前15世紀〜前13世紀をまとめて。紀元前15世紀の
   オリエント諸国

 エジプト王トトメス3世(在位前1480〜前1448)は、即位して間もなく、シリア・パレスティナ地域への本格的な侵攻を開始した。朝貢を怠っていたフェニキア諸都市やユダヤ人に対する懲罰のためである。彼は傭兵隊と戦車を大量に動員して北進した。
 シリア・パレスティナ連合軍はヒッタイトの助力を得てメギドに布陣し、必勝の勢いをもってこれを迎え撃つのだったが、結局は組織的な戦車戦術、そして連合軍の相互不信などによって打ち破られてしまう。トトメス3世はカルケミシュまで進軍し、ミタンニ王国と国境を接するまでになるのである。
 ミタンニ王国はエジプトとの勢力争いやヒッタイトの猛攻によってしだいに国土を喪失していき、ついに首都ワシュガンニを陥れられてしまう。まだこのころはミタンニに服属していたアッシリアに、転機が訪れたのはその時である。
 一方、エジプトはアメンヘテプ4世(イクナートン)の宗教改革が頓挫し、アジアにおける権威は失墜していた。後継者たちはどうにかしてシリアにおけるエジプトの支配を維持しようとして奮闘する。そこで起こったのが、ヒッタイトとの最後の戦い、カデシュの戦い(紀元前1299年)であった。
 エジプト王ラムセス2世(在位前1304〜前1237)は父セティ1世の政策を受けて対ヒッタイト強硬策を引き継ぎ、大軍を率いてシリアへと向かったのであった。以来、彼は若さにまかせてシリアを縦横無尽に駆けめぐり、ついにカデシュにおいてヒッタイトとエジプトの両軍は対峙することになったのである。
 ラムセス2世はオロンテス川をたくみに利用してヒッタイトの戦車隊を悩ますが、鉄製武器と柔軟な戦術で堂々と渡り合うヒッタイト王ムワタリの前に、敗走したのはエジプト軍の方であった。戦いの帰趨については諸説がある(エジプトが勝利したとする文献もある)が、エジプトの征服活動がこの時をもって停止し、ラムセスがヒッタイトとの政略結婚を強要された事実を見ても、エジプトが敗北したことが明らかである。両国は勢力範囲を厳格に決定し、エジプトはアジアから撤退して相互援助に尽力することを誓って、この戦いは終結したのである。

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