

歴史的な用語は、覚えようとして覚えるものではないと思います。
何より興味をもって歴史を学び、その過程で自然と覚えていくものだと信じています。
このページは、そんな用語の記憶を少しでも補助し、またさらに詳しく知っていただくために開設しました。
最初は項目数が少なくても、随時更新していく予定です。
「こんな用語について知りたい」「調べたかったのにこれがなかった」という要望や意見は、
すぐに調査をして追加していきます。ともに用語集を成長させていきましょう。
| 今回の追加項目(更新日:2001年8月5日 0:49:52) |
| 今回の追加項目はありません。 |
| 【あ】 アッシュール アッシュール・ウバリト1世 アッシュール・ウバリト2世 アッシュール・バニパル アムル人 アラム人 【う】 ウル ウルカギナ ウルク 【え】 エラム人 【か】 カッシート人 |
【く】 楔形文字 【さ】 彩文土器 サルゴン サーマッラ遺跡 【し】 シャルマネゼル3世 シュメール人 【て】 ティグラト・ピレゼル1世 ティグラト・ピレゼル3世 【な】 ナボニドス ナボポラッサル ナラム・シン |
【に】 ニップール ニネヴェ 【ね】 ネブカドネザル2世 【は】 ハンムラビ バビロン 【ひ】 ヒッタイト王国 【ふ】 フルリ人 【み】 ミタンニ王国 【ら】 ラガシュ |
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メソポタミア文明史 歴史用語集
| アッシュール | |
| 一覧表に戻る | モスルから南に100キロほど行くと、カラート・シェルカートという村がある。そこがアッシリアの古都アッシュールであるということがわかったのは、1903年から1914年にかけて行われた、ドイツ隊による発掘の結果であった。発掘を指揮したのは、バビロンを掘り出して有名になったロベルト・コルデヴァイの弟子であるヴァルター・アンドレという人物だった。 カラート・シェルカートからは数々の遺物が発掘されたが、それらには後世のものが混じっていたりしてなかなか年代が特定できないでいた。ここがかつて、パルティア時代、ササン朝ペルシア時代にも都市が築かれていたからである。発掘は難航した。 ドイツ隊の必死の努力が実って、最深部から発掘された粘土板文書により、次つぎと現れたイナンナ神殿、シンとウトゥの神殿、それに多くの宗教文書や経済文書は、アッシリア人の都市アッシュールが、シュメールの初期王朝時代に相当する紀元前2700年ごろには成立していたことを明らかにしてくれたのである。 アンドレは出土品を再調査することによって、ここがセム系のアッシリア人にとって最初の都市であることを突き止めた。そして都市は、アッシリア人が王国を興して発展し、紀元前610年にニネヴェが陥落するまで変わらぬ繁栄を続けたのである。アッシュールそのものは滅亡したあとも後世に再建が繰り返され、イスラムの登場とともに消え去っていったと考えられる。 |
| アッシュール・ウバリト1世 | |
| 一覧表に戻る | アッシリア王(在位前1364年〜前1328年)。 英主エリバ・アダドの子として、宿敵ミタンニと対峙し、長期間にわたって独立戦争を戦った。エジプトとも交易を開始し、当時は絶頂期にあったエジプト王イクナートンと軍事同盟を締結して「ファラオの兄弟」を自称した。その後独立に成功し、小さいながらもアッシリアを統一王国にまとめ上げたが、彼の死後は内紛が絶えず、息子たちが獲得した領地もアラム人の侵犯にさらされるなど、苦しい時代が続くことになる。 アッシリア新王国の幕開けを告げる王のひとりである。 |
| アッシュール・ウバリト2世 | |
| 一覧表に戻る | アッシリア王(在位前612年〜前609年)。 アッシリア王国の最後の王であるが、その出自ははっきりしていない。 紀元前612年に首都ニネヴェが陥落したあと、ハルランに立てこもって王位につき、カルデア王ナボポラッサルの軍勢と対峙し、2年にわたって籠城戦を戦い抜いたが、王国再興の夢はかなわず彼は戦死した。これによりナボポラッサルはバビロンに凱旋して新バビロニア王国の建国を宣言し、アッシリア王国は命運を完全に絶たれたのである。 |
| アッシュール・バニパル | |
| 一覧表に戻る | アッシリア王(在位前669年〜前630年)。 父エサルハッドンが残した広大な領土(下エジプト〜エラム)を受け継いだが、膨張の限りを尽くしたアッシリア王国は財政が逼迫しており、新たな軍事行動を起こす国力はなかった。その上エジプトの反乱(紀元前665年、エジプト王プサムティク1世の反アッシリア闘争)やリディア王国、シリア地方の各都市の反乱などが相次ぎ、またバビロンに封じられて不満をつのらせた兄シャマシュ・シュム・ウキンとの悲しい戦いなど、彼の治世の前半は鮮血に彩られたものになった。 その後、アッシュール・バニパルはエジプトにおける経営を合理化するために撤兵を決意し、それによって生じた余裕をバビロンの兄を討伐するために向けることに方針を転換した。4年もの苦しい包囲戦の果てにバビロンは開城を余儀なくされ、兄シャマシュ・シュム・ウキンは城内で憤死した。これにより国内には平和が戻り、アッシュール・バニパル自身の記録も途絶える(アッシリアの正史は軍事行動を節目に記録する方式をとっていたためと思われる)が、最後には息子たちによって退位させられたのではないかとされている。 当時としては特殊な能力とされていた「読み書き」ができる王として(驚くべきことに、国王といえども識字者はほとんどいなかったのである)、彼には文学に対する深い理解があったという。その現れが、首都ニネヴェに造営させた巨大な図書館であった。すでに死語と化していたシュメール・アッカド両言語の古代文献を徹底的に蒐集し、その分野は文学から経済文書、宗教文書、果ては個人の貸し借りの証明書に至るまで、まさに徹底的と言うべきものだった。19世紀になって発掘された粘土板文書は約2万2000点に及んでおり、後世のアッシリア学の基礎を築いたのである。 |
| アムル人 | |
| 一覧表に戻る | 紀元前3000年以降メソポタミアに進出し、バビロンを中心にパレスティナまで勢力を広げた民族。アモリ人ともいう。 彼らが最初に建てた王朝はバビロンに拠点を置いたため、のちの新バビロニア王国に対して「古バビロニア王国」と呼ぶ。その第6代の王がハンムラビであり、のちにメソポタミアを席巻する版図を実現した。 だが西方の脅威ヒッタイトにバビロンを落とされ、都市が破壊されたことで致命的な打撃を受けたアムル人は、それから勢力を盛りかえすことなく、進出してきたアッシリア人の支配を甘んじて受けることになった。 |
| アラム人 | |
| 一覧表に戻る | セム系の遊牧民族で、紀元前14世紀にメソポタミアに進出し、シリアにかけて広く分布した。彼らは「陸上のフェニキア人」と呼ばれるほど、商業に長けていたとされる。バビロニアやアッシリアにとっては長期間にわたって好敵手であり続けたが、紀元前8世紀には民族としての系譜は途絶えた。 しかし彼らが話していたアラム語は、アッシリア王国の公用語に指定されたことから、それまでの公用語であったアッカド語にかわって広まっていった。方言的な違いから、東方アラム語と西方アラム語に大別される。 東方アラム語はパレスティナで広く話されていた言葉で、『旧約聖書』の外典「タルムード」などに現れている。サマリア語、パルミラ語、ナバテア語も同じ系列である。民衆に広まっていたことから、後世のイエスもアラム語を使っていたのではないかという説もある。一方、西方アラム語はシリア語となって広まり、メソポタミアの文化をギリシアに伝える橋渡しの役を演じた。 これらのアラム語はアッシリア王国が滅亡した後、ペルシアなどにわずかに残るのみとなってしまったが、現代でもレバノンの一部、またウルミア地方では現代アラム語として依然として話されている。 |
| ウル | |
| 一覧表に戻る | ウル(Ur)は『旧約聖書』に「カルデラのウル」として登場する、アブラハムの出身地とされる都市である。シュメール人のもっとも重要な都市のひとつで、遺跡はバビロンの南およそ225キロ、現在のユーフラテス川から約16キロの地点にある。最初の発掘は1854年にヘンリー・ローリンソンらによって開始される予定であったが、実際に発掘が始まったのは1922年、イギリスの考古学者レナード・ウーリーによってだった。現代の地名はアル・ムカイヤルという。 ここにはもともと、金石併用文化のエラム人が住んでいたようであるが、『旧約聖書』にも現れる大洪水によって無人になったと考えられる。ここに再び定住し、都市文化にまで高めたのが、シュメール人であった。シュメール人は高度に発達した美術と建築技術をもっており、神聖不可侵である国王がおさめていた。国王の死に際してはその高官、侍女、召使いにいたるまでともに埋葬するのが習わしであった。そうした王墓から、金や宝石で装飾した武器・楽器・装身具などが発掘されている。アッカド王サルゴンの実在が確認されたのもここであった。 ここに残る建築物のうちもっとも巨大なものはジッグラト(聖塔)である。 これは焼きレンガを瀝青で固めつつ積み上げた3層の建造物で、基底部は方形で幅64メートル、奥行き46メートル、高さは12メートル。三方はほとんど垂直で、一方だけに傾斜をつけてある。傾斜面には3つの階段があり、中央のものは最大で直角に外に突出している。ほかの2つはジッグラトの一側面に沿っていて、3つとも同じ門へと延びている。現在はこの基壇しか復元されていないが、この上にはさらに2層あり、頂上にはウルの市神ナンナの神殿があった。この神殿は、ウル第三王朝の祖ウル・ナンムが建造させたといわれている。 ウル第三王朝の滅亡後、ウルはエラム人らによって破壊されたが、ジッグラトだけは後世まで保存されていた。その後イシン・ラルサ王朝のもとで再建が行われ、ここは都市としての機能を回復したが、もはや首都としての威信はなかった。それでもここは、依然として商業・宗教上の中心であったようである。のち、最後の新バビロニア王ナボニドスはジッグラトの大改修を行い、基底部はウル・ナンム時代のままだったものの、上壇部は従来の2段から6段に拡張され、全体の高さももとの19.8メートルから48.7メートルへと巨大化した。だが、もはやこの都市を衰退から救うすべはなく、ペルシア王アルタクセルクセス2世の時代にユーフラテス川がその流路を変え、付近の農業に壊滅的被害を与えた時点で、ウルは完全に見放されてしまったのである。 |
| ウルカギナ | |
| 一覧表に戻る | シュメール都市ラガシュの王。初期王朝の最後の王であるが、その治世については、福祉政策を推しすすめたという点以外は謎が多い。 ただ、近年発掘されたウルカギナの法令は、当時の法制・行政の一端を知ることができる歴史資料として重要性が高まっている。だがラガシュは、ウンマのエンシ・ルガルザグゲシに襲われて壊滅し、のちにアッカド王サルゴンに降った。 |
| ウルク | |
| 一覧表に戻る | ウルク(Urk)はウルの北西約60キロにあるシュメール人の都市である。当初はロベルト・コルデヴァイとユリウス・ヨルダンによって1913年に発掘が開始され、第一次世界大戦のため中断されたが、ヨルダンのもとで1928年に発掘が再開された。だが第二次世界大戦のために再度の中断を余儀なくされ、1954年にハインリヒ・レンツェンによって再び発掘が始まったものの、現在は発掘は行われていない。 ここはシュメール人による都市ウルクが滅亡した後でも、何世紀にもわたって人々が住み続けていた。もっとも最近の遺跡は第18層で、ユーフラテス川が流路を変えて本当に滅亡するパルティア時代のものである。めざすシュメール時代のものは第14〜15層にあたる。 シュメール時代の遺跡は、高さ30メートルにもおよぶ巨大な塔からまず発見された。調査の結果、それがエ・アンナ神殿(「天の神殿」の意)、または「白色神殿」と呼ばれるウルク最大の建造物であることがわかった。 またここで発見された遺物で注目すべきなのは、楔形文字の原型であると考えられる絵文字を刻んだ粘土板が、数百枚もまとめて発見されたことである。現在のところ、これが実在が確認されている最古の「文書」である。これらは紀元前3200年ごろのものだが、ヨルダンは紀元前4000年ごろの神殿(建造物集合体)を発見している。 実在は確認されていないが、ウルクの王(ルガル)のうちもっとも有名なのは英雄ギルガメシュであろう。彼は想像上の王として神性を付与されており、王家はすべて神から一系にして連なる存在であると考えられていた。ウルクは付近一帯をウルク文化圏とするほど影響力が強く、ウルやラガシュと類似しながらも独自の文化形式をもっていた。ジッグラトを造らず古来からの神殿建築を堅持したのもその現れである。 |
| エラム人 | |
| 一覧表に戻る | ペルシア湾の北部にあるエラム地方に住んでいた民族。独自の言語と文化をもち、エラム王国(首都・スーサ)を形成して絶えずメソポタミアへの進出をもくろんでいた。紀元前2030年にウル第三王朝を倒して支配権を手にしたが、故郷であるエラムの地を離れることはできなかった。その後も何度かの征服戦争を繰り返し、バビロンからハンムラビ王の法典を彫り込んだ記念碑を持ち去るなどしたが、勢力は徐々に衰えていき、紀元前639年、アッシリア王アッシュール・バニパルによって滅ぼされた。 銅や銀、スズなどを産出する恵まれた土地を拠点としたエラム人は、商業活動にも熱心で、エラム語はティグリス川以東のペルシア湾北岸にかけて広く分布した。語族は不明。シュメール語と出自が一致するという説もある。文字は楔形文字を使用しており、紀元前2500年ごろから紀元前400年ごろまでの碑文が発掘されている。カールステン・ニーブールが書写してきたペルセポリス宮殿跡に残されていた3種類の文字の、第2種文字にあたるのがエラム語である。その多くは音節文字で、数多くの単語の組み合わせで意味を表していたと思われる。 ただ、現代ではエラム語を話す人は一人もいない。 |
| カッシート人 | |
| 一覧表に戻る | インド・ヨーロッパ語族に属する山岳民族。 もともとはイラン高原に居住していたが、紀元前2千年紀のはじめにメソポタミアに侵入、古バビロニアを倒してバビロンに新たな王朝を開いた。バビロン第3王朝と称する場合があるが、ここでは古バビロニア、新バビロニアという王朝名に配慮し、カッシート王朝と称することにする。 カッシート人はバビロンの文化や政策を引き継いで平和的に統治したため、文化的な貢献は何ひとつない。彼らはカッシート語というアーリア系言語を話していたとされるが、解読はされていない。 彼らは境界線を示すために、宗教的な事物を彫り込んだ「クドゥルー」という境界石を数多く残しているが、バビロンにおいて彼らの存在を示しているのは、文献以外ではそれだけである。 |
| 楔形文字 | |
| 一覧表に戻る | 英語ではCuneiform。「せっけいもじ」「けっけいもじ」とも読む。 シュメール人によって開発され、前3000年ごろから紀元前後にいたるまで、メソポタミアを中心とするオリエント一帯で用いられた文字。もともとは骨角器など棒のようなものを粘土板に突き刺して書いたことから、「くさび」のような形が残るのでこう呼ばれている。 最古の楔形文字はウルク第4層から発見され、現在では1000文字のバリエーションがあることが知られている。その後、初期王朝時代に民衆にもひろまり、表音化された。アッカド人はこれを取り入れてアッカド語をつくり、シュメール人が消滅したあとも楔形文字は存続して、広く用いられた。 ウルクから発見されたものは絵文字のまわりにわずかに書かれたもので、絵文字の内容から察するに商品のカタログか、売り上げ台帳であったらしい。この当時のものは絵文字と一緒になっているものが多く、まだ民衆が文字を理解しきれていない初期のものであったと推論できる。 絵文字から発展したと考えられる楔形文字は、もともと表意文字(漢字では「人」とか「水」とか)であったが、初めは名詞だけを意味していたものが動詞に派生していき、多くの意味が出来上がっていった。たとえば、「足」という名詞が「立つ、行く」という意味をも含んでいたことがわかっている。 シュメール語においては、単音のつづりをいくつも組み合わせてひとつの単語にしているもの(漢字もその類である)が開発され、文法的な意味ももたせることができるようになった。また彼らは同音異義語を数多くもっていたらしく、解読には注意を要する。 最初は縦書きで、書き順もそれほど厳密ではなかったが、必要に応じてしだいに横書きへと変化していき、それにともなって書き順も左から右へと決まっていった。またそれによって、文字も90度回転していったらしい。この文字はのちにアッカド語、アッシリア語、ペルシア語、ヒッタイト語などに広まっていき、ローマ時代に至るまで、それは文語の一種として存続していた。 この言語が発見されたのは、17世紀以降のことである。楔形文字の最後の形式であるペルシア語を旅行者が筆写してきたのがはじまりで、「楔形文字」と名付けたのは、ドイツの考古学者エンゲルベルト・ケンペルである。 18世紀に入ると、その発掘はより本格的になってきた。とくに有名なのは、デンマークの言語学者カールステン・ニーブールがペルセポリス宮殿跡で発見したもので、よく見ると少なくとも3種類の書体があることがわかった。単純な記号が約40個並んだ第1種、少し進んだ100個程度の第2種、そしてさらに多く、言語的にもバリエーションに富んだ500文字以上にものぼる第3種である。最初の単純なものはアルファベットに相当するものと考えられる。また斜めに入れられた棒が単語の区切りであることも認められた。この3つは、エジプトで発見された「ロゼッタ・ストーン」と同じく、3カ国語併記の文書ではないかと推測された。 1802年、ドイツの古典語学者ゲオルグ・グローテフェントは、次のように考えた。 最初の導入部にある数行は支配者の名前や称号を表しており、何度も繰り返されている文字は「息子」とか「諸王の王」であるとみた。そこで彼はヘロドトスの著書からアケメネス朝の歴代君主の順序を調べ、それをあてはめていくことで名前を割り出した。 ペルセポリス宮殿跡で発見された碑文は父が子の功績を書き残したものであることがわかったので、それに合致するものとすれば、と考えてみた。これを書いた人物自身も「王」を名乗っているが、自分の父は王と呼んでいない。そしてわが息子を王と呼んでいるのである。そうすれば、もうそれはひとりしかいない。これを書いたのはダレイオス1世だったのである。 考えればこうだ。ダレイオスの父ヒュスタスペスは貴族であったものの王ではなく、ダレイオスは前王カンビュセス2世の死後の王位争いに勝って即位した人物である。そこでここにある父の名は「ヒュスタスペス」、自分の名は「ダレイオス」、息子の名は「クセルクセス」であるとみごとに解読したのである。 これによって文字の形から多くの単語の意味がわかるようになり、さらに1846年、イギリスの学者ヘンリー・ローリンソンがイランの寒村ベヒストゥーンに残るダレイオス1世の大碑文を命がけで書写し、5年がかりで解読することに成功したのである。 研究の進歩と学者たちの不屈の努力で、第2種文字、そして第3種文字まで解明された。すなわち、第1種はペルセポリス宮殿が造営された当時の古代ペルシア語、第2種はかつてバビロンで使われていたことのあるエラム語、そして第3種はアッカド語である。 アッカド語はシュメール語をとりいれて誕生した言語である。とすれば、ウルクの遺跡で発掘されたシュメール語も解読できるかもしれない。詳細は、別の機会に譲ることにする。 |
| 彩文土器 | |
| 一覧表に戻る | 土器の一種で、素焼きの表面を磨き、そこに赤・紫・黒などの酸化鉄を材料とした塗料で原始的な図案を描いたもの。日本にもみられるが、中国のものは特に「彩陶」と呼んで区別している。 新石器時代後半から初期青銅器時代に製作されたものが大部分で、地中海のミノス文化からミケーネ文明、エジプト、メソポタミア、インダス各文明、ルーマニアやハンガリーなどドナウ川流域、ドニエプル川やトルキスタンなどに分布。日本では弥生式土器のなかにこの形式が残っている。 |
| サルゴン | |
| 一覧表に戻る | 1.アッカド王サルゴン(在位前2350年〜前2294年頃) 彼は最初キシュ王の大臣をつとめていたが、バビロニア北方でアッカド市(現在地未詳)を建設して勢力をのばし、ウルク王ルガルザグゲシから支配権を奪って独立した。セム系であるアッカド人はこの当時さかんにメソポタミア中部に侵入していたのであり、当地のシュメール人を放逐したわけではない。が、ここに存在したアッカド王朝はとくに言語、土地所有の概念の面でメソポタミアに多大な影響をもたらした。 サルゴンは西方へ遠征して、レバノンや小アジアまでもその掌中におさめたとされている。現に、アッカド王朝の円筒印章がキプロス島で発見されている。彼は船による交易を推奨し、アッカドの埠頭には多くの商船が停泊するようになった。彼はそれを誇りにしていたと伝えられる。 2.アッシリア王サルゴン1世(在位?〜前1850年頃) 後世のアッシリア王国よりさらに北方にあり、アッシュール周辺に領土を有していたころのアッシリア王。彼は小アジアのカッパドキアを植民地にして、ここを交易の十字路とした。ここで見つかっている当時の円筒印章が、商業路の確保に尽力したサルゴン1世の事績を物語っている。ただ、ここがアッシリアの領土であったか植民地にすぎなかったかは、現在でも議論が分かれているところである。 3.アッシリア王サルゴン2世(在位前722年〜前705年) 前王シャルマネゼル5世がサマリアの戦いで戦死したことにともない、もっとも有能な将軍であった彼が王位をひきつぎ、サマリアをさんざんに打ち破り、破壊して勝利を得た。これは旧約聖書にも恐怖のできごととして記述されている。 サルゴン2世は首都ニネヴェの北方に、商業路を確保する目的から要塞都市ドゥル・シャルキンの建設をはじめた。そこは交易の十字路を扼する重要地点で、何としても確保したい土地であったからである。ここはのちに宮殿となるが、彼の急死でその建設は中止され、忘れ去られてしまうことになる。 前王の死にさいして彼は正式に王になったのであるが、バビロニアの支配者メロダク・バラダンがエラム人と同盟してアッシリアの王位を要求してきた。彼に対するアッシリアの軍事行動はことごとく失敗したため、長い間、サルゴンはメロダク・バラダンを好敵手として存続させてしまう。 サルゴン2世は積極的に遠征に出た。北部に対してはウラルトゥ王国の反アッシリア同盟を打ち破ったり、北西部では紀元前713年に起こったフリュギアの反乱をすみやかに鎮定したりとすぐれた軍事的手腕を発揮した。こうして背後を安定させた彼は、自由にバビロニアだけを相手にすることができるようになり、メソポタミア中部の諸都市からメロダク・バラダンの勢力を一掃することに成功したのである。しかしこの好敵手はあきらめることなく、依然として南部地域の支配者として君臨する。 紀元前707年、彼は北西部で突如としてウラルトゥに侵攻したキンメリア人を撃破するべく、タバル(現在のトルコ)へ向かい、彼らを西へ追いやった。しかしこの2年後、サルゴンは同地での軍事行動中に戦死したと伝えられている。が、戦死の地が不明なことや公的な文書がないことから、その信憑性は謎とされている。 |
| サーマッラ遺跡 | |
| 一覧表に戻る | サーマッラの街は、イラク中西部、ティグリス川の東岸に位置する。バグダードの北方113km。836年にアッバース朝第8代カリフ・ムータシムがここに首都を移転した。しかし892年に首都がバグダードに戻ると急速に衰退、廃墟と化した。シーア派の聖地。 ここでは先史時代の遺跡が発掘されている。1911年にドイツの考古学者E.ヘルツフェルトらによって、イスラム時代の住居跡の下から発見された。発掘品のうち彩文土器はこの地域独特のもので、「サーマッラ式」と呼ばれている。 |
| シャルマネゼル3世 | |
| 一覧表に戻る | アッシリア王(在位前859年〜前824年)。 シリア・パレスティナ連合軍が拠点とした都市ダマスクスを陥れることによって、アッシリアの版図をシリア全域にまで及ぼすことに成功した。 そのために行われたカルカルの戦い(紀元前853年)では、アッシリア軍は大軍勢をもってダマスクスまでの要衝を攻め立てたが、あと一歩というところで敗走を余儀なくされてしまう。だが彼はそれでも諦めることなく、今度は経済封鎖による徹底的な締めつけを断行し、ついにダマスクスを服属させたのであった。 これらの征服戦争の数々は、彼の戦勝記念碑「黒のオベリスク」に、征服した諸民族の名前として残されている。 |
| シュメール人 | |
| 一覧表に戻る | もとは地域名で、ティグリス・ユーフラテス川流域の沖積平原、現在のイラク南部一帯をさす。当時はこの地域を楔形文字で「キ・エン・ギ(・ラ)」と呼んでおり、バビロニア人は台地部分を「アッカド」、低地部分を「シュメール」と名付けていたらしい。 この低地部分に定着した民族をシュメール人といい、オリエント世界最古の文明を創出した開明的な人々であった。文明期間は(1)アル・ウバイド期(2)ウルク期(3)ジェムデド・ナスル期の3つに分けられる。 (1)は前3300年から前3100年ごろまでで、彩文土器を使用し、伸展葬、土偶などがみられる。集団生活を開始しているが、都市はみられない。(2)は前3100年から前2900年ごろで、金属器の使用、ジッグラトの建設、円筒印章の製作が始まっている。もっとも古式の楔形文字はこの時代に生まれたものである。だが、土器は粗製に退化した。(3)は前2900年から前2600年ごろで、歴史時代として王や英雄たちの記録が現れはじめる時期である。 シュメール人が生み出した都市として、ラガシュ、ニップール、ウル、ウルク、エリドゥ、シュルパク、ウンマ、アダブ、アル・ウバイドなどが現在までに発掘されている。 楔形文字や建築ばかりでなく、シュメール人はその美的感覚にもすぐれたものをもっていたことがわかっている。 建築物の壁面装飾として有名なのはウルクの柱神殿や白色神殿。着色した粘土を釘状にして全面にモザイクのように打ち込んだ壮麗なもので、シュメール人の高度な装飾技術を今に伝えている。ウル王墓から出土した「ウルのスタンダード」と呼ばれる粘土板には人物像などが精巧に彫られており、シュメール前期の人々の生活をかいま見せる。また同じところから出土したモザイク画には動物格闘図や樹木中心図、ギルガメシュ叙事詩を匂わせる英雄画などがあり、さらに同所から出土した、頭がライオン、身体が鷲のイム・ドゥグド神をあしらったフリーズなどは、彫金技術にすぐれていたことも示している。 アッカド期に入ると、テル・ブラク出土の「ナラム・シン王の戦勝記念碑」にみられるように人物の浮き彫りなどから堅さがとれ、自由な表現に変わっている。金属器では「サルゴン大王像」(イラク博物館所蔵)とされる青銅頭部像が有名で、抽象化されたなかにも写実的な表現がみられて興味深い。 末期のものでは、閃緑岩に彫られた多数の「グデア王像」がある。ラガシュ王グデアを慕って彫ったものだが、自由な写実的表現のなかにも古式回帰の片鱗がある。 アッカド人やバビロニア人などの南下により土地を追われたシュメール人はいたるところでその姿を消していき、シュメール文字などは残ったものの民族区分としてのシュメール人は現在確認されていない。 |
| ティグラト・ピレゼル1世 | |
| 一覧表に戻る | アッシリア王(在位前1116年頃〜前1076年)。 アムル人による領土侵犯問題を解決するため、西方へ大規模な征服軍を送った。アラム人を無力化し、ヒッタイトの諸都市のいくつかを支配下におさめることでアッシリアによる「世界制覇」の第一歩を築いた王であった。だが、王の死後100年間は、アッシリアにとっての暗黒時代となる。 |
| ティグラト・ピレゼル3世 | |
| 一覧表に戻る | アッシリア王(在位前745年〜前723年)。 シャルマネゼル3世亡き後のアッシリア王国を、その強力な個性によってみごとに立て直した王である。だがその実、彼は王位を奪い取った簒奪者であった。 たび重なる征服戦争に明け暮れる毎日だったが、それはアッシリアに巨万の富をもたらした。それにより彼は斜陽の帝国アッシリアを甦らせ、またバビロンをも平和裡に手に入れ(彼はバビロニア王プルと名乗った)、パレスティナやウラルトゥを支配下におさめた。 ティグラト・ピレゼル3世はすぐれた政治家であったが、自分は戦士であるということをアピールするために、常に全軍の先頭に立って戦ったとされる。だが、征服された民族からは、彼は略奪者として恐れられた。 |
| ナボニドス | |
| 一覧表に戻る | 新バビロニア王国最後の王(在位前556年〜前539年)。カルデア人ではなくアラビア出身の将軍であったが、王位を奪い取ってバビロンに入った。彼自身は懐古主義者であり、シュメールの月神シンを崇拝して神殿などを保護したため、マルドゥーク神官らの排撃を受ける羽目になった。 シリアへの遠征中に病を得たナボニドスは、国内の政治を息子のベルシャザルに譲り、みずからは王位についたままアラビアにこもってしまう。しかしペルシア王キュロス2世の動静に危機感をもった彼は紀元前540年にバビロンへ戻ろうとするが、時すでに遅く、バビロンはついに陥落し、王国は滅亡した。ナボニドスは捕らえられ、カルマニアへ追放されてしまった。 |
| ナボポラッサル | |
| 一覧表に戻る | 新バビロニア王国初代の王(在位前626年〜前605年)。当初はバビロニア一帯を領土とするカルデア人の王であった。 紀元前625年にアッシリアからの独立を果たしたカルデアは、バビロンに拠ることによって国号をバビロニアとし、その王であるナボポラッサルは幾度となくアッシリアと抗争を繰り返した。 転機が訪れたのは、メディア王キャクサレスの協力だった。紀元前612年にアッシリアの首都ニネヴェを包囲・殲滅して念願を果たすと、今度は独力でアッシリアの残党をハルランに破って完全なる勝利を手中にした。 ナボポラッサルは壮麗な神殿や王宮を数多く残しており、息子のネブカドネザル2世とともにバビロンの都市化を推しすすめた。エジプトに侵攻し、これからというときに惜しくも病死。 |
| ナラム・シン | |
| 一覧表に戻る | アッカド王朝の第4代の国王(在位前2270年頃〜前2233年頃)。これまでのシュメール王朝の伝統を打破して、初めてみずからを神の化身と名乗ったのは彼である。 祖父サルゴンの残した領土を存続させ、また発展させるためにナラム・シンがとった方策は、さらなる領土拡張だった。まずキシュに起こった反乱を鎮圧すると、ザグロス山脈地方の山岳民族をしたがえ、北はアルメニアから南はアラビア半島東部に達する領土を獲得し、敵対していたエラム人を討伐した。彼の最大領土は地中海にまでおよび、アッカド王朝の事実上の最盛期を迎えた。 |
| ニップール | |
| 一覧表に戻る | ニップールはイシンの北に位置する、シュメール人の都市国家である。ここにはエンリル神の唯一の神殿があり、宗教都市として栄えていた。現在は付近に水源もなく、荒涼たる砂漠が広がっているだけの場所である。 南部の村落ヌファルの近くにあった遺跡が発掘されたのは、1889年から1900年にかけてであった。発掘を始めたのは、ペンシルヴァニア大学をはじめとするアメリカの調査隊であった。テルローにおけるフランス隊の成功に触発されたものだった。 ここから見つかったのは、聖塔の一部が残る神殿建造物の集合体で、エンリルの像が見つかっている。文書によると、ここはエ・クル神殿といい、エンリル神の主神殿として多くの支配者の帰依を集めたところだということがわかった。 発見された碑文は、ウル第三王朝の王アマル・シンがエンリル神にささげたもので、このような内容だった。 「諸国の王、愛されし支配者、強き王、ウルの王、四方世界の王、エンリルによってニップールに呼ばれしアマル・シンが、エンリルのために、その神殿を維持するために、ここにこの神殿を建立した。ここには、蜂蜜、バター、酒など、奉納物が絶えることはないだろう」 |
| ニネヴェ | |
| 一覧表に戻る | 現在のイラク北部、ティグリス川の上流にあるクユンジクの丘の上で発掘された遺跡。最初の組織的発掘調査は1842年〜1855年のフランス探検隊によるものだが、その後1932年までイギリスのヘンリー・レイヤードらによって発掘が進められた。 ジッグラトなどをもつ古都アッシュールからニネヴェに首都が移ったのは前7世紀のことで、その造営は国王トゥクルティ・ニヌルタの指揮のもとで行われた。以来、二度の遷都を経験する(アッシュール・ナジルパル2世によるカラフ遷都、サルゴン2世によるドゥル・シャルキンへの遷都)が、王国の事実上の中心地でありつづけた。 クユンジクの丘は全体が城壁に囲まれており、ここがかつて都市だったことを物語っている。センナケリブの南西宮殿、アッシュール・バニパルの北宮殿、イシュタル神殿などが確認された。また数多くの壁画が見つかっており、『瀕死のライオン』などの貴重な浮き彫りが大英博物館に収蔵されている。また有名なアッシュール・バニパルの図書館からは、古代の洪水伝説にかかわる数万枚におよぶ粘土板が発見された。 ニネヴェの町は、前612年、新興国家メディアと新バビロニアの連合軍によって攻略され、破壊された。王国の残党はニネヴェを脱出することに成功したが、この町はもう二度と復興することはなかった。 |
| ネブカドネザル2世 | |
| 一覧表に戻る | 新バビロニア王(在位前605年〜前562年)として父ナボポラッサルから受け継いだ領土を堅持し、のちに引き継いだ。彼自身は激情に駆られやすいが温和な性格で、文学者として、軍人として、また政治家として偉大な人物であった。しかし建築趣味がたたって、何度か国家経済の危機を迎えている。 紀元前605年、初陣となるカルケミシュの戦いでエジプト王ネコ2世の大軍を撃破し、余勢を駆ってシリアを蹂躙する。即位後はイェルサレムを陥れてユダ王国を事実上滅ぼし、住民をバビロンに連れ去るという事件を起こした(バビロン捕囚、第2回、前586年〜前538年)。またフェニキア都市ティルスを13年間にわたって包囲し、ついに壊滅させる(紀元前573年)など、軍事面での成功が目立つ。 国内経済の運営にも力を尽くした。アッシリアにならった制度を採用して中央集権体勢を整えると、各地に運河や貯水池を造営して商業や農業の発展を促した。そのうちバビロンに残るものがもっとも大規模で、バビロンに黄金時代をもたらす。バビロンのジッグラトを全面的に改修して90メートルを超す巨大な建造物に仕立て上げたほか、世界の七不思議にも数えられるバビロンの空中庭園を発案するなど、建築の面にも才能を発揮した。 イラクでは近年、フセイン政権の躍進と歩調を合わせるかのようにネブカドネザルの業績が見直されており、宣伝などの具にされたりしている。 |
| ハンムラビ | |
| 一覧表に戻る | 古バビロニア王国の第6代の王(在位前1792年〜前1750年、もしくは前1728年〜前1686年、生没年未詳)。彼の在世中に交わされたと思われる契約文書などによって、その在位年間が42年であったことだけは事実のようである。 ハンムラビは25歳のときに、父シンムバリトの後継者としてバビロンの王になった。 しかし当時のバビロンは、北にアッシリア(国王シャムシ・アダド1世)、近在にマリ王国、当方にエシュヌンナ王国、南方にはラルサ(国王リム・シン)をかかえており、生まれたばかりの弱小な都市国家でしかなかった。そのため、彼の最初の事業は、彼の前任者たち同様、バビロンの政治的・宗教的基盤の強化であった。彼の最初の軍事行動は、即位から6年後の南方遠征である。 まず彼は南部メソポタミアに攻め込んでウルクをリム・シンから奪い取り、イシンを攻略した。次の目標はマリであり、その攻略のためにアッシリアと協定を結ぼうとしていた矢先、マリ王ジムリ・リムがアッシリアに対し軍事行動を起こしたので、これを幸いとばかりに相乗りし、アッシリア王イシュメダガンを圧迫した。これに対する返礼なのか、ジムリ・リムはエシュヌンナやエラムへのハンムラビの攻勢に際しては、援軍を送ったりしている。マリとの良好な関係は、この後も長く続いた。 ハンムラビの治世第30年までには、マリとの関係は悪化しており、マリ、エラム、エシュヌンナなどの都市国家連合からの敵対行為が日に日に増していた。そこで彼はバビロンを打って出てこれらの連合軍を撃破し、さらに返す刀でラルサへと攻め入り、もっとも古くからのライバルであるリム・シンを打ち破った。その上で彼は周辺諸民族を各個撃破していき、最後にマリ王国へ攻め入り、国王ジムリ・リムを討ち取って城壁を破壊し、都市を焼き払ってしまう。マリはこののち、二度と復興することはなかった。 アッカド王サルゴン以来の広大な領土を手中にするにいたったハンムラビは、宗教的・法的にこれを維持する必要に迫られた。彼はどの都市の守神に対しても敬意を払っており、バビロンの市神マルドゥークを押しつけたりはしなかった。またしっかりとした法整備を行うことで民心を獲得し、秩序を回復することに砕身したのである。 スーサで発掘された「ハンムラビ法典」であるとされる閃緑岩の碑は、その具体的な政策のひとつである。碑の頂部には、座っている太陽神シャマシュから王権の印である杖と正義の象徴である輪を受けとっているハンムラビ自身が刻まれている。碑の高さは2.25メートル。その下に、21欄282条の条文が刻んである。これらはバビロンの古い慣習法を成文化したものであり、そのうちいくつかの条項には、ラガシュのウルカギナ、イシンのリピト・イシュタルらによる初期立法からの影響がみられる。 ハンムラビ法典は、法の執行、財産所有、貿易および商業、技能職の規定、農業と報酬、婚姻と家族、奴隷、暴行などに関する諸規則からなっている。一般に「目には目を、歯には歯を」で知られる復讐法は、ほんのわずかな数行だけである。その一部を引用してみよう。 「(第196条)もし人がアウィルム(被征服者アムル人)の子の目を潰したときは彼の目を潰す。(第197条)もし人の骨を折ったときは彼の骨を折る。(第198条)もしムシュムヌム(被征服者)の骨を折ったりしたときは銀1マヌを支払う。(第199条)もし人の奴隷の骨を折ったりしたときはその価の半額を支払う」(高橋正男訳) 石碑はバビロンの陥落の時にスーサに持ち去られたらしいが、そのときに7欄が欠損してしまった。現在はパリのルーヴル美術館に収蔵されている。 ハンムラビはのちのメソポタミアの政治史に少なからぬ影響を与えたが、彼は自分自身の業績について、このように碑文に刻ませている。 「余は南部同様、北部でも敵を追放した。 余は戦いを終結させた。 余は国内の繁栄を促進した。 余は民が快適な家に住めるようにした。 余は民を恐れさせることを誰にも許さなかった。 余は正当な王権を有する善意ある守護者となるよう、偉大なる神から召された者である。 余の善意ある庇護はわが都市を包むだろう。 余はシュメールとアッカドの民のために心を砕いている。 民は余の保護のもとで繁栄をとげた。 余は民を平和に治めてきた。 余は余の強さによって民を庇護してきた。」 ハンムラビという名前の語源については、まだその原初まではさかのぼれていないが、彼以前に、シリア地方の、少なくとも3人の王によって名乗られていたことはすでに実証されている。 |
| バビロン | |
| 一覧表に戻る | 古代における有名な都市のひとつで、現在のイラク南部の小都市ヒラー(ヒルラー)の北方に位置する。2〜3世紀までは存続したとされるが、ユーフラテス川とティグリス川の流路の変化や大洪水によって完全にその姿を消してしまった。 発掘事業は1899年から1917年にかけて、ロベルト・コルデヴァイらドイツ・オリエント学会の手によって行われた。そこで発掘されたのは新バビロニア時代の遺跡で、日干しレンガと焼きレンガで補強された二重城壁が現れたのである。この城壁はある一定区間ごとに築かれた塔で守られており、城壁の厚さは最大で7.8メートルもあった。 バビロンを物語る建築物として有名なのは、その名の由来ともなった「イシュタル門」(バビロンとは「神の門」を意味する)である。高さ12メートルにもなる二重の門で、焼きレンガに13列・575頭もの竜(シルシュ)と雄牛の彩釉煉瓦の浮き彫りが貼られている。門をくぐると、そこから800メートルの「行列道路」が市街地を貫通している。道路の両側の壁面には、120頭のライオンが浮き彫りされていた。本来の行列道路はまだ地中にあるのだが、イラク考古局はあえてかなり高い位置でこれを再現した。行列道路を北から入ると、大宮殿区域やジッグラト(バビロンのジッグラトは「エ・テメンアンキ」(「天地の土台の建物」の意)と呼ばれる)に通じ、その南にはマルドゥーク神の神殿「エ・サギラ」がある。大宮殿区域には時代ごとの壮麗な建築群が確認されており、すべて中庭をもち、青色の彩釉煉瓦で内装を飾り、壁面には文様が並び、列柱の柱頭にはイオニア様式を思わせる二重柱頭の形跡がみられる。ほかにもここには、世界の七不思議のひとつといわれた「空中庭園」の名残り(現代では誤りであったとされる)や、「バビロン捕囚」で連れてこられたユダヤ人たちの宿舎であったとされる建物の跡などもあった。 バビロンが記録に初めて現れるのは、ラルサの王リム・シンを打ち破った古バビロニアが首都に定めたときである。 有能な支配者ハンムラビは、ここを永遠の都とするために、宗教上の中心地とした。以来、アッシリアの諸王でさえも、即位式はここで挙行したのである。政治の中心地がアッシュールからニネヴェに移っても、ここは依然としてメソポタミアの中心都市であった。 だが前16世紀の初めにバビロンがヒッタイトによって攻略されると、その支配力に浮き沈みが起こるようになる。とくにカルデア王メロダク・バラダンはその好敵手サルゴン2世との抗争に明け暮れていたため、本拠地であったバビロンは荒廃した。サルゴン2世もここを征服した後で再建の手をさしのべてはいるが、アラム人によって妨害されてしまう。その子センナケリブは反乱の代償として、街を完全に破壊してしまった。その子エサルハッドンは同じ場所に新しい都市を建設したが、彼の死後、ここを相続した長子シャマシュ・シュム・ウキンが弟であるアッシリア王アッシュール・バニパルに反旗を翻したことで、バビロンは鎮圧軍の包囲にあい、ついに攻略された。 現在見つかっているバビロンは、新バビロニア王ナボポラッサルとその子ネブカドネザル2世によって再建されたものである。しかし最後の王ナボニドスが月神崇拝者であったことからマルドゥーク神の神官らに不人気で、前539年、ペルシア王キュロス2世は労せずしてバビロンに入城し、ここで支配者として君臨した。 ところがその後継者ダレイオス1世やクセルクセス1世は反乱を起こしたバビロンに対する報復として、ここはみたび破壊されてしまう。 のちになり、ギリシア人たちが伝説の都バビロンへの定住を再開したため繁栄が戻るかにみえたが、時の支配者セレウコス朝シリアは首都をセレウキアからアンティオキアへと移していったため、ここが再び政治的中心地になることはなかった。そして大洪水によって、付近一帯は水没してしまうのである。 現在までに発掘されたものは、一部を除いてほとんどが新バビロニア時代のものばかりで、アッシリア時代、またさらに古いハンムラビ時代の旧バビロンは、いまだに地下深くの地下水面の下に眠っているのである。 |
| ヒッタイト王国 | |
| 一覧表に戻る | 強大な勢力を誇っていたバビロニア王国を最初に屈服させたのは、アナトリア(小アジア、現在のトルコ共和国)の中央部に出現したヒッタイトであった。 インド-ヨーロッパ語族に属するヒッタイト人は、紀元前2000年くらいに北方から移住してきた。当初の首都はクッシャラといい、覇権はそこを起点に行われた。 建国者はラバルナ。実在が確認されている最初の人物である。彼は黒海沿岸にまで領土を拡張し、都市ごとに息子たちを封じたとされる。そしてまた、ラバルナという名は、彼の後継者の世襲名になった。 次の王ハットゥシリ1世は南進し、原住民ハッティ人を駆逐してそこに首都を移転した。現在はボガスキョイという名で残るハットゥサ(またはハットゥシャシュ)である。その子ムルシリ1世はメソポタミアにまで進出してマリ王国に決定的な打撃を与え、また難攻不落の代名詞にもなったバビロンをついに陥落させた。この歴史的大事件は多くの文献に登場するが(新約聖書では、かなり象徴的に)、絶対年代の特定には至っていない。 しかし英雄ムルシリ1世は凱旋後、義弟であるハンティリに暗殺されてしまう。国内は混乱し、それに乗じた異民族がつぎつぎと侵入してくる。軍事的手腕は皆無だったハンティリは後退をつづけ、ついにヒッタイト王国の領土は首都ハットゥサの周辺に限られてしまう。のちの王テリピヌが断行した法制度改革によって内乱はおさまったものの、王国の衰退はどうすることもできず、ついにフルリ人の支配を受け入れてしまった。 トドハリヤ2世の即位とともに、ヒッタイト王国は帝政を開始する。まず最初に取りかかったのは、西方に発生した巨大な勢力・ミタンニ王国の撃破だった。ところが前途は多難で、トドハリヤ2世の後継者たちは拠点をつぎつぎと失うなど、失態をつづけた。 そんな中で即位した王シュッピルリウマ1世(在位前1380年〜前1346年)は最大の王にして、最大版図を現出した人物である。まず首都ハットゥサの再建を完了した彼は、念願だったミタンニへの遠征に着手する。最初の遠征は失敗に終わったが、謀略によってついに首都ワシュガンニを陥落させた。シュッピルリウマの名声は、遠くエジプトの方面にまで伝わったものである。 シュッピルリウマの死後、後継者たちは彼の築いた王国を維持するのに苦労しなければならなかった。しかしミタンニを破ったあとの国家的事業となったシリアへの進出は続行され、前まえからそこを狙っているエジプトとの間には緊張が醸成されるに至る。国内の基盤強化に生涯をささげたムルシリ2世とその子ムワタリは抜群の軍事的能力で諸都市をつぎつぎと征服していった。 紀元前1299年、南進するヒッタイトと北進するエジプトは、オロンテス川のほとり、カデシュで衝突した。集団戦車戦術で挑むエジプト王ラムセス2世に対して、威力絶大な鉄製武器で果敢に攻めるムワタリ。ヒッタイトは終始押し気味で戦闘を進め、ついにラムセスを退却させた。ラムセス自身は大勝利として壁画に彫らせたりしているが、シリアの権益を守りきったという点では、ムルシリの勝利であることは疑いない。 しかしその後、ヒッタイト王国は衰退を始める。 ミタンニ王国を破ったことで勢力を伸張したアッシリア帝国が、領土の東端を激しく攻撃しはじめたのである。ムワタリの弟ハットゥシリ2世はカッシートやバビロニアと結んでこれを防止しようと画策するが、今度は西方で興隆するフリュギア人、そして民族的出自が不明な部族「海の民」の侵入が始まり、最後の王シュッピルリウマ2世治世下の紀元前1190年頃、首都ハットゥサが陥落し、ヒッタイト王国は滅亡した。 |
| フルリ人 | |
| 一覧表に戻る | カフカス山脈を原住地とする民族。インド・ヨーロッパ語族ではない。紀元前2千年紀の初めごろ、カッシートやヒッタイトとともにメソポタミアに侵入した。 彼らは独自の国家を持たず、小アジアにおいてヒッタイト王国、ユーフラテス川中流のミタンニ王国、バビロンのカッシート王国の建国にたずさわり、それぞれで高い位についていたとされる。彼らはマルヤンニ(「騎士」の意。ヒンドゥー語では「若き英雄」という意味になる)と呼ばれた。 彼らはみずからの土地は世襲によって代々守り続けるが、養子縁組や贈与によって他人の手に渡すことはできた。土地の売買は禁止されていた。戦闘においては騎馬軍団を形成することが多く、ヒッタイトなどに影響を与えた。 |
| ミタンニ王国 | |
| 一覧表に戻る | ヴァン湖周辺から移住してきたフルリ人と、土着の原住民ミタンニ人による王国であるミタンニは、紀元前1450年ごろの建国である。 どの語族にも属さないフルリ人は、アーリア系貴族を支配層に置く民族で、アーリア系民族であるミタンニ人に従属していた。ミタンニ王国は一時、西進して地中海沿岸にまで達し、アッシリアを従えて北メソポタミアの大部分を領有する勢力にまで成長する。 最大の王シャシュシャタルは首都ワシュガンニを中心に版図を広げ、攻めよせるヒッタイトを何度も破って王国の領土を維持したが、のちの王トゥシュラッタはヒッタイトの猛攻についに屈し、王国は内部分裂を引き起こしてしまう。カルケミシュがヒッタイトに服属し、西方からのアッシリアの突き上げなどが重なり、紀元前1360年ごろに崩壊したと考えられている。 |
| ラガシュ | |
| 一覧表に戻る | ラガシュ(Lagash)はユーフラテス川の河口に位置し、現在はテルローと呼ばれている。その起源は先史時代のウバイド期にまでさかのぼるとされるが、紀元前2700年〜2400年の間のシュメール期に最盛期を迎えた。1877年から1904年にかけてフランスのエルネスト・ド・サルゼクらによって発掘が進められ、5万枚以上の粘土板文書が発見された。これらは当時までに知られていたアッカド語よりもさらに古い時代のものであった。シュメール語が世に現れた最初であった。こうした文書は、この時代の文化形態を研究するうえで重要な史料となった。 ほかにテルローで見つかったものは、数多くの小型の彫像と壺、そして兵士の集団が浮き彫りにされた碑文らしき粘土板の小片ぐらいのものであった。これらはパリへと持ち帰られ、シュメール語の解読とともにその正体が明らかになった。 まず、ここはシュメールの都市国家ラガシュであることがわかった。現在では、最初にサルゼクが発掘を始めて見つけだしたのは、その中でもギルスという地区だったことまで判明している。 数多く見つかった小型の彫像は、紀元前2100年ごろにここを支配していた王グデアのもので、壺は上部に刻まれた文字から、エンテメナ王が軍神ニンギルスに捧げたものであること、そして兵士の像が刻まれた粘土板は、近くから見つかった、死骸をついばむハゲタカの姿が彫られた部分とつながるもので、王エアンナトゥムによる対ウンマの戦勝記念碑であることなどがわかった。 ラガシュはシュメールの凋落と再興に合わせて盛衰を繰り返したが、アッカド王サルゴンの支配下に入ってからは一地方都市へと転落した。ただしペルシア湾が近かったことや人口減少が起こらなかったことなどからここは商業都市として依然栄えたとされ、都市そのものは3世紀まで存続した。 |