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| ● お 読 み い た だ く に あ た っ て ● |
| 新王国時代が過ぎ去り、いよいよ混乱期である「第3中間期」が始まりました。 第3中間期は統一期と分裂期が混在する、まさに混乱と平和が同居したような時代といえます。 そこには権力への欲望と既得権益の確保を願う人々の、「生々しい」歴史が秘められています。 同じ名前の人物が数多く登場するため、ただ読んだだけでは読者の皆さまのご理解を得られないかもしれません。 しかしじっくりと読み込んでいただければ、混沌とした第3中間期も歴史の流れとして理解できるでしょう。 特に存在時期が重なる第22王朝以降については、より丁寧な解説を心がけました。 また、掲載されております画像をクリックしますと、別ウィンドウにおいて説明文が展開いたします。 合わせてご利用くださるようお願いいたします。 解説が展開しないブラウザをご使用のお客様は、「図版解説コーナー(12)」をご利用ください。 |
| ● 内 容 目 次 ● | |
| 第1節 「独立王朝」テーベ |
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| 1.最高権力者・アメン大神官 | 新王国時代末期において、テーベのアメン大神官は史上空前の繁栄を手にしました。その勢力は、かつて第18王朝の王たちが発言力の大きさを問題視していた時代とは比べものにならないほどだったといいます。大神官国家の歴史を語る前に、ここではその理由を考えてみたいと思います。 |
| 2.大神官国家の隆盛 | これまで表立って語られることのなかったテーベの大神官国家とは、果たしてどのような政治機構をもち、どのような人物が率いていたのでしょうか。開祖ヘリホル亡き後、大神官国家の隆盛期を現出したパネジェム1世を中心に検証します。 |
| 3.大神官国家の消長 | 第3中間期を生み出した大神官国家も、第22王朝という強大な勢力を前にして、ついにその歴史的役割を終えるときがきました。最後には第21王朝に対するアドバンテージも失っていった大神官国家が、いかに清算されていったのかを考えてみたいと思います。 |
| 第2節 第21王朝 |
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| 1.「聖なる都」タニス | 第20王朝の正統な後継者である第21王朝は、全エジプトの支配者という名誉とは裏腹に、北部のデルタ地帯にしか勢力を及ぼせない小さな国家でした。ここでは第21王朝の開祖となったスメンデス1世の業績をテーマに、聖都タニスの成り立ちなどを詳しく紹介します。 |
| 2.現代に甦った王たち | 1939年に発見された第21王朝時代の王墓群は、史上初めての「完全未盗掘」でした。そこで発見されたプスセンネス1世・アメンエムオペト親子をはじめとして、彼らが生前どのような業績を残していたのか、さらにタニス王墓の発掘の経緯などについて解説いたします。 |
| 3.パレスティナへの足がかり | 第21王朝末期にデルタ地帯に君臨したサアメン王は、テーベのロイヤル・カシェをこの世に残した人物です。エジプト側の記録にはほとんど残ることのなかった彼の業績を、ロイヤル・カシェの調査結果や『旧約聖書』などの外部資料から探ってみようと思います。また併せて、プスセンネス2世の実在性などについても解説しています。 |
| 第3節 第22王朝 |
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| 1.「エジプトの王シシャク」 | 『旧約聖書』に珍しく「エジプトの王シシャク」という実名で掲載されているシェションク1世とは、どのような人物だったのでしょうか。ここでは彼が軍人として第21王朝に奉職してからの経歴と、リビア人でありながらいかにファラオとなり得たか、また彼の最大の業績であるパレスティナ遠征についても詳しくご紹介いたします。 |
| 2.つかの間の平和 | シェションク1世亡き後、第22王朝は独自の家族経営システムによってつかの間の安定期を手にします。そうした時代を実現したオソルコン2世の治世を中心に、アッシリアとの初対決についても述べてみたいと思います。 |
| 3.骨肉の争い | 家族経営システムはようやく破綻の兆しをみせ、血縁者の間で権力をめぐる骨肉の争いがくり返されるようになります。ここではカルナック神殿に残された「オソルコン王子年代記」を使ってその混乱期を原因から考えます。また王位を奪ったシェションク5世の治世と、ヌビアに吸収されるまでの経緯も解説しようと思います。 |
| 第4節 第23王朝 |
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| 1.レオントポリス政権 | シェションク5世の弟であるペディバステト王が建てた第23王朝は、決して単なる派生王朝ではなく、小さな領土ながらも必死でみずからの存立を維持しようとしていました。レオントポリスに建てられた第23王朝が、どのような経緯をたどって誕生したかを検証します。 |
| 2.勢力争いの果てに | ここで語られるオソルコン3世は、このような弱小国家の君主にはふさわしくないほどの機略とエネルギーをもった人物でした。本項では彼の活躍とあわせて、その後あえなく第25王朝に敗れて消え去っていくまでを詳説します。 |
| 第5節 第24王朝 |
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| 1.サイスのテフナクト王 | デルタ西部の地方都市サイスに生まれた第24王朝の成り立ちと、希代の戦略家テフナクト王の業績を考えます。また今まであまり語られることのなかった、テフナクト王のパレスティナ戦略についても『旧約聖書』の記述から拾い出してみようと思います。 |
| 2.ヌビアとの決戦 | テフナクト王の雄大な企図によって、これまでいがみ合っていたデルタ地帯の王朝が互いに同盟関係を結び、ヌビアの第25王朝に対抗する道を選びました。本項のテーマはデルタ同盟と第25王朝の決戦と、その後の第24王朝の消長についてです。 |
| 第1節 「独立王朝」テーベ |
1.最高権力者・アメン大神官 エジプト史における時代区分には、古王国や中王国、新王国といったようにエジプト全土が統一王朝の支配下にあった時代と、弱体王朝が同時代に並立した、中間期と呼ぶ分裂期の2種類がある。この分類法は近代の歴史学者が提唱したものだが、新たな考古学的発見があるたびに、当然この時代区分も変化している。現に、10年前の歴史年表には「第3中間期」という時代区分は掲載されていないのである。 この時代が弱体王朝の並立期である「中間期」とされるようになったのは、デルタ地帯の第21王朝と肩を並べるか、一時期は正統王朝の勢力を上回っていたこともあるテーベの独立神官国家の歴史的意義が認められるようになったからである。プトレマイオス朝時代の歴史家マネトーはテーベの神官国家に対しては王朝番号を付与しておらず、それは現在でも変わらない。だが紀元前1079年から始まる134年間、上エジプトは実質的にアメン大神官の支配下にあり、本来は官僚のひとつでしかなかった大神官の地位は世俗の権力と同化し、事実上の王として同一の家系によって代々世襲されていた。これはもはや独立国家でしかないというのが、現代の歴史家の見解である。 では、どうしてアメン神の大神官だけが、これほどの権力を握ることができたのだろうか。 アメン神は「隠れた神」とも呼ばれており、すべての神々とは超越した存在、つまり最高神であると考えられるようになった。太陽神ラーと習合してアメン・ラー神となってからはますます勢いを増し、中王国時代には国家神としての地位を盤石のものにしていく。大本山であるテーベのカルナック神殿が王たちの寄進によって経済的に潤った結果、神殿の運営を司るアメン神官団がそうした財力を背景に特権的意識を有するにいたり、ついに政治に対しても口出しをするようになっていく。第18王朝のアメンヘテプ3世はこれを嫌ってアメン神官団の政権からの排除を画策したし、その息子アクエンアテン王は一時期、アメン信仰すら非合法化したのである。 こうした逆風においてアメン信仰も決定的な打撃を受けるはずだったが、アクエンアテン王の失敗によって息を吹き返すと、旧体制復活をもくろむ権力者たちの陰で、またたく間に以前のような発言力と巨大な財力とを回復させてしまったのである。その原動力となったのは第19王朝や第20王朝の王たちによる、奇妙とも思える国家的な財政援助であった。とくにラメセス3世の敬虔さと太っ腹はとどまるところを知らず、国家予算の多くを寄進に回したばかりか、みずからの戦功によって獲得したリビア人や「海の民」からの戦利品までも、ほとんどカルナック神殿に寄進してしまったのである。 このカルナック神殿に君臨するのが、宗教においては王に次いで事実上のNo.2である、アメン大神官である。国家第一の大伽藍であるカルナック神殿はメンチュ神殿、ムト神殿など数多くの神殿が集まった「神殿複合体」ともいえるものであったが、その管掌に当たるのは、アメン大神官であると決まってもいた。テーベのカルナック神殿に限らず、メンフィスのプタハ神殿にもデンデラのハトホル神殿にも、エスナのクヌム神殿にも神官団が組織され、その頂点には大神官が君臨している。だが国家宗教となったアメン信仰を統括するアメン大神官だけは別格とされ、第18王朝以来、アメン大神官の地位は官僚制度の中に組み込まれ、有能な官僚で占められるようになっていく。そしてついには、宰相、総司令官、ヌビア総督と並ぶエジプト最高の顕職としての座を得ることになったのである。 この地位は世襲ではなく、王によって直接任命される官職である。歴代大神官にはそうそうたる実力者が名を連ねていたことだろうが、記録に乏しい時代においては必ずしも現在まで実名が伝わっているとは限らない。だがラメセス9世によってアメン大神官に任命されたアメンヘテプだけは、任命者であるラメセス9世の業績がつまびらかでないにもかかわらず、その人物像や行動記録が比較的よく残っているという不思議な人物なのである。 大神官アメンヘテプは神託という手段で、実質的に上エジプトの世俗支配権すら手にしていた。第20王朝の末期には王の地方巡幸がめっきり少なくなったため、彼は「王の代理人」としての地位を世俗支配の名目にしていたと考えられる。ほとんど政変がみられないデルタ地帯とは対称的にテーベは数度の戦火に見舞われており、アメンヘテプの失脚後にはヌビア総督パネヘシがその座を奪い取ったが、不思議なことに、デルタ地帯のペル・ラメセスに位置する中央政府がそれに対してアクションを起こしたという証拠がないのである。もはや宮廷には、全エジプトを実質的に支配する力がなかったからかもしれない。 ここで登場するのが、パネヘシを追って大神官の座を奪い取ったヘリホルという人物である。彼については前章において詳しく述べているのでここでは触れないが、アメン大神官でしかなかった彼が王位を僭称し、以後134年間もの長期におよぶことになる支配権を、テーベにおいて確立させたというのはまぎれもない事実であった。ただしその実態がよくわかっていなかったため、マネトーをはじめこれまでの歴史家たちはテーベの大神官国家を正式の王朝とは認めていなかったのである。それはあくまでヘリホルが、ラメセス11世によって支配権を認められていたにすぎない存在だったからと解釈されていたからであり、さらに彼の即位名が単なる「アメン大神官」だったからでもあったからかもしれない。 それではこれから、ヘリホルがこの世を去って以後、テーベの大神官国家がいかに勢力を誇ったのかをみていくことにする。 →写真についての解説はこちら 2.大神官国家の隆盛 紀元前1079年を紀元元年とし、公式文書に「誕生のくりかえし」という事実上の独立宣言を記してからわずか6年後、革命児ヘリホルはこの世を去った。一代にして国家の枢要を独占する地位にまで上りつめ、さらに南で王位を僭称するまでになった彼の経歴は、実のところ晩年を除いてほとんどわかっていない。ただ彼の妻であったノジメットという女性が、彼の立身出世に大きな役割を果たしていたことを指摘する学者もいる。 ノジメットは第20王朝最後の王であるラメセス11世の姉妹(もしくは娘)であった可能性が高く、有能な官僚であったヘリホルが宮廷との関係と発言力を保つことができた最大の功労者は、おそらく彼女だっただろうと推測されている。両者はほぼ同年代だったと考えられるが、妻ノジメットの方が5年ほど長生きしたということがすでに分かっている。 ヘリホルの死後、アメン大神官の地位を継いだのは息子(または婿養子)のピアンキ(在位前1074年頃〜前1070年頃)であった。テーベからパネヘシを追い払ったが、ヌビアの攻略に失敗してその完全な独立を許してしまった、あの軍司令官ピアンキである。 ピアンキは大神官としての地位を継いだが、王位僭称者を引き継ぐことはなかった。公式な記録にも建造物にも、彼のカルトゥーシュが見つかっていないことからそれは明らかである。おそらく彼は大神官になったものの王者を名乗るまでの野心がなかったのかもしれないし、かつてラメセス11世の寝首を掻こうとまで画策したのも、父ヘリホルの野望を達成させようという意識から発した行動だったから、とも考えられる。カルトゥーシュも残さず、しかもたった6年という短い在位期間しかこの世に残せなかった彼の唯一誇れる記録は、父ヘリホルが苦心して築き上げた大神官国家を、パネヘシの再侵攻から守り通したことだった。 大神官ピアンキの在任末期ごろ、かつてテーベを追われ、ヌビアで独立国家を立ち上げた元総督パネヘシが捲土重来、ヌビア兵を率いてテーベに迫ったのである。詳しい経緯についての記録は残念ながら残されておらず、しかも第20王朝側の記録でしかないためその結末はわからない。ピアンキ自身もこの直後に亡くなっているので、もしかしたらパネヘシとの戦いで負傷したのかもしれない。しかし彼はどうやら、パネヘシからテーベを守りきったようである。そうでなければ、大神官の地位が世襲されることはなかったはずなのだ。 ピアンキの死とほぼ同時に、彼の元主君であったラメセス11世もまたこの世を去っている。つまり時を同じくして逝った彼らの後継者2名こそが、北と南でそれぞれ次代のエジプト王国を担っていくことになるのである。 南のテーベでその地位を占めたのは、ピアンキの息子と考えられるパネジェム1世(在位前1070年頃〜前1032年頃)である。パネジェム1世はまさに時流に乗ったともいえる幸運な人物だった。彼がアメン大神官を引き継いだとほぼ同時にペル・ラメセスの中央政府が瓦解したため、大神官としての職務とともに、事実上の「テーベ王」となったからである。ただし彼はあくまでもテーベ王の地位を逸脱することはなく、かつてのメンチュヘテプ2世やイアフメス王のように統一軍を北上させることもなかった。第20王朝を引き継いだタニスの第21王朝があまりにも強大であったため、これならば両国が並立して平和な統治が行えることを、パネジェム1世が敏感に感じ取ったからなのかもしれない。 パネジェム1世が若くして大神官になったのは、世襲によってその地位を獲得したからである。以後38年もの長期間にわたって彼は大神官の地位を保ちつづけることになるが、それは彼の共存外交といった業績とともに、即位当時の彼が若かったからという要因も当然考えてよいだろう。 若き大神官パネジェム1世は、テーベにおいて堂々と王位を名乗った。誕生名と即位名を囲ったカルトゥーシュも残したし、その即位名からも「大神官」のフレーズを外して、「アメンに選ばれし者」という、まるで正統の王であるかのようなものを用いているのである。その反面、彼は公式文書から「誕生のくりかえし」を排除し、すべてタニスの第21王朝における紀元に戻させてもいる。今や並立したテーベとタニスの両者が争っても、混乱したエジプトの衰退に拍車をかけるだけである。大神官パネジェム1世も、タニスで王朝を引き継いだ王スメンデス1世も、それをよく知っていたのだろう。しかし、パネジェム1世の世俗統治には多くの反対勢力がいたことが知られている。テーベで反カルナック運動を展開していた彼らはタニスの第21王朝と陰でつながっていた形跡があり、パネジェム1世が彼らを弾圧し、武力をもって制圧すればするほど、南北両政府の関係は悪化していった。その対立は表面的なものでしかなかったのかもしれないが、緊張が存在した証拠としては、パネジェム1世が自分の勢力圏ギリギリであった都市タウジャイ(現在のエル・ヒバ)に防備を施した城砦を建造し、守備隊を常駐させていたことが挙げられる。その後、彼はさらに北のヘラクレオポリスにも城砦を設けた。 両国は長い間、戦争には発展しないものの冷たい対立関係を続けていたが、関係改善のチャンスは、スメンデス1世がこの世を去った紀元前1043年ごろに訪れた。 スメンデス1世には息子がいなかった。だが母系社会である古代エジプトにおいては、女性が家系を相続できるという風習がある。そこでパネジェム1世は、ラメセス11世をもって男系が絶えてしまった第20王朝の血筋に残る唯一の男子、叔父のアメンエムニスウに白羽の矢を立てた。アメンエムニスウはヘリホルとノジメットとの間の息子だったのである。母系によって家系が存続するエジプトにおいて、王位の正統を守るにはこの方法しかない。第21王朝はこの申し入れを受け入れざるを得ず、ついに第21王朝と大神官国家は同一家系になった。 子宝に恵まれなかったスメンデス1世と対照的に、パネジェム1世は妻ヘヌトタウィ1世との間に多くの子をもうけた。妻ヘヌトタウィ1世はラメセス11世の娘であり、旧王家に通ずる血筋をもっている。父親が誰であれ、自然とその子供たちは第20王朝の血筋を受け継いでいくことになるのである。パネジェム1世はこの人材力を最大限に活かした。叔父アメンエムニスウは在位わずか4年にして子孫なくこの世を去ったが、この場合もパネジェム1世は自分の息子であるプスセンネスを送り込み、第21王朝を引き継がせたのである。 息子のプスセンネスが第21王朝の第3代ファラオになれば、パネジェム1世は退位して、息子によるエジプト統一を果たすことができたはずである。また彼自身がれっきとした王位継承者でもあったから、やろうと思えば自分からタニスに入城することもできたのだ。だが、彼にはそういった考えはなかった。テーベの大神官国家は当時もっとも盛んだったからだろう。内戦に明け暮れた日々が嘘のように平和になり、第21王朝との並立がもはや当たり前になっていたのである。パネジェム1世には退位する気など、さらさらなかったに違いない。 パネジェム1世は無用な戦乱を避け得たことに関してはまさに最大の功労者だが、統一国家の形成という、エジプトにとって永遠のテーマともいえる政治的配慮に欠けていたという点では、政治家として落第点をもらっても致し方あるまい。 →写真についての解説はこちら 3.大神官国家の消長 パネジェム1世は、紀元前1032年ごろに亡くなったと思われる。だが彼はそれに先立つこと22年前に、アメン大神官の地位を息子のマサハルタ(在位前1054年頃〜前1046年頃)に譲り、自分はテーベ王となって内政に専念していたのである。しかしマサハルタは在任8年という短さでこの世を去ったため、大神官は弟のメンケペルラー(在位前1045年頃〜前992年頃)が引き継いでいた。 父パネジェム1世が亡くなったとき、大神官メンケペルラーは父の王位をも兼任することにした。しかも彼にはスメンデスという息子がすでにいたにもかかわらず、大神官としての地位も手放すことはなかった。メンケペルラーは大神官として13年、そして王と大神官の兼任としてさらに40年、合計53年もの長期間にわたってテーベの支配者として君臨した。そのように行動した彼の真意はわからないが、早くも衰退をはじめた大神官国家の屋台骨を支える責任を自分ひとりに課すことで、危ういワンマン経営を続けるしかなかったのかもしれない。 その証拠に、53年もの在位期間を誇りながらも、メンケペルラーに関する記録は驚くほど少ないのである。父パネジェム1世のようにカルナック神殿を改築するでもなく、北の第21王朝と渡り合うでもなく、ただ粛々とテーベの独立と権益を守ることに終始したようだ。彼は大神官国家で最後の「カルトゥーシュを使用した大神官」となったが、それゆえに即位名は曾祖父ヘリホルと同じく、単なる「アメン大神官」に戻したのだろう。しょせん、北に正統のファラオがいる限り、彼のよりどころはアメン神が下す神託しかなかったのである。 いつしか国力はタニスの第21王朝がテーベを上回り、カルナック神殿への寄進もタニスが行うようになっていた。このままでは大神官国家は、第21王朝に飲み込まれてしまうかもしれない。そこでメンケペルラーは、兄プスセンネス1世に対して、自分の妻として兄の娘が欲しいと申し出た。姻戚関係をより深めることによって、大神官としての自分の地位を再確認してもらおうと考えたのである。 プスセンネス1世はこの申し出を許可し、自分の娘のひとりイシスエムケブを弟のために差し出すことにした。パネジェム1世の時代とはまさに立場が逆になったわけだが、これで両国の間はさらに強固な関係で結ばれることになった。姪にあたるイシスエムケブと結婚したメンケペルラーはその後も王と大神官の兼任を守り通し、それは紀元前992年に亡くなるまで続いた。 老王メンケペルラーの後を引き継いだのは、メンケペルラーと彼の最初の妻との息子とされるスメンデス2世(在位前992年頃〜前990年頃)だったが、彼についてはいっさい不明で、王位を名乗っていなかったらしく誕生名のカルトゥーシュも残されていない。ギリシア語で「スメンデス」という通り名で伝わっている彼であるが、それは彼の本名「ネスバージェド」が第21王朝のスメンデス1世の本名「ネスバーネブジェド」と似ているからだけだったかもしれない。スメンデス2世の死後は、メンケペルラーとイシスエムケブの息子で、スメンデス2世とは異母弟にあたるパネジェム2世(在位前992年頃〜前969年頃)がアメン大神官の地位を受け継いだ。 パネジェム2世の業績については、23年もの長期にわたって大神官の地位にありながらほとんど伝わっていない。彼はテーベ王の名を望まなかったらしく誕生名にカルトゥーシュを使用しておらず、大神官としての職務を粛々と続け、北の第21王朝との関係も良好を保ったようだ。そして死後はデイル・エル・バハリに造らせた質素な墓に、家族とともに葬られて安らかな眠りについた。 ところが現在、パネジェム2世の名は考古学者たちの間で伝説になっている。その原因はパネジェム2世自身にあるのではなく、彼とその家族が葬られたデイル・エル・バハリの墓が、新王国時代に名を連ねたそうそうたる王たちのミイラを安置するための隠し場所に使われたからである。その墓が今や「ロイヤル・カシェ」(王家の隠し場所)と呼ばれている坑道なのである。 ロイヤル・カシェについての解説はデジタル地図「王家の谷」に譲るとして、ここではどうして、パネジェム2世の墓がミイラの隠し場所にされた理由を考える必要があろう。 ミイラを包み直すのに使われた包帯にあった署名からもわかるように、ミイラを隠すように命じたのは、タニスの第21王朝に属するサアメン王であるといわれている。おそらく彼はパネジェム2世と血縁者か、ごく近い間柄にあった人物だった可能性がある。そうでなければ、元来秘密にされる墓の場所を知り得るはずがないのである。 彼はテーベにも多くの建造物を残しているが、墓泥棒が横行していることに心を痛めるあまりに、せめて偉大な王たちのミイラだけでも隠そうと思ったのだろう。だから装飾品やマスクをはじめとする副葬品はいっさい排除し、ミイラだけを修復して持ち込んだのである。中には木棺を新たに作ってもらったミイラもあった。隠す場所についても、その当時もっとも新しく、また場所も一般人に知られていなかったパネジェム2世の墓が選定されたのだろう。これがわたしの考える、ロイヤル・カシェの成り立ちである。 ところがパネジェム2世の後継者として大神官になった人物については、今になっても詳しいことがわからない。ロイヤル・カシェに残されていた記録によると、パネジェム2世を継いだのはプスセンネス3世(在位前969年頃〜前945年頃)であるという。彼もまた、カルトゥーシュを残していない大神官である。パネジェム2世の息子であるとされるが、それも本当かどうかわからない。 文献によっては、プスセンネス3世は第21王朝最後の王であるプスセンネス2世と同一人物ではないかという推測を行っているものもある。プスセンネス2世の在位期間が紀元前959年〜紀元前945年であるので、プスセンネス3世が在位24年間、紀元前945年ごろまで大神官位にあったというここでのわたしの記述は、「プスセンネス2世と同一人物説」を支持するものである。 ともあれプスセンネス3世はパネジェム2世死後のテーベにあって確かに大神官として存在し、第22王朝の祖シェションク1世の息子イウプトがアメン大神官としてテーベに着任するまで、この地の聖俗両面にわたる最高権力者としての地位を守ったわけである。そしてプスセンネス3世の大神官退位によって、エジプトは134年間もの長い分裂期を脱したのである。 →写真についての解説はこちら |
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| 第2節 第21王朝 |
1.「聖なる都」タニス 行政・宗教の中心地は長く上エジプトのテーベにあったが、経済の中心地は中王国時代以降、徐々にではあるが下エジプトへと移っていった。中でもデルタ地帯はナイル川が作りだす巨大な三角州であり、自然の水路が縦横に入り組んでいて、あたかも計画的に掘削された運河網であるかのようである。中王国がアジア交易に乗り出した時代を基点として、デルタ地帯はアジアとアフリカの交流の接点となり、大規模な物資集積センターへと変貌していったのである。 デルタ地帯東部はその中でももっともアジアに近く、またもっとも人口が多かった。第2中間期にはアジア系移民であるヒクソスによってアヴァリスという都市も築かれ、第15王朝の首都も置かれたほどである。さらに時代とともにヘリオポリス、レオントポリス、メンデスなどといった都市がつぎつぎと誕生していった。かつての首都アヴァリスはヒクソスの敗北と同時に破壊されたが、新王国時代になって徐々に再建が進み、再びかなりの人口を擁するようになっていく。 第19王朝時代になると、父祖の地アヴァリスの近郊であり、また人口密集地でもあるというデルタ地帯東部の地理的利点を重視した王セティ1世によって、新首都の構想が打ち出された。セティ1世はその野望の半ばにして世を去るが、その遺志を継いだ息子ラメセス2世によって完成され、ペル・ラメセスと名づけられた新首都には王宮ともども政府機関がそっくり旧首都テーベから移転してきた。その位置はかつてのアヴァリスからほんの数十キロしか離れていないという。ともあれ、新王国時代後期において、デルタ地帯東部は宗教を除く行政・経済の中心地へと昇格したのである。 ペル・ラメセスの北方およそ30キロにある都市タニスは、そんな時代にあってデルタ地帯の宗教的中心地としての地位を確立していた。ここには古くからアメン神の支神殿があったとされ、またナイル河口に近いということもあって商業活動も活発であり、第20王朝時代末期においてはかなりの大都市であったと推定される。この都市に地方長官として着任したのが、軍人官僚スメンデスであった。 ギリシア語で「メンデスの王(領主)」という意味をもつスメンデスの本名は、「ネスバーネブジェド」といい、意味するところはギリシア語と同じく「メンデスの王」である。このことからもスメンデスが都市メンデス(エジプト名ペルバーネブジェド)の出身であることはわかるが、彼の生い立ちそのものについてはほとんどわかっていない。彼の名前が歴史上に現れるのは地方長官であった時代からであるが、新王国時代末期の冒険小説「ウェンアメンの物語」にも実名で登場するほどであるから、よほどの有名人だったことは確かである。おそらく彼は、現在は不明であるその華々しい経歴によって、いつかは王に次ぐ地位にまで上りつめるのではないかと噂されていたのだろうと思われる。「ウェンアメンの物語」におけるスメンデスは宗教に対する理解がある人物として描かれているが、デルタ地帯における宗教都市タニスの長官だということも影響していることだろう。 スメンデスは地方長官として着任してから、タニスをゆっくりと作りかえていった。彼はここを宗教だけでなく、次なる行政の中心地へと変えようとしたのである。幸運なことにその当時、新王国の首都だったペル・ラメセスはすでに放棄されて王宮はメンフィスに移っており、かつての「理想の都」には華麗な装飾を施された石造りの「廃屋」が建ち並んでいた。スメンデスはこれに目をつけて解体させ、タニスに新たな街並みを作りだすためにせっせと持ち運ばせ、建材として再利用したのである。こうした努力が実ったのか、スメンデスは再び中央政府に迎えられた。ヘリホルの息子ピアンキがアメン大神官としてテーベに赴く際、その後任として国軍トップである総司令官を拝命したのである。その後の彼は北の宰相をも兼務したと思われ、さらにラメセス11世の娘とも結婚して、王家の仲間入りも果たすことができた。彼はデルタ地帯において、すでに王そのものともいえる勢力を誇っていたのである。 紀元前1069年ごろ、男子の後継者を残さなかったラメセス11世の死によって、光輝ある第20王朝の系統は消え去った。しかし母系社会であるエジプトにおいては、男系が途絶えたとしても女系がその血統を受け継ぐという習わしになっている。この時点で第20王朝の血統を受け継ぐ資格を有していたのは、ラメセス11世の娘と結婚していたアメン大神官パネジェム1世と、宰相兼総司令官スメンデスの2名だけだったと思われる。おそらく年長であるスメンデスがここで後継者に選ばれ、戴冠の栄を受けることになったのだろうが、すでに1年前から、パネジェム1世はテーベで独立政権を保持していた。 メンフィスで戴冠されファラオになったスメンデス1世(在位前1069年頃〜前1043年頃)は、仮設の王宮を古都メンフィスに定め、新たな政府を組織するのに忙殺される一方で、地方長官時代からの事業であるタニスの改修を進めさせていた。このころのタニスはかつての単なる門前町から、いくつものオベリスクと大理石の神殿が立ち並ぶ「聖都」へと生まれ変わっていたはずである。ほどなくして、スメンデス1世の王宮と政府は新首都タニスへ移ったようだ。 スメンデス1世は戴冠後26年もの長期にわたって王位にあり、デルタ地帯における第21王朝の基礎を確立するという偉大な功績を残したが、彼の政治基盤は一貫して本拠地であるデルタ地帯から離れることはなく、政策の多くはその基盤を固めることに終始したようだ。テーベにおいてアメン大神官が事実上の独立国家を形成していた時期にあっても、公的にはアメン大神官を配下に置きながら、真の政治的統一を積極的に推しすすめるということはなかった。むしろ彼は、大胆な統一政策を敢行することによって無益な血が流されることを嫌い、いびつな状態ながらも「二国鼎立」を容認していたのではないだろうか。 かつてのラメセス11世と同様に、その死に際してスメンデス1世には後継者となるべき男子がいなかった。王妃との間に息子ができなかったのか、あるいは高齢のため息子に先立たれたのか、詳しいことは分からない。 彼は26年という長い、しかし歴史的にはごく短い期間を王として統治し、みずからの家系を発展させることもなく、タニスという都市を残してこの世を去っていったのである。 →写真についての解説はこちら 2.現代に甦った王たち 後継者のいないスメンデス1世の死後、第21王朝を引き継ぐべくタニスにおいて戴冠式にのぞんだのは、テーベからやってきたアメンエムニスウ王(在位前1043年頃〜前1039年頃)であった。彼は亡きアメン大神官ヘリホルと、ラメセス11世の妹である妻ノジメットとの息子であり、現大神官パネジェム1世の叔父に当たる人物である。今回もやはり、パネジェム1世はタニスにおいて王位を受け継ぐことはなかったことになる。 第20王朝の血筋を受け継ぐ一族のうち、アメンエムニスウ王はその当時において最長老であった。王位継承者の払底を機にパネジェム1世が叔父を推挙したものと考えられるが、母系社会のエジプトにおいて、第21王朝の宮廷はこれを承諾するしか方法がなかった。パネジェム1世はその当時、事実上のキングメーカーだったのである。 ところが、上下エジプトの平和的統合が喫緊の課題だった両政府にとって、アメンエムニスウ王はまったくの期待はずれであった。彼は聖俗統合のための具体的な方策を打ち出せないまま病床にあることが多く、ついに治世4年程度でこの世を去ってしまったからである。しかも悪いことに、アメンエムニスウ王にも今後を託すべき後継者がいなかったのである。そうなるとこの時点でもっとも有力な王位継承者は、アメン大神官パネジェム1世だったということになる。実際彼にも、王位を引き継ぐよう政府から要請が来ていたはずである。 しかしパネジェム1世は、テーベを動こうとしなかった。タニスとの対立関係はなおも続いていたが、内戦がようやく収まって平和を取り戻し、アメン大神官の権威がいよいよ高まってきたテーベを守るためなら、彼は二国鼎立もまたよしと考えていたのかもしれない。大神官自身がすでに老境に達していたことがその一因だったとも考えられる。 パネジェム1世はテーベを離れない代わりに、自分の息子を王としてタニスへ送ることにした。テーベから送り出された息子はタニスで戴冠式に臨み、第21王朝の王プスセンネス1世(在位前1039年頃〜前991年頃)として即位することになったのである。 プスセンネスという名前はマネトーによって与えられたギリシア語であり、本来は「パセバカエムニウト」という長い名前(ヒエログリフではわずか5文字だが)である。彼はテーベと同じくアメン神を祀るために造られたタニスに君臨すること実に48年間。彼は政権にあった期間を通じて、南北の融和に尽力した王であったといえる。 まずプスセンネス1世は、タニスをテーベにも負けないくらいの宗教都市に作りかえようと考えた。その当時パネジェム1世の配慮によって立場だけは第21王朝の方が上になっていたものの、国力や宗教的権威の面でははるかに立ち遅れていたからである。そんな現状を打破すべく、彼はテーベの出身であるという自身のしがらみを捨てて、本来上に立つべき正統王朝を真の支配者にするべく働く決心をした。それ以来タニスのアメン神殿がますます荘厳さを加えたばかりでなく、新たにムト神殿、そしてコンス神殿までをも建立して、みるみるうちにデルタ地帯におけるアメン信仰の中心地を作りあげてしまったのである。それと並行して、プスセンネス1世は王家の基盤を強化するために、能力のある部下に自分の娘を嫁がせるなどして王家の仲間入りをさせて家系の裾野を広げるべく努力した。その死後は自分のすぐ側で眠ることすら許可したほどである(それについては後述)。その最たるものは、自分の娘イシスエムケブを大神官メンケペルラーのもとに送ったことだった。 この当時、南北の国力はようやく逆転し、プスセンネス1世率いる第21王朝が権威の面でもテーベを上回り、テーベの大神官国家は事実上の「半独立国」に成り下がっていた。その結果テーベではタニスと内通した勢力がしきりに反政府暴動を引き起こすようになったのである。政治的権力を守るため大神官メンケペルラーはこれを武力で鎮圧せざるを得なくなり、その都度引っ捕らえて西のオアシス地帯へ流罪に処していたが、第21王朝はこれに難色を示したと考えられる。であるからといって、反政府勢力をこのままにしておいては、大神官はおろかエジプトの国家権力そのものが危うくなってしまう。 そこでプスセンネス1世はアメン神の神託という形で罪人を許し、彼らを帰国させることでタニスの立場とテーベの権威の両方を保とうと考えたのである。大神官メンケペルラーとイシスエムケブとの結婚はそうした一連の政治的駆け引きの中で生まれたできごとであった。これによって南北双方の融和は維持されたが、事実上の統一への道は、かえって遠くなってしまったようである。 こうして歴史的意義はともかく、48年もの長期間にわたって第21王朝を守り通したプスセンネス1世はタニスでこの世を去り、遺言によってタニスに造らせた王墓へと埋葬された。彼の前任者スメンデス1世のミイラが発見されていない現状において、彼はタニスに葬られた最初の王ということになる。プスセンネス1世はテーベで生まれたにもかかわらず、第二の故郷であるデルタ地帯の人柱になることを選んだのだろう。 長寿だったプスセンネス1世の後を受けて王位にのぼったのは、息子のアメンエムオペト王(在位前993年頃〜前984年頃)である。おそらくすでに中年に達していたと思われる。10年近くも王位にあったと考えられる彼であるが、その業績は公式には残っていない。彼がこの世に残した証明は、後述する彼自身のミイラと、歴史家マネトーが彼のために贈った「アメノフティス」という名前だけである。彼もまた、タニスで父プスセンネス1世のかたわらに埋葬された。 それから2900年あまりの時間が流れた1939年、ついに彼らは現代人の眼前に姿を現した。それも型どおり墓泥棒の「仕事」の後塵を拝する形ではなく、正真正銘、「完全未盗掘」で発見されたのである。1922年に発見され世界の耳目を集めたツタンカーメン王墓でさえも過去最低2回の盗掘を受けていたのであるから、これは奇跡しか言いようのない大発見だったといえる。 墓はタニスのムト神殿跡から発見された。ここは1859年、オーギュスト・マリエットらフランス隊によって一度発掘が行われ、アメンエムハト3世のスフィンクス像など素晴らしい発見があった場所でもある。再びここを発掘の場に定めたのは、またしてもフランス人であるピエール・モンテ率いる考古学者チームだった。 プスセンネス1世はムト神殿の一角にみずからの墓所を定め、そこに自分の家族たちが入れるだけの部屋数をもった地下式の墳墓を建造し、それを覆いかくすかのようにその上に神殿施設を建てておいた。それから220年ほど後に第22王朝のシェションク3世が荒れ果てた神殿の残骸を撤去し、日干しレンガ製の巨大なマスタバを築いて、そこに前任の王たちを再埋葬し、さらに自分もその外れに墓を造らせて、尊敬する祖先たちの側で眠ることにした。彼らも地下式の墳墓を建造したのだが、位置的には第21王朝と第22王朝のものとはほとんど隣接しているといっていい。第22王朝時代の職人たちが約220年前の墓所に気づかず、偶然そのすぐ側に自分たちの墓所を掘ったものか…。 1939年にモンテたちが発掘してみると、シェションク3世のマスタバもすっかり消え去っており、そこにはプトレマイオス朝時代の工房跡があった。その下からまず発見されたのは北側に位置する第22王朝時代の墳墓で、オソルコン2世やタケロト2世らの石棺が見つかった。しかしこれらはすでに盗掘を許しており、ミイラは持ち去られていた。それでも漆喰が塗られた壁面には極彩色の壁画「夜の書」などが見いだされ、これを見たモンテは「感動のあまり口もきけなかった」と書いている。 発掘はその後も続けられ、作業はさらに南へと進行していった。すでに新たな発見は望めないだろうと考えられていたが、正真正銘の「完全未盗掘」はむしろそちらの方に隠されていたのであった。 新たに見つかった地下室は第22王朝のものよりやや小規模ではあったが、天井に開けられた穴から地下に降りてみると、うずたかい副葬品の山が待ちかまえていた。さらにそこからはホルス神の顔をかたどった銀製の人型棺が発見され、それには第22王朝のシェションク2世のカルトゥーシュが刻まれていた(入っていたミイラの外にも横に2体のミイラが放置されており、それらはサアメン王ともプスセンネス2世とも言われている)。しかしそこをくまなく調べてみると、なんとそこは前室であり、さらに5箇所もの封印された入口が発見されたのである。封印は日干しレンガと泥で丹念に施されており、一度も崩された形跡はない。つまり墓泥棒の洗礼を受けていない証しなのである。フランス隊は封印を崩し、部屋のそれぞれを調査した。そのひとつは入口用のふさがれた竪坑だったが、残りの4部屋すべてに石棺もしくは銀製人型棺が安置されていた。その中で不思議なのはアンクエフエンムト、ウェンジェブアウエンジェデトというふたりの軍人までもが埋葬されていたことである。アンクエフエンムトの石棺は残念ながら空っぽだったが、ウェンジェブアウエンジェデトはしっかりミイラも残っており、しかも王族並みに黄金のマスクをかぶり、そして豪華な副葬品に囲まれて眠っていた。おそらく彼らはプスセンネス1世によって王家に迎えられた有能な部下たちだったのだろう。 そして世紀の大発見は、東側の部屋で起こった。なんとプスセンネス1世のミイラが見つかったのである。 これまで「自分の石棺で」眠っているミイラというのは、1898年に王家の谷で発見されたアメンヘテプ2世の例しかない。それでもアメンヘテプ2世の場合は人型棺もマスクも、副葬品も残っておらず、再埋葬された状態であった。しかしプスセンネス1世はきちんと石棺と第2人型棺の内側に安置されており、しかも銀製の第1人型棺に入っていたのである。石棺はテーベのメルエンプタハ王墓から盗んできた流用品であり、花崗岩製の第2人型棺も同時代の王族のものだったが、銀製の第1人型棺はまぎれもなく彼のオリジナル品だった。 第1人型棺を開けてみると、輝くばかりの黄金製マスクがモンテの目を奪った。生前の王の面影を伝えていると思われる黄金のマスクは、ツタンカーメン王のものより金の質は劣るものの素晴らしい出来で、細密な彫刻と象嵌が施された上級品である。ところがミイラはタニスの湿気にやられて見る影もない状態で、その表情すら判別できないほどだった。彼のマスクは現在、カイロの考古学博物館に所蔵されている。 プスセンネス1世の間の隣には、彼の妻ムトノジメット王妃の石棺があった。しかしそこにおさめられていたのはなぜか王妃ではなく男性のミイラで、調査の結果、それは後継者であるアメンエムオペト王のものだとわかったのである。アメンエムオペト王は銀製ではなく木製の人型棺に入っており、その表面は金メッキで装飾されていた。入っていたミイラには黄金製のマスクがかぶせられていたが、父のものよりも出来はよくない。しかし生前の王を如実に写したものらしく、ふくよかな顔立ちは柔和そのもので、記録をも残さなかった謎の王がこの世に再び現れて、みずからの存在を誇示しているかのようだった。 →写真についての解説はこちら 3.パレスティナへの足がかり マネトーは第21王朝について、「7人の王がいて、130年もの間、エジプトに君臨した」という記述を残している。王の即位順も現在わかっている人物とほぼ符合しており、ようやくギリシア語文献における正確性が増してきたわけである。ただ絶対年代についてはまだ信用しきれないところがある。 その断片的な記録によると、アメンエムオペト王(マネトーによれば「アメノフティス」)の死後にタニスで王位にのぼったのは大オソルコン王(在位前984年頃〜前978年頃)という人物だったという。6年ほど王位にあったというが、その業績についての記録はまったく残っていない。ただし誕生名と即位名のカルトゥーシュが伝わっているので、実在の人物だったことは確かなようである。ちなみに彼の名「大オソルコン」というのは、のちに即位した第22、23王朝のオソルコン1世〜4世と区別するためであるらしい。 大オソルコン王はどの家系に属する人物なのか、現在もわかっていない。しかし母系社会であるエジプトにおいて家系を引き継ぐためには、王家の女性と結婚しなければならない。彼もまたそのようにして王位を得たのだろうと考えられている。この当時は軍や政府内にかなりのリビア人が採用されていたので、もしかしたら彼もリビア人なのではないかという説もある。彼に息子がいたかどうかは、いまだに判然としない。 そうなると、大オソルコン王の後を継いだサアメン王(在位前978年頃〜前959年頃)の出自もどうなのか怪しいところである。実際、彼がどこで生まれ、どのような青年時代を送ってきたのか、まったくわかっていない。ただしサアメン王は、ほとんど記録のない大オソルコン王とは比べものにならないほど、数多くの業績をこの世に残しているのである。その最たるものとしては、テーベにおいて行われた「ミイラの保存・隠匿事業」を挙げることができる。 この当時は王家の谷の宗教的価値も薄れており、テーベでは墓荒らしが半ば公然と行われるようになっていた。タニスの第21王朝もそれによって潤う面が多少あったに違いなく、政府もその横行を黙認していたのだろうと思われる。メルエンプタハ王のものを流用したプスセンネス1世の石棺の例を俟つまでもなく、かつてテーベで製作されたと思われる品々がタニスで多数発見されていることがそれを暗黙のうちに物語ってもいる。 サアメン王は第21王朝の王としては珍しく、積極的に建造物を寄進したことでも知られている。彼の名前はタニスばかりでなく旧ペル・ラメセスをはじめとするデルタ地帯の各都市に残された建造物に見ることができるし、アメン大神官の支配下にあったはずのテーベでもその名を見いだすことができる。それだけに彼には、事業の手本ともなる数多くの建造物を残した偉大な先人たちに対する畏敬の念があったのだろう。その彼が、墓荒らしの魔手にさらされている先人たちのミイラの運命を、悲観しないわけはなかったのである。 ミイラの保存作業はサアメン王の命により、アメン神官団の手によって行われた。神官たちはいくつものチームに分けられ、ミイラの撤収と移送、遺体処理と包帯の包み直し、そして来歴の調査と記入などさまざまな作業を分業で行ったとみられる。その作業の出来映えにはチーム間、もしくはミイラによって多少の差があり、ラメセス2世のようにしっかりと処理され、木棺まで新たに作られた例もあれば、セトナクト王のようにただ担架に乗せられただけのような例もある。しかしそのほとんどにはきちんとミイラが誰の遺体であるのか、最初にどこへ移送されたのか、そして保存作業が行われた年まで記録されていた。 ラメセス2世の木棺にインクで書かれていた来歴(ドケット)によると、最初に再埋葬の作業が行われたのはアメン大神官パネジェム1世の時代だったことがわかった。彼はラメセス2世のミイラを、ミイラの父であるセティ1世の王墓へと隠したらしい。来歴には、「治世第15年、アケト(増水期)第3月の6日、オシリスなるウセルマアトラー・セテプエンラー(ラメセス2世の即位名)−生きよ、栄えよ、健やかなれ−を修復し、オシリスなるメンマアトラー(セティ1世の即位名)−生きよ、栄えよ、健やかなれ−の墓に埋める。大神官パネジェム」という文章が残っていた。だがこの作業は、ラメセス2世ほか数体のミイラに限られていたようだ。 王家の谷全域を網羅した一斉再移送はサアメン王の治世10年(紀元前968年ごろ)で、当初すべてのミイラは第18王朝時代初期に造られたイアフメス・インハピ王妃(イアフメス王の下位の妃)の墓に安置されたようである。しかしその隠し場所も危うくなったためかどうか不明だが、その頃ちょうどこの世を去ったアメン大神官パネジェム2世の墓、もしくはアメンヘテプ2世王墓へと再び移送されたようである。この事業は第22王朝初代のシェションク1世の時代まで続いたことがわかっており、何度かの中断を含めても約100年もの間、延々と続けられたということになるのである。恐ろしく息の長い政策ではあるが、歴代の王たちが行ってきたこの事業があったからこそ、われわれは現代においても数多くのミイラを目の当たりにできるのである。彼らに感謝せねばなるまい。 ところでサアメン王は名前こそ知られていないが、意外なほど活動的な人物だったようだ。サアメン王の姿は、彼自身が残した銘文やミイラのドケット以外にも、外国文学である『旧約聖書』にしばしばかいま見ることができる。実名でこそ登場していないが、『旧約聖書』の「列王記(上)」第3章1節に出てくる「ソロモン王と同盟を結んだエジプト王」というのが、どうもサアメン王らしいのである。 イスラエル統一王国の祖ダヴィデ王(在位前1001年頃〜前961年頃)とその息子ソロモン王(在位前961年頃〜前930年頃)は、サアメン王と同時代の人物である。同じ「列王記(上)」第9章16節に「エジプト王が攻め落として焼き払ったカナン人の町ゲゼル」という都市名が出てくるが、サアメン王は当初意欲的にパレスティナへの介入を図っており、ペリシテ人などに対してしばしば遠征軍を送って、パレスティナ戦略を進めていた形跡がある。しかしこれを発展させて本格的に兵力を動員する力はもはやエジプトにはなく、ペリシテ人を攻めたのは単に新興国イスラエルとの同盟を請うためだったのかもしれない。 同盟の対価は、自分の娘をソロモン王に嫁入りさせることだった。かつて第18王朝のアメンヘテプ3世が「他国から王妃を迎えることはあっても、エジプトから王女を差し出すなどということは断じてない」と豪語していたが、もはやエジプトの国力は近隣諸国に覇をとなえるレベルではなく、和睦を成立させるために王女を嫁がせることもまた外交政策のカードに加えざるを得なくなっていたのである。サアメン王はさぞ悔しかったことだろうが、嫁いだ娘がソロモン王に生涯大事にされたという事実を思えば、彼もいささか悦びとしたはずである。 しかしかつての強国エジプトは、新興国イスラエルの求めに対し唯々諾々とするばかりではなかった。 『旧約聖書』では、他国との交流が進んだ結果ソロモン王の異教かぶれが度を越したことに腹を立てた神が、彼に罰を与えるためと称して、王の晩年において2人の敵対者を差し向けるように仕向けたと記されている。その敵対者とは「エドム人ハダデ」(「列王記(上)」第11章14節)と「ネバテの子、エフライム出身のイェロブアム」(同、第11章26節)の2人である。歴史を神意に結びつけた典型例ともいえるが、なんと、この両人ともがエジプトと深い関わりをもっていたのである。 エドム王国(死海南方の高原地帯)の王家に連なるハダデは、かつてダヴィデ王がエドム征伐をした折に運よく脱出し、エジプトに身を寄せていた。エジプトに逃れてきたときまだ少年だったハダデはタニスの宮廷に迎えられ、サアメン王はまるで自分の息子のように彼をかわいがった。自分の王妃の妹を彼の妻として与えたほどである。2人の間にはゲヌバテという息子も生まれた。 しかしハダデは、このままエジプトにおいて無為に過ごすことに罪悪感を覚え、サアメン王に面会して帰国を願い出た。一応は驚いて問いただしたサアメン王だったが、結局はこの申し出を許して帰国させた。ハダデは帰国後、独力で祖国を奪回し、親エジプト政権を発足させたが、エジプトにとっては混乱するパレスティナに食い込むための足がかりを得られたのであるから結果的には上々だったといえる。サアメン王が当初からこれを腹案としていたかどうかは、彼の亡い今となっては永遠の謎である。もう一方のイェロブアムについては、第22王朝のシェションク1世に深い関わりをもつ人物なので、そこで詳述することにする。 19年もの長期間にわたって王位にあったサアメン王であるが、彼の出自やその最期の状況などは、エジプト側の記録がほとんど見つかっていない現状では、深い霧に包まれている。また彼には後継者となるべき息子がいなかったらしく、再び後継者をテーベに求めなければならなくなったようだ。 現在では、アメン大神官プスセンネス3世がタニスへのぼって戴冠式に臨み、全エジプトの王プスセンネス2世(在位前959年頃〜前945年頃)として即位したと考えられている。アメン大神官プスセンネス3世としての誕生名や即位名を記したカルトゥーシュが見つかっておらず、タニスの王としての存在だけが記録に残っていることがその理由である。もしそうであるならば、彼はかつてパネジェム1世が、そうすることが可能でありながらそうしようとしなかった、テーベからの王家統一をなし遂げた最初で最後の人物であるといえるだろう。 プスセンネス2世は約14年間、タニスで王位にあった。その期間についての記録はほとんど残っておらず、残っていたとしても大部分が次のシェションク1世のものである。シェションク1世はリビア人の出身であるが、実際その頃デルタ地帯には相当数のリビア人が居住しており、農業や軍事など、あらゆる職業に従事していた可能性がある。彼らは土着のエジプト文化に馴染み、同じ神を信じ、同じ食生活を送って、すっかりエジプト人に同化していたのだろう。プスセンネス2世の政府には数多くのリビア人がいたが、その当時は何の不思議もなかったはずである。シェションク1世がプスセンネス2世の娘マアトカラーと結婚し、政府内で頭角を現すことができたのもそうした背景によるものである。 こうしてタニスの第21王朝は平和的に解消し、リビア人王朝である第22王朝が幕を開けるのである。 →写真についての解説はこちら |
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| 第3節 第22王朝 |
1.「エジプトの王シシャク」 第21王朝最後の王、プスセンネス2世には後継者となるべき血縁者がいなかった。それまで第21王朝では後継者が払底した場合、同系統の血縁関係にあるテーベの大神官国家に次期ファラオを送ってもらうという綱渡りの跡取り政策を続けていたのだが、プスセンネス2世によって両王朝が統合され、テーベの大神官国家が解消された以上、もはや跡取りをテーベに求めることはできなくなっていた。そして悪いことに、プスセンネス2世にも跡取り息子がいなかったのである。 老いをさとったプスセンネス2世は苦慮した結果、王朝を別の系統に委ねることに決心した。そこで白羽の矢を立てたのが、リビア人軍人官僚・シェションクだったのである。 歴史家マネトーによると、軍人シェションクはブバスティスの出身で、リビア人の氏族メシュウェシュの酋長ニムロトの息子だということになっている。メシュウェシュ族はもともと現在のチュニジア周辺に住んでいたが、食糧事情と国際情勢の悪化を機に移動を始め、第19王朝から第20王朝時代にかけてエジプトへの浸透を行ってきた。その過程では第19王朝のラメセス2世とメルエンプタハ王、そして第20王朝のラメセス3世などによる排斥政策を受けて大敗を喫したりもしたが、彼らはそれにもめげず、執拗なほど熱心に、デルタ地帯への浸透を図ってきたのである。 第21王朝はデルタ地帯のタニスに本拠を置くに際して、かなり大規模な現地住民の政府への採用を行った。もちろん当時もエジプト人にくらべるとリビア人は差別の対象だったが、生まれもっての才覚と、勇猛さと慎重さを合わせ持っていたともいわれるその人格によって、シェションクは兵士として国家のために働く場所を得、さらに将校として任官することもできた。 テーベに残る記録によると、彼は自分自身がリビア人でありながら、「リビア人に対する守りを任された」とされている。彼は治安部隊の指揮官として国内を転戦し、その有能さを買われて中央政界に迎えられるほどになったと推定される。シェションクは自分の背後関係を断ち切り、エジプトの軍人として王朝に忠誠を誓うことで栄達の道を獲得したのであった。ついには「兵士たちの偉大な指導者」(国軍総司令官)として、軍のトップに立つまでになる。 エジプト陸軍の最高司令官となり、位人臣を極めたシェションクに、大きなチャンスがめぐってきた。長年仕えてきた主君プスセンネス2世に認められた結果、王の娘マアトカラーと結婚することによって王家の仲間入りを果たしたのである。すでに40代にもなっていたであろうシェションクの感激は推して知るべしだが、これによって彼は事実上、第21王朝の政治的実権を握ったも同然となった。テーベの記録にも、彼が王位にのぼる以前の呼称「メシュウェシュの大将軍」として登場するほどである。この呼び名を見るかぎり、シェションクは自分がリビア人だということを誇りにしていたようだ。 そして紀元前945年ごろ、プスセンネス2世の死によって正式な後継者となり、メンフィスで戴冠式に臨んだシェションク1世(在位前945年頃〜前924年頃)は、この後200年間も続くリビア人王朝の創始者となった。しかしながら彼もまた2000年の伝統を受け継ぐエジプト王となった以上は、リビア人であるという私情を捨て、祖国エジプトの覇権を復活させようと決心した。前王朝の創始者であるスメンデス1世の即位名「ヘジケペルラー・セテプエンラー」を受け継いだのも、伝統に逆らわず、前王朝の栄光を引き継ごうとする彼の意気込みを物語っているといえよう。 新王朝を創始したシェションク1世は、まず国内体制の大刷新を決行した。 行政改革の重要課題として掲げたのは、アメン大神官を兼務していた先王プスセンネス2世の死によって遊離した、古都テーベの支配権確保である。デルタ地帯から遠く離れたテーベは中央政府の目が届きにくく、上エジプトに蟠踞する野心家によるクーデターがいつ発生しないとも限らない情勢にあったのである。 その対策としてシェションク1世が基本としたのが、もっとも信頼する息子たちを重要なポストにつけて、血縁者の絆によって秩序を形成するという政策だった。 シェションク1世には何人かの息子がいたが、長男オソルコンに正式な王位継承者としてデルタ地帯の行政を一任する一方、次男イウプトには南の宰相、アメン大神官、そして総司令官という「三顕官」すべての地位を与え、さらに三男ジェドプタハアウタクを筆頭に弟たちのほとんどを神官としてテーベに送り込み、兄イウプトを助けるように命じた。最後の息子ニムロトは軍人だったが、彼には上エジプトの入口に位置する都市ヘラクレオポリスの方面軍司令官を命じて、テーベに事あるときにはただちに行動を起こせるよう配慮することを忘れなかった。この「家族経営システム」は任務に忠実な息子たちによって予想以上の成果を上げ、国内が安定したことから、第22王朝の王たちは伝統的にこの政策を受け継ぐことになる。 息子たちの働きによってテーベの情勢は安定し、シェションク1世はようやく国外に目を向ける余裕を得た。 前世紀末に新王朝を樹立したイスラエル王国は強力な統一国家で、ダヴィデ・ソロモン父子の堅実な運営のおかげで周辺民族はことごとく服従しており、かつての宗主国エジプトも新たな統一国家を前にしてはそのご機嫌伺いに終始するしかなかった。ちょうど、現代の日本と中国の関係に似ている。 ところがソロモン王の治世末期になると、ようやくこの新興国家にも破綻の兆しが見えはじめた。ソロモン王はエジプトをはじめ周辺国家のすぐれた文化を導入しようと、数多くの外国人を迎え入れていたが、そのせいで一神教だったはずのイスラエル国内に多神教がはびこり、ついにはソロモン王までが他国の神を崇拝するようになってしまったのである。それまで国民はソロモン王のカリスマに信服して苛烈な税制や軍政に従ってきたのに、王自身のこの体たらくは、国民の失望を誘発するに充分だった。俄然、圧政に対する反対運動が国内を席巻しはじめたのである。 紀元前930年ごろにソロモン王が死ぬと、北部を中心に巻き起こった反政府運動がクーデターに発展し、イスラエル王国は南北に分裂した。ソロモン王の息子レハブアムは南部のユダ王国(首都イェルサレム)しか引き継ぐことができず、北部のイスラエル王国(首都シェケム)には新たにイェロブアムが王として迎えられていた。イェロブアム王はかつてソロモン王の迫害を逃れてエジプトの宮廷に身を寄せていたことがあり、先進のエジプト文化に浴した人物である。そんな彼がイスラエルの新たな王になったことが、シェションク1世の野望を燃え上がらせたのだ。『旧約聖書』の「列王記(上)」第14章25節で「レハブアムが王位について5年目に、エジプトの王シシャクがイェルサレムを攻め落とした。シシャクは神殿と宮殿を物色して歩き、ソロモン王が作った金の盾など、めぼしい物はすべて奪い去っていった」と記され、さらに「歴代誌(下)」第12章2節でも「エジプト王シシャクが、レハブアム王の即位後5年目にイェルサレムを攻撃した。戦いには戦車1200台、騎兵6万、エジプト人、リビア人、スキ人、エチオピア人からなる数え切れないほどの大軍が加わっていた。シシャク王はたちまちユダの要塞の町を占領し、ついにはイェルサレムまで攻めのぼった」とも述べられている。もし「エジプト王シシャク」が第22王朝のシェションク1世であるとすれば、「攻められた側」から記録された初めてのエジプト軍による外征ということになる。だが、エジプト側に残された記録からすれば、『旧約聖書』の記述は必ずしも正しい歴史記録ではない可能性もあるという。 シェションク1世が晩年にカルナック神殿に寄進した「ブバスティスの門」(寄進者の出身地がそのまま門の名称になった)には、彼がパレスティナ遠征で獲得した都市の名前が、擬人化された姿でびっしりと彫り込まれている。その数はわかっているだけでも50以上にものぼる。それを分析することで、『旧約聖書』に記された、シェションク1世によるパレスティナ遠征がようやく歴史的事実として認識されるようになったのである。だがそれは、『旧約聖書』とは異なる事実をも含んでいた。 それによると、シェションク1世は即位20年目(紀元前925年ごろ)に、外征軍の動員を命じた。目的は分裂し混乱に陥ったパレスティナの平定であり、エジプトにとっては第20王朝のラメセス3世時代以来の大規模な動員下令ということになる。そしてこれが、第3中間期における唯一の外征となるのである。 率いるのはシェションク1世自身である。すでに60代を迎えた老齢の王にとって陣頭指揮は大儀なことだったに違いないが、トトメス3世以来「指揮官先頭」の原則を重んじてきたエジプト軍に長年身を置いた彼の軍人としての矜持がそうさせたのだろう。だが彼はトトメス3世とは異なり、海路ではなく陸路によって国境を越え、まずはガザの町に布陣した。 ガザの町で総司令部を開設したシェションク1世は、全軍を主力と攻撃隊とに分割しておき、みずからは主力とともにガザにとどまることにし、新たに編成した攻撃軍には南部のユダ王国への進撃を命じた。その目的は不明だが、おそらく北部のイスラエル王国の出方を見てさらなる行動を起こすつもりだったのだろう。また主力をガザにとどめたことも、本来の戦略目標がユダ王国ではなく、イスラエル王国であったことを示している。これは『旧約聖書』には語られていない事実である。 攻撃隊はネゲブ砂漠を突っ切り、オアシス都市カデシュ・バルネアを攻め落とし、さらに高原を越えてベール・シェバ、ヘブロンなどを経てイェルサレムに達したようだ。ただし彼らには、イェルサレムを占領するという任務は与えられていなかった。『旧約聖書』にはシシャク王がイェルサレムを攻略し、略奪の限りをつくしたように記されているが、レハブアム王が攻撃隊と交渉し、金品の交付と引き替えにユダ王国からの退去を約束させたというところが本当だろう。実際、「ブバスティスの門」の壁画には、イェルサレムの名前は登場しないのである。攻撃隊の任務は主力の北部攻めを容易ならしめるための陽動作戦だったといってよく、その点で彼らは完璧に任務を果たしたのだ。 ユダ王国の恭順を知ったシェションク1世は、敢然と総司令部の前進を命じた。 パレスティナ高原の入口にあたるゲゼルの町に一撃を与えたエジプト軍は、そこを基点に東から北へと向かい、安心しきっていたイスラエル王国の都市を次々と攻略していった。首都シェケムを奪われたイェロブアム王は泡を食ってシリアへ逃亡したが、シェションク1世はそれを追ってヨルダン川を渡り、アダム、マハナイム、レホブ、ベト・シェアンなどを従属させつつシリアに到達し、ついには約500年前にトトメス3世が勝利を得た地・メギドにまで達した。メギドに入城することはシェションク1世の生涯の夢だったといってよく、彼はそこにエジプトの栄光と勝利を記念して石碑を立てたという。 この画期的な遠征は、第3中間期におけるエジプト唯一の対外戦争であったというだけでなく、衰退の一途をたどるエジプトの威信を振起させるという外交的意味のほかに、一般国民にも覇権国家の臣民であるという自信を取り戻してほしいという願いが込められていたように思われる。彼が古い石切場を再開してまで建造させた「ブバスティスの門」に誇らしい勝利の様子が堂々と描かれたことにも、その願いの一端が現れているといえるだろう。 ところがすでに老境にあったシェションク1世にとって、やはりこの遠征は大きな賭けであった。彼は古い伝統に従って指揮官先頭をつらぬき、祖父と孫ほどに年の離れた若い兵士たちとともに粗末な兵食に甘んじて、同じように砂漠の砂を吸って前進したのである。やはり彼は風土病にかかって陣中に倒れた。パレスティナから帰国してタニスに凱旋したとき、シェションク1世はすでに虫の息だったという。 シェションク1世は死の床にあって、息子たちに対しては相互融和による強固な統治体制を維持することを遺言し、居ならぶ官僚たちには偉大な祖国エジプトの再起を遺命してからこの世を去った。彼は一代で兵士の身分からファラオにまでなり、国内の安定と軍事的栄光をも手にした、まさに風雲児であった。 →写真についての解説はこちら 2.つかの間の平和 パレスティナ遠征の直後に死去したシェションク1世に代わり、王位にのぼったのはその長男オソルコン1世(在位前924年頃〜前889年頃)であった。彼は早くから後継者として政権の中枢にかかわっていたため、国内統治の要諦をしっかり理解した聡明な人物に成長していた。彼は先王の事業である「ブバスティスの門」を壮麗な形で完成させ、さらにみずからの生まれ故郷であるブバスティスの町において数多くの建造事業を立ち上げるなど、デルタ地帯に限らずエジプト全土を舞台として多くの実績を残した王である。 そしてオソルコン1世は、先王の政策である家族経営システムにもまた忠実であった。宰相や総司令官には能力のある高級官僚を任命する一方、各地の神殿や礼拝所には王家と血縁関係にある男女を積極的に神官として送り込み、カルナック神殿のあるテーベには王女のひとりを「アメン聖妻」(アメン神官団で女性神官をまとめる最高位の役職)として派遣するなどして、宗教界からする反乱の芽をつみ取るべく努力した。 この頃は依然として、先王シェションク1世が各地に散らせた息子たちが地方で権力機構を形づくっていた。35年間も王位にあったオソルコン1世はこの政権体制を有効に活用して、血縁による信頼関係に結ばれた地方制度を維持していたが、兄弟たちがしだいに年をとり、その在任期間も長くなってきたため、オソルコン1世は弟のイウプトをアメン大神官とテーベ宰相の兼務から免じて、アメン大神官の役職を自分の息子シェションクに与えることにしたのである。この措置は次世代を見すえた、賢明なものであったと評価していい。 アメン大神官としてテーベに赴いた息子シェションクは、父の期待どおり精力的に職務をこなし、上エジプトの政務にも関与してテーベを安泰に保つことに成功した。彼はそこで家庭をもうけ、幸せな生涯を終える予定であった。 ところがその計画は、紀元前890年ごろに突如変更を余儀なくされた。晩年に達したオソルコン1世が、自分の目の黒いうちにと、アメン大神官として送り込んだはずの息子シェションクを呼び寄せて共同統治者の地位につけたのである。 王位にのぼったシェションクはシェションク2世(在位前890年頃〜前889年頃)として再び宮廷の一員となり、老いた父オソルコン1世を補佐して政務に励んでいたが、ふとしたことから病気になり、共同統治者に指名されてから1年あまりで帰らぬ人になってしまったのだった。父の悲しみと落胆は底知れず、息子を失ってから2〜3ヶ月後、オソルコン1世も亡き息子の後を追うようにこの世を去ってしまった。 そういう事情もあり、王位にはオソルコン1世の下位の王妃から生まれたタケロト1世(在位前889年頃〜前874年頃)がのぼった。タケロト1世は15年もの長期間にわたって王位にあったにもかかわらず、記念建造物も建てなければ、豪勢な王墓も残さなかった。ただし彼は、父オソルコン1世と早世した腹違いの兄シェションク2世の埋葬をしっかり行い、兄のために素晴らしい黄金マスクまで捧げた。これだけが、目立った記録を残さなかったタケロト1世がこの世に残した数少ない「生きた証拠」である。 タケロト1世亡き後、ファラオの地位を引き継いだのはその息子オソルコン2世(在位前874年頃〜前850年頃)であった。彼の治世は26年間にも及び、自身が残した記念物や記録も父タケロト1世とは比べものにならないほどたくさんあるが、それらはすべて、彼の苦闘を物語っているといっても過言ではない。また彼は文化的事業にも積極的で、みずからの家系のルーツであるブバスティスに古くから根づいている猫の女神バステトへの信仰を広めようと、ブバスティスにおいて大神殿の建設を始めたりもしている。 オソルコン2世もまた父祖伝統の家族経営システムを実行に移そうとしたが、肝心のテーベにおいて意外な事態が起きた。父タケロト1世が任じていたアメン大神官がこの世を去ったとき、オソルコン2世は伯父シェションク2世の遺児ハルスィエセを新たにアメン大神官に任命したのだったが、このハルスィエセがくせ者だった。彼はオソルコン2世の治世4年目(紀元前870年ごろ)を期してみずからをテーベの王であると称したのである。ハルスィエセは名前をカルトゥーシュに囲んだばかりでなく、大々的に即位式まで行って即位名まで制定して、タニスの権威を排除しようと試みた。10年間というほんのつかの間ではあるが、90年近くも前に清算されたはずの大神官国家が復活してしまったのである。 この事態に対してオソルコン2世がどのように振る舞ったか、公式な記録には残っていない。もっともハルスィエセの大神官国家はおよそ国家と呼べるものではなく、かつての大神官国家とは違って大神官には事実上の施政権がなかったばかりか、その職務も宗教行事に限られていたようなので、王位を名乗りながらも普通のアメン大神官でしかなかったらしい。ハルスィエセは即位式後わずか10年で亡くなったが、オソルコン2世はその日までアメン大神官の地位を力ずくででも取り戻そうという意識はなかったようだ。オソルコン2世はハルスィエセの後任として、自分の息子ニムロトをアメン大神官の地位につけた。オソルコン2世はニムロトをアメン大神官として送り込んだ後、その弟シェションクをメンフィスのプタハ大神官に任命して派遣した。プタハ神官団はテーベのアメン神官団に次ぐ実力を誇っており、この長として肉親を送り込むことでその勢力を制御しようとしたものと思われるが、王権が弱まることを恐れたオソルコン2世が、国内で巨大な勢力を誇示する団体を危険視していたからでもあろう。 ところがこうして国内を安定させたのもつかの間、今度は国際情勢の雲行きが怪しくなってきた。 オソルコン2世が国内の安定を求めて権謀術数をめぐらしていたちょうどその頃、メソポタミアでは南部のバビロン(カッシート政権)がいよいよ衰退し、代わって北部の軍事国家アッシリアが勢力を盛りかえしていた。アッシリアは長い間、ヒッタイト滅亡後の領土をめぐって隣接するシリアのアラム人と争いを続けていたが、紀元前9世紀末に即位した王アッシュール・ナジルパル2世(在位前884年頃〜前859年頃)がようやくアラム人を打ち破って臣従させることに成功したのである。メソポタミアにおけるこの事件は、危ういながらも安定を保っていた古代オリエント世界の歴史の歯車をゆっくりと動かしはじめたといえよう。 アッシュール・ナジルパル2世の子シャルマネゼル3世(在位前859年頃〜前824年頃)は父の業績を受け継ぐために、これまでになく積極的な対外侵攻政策を打ち出していた。彼はその手始めとして、父の死後反乱を起こして独立を果たしていたアラム人を再び臣従させるべく、大軍を動員することにしたのである。 このことを聞いたオソルコン2世は、シリア・パレスティナにおけるアッシリアの軍事的脅威が及ぶことを恐れて、イスラエル王国ならびにフェニキア人諸都市に対して軍事同盟を提案した。アッシリアの勢力が増進することはエジプトにとって百害あって一利なしの事態だったからである。同盟をもちかけたのは、エジプト単独の軍事力ではアッシリアに対抗できないと考えたからであろう。それはイスラエルもフェニキア人も同じだった。アッシリアの進出に対して危機感をいだいていた彼らに、嫌と言えるはずがないのである。 老いたオソルコン2世はみずから先頭に立つことをせず、外征軍司令官を任命してこれに精鋭を預け、シリア・アッシリア国境へと向かわせた。折しもシャルマネゼル3世は騎兵軍を率いてシリアの首都ダマスクスに迫ろうとしていたが、これに対しエジプト・イスラエル・フェニキアは国境であるオロンテス河畔のカルカルで連合軍を結成し、これを迎え撃つべく先行して陣を敷いた。時に紀元前853年、エジプトにとって初めての、アッシリアとの直接対決であった。 オロンテス川を挟んで両軍はぶつかり合い、随所で惨烈な戦闘が行われたが、先行して布陣していた連合軍は地の利を活かして遊撃戦法に撤したため、さしものアッシリア騎兵軍団もこれ以上進むことができず、不利を察したシャルマネゼル3世の決断によって退却を始めたのである。こうしてカルカルの戦いはエジプト・イスラエル・フェニキア諸都市連合軍の勝利に終わった。オソルコン2世はこれを聞いて、さぞかし喜んだことであろう。この戦いの3年後、オソルコン2世はこの世を去った。 第22王朝は開祖シェションク1世が創始した家族経営システムを巧みに運用することによって、ようやく国内の安定と平和を維持していたが、それはオソルコン2世の時代までだった。もっとも信頼できるはずの肉親ですら、誰もが忠実であるわけではない。それは第22王朝においても同じだった。やがて始まる王族間での骨肉の争いは、平和だったエジプトを混乱へと陥れていくことになるのである。 →写真についての解説はこちら 3.骨肉の争い オソルコン2世の子タケロト2世(在位前850年頃〜前825年頃)が王位についたとき、テーベでは父が任命したアメン大神官である異母弟のニムロトが、王の権威をもしのぐほどの強大な勢力を誇っていた。 アメン大神官ニムロトは賢明な人物で、前任者ハルスィエセの行状を見るにつけ過度な権力指向に走ることは身を滅ぼす原因になると考えていた。そこで彼はアメン大神官の職務を一歩も外れないよう心を配る一方で、「アメン聖妻」であった娘のカロママ2世を兄のタケロト2世に嫁がせてふたごころのないことを示した。タケロト2世にしてみれば、弟が義理の父になったのである。その他方では、空席になったヘラクレオポリスの駐屯軍司令官にみずからの子プタハウアジアンクエフを推挙してその地位につけるなど、テーベの勢力範囲をじりじりと広げていったのだった。 テーベの勢力が北上してくるのは気になるが、決して過激な行動はしない弟のニムロトは、タケロト2世にとって上エジプトの安定を維持するためになくてはならない存在になった。ニムロトは通算21年もの長期間にわたってアメン大神官の地位にあり、半独立の状態を維持しながら第22王朝による統一を助けていたが、そんな彼も紀元前839年ごろ、在任のまま生涯を閉じた。 タケロト2世はかつてのオソルコン1世と同様に、自分の長男でゆくゆくは王位を継がせたいと考えていたオソルコン王子をアメン大神官に任じて、テーベに赴任させるべくタニスを出発させた。 以下は、カルナック神殿に彫り込まれた当時の記録『オソルコン王子年代記』に沿ったストーリーである。 タニスを出たオソルコン王子一行は南に向かっていたが、ここで非常事態が起こった。一行がまだ任地に到達する前に、テーベにおいて独立政権の栄光を取り戻すべく地下行動をしていた反政府組織が公然と反旗を翻したというのである。反政府組織はある人物を後任のアメン大神官にするよう要求していたが、その人物の名前はハルスィエセ。彼は紀元前860年にこの世を去った王位僭称者ハルスィエセの孫だと称していたという。 テーベで反乱が起き、オソルコン王子一行は思わぬ足止めを喰わされた。やむなくヘラクレオポリスまで来たところでオソルコン王子は従兄弟のプタハウアジアンクエフに会うことにしたが、この従兄弟にして駐屯軍司令官であるプタハウアジアンクエフはこれに深く同情し、反政府組織を覆滅させるべく軍隊を動員してその先頭に立つことにしたのだった。こうしてヘラクレオポリスの政府軍はテーベ市内に突入し、反政府組織のリーダーらは捕らえられてことごとく処刑された。刑死者の遺体は積み上げられて火を放たれたというが、エジプトの宗教では肉体を保存することで死後の復活が約束されると信じられていただけに、遺体を焼き払うというこの仕打ちには、鎮圧にあたった政府軍の情け容赦なき態度を見てとることができる。ちなみに大神官に推されていたハルスィエセはいち早く逃亡していたらしい。 オソルコン王子は無事テーベに入り、あらためて正式のアメン大神官となって4年が経過した。しかしいったん鎮圧したはずの反政府組織は長い沈黙を破って復活し、再びオソルコン王子に敵対するべく反旗を翻したのだった。この場面ではハルスィエセの名前が出てこないので、以前の一派とは別の組織だったことも考えられる。ただし今度の組織はなかなか屈服せず、その後約10年もの長期間にわたって、ゲリラ戦による内戦が続くことになった。このときタニスで対策に追われたタケロト2世の心痛もまた、『オソルコン王子年代記』に記されている。そこでタケロト2世は、従来エジプトに厳然として存在していたはずの「統一国家」としての秩序が揺らぎ、もともとエジプト人が正統だと考えていたもののことごとくが否定された結果が、この内戦であると語っている。彼の悩みは深かったことだろう。 タケロト2世はこの混迷の中、テーベでの事態の解決を見ないままこの世を去ってしまった。既定の路線を忠実に実行し、国内の安定に尽力してきたタケロト2世にとっては、こうした血縁問題から発した政治の混乱は、あまりにも無念な結果であったことだろう。しかし彼にとって本当に無念な事態が発生するのは、むしろ彼の死後であった。 父の死を聞いたアメン大神官オソルコン王子は、次期の王位を約束された人物である。王子はすぐさま準備を整えてタニスに向かおうとしたが、どういうわけか町には完全な防備が施されていて、王子の一行をどうしても入城させようとしないのである。実はこのときすでにタニスでは、オソルコン王子の弟シェションクが王位を奪い取っており、軍隊まで動員して首都の防備を固めていたのである。オソルコン王子は完全に出し抜かれた形となり、兄弟の間は一触即発の危機に陥った。 兄を差しおいて王位についたシェションク3世(在位前825年頃〜前773年頃)は、首都タニスで父の死を見取ったことを利用して、正統な後継者にしか許されていないはずの前任者の葬儀を行い、デルタ地方の国民に対しすでにみずからの正当性を根回しずみだったのである。こうして王位を奪ったシェションク3世だったが、従来の慣習を無視したような強引さは、内外に数多くの敵を作っただけだった。その敵というのは、タニスを追われてテーベで再起を図るオソルコン王子、そして宮廷の内側においてシェションク3世の行動を白眼視する兄弟たちである。その急先鋒はレオントポリスの長官に任じられていた弟のペディバステトであったが、彼については第23王朝の節に稿を譲ることにしたい。 さて、弟のシェションク3世に王位を奪われたオソルコン王子は、テーベにおいて着々と王位奪還を準備中であった。追放した兄を依然としてアメン大神官の職にとどめておくというシェションク3世の考え方には驚くばかりだが、それはともかくタニスばかりを向いていたオソルコン王子の注意は、自分の足元には及ばなかったようだ。王位簒奪が起こってから5年後の紀元前820年にはテーベにおける内乱が再び巻き起こり、ついにオソルコン王子はアメン大神官の職を投げ出してテーベを脱出する羽目になったのである。そして新たに就任したアメン大神官として、みたびハルスィエセの名が登場する。 念願だったアメン大神官の座についたハルスィエセであったが、タニスの記録においては目立った事績が残されていない。実際にこの当時、大神官と神官団の権威はいよいよ形骸化しており、神権の担い手はこれまで補助者とされてきたアメン聖妻へと移ってきていたという事実がある。 それゆえ、基本的にシェションク3世以下タニスの中央政府は、テーベの動きに対してはそれほどエネルギーを注がなかったものと思われる。地方の混乱に対して過度な介入をすることによる、事態の泥沼化を避けたのかもしれない。ハルスィエセはそれから15年間アメン大神官の職にあり、紀元前805年ごろまで在任した。 シェションク3世は通算52年もの間、タニスにあって長期政権を維持した。その原動力となったのは血縁関係をもとにしたゆるやかな国内の統一と、各都市に配置された地方長官を「王の代理人」に仕立ててほとんどの行政権を委譲することによる「小さな政府」にあった。タニスの権威は王朝創設当時に比べて間違いなく低下したが、シェションク3世のファラオとしての威光には寸分の揺るぎもなかったから、地方長官たちは神権を背景にした行政権を行使することができたのだと考えられる。しかしこうした小さな政府によるゆるやかな中央集権では、地方に野望を醸成しやすいのも事実であった。その中でもシェションク3世がとくに頭を悩ませたのは、テーベにおけるアメン大神官争奪戦だったはずである。 そんな王の悩みをあざ笑うかのような事態が、紀元前805年ごろに起こった。かつてテーベを追われた兄のオソルコン王子が再び勢いを盛りかえし、ハルスィエセを追い出してアメン大神官の座を奪ったのである。 第20王朝のラメセス6世の例を俟つまでもなく、たとえ兄であろうと競争相手は生かしておかないのが通例であるはずだが、驚いたことにシェションク3世は兄を生かしておいたのである。そればかりでなく、兄の復権を祝ってさえいる。この5年後に懲りない男・ハルスィエセは再びアメン大神官を僭称したが、どうやらこれは非公式だったようで、さらに4年後の記録ではその名は削除された。シェションク3世にとって兄のオソルコン王子は、かつての恩讐を超えた政治仲間だったらしい。 シェションク3世の晩年は、レオントポリスに並び立つ第23王朝との意地の張り合いに終始したといえる。デルタ地帯全体としては各ノモス(地方)とリビア人族長国家がゆるやかな第22王朝の支配権を認めていたが、デルタ中央部にあるレオントポリスの第23王朝がそれに取って代わるべく暗躍していたからである。実際、第23王朝で権威を張り合った若いオソルコン3世には勢いがあった。 老王シェションク3世が没したとき、タニスの第22王朝は見る影もなく弱体化していた。父の後を継いで王位についたパミ(在位前773年頃〜前767年頃)がタニスに君臨したものの、彼のわずか6年という治世期間では、時代の流れともいえる王朝の頽勢を挽回することはできなかった。パミ王は自分よりさらに若い第23王朝のオソルコン3世との競争にことごとく遅れをとったばかりでなく、デルタ地帯をはじめとする地方長官たちの野望を抑えきれずにつぎつぎと彼らの独立を許してしまったのである。ちなみにパミ王の名前は「雄猫」という意味であり、彼のルーツであるブバスティスの地方神バステトが女神であったため、その伴侶として命名されたものとされている。 パミ王の死後、第22王朝を引き継いだのは息子のシェションク5世(在位前767年頃〜前730年頃)であった。シェションク5世は37年もの長期政権を誇る王であるが、彼の業績としてまず挙げるべきなのは、南から怒濤のように押し寄せてくるヌビアの脅威に対して敢然と立ち向かったということである。 ただ彼はのちの時代のように、下エジプトの諸勢力をまとめてヌビアの脅威に立ち向かうということはなかった。シェションク5世にとって第22王朝はあくまでも独立の国家であり、彼が施政方針としたのは、いかにレオントポリスの第23王朝との競争に勝って、王朝が直接影響力を及ぼすことのできる地域を広げていくかどうかであった。そういう意味では、シェションク5世はあくまでもシェションク3世、パミ王の考え方を引き継いだ王であったといえるだろう。しかし皮肉にも、歴史は彼の努力にもかかわらずそれを否定した。第22王朝は上エジプトにおける権威を徐々に失っていき、直接の支配力はデルタ地帯の一角にまで追い込まれたのである。 その息子オソルコン4世(在位前730年頃〜前715年頃)が父の後を受けたとき、ヌビア人の第25王朝はすでにテーベをわが物にしており、さらに北のヘルモポリス付近にまで勢力を広げていた。 ここにおいてオソルコン4世はついに独力での抗戦をあきらめ、サイスのテフナクト王が提唱するデルタ同盟への参加を決意した。同盟には数多くの地方長官たちが参加を表明しており、その中でもヘラクレオポリス長官ペフチャウアバステト、ヘルモポリス長官のニムロトは王位すら名乗るほどの実力者だった。そしてこの同盟に、最終的には第23王朝のイウプト2世までが参加したのである。 デルタ同盟と第25王朝との争いについては、第24王朝の節で詳しく解説する予定であるが、結果から先に言ってしまえば、デルタ同盟はヘルモポリスの包囲戦に敗れた。ようやくその場から逃れてタニスへと落ちのびたオソルコン4世だったが、時代の趨勢には勝てないと悟ったか、紀元前720年、メンフィスまで軍を進めた第25王朝のピアンキ王に対し臣従の礼を行って長年の抗争に終止符を打つ決断をしたのだった。もし彼の決断がなかったならば、デルタ地帯は容赦ないヌビア兵の蹂躙するところとなり、エジプトそのものの弱体化につながったことだろう。その結果、もっと早くにアッシリアの侵入を許していたかもしれない。 オソルコン4世は許されて命を長らえ、その後5年間、王としての身分が保障されたまま第25王朝におけるタニスの地方長官という職を与えられた。それは単に統一国家の支配者という肩書きがなくなっただけで、支配地域そのものは以前とそれほど変わらなかった。しかし第22王朝が解体されて無に還ったという歴史的意義は大きい。 →写真についての解説はこちら |
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| 第4節 第23王朝 |
1.レオントポリス政権 紀元前825年ごろ、タニスで大事件が勃発した。王子シェションクがクーデターを起こしたのである。 かつて第22王朝の王たちは、開祖シェションク1世の例を見てもわかるとおり、本当に自分の後継者として認めた王子は、地方長官などに任じることなくみずからの側に置き、政治の中枢に深く参入させて行政能力を育成させるとともに、必要とあらば王として即位させて共同統治者に指定したりもした。 しかし中には例外もある。紀元前10世紀後半のオソルコン1世は正式に後継者として認めた息子シェションクをアメン大神官としてテーベに送り込み、例の家族経営システムの重要な担い手としたことがある。このときシェションクは父の晩年にタニスへと召還され、共同統治者シェションク2世となったが、わずか在位1年でこの世を去っている。 そしてもうひとつの例外は、タケロト2世とその息子オソルコン王子である。前述したとおりオソルコン王子はアメン大神官として大変な苦労を強いられたが、任務遂行に対する執念や立ち回りかた、慎重に機を読む性格などは充分ファラオとしての資質を備えていたものと評価していい。父タケロト2世もそれを認め、自分の後継者として考えていたのである。タニスで閑職のままとどまっていたその弟シェションクにとっては、面白くないことであった。彼は何とか兄を出し抜いて権力を手にするべく、地下で行動していたとみられる。 そして紀元前825年、シェションク王子は父タケロト2世の死に際して葬儀を強行し、さらに王位を宣言してしまったのである。そのときタニスや近隣都市がどのような状態にあったか、それを物語る詳しい史料はない。しかし王位のぼったシェションク3世は、資格がなくても独力で王位をもぎ取れることを実力で示したのである。のちに彼が悩まされることになる地方長官たちの分離独立の機運は、皮肉にも彼自身が最初の実行者だったのだ。 このような非道が許されるならば俺たちも…という機運は徐々に広がっていった。それは容易に、クーデターによって誕生した政権などに従うよりは、独立して誰にも干渉されない別天地を作ろうという大義へとすり替わった。デルタ地帯中部、商業都市レオントポリスの地方長官ペディバステトはそのもっとも強力な推進者であった。 ペディバステトはシェションク3世の弟に当たる人物で、父タケロト2世によってレオントポリスの長官に任じられていた。レオントポリスはデルタ地帯のほぼ中央に位置しており、メンデス、ブシリス、アトリビス、そしてヘリオポリスといった大都市にも近く、アジア・アフリカ双方から運ばれてくる物資の集散地として古くから栄えていたのである。ペディバステトはこの経済力に目をつけ、クーデター政権に従うことを嫌って、都市単位での独立王朝樹立を決断したのである。 もちろんその決断は、兄シェションク3世の地方政策が無気力とも思えるほど積極性を欠いていたことも背景にあったことだろう。紀元前820年に起こったテーベでの内乱に際してもシェションク3世は積極的な鎮圧行動をとろうとせず、ハルスィエセの大神官僭称を追認していたからである。 そしてそれから2年後の紀元前818年、ペディバステトはレオントポリスで即位式を強行し、ペディバステト王(在位前818年頃〜前793年頃)となった。この行動を兄シェションク3世は驚きをもって見たことだろうが、やはり今回も王位僭称を追認するという形で事態の処理が図られた。タニスにとって確かに国内独立政権の誕生は歓迎するべきことではないが、ペディバステトが第22王朝の血縁者であったことから、新王朝をレオントポリスにおける第22王朝の出先機関と見なすことにしたのだろう。 もちろん、現実はまったく違っていた。レオントポリスに誕生した第23王朝はタニスの第22王朝の指図を受け付けようとしなかったばかりか、新たな行政機構や独自の軍隊を構えて、タニスに敵対する動きさえ見せたのである。ただペディバステト王は本気で兄と敵対する気持ちまで持ち合わせておらず、もっぱら自国の独立を維持するための自衛措置にとどまったようである。 ペディバステト王は即位後、25年もの長期にわたって政権を守りつづけた。しかし身内から王位をうかがう者が現れないようにするためかどうか不明ではあるが、彼は息子を共同統治者に指名し、イウプト1世(在位前804年頃〜前803年頃)として即位させることにした。イウプト1世はレオントポリスで父とともに政務をとることになり、約2年間王位にあったが、病を得てあっけなく最期を迎えてしまったのであった。ペディバステト王の悲しみはいかばかりであったか、その後彼は死ぬまで、共同統治者を立てようとはしなかったのである。 しかしながらペディバステト王の興した第23王朝は、ただの王位僭称にとどまらず、レオントポリス周辺という狭い領域に限定されながらもよく独立を守りきり、約一世紀もの間、誰にも干渉されない別天地を築き上げたのだった。その歴史的意義は高く評価されていいはずである。 2.勢力争いの果てに 長命だったペディバステト王を受け継いだ息子のシェションク4世(在位前793年頃〜前787年頃)だったが、すでに壮年を越した王に残された時間はそれほど長くなかった。わずか6年という短い治世期間を通じて独立維持のため奔走したシェションク4世は、志半ばにしてこの世を去らなくてはならなかったのである。 シェションク4世には、すでに成人に達した王子がいた。彼は父の死後その王位を継ぎ、オソルコン3世(在位前787年頃〜前759年頃)としてレオントポリスの支配者になったが、その領土は相変わらずレオントポリス周辺に限られており、30年前に祖父ペディバステト王が独立した当時とそれほど変わっていなかった。祖父、父と継承された施政方針が、独立自衛の維持に集約されていたからである。だが増え続ける人口はとてもレオントポリス周辺だけでまかないきれなくなっており、オソルコン3世は領土拡張の必要に迫られていた。 しかし大伯父シェションク3世率いる第22王朝は、いまだ全エジプトのファラオとして変わらぬ威光を備えていた。そこで経済力においても軍事力においても到底かなわないと感じたオソルコン3世は、老いた大伯父が退場してくれることをひたすら待つことにしたのだった。その一方で、息子のタケロトを空席になったヘラクレオポリス大神官の座に滑り込ませるなど、根回しも怠らなかったようだ。 紀元前773年、52年もの在位期間を誇ったシェションク3世もついに斃れた。即位後14年間も待ち続けたオソルコン3世はついに行動を起こす。中部デルタ地帯に散っていた血縁の地方長官たちを政戦両略によって従えることに成功すると、アトリビスやヘリオポリスなどの大都市圏へも支配の手を伸ばしはじめたのである。タニスでこの有様を見ていた第22王朝のパミ王も、自分より年下のオソルコン3世が見せるエネルギッシュな行動を抑えることはできなかったのであろう。 オソルコン3世は遠く離れたヘラクレオポリスに送り込んだ息子タケロトに非常に目をかけており、大神官のみならず地方長官の座も与えていた。しかし壮年を迎えたオソルコン3世もようやく後継者の育成を思うようになり、タケロトを呼び寄せて共同統治者に指名したのだった。 離れ小島のような領土をよく守りきったタケロトには、並はずれた行政能力があったのだろう。レオントポリスに帰ってタケロト3世(在位前764年頃〜前757年頃)として即位した後も、父を助けてつぎつぎと政務をこなしていった。だが第3中間期において共同統治者となった者は、ことごとく早世を余儀なくされている。そうした歴史をタケロト3世が知っていたかどうかはわからないが、彼らが早世する理由として、宮廷内における激務があったことは確実である。タケロト3世もまた、王でありながら宰相と同じような職務で身をすり減らす苦しみに耐えていたことだろう。治世期間の半分を「待つこと」に費やしたオソルコン3世は、在位28年にしてこの世を去った。息子のタケロト3世はようやく単独統治者となった(実に、第3中間期に入って初めて)が、わずか2年にして父を追うように亡くなってしまうのだった。かつて自分の任地だったヘラクレオポリスでは、旧部下のペフチャウアバステトが地方長官となって強大な勢力を誇っており、さらに南方のヘルモポリスでも自分の弟である地方長官ニムロトが王位を僭称する勢いを見せていた。その対策に追われる中での最期だった。 早世したタケロト3世を引き継いだ弟のルドアメン王(在位前757年頃〜前754年頃)は、勢力拡大を続けるヘラクレオポリス長官ペフチャウアバステトに対し、自分の娘を嫁がせて権力機構の中に組み込もうと画策した。だが王家との血縁関係のなかったペフチャウアバステトにとっては渡りに船である。彼はファラオの娘と結婚したことで王位の資格を得たと考え、ついに独立に踏み切ったのだった。この誤算に驚いたルドアメン王だったが事態を止めることはできず、さらに王の弟でヘルモポリスの長官だったニムロトまでが、これを見て王位を僭称してしまったのである。当初の思惑と違う展開に心を痛めながら、ルドアメン王は病を得てこの世を去った。わずか3年の在位期間だった。 ルドアメン王の息子イウプト2世(在位前754年頃〜前715年頃)は若くして王位にのぼり、以後40年近くもレオントポリスを守りつづけた人物だったが、彼はこれまで第23王朝の王たちが経験してこなかった、桁外れに大きな歴史の渦に翻弄されなければならなかった。南方からヌビアの勢力が澎湃と巻き起こり、ついにはテーベをも制覇してしまったが、彼はこの未知の敵と対峙することになったのである。 紀元前728年、高まるヌビアの脅威を前に、これまでにない壮大な軍事同盟が結成された。 主唱者はサイスの王テフナクト。彼は自分が王位を名乗るのと同時にこの軍事同盟を提唱し、ヌビアの脅威にさらされているすべての地方政権に対して協力を呼びかけたのである。そこにはすぐに数多くの下エジプト諸都市が加わったが、第22王朝のオソルコン4世、ヘラクレオポリスのペフチャウアバステト王、そしてヘルモポリスのニムロト王までが参加を表明していた。イウプト2世はかつて勢力争いを演じたこれらの天敵と肩を並べることに抵抗を感じたことだろうが、より大きな脅威を前にして古い恩讐を問題にすべきではないと、決然と同盟に参加することにしたのである。第3中間期を通じて出来上がった群雄割拠が、ヌビアという脅威をきっかけにして再びまとまったことになる。まさに画期的な現象だった。 雨降って地固まるの格言どおり、デルタ地帯の王たちは持てる全力をもってヘルモポリスへと進軍し、北に向かうヌビアの大軍と初めて相まみえた。イウプト2世もこの遠征に参加しており、ヘルモポリスで同盟諸王とともに気炎を上げたことであろう。 紀元前720年のヘルモポリス包囲戦は、ヌビア軍の圧倒的な勝利に終わった。第22王朝のオソルコン4世と第23王朝のイウプト2世、そして第24王朝のテフナクト王はその場を脱出することに成功したが、ヘルモポリス王ニムロトとヘラクレオポリス王ペフチャウアバステトはそこで降伏してしまった。こうして同盟は瓦解し、イウプト2世は敗残の身でメンフィスまでたどり着いたのだった。 やがてメンフィスも包囲されるに及んで、イウプト2世はついに降伏する決心をした。即位後34年、老い疲れた王はうやうやしくピアンキ王の前に平伏し、新たなエジプトの支配者を自身の目で見つめたのであった。 イウプト2世はその後5年間、レオントポリスで引き続き統治することを許されたが、彼の心はどんなに痛めつけられ、屈辱に喘いだことだろうか。紀元前715年に行われたシャバカ王の全国統一事業に対しても彼はいさぎよく退位して、第23王朝の歴史を清算したのだった。 →写真についての解説はこちら |
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| 第5節 第24王朝 |
1.サイスのテフナクト王 デルタ地帯の中でも、アジアに近く交易路も整備された東部(タニス、ブバスティスなどを含む)の発展はめざましく、第21、22、23と3つもの王朝が興って勢力争いを続けていた。だがその一方で、デルタ地帯西部は発展から取り残されてしまっていた。 第20王朝後期よりデルタ地帯への植民を進めたリビア人は、東部にメシュウェシュ族、西部にリブ族が自然と分布した。だが経済活動に有利な土壌に恵まれたメシュウェシュ族が急速に発展していくのに対し、有効な交易路をもたない西部は経済発展が著しく遅れたのである。ところが皮肉にも、経済的に恵まれた反面エジプト人と同化していったメシュウェシュ族とは対照的に、発展が遅れたがゆえにリブ族は古来からのリビア人気質と文化を色濃く受け継いでいたのである。 デルタ地帯西部の中心都市はサイスといい、その歴史は初期王朝時代にまでさかのぼるといわれている。しかしその伝統ある都市サイスもその当時すでに市民のほとんどがリビア人で占められていたはずであり、地方長官も代々リブ族の酋長が務めていた。そうした時代にあって、第3中間期末期の紀元前8世紀中ごろ、リブ族の酋長テフナクトがこの座についた。 テフナクトという男は非常にリビア人的な進取の気概にあふれており、自分の思うところを遮二無二突き進むというタイプの人物だったようである。彼も紀元前727年ごろに単独で王位につき、テフナクト王(在位前727年頃〜前720年頃)と名乗ることになったが、当時存在した王たちはすべて第22王朝の血縁をルーツにしていたのに対し、テフナクト王だけにはそうした背景がなかった。それでも王位を自称するところに、テフナクト王という人物の気概を感じ取ることができる。のちの歴史家マネトーも、彼の建てた王国を正式に第24王朝として認めたくらいであった。 サイスのテフナクト王については、対ヌビア戦争における活躍ばかりがクローズアップされがちであるが、実はそれより以前、地方長官の座にあったころから彼はアジアの趨勢を敏感に感じ取っており、混乱するパレスティナへの介入を模索していたことはあまり知られていない。紀元前8世紀後半はメソポタミアの覇者アッシリアの勢力拡大期にあたっており、パレスティナにあった二国のうち北部のイスラエル王国はアッシリアの経済封鎖と軍事的脅威にさらされて、もはや風前のともしび同然の状態であった。アッシリア王ティグラト・ピレゼル3世(在位前745年頃〜前723年頃)はすでにバビロンを制覇して「バビロニア王プル」と名乗っており、その余勢を駆ってイスラエル王国の首都サマリアに猛撃を加えていたのである。 南部のユダ王国はアッシリアの支配を受け入れ、ユダ王アハズは毎年の貢納を納めていた。だがイスラエル王ペカはそれを拒否して徹底抗戦の構えに出たため、ティグラト・ピレゼル3世の逆鱗に触れたのである。その結果国土の大半は奪われて住民が連れ去られ、ペカ王もまた貢納を余儀なくされた。その後ペカ王は暗殺され、ホセアがクーデターによって王位についた。紀元前731年ごろのことであった。 ホセア王はどうにかしてアッシリアの支配から抜け出したいと願っていたが、独力で抗戦することの限界を感じ、後押ししてくれる同盟者を探していた。そこにテフナクト王が乗ったのである。 テフナクト王の援助は5年以上も続いたが、それは内外ともに秘密の形で進められた。テフナクト王もまたアッシリアの勢力を危険視していたに違いなく、アジアの地に足がかりを得るためには邪魔な存在だと考えていたのだろう。ところが紀元前722年、ついにこれがアッシリア王に発覚してしまったのである。 当時のアッシリア王はシャルマネゼル5世(在位前723年頃〜前722年頃)であったが、彼は父ティグラト・ピレゼル3世が残した領土を持てあまして強権政治に頼るほかなく、国内からは不満が噴出していた。それだけにシャルマネゼル5世はこの事態を重くみて直ちにイスラエル討伐の軍を起こし、これをみずから率いてサマリアへ向かったのである。事ここに至って覚悟を決めたホセア王は籠城を決意し、サマリアを要塞化してアッシリア軍を迎え撃つ決心をする。エジプトの援軍もあってイスラエル軍は奮戦し、アッシリア王シャルマネゼル5世を戦死させるという戦果すら挙げたが、所詮は精強アッシリア軍にはかなわなかった。ホセア王はついに捕らえられ、サマリアも陥落してイスラエル王国は滅亡した。それと同時に、テフナクト王の野望も夢と消えた。 このいきさつは、『旧約聖書』の「列王記(下)」第17章3〜4節に記されている。ここではホセア王に援助を与えていた人物を「エジプトのソ王」という実名で紹介しているが、どうもこのソ王がテフナクト王であるらしい。 テフナクト王は第3中間期において即位した王の中で珍しく、みずから闘争を求めて時代を駆けめぐった人物であった。しかし彼はあくまでもエジプトの「旧時代」を代表する立場であり、新たに押し寄せるアッシリアやヌビアといった次世代の主人公たちに対抗する存在であったといえる。混乱しつつも中だるみ時代であった第3中間期は、彼のように強烈な光を放つ人物を、最後に用意していたのかもしれない。 →写真についての解説はこちら 2.ヌビアとの決戦 第3中間期末期にあたる紀元前8世紀後半、エジプトは南から怒濤のように押し寄せてくる強大な勢力に脅かされていた。その勢力こそが、かつて新王国時代終期にエジプトの支配から脱し、独自の文化を育んできたヌビア人たちであった。 ヌビアのナパタを首都とするヌビア人(現在のエチオピア人)たちは、第20王朝の崩壊とともにエジプトの支配から脱して以来、独自の文化とエジプトの先進文化とを織りまぜつつ発展を続けてきており、エジプトが第3中間期という混乱期を演じている間にも着々とその実力を高めていた。その支配階級は当初のエジプト人王家から土着のエチオピア人王家に変わっていて、紀元前8世紀中期の人物であるピアンキ王は初めてエジプト風の即位名および称号まで制定していた。 紀元前730年ごろ、この勢力の強大さに危機感を抱いたサイス長官テフナクトの呼びかけによって、これまでにない大同盟が発足した。言わばこれは共通の敵に対処するために分裂状態を打破しようとの遠大な構想であった。しかし従来いがみ合い、互いに血まで流し合ってきた仇敵同士である諸国である。そう簡単にテフナクトの呼びかけに応える国などあるまいと思われたが、第22王朝のオソルコン4世とヘラクレオポリスのペフチャウアバステト王、そしてヘルモポリスのニムロト王が参加を表明してから流れが変わった。ヌビアに対する恐怖心を抱きながらも参加をためらっていた諸都市が続々と加わるようになり、ついには第23王朝のイウプト2世までが参加したのである。 その頃ヌビア王ピアンキはテーベを無血開城し、カルナック神殿に詣でて宿願だった国家宗教の復興を始めようとしていた。そんな彼が決然として軍を動員し、遠征軍編成してナイル川を北上させはじめたのである。ピアンキ王は当初、下エジプトまで支配下に置くことまでは考えていなかったようで、テーベにおいてヌビア人王朝の権威を誇示することで満足していたらしい。それが一転して遠征を決断するに至ったのは、サイスのテフナクト王が発揮した統率力を危険視したからだと言われている。 対するデルタ同盟側は、ニムロト王の本拠地ヘルモポリスに集結していた。彼らの戦術はヘルモポリスの城砦を策源地として、これまでエジプト陸軍が得意としてきた野戦によってヌビア軍を打ち破るというものである。野戦軍の指揮官にはヘラクレオポリス王ペフチャウアバステトが選ばれ、彼は勇躍して出撃していった。 ペフチャウアバステト王は大軍を率いて南に向かい、ヌビア軍の小勢力を小競り合いで易々と蹴散らしながら進んだ。しかしヘルモポリスの南方、ネフェルシのあたりで野戦軍はヌビアの本隊に遭遇したため、両軍は散開して対峙することになったのだった。 期せずして両軍は激しい戦闘をくり返したが、本隊に接して初めて、ペフチャウアバステト王は野戦軍指揮官としての自分の実力が、ヌビア軍の戦術には遙かに及ばないことを思い知らされる。エジプト側の野戦軍は巧妙なヌビア歩兵部隊の散開運動に翻弄されてさんざんに打ち破られ、生き残った部隊は戦場を放棄してヘルモポリスへ逃げ帰る始末となった。ペフチャウアバステト王も命からがら戦場を脱出してヘルモポリスへ帰還した。 しかもこのヌビア軍は、ピアンキ王に率いられたものではなかった。彼はテーベでこの戦争の帰趨を見守っていたのである。その後ヌビア軍はヘルモポリスを取り囲んで圧迫を加えたが、デルタ同盟も敗れたりといえどもいまだに大兵力を温存しており、容易に挑発に乗ることはなかった。一転して戦況は膠着してしまったのである。 ここに至って、ピアンキ王はようやく重い腰を上げた。彼が残余の兵力を率いてヘルモポリスに到着したという知らせは、籠城している同盟軍側にも届いたことだろう。もしかしたらこの時点で、ヌビア軍に降伏する諸侯がいたのかもしれない。ここで連合軍は解散し、ヘルモポリス王ニムロトとヘラクレオポリス王ペフチャウアバステトはヌビアに恭順する道を選んだ。第22王朝のオソルコン4世と第23王朝のイウプト2世、そして第24王朝のテフナクト王は北へ逃れたが、間もなくメンフィスまで軍を進めたピアンキ王に対してオソルコン4世とイウプト2世が臣従の礼を行ったため、サイスへ逃れたテフナクト王はひとりぼっちになってしまった。 テフナクト王はサイスで再起を誓い、近在の諸都市に呼びかけて軍備の増強に取りかかったが、古来の聖都メンフィスにまで至ったヌビア軍は全エジプト統一の最終段階に差しかかっており、もはやテフナクト王に味方する都市はまったくなかった。かの豪傑も、ようやくみずからの野望が潰えたことを思い知ったのである。 時代の変わり目にあって必死に抵抗したテフナクト王ではあったが、時に利あらず、デルタ同盟という壮図もヌビア軍の前で水泡に帰し、意気消沈して和平を求めるよりほかなくなった。ヌビア側の碑文に、テフナクト王が古めかしい美辞麗句を並べた手紙を送ってきたことが記されている。これを見たピアンキ王は、テフナクト王の退位と引き替えに引き続きサイスを治めることを許したのだった。 退位したテフナクト王ではあったが、再起を期して体勢の立て直しに着手していたらしい。しかしその後の彼がどうなったのか、記録には残っていない。王位は息子のボッコリス(在位前720年頃〜前715年頃)が継ぐことになった。 王位にのぼったボッコリス王はギリシア語名で、エジプト名をバクエンレンエフという。彼の聡明さは伝説にも登場するほどで、ギリシア神話の中でヘラクレスと論争したのが彼であるといわれている。だがその反面ボッコリス王の境遇は、肩身の狭いものだった。ようやく王位を得たのに全土はもはやヌビアの第25王朝が制覇しており、彼はただピアンキ王によりサイスの自治を認められているにすぎなかったのである。 それでも彼はサイスを従来の商業都市として守り通し、家柄の復興を願って6年ほど活動したが、かつて彼をサイスの王として認めたピアンキ王が紀元前716年に死去し、代わって統一傾向の強い弟のシャバカ王が後継者となるに及んで、ボッコリス王はすべてを諦めざるをえなかった。翌年始まったデルタ地帯の統一事業を前にボッコリス王は第25王朝の権威に屈し、王朝の廃絶を確認したのである。 こうしてサイスの第24王朝は、たった二代の王によって、わずか13年の歴史に幕を閉じた。 それから約50年後、サイスの地方長官として登場するネコ1世はボッコリス王の息子か孫であるとされている。第24王朝の血脈は、第25王朝によるヌビアの支配と対アッシリア戦争という苦難の時代を経て、第26王朝へと受け継がれていったのである。 |
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