集団はミケーネ文明世界を片端から葬り去り、その矛先を逐次、東に向けていった。キプロス島では中心都市エンコミやサラミス、パフォスなどほとんどの都市が被害をこうむり、海を渡った対岸のフェニキア人都市ビブロスやアシュドッド、シリア人都市ウガリト、ハマト、カデシュ、ヒッタイト人都市タルソスなども破壊されて火を放たれた。これらはその後再建されたものが多いが、ウガリトはほぼ完全に消滅してしまい、ずっと後の時代になるまで再建されなかった。 この大移動によって甚大な被害をこうむったのは、すでに弱体化して崩壊寸前だったヒッタイト王国である。 地中海を渡ってきた集団なのか、または北からきた別の集団なのか判別できないが、移動してきた集団は突如として牙をむき、ヒッタイトの中枢であったアナトリア高原一帯を荒らしはじめたのである。彼らも地中海を荒らし回った連中と同じく、城塞を破壊し、放火するという攻撃方法を踏襲していた。カラオグラン、アラカ・ヒュユク、アリシャル・ヒュユクなど経済的に潤った都市がまず狙われたが、ついに首都ハットゥシャにも彼らは攻め込み、あっという間に陥落させてしまった。かつて強大な軍事力を誇り、古代オリエントの覇者を自認したほどの大国ヒッタイトの首都ハットゥシャは徹底的に破壊され、略奪され、放火された。これを契機にヒッタイト王国は瓦解し、滅亡に追い込まれたのである。 これが、武装集団がエジプトに攻め込むまでの経緯である。 この武装集団は、いま一般に「海の民」と呼ばれている。世界史の授業で意味もわからずに覚えたという経験をお持ちの方もいると思う。だがこの「海の民」という呼び名はエジプトに限ったものであって、メディネト・ハブに残るラメセス3世の葬祭殿に刻まれた当時の記録に登場するにすぎない。ヒッタイトやシリアなどのアジア西部では「フリュギア人」と呼び、ギリシア人たちは「ドーリス人」と呼んでいた。「海の民」と「フリュギア人」は集団全体をさす総称であって、「ドーリス人」はバルカン半島の北からやってきた特定の異民族(バルバロイ)のことをさしていた(ヘロドトスは著書『歴史』の中で、ドーリス人をマケドニア起源と特定している)と思われる。この「海の民」は古来より、地中海地方に起こった大凶作によって飢餓状態に陥った各地の少数民族が集結し、武装化して豊かな大国に襲いかかったという説が有力であった。確かに人口の増加による自然破壊や気候の変動などの要因は考えられるが、従来国家に属さず、民族間の団結を基礎にしていた少数民族がいきなりまとまって大集団になり、まるで統制のとれた軍隊のように諸都市を襲うようになるだろうか。 民族大移動の謎を解き明かすならば、同じような事例を参考にすればより明確になるだろう。ここで引き合いに出されるべきなのは、紀元375年に始まり、巨大国家ローマを衰亡へと追いやった「ゲルマン民族の大移動」である。 ゲルマン民族の大移動は、375年に黒海北岸に定住していた東ゴート族を襲い、これを圧迫してローマ領に向かわせたフン族の西進を発端としている。フン族もそうだったが、当時の東ヨーロッパは人口が急増して耕作地に余裕がなくなっており、原住諸民族にとって、新天地を求めないことには生活を維持することすら難しい状況だった。とくに東ゴート族はそれが焦眉の急に迫っており、彼らは急速にローマ帝国への接近を強めていたのである。フン族の圧迫は単なる契機にすぎず、遅かれ早かれ、東ゴート族はローマ領に侵入しただろうといわれている。 375年の危機は、東ゴート族が定住地を追われて他民族の領分に侵入し、さらに東ゴート族に追われた西ゴート族やヴァンダル族などが定住地を求めて移動する、といった将棋倒し現象が拡大したことによって巻き起こった。大移動はそれに触発されたほかのゲルマン系民族(フランク族やサクソン族、ロンバルド族など)が次々と帝国領内に侵入したことによって発生したのである。弱体化したローマは451年にカタラウヌムの戦いでフン族を打ち破ることはできたものの、もはやかつての支配国家に、彼らの移動を押しとどめることはできなかった。 紀元前13世紀末に始まった「海の民」の大移動も、同じような原因で発生したと考えてみてはどうだろう。それはある特定の地域(おそらくバルカン半島北部、もしくはイタリア半島)で起こった凶作を契機に移動を始めた民族がいて、他民族の土地に入り込み武力でこれを奪い取ったとする。定住地を追われ、難民化した原住民が将棋倒しのように移動することによって難民が多様化してふくれあがり、最終的には武装化して文明を破壊するに至った…という考え方である。つまり彼らは既存の文明を破壊するために蜂起し、海賊のように地中海全域を荒らし回るために武装化したのではなく、定住地を追われた彼らが強引にでも新たな境地を獲得しなければならないという必要に迫られた結果、やむなく武装化せざるをえなかったのであろう。 ところが、これもまたヒクソスの侵入と同じで、民族移動の契機となった原因はまだ特定されていないのである。いわば世界史の謎であり、従来の気候変動説に加えて、近年では海賊説、下層階級の蜂起説、集中過剰説などが学界を賑わせている。しかし原因はどうあれ、武装集団が地中海世界を席巻してギリシアに破壊と猛火をもたらしたせいで、エーゲ海文明は崩壊して「暗黒時代」(文字資料が残っていないためこう呼ばれる)に突入してしまったのが現実なのである。 他方で、世界史的な意義は大きい。ギリシアではドーリス人が侵入してミケーネ文明が崩壊したことにより、旧時代的な中央集権体制は衰退して、新たな政治形態である都市国家(ポリス)を中心とした古代民主主義体制が誕生する素地が形成された。またヒッタイト王国が瓦解したために軍事機密だった鉄器の製法が各地に伝わり、鉄製農具が作られるようになったことで農業生産力の急激な進歩がもたらされたのである。結果的にいえば、ギリシア世界は一度破滅したことによって、新たな時代へと脱皮できたのである。 逆に言うなら、「海の民」の侵攻から国を守りきり、破滅を免れることができたエジプトは、新たな時代へと脱皮する機会を失したとも考えられよう。読者諸賢の見解を待ちたい。 →写真についての解説はこちら |
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| 第2節 エジプト人王朝、最後の繁栄 | |
1.出自不明の王 タウセルト女王が病床の人となったとき、エジプトは存亡の危機に立たされていた。 かつて第19王朝のエジプトはラメセス2世という強力なリーダーのもとで繁栄をきわめ、古代オリエント世界においては唯一の超大国としての地位を占めるほどの国家にまで成長した。その経緯と為政者たちの業績は細部にわたるまで詳しく記述されており、それによって、われわれは3000年以上も前の歴史を手に取るように知ることができるのである。 だが文字を読むことができ、かつ書くことのできる人間は、エジプト全国の人口比にして絶対的に少数だった。文字を読み書きすることが聖なる能力だと信じられており、その技を学ぶためには一定の社会的地位と財力が必要だったからである。それゆえに、識字能力がエリートの証明だと位置づけられていた時代にあって、歴史を個人的に記述するという機会も意欲もまた少なかった。だから、国家の歴史を公式に残そうとするとき、そこには少なからず国家権力による強制力が働いていたはずである。書記という職業がエリートの専業であり、特殊な能力だと考えられていたエジプトやメソポタミアにおいては、公式な歴史が記述されなくなったとき、それはすなわち国家の衰退を物語るのである。 タウセルト女王の死によって第19王朝が終わりを告げたとき、エジプトは大混乱の極みにあった。その当時に残された記録が、いまだに見つかっていないことがその証拠である。国力が衰退したせいで行政が乱れ、それに乗じた外国勢力からの圧力に怯えるあまり、国家運営もままならなくなったためだろう。 地中海世界を蹂躙した「海の民」が、すでにエジプトにも影響を与えていた可能性もある。当事者の記録ではないが、この当時から約70年後に編纂された公式記録「大ハリス・パピルス」の記述によると、タウセルト女王の最晩年にアジア人の反乱が勃発したという。おそらくデルタ地帯に居住していた中東地方出身のアジア人社会が「海の民」の移動と武力による勢力拡大に刺激され、彼らもまたエジプトの衰退に乗じて蜂起・拡大し、近在の都市を占領して独立勢力となったものと考えられる。第2中間期において、正統の主権者である第13王朝が衰退したとき、アジアから侵入して独自の社会を築き上げたヒクソスが交易路を掌握して第15王朝を樹立した当時に似ている。 強力な経済力と軍事力で領土を広げていく独立勢力の存在は、病める超大国エジプトにとって末期ガンにも等しい。今や古来の統一国家は滅亡の危機に瀕していた。異教のアジア人たちは神殿を閉鎖してその財産を没収したり、都市を焼き払ったり破壊したりなどやりたい放題で、治安は徹底的に乱れていた。土着のエジプト人たちは被害から逃れるために、家財をまとめて避難しなければならなかったほどである。この国家の重大事に際して、エジプトには指導者が存在しなかった可能性がある。元来エジプトに君臨してきたファラオは神そのものであり、太陽の化身でもあった。ゆえに王は前任者の死の翌日には王位継承を宣言しなければならないしきたりになっており、太陽が空に輝かない日が一日としてないのと同様に、王が玉座に君臨しない日もまた一日としてないのが普通だった。にもかかわらずこの時期、王が空位であった期間が約2〜3ヶ月あったと「大ハリス・パピルス」には記録されているのである。いかにエジプトが混乱していたかを物語る記事だが、信憑性には疑問が残る。 この混乱に終止符を打ったのは、新たに王位を宣言して第20王朝を創始したセトナクト王(在位前1186年頃〜前1184年頃)であった。彼は軍勢を率いてデルタ地帯を転戦して侵略者たちを追い払い、放棄されていた神殿を再開させてその財産を保証し、また避難していた住民を呼び戻して都市の復興にあたらせたという。まさに乱世のエジプトに現れた救世主であった。 ところが、セトナクト王には王位を名乗る資格がなかった。母系社会であるエジプトには、家門を守るのは女性であり、たとえ男子の後継者が絶えても、王家に連なる女性と結ばれることによって家系は維持されるという考え方がある。だが、おそらく地方豪族の出身であろうと思われるセトナクト王にはそうした背景が一切ない。彼の妻であるティイ・メルエンエスも王家の出身ではない。本来であれば、新王朝を創始する資格すらない人物だったのである。セトナクト王についての唯一とも思える記録「大ハリス・パピルス」は彼の孫にあたるラメセス4世の命によってまとめられたものだが、そこでも祖父の出自についてはノーコメントである。そのため、セトナクト王の性格や前半生などについては、まだよくわかっていない。 だが、出自が不明であったとしても、セトナクト王はクーデターなどの不法な手段で王位を簒奪したわけではない。彼は乱れきったエジプトを正常に戻したうえで、空位になっていた玉座を襲って、初めて王位を名乗ったものと思われるのである。彼の人物像が判明していない段階では推定によるほかないが、王位も多くの支持者から推挙されて、やむなく手にしたと考えられる。 セトナクト王は即位後、なおも精力的にエジプトの混乱を収拾するため努力し続けたが、もはや彼には時間が残されていなかった。おそらく高齢だったのだろう。即位してからすぐに自分の墓を王家の谷に造営しはじめていること、さらに自分の息子ラメセスを共同統治者に任命していることなど、彼の行動はそれを証明している。もしかしたら、王はすでに病を得ていたのかもしれない。 そして、統治期間わずか3年弱という早さで、セトナクト王はこの世を去った。 王は生前、自分の墓を途中まで掘り進んでいたが、アメンメセス王の墓にぶつかってしまったためにこれを放棄し、代わりにタウセルト女王の墓を拡張して新たな玄室を設け、自分の永遠のすみかとしたのだった。彼は息子ラメセス3世によって正式な王として葬られるという栄誉を得たが、遺体はのちにアメンヘテプ2世王墓に移された。そこで彼の石棺は発見されたがミイラが見つからず、いまだに行方不明のままである。木製の葬儀用小舟に乗せられ、布で巻かれていない遺体がカシェの隅にひっそりと安置されていたが、もしかしたらそれがセトナクト王のものかもしれない。 →写真についての解説はこちら 2.ラメセス3世と「海の民」 セトナクト王の死によって、短期間ではあるが共同統治者として政治経験を積んでいた息子のラメセス3世(在位前1184年頃〜前1153年頃)が、単独統治者に昇格することになった。 ラメセス3世の治世期間はおよそ30年を数えるが、彼の施政方針は一貫して「祖国防衛」であり、それは当時の激動する国際情勢をどのようにして乗り切り、偉大な祖国エジプトの栄光をいかに守りきるかを模索する日々だったといえよう。そしてそれを、彼は見事に果たしたのである。ラメセス3世自身は、エジプト人君主としては最後となる繁栄を祖国にもたらした人物だと歴史的には位置づけられているが、彼はみずからに課せられた仕事をこなしたに過ぎない。激動する国際情勢が、彼のような「仕事のできる男」を求めていたといえる。 父セトナクト亡き後、ラメセス3世に課せられた最初の「仕事」は、父の政策を継承して国内政治を安定させることだった。 第20王朝の成立を契機にエジプトには平和が戻り、離散していた住民もようやく帰還することができるようになった。だがそれにともなって国外からの移民も増えはじめ、経済的に進んでいるデルタ地帯の人口が増加の一途をたどるという問題も発生したのである。古都メンフィスやその北にあるヘリオポリスといった都市は、第20王朝時代には100万人以上の人口を擁していたといわれているくらいである。誇張もあると考えられるが、もし真実であるなら、世界で最初の「100万都市」が紀元前12世紀にはすでに誕生していたことになる。 人口が増加すれば税収も増え、国庫も潤うことになるから国としてはまことに申し分ないはずである。だが現実は、移民の大量流入によって新たな都市がつぎつぎと誕生したため、政府の出先機関である地方行政府もその実態を把握することができなくなってきた。それは人口が増加しているにもかかわらず税収が落ち込むという現象となって現れた。人口の急増によって中央集権体制そのものが危うくなる事態になったのである。また移民たちは寄り集まって独自の共同体を形成する傾向が強く、国内に外国勢力による不穏分子が生まれやすいという公安上の問題も明らかになった。そこでラメセス3世は治世5年目(紀元前1179年ごろ)に、外国人移民の入国を制限する勅令を発した。これは国内の秩序を安定させ、管理の行きとどいた移民体制を構築することが目的だったが、農業生産力の拙劣さによる困窮のためつぎつぎとデルタ地帯に流れ込んでいた西方のリビア人たちにとってこれは事実上の閉め出しに他ならず、飢え死にしろというのと同じだった。そのため彼らはいっせいに態度を硬化させ、武装化する動きを見せたのである。かつて第19王朝時代、メルエンプタハ王がリビア人の武装移民を国軍を動員して阻止したことがあったが、当時と同じ状態が生じたわけである。違うのは、ヌビア地方は安定していたため呼応しなかったことくらいであった。現在は社会民主主義リビア・アラブ国となっている地中海沿岸地域は当時「チェヘヌ」と呼ばれており、土着のリビア人たちが住んでいた。その西方、現在のチュニジア共和国にはメシュウェシュ、リブ、セペドといったリビア系の部族がおり、彼らは地中海周辺で猛威を振るうようになっていた「海の民」に圧迫されていた可能性がある。今回の敵は彼らであった。リビア人たちは連合軍をつくって団結し、エジプトに向けて進軍を開始したのである。 だがチェヘヌから押し寄せる異民族の群を前にして、ラメセス3世は断固とした態度をとり続けた。 王は国内に非常事態を告げて国軍の動員を完了すると、防衛線となる砦の増強をはかる一方、果敢な野戦に打って出た。戦闘経験のほとんどない武装移民に対して、鍛え抜かれた正規軍をぶつけたのである。さらにリビア人移民たちは家族全員を引き連れ、家財のいっさいを馬車に積み込んで帯同していたため、戦場における動きに制限があった。 その結果、武装移民はなすすべなく壊滅し、多くの死者を残して退却していった。この経緯は、後年ラメセス3世が建造したメディネト・ハブの葬祭殿に物語調で記されている。「チェヘヌの民がやってきた。しかし彼らの意図は神意によってくつがえされ、つぶされた」といった、例によってラメセス3世の勇敢さと神の偉大さばかりが目立つ文面ではあるが、この事件は、衰えたとはいえエジプトの保有する軍事力がいまだ強大であるということをリビア人社会に印象づけたことは確かであった。これ以後6年間、リビア人の武力侵攻が鳴りをひそめたからである。 リビア人の武装勢力を撃退したことで、エジプトには再び平和が戻った。だが混迷するアジアの情勢はそれを許さなかった。苛烈な運命の女神は、内政を安定させようとするラメセス3世の願いをあざ笑うかのように、彼にリビア人侵攻以上の試練を与えようとしたのである。 紀元前1176年ごろ(治世8年目)、ラメセス3世は中東における歴史的事件に直面した。かつてエジプトと互角に渡り合い、古代オリエント世界の覇者の座を競い合ったヒッタイトがついに滅亡したという知らせを受けたのである。しかもそれが内乱によるものではなく、困窮した外部の民族が集結して武装化し、彼らが大規模な略奪・破壊活動をくり返したことが直接の原因だというのである。若きラメセス3世は激動する国際情勢の恐ろしさを肌で感じたに違いない。この武装難民が、世界史の謎のひとつである「海の民」であった。 エジプト側の資料である「大ハリス・パピルス」によると、「海の民」を構成する民族にはペレセト人(ペリシテ人)、チェケレシュ人(シチリア人)、チェケル人(トロイ人?)、シャルダナ人(サルデーニャ人?)などといったものがあったと記されていた。ミケーネ文明に壊滅的打撃を与え、さらにヒッタイトをも葬り去った武装難民連合と同じ集団と思われる。それが流れ流れて、ついにエジプトに狙いを定めたのである。 「『海の民』の侵攻近し!」という憶測は、エジプトの国内を大混乱におとしいれた。現在「大ハリス・パピルス」やメディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿などに残っている、「彼らはヒッタイトを蹂躙し、エジプトの転覆をもたくらんでいる冷酷な襲撃者である」という武装難民のイメージは、情報が決定的に少なく、また陸上交通の未発達により実態が伝わりにくかった当時の事情をよく反映しているといえる。まだ見ぬ「海の民」の姿に対して、エジプト国民は戦々恐々としていたのは確かなようである。 ところがエジプト人の焦燥をよそに「海の民」はシリアにとどまり続けており、なかなか動き出す気配を見せなかった。定住地を求めていた彼らは、シリアの各地を回りながら、好適地を探していたのかもしれない。その間にも、かつてエジプト領だったスムル、ビブロスなどが略奪され壊滅した。 だが結果的に、彼らのこうした行動が、エジプトとラメセス3世の運命を好転させることになった。王は「海の民」の侵攻に対して国軍の動員を完結させるだけの時間的余裕を得たし、武装難民の実態をつかむこともできたからである。パレスティナに駐留する軍の報告によれば、「海の民」は陸軍と海軍に分かれており、陸軍は牛車で家財を携行し、家族ぐるみで移動しているため行軍進度は遅く、また指導者たちの戦術的知識も取るに足らない。また海軍には遠洋航海能力のある軍船は少なく、ほとんどが漁船程度のものだという。 しばらくシリアを巡回していた「海の民」だったが、その一部が南下を始めたという情報が入った。ついに難民たちはエジプトへの進撃を開始したのである。シリア・パレスティナとエジプトとを結ぶガザ回廊(ほぼ現在のガザ地区に相当する)を通って殺到する陸軍に、大船団を組んだ海軍が呼応しているという知らせがペル・ラメセスの王宮に飛んだ。 この情報を受けたラメセス3世は、かねての計画どおり、迅速かつ的確に行動した。 ラメセス3世はガザ回廊への侵攻を予期しており、あらかじめ軍から最精鋭部隊を引き抜いて当地へ派遣し、駐屯させて国境を封鎖していた。陸路を南下してきた「海の民」はまともにこの先遣隊にぶつかることになり、両軍の間には凄惨な死闘が展開されたのである。戦場にはたちまち武装難民たちの遺棄死体が積み上げられたが、守備隊の損害も日を追って増加していく。ラメセス3世はみずから主力軍を指揮して救援におもむくかたわら、それまで守備隊に対しては、「栄光ある国家の浮沈は諸子にかかっている。現地点から一歩たりとも後退することは許さない」という死守命令を発したほどだったという。 戦史にはほとんど記述されないが、この先遣隊の奮闘こそが、エジプトを未曾有の国難から救った。彼らはラメセス3世率いる主力軍が到着するまで国境を守りきり、ついに「海の民」の大軍勢を一歩たりともエジプト領内には立ち入らせなかったのである。彼らの死闘があったからこそ、主力軍は戦場に到着するや即座に攻撃隊形に移行でき、国境を攻めあぐんでいた「海の民」を一気に蹴散らすことができたのだといえる。メディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿には、敵に打ちかかる王の姿が伝統的スタイルでひときわ大きく描かれており、この国難を克服した彼の自負心をかいま見ることができる。 しかし、ガザ回廊を守りきったからといって、「海の民」の脅威が完全に消えたわけではなかった。陸上部隊と呼応していたはずの大船団が地中海を西進し、デルタ地帯へと迫っていたのである。 ラメセス3世は休むいとまもなく、武装難民を追い払って意気上がる主力軍を率いて、もと来た道をとって返さなくてはならなくなった。彼は守備隊に防備の強化と残敵掃討を命じてから急いで出発したのだが、いかなる強行軍であろうとも人間の足が船に勝るはずはない。 そこで王は早馬を飛ばして、エジプト艦隊(といっても弓兵と軽装歩兵を乗せただけの船)には軽挙を禁じ、ナイル河口よりもやや内陸側に入った支流のひとつに布陣するように命じた。元来エジプト艦隊には戦闘経験がまったくなく、それでなくともエジプト人そのものが海を非常に恐れていたくらいだから、ラメセス3世はエジプトの腹中に敵をかかえるというリスクを冒してまでも、勝算のない海戦を避けて「海の民」に陸戦を強要したのであろう。あるいは、「海の民」は定住地を求めているのであるから、必ず内陸へのルートを模索するであろうと計算していたのかもしれない。 世界戦史においては、「敵を知り、己を知れば、百戦して殆うからず」(呉・孫武)という不朽の金言がある。確かな情報に基づいた敵情判断と自軍の戦力分析を正しく行えば、戦いに負けることはないという意味だが、ラメセス3世は図らずもこの要素をもっとも重視していたから、「海の民」の行動パターンと目的とをしっかりと把握し、またエジプト軍が海戦を不得意としていることを熟知したうえで、彼はナイル川の支流を利用した縦深防御という戦術を選択できたのである。デルタ地帯へと急ぐ道程で王は、狭い支流に敵の船団を誘いこみ、立ち往生させようと考えたのだろうと思われる。だが果たして「海の民」は支流に入ってくるかどうか?迂回されはしないか?成功するかどうかは、五分五分の確率だったといえる。ところが、ラメセス3世の判断は正しかった。「海の民」の船団は河口での上陸をあきらめ(河口にはパピルスの大群生があり、上陸地点を確保できなかったと考えられる)、支流に入ってきたのである。 それを迎え撃つエジプト艦隊の任務は、主力軍が到着するまでの時間稼ぎと、敵の船団をもっと奥へと誘いこむことだった。挑発に乗った「海の民」の船団は、操船技術すら未熟なエジプトの軍船など一気に押し破ってやろうと、非力なエジプト艦隊を追尾していったが、やがて川幅が狭くなり、身動きができなくなったことに気づいた。家財道具も家族も満載していた船団の動きは、当初からきわめて制約されていたのである。 だが、動きが止まったことで泡を食った彼らが見たものは、想像を絶する光景だった。いつしか河畔にはエジプト軍の軍旗が無数にはためいており、弓兵がいっせいに矢をかまえ、その後方には槍が林立していたのである。主力軍は「海の民」が誘いに乗った時点で進路を変更し、先に戦場に到着していたのである。ラメセス3世は不利な軍船での戦いを避け、陸軍国エジプトの底力を発揮させようともくろんだのであった。戦機が熟したと判断したラメセス3世は厳かに、全軍に攻撃開始を命じた。 河畔に居並んだ弓兵は、一斉射撃を始めた。雨のように飛来する矢は「海の民」の船団を大混乱に陥れ、逃げることも身を隠すこともできない彼らには無惨にもつぎつぎと矢が命中した。それまで逃げているだけだったエジプト軍船も引き返してきて、果敢にも甲板から矢を射かける。さらに河畔からはかぎ爪つきのロープが投げ込まれて陸側に引き寄せられ、浅瀬に擱座した敵船にはエジプト兵が躍り込んでは「海の民」の兵士を斬り倒していった。 そこでいかに凄惨な場面が展開されたか、想像するだけでも戦慄を覚えるほどである。罠にかかった「海の民」の船団はほぼ一方的に虐殺され、生き残った者は捕虜になった。メディネト・ハブの浅浮き彫りにはこの戦いの場面がドラマティックに再現されているが、エジプト軍の兵士はまるで陸地を進むかのように「海の民」の船に襲いかかっており、ここに、水上戦を陸戦に変えてしまったというラメセス3世の戦術を見てとることができる。壁画には追撃の場面が彫られていないが、小さな出来事として省略されたというより、エジプト軍はこの戦いにおいてほぼ完全に「海の民」を壊滅させてしまったため、追撃戦が起こらなかったのかもしれない。こうしてラメセス3世は祖国を守りきることができた。その殊勲と彼の卓越した戦術眼は現代にまで伝わっている。 だがラメセス3世は、この大勝利を個人の能力によって実現したものとは考えなかった。 敬虔なアメン神の信者でもあったラメセス3世は、自分の能力も地位も、さらにそれによってもたらされた勝利でさえも、すべてアメン神から与えられたものだと信じて疑わなかった。そのため「海の民」との戦いで得た戦利品も名誉も、いっさいをアメン神殿に奉納してしまった。そればかりではなく、多くの神官たちを政権に参画させ、アメン神官団の政治的発言権を高める努力までしたのである。敬虔な王にとってこれは当然の行為だったかもしれないが、歴史的にみればこの行動は間違っていた。 そのことが証明されるのは、彼の死後80年以上が経過した後である。 →写真についての解説はこちら 3.繁栄に落ちる暗い影 ラメセス3世の治世前半は、まさに祖国防衛戦争の連続であった。緊迫の度を加える国際情勢に対処するために、彼はつねに戦いの日々を送らざるを得なかったのである。「海の民」を撃退してからわずか3年後、再びデルタ地帯の西側が危機におちいった。 このときから6年前、リビア人たちは定住地を武力でもぎとるべく蜂起して国境地帯に押し寄せたが、ラメセス3世の断固たる防衛政策によって撃退された。だが移住そのものは完全に排除することはできず、デルタ地帯の西方ではリビア人の移住が断続的に続いていた。「海の民」に圧迫された影響もあってか、その流れは衰えるどころか年ごとに大規模になっており、デルタ地帯の西半部はすでにリビア人住民で満たされるほどになっていたのである。 これを重くみたラメセス3世は、再び国境の砦を強化するように命じた。移住者のあまりの多さに、リビア人の出入国管理を厳しくしようと考えたのだろう。しかし、これは6年前の繰り返しだった。国境線を挟んだ移動が制限されることを恐れたリビア人の諸部族が再び連合し、武装化する動きを見せたのである。 今回も部族連合の中心になったのは、現在のチュニジアに住んでいたメシュウェシュ族だった。彼らはもっとも移住に熱心で、デルタ地帯西部の中心都市サイスの付近にはすでに大きなメシュウェシュ族社会が形成されていた形跡があるくらいである。ちなみに、このときから約230年後に第22王朝を創始することになるシェションク1世はメシュウェシュ族の指導者のひとりであった。 しかしながら、リビア人たちは6年前の戦訓から何も学ばなかったようである。彼らは国境の砦を押しつぶすべく大軍をもって守備隊に襲いかかったが、家財道具を満載した馬車や家族、家畜のすべてを延々と引き連れており、迅速な部隊機動が不可能な状態にあった。リビア人たちは以前の侵攻の際にも足手まといな非戦闘員を帯同していたために長蛇を逸した経験があるにもかかわらず、再び同じことをくり返してしまったのである。 新天地を求めて武装し、国境の砦を突破するために大軍をもって攻めかかったリビア人だったが、迅速な行動を封じられていたためエジプト軍に包囲され、惨憺たる敗北に終わった。遺棄死体は2000体を超えたといわれ、エジプト軍は多数の捕虜と家畜、家財道具などの戦利品を獲得するという結果となったのである。ここでの戦利品もまた、アメン神官団のふところを満たすに足る寄進となったことは疑いがない。歴史的にみればこの事件は、リビア人に武装侵攻を断念させるほどの教訓となり、彼らが穏和な浸透による定住へと方策を転換する契機となったのである。 ともかく、ラメセス3世はこのリビア人侵攻を最後に、ようやく真の平和を手にすることができたといえる。これ以降も彼はヌビアやヒッタイトなどに遠征したと記録されているが、ヌビアでは総じて平和が保たれており、さらにヒッタイトがすでにこの世に存在していなかったという事実からみても、これらは創作、もしくはラメセス2世の業績録からの模写のようである。実際、ラメセス3世は自分と同名のこの英雄を崇拝しており、どうにかして偉大な先祖と自分を関連づけようとしていたふしがある。またそればかりではなく、彼は当時の繁栄を取り戻そうと日夜苦闘していたのである。 その象徴となるのが、第20王朝がほぼ唯一、現代に残すことができた巨大な文化遺産でもあるメディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿であった。 メディネト・ハブとはアラビア語で「ハブの街」という意味をもち、廃墟が整然と並ぶ外観はまさに無人の街を思わせる。メディネト・ハブはテーベの対岸に葬祭殿が4つ並んだうちのもっとも南側に位置しており、かつてここには第18王朝のトトメス3世が建てた小規模の神殿があった。 ラメセス3世はこの土地に巨額の費用と数万人の労働者を注ぎ込み、第20王朝の繁栄と自身の栄光を体現するかのような葬祭殿の建造を始めたのである。それから数年の工期を経た結果、もともとあったトトメス3世の小神殿はそのままの形で周壁の中に取り込み、塔門、中庭、列柱室、そして至聖所など、カルナック神殿やルクソール神殿と共通の構造を有する巨大な神殿が完成した。この神殿は文書の中で、「アメンの神域において永遠と合一した、ラメセス3世の百万年の館」と名づけられている。 この建造物には葬祭殿としての設備以外にも、さまざまな用途のために使用されたことを裏付ける設備が確認されている。神殿遺構の西側に残された居住区と謁見の間、さらに「臨御の窓」はその最たるものであろう。「臨御の窓」とは王が祝祭日などで国民の前に姿を現す場合に、顔を出すための窓だとされている。こうした設備は葬祭殿には本来不必要なものであり、ラメセス2世の「ラメセウム」以降、葬祭殿の役割が多様化したことを物語ってもいよう。また意識して外壁に描かれたレリーフには「海の民」との戦いをはじめとするラメセス3世の業績を記録したものが多く、王の権威を広めるための宣伝施設を兼ねていたことも特筆に値する。 こうして平和を取り戻し、安定を勝ちとったはずのラメセス3世治下のエジプトだったが、その晩年に意外な落とし穴が待ち受けていようとは、彼も想像できなかったことだろう。 ラメセス3世の最晩年のある日、老王は知らせを受けて顔色を変えた。自分を暗殺しようという計画が密かに進行中であり、それが未然に露見したというのである。だが王をもっとも愕然とさせたのが、その計画が宮廷の内部で仕組まれていたということだった。 主犯格は、下位の王妃のひとりであるティイという女だった。彼女とラメセス3世との間にはペンタウラーという王子がおり、聡明であり君主としての資質も充分な息子だったと考えられる。ティイ王妃はペンタウラーを次期の王位につけたいと熱望していた。正式に王位を継承した人物の母は「王の母」という尊称をたてまつられ、宮廷内で絶大な権力を獲得できるからである。 ラメセス3世には数多くの息子と娘たちがいたが、それはメディネト・ハブに設けていたハーレムによるものだった。第1王妃だったイシスはのちのラメセス6世の母となるが、彼女のほかにも王は数人の側室をかかえており、アメンヘルケプシェフやカエムワセト、パラヒルエンエムエフなどといった息子たちも得ていたのである。だが王子たちは長生きだった父より長く生きることができず、王の治世末期にはそのほとんどがこの世を去っていた。ペンタウラー王子にも王位継承の資格はあったが、産みの母の身分が低いというだけで、正式な王位継承者はティティ王妃(ラメセス3世の実娘でもある)が産んだラメセス王子(のちのラメセス4世)に決まっていたのである。王を暗殺したとしても王位を得られるとは限らないのに、このような凶行に及んだティイ王妃は息子かわいさ、そして権力への欲望に勝てなかったのだろう。 暗殺を計画した一味は間もなく逮捕され、裁判が始まった。 エジプトにおける裁判のほとんどは、宰相が取りしきっている。だがこのように国家転覆を狙うような重大な犯罪に対しては、王自身が審理することになっていた。死刑を宣告する権利が王にしかないからでもある。今回の暗殺未遂事件ではラメセス3世が取り調べの段階から関わっており、異例中の異例ともいえよう。 それと同時に王は裁判記録を歴史資料として後世の教訓に資するべく、公式の記録とは別の文書として記録するように命じておいた。この記録が現在でもわれわれが目にすることができる『後宮陰謀パピルス』と呼ばれるパピルス文書で、3つに分割されてしまっている(それぞれ別の場所に保管されている)が、その最長のものが「裁判パピルス」であり、この事件のあらましが記録されていたのである。「裁判パピルス」によると、裁判は合計4回の公判を経て結審している。だがこの裁判に熱心に取り組んだはずのラメセス3世は、結審を待たずに病没してしまったらしい。当初は王の呼び名が「ウセルマアトラー・メリアメン」(ラメセス3世の即位名)だったのが、途中から「偉大な神」に変わっているからである。裁判の進行は、後を継いで即位した息子のラメセス4世が取りしきることになった。ラメセス4世はこの裁判にあたり14名の裁判委員会を任命した。彼らの内訳は9名が官僚、2名の書記、2名の軍人、そして広報官1名である。 第1回公判において、もっとも罪状が重い首謀者グループが訴追を受けた。取り調べの段階でこのクーデターが王宮内のものだけにとどまらず、別の反乱陰謀とも連携するという周到かつ狡猾な計画だったことがわかり、合わせて40名以上の人間が加担したとして裁判を受けたのである。第1回の公判ではこのうち王宮内の計画が審議され、首謀者であるティイ王妃を含む28名が死刑と宣告された。彼らは王宮内に勤務する衛兵や執事、書記などといった連中で、国中を揺るがす大疑獄事件に発展したわけである。 第2回公判では6名が審理され、判決文を読み上げられた直後に、法廷内で自決するよう強要された。この措置にはおそらく身分の高さがかかわっていると思われる。第1回の28名はそこそこ身分も高く、その死に際しては名誉も考慮されたのだろうが、第2回の6名は身分が低かったため、その場での刑執行となったのかもしれない。 第3回の公判では中でも罪状が軽い4人の被告が裁判を受けたが、その中には母にそそのかされたペンタウラー王子が含まれていた。王の血統の名誉を汚さないようにするためだろうと思われるが、彼はメセドスラー(ラーは彼を憎む)という偽名で記録されている。王子はただその純真な性格ゆえに母に従っただけなのだろうが、この4名もまた自決の刑を受けた。ただし執行は即時法廷内ではなく、刑場で行われたらしい。これで、事件の裁判そのものは終わった。 第4回公判は、この裁判に関連して行われた不正に関するものである。なんと、王に任命された裁判委員会そのものが不正を行っていた罪で5名が告発されたのである。彼らが審理中に被告数人と情誼を結び、司法取引を行おうとしたことが判明して取り調べを受け、1名を除く4名が有罪になった。刑は鼻および耳を切り落とすという身体刑だったが、被告のひとりは執行前に自殺している。 こうして裁判は終わったが、この事件は第20王朝の繁栄に暗い影を投げかけた。救国の英雄であるラメセス3世はそれ相応の繁栄を手にし、人間としても充実した生涯を送ったことだろうが、人生の最後で起こったこの事件に関して彼は自問自答し、かつ落胆しながらこの世を去らなければならなかったのである。 →写真についての解説はこちら |
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| 第3節 ラメセスたちの84年 | |
1.ラメセス4世の願い 老王ラメセス3世は、紀元前1153年ごろ、失意のうちに世を去った。彼の正確な年齢は不明だが、30年以上もの在位を誇る彼はおそらく60代〜70代という長命に達したことは確実だろう。だがこうした場合、長命だった王はその代償として、例外なく後継者問題に悩まなければならなかったのである。かつての第19王朝ではラメセス2世の長命のため後継者が払底し、結果的に衰亡を避けることができなかったのがその先例である。 平均寿命がわずか35歳という古代エジプトにおいては、王族に名を連ね、王宮にあって比較的給養がよかった王子たちといえども、その寿命にあっては五十歩百歩であった。父ラメセス3世が最期の病床にあったとき、参集したのはわずかな兄弟たちだけだったと思われる。その中で男子は4名おり、すべてがラメセスという名前だった(長兄以外は、それぞれ別の通称を名乗っていた)。 その4兄弟のうち、当時は長兄であったラメセス4世(在位前1153年頃〜前1147年頃)が父の後継者として即位した。ラメセス4世の母はティティ王妃であり、実の姉でもあった。異母兄たちがつぎつぎと世を去っていくといった環境のもとで彼は成長していき、即位当時は10代後半か20代前半になっていたと思われる。即位して最初に行った「王としての」仕事は父を埋葬することと、反逆者の裁判を継続することだったが、こうした経験が、彼をして生への執着を示させる要因となったことは想像に難くない。 ラメセス4世は、かつて祖国エジプトがオリエント世界に君臨し、超大国としての栄誉を独占していた時代を再びわが手で取り戻したいと望んでいた。そのため、彼の業績のほとんどは軍事遠征であった。 だが当時は国際的にも停滞していた時期であり、ラメセス4世がみずから軍隊を率いて戦うような相手は、エジプトの周辺にはいなかった。それでも軍事遠征の美名にこだわる彼は、まるで中王国時代の王のような、石材調達のための遠征をするために軍を動員するよりほかなかった。良質の大理石を産出することで有名だったワディ・ハンママートへは多数の労働者を引き連れた軍を派遣したり、シナイ半島のセラビト・エル・カディムへはトルコ石の採集隊を編成して送ったりしているのである。しかし、ラメセス4世の業績として現在でも形として残っているものでは、やはり「大ハリス・パピルス」の編纂事業を特筆しないわけにはいかない。本書が存在したからこそ、われわれは第20王朝初期の歴史を詳細に知りうるのである。 「大ハリス・パピルス」の名は、このパピルス文書を最初に購入したアレクサンドリアの大富豪A.C.ハリスの名前に由来する。全長約41メートルにもおよぶこの長大な文書は1885年にデイル・エル・メディーナの私人墓から発見されたもので、ラメセス4世が即位したと同時に編纂が始まっている。その資料性の高さゆえに当初から注目されており、現在は寄贈を受けた大英博物館が所蔵している。 その内容は敬虔な宗教家でもあったラメセス3世が、31年という長い在位期間のうちに行った神殿への寄進をこと細かにリストアップしたものである。全部で117個ものコラムに分かれており、およそ6つの章に分類して編集されている。第1章から第3章まではラメセス3世がとくに重要視したカルナックのアメン神殿、ヘリオポリスのラー神殿、そしてメンフィスのプタハ神殿に対する寄進で占められている。第4章はその他の神殿に対する寄進記録、第5章はエジプト全土の神殿リストであった。 重要なのは第6章で、ここには第20王朝の起源とラメセス3世の業績が詳細に記載されているのである。その大部分は王としてのラメセス3世がいかにすぐれた政治家であり、精強な軍人であったかを称賛する内容であった。息子であるラメセス4世は偉大な父の威徳をしのび、その栄光の一端にあやかりたいという願いから文書の編纂を命じたものと思われる。われわれ後世の研究者にとって、こうした極めて信憑性の高い資料の存在は古代エジプト史への扉を開くものであったといえよう。 こうして見てくると、ラメセス4世という人物は誠実に繁栄を希求し、自分に課せられた天命を必死で果たそうと真摯に生きた王であったことがわかる。 だが、彼が心から望んでいたものの第一は「長寿」であった。父の長命にあこがれた彼は、アビュドスのオシリス神殿に詣でた際、自分の即位4年の記念碑に「私に、父と同じような年齢と長い治世期間を賜りますように」という祈願を書きつけたほどである。それなのに、神は彼の切なる願いを聞き入れてはくれなかった。祈願文を書きつけてからわずか2年後に、かの誠実な青年はこの世を去ってしまったのである。 →写真についての解説はこちら 2.無能なラメセス6世 当時は長兄だったラメセス4世の死後、その後を引き継いだのは次兄のラメセス5世(在位前1147年頃〜前1143年頃)であった。 記録によると、ラメセス5世の治世中に内戦が発生したらしい。以前の陰謀事件でも摘発されなかった反政府組織が起こしたものか、外国勢力によるものかどうかは謎だが、国内は治安が失われ、都市住民の中からは不安な政情に恐れをなして避難する者が続出した。すでに掘削が始まっていたラメセス5世の墓掘り労働者たちも、戦禍をのがれて建造を中止したと記されているくらいである。歴史的に見るならば、これはエジプト新王国の屋台骨がすでにぐらつき、王の支配力が衰退していたことを物語る事件だったといえる。 この内戦がどのように収拾されたのかも、また不明である。 ただ確実なのは、この直後にラメセス5世は在位4年にして王位を去り、代わって弟のラメセス6世(在位前1143年頃〜前1136年頃)が即位していることである。ラメセス6世の業績記録によれば、王は即位2年目に兄ラメセス5世の葬儀と埋葬を行ったということになっているが、これは奇異な感じを受ける。 エジプトの王には原則として退位という風習がなく、先王の死によってのみ新王はその地位を継ぐことができるのである。新たな王は先王の威徳を継ぐために葬儀を大々的に挙行し、先王が確実に死後の復活をとげられるように、70日以内に遺体の処理をして埋葬するよう定められている。だから、ラメセス6世が即位2年後に兄を弔うというのは奇異なのである。もしかしたら、ラメセス5世の在位中に起こった内戦は弟による反政府クーデターであり、それによって兄は退位させられたのかもしれない。その際弟は、血を分けた肉親でもある王を殺害するにしのびず、どこかに幽閉したのだろう。 退位させられたラメセス5世は、その2年後に死んだ。彼の墓は弟によって転用されたためどこに埋葬されたのかは謎だが、遺体はアメンヘテプ2世王墓に隠されているのが見つかった。彼の顔面には無数のあばたが残っていたので、直接の死因は天然痘ではなかったかと思われる。 兄を追い出して王位を獲得したラメセス6世だったが、その政策には見るべきものがない。彼は権力にのみ目がくらんで、王として当然為すべき政治のビジョンを持っていなかったのかもしれない。政情不安は去ったものの経済活動は以前にもまして停滞し、周辺諸国との交易も衰退して深刻な不景気に陥ったと考えられる。しかし王はそうした国民の状況に目を向けることもなく、兄が建造途中で放棄した墓の拡張工事に熱中するばかりだったという。 こうした無能な王のもとで、エジプトの領土は確実に失われていった。かつて苛烈な征服政策によって領土を拡張していたアッシリアは、この当時衰えていた。有力な貿易相手国であったヒッタイトがこの世から消滅して構造的不況に陥ったためである。また首都をアッシュールからニネヴェに移したものの、その後の王があまりにも無策だった。 それと同時に、アッシリアの後塵を拝する形になっていたバビロニアが勢力を盛りかえしてきた。古バビロニア王国最後の王でもあるネブカドネザル1世は起死回生の軍を起こし、アッシュールに攻め込んでアッシリアを屈服させたのである。ネブカドネザル1世はその余勢を駆ってパレスティナにも侵攻し、諸国を保護領化してエジプトの支配から奪い取ってしまった。これにより、エジプトの領土は新王国時代の開始前の状態に戻ってしまった。それでもラメセス6世は逆襲の軍を動員することはなかった。あたかも、ネブカドネザル1世がアッシリア、エジプト両国の君主が無能だということを知っていたかのようである。 ラメセス4世が夢を抱いて遠征軍を送り込んだシナイ半島のセラビト・エル・カディム鉱山は放棄され、ラメセス3世が「海の民」から必死に守り抜いたパレスティナの交易路までもが、ラメセス6世の無能によって失われてしまった。このように外交に対するあまりの無関心さは、周辺諸国に対するエジプトの名声を大きく傷つける結果となったばかりでなく、民心が王権から離れる原因を作ったのである。 商業が衰退したことにより、エジプトの経済は下降した。だがそれでも、ラメセス6世は自分の墓をきらびやかに飾ることを中止することはなかった。アーチ構造をもつ玄室には美麗な壁画が描かれ、天井には壮大な天体運行図が彫り込まれている。さながら玄室そのものが、墓の形をした美術館ででもあるかのようである。この墓はもともと兄ラメセス5世が自分のために造営を始めたものだったが、弟であるラメセス6世が横取りして拡張したのである。 ラメセス6世にはさらに年の離れた弟がおり、同じラメセスという名前だった。伝統的な王位の継承順によれば、ラメセス6世が亡くなればその弟が王位を継ぐことになる。それなのに、従来の風習を無視して兄を退位させた前歴をもつラメセス6世は、後継者に関する伝統までも無視して、次期ファラオの地位を自分の息子に与えると宣言したのである。これはいかにも異常なことであり、伝統の上に立脚しているはずの王位は彼によって辱められたのだ。みずからの家門繁栄だけを望んだ暴挙と言わざるを得ない。 そうしたラメセス6世も、生命を永らえることはできなかった。彼は病を得て、わずか7年余という短い在位期間で没したのである。その遺体は、彼が心血を注いだ王墓に埋葬された。 しかし、その眠りは長く続かなかった。王家の谷に位置する墓の中でも、彼の墓は非常に早くから墓泥棒に入られたようで、1820年にイギリス人考古学者ジェームス・バートンによって初めて学術的調査が行われた際も、副葬品は根こそぎ奪われて空っぽの状態だったばかりでなく、玄室の中央に安置された石棺は無惨にも打ち砕かれていた。 その後、ラメセス6世のミイラは1898年にアメンヘテプ2世王墓の隠し場所から見つかったが、あまりにも無惨な状態に、立ち会った人々は目を疑った。墓泥棒のしわざで遺体が斧でずたずたに引き裂かれたらしく、隠し場所に移した神官たちによって板に乗せられ、どうにかして修復されたようである。だがその医学的知識には問題があったようで、王の左手位置には別の女性の右手が縫い合わされ、右腕はほとんどが別の男性のものにすり替わっていた。さらに頭の位置には彼の寛骨と骨盤の一部が配置されていたのである。 →写真についての解説はこちら 3.消えゆく王の権威 ラメセス6世のミイラを豪華な王墓に葬ったのは、彼の息子であるラメセス7世(在位前1136年頃〜前1129年頃)だった。 ラメセス7世は叔父を差しおいて即位したという点で特筆されるべき王である。彼も父と同じ7年の間、王位にあって国政を担当したが、彼の治世に関する公式な記録は何ひとつないのである。幼かったために親政を行うことができなかったという可能性も、じゅうぶん考えられる。 政治に関する公式な記録はないが、デイル・エル・メディーナの職人村から、ラメセス7世の治世時代のものと思われるパピルス文書が見つかった。この文書はある家庭の金銭出納簿のようなもので、それには物価が急上昇してしまって生活が苦しくなったことや、地域経済が不振に陥ったことなどが記されていた。ラメセス3世の治世時代以降、エジプト王国の政治的・経済的中心部は北部のデルタ地帯に移ってしまい、デイル・エル・メディーナといったテーベ付近との地域格差は広がる一方だったと考えられる。こうした地域格差が、住民たちに政治的疎隔感を与えていたのであろう。 ラメセス7世は紀元前1129年ごろにこの世を去ったが、それでも伝統に従って、彼が念頭に置くこともなかったであろうテーベの王家の谷に葬られた。彼の墓は王家の谷の学術的調査が始まったとき、最初に調査の手が入った歴史的にも重要な遺跡もである。KV1(1号墓)という遺跡番号にもそれが現れている。だが玄室にはすでに何もなく、他の場所に隠された形跡もない。ラメセス7世の遺体は今でも行方不明である。 甥を継いで王位にのぼったラメセス8世(在位前1129年頃〜前1126年頃)は、およそ3年間しか王座を占めることができなかった。彼はラメセス3世の最後の息子であり、即位当時は少なくとも24歳にはなっていたと思われる。先王ラメセス7世とは同世代か、やや年上だったのではないだろうか。 彼の3年という短い治世期間では、この世にほとんど何も残すことができなかった。 紀元前12世紀後期という時代は、劇的な事件がなく記録も乏しい、世界史的にも停滞した時期にあたる。ラメセス8世はそうした時代にあっていかなる政治を行ったのか、記録がほとんどないので不明というほかはない。もしかしたら彼は生まれつき障害をもっていて、親政を行うことができなかったのかもしれない。王位の継承順が後回しにされたのも、彼の身体的障害を裏付けているともいえる。 おそらく若くして亡くなったラメセス8世は、第20王朝において在位した10名の王たちの中で唯一、王墓が見つかっていない人物である。そのため彼の生前の姿をこの世にとどめるものは、何もない。 早世したラメセス8世の後継者は、ラメセス6世の次男であるラメセス9世(在位前1126年頃〜前1108年頃)である。彼は18年間という長期政権を維持したという点で、父をはじめ短命に終わった王たちとは一線を画する存在である。だが、記録がほとんどないという点では、他の王たちと何ら変わることがない。 ラメセス9世は国家経済浮揚の梃子入れ策として、公共事業による地域経済活性化をおもな政策としたようである。だが潤沢な国家予算はヘリオポリスの太陽神殿の修復事業に投入されるばかりで、ナイル川上流、いわゆる上エジプトに対しては経済的支援が行き渡ることが少なかった。テーベにおけるラメセス9世の事業はほとんど王墓の建設のみに限られている。おそらく彼はテーベに足を運んだことすらなかったのではないだろうか。第19王朝の創始により政治的中心地がデルタ地帯に移って以来、もともと南北に長い国土をもつエジプトにおいては地域格差を避けることはできなかった。首都ペル・ラメセスから遠く離れたテーベといった地方では南の宰相が地方長官の役割を果たし、あたかも宰相がテーベの王であるかのようだった。かつてエジプトの王は神より与えられた神聖なる能力により国政を行う存在、つまり神そのものだった。だがその神が遠い北の地に去り、姿も見せなくなってからは、国民の間での王権は神権とは乖離したものになりつつあったのである。その一方でテーベを統治する宰相はあくまで政治家であり、王権を象徴する存在でしかなかったから、住民たちはこの地方長官にカリスマを感じなくなっていったわけである。 そうした中で、ラメセス9世によってカルナック神殿のアメン大神官に任じられたアメンヘテプという人物は、まさに時代の象徴であるといえる。彼は大神官としてアメンの代理人を称し、その神託はテーベの地方自治を左右するほどの権威をもっていたという。カルナック神殿の一角には彼のレリーフがあるが、王位を象徴するカルトゥーシュこそないものの、その姿は王そのものであり、自分が王と同格の政治的権力を有することを暗に示しているととれないこともない。おそらく大神官アメンヘテプは20年以上という長期間にわたって、この絶妙な地位に君臨したはずである。歴史的にみれば、彼が築いた神権政治の基盤は、のちにエジプトの統一政権を崩壊させる一因となった。 ラメセス9世が行った18年間もの統治において、エジプトには特筆すべき事件が起こらなかった。というより、記録がほとんど残されていないのである。ラメセス9世の姿は彼の王墓にいくつか見られるものの、生前の彼がどんな人物で、どんな業績をこの世に残したのか、不明な点があまりにも多い。 王位を引き継いだラメセス10世(在位前1108年頃〜前1099年頃)に至っては、もう誰の息子なのかも定かではない。おそらくラメセス9世の息子と思われるのだが、確証が何もない。在位期間も記録によっては3年から9年まで幅広く、もちろん人物像もまったくわかっていない。ただしヌビアのアニバという町に残された碑文によれば、彼は何らかの国家事業をこの地で行っていたようだ。そのため実在性だけは疑いようがないといえる。 ラメセス10世はセティ1世王墓の近くに埋葬されたが、損傷が激しいためいまだに充分な調査が行われていない。彼のミイラはどの隠し場所にも移された形跡がないので、今でも彼は自分の墓に眠り続けている可能性もある。もし近いうちにラメセス10世の墓が調査されれば、彼の詳しい人物像やそのレリーフ、さらには当時の政治状況なども判明するのではないだろうか。 →写真についての解説はこちら 4.新王国の終わりとラメセス11世 出自不明のラメセス10世を継いで王になったのは、これも誰の息子なのかわからないラメセス11世(在位前1099年頃〜前1069年頃)であった。おそらく、彼もラメセス9世の息子なのではないかと推測する。 ラメセス11世の治世期間は30年にも及んでおり、ラメセス3世の後継者として在位した8名の王たちがエジプトを統治した全期間のうち、実に約36%を占めるほどの長きにわたっている。だが驚くことに、ラメセス11世はこれほど長い在位期間を誇りながら、その人物像や業績など、生前の彼を伝えるものがほんの数えるほどしか残っていないという不思議な王でもあるのだ。かつて在位94年を誇りながらも、ほとんど記録に残ることなく忘れ去られた第6王朝最後の王ペピ2世の再来であるかのようである。 紀元前11世紀前期のエジプトは勢力も衰え、経済的にも苦しくなり、あたかもペピ2世が在位した紀元前23世紀と同様、停滞期のようでもある。だがペピ2世の当時と決定的に違うのは、王権の衰退とは無関係に、政治がめまぐるしく、かつドラマティックに展開していたということである。その主役となるのは、「兵士たちの偉大な指導者」(国軍総司令官)の要職にあったヘリホルという軍人官僚である。 ヘリホルの活躍を論ずる前に、まず首都ペル・ラメセスから遠く離れた古都テーベの状況について紹介しなければならない。 カルナック神殿の権威は年を追うごとに高まり、ラメセス9世によって任命されたアメン大神官アメンヘテプは一度も任期を更新することなく、ラメセス11世の即位後もさらに10年以上もこの要職に居すわりつづけていた。大神官アメンヘテプはテーベにおいて王のように振る舞ったばかりでなく、上エジプトの支配権すら事実上手にしていたのである。このため本来の王であるはずのラメセス11世は、下エジプトだけの王になり果てていたのである。 そんなとき、ラメセス11世の治世12年目(紀元前1087年ごろ)に事件が起きた。ヌビア総督(「クシュの王子」ともいう)の地位にあった将軍パネヘシが軍を率いていきなり北上し、テーベを占領して神殿の領地を没収してしまったのである。パネヘシが国の将来を憂えてとった行動か、逆に支配権奪取の機会を捉えて勇躍テーベに攻め入ったものか、その目的は今でも定かではない。ただテーベは意外と脆弱で簡単に陥落してしまい、長年にわたり支配権を握ってきた大神官アメンヘテプもあっさり失脚したことは事実である。アメンヘテプは命からがらテーベを脱出し、ナイル川沿岸の都市ハルダイへと亡命した。 パネヘシはヌビア兵を率いてテーベに入城し、南の宰相を追い出して支配権を確立すると、アメン大神官まで兼務して事実上のテーベの王となった。ラメセス11世はこの事態を憂慮したが、討伐するための兵力も資金もなかったためこの行為を追加公認し、逆賊に対し「王の代理人」の称号を付与せざるを得ないという屈辱を受けなければならなかったのである。これもすべて第20王朝の権威が衰えたために、国土が南北に長いエジプトの中央集権が、機能不全を起こしたからに違いなかった。 神殿領を接収し、それをヌビア人の退役軍人用邸宅用地として分け与えたパネヘシだったが、彼は生来の軍人であるため宗教界をまったく理解できず、アメン大神官としての職務をおろそかにすることが多かった。そのせいで彼はテーベ市民の支持を獲得することができず、在任7年目にして統治までが行き詰まってしまった。 これを好機と考えたのが、総司令官のヘリホルだった。彼は以前に、当時のアメン大神官だったアメンヘテプの娘と結婚し、正式に大神官の後継者になっていたのである。ヘリホルは満を持してラメセス11世に進言し、パネヘシ討伐の裁可を受けると、総司令官の職権を利用して軍隊を大動員し、討伐軍司令官には自分の息子のピアンキを任命した。ヘリホルにとっては義父の汚名をそそぐ絶好の機会であり、また合法的にテーベに乗り込むための口実を得たのである。討伐軍司令官として着任したピアンキは、若干の軍を率いてメンフィス(第20王朝末期の宮廷はメンフィスに移っていた)を出発し、テーベに到着するやいなや強引に城門を破って市内に突入、全域を占領することに成功した。パネヘシはヌビア兵だけに守られてテーベを脱出し、策源地であるヌビアへと落ちていった。荒々しく攻め入ったデルタ地帯の兵士たちは血の気が多かったが、テーベの市民はパネヘシの支配に不満をもっており、ピアンキ率いるエジプト軍は解放者として大歓迎を受けたのである。 軍司令官ピアンキは現地のテーベ兵の配属を受けると、戦果をさらに拡大し、かつ後顧の憂いを絶つためと称して、勇躍南に向けて進軍を開始した。エドフ、エレファンティンなどでエジプト軍を迎え撃ったヌビア軍だったが連戦連敗、パネヘシはついに本拠地でもある、ヌビアの総督府所在地アニバへと逃げ込まざるを得なかった。 ピアンキはこれを追ってアニバに迫ったが、包囲はしたものの城門を破ることができず、ついに包囲を解いて撤退してしまった。その理由はさまざま考えられるが、敵地において補給が続かず、糧食が尽きたために作戦を断念しなければならなかったというのが実情だろう。実際ピアンキは兵士の待遇と糧食にはたいへん気を使っており、その証拠に、従軍したテーベのある書記官は前線にあっても糧食の面で困ったことはなく、逆に潤沢な給与のおかげで病気が治ったという手紙を家族に送っているほどなのである。 だがこの失敗が、エジプトおよび第20王朝の運命を大きく変えた。包囲に耐えきって命を長らえたパネヘシがヌビア王を僭称し、事実上のヌビア独立を宣言したからである。第17王朝末期および第18王朝初期にエジプト領となり、豊富な鉱産資源と価値ある物産の供給地としての地位を500年間守ってきたヌビアは、この時点をもってエジプトから失われたのである。パネヘシの王家はすぐに衰退し、代わってナパタの王家が実権を握るようになるが、記録がまったく残っていないため、この先のヌビアの情勢は完全に歴史の闇に閉ざされることになる。 だが短期的に見れば、ピアンキはヌビアの討伐に失敗したものの、聖都テーベをエジプトの手に取り戻すことには成功した。テーベ奪回の偉功により新たに南の宰相に任じられたヘリホルは、テーベに着任してすぐにカルナック神殿のアメン大神官に任命され、さらに有名無実化したとはいえ「エジプト三長官」のひとつであるヌビア総督(クシュの王子)をも自称した(正式に任命されたという証拠はない)。まさにヘリホルはメンフィスに君臨するラメセス11世の化身であり、同時にテーベに君臨する唯一の最高権力者になったのである。総司令官の職は息子のピアンキに譲ったが、それでもヘリホルの家系だけでエジプトの三長官をすべて独占するという異常な状態になったわけである。 こうしてテーベの実権を握ったヘリホルだったが、位人臣を極めた官僚にとってはまだ、ファラオという最終目標が残っていた。いかに謹厳実直な彼の脳裏にも、いにしえのアメンエムハト1世やラメセス1世の成功例は当然、念頭にあったと思われる。 ところがヘリホルは、そうした野望を表に出そうとはせず、ひたすらラメセス11世の権威に服従する立場をとり続けた。当時のエジプトはヌビアの失陥によって経済的に苦しくなったとはいえ、消えかかってはいても王権にはまだ国民をまとめ、生活を律するだけの力があった。ヘリホルはこの情勢を機敏に読みとったうえで、過激な行動を戒めたと思われる。むしろ息子のピアンキは激しい性格の男で、総司令官の要職にありながら、たびたび王の寝首を掻こうと計画していた。テーベへの巡幸に出かけたラメセス11世を見送ったピアンキが、デイル・エル・メディーナの書記に、王のテーベでの行動について逐一報告させていたとみられる手紙も発見されている。 だが、王権に対し面従腹背だったのは、父のヘリホルも同様だった。ただ彼は慎重だっただけである。 しかしながら、寄る年波には勝てないものである。ラメセス11世には娘しかおらず、後継者問題はいつも宮廷の懸案課題だった。子供を欲しがらない主君をずっと見ていたヘリホルは、これで第20王朝の血統も終わると密かに目論んでいた。だがラメセス11世は自分よりもはるかに年下である。血統が絶えれば国内第二の実力者である自分にファラオの地位が転がり込んでくるのはもはや確実とみられたが、それはラメセス11世がこの世を去った場合しかない。それまで自分の死の瞬間が、それを待っていてくれるとは限らないのだ。 苦悩の末、ヘリホルはついに決断した。テーベの王を称し、独立すると宣言したのである。ラメセス11世の即位20年目、紀元前1079年ごろのことだった。 ヘリホルはさっそくテーベに政府を組織し、官僚機構を整えた。公式文書の日付は紀元前1079年をもって紀元元年とし、その紀元を「誕生のくりかえし」と呼ぶことにした。さらに彼は自分が王として神に認められたということを市民に示すために、コンス神殿の外壁に巨大なレリーフを彫らせた。それは歴代の王たちと同じサイズであり、もちろん別の場所にあったはずのラメセス11世像とも同じサイズである。そればかりではなく、彼は神殿前庭の自分のレリーフにカルトゥーシュを彫らせた。これは歴然とした王位の僭称であり、義父アメンヘテプですらも踏み切らなかった伝統への挑戦であった。 ところが、この動きに対してエジプト政府が何らかのアクションを起こしたという記録は、なぜか残っていない。むしろ、これもまた追加公認した形跡が見られるのである。もしかしたらラメセス11世は、遠く離れたテーベで権力を欲しいままにしていたヘリホルの野望を、薄々ながら知っていたのかもしれない。逆にそれを利用して、テーベにおける王権の回復を狙っていたともいえよう。ヘリホルも王位を僭称したとはいえ、南からの統一を達成すべく進軍を命じるわけでもなく、実に微妙な力関係を維持する形で、互いの支配権を認めていたのである。 こうしてエジプトは分裂し、500年も続いた新王国時代は終わりを告げた。 ラメセス11世はその後10年の間王位にあり、紀元前1069年ごろにこの世を去った。彼の墓は未完成に終わり、後世に神官たちがミイラを隠し場所に移し、副葬品を整理する際の作業場にしたことがわかっているだけで、実際にこの未完成の墓に埋葬されてはいないということが判明している。テーベで王位を僭称したヘリホルは、ラメセス11世の死をさかのぼる4年前に亡くなっていた。両者とも、遺体は今でも行方不明である。 ラメセス11世には息子がおらず、王家を継ぐ者はついに途絶えた。彼をもって第20王朝は断絶したが、それは同時にエジプトの統一、繁栄、覇者としての時代に幕を引くことでもあった。 新王国時代の歴史を結ぶにあたって、最後に当時の文学作品を紹介したい。 現在はモスクワにあるパピルス『ウェンアメンの物語』は、歴史資料とは一風変わった、異色の文書である。これにはカルナック神殿の神官ウェンアメンが苦難の航海をする過程が記されているが、現時点の学説では、フィクションではないかということで落ち着いている。つまり、これは世界初の冒険小説なのである。 かいつまんで述べると、あらすじはおよそ以下のとおりである。 カルナック神殿の神官ウェンアメンは、アメン大神官兼宰相のヘリホルから、アメン神の聖なる船を作るための資材としてレバノン杉を調達してくるように命じられた。その際エジプトの権威があれば口頭命令だけで買えるはずだということで正式な紹介状はもたず、外交使節も伴わずに単身でテーベを出発したのである。 ウェンアメンは陸路でデルタ地帯に達し、地中海への玄関口として栄えていたタニスの町に着いた。当時ここの知事に任じられていたスメンデスという領主に船を借りたい旨を申し出たところ、事情を聞いたスメンデスにより大歓迎と過分な激励を受け、さらに船はもとより船員と糧食を支給された。恐縮したウェンアメンはスメンデスの慈愛とアメン神の加護に感激しつつ、地中海を一路フェニキアに向けて出航した。 ところが、ここからウェンアメンの苦難が始まる。ガザを通過し、危険なパレスティナを横目に、フェニキア地方の最南端であるドールの町に入港しようとしたところ、あろうことか船員が反乱を起こし、ウェンアメンは身ぐるみを剥がされて無一文になってしまった。ドールの領主に事情を話して補償を受けようとしたが、現地にはエジプト人を裁く権利がないという理由でこれを拒否されてしまう。ただひとつ残された小さなアメン像を手に、ウェンアメンはボロをまとって北に向かった。 砂漠の炎熱にさいなまれ、命からがらフェニキア人都市テュロスにたどり着いたウェンアメンだったが、ここでも正式な外交文書をもたない彼は領主に門前払いされ、途方に暮れてしまった。目的地のビブロスはここから100キロメートル以上も北にあるのだ。もうこれ以上歩かされたら、マジで死んでしまう。 進退きわまったウェンアメンは、ついに非常手段に出た。夜陰にまぎれて港に行くと、現地人の船を盗み出して海上に脱出したのである。こうしてテュロスを出たウェンアメンは、ようやくビブロスに行き着くことができた。 だが彼の苦難は、まだ終わってはいなかった。ビブロスの領主は薄汚れたウェンアメンをどうしてもテーベからの使者とは認めようとせず、さらにいかにエジプト人からの命令であっても、レバノン杉を伐採するためには正式な外交ルートを経なければならないと通告したのである。ウェンアメンはこの反応に驚き、四方八方手を尽くしてようやく自分の身分を照会してもらい、何とかレバノン杉を伐採することができた。だがどうしても、代金は払ってもらわねばという。 エジプトの権威がここまで失墜したのかと、ウェンアメンは悲憤にくれた。しかしながら大神官の命令は絶対である。木材の代金はタニスの知事スメンデスが肩代わりしてくれることになりようやく目処がついたが、ウェンアメンは代金が届くまで事実上の人質として、ビブロスの領主公館に軟禁されてしまった。ここで領主は見すぼらしいウェンアメンに対し、われわれはこんな身なりのエジプト人に今まで服従させられてきたのかだとか、もうビブロスはバビロニアの支配下にあり、エジプトなど早晩、攻め滅ぼされるだろうなどと愚弄したのである。 放心状態になりながらも屈辱に耐えていたウェンアメンだったが、ついに彼のもとに、テュロスからの追っ手が迫ったことがわかった。あわてたウェンアメンは三十六計、雲を巻いて逃げ出し、ここでも船を盗み出して海上に脱出、必死に操船して対岸のキプロス島にたどり着くことができた。 ところがキプロス島に上陸したのもつかの間、怪しい男が潜入したことを知った現地住民が捜索隊を組織し、山探しを始めたのである。キプロス島は「海の民」の襲撃を受けて以来武装化が進んでおり、住民も尖鋭化していたためと思われる。その結果ウェンアメンはあっさり捕らえられ、住民から殴り殺されそうになるが、スパイがエジプト人だと知った領主によって助け出され、命拾いをする。 物語はいきなりここで終わっており、その後のウェンアメンの運命を知るすべはない。 この『ウェンアメンの物語』はフィクションであるが、実在の人物が登場していることは興味深く、公式文書以外で大神官ヘリホルや、タニスの領主にして第21王朝の開祖となるスメンデスの名が出ているのはこれだけである。また当時のエジプトを取り巻く国際関係なども知ることができ、歴史資料ではないが、世相を分析するための重要な史料になっている。 個人的には、キプロスにおけるウェンアメンの冒険の続きも、読んでみたかった気がする。 →写真についての解説はこちら |
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