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メソポタミア王朝興亡史

このページでは、メソポタミアに起こった数々の王朝を、順を追って説明しながら、
それぞれの民族がたどった運命や栄枯盛衰に、通史という形で迫ってみようと思っています。
出自不明で現代では実在しない伝説の民族・シュメール人に始まり、
華やかな文化で巨大都市・バビロンに壮大な繁栄をもたらしたバビロニア人、
そして強大な軍事力でメソポタミアを席巻したアッシリア王国の興隆と衰亡。
メソポタミアの歴史は、数多くの民族がみずからの繁栄を得るために、必死になって織りなしたものでした。
現代に生きるわれわれは、全力で生きようともがき苦しんだ彼らを見つめることで、
祖国と民族にもっと思いを致すべきだとわたしは考えております。
さあ、メソポタミアを舞台に繰りひろげられた王朝絵巻を、どうぞお楽しみください。

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 序 メソポタミア文明の揺籃 メソポタミア文明の成り立ちを、ティグリス・ユーフラテス川にいだかれたという地域性に着目し、北部・中部・南部でどのような特性をもった都市が誕生し、時代とともにいかに移りかわっていったかを説明しています。
1. メソポタミア文明と初期王朝
 ●先史時代 サーマッラとハッスナーで発掘された先史時代の遺跡をめぐり、メソポタミア文明が生まれる以前、人々はどのような生活をしていたのかを考えます。(地図あり)
 ●シュメール諸王朝時代 メソポタミア南部に花開いたシュメール人の文化と都市国家。ここではウル、ウルク、ラガシュを題材にとり、都市国家の権力構造と征服戦争について説明します。
 ●アッカド王朝 メソポタミア初のセム系王朝であるアッカドは、首都の位置が特定されていないなど、謎の多い王朝です。実在が確認されたアッカド王たちの征服政策を詳しく説明します。
 ●ウル第三王朝 アッカド王朝の衰退と時を同じくして誕生したウル第三王朝は、これまでのシュメール人国家とは多くの点で異なっていました。それは何か、解説します。
 ●イシン・ラルサ王朝 イシン王国とラルサ王国は、200年にわたって抗争を続けました。その間にも、北部にはアッシリアが、中部にはバビロニアが着実に力を蓄えていたのです。
 ●古バビロニア王国 メソポタミアでもっとも有名な王、ハンムラビ。彼は古バビロニア王国第6代目の王として、外敵と戦いつつ国力の回復をはかります。法典以外でも、彼の事績は注目に値します。
 ●ヒッタイト、ミタンニ、カッシート 古バビロニア王国の滅亡後、メソポタミアの覇権を握った3つの国。とくにヒッタイトは世界で初めての鉄器文明を産んだ民族として知られています。(地図あり)
2. アッシリア帝国の興隆
 ●新アッシリアの再生 ミタンニやヒッタイトに服属するしかなかった弱小国アッシリアが、どのようにメソポタミアを席巻するに至ったのか。王たちの事績を中心に解説しています。(地図あり)
 ●征服王たちの時代 たび重なる内乱とそれにともなう衰退に見舞われながら、アッシリアは空前の軍事大国へと成長していきます。当時の王たちは苦悩しつつ、積極的に領土を獲得していきました。
 ●最盛期の4人の王 サルゴン2世、センナケリブ、エサルハッドン、アッシュール・バニパルの4人は、ついにアッシリアを空前の繁栄に導きます。しかしそこに待ち受けていた運命は、過酷でした。(地図あり)
 ●アッシリア王国の終末 アッシュール・バニパルが亡くなってから50年とたたずに、アッシリアは滅亡を迎えます。老大国と化したアッシリアに、どのような末路がやってきたのでしょうか。
3. メソポタミアのその後
 ●新バビロニア王国 メソポタミアの歴史は、新たなバビロンの復興と滅亡によっていったん閉じます。都市国家バビロンの繁栄と衰退、そしてその背後には、新たな脅威メディアの影が迫っていました。(地図あり)


序 メソポタミア文明の揺籃

 四大文明の一角であるメソポタミア文明が生まれたのは、ほぼ並行して海へと向かって流れ下っていく二本の大河にいだかれた地域においてであった。現在でもそのふた筋の大河、ユーフラテス川とティグリス川は、変わることなく中近東の国々を潤し続けている。
 現在はトルコ領になっているアルメニア高原、またはクルディスタンを源流とするふた筋の大河は、山岳地帯の肥沃な土壌を下流へと押し流しながら、メソポタミア平原へとたどりつく。そこはきわめて稀少である、天然降水によって耕作ができる地域である。その広大な沖積平原は、しばしば「肥沃な三日月地帯」と呼ばれている。先史時代の遺跡は、ほとんどがこうした北部に集中しているのである。
 そこは今では、ジャジラー砂漠という不毛の土地に変わってしまい、農耕を行うことはまったく不可能になってしまった。点在する「テル(遺丘)」と呼ばれる集落遺跡だけが、そこでかつて行われていた農耕を知るよすがとなっているに過ぎない。地質学的な異変によってここが砂漠化し、農業が絶滅したことが現在確認されている。
 アッシリアに代表される巨大国家が起こったのは、ユーフラテス川とティグリス川が最初に接近する地域、すなわち北部メソポタミアである。ここには巨大な都市遺跡テペ・ガウラなどが発掘されており、早くから定住があったものとされている。アッシリアの中心都市アッシュールやニネヴェなどがここに起こったが、それはかなり時代が下ってからのことであり、どうしても北部は「外国」であった。北部山脈の山麓地帯には、アッシリア人のほかにも、グティ人、カッシート人、フルリ人などがひしめき合っていた。
 中部メソポタミア平原は、農耕というより商業の発達した地域だった。ティグリス川はここで多くの支流を集めて大河となり、広大な沖積低地を作りだしている。古くからこの地域には交易路が存在しており、イラン高原を越えてきたシルクロードは一路、シリアの文化圏(フェニキア、あるいはパルミラ)へとつながっていく。後世の「王の道」も、スーサを発してここを通り、地中海沿岸まで達していたのである。中部で起こったメソポタミア諸都市のうち重要なのは、エシュヌンナ、トゥトゥブ、ネリブトゥムなどである。
 中部を過ぎると、ユーフラテス川とティグリス川は幾度も接近しながら、ついには合流してシャット・アル・アラブ川と名前を変える。かつて、まだ両河川が合流していなかったころ、ペルシア湾の海岸は現在よりももっと内陸側にあったと推測される。そして今は原油採掘の基地が乱立しているあたり、イラク南部からクウェートに相当する地域が、南部メソポタミアである。文明は、ここで発祥したものである。
 肥沃な土壌は、人間が農耕をするよりずっと前から、河口付近に堆積され続けてきた。そのため、河床は高くなり、今でいう天井川になる。灌漑は容易だったことだろう。灌漑農業がさかんになり、定住が始まったのも自然の成り行きだったのかもしれない。
 だがその代償として、人々は、絶えず洪水と戦わなくてはならなかった。堤防を築き、灌漑をなしてようやく農地を作りだしても、数年に一度、ひどいときには毎年起こる大洪水は、それらの努力をすべて水泡に帰してしまう。だがそれでも、人々はここを去ろうとはしない。彼らにとって、住むべきところはここしかないのである。そうした不屈の努力が積み重なって、湿地帯の外縁地域に、最初の文化的な都市が誕生したのである。また、紀元前3500年ごろにあったとされる寒冷化も、沼沢地の後退をうながした。水位の低下と民衆の努力によって、多くの都市が沼地から出現した。ウル、ウルク、ラガシュ、マリ、エリドゥ、ウンマなどの諸都市である。その担い手はシュメール人であった。
 本稿では、先史時代を出発点として、シュメール人の諸国家、そしてアッカド人による統一国家を経て、バビロニア・アッシリアなどの軍事国家の時代まで、政治史を中心に見ていくことにする。

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1. メソポタミア文明と初期王朝

●先史時代
 新石器時代における村落文化は、北部メソポタミアを中心とする一帯が発祥の地である。かつては南部沖積地帯にあるウバイド遺跡が人類最古の新石器文化だとされていたのだが、1930年代から1940年代にかけて行われた発掘の結果、北部で発見された村落遺跡がさらに古い時代のものだと判明したのである。もっとも古いものはジャルモ遺跡で、まだ土器が生まれる以前、紀元前5000年代のものである。
 その次のハッスナー期は、モスル近郊のハッスナー遺跡で発見された紀元前4000年代の石器文化である。ハッスナー文化の形跡は、北部メソポタミアからザグロス山脈にかけて多くの遺跡が発掘されている。
 土器が生まれたのは、その次のサーマッラ文化においてであった。
ハッスナー文化の壺 まず最初に発見されたのは、カブール川源流付近のハラフ遺跡だった。その文化圏は、はるか地中海沿岸にまでおよぶ広範なものであったと推測される。そしてそこから東南、ティグリス川中流にあるサーマッラで、それよりやや古い村落遺跡が見つかった。ふたつの遺跡からは、いずれも美しい彩文土器が多数発掘された。その次にくるのが、両文化を併せのんで吸収したウバイド文化であったのである。ここで新石器文化は、ようやく南部メソポタミアへと達するのである。
 村落文化を支えたのは、北部の広大な沃土を利用した農耕と、家畜を育てて家計の足しにする牧畜だった。それがしだいに南部へと移っていき、ウバイド文化になったと考えられる。ウバイド文化はメソポタミア全土に限らず、イラン高原の同種の文化やシリア方面の土器文化とも関連をもっているとされている。
 だがウバイド文化以後、北部と南部はまったく異なった文化形態を示すようになる。すなわち、北部がその後のテペ・ガウラ文化(漆喰で補強された神殿建築の跡が発掘された)とそれに続くニネヴェ文化でほとんど進歩しなかったのに対し、南部ではウバイド文化、ジェムデド・ナスル文化においてすでに金石併用文化を生み出している。より高度な文明への第一歩は、ここで始まった原文字文化がきっかけになったものであるからだ。
 原文字(プロトリタレート)とは考古学用語で、楔形文字にいたるまでの過渡期に出現した象形文字のことである。最古の文字は、ウルクで発見された計算記録と思われる絵文字と穴の組み合わせである。紀元前3300年ごろのものとされる。
 その文字を発展させ、言語としての楔形文字にまで高めたのは、現在でも言語区分、民族区分とも起源不明のシュメール人であった。その後のメソポタミア文明は彼らが主人公となって動いていくが、彼らもまた、ここの最初の住民ではなかった。地名とか、基礎的な単語などは、さらに古いどこかの文化のものから借用されているからである。

写真説明:
  ハッスナー遺跡より出土した彩文(さいもん)土器。描かれた柄から、当時は牧畜と農業が盛んだったことがわかる。
  紀元前4800〜4500年ごろ、バグダード、イラク国立博物館蔵。

→地図「メソポタミア南部」へ


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●シュメール諸王朝時代
 シュメール人による都市国家は、農業と交易の急速な発展によって発生したものと考えられるが、その詳細についてはいっさい分かっていない。現在残る当時の記録は、紀元前2000年ごろに体系化された「シュメール王名表」と呼ばれる文書しかないからである。当然、シュメール人の歴史を語る上で、統治者を中心にせざるをえないのである。また、シュメール人の都市国家群は一度も統一されたことはなく、「シュメール王名表」も一貫した歴史年表であるとはいいがたい。
 冒頭が「王権が天から下りきたるとき」で始まる王名表は、古代エジプトにあった同様の王名表にくらべて、年代の特定が難しい。たとえば「キシュ王エン・メバラゲシは900年間統治した」とか、「エン・メバラゲシの子アガは625年間統治した」など、多分に神話的であるからである。また、王名表は歴史上の大事件である「大洪水」にも言及しているが、大洪水前後の統治者については曖昧模糊としていて、参考にはしづらいのが現状だ。
 「シュメール王名表」によれば、最初の王朝はキシュということになる。だがその頃、ほぼ同時代にウルクの王朝が起こっており、王名表は自然と、統治者をキシュ王からウルク王へと移行させているのである。そこにあるウルク王には、エンメルカル、ルガルバンダ、ギルガメシュといった英雄たちが名を連ねている。彼らがキシュから実権を奪ったのだろうか。
 エアンナトゥム王の「ハゲタカの碑」キシュの次にくるのが、ウル、ウルク、ラガシュ、マリ、アダブといった新興の都市国家である。これらの都市はたがいに牽制し合いながら、同時に存在していたと考えられる。ただ、「キシュ王」という称号は絶大で、キシュが衰退しても、支配者たちはキシュ王という称号を得るために奮闘したのであった。王名表にある名前も、そういった「正統な」王たちのものである。
 だが、ラガシュ王だけは、王名表に登場しない。彼らが「ルガル」ではなく「エンシ」を名乗っていたためである。
 「ルガル」とは「偉大な人」を意味し、軍事的な支配者を示す存在だった。それに対して「エンシ」または「エン」とは神殿造営者、耕作者、僧侶といった意味をもち、ルガルに従属するものと考えられていたようである。もちろん、ルガルがエンシを兼ねることもあった。だが、エンシしかいないはずのラガシュには、すぐれた支配者が数多くいた。彼ら自身が残した文書からのみ、それを知ることができる。
 初代はウル・ナンシェといい、ラガシュを築いた人物である。そして二代目はエアンナトゥム、戦争の天才で、多くの外征を行い、「禿鷹の碑」という戦勝記念碑を残した。そしてラガシュの最後のエンシは、ウルカギナという。彼は国家において強大な権力を持っている神官や官僚の行動を制限して、福祉政策に奔走したと伝えられている。
 シュメール諸王朝の対立の歴史は、ウンマのエンシ、ルガルザグゲシによって突如として破られた。当時は南部メソポタミアで最強の勢力を誇っていたラガシュが、彼によって征服、破壊されたからである。
 ルガルザグゲシは征服欲が旺盛な王で、ラガシュを破壊したあとウル、ウルクまでも奪って支配下に置き、さらに地中海沿岸にまで進軍したと碑文に残されている。メソポタミアにおいて初めて行われた「統一」への動きであった。が、25年にわたる在位ののち、彼もまた新興のアッカド王朝に国を奪われ、ニップールの街にある吊り下げ式の監獄に幽閉され、そこで獄死したとされる。

写真説明:
  ラガシュ王エアンナトゥムの戦勝を記念して制作されたと思われる粘土板彫刻。
  敵ウンマ軍の兵士の死体をついばむハゲタカが描かれていることから、「ハゲタカの碑」と呼ばれている。

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●アッカド王朝
 シュメール人の近隣には、数多くの異民族が暮らしていた。セム系の諸民族も、そういった多くの隣人のひとつだったことだろう。ルガルザグゲシの時代には彼らは有力になって、のちのバビロンの付近に定住していた。現在でも遺跡が発見されていない、アッカドと呼ばれる都市がその中心だった。
 アッカド王はサルゴン(在位前2350年頃〜前2294年)といい、みずからをシャル・キン(王は正統なり)と称した。自分の非正統性を隠すためと思われる。アッカド王サルゴンの頭部?
 彼は私生児で、殺される運命にあったものを、母が不憫に思って籠に入れ、川に流した。それをキシュ王の庭師が見つけて拾いあげ、彼を育てる。女神イシュタルの恩寵もあり、彼はキシュ王の酒つぎとしてスタートし、ついには王位につく、という話が伝えられている。サルゴンは貿易を奨励し、首都アッカドを繁栄の極みに導いた。彼は王を名乗るさいに、今までのように「キシュ王」を称号とするのではなく、シュメールからの脱却をはかった。その現れとして、彼は外征に出るたびにシュメール諸都市の城壁を破壊し、自分の息のかかった部下をエンシとして配置した。つまり彼は、多くのエンシの上に立つ、唯一のルガルをめざしたのである。
 彼の孫ナラム・シン(在位前2270年頃〜前2233年頃)は「四海の王」と称して、遠く山岳地帯までをも支配する。その詳細が、「勝利の碑」として残っている。また彼は、みずからを「神の使者」と公言した初めての王であるとされる。
 アッカド王朝は長期にわたって、シュメール人を支配した。しかし両民族間にいがみ合いといったものはなく、アッカド王は正統なシュメールの王として認められていた。公用語はシュメール語とアッカド語の両方で併記されているほどである。
 また王たちは、灌漑施設や水路などの公共事業を行って民衆の支持を得ようとするいっぽうで、旧地主から強制的に土地を没収してそれを軍人や官吏の報酬にあてたりもした。その背景には、血の弾圧もあったようである。
 ところが、それほどの勢力を誇ったアッカド王朝も、東からやってきた山岳民族グティによって滅ぼされてしまった。彼らは北部メソポタミアを中心とした広大な地域を100年ほど統治したが、南部にはそれほど支配が及ばなかったせいか、多くのシュメール諸都市が繁栄を取り戻していた。その中でもラガシュは、小座像が数多く出土していることで知られる王グデアのもとで黄金時代を迎える。またウルクも、王ウトゥ・ケガルの活躍によってグティ人をメソポタミアから追い出すことに成功し、独立を勝ち取ったのだった。
 そんなウルクも、配下としていたウルのエンシ、ウル・ナンムによって征服された。彼は紀元前2130年ごろ、ウル第三王朝を樹立し、それまでのアッカド王朝の領土までも併合して、シュメール人にとって最初で最後の統一を成し遂げるのであった。

写真説明:
  紀元前30世紀に作られたといわれる頭像。アッカド王サルゴンのものではないかとされている。
  ところどころに破損の跡があるのは、発掘地のニネヴェが征服されたときに故意に破壊されたためであろう。

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●ウル第三王朝 
 ウル・ナンムは、「キ・エンギとキウリ(シュメールとアッカド)の王」を称し、一時衰えていたシュメールの文化を再興した。アッカド語にかわって、再びシュメール語が優勢になるのもこの頃である。
 ウル第三王朝の諸王は、みずからを神格化することで権威の維持をはかった。王を神格化する習慣は、前のアッカド王朝、ウル第三王朝、そしてこの後のイシン・ラルサ王朝のみにみられるもので、古バビロニア王朝では消えてしまった。建造されたジッグラトも、王を讃える碑文も、神に対するのと同様に作られていた。
 ウル第三王朝の行政は、各州に分散した知事によって行われていた。そのせいか王は自分の事業、つまり大規模建築に没頭していく。ウル(現テル・エル・オベイド付近)に復元された「赤のジッグラト」は豪壮な神殿建築で、神話に登場する「バベルの塔」の原型とも考えられている。このようなジッグラト(聖塔)が各地につくられた。
 王は神の化身として国家の経済を掌握し、何層にも分化した官僚制をしいてそれを維持していたと伝えられる。権利関係書や労働者への賃金などに関する文書が、粘土板として数万枚も現存していることからもそれがうかがえる。だが行き過ぎた官僚主義は過度な中央集権化を招き、地方分権が形骸化するにおよんでそのひずみが明らかになったのである。
 最後の王イビ・シン(在位前2046年〜前2021年)のときに飢饉がおこり、王朝は崩壊した。と同時に、大挙して侵入したアラム人によってシュメール人は駆逐されたか、民族浄化が行われたと考えられる。イビ・シンは連れ去られてしまった。

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●イシン・ラルサ王朝
 ウル第三王朝は崩壊して、北部のイシン王国と南部のラルサ王国とに分裂した。
 ようやく独立を保っていた両国ではあったが、王宮は東からやってきたエラム人、アッカドを征服して勢力を伸ばしたアムル人などによって牛耳られていた。そうした中で、シュメール時代から続く伝統的な言語はしだいにアッカド語に取って代わられるようになり、また国家経済も、中央統制による公共事業から、私企業による海外貿易へと主役が代わっていく。
 両王国の並立状態は、約200年続いた。平和状態と抗争状態は交互にあったとされているが、最後のラルサ王リム・シンよってイシン王国は征服され、並立状態は終わった。そしてリム・シンも、新興勢力バビロニアによって打倒されてしまうのだった。
 またバビロンをはさんでさらに北方では、ティグリス川の河畔にあるエシュヌンナがウル第三王朝の没落を契機に独立し、北方のアッシリアをも支配した。その証拠として、「アッシリア王名表」によれば、第37代の王はナラム・シンといい、当時のエシュヌンナ王と同名である。おそらく同一人物であろう。
 アッシリアの古都アッシュールはようやく未開時代を脱し、統一した政体をうち立てるに至った。「アッシリア王名表」は伝説的な名前のみの支配者が30人続いた後、第31代とされる王イル・シュマから初めて事績つきに変わる。多分、彼が実在が確認できた最初の王なのだろう。
 彼の有能な後継者のもとで、アッシリアは着実に支配権を伸ばしていったことがわかる。第37代の王として登場するエシュヌンナ王ナラム・シンだが、彼もまた追放されてしまい、第39代としてシャムシ・アダドなる人物が王位についている。
 アッシリア王シャムシ・アダド1世(在位前1749〜1717)は積極的な拡大政策をとり、アッシリアを一躍北メソポタミアの強国へと仕立て上げることに成功した。
 まず隣接するマリの王ヤフドゥン・リムを屈服させ、その子ジムリ・リムを追放して王位を奪い取る。背後の憂いをなくした彼はさらなる軍事行動に出て、アッシリアの領土を保全するだけの確証を得た。彼の外交政策は、すべてその領土保全のためであったとさえいえる。
 しかし、シャムシ・アダド1世の死とともに、アッシリアは急速に衰えをみせる。マリは王ジムリ・リムの帰還とともに息をふきかえしたものらしく、後継者であるアッシリア王イシュメ・ダガンはその勢いを抑えられずに後退を続け、ついに彼は行方不明となった。
 それからのアッシリアは、マリ、古バビロニアなどに臣従する立場に追い込まれた。王名表には誰なのかわからない程度の人物が並び、紀元前1450年ごろまではその動向がまったく不明になる。どうして紀元前1450年に動向が判明したかといえば、その年にアッシリアは新興のミタンニ王国に臣従しているからである。

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●古バビロニア王国
 そんな乱立状態のメソポタミアに、西方から新たにアムル人が侵入して建国した。これがバビロニア王国である。
 「神の門」という意味の名をもつバビロンが成立した頃は、イシンとラルサの両王国が激しい抗争を繰り広げており、小国に甘んじてどちらかの勢力に従うに過ぎなかった。
 その頃、南方の大勢力であるラルサは、ついにエラム人に乗っ取られてしまい、クドゥル・マブグという支配者が王位についていた。彼の孫にあたる人物が、のちにバビロンを脅かす存在となるリム・シンである。ハンムラビ法典
 第6代の王ハンムラビ(在位前1792頃〜1750頃)が即位したとき、バビロンはラルサ、アッシリア、エシュヌンナに包囲された状態だった。
 ハンムラビはすぐれた行政手腕をもった王として伝えられる。まず国民の福祉に尽力し、各地に分散した知事たちには、厳格な正義と秩序を維持するための詳しい訓令を発布している(粘土板に書かれた手紙が出土している)。
 また彼が発布した「ハンムラビ法典」と呼ばれる同態復讐法は、「臣民の目を傷つけた者には目をもって、歯を折った者には歯をもって」同害を加えることで解決させることを骨子としている。その他の刑には鞭打ち、極刑は身体切断・死刑(串刺し・火刑・水刑)と定められていた。ただし適用対象は臣民だけで、奴隷階級は除かれる。法典は伝統の公用語であるアッカド語が使われており、それで書かれた神話などの著作も残っている。
 神話上の最高神は、バビロンの主神とされる英雄神マルドゥークである。ハンムラビ王自身がマルドゥーク神の熱烈な信望者で、女神イシュタルとともに全国に広まった。
 42年にわたる彼の治世のなかで、バビロニア王国はメソポタミア最大の勢力を有するまでに成長した。まず同盟者ラルサ王国のリム・シンを破り、ついで近在のマリ王国の王ジムリ・リムを屈服させて領土を拡張した。ハンムラビは名実ともに、バビロニア王国の最盛期を現出したのである。
 ハンムラビの死後、新たに侵入してきたカッシート人、フルリ人などの活動が目立つようになり、かつてシュメール人の領土だった南部が離反することになった。紀元前1531年(または紀元前1596年)にはヒッタイト王ムルシリ1世の軍勢がバビロンに大挙侵攻し、略奪・放火されてしまう。それから、バビロニア王国は坂を転げ落ちるようにして衰退していき、最後の王ネブカドネザル1世のときに一時勢力を盛り返したが、彼の晩年に王国はアッシリアの支配下に入った(紀元前1137年頃)。この時代を古バビロニア王国、またはバビロン第一王朝と呼称する。

写真説明:
  スーサで出土した、ハンムラビ法典282の条文を彫り込んだ黒色玄武岩の石碑。
  石碑の最上部には、太陽神シャマシュより権力のしるしである杖を受けとり、法を口述されているハンムラビが彫られている。
  左側に立っている人物がハンムラビである。

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●ヒッタイト、ミタンニ、カッシート
 古バビロニアにかわってメソポタミアの主役に躍り出たのは、北方の軍事国家ヒッタイトと、高い文化をもち交易路を扼するフルリ、そしてティグリス川の東からやってきた戦士の国カッシートである。インド・ヨーロッパ語族に属するヒッタイト以外は、どちらも出自不明である。
 ヒッタイトは現在のトルコにあるアナトリア高原を本拠として建国され、苦しい雌伏の時代をへてようやく南進をはじめたところであった。ムルシリ1世は第3代の国王にあたる人物である。
 またミタンニ王国は、フルリ人が土着のミタンニ人とともに建てた国である。ミタンニ人はヒッタイト人と同様にインド・ヨーロッパ語族に列する民族であり、フルリ人は彼らの支配を受けて生活していたといわれる。西方にあるアッシリアも、一時期はミタンニに服属していた。だが、その繁栄は長くは続かなかった。
 バビロンに入って統治を開始したのは、イラン方面からやってきたカッシートである。戦士の国とされるカッシートではあったが、その統治は平和的に行われ、バビロニアの文化を保護し同化政策をとったため、思いのほか長く続く政権になったのである。統治期間は実に400年にも及んだ。現存するバビロンの行政文書でカッシート時代のものとして初めて現れるのは、第20代にあたる王ブルナブリアッシュ2世のときで、彼はエジプト王イクナートン、アッシリア王アッシュール・ウバリト1世と同時代の人物である。だが長い繁栄を築いたカッシートでさえも、東から勢力を盛りかえしてきたエラム人に滅ぼされてしまった。

→地図「紀元前15世紀のオリエント諸国」へ

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2. アッシリア帝国の興隆

●新アッシリアの再生
 アッシリアはメソポタミアの北部におこった都市国家を主体とする農耕民族で、かつての王シャムシ・アダド1世の時代には、北メソポタミアにおける一大強国として君臨したこともあった。かの英主ハンムラビも、治世10年前後まではアッシリアに服属していたのである。だがそれも長くは続かず、国力の疲弊と周辺都市の独立が相次いだ結果、アッシリアは弱小国に転落していった。それでも交易の十字路として栄えていたアッシリアではあったが、西方からその地理的利点に狙いを定めたミタンニ王国に侵入され、ついに国すら奪われてしまった。そんな時代が約100年続く。
 ミタンニ王国から独立を勝ち取ったのはエリバ・アダド王(在位前1390年〜前1364年)であった。依然として交易を握っていたアッシュールと、ヒッタイトに圧迫されて衰退を続けるミタンニの勢力が逆転したことによる。彼はこれを好機と見て、ヒッタイトと結んだ軍事同盟を利用し、敢然と反旗を翻したのである。ヒッタイトと結んで国力を回復する試みはその後100年以上にわたって続けられ、鉄器の使用、戦車隊や歩兵隊の組織的運用などの導入を得ることができた。まさに、アッシリアの命運は、ヒッタイトとともにあったのである。
 その子アッシュール・ウバリト1世(在位前1364年〜前1328年)はヒッタイトと結んでついにミタンニ王国を滅ぼし、エジプトとも通交してその外交の手腕を見せつけた。彼はエジプト王イクナートンと同盟し、「ファラオの兄弟」を自称していたといわれる。
 エリバ・アダドとアッシュール・ウバリト1世父子の覇業は、アッシリア新時代の幕開けを飾るものだった。
 アッシュール・ウバリトの後継者3人が、この覇業をよく引き継いだ。アダド・ニラリ1世(在位前1308年〜前1275年)、シャルマネゼル1世(在位前1275年〜前1245年)、トゥクルティ・ニヌルタ(在位前1245年〜前1208年)である。彼らは最高神アッシュールに捧げるためにと、領土拡張に奔走した。徹底的な文化破壊と強制移住をともなう残忍な征服政策だったとされる。
 三人の当面の使命は、北メソポタミアに限定されていたアッシリアの勢力を、交易路を完全に掌握するまでに成長させることに尽きた。特に北メソポタミアの西部が困難で、もとはミタンニ王国があった地域はヒッタイトが管理していたが、アダド・ニラリ1世はここに征服の手を伸ばし、その子シャルマネゼル1世がようやく成し遂げたのだった。バビロニアを攻略したのはトゥクルティ・ニヌルタで、彼はバビロンの統治までも請け負うことになったのだった。
 このころ、行政の中心地がアッシュールからニネヴェに移った。
 アッシリアは首都も移転し、しだいに文化の面でもすぐれた民族になっていたが、南に位置するバビロニアとの民族的な相違は、あまりはっきりしていない。両者ともアッカド語を話しており、方言があったことから便宜上、アッシリア語、バビロニア語と名付けているに過ぎない。あいつぐ征服と被征服の関係から、両民族はかなり混じり合っていたと考えられるが、アッシリア人が好戦的であったことには疑いがない。
 さて、トゥクルティ・ニヌルタの死後、ヒッタイト王国の没落と同時にアッシリアは衰退し、逆にバビロニアが勢力を盛りかえしてきていた。一時はバビロンの諸王が行政の決定権を握っていたこともあったくらいである。
 しかしアッシリアは新たな後継者、ティグラト・ピレゼル1世(在位前1116年頃〜前1076年)を迎えて再び息をふきかえす。彼は北方のアルメニア地方まで遠征し、またシリアの諸都市をおとしいれてアラム人を打ち破り、ヒッタイトの諸都市をつぎつぎと領土に加えていった。またバビロニアとの立場をも逆転させた。だが、その繁栄も彼一代のことに過ぎないのだった。彼の後継者の時代に、アラム人の東進が深刻な領土侵犯問題になり、彼らの攻勢を防ぎきれずに国土は再び縮小していったのである。

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●征服王たちの時代
 ティグラト・ピレゼル1世の後継者たちは、約100年の間、縮小を続ける王国が、内部から瓦解してしまわないよう経営を維持することに懸命で、外の世界に目をむける余裕などなかった。バビロニアもまた無力化し、南部から侵入を繰り返すアラム人への対策に追われる時期が続いた。
 アッシリアの復興は、紀元前933年から紀元前884年までに統治した3人の王によって基礎が固められつつあった。そのうちのひとり、アダド・ニラリ2世(在位前909年〜前889年)は北メソポタミアで奮戦し、老躯にむち打って王国再建のために奔走したといわれている。
 アッシュール・ナジルパル2世の狩りアダド・ニラリ2世の曾孫にあたるアッシュール・ナジルパル2世(在位前884年〜前859年)は、かつてないほどの峻烈な征服戦争に明け暮れた。騎兵隊の導入による圧倒的な蹂躙戦術をもって周辺諸民族を征服していき、串刺しや皮剥ぎ、大量処刑などは恐怖の的になったものである。
 彼はアラム人を打ち破って従えると、今度は西方に向かって軍隊を繰り出し、ヒッタイトやフェニキアの諸都市を征服して貢ぎ物を取り立てる方法をとった。もちろん、逆らえば残忍な罰が待っている。やがて、アッシリア王室は莫大な財力を誇るようになる。そこで始められたのが、アッシリアにとって2度目となる首都移転である。新しい宮殿は、旧都ニネヴェの南、カルフに造営された。多くの人々が、なかば強制的に移住させられたということである。
 その子シャルマネゼル3世(在位前859年〜前824年)は、父の領土をさらに拡大することに専念した。西方からやってくるようになったアラム人は王国をつくり、その首都をダマスクスに置いていたが、シャルマネゼル3世はそこに軍をむけたのだった。
 郊外のカルカルで行われた戦いでは、アッシリア軍は地の利を失って敗走することになったが、王はそれでも諦めることなく、今度は通商路を利用した経済制裁でのぞむことにし、ついにダマスクスを服属させることに成功したのだった。首都カルフ(現ニムルード)で発掘された「黒のオベリスク」には、シャルマネゼル3世のシリア・パレスティナにおける征服戦争に関する事績が刻まれている。
 この頃になると、アラム人に代わる新たな勢力、アルメニア地方のウラルトゥ、イラン高原のメディアが台頭するようになる。のちにアッシリアを滅亡に追い込むことになるメディアは、紀元前835年に初めて記録に言及されている。
シャルマネゼル3世のオベリスク シャルマネゼル3世の治世の晩年、彼の長子が首謀者となった反乱が勃発した。王は次子に特命を与えて反乱を鎮圧させ、次子はシャムシ・アダド5世(在位前824年〜前810年)として即位した。シャムシ・アダド5世はメディアを従え、王国を維持することに成功したが、惜しくも夭折してしまう。息子がまだ幼い間に政権を掌握した王妃シャムラマト(ギリシア名セミラミス)は内政に成果をおさめたが、息子がアダド・ニラリ3世として即位すると、王国はウラルトゥとの戦いに疲弊してしまい、勢力は再び衰えを見せはじめるのだった。
 このころ登場したのが、ティグラト・ピレゼル3世(在位前745年〜前723年)である。彼は実のところ、王位を奪った将軍であり、本名はトゥクルティ・アパル・エシャラという。ティグラト・ピレゼルとは旧約聖書に出てくるときの名前なのである。
 彼はアッシリアによる世界帝国をめざし、その領土はペルシア湾からアルメニア、パレスティナからエジプト国境におよぶ広大なものとなり、のちの王エサルハッドンによって最大版図が現出するまで、最大の領土を保持した。
 彼は王国を立て直すために、北シリアの諸都市と連合したウラルトゥ王サルドゥル2世を破って領土を保全し、死海周辺にまで遠征してダマスクスとガザを支配下に入れた。そしてこれまでの総督制による地方分権を廃止し、属州を置いて中央集権体勢を確立するのである。また彼はついにバビロニアの王位まで手に入れてしまう。紀元前729年にバビロニア王プルと名乗った彼は、こうして名実ともに全メソポタミアを手にした。

写真説明:
(上)アッシュール・ナジルパル2世のライオン狩りを描いた同時代の粘土板。
  狩りはアッシリア軍人の意気を涵養するうえで奨励されたが、ライオンを狩れる人物は限られていた。
(下)シャルマネゼル3世の戦勝を記念して制作されたオベリスクの部分拡大写真である。
  彼が征服した異民族の名前が、王たちの像のまわりにびっしりと彫り込まれている。その中にはパレスティナの王朝も含まれていた。
  イギリスの学者ヘンリー・レヤードはこれを解読しようと挑んだが、当時の解読技術では無理であった。

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●最盛期の4人の王
 ティグラト・ピレゼル3世によって造り出された巨大な王国は、そのままの形で受け継がれることになった。彼の子シャルマネゼル5世は、父の政策そのままに広大な領土を維持したが、王権の拡大を望むあまり特権階級である貴族や祭司と対立してしまう。国内に不安が走り、シリア・パレスティナは動乱を引き起こすに至り、ついに軍事クーデターが発生した。遠征中である王はサマリアの戦いで戦死し、かわって将軍のひとりであるサルゴンが王位を奪いとった。彼は古代アッシリアの支配者サルゴンと同じ名をもつことから、サルゴン2世(在位前722年〜前705年)と呼ばれている。
 先王シャルマネゼル5世が残した領土は広大で、維持は困難であった。サルゴンはこれを死守するため、積極的に辺境への征服戦争を繰り返すようになる。そのおもな矛先は、近年になり不穏な動きを見せているパレスティナ、そしてアナトリアとフリュギア(ともに小アジア地方)である。彼は多年にわたる攻勢をもってフリュギアの反乱意図を粉砕すると、臣従の証拠としてフリュギア王マイダスに朝貢を命じた。またティグラト・ピレゼル3世に敗れて以来勢力が弱体化していたウラルトゥ王国は、ついにサルゴンの軍勢の前に屈服し、領土を一部明け渡す羽目におちいったのである。
 サルゴンはみずからの王位の正統性と勢力を顕示するために、「シュメールおよびアッカドの王」(シュメールもアッカドも、ともにここバビロニアで強大な勢力を誇ったことに由来する)と名乗った。しかしそればかりでなく、バビロンの復興にも力を尽くした(バビロンでは、彼はただ「バビロンの知事」とのみ名乗った)。
 それとともに、彼は生涯の事業として、首都ニネヴェの北に新首都を建設した。それはほぼ彼の離宮として使用されたようであるが、ドゥル・シャルキン(サルゴンの都)と名付けられたその都市は、当時の建築技術の粋を集められて造られたものと思われる。彼は紀元前705年、イラン方面を進撃中に戦死した。
 その子センナケリブ(在位前705年〜前681年)は典型的な専制君主で、父とは多くの点で異なっていた。それはバビロンとの関係において顕著にみることができる。
 サルゴン2世に敗れてエラムに逃れていたカルデア王メロダク・バラダンは、エラム人の助けをえて再びバビロンの実権を握った。それを知ったセンナケリブはすぐさま軍勢を送り込んでそれを撃破し、カルデア・エラム・バビロニアの三国同盟を破綻に追い込んだ。その影響で、バビロニアに従属していたユダヤ人に反乱が起こり、その王ヒゼキアはエジプトとの相互援助条約をもってアッシリアに対抗しようとする。ユダヤ人を危険視したセンナケリブは紀元前701年、首都イェルサレムを包囲し、いっきょにこれを叩きつぶそうと画策したが、これは失敗してしまう。ともあれ、これで西方の反乱は鎮圧された。
 これを見たバビロニアは再度、センナケリブの覇権に対し反乱を起こした。翌年には鎮圧されてしまうが、センナケリブは徹底的なバビロンの支配を決心し、大挙して包囲してこれを打ち破り、市神マルドゥークの神像をアッシュールに持ち去るという行動に出る。バビロンは完全に破壊され、さらに河の流れを変えたことによる大洪水を起こさせてこれを洗い流してしまったのである。これはまさに、神をも恐れぬ暴挙とみなされた。王は急速に孤立していき、ついに紀元前681年、王子たちによって殺害された。
 エサルハッドン(在位前681年〜前669年)は父のあやまちを繰り返さないために、サルゴン2世同様にバビロンへの宥和政策をすすめた。彼はバビロンを再建させるとともに諸都市での神殿建築を奨励し、彼もまた、サルゴンと同じく「バビロンの知事」と名乗って間接的な統治にとどめたのである。これでバビロニアは平穏を取り戻し、彼は外征に力を注ぐことができるようになった。
 ところが軍事的手腕はそれほどでもなかったエサルハッドンは、数回におよぶエジプト遠征をすべて失敗させてしまい、紀元前671年にようやく成功した。これにより、アッシリアは空前絶後の最大版図を実現することになった。しかし今度は本国で反乱が起こる。首謀者は彼の実の兄というものだったが、ようやく鎮圧し、再びエジプトへの侵攻を開始したところで、行軍中に戦死してしまった。
 エサルハッドンは生前、みずからの後継者は末子アッシュール・バニパルとし、長男のシャマシュ・シュム・ウキンはバビロンの知事として末子の支配下におくことにした。これが、この兄弟の確執を生む直接の原因になるのである。
アッシュール・バニパルのライオン狩り アッシュール・バニパル(在位前669年〜前630年)は軍人というより、すぐれた政治家であった。早くから後継者として教育されてきた彼はスポーツ万能で、当時としてはすでに難解になっていた楔形文字を読み書きし、それによって書かれたシュメールの文書を読んで数学の問題も解くことができたということである。
 エジプトを維持することは、彼にとっては相当な難事だった。何度も反乱を起こしてアッシリアの支配を脱しようとするエジプトに手を焼いたアッシュール・バニパルは強硬手段として、上エジプトの中心都市テーベを攻略してこれを破壊し、町の中心であるオベリスクを戦利品としてニネヴェに運ばせた。それでもエジプトは屈せず、紀元前665年ごろ、エジプト王プサムティク1世は大規模な軍事行動を開始してアッシリアの勢力を追い出し、完全独立を勝ち取ったのである。以来、アッシリアは二度とエジプトへ軍勢を進めることはできなくなった。
 兄シャマシュ・シュム・ウキンはバビロンで着々と力をたくわえ、事あるごとにアッシリアに反目してきたエラム人と結ぶにおよんで、紀元前652年、弟に対して反乱を起こした。実の兄による反乱を鎮圧しなければならないアッシュール・バニパルの心情や推して知るべしというところだが、4年にわたる包囲戦の末にバビロンは征服され、城内になだれ込む大軍を前にして、首魁シャマシュ・シュム・ウキンは憤死する。その後アッシュール・バニパルは同盟者エラム王国をも征服し、首都スーサを破壊した。彼の事業はこれで終了したものか、これ以降についてはほとんどわかっていない。
 アッシュール・バニパルは首都ニネヴェに、みごとな宮殿を造営した。多くの獣や想像上の動物を彫り込んだ壁面の美しさは特筆できるもので、また彼による異民族征服の図もその主題になっている。
 彼の事業のうちもっとも評価できるものは、巨大な図書館の建設である。父祖の残した文化と歴史を記録することに熱心だった王は、バビロニアに伝わる文学作品や文書を徹底的に収集し、図書館におさめさせた。それができなければ、わざわざ使節を派遣して、現物のコピーを取らせるという熱の入れようだった。アッシリアの歴史が比較的はっきりとしているのは、彼のこの事業のおかげだったともいえるのである。
 しかし、それ以降の歴史については、ほとんど伝わっていない。

写真説明:
  アッシュール・バニパルのライオン狩りの模様を描いた粘土板彫刻。
  このように王の事績や勇敢さをたたえる粘土板は、絵や文章など、街のいたるところにはめ込まれていた。

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●アッシリア王国の終末
 アッシュール・バニパルの業績は、アッシリアの歴史上に燦然と輝くべきものであるが、この当時、アッシリアは膨張し尽くした老大国と化していた。
 広大な領土は国家権力の腐敗と外敵の侵入で疲れきってしまい、国力は加速度的に減退の一途をたどった。ここに至っては、どんな英主でも復興させることは不可能だった。
 アッシュール・バニパルの子アッシュール・エティル・イラニ(在位前630年〜前627年)とその弟シン・シャル・インシュクン(在位前627年〜前612年)の治世についてはまったくわかっておらず、すでにバビロニアは放棄され、無政府状態におちいっていた。周辺諸民族の動きが激しくなってきたのもこのころであり、中でもカルデア王ナボポラッサルの勢力は強大で、シン・シャル・インシュクンとは数度にわたり剣をまじえた。
 転機が訪れたのは、ナボポラッサルがみずからの野望を実現するべく、東方にあった強国メディアと結んだときであった。メディア王キャクサレスは旺盛な征服欲を持っていたが、国内の動静が気になるあまり軍事行動に出られなかったのである。
 紀元前612年、カルデア(すでにナボポラッサルはバビロニア王を称していた)・メディア連合軍はついに首都ニネヴェに侵攻し、これを徹底的に破壊した。住民は皆殺しにされ、国土は荒廃の一途をたどる。王シン・シャル・インシュクンは炎上する宮殿の中で、滅びゆく祖国と運命をともにした。
 ニネヴェ陥落後は西方のハルランに、アッシュール・ウバリト2世(在位前612年〜前609年)と名乗る者がアッシリアの残党を集結させて独立を回復し、エジプトと結んでナボポラッサルに対抗した。キャクサレスが本国に帰ったあとは独力で軍事行動を継続していたナボポラッサルはすぐさまハルランを包囲、紀元前610年にこれを征服する。起死回生を願ってエジプトを頼り、これを奪回しようとしたアッシュール・ウバリト2世も戦死し、紀元前609年、アッシリア王国は完全にその命運を絶たれたのである。

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3. メソポタミアのその後

●新バビロニア王国
 カルデア人による王国はバビロンに建設され、バビロンに拠った最後の王朝となった。アムル人が造った古代の王国に対して、こちらは新バビロニア王国と呼称されている。
 広大なアッシリア王国の旧領土は、北をメディア王国、南を新バビロニア王国で分割して統治することになった。最初の王位にはナボポラッサル(在位前626年〜前605年)がつき、彼は再びエジプトに対する攻撃を開始する。しかし国内の情勢がまだ不安定だったため、息子のネブカドネザルに軍事はすべてまかせ、自分は内政に明け暮れた。すぐれた将軍としてネブカドネザルはその期待に応え、第一の関門であるシリアを平定(カルケミシュの戦い、紀元前605年)するが、喜んでくれるはずの父はその年に急逝した。
 王位にのぼったネブカドネザル2世(在位前605年〜前562年)はその長い治世のうち、軍事行動として特記されるほどのことは行っていない。ただし在位初期、彼がシリアへの侵攻を進めるうちに起こったパレスティナ進駐、そして首都イェルサレムの包囲と征服は、『旧約聖書』に記されているように、都市の破壊と住民拉致を強行する激しいもので、それはのちに「バビロン捕囚」などと呼ばれて簒奪の代名詞になった。これまで細々ながら独自の繁栄を維持してきたユダヤ人は、この時点で最初の国家喪失を体験したのである。
 ネブカドネザル2世のおもな事業は、建築と文化育成だった。それは破壊されたバビロンの復興にはじまる。荒廃していたバビロンのジッグラトは豪壮な神殿として生まれかわり、発掘されたときは、これが名高い「バベルの塔」ではないかとされたものである。またアーチ型をもつ地下構造が発見されたことで、世界七不思議のひとつ「バビロンの空中庭園」を支えるためのアーチなのではないかと騒がれもした(世界の七不思議=エジプトのピラミッド、ハリカルナッソスのマウソレイオン、エフェソスのアルテミシオン、バビロンの空中庭園、オリンピア神殿のゼウス神像、ロードス島の巨像、アレクサンドリアのファロス灯台)。
 文化育成の面で彼は、教育に力を注いだ。学校では古代の文献がさかんに書写され、それがギリシア・ローマやユダヤ人に伝わって「バビロニア文化」として後世に残ることになったのである。アッシリア王アッシュール・バニパルが残した事績が遺跡から発掘されるのに対して、ネブカドネザル2世の偉業は現在に「生きて」伝わっているのである。
 新バビロニア王国にとってもっとも危険な存在は、あの強国メディアを破って急成長しているペルシア人、そしてその王であるキュロス2世だった。ネブカドネザルの死後に即位した王たちはほとんど記録にも残っていないが、それでも長命な政権を維持した最後の王・ナボニドス(在位前556年〜前539年)はアラビア出身の元将軍で、前王より王位を奪いとった者である。彼はアラビアにとどまって政治を見ることはなく、もっぱら、息子のベル・シャル・ウシュル(ベルシャザル)を副王としてバビロンに置いておいた。
 メディア王国の古都エクバタナを奪って勢いを得たキュロス2世は小アジアに進出し、リディア王国に侵攻して王クロイソスを服属させ、イラン高原の残党を蹴散らしてしまう。最後に残ったのは新バビロニア王国だけとなった。ナボニドスは急遽バビロンに戻って防備を固めるべく奔走したが、時すでに遅く、紀元前539年、ついにキュロス2世は念願だったバビロンの占領を果たす。
 バビロンはこうしてアケメネス朝ペルシア帝国の手に落ち、属州へと転落した。これ以後、バビロンが国家の首都としての地位を回復することはなかった。
  

→地図「アッシリア滅亡後のオリエント」へ

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