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第11章 第3中間期
カルナック神殿に残るアメン大神官パネジェム1世の像カルナック神殿に残るアメン大神官パネジェム1世の像
第21王朝と並んで国土の半分を統治し、実質上の並立王朝であった大神官国家は、エジプトにおけるアメン大神官が持ちうる権威の最高型であったいえる。パネジェム1世という人物は、それを具現化したのである。
カルナック神殿第2塔門の前に立つこの像は、もともと第19王朝のラメセス2世が寄進したものであった。パネジェム1世はこれに自分の名を彫り込み、再利用したのである。それはかつての偉大な王ラメセス2世にも伍する存在であるとみずからを誇示しているかのようにも見える。

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『図説・古代エジプト2 -王家の谷と神々の遺産-』(仁田三夫・著、河出書房新社、1998年) 20ページ
パネジェム1世のシャブティ箱パネジェム1世のシャブティ箱
1870年代に盗品マーケットに出回り、当時のエジプト考古庁によって没収された遺物のひとつ。
このシャブティ箱にはいくつかのファイアンス陶器でできたシャブティが納められていたが、この箱の外装には、このシャブティがパネジェム1世に捧げられたものであることを示すように、彼の二つのカルトゥーシュが描かれていた。左側のカルトゥーシュには「パネジェム・メリアメン(喜ばしき存在に属する者、アメンに愛されし者)」、右側には「カーケペルラー(アメンの魂の具現者)」が描かれている。さすがに死後に供えられたシャブティの箱なので、本来は左側に「ラーの息子」、右側に「上下エジプトの王」という文句が入るところに、それぞれ「王」「オシリス」が入れられているのが興味深い。

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『古代エジプト・ファラオ歴代誌』(ピーター・クレイトン・著、吉村作治・監修、藤沢邦子・訳、創元社、1999年) 227ページ
スメンデス2世がプスセンネス1世に贈ったブレスレットスメンデス2世がプスセンネス1世に贈ったブレスレット
アメン大神官スメンデス2世が、当時タニスで王として君臨していたプスセンネス1世に贈ったブレスレット。タニスの未盗掘だった王墓群から発見されたもので、紀元前991年にプスセンネス1世が死去した際に制作されたものと推測される。
ここには2種類のカルトゥーシュが交互に彫り込まれているが、プスセンネス1世に贈られたため左端と中央右に「パセバカエムニウト・メリアメン」(プスセンネス1世のエジプト名)があしらわれているが、中央左と右端には、スメンデス2世が自分の称号として「ヘムネチェルテピエンアメン」(アメン大神官という意味)を入れている。あくまでアメン大神官とのみ記し、カルトゥーシュに自分の名前を入れなかった彼の心情がうががえる例である。

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『古代エジプト探検百科』(ニコラス・リーヴス・著、岡村 圭・訳、原書房、2002年) 191ページ
現在の聖都タニス跡現在の聖都タニス跡
現在は観光地になっている、サーン・アル・ハガル(旧タニス)の遺跡。今では料金さえ払えば、未盗掘の状態で発見されたことで有名な王墓群にも案内してもらえる。
現在残るタニスの市域はもともとアメン神殿があったところで、かつてペル・ラメセスを彩っていたであろうラメセス2世の巨像があちこちに転がっていることからも、この街が放棄されたペル・ラメセスの石材を流用したという事実をうかがうことができる。創建当時は壮麗な景観を誇っていたであろうタニスの建造物も、現在ではこのように打ち壊され、引き倒された状態になってしまった。

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『古代文明の旅・エジプト』(ジョルジョ・アニェーゼ、モウリチオ・アレ・著、大塚茂夫、小笠原景子・訳、日経ナショナルジオグラフィック社、2003年) 58ページ
プスセンネス1世の黄金のマスクプスセンネス1世の黄金のマスク
1939年に行われたタニス王墓群の発掘によって発見された、プスセンネス1世のミイラに直接かぶせられていた黄金のマスク。遺体の状況は惨憺たるものであったが、黄金のマスクは埋葬後誰の目にも触れることなく、そのままの形で発見されたのである。
第18王朝時代に制作されたツタンカーメン王のマスクに比べ、黄金の量もデザインもかなり退化しているが、彫金技術の高さはそれでも目を見はるほどであり、素晴らしい完成度であることを示している。プスセンネス1世のミイラが納められていた石棺は、第19王朝のメルエンプタハ王の石棺を流用したものであった。

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『古代エジプト探検百科』(ニコラス・リーヴス・著、岡村 圭・訳、原書房、2002年) 190ページ
プスセンネス1世から部下に下賜された銀製の鉢プスセンネス1世から部下に下賜された銀製の鉢
タニスの王墓の一角、プスセンネス1世が眠っていた区画に埋葬されていたウェンジェブアウエンジェデトの副葬品。この遺体は生前プスセンネス1世に仕えた将軍のひとりで、この副葬品は彼が生前に王から下賜されたものであろう。
プスセンネス1世はこうした有能な部下に自分の娘を嫁がせ、王家に属する人数を増やすことで血統の維持を図っていたものと思われる。鉢は銀製で、中央部分に円形の金象嵌が施された逸品である。鉢の内側外縁には、この鉢がプスセンネス1世から直接もらったものであることが刻まれている。

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『古代エジプト探検百科』(ニコラス・リーヴス・著、岡村 圭・訳、原書房、2002年) 191ページ
イェルサレムの遠望イェルサレムの遠望
現在の聖都イェルサレム。手前に見えるのはダヴィデの塔とヤッファ門。この都市の基礎はソロモン王の時代に確立されたとされ、当時は「ダヴィデの町」と呼ばれていた。ソロモン王の同時代人であるサアメン王は王女をこの町に嫁がせ、ソロモン王も友好の印として彼女を王宮に住まわせたという。だがソロモン王が築いた壮麗な神殿もローマ時代に破壊され、現在はその壁面の一部が「嘆きの壁」として残るにすぎない。
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『世界史総合図録』(成瀬治、佐藤次高、木村靖二、岸本美緒・編、山川出版社、1994年) 14ページ
シェションク1世が征服した都市シェションク1世が征服した都市
カルナック神殿に寄進された「ブバスティスの門」に残る、シェションク1世の記念彫刻の一部。この図像の上には、捕虜を縄で繋ぎ、短剣をアメン神に手渡そうとするシェションク1世自身の姿が彫られている。
ここに表されているのは擬人化されたテーベの町で、女神の頭にはテーベの紋章が乗っている。その女神が縄で繋いでいるのはシェションク1世が征服したパレスティナ都市を擬人化したもので、身体が都市名を示すヒエログリフになっている。『旧約聖書』にはシェションク1世がイェルサレムに迫ったことが記されているが、どうも実情はエジプトの分遣隊が到達したにすぎないようで、この図像の中にはイェルサレムの名前が含まれていないのである。むしろ、かつて王が保護していた北部の都市名が並んでいるといったほうがよい。

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『地図で読む世界の歴史・古代エジプト』(ビル・マンリー・著、鈴木まどか・監修、古田実・訳、河出書房新社、1998年) 86ページ
オソルコン2世の三体像オソルコン2世の三体像
オソルコン2世のカルトゥーシュが刻まれた三体像。中心にオソルコン2世自身をモデルにしたと思われるオシリス神、そして左側にはホルス神、右側にはイシス神がそれを守るかのように手を添えている。中心部の青色の柱は、高価なラピスラズリがそのまま使われていた。
この像はタニスの王墓から盗まれたらしく、盗品マーケットに出回っていた。それを1872年にルーヴル美術館が入手した。精巧な金細工とラピスラズリ彫刻で作られており、第22王朝時代における美術工芸品の頂点をなすものといえる。

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『古代エジプト・ファラオ歴代誌』(ピーター・クレイトン・著、吉村作治・監修、藤沢邦子・訳、創元社、1999年) 238ページ
カロママ2世の像カロママ2世の像
アメン大神官ニムロトの娘にして、タケロト2世の妻となったカロママ2世のブロンズ像。カルナック神殿の執務室において、儀式を執り行うときの姿が表されている。彼女は当時アメン神官団を管掌するほどにまでなっていたアメン聖妻を務めた後、父の弟あるタケロト2世の妻となったのである。
この像は1829年にヒエログリフの解読で名高いシャンポリオンが入手したもので、彼はこの像について、「エジプトで再発見されたもっとも美しいブロンズ像です…この王妃の像は酸化物ですっかりおおわれていますが、きっとあなたはその両頬に口づけすることでしょう」という手紙を書き送っている。高さ60センチ、ルーヴル美術館蔵。

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『ヒエログリフの謎をとく〜天才シャンポリオン、苦闘の生涯〜』(ミシェル・ドヴァシュテール・著、吉村作治・監修、遠藤ゆかり・訳、創元社、2001年) 96ページ
オソルコン3世の母カマの副葬品オソルコン3世の母カマの副葬品
かつて第23王朝の首都として栄え、プトレマイオス朝時代にはエジプト内陸との交通路を扼する都市となったレオントポリス(現在名テル・エル・マクダム)から1915年に発見された豪華な胸飾り。オソルコン3世の父シェションク4世の妻であるカマ王妃が生前愛用していたものと思われる。
テル・エル・マクダム遺跡からの発見はそれほど多くなく、ゆえに第23王朝の歴史が闇に包まれているのであるが、遺跡の西の端にあったマスタバ墳の内部から発見された石棺の中に、カマ王妃の荒れ果てた遺体とともに、数々の副葬品が見つかったのである。その数は実に26点にも及んだそうである。

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『古代エジプト探検百科』(ニコラス・リーヴス・著、岡村 圭・訳、原書房、2002年) 146ページ
ナイルデルタの眺望ナイルデルタの眺望
かつてはエジプトとアジアを結ぶ交易路として栄え、新王国時代後期においては経済・行政の中心地となったデルタ地帯。古代のデルタ地帯は人跡未踏の湿地帯が果てしなく広がり、人々はパピルスの繁茂帯を切りひらきながら土壌を改良し、農地化していった。第24王朝が興ったサイスの付近も、このような風景だったに違いない。
デルタ地帯を網の目のように仕切るナイルの支流は、当時すでに重要な交通路になっていた。それが現在は、現地の伝統船「ファルーカ」でクルーズを楽しむ観光客がひっきりなしに訪れるようになった。

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『NEWTONアーキオ VOL.1 ファラオの王国』(ニュートンプレス・刊、1998年) 8ページ
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