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● お 読 み い た だ く に あ た っ て ●
当室では第1王朝から第2王朝までの「初期王朝時代」について解説しております。
これまで伝説上の存在であった統一者メネス王の実在性についてや、
エジプト統一後も根強く残っていた先王朝時代以来の構造的問題についても考察いたしました。
「スコルピオン」王やナルメル王についての解説とあわせてお楽しみください。
また、
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● 内 容 目 次 ●
 第1節 統一以前のエジプト
 1.エジプト王国の揺籃 3000年以上も続くことになるエジプト王国・エジプト文明は、どのように生まれたのでしょうか。ここでは文明の誕生にまつわる因果関係、伏線といったものを解説します。またエジプト統一という偉業が、果たして歴史の必然であったのかどうか、も検証します。
 2.実在した「スコルピオン」王 ヒエラコンポリスの遺跡で見つかった「スコルピオン」王のメイスヘッドにより、初期王朝時代が始まる前に、「スコルピオン(サソリ)」王という詳細不明の王が実在したことがわかりました。われわれはこの謎の多い「スコルピオン」王の実像に迫り、彼が歴史的にどのような位置を占めているのかを考えてみようと思います。
 3.ナルメル王が統一者か? 「ナルメル王のパレット」は、伝説上の存在であるメネス王の姿を伝える貴重な発見です。実在が確認されたナルメル王なる人物の事績を、ナルメル王のパレットをつぶさに研究することによって読み解こうと思います。そこには一体、どんなメッセージが隠されていたのでしょうか?
 4.メネス王との関係 マネトーが統一者であるというメネス王は、実在した王の誰と同一視すればよいのでしょうか。ここでは「スコルピオン」王、ナルメル王、そして第1王朝の祖アハ王の3名を引き合いに出し、そのうち誰がメネス王であったのかを考えています。
 第2節 第1王朝
 1.アハ王による建国 第1王朝の開祖となったアハ(ホル・アハ)王の事績を詳しく見ていきましょう。上エジプトからなし遂げたエジプト統一という偉業、また新首都メンフィスの建設という驚くべき政策の数々を実行できたアハ王とはどんな人物だったのでしょうか。偉大な政治家の生涯を追いました。
 2.強大な王、ジェル王とジェト王 アハ王の後継者として強大な権力を振るったジェル、ジェトの親子。第1王朝時代における宗教的な象徴としてのファラオ像と、繰り返される遠征でみずからの勢力を広げていくエネルギッシュな姿。数百人もの殉葬者を生き埋めにすらした王たちの実像に迫ります。
 3.混乱の時代の到来 驚異的な実行力で勢力を広げるエジプト王国。しかし、危機的な時期は突然やってきました。ここでは悲劇的な死を迎えたアネジイブ王と簒奪者セメルケト王を中心に、近年発見された貴重な史料を参考に「暗黒の時代」を解明します。
 第3節 第2王朝
 1.平和な時代 ヘテプセケムウイ王を始祖とする第2王朝の初期は、実在ははっきりしているのに、その実像がわかっていない王ばかりです。本当は5〜6人だったはずの王も、マネトーは9人だったと書いています。彼らの存在は、どのように判明したのでしょうか?
 2.宗教問題と対立関係 上下エジプトの内部対立が顕在化したとき、当事者である王はどんな対応策をもって国家を守ろうとしたのでしょうか。この時代に即位したペルイブセン王、カセケムイ王のふたりを比較して、そのあまりにも対照的な人格と能力の差を浮き彫りにしたいと思います。


第1節 統一以前のエジプト


1.エジプト王国の揺籃

 先王朝時代の末期になると、貧富の差や個人的な能力の差、または代々の家柄の差などが身分の分化につながり、支配層と被支配層とが形成されていったと考えられる。
 またこの頃になると都市の整備が本格的にはじまっている。きちんと区画整理された街並み、道路や街路樹、神殿までも有する最新の都市が、第1王朝が生まれるずっと以前からすでに建設されていたのである。ナイル川上流地方のエレファンティン、ヒエラコンポリス、アビュドスなど初期王朝時代における代表的な都市は、先王朝時代からすでに整備が進んでいた。
 ただし、ナイル川下流地方、デルタ地帯における当時の都市遺跡はほとんど見つかっていない。上流地域の住宅の建材が石材と土、下流地域は木とパピルスであったので、下流地域の都市は時とともに朽ちていったのだろう。
 マネトーによれば、第1王朝が誕生する以前には、国土は「上エジプト」と「下エジプト」とに二分されていたという。その真偽については決定的な証拠がないだけに推測にすぎないが、もし事実だったとしても、先王朝時代末期には経済レベル、文化レベルでの統合がかなり進んでいたようである。おそらく両地方を結んで流れるナイル川が、高速交通の役割を果たしたのだろう。
 ただし政治レベルでは対立が根強く残っており、軍事的な緊張が続いていた。また宗教的にも統合は進んでいったようだが、初期王朝時代に至ってもいまだに「土地神信仰」が地域住民の文化に入り込んだままだった。この構造的な問題は、第2王朝末に決定的な危機をもたらすことになる。
 とはいえ、すでに始まっていたとされるアジア(とくにメソポタミア文明圏)との交流は文字をはじめ、数多くの外来文化をエジプトにもたらしたものと思われ、急速な物質文明の発達が促進されたことは疑いがない。そういった背景もあり、上エジプト、下エジプトといった地方格差は徐々になくなり、統合は自然に進んでいったと考えられる。
 そして混迷の時代に終止符を打ち、エジプト統一という偉業は、伝説上の王メネスによってなし遂げられたことになっているのである。


2.実在した「スコルピオン」王

「スコルピオン」王のメイスヘッド。
写真をクリックすると説明を表示します そうした両地方の統合は、当時さかんに描かれた宗教的な図柄をみればおのずと推理できる。
 先王朝時代の王「スコルピオン(サソリ)」王は、現在のところ実在が確認されているエジプト人の中では、もっとも古い部類に入る人物である。1898年にヒエラコンポリスの竪坑から見つかった「スコルピオン王のメイスヘッド」に刻まれたヒエログリフの様式によって、第1王朝以前の人物であることが確認されたのである。
 メイスヘッド(槌鉾の穂先)に彫刻された王は、上エジプト王の象徴である白冠をかぶり、儀式用の鍬をふるって部下が差しだしたザルに土砂を落とそうとしている。この儀式は灌漑用の水路を開くためのものか、神殿などの建造物を起工する前の「鍬入れの儀式」のどちらかであろう。王は伝統に従って、ほかの人物より大きくされている。
 「スコルピオン王のメイスヘッド」で、「スコルピオン」王は上エジプトの白冠だけをかぶっている。メイスヘッドの図柄は半分しか残っていないので、もし赤冠をかぶった王が残り半分に刻まれていたら話は別だが、今のところ、「スコルピオン」王は上エジプトだけを支配していたということになっている。
 またメイスヘッドの上半分には「ノモス」の旗印が4本(もっと多いかもしれないが)彫られているが、この旗竿が複数あるというだけでも、彼がいくつかのノモスを支配下にもつ「領域国家」の王であったことの証明になる。
 しかし実在がはっきりしたとはいえ、彼にはまだ謎が多い。第一に、名前がわからないのである。
 彼の顔の前にサソリが彫られているので、便宜的に彼は「スコルピオン」と呼ばれているにすぎない存在である。もしこのサソリが彼の名前を表すものだとしても、王名を神聖化する「セレク」に入っていないので、ナルメル王や第1王朝の王たちのような「神としての」ファラオの地位は確立できていなかったのかもしれない。
 謎の第二は、いつごろの人物なのかわからないことだ。もし赤冠をかぶらず、白冠をかぶった図像だけだったとしたら、ナルメル王よりは前の人物ということになるのだが…。
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3.ナルメル王が統一者か?

「ナルメル王のパレット」ウラ面。
写真をクリックすると説明を表示します 1898年にヒエラコンポリスで見つかった遺物のなかに、もうひとつ重要なものがあった。現在はエジプト・カイロ博物館に収蔵されている粘板岩製化粧板「ナルメル王のパレット」である。これに刻まれたセレクの中の絵(記号?)が文字だったということがわかって以来、ナルメル王という人物の実在と事績が明らかになったのである。
 「ナルメル王のパレット」は化粧用の顔料をすりつぶすためのくぼみがついた化粧板で、高さ64センチ、幅42センチ、厚さ2.5センチにもなる巨大なものである。当然、実際に使用された形跡は認められなかった。儀式用のものだったと思われる。
 装飾面であるウラ面には、白冠をかぶった王が捕虜の前髪をつかんで、今にも棍棒で打ちすえようとしている図柄が大きく浮き彫りされている。彼の右側に描かれた大きな鳥はホルス神を示すと思われ、この鳥もまた、捕虜の鼻の穴に通したロープを王に手渡そうとしている。「王の武勲の陰には神の姿がある」という神聖性を誇示しているかのようだ。
「ナルメル王のパレット」オモテ面。
写真をクリックすると説明を表示します 顔料をすりつぶすための浅いくぼみがあるオモテ面の上半分には、首を切られて横たわる捕虜を前に、進軍する王とその部下たちが描かれている。そこでひときわ大きくされた王は、下エジプト王の象徴である赤冠をかぶっているのである。つまり、王は上・下両エジプトの王であることをここで宣言していることになる。彼が統一者なのかといわれる最大の理由である。
 進軍する王の部下たちが捧げ持つ4本の旗竿の頭部には、彼が支配下においたであろう各ノモスの旗印がはためいており、示すところは「スコルピオン」王のメイスヘッドと何ら変わるところはない。大きな違いは、「スコルピオン」王のメイスヘッドが豊穣を、ナルメル王のパレットが戦争による武勲を表現していることであろうか。
 そして画期的なことに、パレットの最上部にあるふたつの雌牛の顔(ハトホル神の象徴と思われる)の間に、王の名前と思われる文字が彫られていたのである。
 王権を象徴するセレクの中には、ヒエログリフで、立てられたノミの上に横たわるナマズが彫られている。ルールに従えば「ナルメル」と読めるのだ。おそらく、彼のホルス名なのであろう。この文字はオモテ面で赤冠をかぶった彼の右側にもある(セレクには入っていないが)ので、王自身の名前であることは明らかである。
 パレットでナルメル王は、棍棒を振り上げて捕虜を打とうとしている。この図柄は「武力によって支配する」王の権力を示しており、それはなんとローマ時代にまで受け継がれたのである。エスナにあるクヌム神殿にも棍棒で捕虜を打とうとしている王の図があるが、ローマ皇帝ティトゥスであることがわかっている。
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4.メネス王との関係

 白冠と赤冠を同一の人物が身につけることは、上下エジプトがはじめて統一されたという歴史的事実を伝えるものである。そしてこのときを、第1王朝の始まりとする通念があった。
 マネトーは主著『エジプト史』の中で、エジプト初代の王を「メネス」と呼んでいる。それは高校生の世界史の教科書にも載っていておなじみの人名であるのだが、実在したかどうかは確実でない。ゆえに昔から、メネス王は考古学的発見によって実在が判明した王たちのうち誰にあたるのか、議論が絶えないのである。わたしが使用した資料にも、ひとつとして同一の意見を述べたものがないくらいである。
 もっともポピュラーなのが、ナルメル王とメネス王とが同一人物であるという説。「ナルメル王のパレット」を見る限りでは彼がエジプトの統一をなし遂げたことになっているが、「メネス王が首都メンフィスを造営した」という話になると、上エジプトに本拠を置き、ヒエラコンポリスやティニスを中心に支配していたナルメル王が、果たしてはるか北のメンフィスにまで首都を設定し得たかどうかとなると、根拠がないだけに説明に苦しむ。
 ふたつめが、「スコルピオン」王とナルメル王が同一人物で、さらに彼らこそがメネス王だとする説である。確かに両者にまつわる遺物はほぼ同じ場所から見つかっており、信憑性のある話だが、もし「スコルピオン」王の前にあるサソリの絵が彼の名前を示すものだとするならば、なぜサソリであって、「ナルメル」と読むナマズとノミではないのだろうか。また「ナルメル王のメイスヘッド」は王位更新祭のようすを刻んだものであるのに、王の名前が彫られていない。ただ単にナルメル王のパレットと同じ場所から見つかっただけなのだ。実際のところ、誰のものなのかは判明していない。
 本サイトで取り上げるのは、第1王朝の祖であるアハ王とメネス王が同一人物であろうという説である。だがそれも、称号のひとつに同じ語源に通ずるものがあったというのが根拠となっているにすぎない。
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第2節 第1王朝


1.アハ王による建国

 歴史家マネトーによる『エジプト史』の記述にもとづいて、プトレマイオス朝時代以来世界中で、メネスという王がティニスを基点に上エジプト軍を率いて北上し、下エジプトを征服して第1王朝を開いたという話が定説になってきた。初代の王メネスのおもな業績は、上下エジプトの境界点にある処女地を開拓して新たな都市メンフィスを築いて、そこを首都と定めたことである。
 しかし、これまで考古学的調査を重ねてきた各国は、何とかしてメネス王に結びつく、実在の王の姿を追い求めてきたのに、今になっても決定的な証拠は見つかっていないのである。メンフィスの周辺が農地であることから大規模な発掘調査が行われず、ほとんど手つかずの状態であるので、今後発掘の許可が下りれば、新たな発見があるものと期待される。
 だがメンフィスが首都と定められる前に、上エジプトにおいて、それぞれティニス、ナガダ、ヒエラコンポリスを本拠地とする3つの小さな王国があったとする研究もある。メネス王はそのいずれかの王であり、権力闘争に生き残って北に目を向けたのではないだろうか。先述のナルメル王は、ティニスの王であった。
 現在墓所が発見されている第1王朝の王のうち、もっとも時代が古いのがアハ(ホル・アハ)王である。
アハ王の象牙製ラベル。
写真をクリックすると説明を表示します アハ王はナルメル王の息子であるという。もしそうであれば、彼は生まれながらにして統一エジプトの王であった可能性が高いのである。父が残した絶対的な権力と財力を武器に、強大な軍事力を誇ったであろうアハ王ならば、新首都メンフィスの建設という冒険的政策も可能であっただろう。あくまで推測の域を出ないが。
 アハ王がメネス王であろうという説は、ナガダで見つかった小さな象牙製ラベル(身につけたり、サンダルにつけたりした装身具)に彫られていた絵柄を根拠にしている。ホルス神を表す鳥がとまったセレクの中には「アハ」というヒエログリフがあり、その右隣に、蛇とハゲワシ、「樹立する」という意味のヒエログリフが入った家のような囲みがある。蛇とハゲワシは「二女神名」であり、統一の象徴である。「樹立する」はエジプト語で「メン」と読む。この「メン」をギリシア語読みにすれば、「メネス」になるのではないか。
 メネス王が新首都にさだめたという都市メンフィスは、まったくの処女地であった。
 アハ王はエジプトの統一維持にもっとも心を砕き、上エジプトと下エジプトとの境界線上にあるナイル河畔を開拓し、そこに新たな首都を築いたのである。ここはいわば軍事境界線の上であり、そんな危険な場所に都市を築き、行政機能とみずからの宮殿を移転させるなどということは冒険であろう。だが卓越した政治力と時代を見抜く見識、そして強力なリーダーシップがあって初めて、それが可能になるのである。アハ王はそれが実行できる、理想のファラオだったに違いない。
 マネトーによれば、アハ王は62年間在位した。だがその最期はカバ狩りに出かけて、カバに返り討ちにあったのだという。歴史的偉業をなし遂げた王にとって、これほど無念な死はないであろう。
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2.強大な王、ジェル王とジェト王

 マネトーの記述では、メネス王の後継者は「アトティス王」という人物である。
 アビュドスにある初期王朝時代の王墓群において、アハ王に次いで時代が古いのは、それに寄り添うようにあるジェル王の墓だった。ジェル王がおそらくアトティス王であり、アハ王の後継者であっただろうと考えられる。
 この墓がジェル王のものだということは、ここで発掘された象牙製のラベル(副葬品に添えられていたと思われる)によって明らかになった。ラベルには文字らしきものが残されていたが、まだ文章として読めるという段階ではなく、絵文字として判断するしかない。
ジェト王の象牙製ラベル。
写真をクリックすると説明を表示します その中にあった数少ない文字情報は固有名詞であった。その中にセレクがあり、中の文字が「ジェル」と読めたことから、この墓に葬られたのがジェル王という人物であり、その実在が確認されたのである。
 その絵文字によれば、彼は船に乗ってナイル川をくだり、ブトやサイスといった聖地に詣でたことがわかる。おそらく巡礼というのは表向きのことで、本当は巡幸であったのだろう。しかもそれは、多分に軍事的な緊張をはらんでのものだった可能性がある。別の場所で見つかった同時代の線画には、軍船を率いて遠征をする王の姿が描かれており、船から川へ投げ込まれ たり、船の舳先に縛られた捕虜の図があったりした。その端に、ジェル王のセレクがあったのである。
 マネトーのいうアトティス王は、57年間在位した。彼の死に際しては、約300名もの殉葬者がその墓所の周囲に埋葬されたらしい。宗教的にも強大な権力をもたないと、このように大人数の殉葬者を得られるわけがない。アハ王の息子ジェル王は、絶対的な権力をふるうファラオであったのだ。
 マネトーはアトティス王の後継者を「ワジ」と書いている。墓所の時代的順序からするとワジ王はジェト王ということになりそうだが、それより時代が古く、また規模も大きい墓所が、ジェル王の墓の隣で見つかった。墓主はジェル王の王妃メルネイトである。
 メルネイト王妃は息子のジェル王が幼いとき、摂政または息子の共同統治者であった可能性がある。最近アビュドスで見つかった、ナルメル王からデン王まで名前が順番に押された粘土封印の中でも、ジェト王の前に「王の母」が割り込まれていた。この「王の母」こそがメルネイト王妃だろうという研究者もいる。彼女は自分の墓のまわりに、侍従であったと思われる41名の殉葬者を生き埋めにした。
 成長したジェト王は、父譲りの権力を継承したに違いないのだが、ラベルやステラ(石碑)といった史料が少ないので詳しいことはわからない。発見されたジェト王の象牙製ラベルにはセレクに入った彼の名前と、右下に配置された二女神名のほかは参考になる部分がないからである。
 ただ彼の墓所は発見されており、そこには174体もの殉葬者も埋められていた。母メルネイトが41名であったことを思えば、母をしのぐ権力を誇ったであろうことは容易に想像できる。彼と同時代の貴族セケムカ(宰相であったかもしれない)の墓もまた大規模で、主君ジェト王よりもさらに倍近く大きい。そこにも62体の殉葬者の遺体があった。
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3.混乱の時代の到来

デン王の象牙製ラベル。
写真をクリックすると説明を表示します ジェト王の後継者であるデン王は、マネトーは「ウディム王」として紹介しており、カルナック神殿にある「カルナック王名表」では、彼はヘセプティという名前になっている。即位名「セムティ」に由来しているのだろう。もし彼がマネトーのいうウディム王であれば、在位期間は14年間であった。
 デン王の事績は、当時の記録として残る壺の文様や黒檀製のラベルにいくつか描かれていたが、イタリアにあったパレルモ石にも同じ記述があったことから、その信憑性がぐっと増した。第1王朝の現在わかっている王たちは、デン王以降は、パレルモ石に並んでいることでその存在が判明したのである。それには、デン王が初めて東方への遠征を行ったことが記されており、多くの蛮族を従えようとしていたに違いない。
 デン王の息子であると思われるアネジイブ王は、マネトーによれば26年間在位した「ミエビドス王」と同一人物らしい。サッカラの私人テンロイの墓にあった「サッカラ王名表」で最初に現れるのがアネジイブ王であり、彼はナルメル王やアハ王と同じくティニスの王だと記されている。
セメルケト王とカー王の名前。
写真をクリックすると説明を表示します だが彼の治世は血塗られたものとなった。アネジイブ王は殺されて王位を奪われたのではないかという。というのは、彼の後継者であるセメルケト王は先王の名前を記録から抹消しているからである。逆に「サッカラ王名表」にはセメルケト王の名前が見あたらない。しかしパレルモ石ではアネジイブ王、セメルケト王の順に並んでいる。ここから判断すると、セメルケト王は簒奪者であり、後世においてもその名は忌避されたのだろうと思う。
 セメルケト王は18年間(パレルモ石では9年間)王位にあったが、多くの災害に見舞われており、その治世は平坦ではなかった。先王に対する天罰であったのだろう。だが彼は先王のものをしのぐ巨大なマスタバ墳を建造しており、現在もしっかりと残る堅固なレンガ壁に囲まれていた。
 第1王朝の最後の王はカー(カー・ヘジェト)王であるが、マネトーのいう「ビエネケス王」が彼だとすれば、カー王は26年間在位したことになる。だがその信憑性は少ない。
 彼のホルス名を示すセレクの中には上エジプトの王を示す白冠が入れられており(読みに含めるとカー・ヘジェトになる)、彼が上エジプトの王としてナイル川上流に君臨し、そのころ再燃した上エジプトと下エジプトとの軍事的緊張を収拾してエジプトの政情不安を払拭し、南北対立を克服したことを示している。
 サッカラにあるカー王の墓の周囲には、26名の殉葬者しか発見されていない。彼の権力が衰えたというより、殉葬という風習じたいがすたれていったからだろう。
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第3節 第2王朝


1.平和な時代

神官ヘテプ・ディフ像。
写真をクリックすると説明を表示します マネトーによると、第2王朝は家系的には第1王朝と直系の関係にあり、9人の王によって302年間続いたことになっている。彼の記述に従うならば、第2王朝にはヘテプセケムウイ、ラーネブ、ニネチェル、ウェネグ、セネド、ペルイブセン、カセケム、カセケムイとその後継者の女性(王位にあったかどうかは不明)の王がいたことになる。だが、ウェネグ王とセネド王については実在を示す史料がいっさい見つかっておらず、またカセケム王は、カセケムイ王の改名前であるという説が一般的であることから、第2王朝にはせいぜい5〜6名の王しかいなかったのだろう。
 この時代には大きな事件を記録したものがなく、パレルモ石でも、ニネチェル王の時代にいくばくかの遠征か反乱があったことを書き残している程度である。ヘテプセケムウイ王は始祖だというのにまったく記録がなく、マネトーはラーネブ王がアピスやムネヴィスなどの動物信仰を始めたことを記している。だが信憑性は薄い。
 実在すら危ぶまれた彼ら3人の王だったが、神官ヘテプ・ディフの像といわれるひざまづいた男の小像が発見されたとき、ようやく存在だけはハッキリした。ヘテプ・ディフの右肩に、彼が実際に葬儀を担当した王たちの名前が刻まれていたからである。と同時に、たったひとりの人物が3名もの王の葬儀を行ったという事実は、彼らがいかに短命であったかを物語ってもいる。
 マネトーは家系の断絶をもって王朝の交代としており、第1王朝と第2王朝もそうした分類法に従ったのだろうが、もしヘテプセケムウイ王がカー王の息子だったという史料でも出てきたなら、彼の王朝交代は事実無根であったといえよう。
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2.宗教問題と対立関係

 初期王朝時代における最大の危機はペルイブセン王の治世下で起こった。
 ペルイブセンは当初、セケムイブ(心強き者)というホルス名を名乗っていた。しかし彼の治世期間に、またも上エジプトと下エジプトとの対立が再燃したのである。
 それは宗教的対立の名を借りて後世に残っている。上エジプトのホルス神(ハヤブサ)、下エジプトのセト神(オオカミ)との神話上の確執がそのまま人間社会に持ち込まれ、宗教的対立は政治的対立へと容易に移行したと思われる。実際には両者とも軍事力を使用した、血みどろの戦いであったのだろう。それまでの平和な時代が嘘のようだ。
 戦いは一進一退を繰り返したが、あるとき、下エジプトが圧倒的に有利になった。セケムイブ王は王位と自分の生命を守る必要に迫られた。
 そのときセケムイブ王は、下エジプトのセト神への信仰に切り替えることを決断し、さらにホルス名を廃してセト名「ペルイブセン」(すべての心の希望)へと改名したのである。実際、彼のセレクの上には、ハヤブサではなくオオカミが乗ることになった。
 このような混乱は、当時としては王がホルス、セトのどちらを信仰しても国政に影響がなかった時代であったこともあり、信仰告白としての「ホルス名」「セト名」の重要性はあまりなかったのではなかったかと考えられる。だが宗旨替えは上エジプトが下エジプトの武力の前に屈したことを如実に示しており、古来かつてなかった戦乱の時代であったのだろう。
カセケムイ王の座像。
写真をクリックすると説明を表示します ペルイブセン王は在位17年(マネトーによる)で没したが、下エジプトは彼の死に乗じて一気にナイル川の上流まで攻めのぼったようである。ペルイブセンを継いで王位についたカセケムイ王は、まずこうした国難に対処しなければならなかった。
 第2王朝最後の王となるカセケムイ王は、即位当初はカセケムという名前だった(それぞれ別人だったという説もある)。カセケムは上エジプトの中心都市ヒエラコンポリスに籠城し、ついに都市を守りきって国土を保全し、さらに北に向けて進軍して下エジプトを屈服させたと考えられる。現時点で最古の王の像とされるカセケムイ王の座像は上エジプトの王冠である白冠をかぶっており、彼が上エジプトの王として勝利したことを宣言している。こうして、上エジプトと下エジプトとの対立は、彼によって最終的な決着をみたのである。
 カセケム王は王国の統一にあたってホルス名の復活をもくろんだ。だがあからさまにホルス名だけを復活させたのでは、下エジプトを再び刺激するかもしれない。そこで彼は、ホルス名とセト名を併存させることで解決をはかったのである。また名前も「カセケムイ」(ふたつの力強き者の出現)といった両面性のあるものとした。カセケムイ王のセレクの上には、ハヤブサとオオカミが仲よく並んでいるのも興味深い。
 カセケムイ王には、たぐいまれな外交的センスが備わっていたのだろう。
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