アッシリア滅亡後のオリエント地図

アッシリア滅亡後のオリエント

1. バビロン捕囚
 アッシュール・バニパルのエジプト経営の失敗とアッシリア王国の滅亡によって、パレスティナにおける支配構造は決定的に変化した。その当時、分裂したヘブライ王国の北半部であるイスラエル王国は、すでに滅亡(紀元前733年、アッシリア王ティグラト・ピレゼル3世によって)し、首都であったサマリアもその後継者シャルマネゼル5世によって破壊され、残るユダヤ人国家は、南部のユダ王国だけになっていた。
 新バビロニア王国によってハルランに拠っていたアッシリアの残党が殲滅されると、その助勢にやってきたエジプト王ネコ2世の大軍を迎え撃つべく、ユダ王ヨシヤ(ヨシュア、在位前641〜前610)はメギドに防御線を展開し、万全の準備を整えたが、結局は敗北し、ヨシヤ自身も戦死してしまう。エジプトはどうにかしてパレスティナの平定に成功した。ネコ2世は新たなユダ王として、エホヤキム(在位前610〜前597)を据えた。
 ネコ2世を危険視した新バビロニア王ナボポラッサル(在位前626〜前605)は、息子ネブカドネザルを派遣した。すぐれた軍人でもあったネブカドネザルはカルケミシュの戦い(紀元前605年)でエジプトの勢力を駆逐し、父の急死によってすぐさま王位についた。
 即位したネブカドネザル2世(在位前605〜前562)は、エジプトに傾斜していたユダへの懲罰のために、首都イェルサレムの攻略を企図した。ユダ王エホヤキムはその対策に追われるうちに急死し、後継者として息子エホヤキンが即位するが、彼はついに始まったバビロニア軍の攻囲を目にしてすっかり萎縮してしまい、即位後3ヶ月にして降伏してしまったのである。彼は捕らえられてバビロンに移送されてしまった。紀元前597年、これを第1回バビロン捕囚という。
 ネブカドネザルは前々王エホヤキムの弟ゼデキヤを王位につけ、バビロニアへの恭順を迫った。だがゼデキヤはエジプト王アプリエスの援助を頼りにしてこれにそむき、これを拒絶するのである。ネブカドネザルは激怒し、再度のイェルサレム包囲を命じた。ゼデキヤが最後まで待ち望んだエジプトの援軍はついに姿を見せず、紀元前586年、城壁は突破された。ゼデキヤはヨルダンの峡谷にのがれて後図をはかろうとしたが捕らえられ、リブラまで陣を進めていたネブカドネザルの前に引き据えられる。彼の息子たちは目の前で殺され、ゼデキヤ自身は両目をつぶされたうえバビロンに拉致された。それでもまだ手ぬるいと判断したネブカドネザルは、腹心のひとりネブザラダンに命じてイェルサレムを破壊させたのである。祭司長をはじめとする指導者層は虐殺され、住民は数珠つなぎにされバビロンへ連行された。これを第2回バビロン捕囚という。
 この惨劇は、旧約聖書「エレミヤ書」「列王記」など多くのユダヤ文学によって後世に伝えられ、のちにヨーロッパで、事あるごとに名称の拝借を受けることになる有名な事件となるのである。


2. メディア王国
 メディア人は、アッシリア王シャルマネゼル3世の戦勝記念碑「黒のオベリスク」に、「マダの国の人々」として初めて歴史に登場する。
 ウラルトゥ王国と密接な関係にあったマダの人々は、山岳地帯にまで勢力を伸ばしてきたアッシリアと小規模な抗争を繰り返していたが、ついに押し切られ、重税を納めなければならないハメになった。ウラルトゥ王ルサス1世はこれら山岳民族(ペルシア人も、「パルスアの人々」としてこの中に入っていた)を糾合してアッシリアに対抗しようとしたが失敗してしまった。このとき参加したメディア人の族長はダイウックという人物だったが、ギリシア人歴史家ヘロドトスは、彼のことを「フラオルテスの息子デイオケス」と呼び、メディア王国の建国者であるとみなしている。当のダイウックはアッシリア王サルゴン2世に捕らえられ、シリアへ追放されてしまった。
 その子フラオルテス(本名クシャスリタ)も、またその子キャクサレスもアッシリアを攻め続けたが、ことごとく失敗してしまう。それどころか南進してきたスキタイ王国に国を奪われ、服属する憂き目にあってしまう。英雄として讃えられるキャクサレスも、治世の当初は災難続きであった。
 しかしキャクサレスは、周到な準備期間を経て兵を挙げ、スキタイ王マディエスを殺害してその支配から脱する(紀元前625年)と、メソポタミアへの野心を燃やすに至る。紀元前612年にカルデア王ナボポラッサルと同盟を結んでアッシリアの首都ニネヴェを攻略し、新バビロニア王国の建国を後押しすることで領土を拡張することに成功したのであった。彼は北メソポタミアを手にし、さらに背後のイラン高原の大部分を平定して最大領土を実現したのであった。首都はこれまでの本拠地エクバタナ(現在のハマダーン)とし、激しい抗争を繰りひろげたリディア王国とは紀元前585年に停戦し、ようやく部族に平和をもたらしたのだった。
 ところが、メディアの繁栄は、そう長くは続かなかった。ペルシア人の興隆が始まったのである。
 キャクサレスの子アスティアゲスの時代に、ペルシア人はその王キュロス2世を先頭にして反旗を翻したのである。アッシリアを模して軍事化していたメディアだったが、リディアとの長い抗争によって国力が低下しており、反乱を鎮圧することもできずにあっさり敗れ、新興国家ペルシアの支配を受けることになってしまったのである。それでも、メディアは属州としての独立を保持することができ、ペルシアの宮廷にも多くのメディア人が高官として居残ったため、その勢力はまだわずかに続いたのである。
 時代が進み、アレクサンドロスによってペルシア帝国が打倒されると、メディアは南北に分割されて属州としての地位を保証された。南部はその後セレウコス朝に吸収されてしまうが、北部はマケドニアの将軍アトロパテスの統治により独立を回復し、彼の名にちなんでアトロパテネという国名になった。現在のアゼルバイジャンにあたる地域である。アトロパテネはペルシアと同様の政治形態をもち、ギリシア人歴史家ポリュビオスによると、アトロパテネは強力な騎兵隊をもっていたとされる。アトロパテネはおよそ100年の間は独立を保っていたが、紀元前220年にセレウコス朝に屈服してしまい、それからはすっかり勢力を落としてしまったようである。紀元前1世紀にローマの将軍ポンペイウスがアトロパテネからの使節を迎えたが、歴史に登場するアトロパテネ、ひいてはメディア王国の記述は、ここまでである。

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