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メソポタミア文化史

当室は、人類最初の文明としてメソポタミアに花開いた文化の数々を、
現代によみがえらせ、多くの人々に知っていただくために開設いたしました。
メソポタミアでは、エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)と並び称される「楔形文字」が生まれています。
19世紀以降、人類はこの謎の文字を解読せんと、心血をそそいできました。
そして今われわれは、当時の記録をひもとき、かれらが生み出した文化の数々を、
現代の言葉として読み、伝えることができるようになったのです。
当室ではまず、楔形文字の変遷と言語の出自、
そしてそれによって書かれた、世界文学『ギルガメシュ叙事詩』を読み解きます。

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1. 言語と文学
 ●言語を伝える文字の存在 メソポタミア文明にとって、文字とはどういった意味をもつものだったのでしょうか。もっとも初期の文字をみながら、先史時代から続く文字と民衆とのかかわりと、それがどのようにして文明の骨格をなす文字にまで発展し得たかを考えます。
 ●シュメール語の発明 絵文字から発展したと考えられているシュメール語は、最初の楔形文字だったにもかかわらず、解読できたのはいちばん最後でした。それほど、シュメール語は高等で、難解な文字だったのです。
 ●支配言語・アッカド語 セム系のアッカド人がメソポタミアを制し、それによってアッカド語もメソポタミア全土にくまなく広がりました。難解だった文字は、そのころ民衆のものとして一般化していきます。それには、どのような努力が必要だったのでしょうか。
 ●歴史書の登場 今、われわれがメソポタミアの歴史を、あたかも近代の西洋史のように読むことができるのは、歴史書の存在が不可欠です。ここでは、その記録のしかたを、バビロンとアッシリアのものを比較しながら説明します。
 ●文学作品の発達 歴史を記録するだけでなく、文字は文学作品をも生み出しました。ここでは『ギルガメシュ叙事詩』を例にとって、それがいかにして知られるようになり、現代のわれわれが読むことができるようになったのかを考えます。
 ●世界文学『ギルガメシュ叙事詩』 世界的に知られる『ギルガメシュ叙事詩』はただの神話ではなく、人間生活と当時の思想を色濃く反映した内容をもっていました。あらすじを追いながら、伝説上の人物・ウルク王ギルガメシュの冒険と挫折をみていきましょう。
2. 建築技術
 ●初期建築−村落とジッグラト ジッグラト(聖塔)に代表されるシュメール時代の建築技法の、ルーツとして考えられているのはどういった遺跡なのでしょうか。またその完成形のひとつであるウルの「赤のジッグラト」を紹介しながら、シュメール建築の粋を考察します。
 ●バビロニア−バビロン 聖書に登場するバビロンは、魔性の大都市として描かれています。世界の七不思議のひとつ「空中庭園」や、神話の舞台「バベルの塔」、そして近代になって発見された豪壮たる「イシュタル門」「行列道路」を紹介します。
 ●アッシリア−ドゥル・シャルキン アッシリア王サルゴン2世の夢の都「ドゥル・シャルキン」。バビロンを模して造られたという巨大な新首都の姿と、目を見はるほどの最新技術。そんな理想の都市が、どうして忘れ去られ、砂漠に埋もれなければならなかったのでしょうか。
3. 美術
 ●彫刻 アラバスター(雪花石膏)や閃緑岩でつくられた像、インダス文明からもたらされた紅玉髄でできた装飾品。それらはどうして作られ、何の目的で使われていたのでしょうか。美術品としてだけではなく、宗教的・実用的な意味もあったのではないでしょうか。
 ●円筒印章(グリプティク) 印章の文化は、元祖は日本ではありません。粘土板の上で転がして図案を簡易的に示すことができた円筒印章には、美術品だけではなく、護符や私有財産、身分の証明などの意味合いもあったようです。その美しい図案の数々を紹介します。
 ●金属工芸 世界で最初の青銅器文明を実現したメソポタミアでは、金属はどういった位置づけだったのでしょうか。また材質が銅から鉛、銀、そしてヒッタイトによって鉄が持ち込まれて変化していく過程で、金属器は人々の生活にいかに影響したのでしょうか。
 ●実用品 文明の詳細な姿を知るには、民具の変遷を抜きにはできません。ここでは武器、日用品、衣服、土器、そして船や副葬品を題材にとりあげ、メソポタミアの人々がどのような暮らしをしていたのかを詳しく解析します。


1. 言語と文学


●言語を伝える文字の存在
世界最古の文字です 文字と言語は、先史時代においてはもっとも高等な文化であった。
 文字は情報を記録したり数を数えたりするのに使用する、生活上欠くべからざる大事なものであった。メソポタミア文明では、現在のところ最古の文書として残るのは、農作物や家畜の数を記録した粘土板である。
 紀元前3000年代(前4000年紀、または前30世紀)、まず発達したのは、玉石でできた勘定道具であった。それは麦の形をしていたり、瓜や果物の形をしていたりする。おそらく、彼らはそれを並べることで、簡単ながら数字を他人に伝えていたのではないだろうか。玉石はその後は減少し、しだいに土製に置きかわっていく。
 次に出現したのは、そういった球形や円盤形、三角形の土製の小片に、原始的な文字を刻んだものだった。それは象形文字と呼ばれるもので、物体の形をかたどった絵文字にすぎない。それが名詞から動詞、そして形容詞へと変化していくのだが、最初のうちは同じ文字でいくつもの意味をもつ難解なものだったらしい。そのせいか、文字を理解し記録することができる書記は、インテリの代表格として高い身分が与えられていた。

写真説明:
  象形文字がしるされた粘土板。
  いくつかのくぼみは数字であろうと思われる。麦の穂が描かれていることから、収穫高を計算したものだろう。

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●シュメール語の発明
 絵文字から発達した最古の楔形文字は、それ自体でひとつの意味を示す「表意文字」と呼ばれる形式である。たとえば、「空」という文字を見れば、それ一字で空を表す文字として成立するのと同じである。だが、それでは語彙のバリエーションに乏しい。とすれば、「空」という文字に、同時に「神」とか「天」、「優れたもの」といった関連する意味をもたせることでそれは解決する。
 だが話し言葉となると、それでは名詞の羅列になってしまう。そこで発明されたのが、「音節文字」であった。たとえば「手」という文字には、それ自体で「持つ」「叩く」「つまむ」という意味があるが、発音を変えることで、もっと簡易に、別の意味であるということを伝えられる。書き言葉にそれを応用したのが音節文字であった。
 絵文字は年代が進むとともに複雑化していく。その中から、絵を描くのではなく、平面状の粘土板に、木製や竹製のヘラで押し刻んでいける楔形文字が生まれたのではないだろうか。移行時期は、紀元前2500年から紀元前2300年ごろとされている。楔形文字の発明によって促進されたのは、簡略化と抽象化である。また、そのころ頻繁に侵入を繰り返していたアッカド人が、子音を3つ並べて表すだけの表音文字しか知らなかったことも、アッカド語との融合という時代的な必要から生じた変化だった。それにより、当初は表意文字のみだったシュメール語は、音価を示す記号をつけることによって簡略化されていったのであろう。
 アッカド人が侵入する前のウルクで見つかった粘土板からは、2000種類以上の文字が確認されている。表意文字は、言葉のバリエーションが増えるのに比例して文字も増えていくことを如実に表している。だが、時代が進むごとに、確認される文字の数は減少していく。特定の表意文字に、音節記号をつけることで意味を示せる形式に変わっていったためと思われる。古バビロニア王ハンムラビの時代には、およそ1000種類の文字が確認されたにすぎないのだ。
 もっとも完成されたシュメール語の書記形式は、粘土板に長方形の囲みをつくり、その中にいくつかの文字を刻むというものだった。それはアッカド時代になって改正され、まず二本の線を平行になるように引き、その間のスペースに連続して刻むというものに変わっていった。ちょうど、ノートの罫線をあらかじめ引いてから文字を書くのと一緒である。それにより、長大な文書を限りなく書くことができるようになったのである。

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●支配言語・アッカド語
 シュメール人がその勢力を失っていくのにつれて、支配言語として登場したのはアッカド語であった。アッカド語は、現在のアラブ語やペルシア語にも通じる、セム系の言語の元祖である。
 だが、それは現在のように音節記号だけで表されるものではなくて、シュメール語から受け継いだ表意文字と組み合わせたものだったと考えられる。
 たとえば、アルファベットは26種類(大文字と合わせれば52種類)しかない。一部を除いて、それ自体では意味をもたない。いくつも組み合わせることで「単語」を形成する言語である。これを、現在のアラブ語および古代ペルシア語としよう。教科書だったのでしょう
 一方、日本語は表意文字である漢字と、表音文字であるひらがな・カタカナの組み合わせでできている。文字の数も、確認されているだけで60000字以上になる。アッカド語は、ちょうどこれと同じく、表意文字と表音文字の組み合わせでできていたのである。表音文字であるシュメール語は、漢字だけで表現する中国語だと思えばわかりやすい。
 ここで例をひとつ挙げる。「偉大な・王」を書こうとすれば、英語ではGreat King。これだけで9文字使っている。だがひらがなでは「いだいなおう」と6文字に減少し、漢字だと「大王」と、2文字にまで減少するのである。
 実はこれは、ペルセポリス神殿に刻まれていた、ダレイオス1世の顕彰碑文から拝借したもので、古代ペルシア語で書かれている。その文字数は、11個だった。そして同様の意味を示すアッカド語は、たったの2文字だったのである。
 アッカド王サルゴンから始まるアッカド人の広がりは、言語の分野でも同じことが言えた。だが、言語の広がりに縮小はなかった。国家としてのアッカドはすぐに消えてしまったが、言語はその後のバビロニアからアッシリアへと連綿と受け継がれていく。
 その中でも、シュメール語は伝統的な古文書体として細々と存続していた。民族としてのシュメール人が存在しなくなっても、一部の語学学校などでは教えられていた形跡がある。どういった必要からなのかは知るよしもないが、アッシリア王の何人かは積極的に学術を奨励したようなので、あるいは古文書学として研究されていたのではないだろうか。

写真説明:
  時代とともに、文字は一般民衆にも浸透していったが、まだまだ学問的な、高等な教養のひとつだった。
  写真は、紀元前5世紀のものとされる、バビロニア語の入門書である。

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●歴史書の登場
 文字を持つことができたメソポタミアの人間は、歴史書としてみずからの記録を残すことに専念した。記述法については、アッシリア王国とバビロニア王国ではそれぞれに違っていることが興味深い。
 アッシリアでは年代をもちいるかわりに、王が行った軍事行動についての詳細な記録を残す方式が使用された。征服戦争は毎年行われているが、この年はどこを攻めたとか、だれを捕虜にしたとかの形式で書かれているのである。あるものは、年号のかわりに征服戦争の内容をもって年代記としているものもある。
 いっぽう、バビロニアでは非個人的な歴史記録、つまり年代ごとに何があったかを記述する方式がもちいられた。初期の王たちに関しては神話や民謡に取材し、いくらかの想像を盛り込みながら書かれているものの、時代が進むにつれて正確さを増し、あるものは月日まできちんと記している。
 アッシリアでは年号を使わず、リンムまたはエポニムと呼ばれる任期1年の官職にあった人の名前で記すことになっていた。ただしこの方法では、その官職に就いた人物の順序がわかっていなければならないし、再任禁止ではなかったため重複も起こり、歴史家にとっては難解なのである。バビロニアではカッシート王国からセレウコス朝シリアにいたるまで、王の統治年数で数えられていた。

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●文学作品の発達
 文字の発達とともに、文学的な作品も出回るようになった。
 その多くは古バビロニア以後に書写されたもので、原書は残っていない。しかしシュメール語が保存されていたおかげで、『ウル滅亡の哀歌』などというウル第三王朝時代の作品も発見されたのである。
 シュメール語でないものも発見されている。同じ楔形文字だが、『創世叙事詩』(バビロンの市神マルドゥークによる天地創造を描いた本)などはアッカド語でも、バビロニア地方の方言で書かれている。またバビロニア地方の方言が多用されていた時代もはっきりしているので、これが書かれた時期も判明した。
 アッカド語の文学作品のうちもっとも有名なものは、『ギルガメシュ叙事詩』であろう。想像上のウルク王ギルガメシュについて記した物語調の文書だが、古バビロニア時代において、親友エンキドゥの死後、彼が不死の探求のために旅をする場面が付け加えられた。シュメール時代からある古い伝承で各地にそれぞれの形式で伝わっているが、それを系統的にまとめあげ、叙事詩として完成したのが、前出の『ギルガメシュ叙事詩』なのである。これはギリシア語に翻訳されたおかげで、われわれでもその内容を知ることができるのである。
 『ギルガメシュ叙事詩』のアッシリア語原典は、ニネヴェにあるアッシュール・バニパルの図書館から発見された。しかしそれよりも古い版はあるはずで、紀元前14世紀ごろに書かれたアッカド語の断片が、パレスティナのメギド、ヒッタイトの首都ハットゥシャシュ(現在のボガズキョイ)から発見されている。面白いのは、それらの文書がさかんに輸出されてギリシア人に読まれるようになり、後世のすぐれたギリシア文学に影響を与えたとしたらどうだろうか。現に、フェニキア都市ウガリトで発見されたものが『旧約聖書』に引用されていたし、ヒッタイト語のものがギリシア人ヘシオドスの主著『神統記』に使われていたという例もある。叙事詩文学に与えた『ギルガメシュ叙事詩』の位置は、限りなく大きいものと言わざるを得ない。

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●世界文学『ギルガメシュ叙事詩』
 叙事詩として完成された『ギルガメシュ叙事詩』は、少なくとも4つの、古代シュメール人の伝説を繋ぎ合わせてできている。成立時期は紀元前2000年代の初めであるが、はっきりとした年代までは特定できない。それらの物語の底流にあるテーマは、「不死」である。

 まず登場するのは、半人獣のエンキドゥである。彼は野蛮で毛むくじゃら、非道な性格で、ウルクの街の郊外にある草原に住んでいた。
 ある日、彼は神殿娼婦を見かけ、ひと目で恋に落ちてしまった。彼女に導かれてウルクにやってきたエンキドゥは、ヒゲを剃り、酒を飲み、うまい料理に舌鼓をうち、文化的な生活に浴する楽しみを得た。そこで出会ったのが、伝説上のウルク王・ギルガメシュであった。
 折しもギルガメシュは結婚式をあげたばかりで、新婚初夜に花嫁と一夜を過ごすことを楽しみにしていた。それに対してエンキドゥは、男女の間柄は神聖なもので、権力によって得られるものではないと主張し、二人は激しく争う。だがどうしても決着がつかないので、互いの力がほぼ同じなのを認めた彼らは、最後には親友同士となるのである。
 そのときから、二人はいつも一緒に行動した。ある日、彼らは遠征の途中、北に大きな森があり、神殿に適した良質の杉があるのを聞く。二人は不吉なお告げがあるのも無視して森に入り、この杉の木の番人である巨人フンババを倒して、意気揚々と杉を手に入れたのであった。
 そうしたギルガメシュの勇敢さに、女神イシュタルは心底惚れ込んでしまった。だが既婚者であるギルガメシュはその横恋慕を強く非難し、その浅薄さを指摘する。これに怒ったイシュタルは、恐ろしい怪物「天の牡牛」をウルクに放った。市民は大混乱に陥る。ギルガメシュは市民を救うために街へと向かい、エンキドゥとともに牡牛と戦い、ついにはこれに勝利し、牛の死骸から後ろ足をもぎ取ってイシュタルに投げつけたのであった。
 二人の行為を重大な涜神とみた神エンリルは、罰としてエンキドゥに不治の病を与える。苦しみつつ死につくエンキドゥを目の当たりにして、ギルガメシュは悩む。
  「死の恐怖のなかで私は草原を横切った。
   友の運命が私に重くのしかかる。
   どうして黙っていられようか。
   どうしてじっと立っていられようか。
   愛する友は土に還ったのだ。
   私も友のように眠りにつき、
   二度と起きあがってはならないのだろうか。」
 ギルガメシュは深い悲しみのうちに、はっきりとみずからの死を認識せざるをえなかった。そこで聞いたのが、大洪水でも生きのびた老人ウトナピシュティムの存在である。彼は不死の秘薬を持っているのに違いないと感じたギルガメシュは、ただちにウトナピシュティムを探しに出発した。ギルガメシュじゃありませんよ
 ウトナピシュティムはウルクの西にあるマーシュ山の向こうにいることを突き止めたギルガメシュは、山を越える道にたどりつく。山へと続くトンネルには獰猛なサソリ男が番人として守っていた。ギルガメシュは真情をもって彼を説得したので、ついにサソリ男はトンネルを通ることを許すのだった。
 トンネルを出ると、目の前には海が広がっていた。ギルガメシュは浜辺でシドゥリというニンフに会う。不死というものがどういうものかを知るシドゥリは、ギルガメシュにここにとどまり、余生は楽しく過ごそうと懇願するが、彼の決心が固いのを知ったシドゥリは、あきらめて渡し守の存在を教える。
 渡し守ウルシャナビによって「死の水」で満たされた海を渡ることができたギルガメシュは、念願かなってウトナピシュティムに会うことができた。老人はギルガメシュに、大洪水の話をして聞かせる。そして老人は、自分が不死になれたのは、死の海の底にある神秘の植物を手に入れたからだと教えたのである。
 さっそくギルガメシュは海に飛び込み、たったひとつだけ残った、魔法の植物を見つけることができた。だがそれで体力を消耗した彼は、疲れきって眠ってしまう。すると、海から巨大な蛇が出てきて、その大事な植物を食べてしまったのである。ようやく探し当てた永遠の命が、このような形で失われてしまったことを悲しんだギルガメシュは、その蛇が脱皮を繰り返して何度も生まれ変わるのを見て、不死というものは神の永遠性と蛇の再生の中にしかないことを悟り、みずからの負けを認めるのである。

 人間であるギルガメシュは、まさにヒーローである。その彼を取り巻くのは、半獣人やサソリ男、ニンフといったファンタジックな生き物たち。この作品を読み、また演じた人々は、底流にある「不死」という思いテーマと、悲劇的な結末に感動を覚えつつ、世界文学へと昇華させていったのであろう。



写真説明:
  サルゴン2世の都ドゥル・シャルキンを飾っていた雪花石膏製のレリーフ。
  長い間、これがギルガメシュの像だと信じられてきたが、現在ではそれは否定されている。

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2. 建築技術


●初期建築−村落とジッグラト
 メソポタミアで最古の建築物とされるものは、ジャルモで発掘された村落跡である。方形の部屋がいくつか集まった壁の薄い家屋であるが、すでに練り土で作られていた。ただし一軒しか発見できず、しかも門などがないことから、一軒自体を集落と見なすべきかははっきりしていない。
ウルにある、通称「赤のジッグラト」 シュメール時代以後、メソポタミア文明における中心的で特徴的な建築といえば、「ジッグラト(聖塔)」に代表される神殿形式であろう。最初は広間と供物台、そして祭壇がある建物を城壁で囲ったものが主流だったが、初期王朝時代になると巨大化する。ウルクで発見された「白色神殿」は、階段つきの高さ13メートルにおよぶ基壇の上に建っている。もとは建物の中心にあった祭壇が、建物の奥に移動したことも変化点である。
 ウル第三王朝時代に作られたウルのジッグラト(「赤のジッグラト」)はより豪壮なもので、当時としては最新の建築技術を使用している。
 三層式(現存するのは二層)の基礎部分になる基層は、64×46メートルの規模をもつ。日干しレンガをアシと交互に敷いていき、モルタルで固めてある。その外側は厚さ2.5メートルにもおよぶ焼成レンガで覆って補強してあり、さらにそこには装飾が施されている。北東面に3つの階段があり、そのうち2本は壁面に沿って、そして1本は壁面に直角になっていて、その3本が接合するところに門がある。そこをくぐるとさらに上に登る階段があって、第二層に続いている。現存しないが第三層の上には、小さな祭壇があったと考えられる。
 神殿建築のような巨大な遺構は、ウル第三王朝が滅ぶとぱったりとみられなくなる。ただしこの戦乱の時代は、都市の要塞化をうながした。テル・ハルマルやカファジェに残る比較的狭い要塞都市の遺跡がそれで、古バビロニア王国の勃興にともない、防備化をすすめた形跡と考えられる。ただし、このふたつの遺跡は、古バビロニア王国時代に壊滅している。圧倒的な軍事力の前には、どんな防備も役立たなかったのだろうか。

写真説明:
  ウルで出土したジッグラトを復元したもの。観光客用に「赤のジッグラト」と名付けられた。
  シュメール文化の最後の発露として、聖塔は美しさの点でも、崇高さの点でも完成の域に達していたと思われる。

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●バビロニア−バビロン
 バビロンは、かなり早くからその場所が特定されていた数少ない例である。明らかに人工物と思われる塔の一部や城壁らしき遺構が、19世紀になっても砂漠の真ん中から顔を出していたからである。これらはドイツ隊による発掘の結果、イシュタル門とそれに続く行列道路の城壁であることが確認された。いずれも、新バビロニア時代のものである。
 現在知られているバビロンは、都市の中心にあった神殿群である。居住区はそれを取り囲むように配置されていたと思われるが、確認されていない。新バビロニア時代の宮殿は神殿群の北に位置しており、ナボポラッサル王からネブカドネザル2世、そしてナボニドスの時代に至るまで造営と改築が繰り返されていたことがわかった。
切り抜きがヘタでごめんね イシュタル門を挟んで南側には、「南城」と呼ばれる王族の居住区がある。ここは玉座の間や中庭、神殿をも含む構造物群で、有名な「空中庭園」もここにあった。空中庭園は7層からなる階段状の花壇を積み重ねたもので、ネブカドネザル2世が王妃の郷愁を慰めるために造らせたものである。ポンプのような仕掛けを使って、川からいつでも水が供給され、雨のほとんど降らないバビロンでも、そこだけはいつも緑にあふれていたと言われている。現在では、空中庭園はユーフラテス川の川沿いにあったのではないかという仮説が立てられているそうである。
 神殿群の中核をなすのは、主神マルドゥークを祀った「エ・サギラ神殿」である。神殿は50もの監視塔をもった二重の城壁に囲まれた、1000以上の小さな神殿の集合体である。文書によると、神殿群の中央には7層、一辺90メートル、高さも90メートルにおよぶ四角錐状の聖塔があり、「エ・テメンアンキ(天と地の境の家)」と呼ばれていたとされる。これが旧約聖書、新約聖書の双方に名高い「バベルの塔」のモチーフとなったのではないかと思われるが、現在では基礎の部分しか残っていない。
 バビロンそのものは、ディンギルラ(神の門)というシュメール都市のひとつだった。そこを首都として古バビロニア王国がおこり、都市名もアッカド語に改められた。しかしのちのヒッタイトによる徹底的な破壊、そしてユーフラテス川の氾濫などにより、古バビロニア時代、ならびにカッシート時代のバビロンは完全に地中深く封印されてしまった。発掘しようとしても、地下水が大量に湧き出てきて進まないそうである。まるで、白日のもとにさらされるのを拒んでいるかのようである。

写真説明:
  紀元前6世紀に現存した、バビロンのイシュタル門を復元した模型。バグダードにもあるが、それも複製である。
  出土した本物は、ベルリンのペルガモン美術館にある。

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●アッシリア−ドゥル・シャルキン 
 紀元前14世紀の中ごろ、アッシリア王国の興隆によってアッシュール(現カラト・シャルガト)が首都に指定され、この都市を中心に神殿やジッグラトが数多く建造された。この時代になると、都市計画に著しい進歩がみられるのである。
 やがて首都はアッシュールからニネヴェ(現クユンジク)へ移り、ここを中心とした宮殿建築が大々的に行われることになる。周辺都市で有名なのは、離宮として作られたカラク(現ニムルド)と、新首都の計画から生まれたドゥル・シャルキン(現コルサバード)の2都市であろう。
 サルゴン2世の指揮のもと、ゼロから始まった都市計画として注目されるドゥル・シャルキンは、ほぼ正方形をなし、市門は7つ。分厚い市壁(城壁ほどもある)で囲まれた市域は実に300ヘクタールにおよび、その中には2つの宮殿がある。王の宮殿は面積約10ヘクタール、13.8メートルの基壇の上に建っていて、王の住居であるとともに官庁や神殿としての機能もそなえている。また宮殿を囲む周壁の中には、小規模ながらもジッグラトが建っていたとされる。
 宮殿の多数の部屋と中庭からなる建物の集合体で、ふたつあった中庭は、それぞれ0.88ヘクタールと0.68ヘクタールもの広さがあった。しかし惜しいことに、この宮殿が未完成のままサルゴン2世は没し、その子センナケリブは首都をもとのニネヴェに戻してしまったのである。こうして、この新首都は忘れ去られてしまった。
 アッシリア王国が滅んだ後、その様式は新バビロニアへと引き継がれた。首都バビロンは大市壁に囲まれ、巨大なジッグラトや宮殿が立ちならぶ巨大都市へと変貌したのである。旧約聖書に現れるバビロンはまさにこの時代のもので、パレスティナから来た人々はこの豪壮な都市を見て、ある種の畏怖を覚えたのではあるまいか。ただし新バビロニア王国が滅び、ここがアケメネス朝の領土になると、宮殿の機能は新首都ペルセポリスへと持っていかれてしまい、急速に衰退していったのである。

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3. 美術


●彫刻
 メソポタミア文明の初期に現れる彫刻は、いずれも土偶か、石を削って作った小さな石像ぐらいである。そしてそのテーマは、その多くが肥満体の女性裸像である。宗教が民衆の生活に溶け込んでいくにつれてその題材も、祈りを捧げる男女の姿(不思議と神像は見つからない)になっていく。信者が永遠に祈りを捧げられるようにと、わざわざ制作して神殿に奉献したものであろう。
 シュメール人による初期王朝時代になると、題材は人間から動物、神々にいたるまで幅が広くなってくる。ウルク出土のものには、狩猟をする人々の姿をはじめ、アラバスター(雪花石膏)製の壺に彫られた女神イナンナ(イシュタル)の婚礼の像など、さまざまなバリエーションがみられる。ウルやラガシュでは、奉納板に願いごとを彫り込んで神殿におさめることが流行したらしく、欠損したものではあるが多数出土している。
 ウル第三王朝の始祖ウル・ナンムの碑は、戦勝記念碑ではなく、これから王位につこうとしている彼が、主神である神々の前に進み出て謁見を受けるという内容になっている。これは王位の正統性と敬虔さを示すための看板のような役割をしたもので、のちの円筒印章には無数にこれと似た題材が彫り込まれた。
 アッシリア時代になり、彫刻を専門とする職人が現れる。彼らの主要な題材は日常生活であって、当時の服装や家屋、都市の構造や武器・戦車の躍動的な姿まで、じつに史料性が高いものばかりである。バビロニア時代のものが宗教的なものばかりだったのに対して、アッシリアでは絶対的な王権が確立していたから、君主の偉業をたたえるためのものが数多くつくられたのであろう。むしろアッシリア時代には神々の像はなくなり、神の標章だけを彫り込むだけで満足していたのである。
 新バビロニア王国が成立し、メソポタミア彫刻は最後の輝きを放つ。首都バビロンの市壁と家屋の外壁を飾る彩色レンガが大量につくられ、いたるところで壁を美しく彩っていた。ただし大量生産が進んだためか題材にとぼしく、年月とともにライオンなど固定した題材から幾何学紋様の単純な連続へと、むしろ衰退していったのである。

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●円筒印章(グリプティク)
 円筒印章とは、ボタンくらいの宝石でできた円柱に陰刻をして、その像を土の板などの上で転がしたり押しつけたりして表現できるようにした美術品である。意味合いも、護符から装飾、美術品・骨董品へと変化していった。
本当はこんな色ではありません。ミスりました 北部メソポタミアを起源にもつとされる円筒印章は、シュメール人たちによってまたたく間にメソポタミア全土へと広まっていった。北部で使われていた時代にはすでにその彫刻技術は最高水準に達しており、題材も植物・人物・動物・建物・怪物・船・道具・各種のシンボルなどさまざまである。
 初期王朝時代になり、そこに楔形文字やループ式の幾何学紋様などがあわせて彫り込まれるようになり、最古のものと同様の題材にくわえて、戦っている様子、宴会、飲食物の奉献、楽師たちの演奏風景、神々の姿、そして労働者となって宮殿建築にいそしむ王の像など生き生きとしたものが増えてくる。
 グデア人による南部メソポタミア席巻の時代のラガシュ、そしてウル第三王朝時代のウルからは、自分の守護神に謁見する場面が彫られた印章が数多く出土している。ウル・ナンムの碑がきっかけで広まった流行のようなものだったのだろうか。イシン=ラルサ時代および古バビロニア時代になると、人々の生活をモチーフにしたものはすっかりなくなり、宗教的な意味合いのものが圧倒的になった。
 アッシリア時代、円筒印章の文化は著しく衰退してしまった。護符としてのものから美術品としてのものへと高められたのが原因とされるが、むしろこの時代のものは単純ながら構図がしっかりとしており、精巧さでは初期王朝時代のものと比肩しうるものである。材質は当初、土・アラバスター、水晶、ラピスラズリのような軟らかいものが主流だったが、赤鉄鉱から石材、そして鉄へと時代を追うごとに硬いものに彫られるようになり、最後と考えられるアッシリア中期のものは、タガネを使って彫られていた。


写真説明:
  粘土板に押しつけ、転がすことで図案を現出させる円筒印章。宗教的な図案や、自分の商売を示す絵柄などを彫り込んだ。
  インダス文明でも同様のものが使われていたことから、さかんに輸出されていたと思われる。

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●金属工芸
 新石器時代末期よりメソポタミア文明初期の遺跡から、すでに銅製のピンや針が出土しており、斧やノミなどは鋳型に流し込んで作られている。かなり早くから、金属の鋳造技術を知っていたのであろう。ほかに金・銀、鉛が知られているが、数は少ない。
 シュメール人たちはかなり高度な冶金技術をもっていた。石で作られたものとまったく同じように、金属にも彫刻をするのである。それらの多くは美術品として、亡き王の副葬品として埋められたり、建築物の基礎部分に埋められたりしていた。やはり金属工芸の最盛期はウル第三王朝時代で、宝石と組み合わせて首飾りを作ったり、純金製の容器やナイフなど宗教的なものから、神像なども制作されている。
 古バビロニア時代には金属工芸は少なくなるが、アッシリア時代にわずかに復興した。カラクやドゥル・シャルキンの門を飾っていたと思われる雄牛、ワシ、イチジクなどのブロンズ彫刻が多数出土している。彩色レンガと同様のモチーフのものが多い。鉄の一般的普及は前1000年紀の中ごろからのことで、ヒッタイトの影響を多分に受けている。

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●実用品 
 新石器時代末期の集落跡からは、石器とともに黒曜石のナイフや骨角器のスプーン、そしてメソポタミア文明初期には銅製の斧やノミ、テラコッタ製の鎌などが使用され、シュメール人の時代には弓矢や槍も開発されている。初期王朝時代には武器が発達した。戦斧、短剣、長剣、銛、槍、矢じり、ナイフなどが数多く作られ、儀式用で貴金属製のものまで出現した。その後は新型の武器は現れなくなり、片刃の湾曲刀や鉄製の鎧などが開発されるようになるが、むしろ衰退していく。アッシリア時代には破城槌を保護する楯などが浮彫に描かれているが、剣はまっすぐになっている。
 装飾品の材質としてポピュラーだったのは金・銀、ラピスラズリ、瑪瑙などであり、腕輪や首飾りなどのモチーフに男女の差はない。また象牙製の櫛やヘアピンがテベ・ガウラの墳墓から発見されたし、ウルの王墓からは毛抜き・耳かきや顔料を入れた貝殻の形をした容器など化粧品も見つかっている。銅でできたかみそりなんかもあった。
 衣服は残っていないが、壁画や彫刻などからその姿を想像することができる。文明初期、青年は下半身だけのスカートをつけ、ヒゲは生やしていない。身分が高くなるとリボンをつけたり、ヒゲを生やしたりしている。女性は左肩から掛けるベルトのない長衣を着ている。初期王朝時代から古バビロニア時代にいたる期間の彫刻では、男性のスカートは膝までで、立派な腰帯で留めてある。女性の服装はまったく変化がない。兵士は防御のために、厚手の革製半外套を着ていた。この当時靴はまだなく、裸足である。女性の長衣は長い間右肩をあらわにしたものだったが、イシン=ラルサ期になってようやく両肩をおおったものに変化した。男性のスカートにも、横ひだをつけたものが現れた。アッシリアの浮彫では、普段の服装の上に長衣をつけた王や官吏の姿が描かれているが、兵士や外国人などその服装はさまざまである。このころには、サンダルが普通に使われていた。
 煮炊きをするための土器は、ジャルモ第6層のものが最古である。サーマルラ時代にはかなり精巧で美しい彩文土器が作られていたようである。題材は多くが幾何学紋様で、デザインはほとんどが左右対称、ウシの頭部を抽象化したものまである。顔料で装飾された多彩の彩文土器はのちのウバイド時代、ウルク時代をへて芸術性が高められていき、幾何学紋様と並んで人間・動植物、楽人や戦車の図などが描かれるようになる。そして時代がアッシリア王国に移ると、素焼きの土器が開発され、釉薬(うわぐすり)が使用されることになった。手描きによる彩色もこのころ始まり、陶磁器へと進化していく。土器の形式を見れば、それが埋まっている地層の年代が特定できるほどなのである。
 そのほか、ティグリス・ユーフラテス川という大河の流域に生活する者にとって必需品だった舟は、のちのヴァイキング船のように船首と船尾が高く巻き上がっているものが全時代を通じで使用された。帆船形式のものもある。また墳墓も、全期間を通して行われているものの例である。ただし火葬があったかどうかはわからない。副葬品は世界中にみられるように生活必需品がおもで、死後の世界でも生活に不自由しないようにとの願いが込められている。盛り土はせず、素掘りして埋めるが、遺体は折り曲げ(屈葬)たりそのまま寝かせ(伸展葬)たりと特に決まっていなかったようである。埋める場所はどこでもよかったが、ときには家の床下だったりする。神殿の中に埋められたりもしたが、墳墓を神聖なものとはみなかったメソポタミアの住人たちは、神殿を作るために墓地を移転したりもしている。いずれも、地域によって微妙な差があるのは当然ではあるが。

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