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第10章 新王国時代(4)
城塞都市ミケーネの墳墓遺跡城塞都市ミケーネの墳墓遺跡
トロイ遺跡を発見したことでも知られるドイツ人考古学者ハインリヒ・シュリーマンによって、1874年から発掘が始められたミケーネの都市遺跡。有名な「獅子門」を通るとすぐに、写真の「円形墓域A」がある。
円形墓域Aは円形に石組みされた竪穴で、かつてミケーネとその周辺を統治していた王族の合葬墓と考えられている。ここからは数多くの豪華な副葬品が見つかっているが、象牙の装飾品や駝鳥の卵などはエジプトとの交易を物語る遺物として注目されている。またミケーネ遺跡の別の場所では、アメンヘテプ3世の名前が入った品物も発見された。

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『地図で読む世界の歴史・古代ギリシア』(ロバート・モアコット・著、桜井万里子・監修、青木桃子・訳、河出書房新社、1998年) 15ページ
ティリンスの城壁ティリンスの城壁
ミケーネ文明における有力な城塞都市ティリンスは、地中海全域を股にかけた交易活動で莫大な財力を形成したばかりでなく、このように堅固な周壁をも独力で建造するほどの勢力を誇った。のちのギリシア人歴史家パウサニアスはこの城壁について、ここで使われている石材のうち最小のものでも、二頭立て騾馬による挽曳でもびくともしなかったと書いている。
だがこれほどの堅固さを誇示したティリンスの城壁も、「海の民」大移動の一環とされるドーリス人の来襲を前にしてはひとたまりもなかった。城壁が破壊され、宮殿が焼け落ちた結果、ティリンスはアルゴス平野における有力都市の座から転落することになったのである。

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『図説・ギリシア -エーゲ海文明の歴史を訪ねて-』(周藤芳幸・著、河出書房新社、1997年) 43ページ
ヒッタイトの首都ハットゥシャヒッタイトの首都ハットゥシャ
トルコ共和国の中央部に広がるアナトリア高原は、キリスト教の聖地カッパドキアで世界的に有名ではあるが、ハリス川流域に広がる盆地には鉄器文明で知られる強国ヒッタイトが存在した。写真の寒村ボガズキョイ付近には、今でもヒッタイトの首都ハットゥシャの遺跡が散見される。人類文明に転換点をもたらした鉄器の製法は、この都市から世界各地に発信されたのである。
エジプトと親交を結んだハットゥシリ3世の死後、後継者となった息子トドハリヤ4世は新興国アッシリアの勢力を前に防戦一方となり、当時のエジプト王メルエンプタハに援助を請うたこともあった。だが地中海世界に破壊と混乱をもたらした「海の民」はこの老大国にも容赦なく襲いかかり、首都ハットゥシャは徹底的に破壊された。
ヒッタイトはついに、最後の王シュッピルリウマ2世ともども最期の時を迎えたのである。

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『ブリタニカ国際大百科事典』第16巻(フランク・ギブニー・編集主幹、吉田稔・発行、TBSブリタニカ、1974年) 802ページ
王墓列柱に描かれたセトナクト王王墓列柱に描かれたセトナクト王
正装し、下エジプトの支配者であることを示す赤冠をかぶったセトナクト王が、二重冠をかぶったホルス神に面会している場面。もとはタウセルト女王の墓であったKV14号墓を流用し、この柱を含む壮麗な玄室が増設された墓に彼は葬られたのである。
セトナクト王の出身地、即位時の年齢、人物像などはいっさい不明だが、彼の業績は孫のラメセス4世が編纂させた「大ハリス・パピルス」において詳しい。おそらく彼は祖国エジプトの国難を憂い、勇気を振りしぼって外敵と戦った軍人のひとりだったのだろう。セトナクトという名前は「勝利はセトにあり」という意味だが、セト神はデルタ地帯で広く信仰されていたため、彼の出身地もデルタ地帯のどこかだったはずである。

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『古代文明の旅・エジプト』(ジョルジョ・アニェーゼ、モウリチオ・アレ・著、大塚茂夫、小笠原景子・訳、日経ナショナルジオグラフィック社、2003年) 144〜145ページ
異民族と戦うラメセス3世異民族と戦うラメセス3世
メディネト・ハブにあるラメセス3世葬祭殿に刻まれた、王が異民族と戦う場面を描いた浅浮き彫りである。このような図柄はエジプト伝統のもので、トトメス3世やラメセス2世などがみずからの武勇を誇示するために描かせることが多かった。
ひときわ大きく表現されたラメセス3世は剣を振り上げ、くくり上げた捕虜を打とうとしている。このデザイン自体は古来からの伝統だが、王の像の右上に書かれた彼の誕生名や即位名、その他の文字だけは異様に深く刻み込まれているのがわかる。これには後世、この神殿が他者に流用されても王名が改竄されることなく、ここで剣を振り上げているのが永遠にラメセス3世であるようにとの彼の願いが込められているのである。

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『NEWTONアーキオ VOL.6 ギリシア文明・近代文明のみなもと』(ニュートンプレス・刊、1999年) 14ページ
「海の民」との戦い「海の民」との戦い
メディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿北外壁に残された、ラメセス3世による「海の民」との戦いを記録した一連の壁画のうち、デルタ地帯において「海の民」の船団との戦いを描いた部分。驚くほど精密に彫り込まれた壁画からは、当時の戦いの様子がひしひしと伝わってくる。
ここで注目するべきなのは、まるで陸戦ででもあるかのように「海の民」の船に踏み込み、船上から武装難民の兵士たちを追い落としている光景である。これは川幅の狭い支流に誘いこんで船の快速性を減殺し、さらに川岸に引き寄せることにより、陸地で戦うかのように兵士たちが暴れ回ることができたためである。
そもそも艦隊戦など経験したことのないエジプト軍がいかに水軍と戦うべきか。おのれの弱点を的確に知り、起死回生の策を実現させたラメセス3世の手腕には脱帽するばかりである。

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『古代エジプト・ファラオ歴代誌』(ピーター・クレイトン・著、吉村作治・監修、藤沢邦子・訳、創元社、1999年) 210ページ
「大ハリス・パピルス」に描かれたラメセス3世と神々「大ハリス・パピルス」に描かれたラメセス3世と神々
息子のラメセス4世が編纂させた歴史書「大ハリス・パピルス」に描かれていたラメセス3世。左端のラメセス3世が王権を象徴するすべての装束に身を包み、神々と対面している図である。
ラメセス3世の誕生名(本名)の中には、「ヘカイウヌ」(ヘリオポリスの支配者)という称号が含まれている。ヘリオポリスと彼とがどういった関係なのかは不明だが、このように都市名を名前に含む王は多い。ヘリオポリスはデルタ地帯とナイル河岸地帯との接点にある都市で、新王国時代以降、急速に発展した土地である。それ以前は、スフィンクス像でも有名な太陽神ラー・ホルアクティを祀る宗教都市でもあった。
ラメセス3世に向かい合っているのは、右から市神であるラー・ホルアクティ神、原初の神で太陽の産みの親でもあるアトゥム神である。

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『古代エジプト文化とヒエログリフ』(ブリジット・マクダーモット・著、近藤二郎・監修、竹田悦子・訳、産調出版、2003年) 61ページ
メディネト・ハブ全景メディネト・ハブ全景
テーベの対岸、ネクロポリス(死者の街)にある4つの葬祭殿のうち、もっとも南に位置するのがメディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿である。この建造物は最終的には葬祭殿として使用されたが、至聖所をもつ神殿としても、さらに王やその家族が居住する王宮としても使われていたことがわかっている。
北にあるメムノンの巨像(アメンヘテプ3世葬祭殿)がほとんど原形をとどめないほどに消え去っていることを考えれば、もっとも新しい時代に属するとはいえ、これほどまでしっかりと残っているのは奇跡といえる。それはおそらく葬祭殿内の石材にラメセス3世の業績に関するレリーフをびっしりと彫り込み、さらに異様なほど深く刻み込むことで、後世の石材流用を防止したことが奏効したからだろう。
この措置によって、われわれは「海の民」の大移動などに関する貴重な歴史資料を得られたのである。

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『古代文明の旅・エジプト』(ジョルジョ・アニェーゼ、モウリチオ・アレ・著、大塚茂夫、小笠原景子・訳、日経ナショナルジオグラフィック社、2003年) 132ページ
ラメセス4世の石棺ラメセス4世の石棺
王家の谷にあるラメセス4世の墓は、2番目に学術調査が始まったほど早くから知られており、石棺は墓泥棒の目をのがれて、ほぼ製作当時の姿をとどめている。王のミイラそのものは後世に神官たちによって避難させられ、アメンヘテプ2世王墓の隠し場所から見つかった。
平均寿命が現代よりずっと低かった古代エジプトにおいて、長寿は何にも代えがたいものだった。ラメセス3世の繁栄を後世に伝える役目を負った息子のラメセス4世は、精いっぱい努力するから、それまでは自分の生命の灯火を消さないでくれと神に祈るほどだったのである。だがそうした彼の願いは天に届かず、わずか6年という短い治世期間でこの世を去ってしまったのである。

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『古代文明の旅・エジプト』(ジョルジョ・アニェーゼ、モウリチオ・アレ・著、大塚茂夫、小笠原景子・訳、日経ナショナルジオグラフィック社、2003年) 146ページ
ラメセス6世王墓玄室ラメセス6世王墓玄室
兄の墓を横取りし、さらに巨額の費用を投じて拡張、装飾を施したラメセス6世の墓。その構造はセティ1世の墓と同じく一直線に玄室に向かうもので、壁画のテーマもほぼ同じである。だが彼の墓には写真正面の「大地の書」や「洞穴の書」といった新たなテーマが追加されている。
天井には壮大な天体運行図である「昼の書」と「夜の書」が描かれ、その体内に太陽の運行と星座の運行を内蔵した女神ヌトが背中合わせになっている。左の柱にはマアト女神の標章を捧げるラメセス6世自身の姿が描かれているが、本人が安置された石棺は粉々に打ち砕かれ、ミイラは辱められた。正面にある石材の残骸が、破壊されたラメセス6世の石棺である。

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『古代エジプト 王・神・墓』(仁田三夫・著、河出書房新社、2002年) 50ページ
神に祈るラメセス9世神に祈るラメセス9世
王権の衰退したエジプトにあって18年もの在位期間は、特筆すべき点である。だが彼の政治的業績はほとんど知られておらず、ただ下エジプトにいくつかの痕跡が残るに過ぎない。
ラメセス9世王墓は偉大なるラメセス2世王墓の向かい側に建造されたが、彼がそれを意識していたかどうかまではわからない。ただその地点には地下水が多く、ラメセス2世王墓と同様に彼の墓もかなり傷んでしまった。この王像はその中にあっても奇跡的に美しい姿のままで残っており、その存在感を現代に示している。玄室の天井にはラメセス6世王墓と同じ天体運行図があったが、すっかり色が落ちてしまった。

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『古代エジプト・ファラオ歴代誌』(ピーター・クレイトン・著、吉村作治・監修、藤沢邦子・訳、創元社、1999年) 219ページ
王位僭称者ヘリホル王位僭称者ヘリホル
第20王朝末期に登場し、巧みな政略と野心でテーベの支配者にまで登りつめた風雲児ヘリホル。エジプト史における彼は王位僭称者としての汚名を受けており、必ずしも評価されていないが、エジプトの歴史に大きな1ページを刻みつけた人物であることには誰も逆らいようがない。
カルナック神殿内にヘリホルが建造したコンス神殿に、彼のレリーフがある。だが彼は正式に王になったわけではないのに、図上に王者の象徴であるカルトゥーシュをいただき、額にはウラエウスの飾りを付けている。左のカルトゥーシュには誕生名ヘリホル・サアメン(ホルスはわが守り神、アメンの息子)が見られ、右側には王位にある者にしか許されない即位名ヘムネチェル・テピエンアメン(大神官、アメンの第一の預言者)が彫られている。

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『古代エジプト・ファラオ歴代誌』(ピーター・クレイトン・著、吉村作治・監修、藤沢邦子・訳、創元社、1999年) 226ページ
フェニキア人の船フェニキア人の船
地中海を活躍の場とし、レバノン杉で建造された船で交易に従事したフェニキア人。彼らはこのような帆船で交易品を積み込み、太陽や北極星の位置を頼りに、危険に満ちた航海をしながら生活していた。
エジプトで第20王朝の末期に当たる時代は、ギリシアでは文字資料のない暗黒時代である。だがこうした中でもフェニキア人は海運に生活を賭け、徐々に勢力を広げていったと考えられる。最終的には地中海をわがものとし、海港都市カルタゴを拠点にローマと覇権を競うことになるのである。
テーベの神官ウェンアメンも、こうした帆船に乗って、不安な航海をしたのだろう。

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『世界史総合図録』(成瀬治、佐藤次高、木村靖二、岸本美緒・編、山川出版社、1994年) 5ページ
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