

考古学の発展は、古代文明について、多くのことを解明してくれました。
その中でもっとも重要なのは、当時の人々が、どのような生活を送っていたかということを、
現代に生きるわれわれの眼前に、まざまざと示してくれたことに尽きるでしょう。
彼らは毎日、何時に起き、朝食には何を食べ、仕事は何をし、休憩時間は何時間で、何時に寝ていたのか。
また彼らは、どんな家に住み、どんな教育を受け、何歳で結婚し、いかに年老い、どんな風に埋葬されたか。
調べれば調べるほど、当時の人々の生きる姿が、見えてくるようではありませんか。
わたしは当室で、メソポタミアにおける風俗・風土を紹介し、経済状況を考えることで、
少しでも当時のことを知るよすがとなってくれることを願っております。
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| 1. 農耕・牧畜 | 穀物の栽培は、メソポタミア文明で初めて行われました。つまり、現在も営々と続けられている農業は、メソポタミアを起源としています。また当時から嗜好された野菜や果物、狩猟で入手する肉類なども、人々の生命をつなぐ貴重な食料でした。ここでは当時の生活状況を考える前に、食糧事情を明らかにします。 |
| 2. 住居と日常生活 |
この項ではおもに、メソポタミア文明においてもっとも一般的な住居の構造を紹介しながら、人々がどのように生活していたかを読み解きます。また、父系社会であったシュメール人の女性観、そして神聖な儀式であった結婚式、男性と女性との身分格差などを検証しつつ、家と密接に結びついた人々の一生をみていきましょう。 |
| 3. 神殿の存在 | 神殿と民衆の生活とは、切っても切り離せないほど固く結びついていました。しかし、時代が移るにつれて、その様相は変化していきます。メソポタミアに生きた人々の宗教観の変遷と権力者による神殿の利用、深まっていく王権と教権との癒着の構造など、最新の研究成果をもとに紹介します。 |
| 4. 神殿建築の発展 | エリドゥのジッグラトを題材に、都市の真ん中にあって神殿がどのように成長していったかを考えてみます。また神官たちの生活と日々の神事をさぐることで、神殿と神官団そのものの存立は何を根拠にしていたのか、また権力者たちが参考にしたといわれる「託宣」はどのように行われていたのか、じっくり考えてみましょう。 |
| 5. 身分制度 |
シュメール時代からアッカド時代、そしてバビロニアからアッシリア時代に移る過程で、身分制度は徐々に系統的になっていきます。それはおよそ3つの身分−「自由民」「半自由民」「奴隷」−に集約されます。しかし奴隷制度は、ヨーロッパ近代のような凄惨なものではありませんでした。当時の身分制度を解明します。 |
| 6. 時間の区分 |
シュメール人は天体を研究することで、世界で初めて暦法を編み出しました。それは太陰暦であったものの、彼らは1年が12ヶ月で、1週間が7日で、1時間が60分であることすら知っていました。また当時の水時計を題材に、彼らがどのようにみずからを支配する時間というものに目を向けるようになったのか、考えてみます。 |
| 7. 経済と労働 |
現代人は資本主義にもとづいて、自分が豊かになるために労働をしますが、メソポタミアにおいてはすべてが国のためでした。彼らは軍人になるか、または国費によって労働にいそしむかのどちらかで国家に報いようとしたのです。当時の労働環境と代表的な職種、そして先進的な同業者組合について紹介します。 |
1. 農耕・牧畜
小アジアのザグロス山系に源流を発するユーフラテス川とティグリス川の流域は、山岳地帯から流出した肥沃な土壌が堆積し、農耕や牧畜に適している。
栽培される主要な穀物はオオムギで、この地方で一般的なアルコール飲料であるビールは、もっぱらオオムギから製造される。加工して食されるものの代表はコムギで、オオムギに次ぐ生産量であった。油を採るのはゴマからが一般的である。そのほかにはニンニク、タマネギ、ニラなどの野菜類、イチジク、ザクロ、ブドウ、ナシ、リンゴなどの果実類がさかんに栽培され、副食品として供されたと思われる。また、ブドウ酒を作ることも知っていたという。
牧畜によって飼育されるのは一般的にはヤギ・ヒツジで、ウシなどは神殿や王宮などに限って飼われていたようである。現代には及ばないがヤギやヒツジは貴重な肉やミルクを供給してくれたし、毛皮は大切な輸出品として重宝されていた。このころ行われていた狩猟は肉食のためではなく、家畜への被害を減少させるための害獣駆除のためだった。
オオムギの栽培は当初、北部山岳の渓谷地帯で行われていたとされているが、シュメール人の時代になって農事工学の関係上、灌漑や貯水池、運河など大規模な構築物が必要になり、ゆっくりと南下していったと考えられている。集落や都市は自然と、航行可能な河川の周辺に集中しており、アッシリア時代はそれが顕著である。農村はその集団農場的な性格のゆえか、特定の防備施設は設けないのが普通である。人々は人工灌漑のシステムを作り上げて、かなり効率のよい収穫を得るまでになったと思われるが、長年にわたる土地の過度使用と洪水の影響で、農耕地にはしだいに塩害が発生するようになり、放棄された農地は砂漠化の一途をたどった。
2. 住居と日常生活
メソポタミアにおける住居の基礎は、紀元前4000年紀ごろのハッスナー文化の時点でほぼ完成していた。そしてそれは、現代のイラクでは一般的にみられる様式でもある。
彼らはまず壁をつくる。壁材の代表的なものは日干しレンガで、それを泥や粘土をこねたもので接着して積み上げていく。窓は小さい。強烈な暑さをおびた外気を遮断するためだったと思われる。窓枠や柱だけが木材で、もっぱらポプラやヤナギの木である。木材(とくに杉)は貴重だったので、民家では一部にしか使われず、ポプラやヤナギは水路沿いに自生しているものを利用した。
屋根を支える支柱は、軽量で軟らかく、加工がしやすいヤシの木が使われた。屋根材じたいは重量をセーブするために、ヤシの繊維とアシとを織り合わせてあるだけで、強度を増すためにその上から泥を塗ってあった。壁は時代が進み、古バビロニアが栄えるようになると、基礎の部分だけに焼いたレンガが使われるようになったが、それは高価であり、経済状態が悪くなるとしばしば使われなくなったりする。
比較的裕福な民家になると、その多くは都市の城壁の中に作られた。
その多くは2階建てで、涼しげな中庭を取り囲むように、四角い筒のような形をしていた。さらに凝ったデザインになると、中庭に回廊がついていたりする。そこからは、家のどこからでも自由に行き来ができるように、台所や居間への通路が延びていた。そのほかには食糧倉庫やヤギの飼育部屋がある。食糧やその他の貴重な物資は地面に置いたりはせず、木の枝で編んだ大型のかごに入れて、天井や壁に取り付けられたフックに吊しておいた。害虫駆除と湿気よけのためだったと思われる。飼育部屋ではたいてい、2〜3頭のヤギやヒツジがいた。
水の貯蔵には、彼らは大いに心を砕いたと思われる。
それぞれの家には大きなテラコッタ製の甕(かめ)があって、公共の井戸からくみ上げられた水はそこに貯められた。甕から水が蒸発することによって部屋はほんのりと涼しく、またそれによって水はいつでも冷たいままだった。
ゴミは特定の処理規定などなく、多くは空き家になった住居の中などにまとめて捨てられていた。排泄物も、もっぱら埋めるだけである。彼らはそれでも衛生的な日常生活をいとなんでいたようであるが、あまりに耐えがたい状況になったときだけ、清掃をしたらしい。
メソポタミア文明における住居は、同時に墓地の役目をも果たしていた。とくに一家の家長は家の壁の中に作られた特別の穴蔵に埋葬され、それは跡取りとなった長男が儀式を執りおこないつつ守るというのが伝統だった。先祖の霊は家そのものに宿ると考えられており、儀式のたびに水や食料などが供えられ、祈りがとなえられたとされている。ウル第三王朝の時代には、家庭内における祭壇が設けられていたという。
メソポタミアでは一般的に父系社会で、多くの場合、長子が財産権を引き継いだ。
それだけに結婚は重要なものだった。その目的は跡取りを残すことで、もし夫人に男子が産まれなかった場合は、夫は第二夫人をめとることを奨励された。
結婚は恋愛によることはほとんどなく、両家の契約によって進められていた。結婚が決まると、型どおりの祝宴のあとで、法律によって定められた宣言を口頭によって行った。その後で、若妻は正式に家族の一員とされ、義父の家に移って結婚生活を始めるのであった。
だが離婚するとなると、それは結婚よりもさらに困難であった。何よりも、女性側からの離婚が「法的に」認められていなかったのである。
ある法律の条文には、このように記されている。
「女性が夫を拒み、あなたは私の夫ではないと宣言すれば、彼女は川に投げ込まれる。男性が妻を拒み、お前は私の妻ではないと宣言すれば、彼は銀ひと山のうち半分を婚家に支払う」男女差別は、明文化されていたのである。
また浮気は、女性の側に限って、法によって厳格に禁止されていた。ウル第三王朝の王、ウル・ナンムによる法典には、「夫以外の男の腕の中にいるところを見つかった場合は、女はその日のうちに死ぬだろう」とある。浮気は死罪だったのである。
写真説明:
テル・エル・ソワンで出土した、雪花石膏製の壺。
彼らはこうした容器に水を注ぎ、気化熱によるわずかな涼感で生活していたのだろうか。
3. 神殿の存在
南部では神殿は特別な存在で、都市内でさらに高い城壁に囲まれた「聖域」に建てられていた。ときにはそこに、彩色レンガで装飾された塔(ジッグラト)がそびえていることがあり、メソポタミア文明独特の都市景観をなしていたと考えられる。北部では聖域のことを「内市」とし、一般都市住民は、「郊外」と呼ばれる城壁外の土地に住んでいた。
かつて、メソポタミアの発掘活動がたけなわだった19世紀〜20世紀前半までは、神殿は市民生活の根幹をなすものであり、政治・宗教・経済・文化までも支配する存在であったと考えられていた。その原因としては、発掘をする際には、ときおり砂漠のど真ん中にみられるテル(遺丘)と呼ばれる人工的な丘を掘れば、何らかの都市遺跡が発掘できたことにある。それに、粘土板文書の多くが、神殿の公文書倉庫から見つかっていることもそれを後押しした。
だが現在では、その見かたは否定される傾向にある。
それでも当初の神殿は、宗教の中心地であると同時に政治・経済の牽引者であったことは否定できない。その威光をもって、供物を大量にかき集めることができただけでなく、歴代の支配者の帰依が篤かったためである。
だが後世の神殿は、どうも独自の経済活動をしていたと思われる。また政治の中心は豪壮な宮殿へと引っ越しした王たちに取って代わられ、その帰依は変わらなかったものの、それは多分に宗教的威光を「利用する」傾向へと移行していった。神殿の経済活動の独立化は、新たな商業組織の出現や外国人商人の渡来、そして修道院のように、民間から隔離された宗教組織へと神殿自体が変化していったことと無縁ではないと思われる。
しかしながら、神殿が「神」と「権力」によって強力に守られた神聖な存在であったことは、メソポタミアの歴史の中でたびたび登場する神官団の影がそれを物語っている。
写真説明:
ラガシュ王グデアの座像。紀元前22世紀のものと思われる。大量に出土したもののひとつ。
彼は両手をしっかりと組み、祈りを捧げている。それが純粋な祈りだったか否か、知る者はもはや彼のみである。
4. 神殿建築の発展
ウバイド期から同じところにある、という特別な条件が、エリドゥにおける重要な考古学的発見をうながす端緒になった。
エリドゥはウルの南にある中規模の都市国家で、シュメール人の時代からその滅亡の時まで、神殿は幾度も再建が繰り返されていた。最初に見つかったのは巨大なジッグラトだったのだが、それは約2000年にもわたって拡大を続けて出来上がったものだったのである。再建の回数は、実に16回にも及んだ。その最初はウバイド期のもので、小規模な囲いと祭壇のみの質素なものだった。そこから始まって、最後(ウルク期末、紀元前3200年ごろ)には巨大なジッグラトにまで成長したのである。
これと同じように、メソポタミアの都市における神殿は、最低でも数回の再建を経てその規模を増し、建造物複合体へと姿を変えていったことがわかっている。
シュメール人の建造物複合体は、アッカド人によるジッグラトへと変化していった。彼らは、神は山の上に宿ると考えていたからである。それが、シュメール時代から続くジッグラト建築をさらに発展させることになり、その完成形はバビロンのものであるといえるだろう。ジッグラトの建設は、紀元前1000年紀まで続いた。
神殿は時代とともにその役割を変えていったが、最後まで変わらなかったのは、広大な土地を持つ「領主」、そして多くの職人をかかえる独立した「会社」、公文書を一手に保管・管理する権限を持つ「図書館」としての役割だった。
そしてもっとも重要な役割は、行政をも左右するといわれた宗教集団であったということである。
神殿の奥には神の像が置かれていた。材質は木、テラコッタ、雪花石膏、黒色閃緑岩など多彩であり、ラピスラズリ、金、銀、青銅などによる象嵌がほどこされ、高価な衣類を身につけていた。立ったままのものや、玉座に腰かけたものがある。
神像には香油がふりまかれ、1日2回、パン、小麦、砂糖菓子、魚、肉、ドライフルーツ、酒類が捧げられた。そのほかには金、銀、青銅、琥珀、紅玉髄、ラピスラズリ、貝殻などでできた装身具、高価な布地からつくられた衣服などがあった。メソポタミアでの征服戦争は、これらの財宝を奪い取ることが目的のひとつだったと考えられているほどなのである。
1日2回の祈祷の目的は、託宣を受けることだった。祭壇の前に引き出された家畜をその場で殺し、内臓を取り出し、それによって神の意志を知るのである。夜の祈祷では、星の動きが神の意志を代弁した。紀元前2000年紀前半に、世界で最初の「御託宣マニュアル」が登場したりもした。神官たちはその預言を、その身を賭して守った。
5. 身分制度
文明国家であるならばどうしても避けられないのが階級制度であり、人類は長い間、そのしがらみに苦しめられてきた。
もともと、身分はふたつの階層でしか分けられていなかった。「自由民(アウィール)」と「奴隷(ワルドゥ)」である。
アッカド王国の時代に制度化されたふたつの身分階層は、当初、都市住民とその周辺に住む農民、というぐらいの位置づけであった。自由民は城壁の内側に住み、都市生活を満喫し、束縛のない生活を送れる。その中でも、上位にあるのは王族や貴族、下位にあるのは一般平民であり、しだいに王侯貴族だけが「アウィール」、平民は「ムシュケーヌ」と呼ばれるようになっていく。ムシュケーヌとは下級兵士、無産市民といったもので、のちの「半自由民」へと変化していく。
いっぽう、奴隷とは「自由をもたない者」であり、どのように拘束しようとも、売買をしようとも主人の思うがままだった。だが、ローマ時代の奴隷や、大航海時代以降の黒人奴隷の悲惨さに比べれば、彼らはずっと恵まれていたと言えよう。一律に奉仕活動、つまり召使いになるのが彼らであるが、その働きが認められれば、奴隷の身分から引き上げられて半自由民として生きていくこともできた。
市民はたいてい、家族という最小の単位にまとまっていた。
家族は一般に小規模なもので、現代とそれほど変わらない。ただし強度な部族意識は持っていたようで、後代になると私はどこどこの生まれだとか、先祖はだれだれだとかの出自に関してかなり神経質になっていったらしい。家族も時代とともに大規模になっていったが、これは周辺諸民族の大家族制の導入と、土地を細分化しないための、息子たちの集中居住などに原因があると考えられる。よほどの大金持ちの名士でないかぎり、一夫一婦制が標準であった。
家族とともに同居しながらも、奴隷や半自由民は独立した存在であった。
私有の奴隷というものはそれほど多くなく、独立した生計を立てることも可能だったし、特に主人に見いだされて職人修行に出されることもあった。ヨーロッパ中世の奴隷に比べれば、その地位はかなり高かったようだ。奴隷となった者のほとんどは債務者やその息子、そして技術を見込まれてやってきた外国人などであり、ギリシア時代のように戦争捕虜が奴隷になることはあまりなかった。彼らは全員が仕事にたずさわっており、収入の面からすれば一般市民をしのいでいたかもしれない。
半自由民というのは市民と奴隷の中間で、おもに神殿や王宮などで奉仕活動をしていた。のちの解放奴隷と同様、もとは奴隷であった人間だったらしい。
神殿は祭司階級が握っており、彼らがする祈祷と、一室に収められた人間の「ような」形をした神像がその地位を保っていた。王からの寄進や神殿領での収穫による収入、そして信者からの適当な賽銭がその経済的基盤だったが、税制的優遇などはまったくなく、後期になると、王に支払われるべき税金を少しでも安くしてもらおうと、官僚機構の中にたくみにもぐり込む神殿関係者もいたとのことである。
戦時においては、国王は国軍の最高指揮官であり、それが国王の祭司的性格を希薄にさせていった遠因であった。政治家としての王は、適正な法の執行と国民の保護に力を注ぐのが最高の任務であり、より神政的だったアッシリアを除いては、すぐれた法典を発布することが「よい王」の絶対条件だった。だがここでいう法典とは、王が政治的良心をわきまえているという証拠として国民の前に示されるもので、厳格な法の執行を本義としたローマ法などとは性格が違うのである。
6. 時間の区分
人々の生活は、月の満ち欠けによる時間制度によって区分されていた。なんと、当時すでにメソポタミアの人々は1年が12ヶ月であることを知っていたのである。しかも、この暦の区分を、それを司る天体の名「月」で表現していた。
シュメール時代に統一された暦法は、アッシリアの時代になっても変わらなかった。その基本は「太陰暦」である。月の名はその時期固有のイベントにちなんでつけられる。たとえば6月は「イナンナ祭の月」、12月は「刈り入れの月」といった具合に。
月の運行だけでは、太陽暦とはズレが生じてしまうため(月の周期は29.5日)、6月か12月のあとに「閏月」が定められていた。それら時間の運行を決めるのは王宮に置かれた知識人のチームであった。
彼らは時間を知るために、どうも水時計を使ったようである。どのくらいの水が流れ出れば1時間たったことがわかるか、受ける容器にどれだけ溜まったら午後3時になるか、果ては5日ごとにする水の補充のやり方まで記した粘土板文書もある。また、水の流れる量と時間との因果関係を求める数学の問題も存在していたらしい。
メソポタミアの時間制度が太陰暦に基づいていたので、バビロンで行われていたという日時計による時間の計測は、その存在意義じたいが怪しい。ただし、水時計を使っていたというのは、どうやら疑いがない。
7. 経済と労働
オオムギの栽培は現代とくらべて、非常に効率が悪かった。しかも日照りでもあれば、農民は負債を余儀なくされ、債務者・奴隷へと転落する端緒ともなる。国民の大多数をしめる農民は、このように破滅的な状況をつねに背負っていたのである。負債者の土地はそのまま神殿に寄進されたりして大土地所有が進み、それにより生じた地力の低下は砂漠化をいっそう加速させた。経済の不均衡は国家の存続をあやうくし、それによって弱体化した国家も多々あったらしい。
貨幣は全時代を通じて、古バビロニア王国で制式化された銀が使用され、実際の市場などでの支払いは穀物で行われた。しかし貨幣経済は着々と進み、アッシリア王国の末期においては、少額貨幣にかぎって、市場での流通が行われていた形跡がある。古バビロニア王国を国家的理想とする国々が多かったためもあってか、銀の価値は最後まで持続したのである。
一般市民は、労働をすることを国家に対する義務と考えていた。その報酬は国家から支払われるものであり、たとえばバビロニアでは「軍人」と「非軍人」とで報酬に差があった。軍人は戦時はもとより、平時においても神殿や王宮の警備、秩序維持のため警察機構にもなった。軍を統括するのは、唯一の司令官である王である。王は行政を、知識人や長老からなる議会(のようなもの)を諮問機関として行っていたが、これらの民衆を養うことも、逆に君主の聖なる義務と考えていたようである。
軍人ではない労働者は、農民か職人かのどちらかであった。
農民はその労働の代価として「土地」を与えられる。彼らは耕地を広げ、収穫を得ることでその一部を自分が取り、あとは国に納めるなどして生活していた。
都市における職人は、その職種によって固有の組織を形づくっていた。職種も、金属工芸、レンガ作り、漁業、木工、皮革加工、石切り、ビール醸造、香油作り、宝石細工、狩猟、園芸、牧畜、織物製造、パン作りなどさまざまに分かれていて、それぞれギルドのような同業者組合があったとされている。職人には「頭領」がいて、多くの弟子を従えている。修行の年限や独立のシステムといったことは一切わからないが、仕事マニュアルのような粘土板文書も見つかっていることから、作業の平均化と均質な製品作り、工業的な生産活動…といった労働の姿が見えてくる。
彼らの報酬は食料であった。だが貨幣経済が浸透してくると、貨幣で支払われたこともあったようである。しかし、食料による支払いは、もっとも一般的な報酬制度として、最後まで存続していた。
写真説明:
ウルの王墓で発見された「ウルのスタンダード(旗章)」の一方の面。反対側には日常生活が描かれている。
これは戦争の図。軍務についた人々は、こうして征服戦争へと駆り出されていったに違いない。