2002年7月1日
 
シカゴの春
 
 
 
プロログ
 この話は少し旧聞に属するが、今からかれこれ20年ほども前、わたしが初めて、中部アメリカにあってニューヨークに次ぐ大商工都市、五大湖の一つミシガン湖の南岸に接するシカゴに滞在した記録の断片である。
 しかしながらこのページは、シカゴの観光案内とか旅の楽しさなどを期待して読まれると失望することになるかもしれない。ありようをいえば、添付したチェックリスト『旅の支度』第6-2項の解説版を意識している気持ちが強いからである。
 公私を問わず、海外旅行は楽しいことばかりではない。海外の安全事情は年々悪化しており、シンガポールや北京ですら今では例外ではない。気を緩めれば即、死に至る恐れがあることを前提に行動する心の準備が必要である。日本では何でもない仕草、表情、言葉遣い、よかれと思ってした親切などが誤解を生み、あるいは相手を激怒させることになることも少なくない。そして、それを作った原因が自分にあるらしいと戸惑っても、誰も解説してはくれない。
 旅は健康で安全であって、初めて楽しい。海外での厄難を回避するために、このページがお役に立つことを願う。
 
1.日本人は日本人が嫌い
 1979年5月27日13時10分、定刻よりも20分遅れて、わたしは初めてのシカゴ、オ・ヘア空港に立った。出発時の騒ぎにもかかわらず到着があまり遅れなかったことに、わたしは安堵していた。しかしこの機は、なぜか空港の一番遠い外れ、国内便のゲートに着いていた。古い工場跡のような、あまり美しいといえない構内を長々と歩かされ、うんざりすると同時に、わたしのこころに幾らかの不安が生まれ始めた。それは、連れも出迎えもない、たった一人の海外出張の、いつもの軽い愁訴かもしれなかった。
 税関の役人の態度は、横柄の極みであった。仕事や滞在場所についての簡単な質問はどの空港でもあるが、その種類や内容、執務場所などを居丈高にしつこく聞きただす。初めから肉体的に劣等感を覚えていたわたしは、プロレスラーのような彼の体躯に既に威圧され、受けの姿勢になっていた。
 隣のレーンでトラブルが生じたのは、何とか無事に通関を終えてわたしの緊張が緩んだ、そんなときだ――。
 ――前日、といっても日付は同じ5月27日15時58分、悪天候のために待機していた定刻15時20分発予定シカゴ行き直行便NW004便は、一向に弱まる気配もなく轟き渡る雷鳴とシノつく雨に、しびれを切らしたように成田空港を飛び立った。悪い予感がした。
 それからほぼ1時間、機は悪天候域を抜けたのか動揺もなく、水平飛行に移った機内では飲み物などが配られ始めていた。わたしは飛行機があまり好きではない。船旅と違い、高い金を払って狭いシートに身柄を拘束される不条理に対してである。日本系では慇懃無礼さと画一的な押しつけがましさをサービスと勘違いしているステュアデスの言動も不快だし、アメリカ系ではおばさんが多く、前便で汚れたと思われるテーブルを拭くように頼んでも返事ばかり、といった本質的なサービスすら実行しない例が少なくない。地上なら、こんな店、二度と来るか、と啖呵を切ることができても、競争の少ない空では選択の幅がないので、憤懣が鬱積してしまうのだ。
 長旅のとき、わたしは必ず通路側に席を取る。離陸時の緊張が解け、わたしはシートベルトを緩め、後ろの白人に軽く声を掛けてシートの背を少し倒した。知的で物静かな青年である。わたしの隣、窓側の席には東洋系の小柄な老女がチンマリと座って、小さな窓から外を眺めていた。この席は翼よりやや前にあって騒音も少なく、視界も広い。太陽から逃れるように東に向かう機の窓の外は、急速に闇の色を濃く染めていっていた。
 わたしは自席の環境に満足し、やっとくつろぐ気分になっていた。日本時間17時過ぎ、中部デイライト・セイヴィング・タイム(日本でいうサマータイム)午前3時である。
 スピーカーが頭の上からわたしの名を呼んだのは、そのときだ。こういうケースでロクなことがあったためしはない。
 後方にシートの番号をたどりながらアナウンスが指定した席に行くと、そこには見栄えのしない小男がいた。S自動車のSだと名乗る。会社の名前と同じ苗字ではあるが、もちろん社長の風格はない。海外出張は初めてだからよろしく、と、座ったまま親しげにいう。今回の出張はジェトロ(JETRO:Japan External Trade Organization:日本貿易振興協会)の要請によるものだが、この男も同じ目的で、わたしの出発をそこから聞き出し、同じ便にしたのだという。わたしは彼の無礼な物言いに少し腹を立て、そして気を重くした。海外事業所に勤務する邦人は日本からの出張者を、そして出慣れた出張者もまた同行する初心日本人を嫌う。出張の期間中、文字通り『濡れ落ち葉』のように、公私ともにべったりと密着されるからだ。
 案の定、わたしの悪い予感は的中したのだ。今度の出張はあまり楽しいものになりそうにない。わたしは自席に戻り、それ以降、機内でSと顔を合わせることはなかった――。
 ――そして今、オ・ヘア空港の隣の通関レーンでトラブルを起こしたのは、まさにその男、Sだったのだ。
 経済先進国の多くの空港税関が既にそうであったように、ここでも原則的に旅行鞄を開けさせることはない。しかし応答が悪かったり、少しでも怪しまれると、それからは徹底的に調べられる。鞄は飽くことなく引っかき回され、包装した荷物は例えそれが大切な人への土産物であっても引きちぎられ、カンのフタまで開けてしまう。その粗暴、乱暴狼藉の限りは、韓国の通関の比ではない。
 彼の目はわたしを求めている。しかしわたしは、これを無視した。彼はわたしとは何の利害関係もない。第一、通関は、例え家族であったとしても各人の責任である。まさか、国際空港税関で命を取られるようなことはないだろう。わたしは自分の荷物を転がし、そのままロビーに出てタクシー乗り場に向かった。
 それはともかく、このような場所で最も警戒しなければいけないのは、親しげに日本語で話しかけてくる人物である。それは日本語を話す異国人ばかりでなく、同朋日本人である場合も少なくない。とかく日本人旅行者は、海外で邦人に出会うと救われたように無防備になりがちなものだ。しかし、海外で日本人をターゲットにした最も危険な国民、それもまた日本人なのだ。
 日本語の呼びかけに絶対に反応するな、これが海外で自衛する鉄則である。
 後で聞いたSの話では、わたしが彼を見捨ててタクシーを待っているとき、税関の出口で日本人と見られる35歳くらいの男から怪しげな仏教の本を50ドルで買わされたのだという。Sは、税関の役人に散々いびられた後の動揺と混乱の中で親しげに言葉をかけられ、散乱した旅行鞄の整理を手伝ってくれた日本人の親切の裏側を、初めての海外出張初日に見たわけである。ちなみに英語で書かれたその本は、B5版で厚さは3センチほど、華麗な色刷りのハードカバーであった。
――ま、専門書だとしたら、そんなものじゃないの
   *
 今回の出張の目的は、日米協会がこの年4月から3ヶ月にわたってワシントン、ニューヨーク、ロサンジェルスなど全米主要7都市で開催する大きなイベント『ジャパン・トゥデイ』の準備のためである。これは、文化、芸術、科学、工業などあらゆる分野で現状の日本を紹介するための一連の行事で、6月1日から7月15日までの6週間、ジェトロがシカゴ科学産業博物館(Museum of Science and Industry)で開く最先端科学工業技術展は、その一環のものであった。この博物館の詳細は次回で紹介するが、ページ・トップの写真は中央部だけであって、これで全体の三分の一に過ぎない。この右に、同じ大きさでわれわれの展示会場があったウエスト・パビリオン(写真、下)、同じく左にこれと対称なイースト・パビリオンがあって、50メートル以上離れても38ミリの広角レンズではこれだけしか写らない巨大な建築物である。
 わたしは、通商産業省(当時)および外務省の要請に基づいて出品した新しい自然エネルギー利用技術とその発電システムについて、同じくこれに参加する他業種の幾つかのメーカとともに、展示物の開梱から据付け立会・指導、試験・調整など一連の会場設営・準備と会場案内・技術説明、および展示物の保守に当たるためであった。S自動車もここに、電動車椅子を出品していたのである。
 
2.フェアなフェアは幾ら
 見知らぬ人から英語で話しかけられたとき、わからなければ聞こえないふりをするのもリスクを回避する大切な手段である。特に街中では、呼びかけられて不用意に立ち止まってはいけない。これで二人組に前後から挟まれ、被害にあった話を幾つも聞いていた。それを十分に承知していたのに、わたしとしたことが大失敗であった。
 わたしはS自動車のSを振り切り、オ・ヘア空港のロビーをタクシー乗り場に向かった。妙に閑散としたロビーを出ると、タクシーがいない。国際線ならば、あるまじきことだ。キョロキョロ辺りを見回すと、赤く塗った箱の中のタクシー専用電話が目に入った。これだな、と近寄ろうとした、そのとき、真っ白なスーツをキリッと着こなした背の高いハンサムな白人紳士が正面から近づいてきて、ダウンタウンか、と聞く。そうだと答えると、サッとわたしのケースを奪って行ってしまう。しまった、と思ったときは、もう遅い。敵が、こう来るとは知らなかった。奇襲とはいえ、用心深いわたしとしては大失態だ。これまでだって、両足で挟んだ足許のバッグを後ろから引き抜こうとしたり、道を聞かれ差し出された地図を覗き込んでいるすきに鞄を開けようとした敵の攻撃などを何度も防いできたというのに――。この日だって、鞄から手を離したことは一度だってなかったというのに――。
 仕方なく後ろについて行くと、敵はタクシー乗り場を過ぎ、木陰に止めてあった真っ白なリンカーンのトランクを開け、その中にわたしの鞄を入れ、バタンと閉めてしまった。
「オー・ノー」
 お終いだ。これではSを嗤(わら)うこともできない。
 しかし真っ昼間から妙な真似はすまい、と覚悟を決め、丁重に開けてくれたドアから、この巨大で豪華な車の後部座席に潜り込んだ。走り出してしまってから、それまでずっと無言であった敵は、バックミラーの中から、
「レギュラー・フェアはターリーフォーだ」
 と、わたしに話しかける。『ターリーフォー』とは何だ。しかし何度聞き返しても、
「ターリーフォー」
 というばかりだ。こちらが、
「ターリーフォー?」
 とオウム返しにしても、そうだ、という。
「ターリーフォー――」
 わたしの発音は正しいのだ。しかし何のことやら、さっぱり意味はわからない。敵は、わたしが黙ったので理解したと思ったのだろう、また以前の無言に戻る。仕方なく、わたしはそのまま大きなシートに深々と身を沈めて、眼下に流れていく初めてのシカゴを眺めていた。高架を走る道は広く、車は少ない。『ターリーフォー』の紳士が運転する白磁のリンカーンは、薄曇りの空の下に広がる広大な視界の中を、まるで空を飛んでいるかのように快適に滑る。
――俺はこのまま、天国に行くのか
 そのせいか、わたしのこころに大きな不安がないのが不思議だった。ホテルの番地と名前は伝えてある。こちらは初めての場所だし、どのくらいの距離があるのか、本当にホテルの方に向かっているのか、それすら定かではない。
 長い時間が経過したような気がした。しかし、
「ヒア・ウイ・アー」
 と車が停まったところは、きちんと、わたしが告げたホテル、『オクスフォード・ハウス』の前であった。そして、ここで初めて『ターリーフォー』の意味がわかる。彼が指で示した料金は、34ドルであった。運転中は彼の手が空かなかったので、指で示すことができなかったのだ。
『th』の音を『タ』とか『ダ』と訛(なま)ることは知っているし、ほとんどのアメリカ人は『t』が『r』になる。こんな初歩的なことを聞き違えたことはなかった。しかし『ターリーフォー』には参った。こればかりは降参であった。そして、シカゴアンズは特別この『th』訛りが強いことを、後々も勉強することになる。
 後で、かのSに聞くと15ドルにチップ2ドルだという。また別の同輩は9.5ドルだったともいう。文字通りの『白タク』に乗ったわたしは、イエローキャブの実に3倍以上を払ったわけだ。しかし、これは不可抗力だ、天国を走る車に乗ったのだ、命があっただけよしとしよう――わたしは必死に自己弁護したことであった。これは、無慈悲にもSの受難を見捨てたわたしへの、神の試練に違いない。
 それにしても、数少ない経験とはいえ、わたしが行ったアメリカの都市で、少なくともイエローキャブの料金に甚だしい差があった経験は一度もない。シカゴタクシーの『フェア』な『フェア』は、一体幾らなんだろう。
 以降、これに懲りて、シカゴではついに一度もタクシーに乗ることはなかった。
 
3.初めてのマックにトライ
 ホテルのドアを入ると、日本の病院の廊下のような、ロビー、とも呼べないほどの空き地に長椅子が一つあって、その右手のカウンターの向こうに大きなお姉さんがふんぞり返っている。
――シカゴは巨人の街なのか
 お姉さんは無愛想に、パスポートを出せ、とわたしに命じ、奥に行ってコピーを取っている。一瞬、本能的に拒絶しようとしたが、ここを放り出されると今晩の寝る場所がないので、これに耐えた。ジェトロが手配してくれた、という手前もある。外国人割引とはいえ、値段も魅力的だ。
 何で支払うか、と聞くから一応『ダイナースカード』を見せ、だけどトラベラーズチェックだ、というと妙な顔をして、
「ダイナースを使え」
 と、しつこく迫る。強く拒絶すると、他のクレジットはないのか、というから銀行のキャッシュカードなどを何枚か見せると、それらはここでは使えない、とおっしゃる。当然だろう。こっちだって日本の銀行のキャッシュカードでシカゴのホテル代が払えるなんてことは、初(はな)っから考えてはいない。しかし、そんなことはおくびにも見せず、
「それは残念だ」
 と、トラベラーズチェックで押し切って、少しばかり溜飲を下げる。アメリカで沢山のクレジットカードは信用の証(あかし)なのだが、当時のわたしはダイナース以外に持っていなかった。そしてこのダイナースは、わたしのステータスを示すための『見せ金』だから、使う気はないのだ。当時、日本にはダイナースを扱う店が少なかったから日本人にはあまり知られていなかったが、海外でこれを見せると絶大な効果があった。しかし主客転倒しているこのホテルでは、例えダイナース会員であっても、『サー』も『プリーズ』も『ソーリー』もない会話が続いている。
 とにかくチェックインを終え、11階、1110号室に入る。ドアボーイもベルボーイもいない。タクシーを降りて自分の部屋まで、すべて自分で荷物を処理する。ま、チップが要らなくて、よかった――と、古くカビ臭い、大きな部屋に荷物を放り出し、キングサイズのベッドの一つに大の字で放心していると、突然耳元で電話が鳴ってわたしを驚かす。これもまた、悪い前兆だ。
 果たして電話は、例のS氏のご到着を告げるものであった。あんたの連れだというミスターSがチェックインに困っているから至急降りて来い、と、フロントが命じる。声は先ほどのお姉さんではなく、お兄さんに代わっていた。通関やホテルのチェックインすらできない程度の男を出張させる会社も、困りものだ。しかし、このホテルのチェックインならわたしが既に経験者だ。難無く手続きが終わる。S氏はクレジットカードを持たなかったし、銀行のキャッシュカードで『猫じゃらしの術』を使うワザも知らなかったから、支払いも、もめることなくトラベラーズチェックでパス。
 困ったことに、夕飯がない。日曜日だからと、あらゆる店が閉じている。このホテルのレストランもやっていない。道理で、道路も街も辺り一帯が閑散として、ゴーストタウンの雰囲気が漂っていたわけだ。翌28日、月曜日も『メモリアル・デイ』で連休だから、もっとひどくなるとフロントのお兄さんがいう。頼られたって困る。S氏に内緒で一人ホテルを抜け出し、開いているとお兄さんが教えてくれた店に行ってみた。しかし、ドア横に掛けてある板に読めるメニューの値段はどれも、わたしの出張旅費では明日からの2日間は絶食しなければならないほど高い。
 店の中を覗いてみもせず、仕方なく引き返し、行きに見つけておいたマクドナルドに入る。しかし初めてだから勝手がわからない。売り子のお姉さんはわたしを正面から真っ直ぐに見据えて注文を待っている。そんなに長く待たせるわけにはいかない。ままよと、お姉さんの上に掲げてあるメニューのトップにあるものを『トライ』することにして、
「ビグメァック・エン・カフィ」
 と告げる。1ドル53セントを払ってハンバーガーとコーヒーを受け取り、丸い6人テーブルを独占することにした。これまでに何度かアメリカに来ても、ハンバーガーを食べるのは初めての経験だ。当時は日本でも、そんなに店数は多くなかったと思う。わたしは雑食で、和食しか駄目という不便な日本人ではない。それにしてもアメリカンは、何だってこんなに食いにくいものを作るんだ。食い物をこんなに高く積み上げて何になるというんだ、二つか三つに分ける手間さえお前たちは惜しむのか、日本人の口はアメリカンみたいに大きくないんだよ。わたしは腹を立てながら、上から順にはぐって食べた。手に、潰れたトマトの汁やケチャップなどが流れ、辟易しながら紙ナプキンを何枚も消費して皿を山盛りにした。そして、もう絶対に二度とこんなものは食うまい、と誓ったものだ。
 ホテルに戻ると、さっきのクラークが、ファインな店だったろう、というから、オレにはエクスペンシィヴだったからマクドのハンバーガーにした、というと、妙な顔をして絶句した。悪いことをしてしまった。わざわざこのお兄さんが、わたしの目の前で電話してくれたのに。そして、もしかしたら、あの店からお小遣いが出たのかもしれないのに。
 それ以降、わたしたち説明員は、好むと好まざるとにかからずハンバーガーならぬハンバーグをたびたび食べることになる。ステーキは高くて、われわれの出張経費では口に入らなかったのだ。メニューにある同じ『ステイクス』の中で、値段の安いものが巨大なハンバーグなのだということも、このときに初めて知った。そして、そのハンバーグですら焼き加減を聞いてくるのだということも――。そしてそして、なまじ『ミーディアム』とでも頼もうものなら、ほとんど生の真っ赤な巨大細切れ肉だんごを食す羽目になるということも――。これはケチャップをダボダボにかけても、なかなか喉を通る代物ではなかった。
     *
 外は寒く、風が冷たい。テレビは華氏70〜74F(21〜23℃)、明日は50F(10℃)になるといっている。ミシガンの水温が低いのか、それとも遠いカナダの風を運んでくるためなのだろうか。
 ここに来る飛行機の中で、E/Dカードを書くときにボールペンを貸してあげたよしみから親しくなった、隣に座った上品な老女は、シカゴ在住のナオミ・ハセガワさんと知った。彼女から聞くシカゴは、
――特に冬は天気が変わりやすい。温度も急変する。冬は長い。ミシガン湖は相模湾のようだ。江の島や富士山がないのが不思議。でも夏でも冷たくて泳げない。地下鉄は古くて汚い。実用本位の箱だ。バスはよい。夜は一人歩きするな。特に南部は黒人が多く、悪い。ハーレムのようで危険だ
とか。多少は増えたとはいえ、当時はまだシカゴに住む日本人は少なく、シカゴアンズの日本に対する関心や理解も薄いという。日本語はたどたどしく、英語の方が調子いいというナオミおばあさんの口から、相模湾や江の島が出る違和感が面白かった。
 それにしても、われわれが勤務する博物館は、まさにその南部にある。そして、彼女のお墨付きであるバスは、後日、大変な代物だということがわかったのだった。
 こうして、これからは休日なしの、わたしの初めてのシカゴが始まった。

2002年8月1日
4.タンポポの昇天

 

 

 翌28日はメモリアル・デイで休日である。しかしクリスマス以外は無休の博物館は開いているし、われわれの準備期間もタイトである。何よりも、休日を返上して来てくれている貴重な職人たちを他社の技術者と奪い合わなければならない。そうして仕事を早めに終え、ホテルから少し南に歩いてグラント公園に出た。われわれのホテルはシカゴ河の北、北ウォバッシュ通りにある。湖岸まで歩いて10分ほど、近くにはウォーター・タワー(アメリカ流に発音すれば『ワラ・タワー』)、後で紹介するジョン・ハンコック・センター、そしてディアボーン要塞跡など、名所も豊富である。グラント公園までだって、歩いてさほど苦になる距離ではない。
 ミシガン湖に沿って南北に延びる広大なこの公園は、中に、シカゴ美術館、グッドマン劇場、自然歴史博物館、シェド水族館、アドラー天文台・博物館、野外音楽堂といった数多くの文化設備を配置してあるが、そのいずれもが、ひとつ一つ大きい。
 公園は、辺りに人影が全くなかった。日本とは逆に、休日には人も車も街から消え失せてしまう。中央やや北にあるバッキンガム記念噴水塔も止まっている。しかしこれは、休日のせいではない。冬の間は止まっていて、6月から再開するんだそうで、この日は、汚れた『遺跡』の臭いを漂わせているただの石積みに過ぎない。ピンク色のジョージア産大理石でできた豪華なこの噴水は三段になっていて、下から順に上の段へ水を噴き上げ、中央の水柱は41メートルの高さにもなり、夜はピンクに美しくライトアップされる(写真トップ)。
 シカゴの春は遅い。緯度は函館と同じだが、内陸部だけに昼夜の温度差は激しいという。わたしが入った5月末は、日中は70F(21℃)くらいになるが朝夕は50F(10℃)しかない。
 湖畔には散り残ったサクラ、そして沢山の花が咲いている。何にもまして驚いたのは、辺り一面を覆うタンポポの花だ。そこに足を踏み入れると、綿毛がワッと舞い上がって煙になる。わたしはこの光景を、どこかで見た、と思った。
 それは数年前、多分、フロリダ州オーランドでのことだ。わたしはホテルの部屋に着くと、鞄を置いた後うるさく室内設備などを説明するベルボーイを早めのチップで追い返し、いつものようにベッドに大の字になってぼんやりと窓を眺めていた。しばらくそうしているうち、ここに来るまで好天だったはずのその窓の外の空が、今は妙に霞んでいることに気づいた。いや、霞んでいるのではない、そこに、下から何やら灰色のものが湧き上がっているのだ。それは煙のようであり、また少し違うようでもある。しかし煙なら大変なことだ。このホテルか、近くの火事かもしれない。わたしは窓に近づいて外を透かしてみた。
 何と、それは空を覆うおびただしいタンポポの綿毛ではないか。
 わたしに、子供のころ見た絵本の記憶が甦った。それはページ全面を埋め尽くすタンポポの綿毛と、手を広げて天を仰ぐ少女を描いた、淡い色彩の幻想的な絵だ。
――こんなに沢山のタンポポが飛ぶなんてはず、ないさ、これは絵本だからだ
 そう思ったそのときの記憶が、大人になったこれまでも、ときどき不思議な鮮明さで思い出されていたのだ。
 フロリダは緑と湖の国だ。それはそこに行くまでの飛行機の窓からも、そしてわたしのホテルの窓からもうかがい知ることができる、こころ安まる風景だった。その湖面をわたる春風に乗って吹き上がってくるおびただしい綿毛が、そのとき現実に、わたしの部屋の窓ガラスに擦り寄るように、はるか下の大地から湧き上がって来る。それを見ていると、自分が無重力の世界にいて、遙か下に引きずり込まれるような錯覚に陥った。天を仰いで雪の降るのを眺めると、自分が昇天するような感じがする。しかしタンポポは、まったくその逆である。それは不思議な、そしていささか病的な体験であった。
 そう、あれは単なる幻想の絵ではなかったのだ。絵本作家の誇張でも何でもなかった。こういう現象が、本当に起こるのだ。フロリダのタンポポが、遠く海を隔てた地を踏んだ異国人の部屋を覗きに来ている。わたしは窓ガラスに額を擦りつけるようにして、しばらくはこの幻想と錯覚の中で遊んだのだった。
 そして今、それと同じ光景がシカゴにもあった。ミシガンの風に煙となって舞い上がり雲となるタンポポの綿毛――。この時期、シカゴではあらゆる花が一斉に咲くという。北海道と同じだ。そして、このタンポポの黄色いカーペットの上に上半身裸で日光浴をする白人を不思議な思いで見た。だって、ここは20℃になるかどうかくらいの、しかも風の冷たいミシガン湖畔だ。アメリカンに限らずヨーロッピアンでも、白人はよく裸になる。太陽を惜しむように日光浴をするのだ。そして一方では皮膚ガンを恐れ、パニクったりする。不思議な人たちだ。
 しかし、不思議はそれだけではない。6月に入ると、ミシガンで泳ぐ若者も現れた。月が変わると、これまでの低温が嘘だったように、日中は90F(32℃)にもなって蒸し暑い。わずか数日で春から夏になったとはいえ、それでも朝は55F(13℃)くらいに下がる。例のナオミおばあさんは、ミシガンは水温が低くて泳げない、といっていたのではなかったか。
 それにしても、それ以上に驚かされたのは、泳いでいるこの若者を追跡し、岸に上がるよう大音響のスピーカから警告を続けるのは何と、『シカゴ・ポリス』と横書きしたヘリコプターであった。
 
5.有色人種=日本人の無自覚
 われわれのイベント、『ジャパン・トゥディ』は5月31日、ミズ・ジェーン・バーン・シカゴ市長と400名のゲストを迎えたプレ・ヴューと開会式、これに続いて午後からは一般公開が始まった。
 われわれが毎日通った、このシカゴ産業科学博物館は、湖岸大通り(レイクショア・ドゥライブ)57番街にある。ホテルの直ぐ裏手から6番のバスで、ミシガン湖に沿って走るレイクショア大通りを南へ約15キロ下り、56番街で降りると、正面にアテネのアクロポリスにあるパンテノン神殿まがいの建物が見える(『その1』ページ・トップ写真)。
 『ザ・グレイト・シティ』と呼び呼ばれるシカゴには、この他にも大きな建物が沢山ある。『摩天楼』というと日本人はすぐにマンハッタンを想起するが、シカゴだって負けはしない。実は、ここは何でも世界一大きな物を誇る街なのだ。しかもその大きさは、日本人では発想し得ない、奇想天外な『バカデカさ』である。
 この博物館にしても、広大な建物の中に常設展示場だけで鉄鋼、電気、原子力、石油、自然エネルギー、自動車、化学、機械、コンピュータ、食品、農業、林業、医学、空海軍、鉄道、宇宙開発、電話、数学、写真、芸術など、文化、工業、産業の発展を示す75の展示場、2,000組を超える展示物が展示場面積約5万7千平方メートルの中に配置されている。四角に直すと240メートル四方の面積である。ここにアポロ8号やジェミニ、マーキュリーなどの宇宙船、第二次世界大戦で米海軍が生け捕ったドイツ軍のUボート、そして人間をスライスして樹脂に固め展開した物(写真、右)など、何でも『本物』が自慢の館内は迷路のように複雑で、単に歩き回るだけでも1日がかりとなる。多くの人が館内で迷い、半分も見ることなく帰ってしまう、とてつもなく広大な世界一の規模を誇るこの博物館は、年間入館者数400万人、一日平均約1万人でクリスマス以外に休館日がない。したがってわれわれも休日がない。
 博物館のすぐ西には名門シカゴ大学、その裏手は多くの湖と森に囲まれたジャクソン公園に続く。博物館は、このジャクソン公園の最北部に位置している。一帯は黒人街である。
 南部は黒人が圧倒的に多く、日中でも一人で歩くには度胸がいる。シカゴ河を渡って北に行くと急に白人が多くなり、緑もあってほっとする。しかし本当の金持ちはもっと北、郊外に住むのだという。
 黒人が黒人であるという理由だけで危険だというのは、もちろん偏見であり差別である。飛行機の中で、ナオミおばあさんも、そういう意味で話したのではない。しかしながら、おしなべてハーレムを作るのは、主として経済上の理由から黒人が圧倒的に多いことも事実だ。そして、黒人が経済力に劣るのは、やはり白人の彼らに対する差別感が根源にあると、わたしは思う。ここだけではなく他の街でも、プエルトリコなどからの出稼ぎを中心に、英語がわからない人を見かけることも珍しくない。教育の問題もあるかもしれない。盛装し、宝飾品を身に散りばめ、大きなキャデラックを運転する黒人を見ることもあるが、これが黒人の成功の証といっていいのだろうか。彼らの貧富の差は一層広がりつつあるように感じた。
 ところで、わが日本人は自分たちが有色人種であり、生理的に白人から嫌われる存在であることを自覚しているだろうか。当時はすでに、日本人を中国人と間違えるようなことは、アメリカの中心都市では少なくなっていた。日本のことはあまり知らなくても、日本人が有能な知的人種であり、高性能の機械を作る民族であることは、このシカゴでも知れ渡っていたからである。
 地理的に本土内陸部、いわゆるミドゥウエストに位置するシカゴは、当時は外国に対する関心が薄く、やっと諸外国からの定期航空便がオヘアに乗り入れるようになったとはいえ日本人はまだ数も少なく、日本に関する知識は皆無に近かった。その割には街の電気店もカメラ店も時計屋も、ショーウインドウの一番目立つ場所に日本商品を飾ってある。電池を買いに入った電気屋のオヤジによれば、
「日本が何か知らないが、日本製品を出さなきゃ客は来ないのよ。日本商品を置いてない店は安物屋さ、入らない方がいいよ」
 ということになる。このとき、すでに日本製品は高級品であり、日本製カメラを提げたカメラマンや市民が圧倒的に多かった。43-86ミリ・ショートズームを装着したわたしのニコンFを、500ドル、当時のレートで12万円で譲れとしつこく迫った男がいたほどである。コンパクトで高性能のショートズームレンズは、このときまだ、シカゴの店頭を飾っていなかったらしい。
「日本人か」
 と聞くことが、彼らなりの敬意の表現なのだと、後に、シカゴの友達の一人が話してくれた。彼もまた、黄色人種・イタリア系アメリカ人である。
 しかしながら、そのことと、アメリカ人が実際に面と向かった日本人に敬意を払うこととは同じではない。イタリア人の肌が日本人と同じ色であるといっても、その扱いはわれわれとは雲泥の差がある。アメリカは、今なお世界に冠たる人種差別国である。それは、未だ相次ぐ白人警官の過剰な黒人暴行事件が物語っている。
 彼の話によれば、アメリカでは、まず第一にユダヤ系があって、フランス系も上位を占める。大戦後は、ドイツ系も地位を上げた。英国系も、もちろん元気だ。中でも、アイリッシュはケネディやレーガンなど大統領を輩出している。『O’Connor』のように、名前の頭に『O’』を付けているのは例外なくアイリッシュなのだそうだ。われわれが降り立った国際空港『O’Hare』も、多分そうなのだろう。
「いいにくいことだが」
 といいながら彼は、後は二束三文、東洋系は最下層の人種だという。チャイニーズは商売に長け、フィリピノスやインドネジアンはよく労働をする。しかし、そのことで評価が白人と肩を並べることは、決してない。よい工業製品を作るにもかかわらず行動は騒々しく粗野で、何でも経済力を振りかざして身勝手な振る舞いをするジャパニーズも、彼らの心の中ではいつだって『ジャップ』と侮蔑されるべき『黄色いサル』に過ぎないのだ。これは理性の問題ではない。彼らの生理がそうさせるのだ。外国、特にアメリカが日本をどう見ているかを過剰に気にする割には国際的な哲学や行動基準から大きく乖離している日本人が、彼らにはどうしても理解しがたいのだろう。
 前半はわからないが、こと日本人に関する限り彼のコメントは言い得ていると思う。このことを知らずに、日本人が高級民族だと勘違いして彼らに接すると、痛いしっぺ返しを受けることになる。それはアンタの意識過剰、思い過ごしだ――という人もいるかもしれない。ならば聞こう。アメリカは自国民の犠牲を最小限に止どめるためという理由で、もうとっくに死にかけていた日本に原爆を、しかも2発も続けて投げた。それならば、同じ理由でアメリカは、同じ肌の色のドイツに原爆を落とすことができたか。ヴェトナムに撒き散らした枯れ葉剤(ダイオキシンの一種)と同じように、異形の人間を際限なく生み続ける可能性があった、この凶器を――。
 
6.シカゴのバスは快適か
 ナオミおばあさんが唯一推奨してくれたシカゴの安全な乗り物――バス。われわれはホテルから、とにかく毎日このバスに乗らなければならない。ところが、片側4車線の湖岸大通り以外、市中の道路は比較的狭く、その上、必ずどこかで大工事をしている。そのため、そうでなくても狭い道路の半分しか使えない。巨大なバスはその中を、曲芸のように走る。例外なく運転手は黒人で、それも丸々とした大きなおばさんである。おばさんは巧みにハンドルを操りながら、バスの中から道路に向かって大声で怒鳴りまくる。工事人に怒鳴り、道を歩く市民に怒鳴る。怒鳴りながら走り、走りながら怒鳴る。とにかく湖岸大通りに出るまで、おばさんは怒鳴りっぱなしだなのだ。こんなに大きく丸々とした黒人おばさんを見たのは、赤道直下中部太平洋の孤島、ナウル共和国以来だ。この島は一般人には知られていないが、肥満モデルとして医学界では有名なんだそうだ。しかしながら、ここシカゴのおばさんたちだって、決して負けはしない。
 われわれ日本人は恐れをなし、ピリピリしながら乗っている。いつ自分たちも怒鳴られるか、怒鳴られたらどうしたらいいのか、だって、何と怒鳴っているのか、皆目わからないのだから。
 そして――、窓に張られた、たった一つの『priority seat』(日本語でいえば、そのまま『優先席』)のラベルを打ち抜く35口径と見られる弾道の跡――。本当にシカゴのバスは、安全なのだろうか。ここに座っていた人は、いったいどうなったのだろう。
 不思議なことに、この狭い道ですれ違うバス同士は、決して罵声を浴びせ合わない。おばさん同士の不思議な連帯なのだろうか。もっとも、怒鳴られた方もまったく反応せず、マイペースを堅持しているのも立派であった。
 それにしたもシカゴアンズは、よほど工事が好きとみえる。とにかく方々で工事が、しかもそれが、ことごとく大工事が行われている。冬季の凍結のため舗装が割れてしまうのだそうだが、それにしても50センチ以上深い基礎までひっくり返すほどの大凍結が、このザ・グレイトシティ・シカゴでは起きるのだろうか。入国時に飛行機が国内線に着いたのも、国際線ゲートの一部を補修していたためらしい。何でも大きいことの好きなシカゴの、大きな工事なのであった。
 ピストルといえば、ほとんど毎夜のようにホテルの窓の下で乾いた銃声が聞こえた。真っ昼間のグラント公園を歩いていても、近くの木立の中で2発の銃声を聞き、急いでホテルに戻ったこともある。殺人事件だったらしい。しかしそんなことは、厚さが5センチもあろうかと思われる毎日の新聞にはほとんど載らない。載せたからって何かの役に立つのかい――、ホテルのお兄さんは欠伸(あくび)混じりに、そういう。到着した翌々日に美人二人連れ強盗が逮捕されたこと、なまじ空手の心得があったばかりに抵抗してピストルで撃たれたパナソニック・シカゴの所員、みんな口コミで知るばかりだ。
 何せ、アル・カポネの町だ。シカゴは知らなくても、彼と対決したエリオット・ネス率いる『アンタッチャブル』は耳にしたことがあるだろう。それでも人口当たりの殺人事件数は大都市中で最低なんだと、街角に立つポリスは胸を張った。
 

2002年9月1日
7.百万ドルの夜景とトイレのチップ

 

 

 

 シカゴアンが何でも大きなものが好きだということは、ここまで何度も話した。当時、ニューヨークのエンパイヤステイトを抜いて世界一を誇っていたシアズ・タワーは110階で高さ443メートル、アンテナを足すと553メートルある。展望台は103階にあって、ここからの、暮れゆく湖と市の眺めは絶景であった(写真、上)。写真左上の端、ミシガン通り北の湖畔に立つのは『ビッグジョン』と愛称されるジョン・ハンコック・センターである。343メートル、100階で、94階に展望台とレストランがある。アンテナを入れると450メートル、視界は60キロメートルにも及ぶという。
 41階までは商用スペース、45階から92階までは住宅という『コンドミニアム』と呼ばれる混合ビルとしては世界一である。右の絵は、展望レストランの紙ナプキンに印刷されたものである。これに見られるように、黒塗りで窓ガラスも黒く、やたらと大きなブレーシング(バッテン)が目立つ、決して美しいとはいえないビルだ。この巨大なブレーシングは、ミシガン湖から吹き付ける強風に耐えるためなのだという。近年の超高層ビルは、昨年9月11日、テロリストによる旅客機自爆というとんでもない襲撃を受けた、ニューヨークはハドソン河畔に立つ世界貿易センタービルのように、中は柱の少ない鳥籠の構造で風圧を凌いでいるから、こんなに景観を損うことはない。
 このビルの周辺を、毎日、数人の屈強な男が巡回しながら、望遠鏡でビルを見上げている。不思議に思って、何をしているのか、と尋ねると、窓ガラスが緩んで落下するのを事前に見つけるのだという。本当に望遠鏡で、間もなく窓枠を外れて落下するであろうガラスを見つけることができるのか、これは眉唾物だ、と、にわかには信じがたいが、以前は毎週、何枚かが落下していたのに、今は皆無だと胸を張る。
 ここのトイレのチップがまた、おかしい。トイレに入ると、超一流ホテルのバスルームかと見紛うその豪華さに驚かされる前に、モーニングに蝶ネクタイ、立派な体格・風貌の中年の紳士が、カウンターになっている左手の黒大理石の大きなテーブルの上に真っ白なテーブルクロスを敷き、クウォーターを二つずつ組にして、かれこれ2、30段と2、30列、総計5、600枚もあろうかと思われるコインを、まるで古銭の収集額のようにきれいに並べている。つまり、チップは50セントだ、といっているのである。こうまでされたんでは仕方ない。こちらもそこに続けてクウォーターを2枚並べる。すると、かの紳士は、また丁寧に並べ直すのである。丁重にドル札を置いて恭(うやうや)しくお釣りを取っていく客もいて、一層おかしい。
 ちなみにニューヨーカーたちはシカゴのことを、『ウィンディ・シティ』と呼ぶ。シカゴは文字通り風の強い街であるが、『ウィンディ』には他に、『大袈裟な』、『よくしゃべる』、『ホラを吹く』という意味があって、ニューヨーカーが使うときは、多くの場合、後者の意味となる。これには歴史があって、コロンブスのアメリカ大陸発見400年記念祭の大博覧会開催地をニューヨークと激しく争った際、シカゴはワシントンのロビイストを使って強引に押しまくった。これに破れて腹の納まらないニューヨーカーがこう皮肉ったのだとか。シカゴは何でも風当たりが強いようだ。
 しかし、シカゴアンズの誇りは『アイ・ウィル』の精神である。どんな困難でも、やり始めれば必ず達成するというシカゴ魂である。肥沃な大地が恵む農産物、豊富な地下資源と水と交通の便がもたらす工業製品、これらに裏付けられた自信が、こういわせるのだろう。
 同時に、できそうもないことは初めから『アイ・ケァナット』というのもシカゴ精神だそうだから、話は表裏、全部聞かないと正しいことはわからない。
 
 
8.ジョン万次郎は偉い
 われわれの展示会場はウェスト・パビリアンの地下、イグジビション・ホールにある。しかし、ここに来るには膨大な展示場を結ぶ迷路を辿らなくてはならない。初めのうちはしばらく、とても一人では歩けなかった。自分がどこにいるか、皆目わからない。われわれの会場に来る客も、必ずしも自分の意志で来たとは限らないらしい。迷い込んで、やむなく来てしまった客も、少なくないらしいのであった。
 そこで、こんな『実験』をしたことがある。
「ホッタイモイジルナ」
 日本人であれば、いかに英語が堪能であっても、これを、
「掘った芋、いじるな」
 と聞いてしまう。しかし、日本語を知らないシカゴアンズは、親切にも今の時間を教えてくれる。これは、かなり以前、何かで読んだか聞いたかした、わたしの記憶に間違いがなければジョン万次郎が作ったという英語辞書に載っている英会話の一つである。これが、実際に通用するかどうか、一度やってみたかったのだが、ここまで機会がなかった。
 そして、この実験にことごとく成功し、改めてジョンマンに敬意を表したのであった。昔、ジョンマンも、
「ホッタイモイジルナ」
 と、時間を聞いたのであろうか。参考までに、このフレーズは標準語で一気に、早口でいわなければいけない。関西弁や東北弁では成功しない。
 ちなみにジョンマンは、捕鯨船に乗って名を挙げたのだ。当時アメリカは、自国沿岸だけではこと足りず、太平洋を日本近海まで漁場を拡大してクジラを捕りまくった。彼らが浦賀に来て開港を迫ったのも、クジラ捕りのための補給基地が欲しかったからだと聞く。しかも、彼らは日本人のように食用はもとよりクジラのあらゆる部位を利用するようなことはせず、鯨油だけを採って捨てたらしい。今頃になって『クジラは可愛いから』と、感情論だけで捕鯨に反対するアメリカの身勝手は許せるものではない。
 話を時計に戻すと、時間は、必ずしもこちら側だけから聞くものでもない。ある日突然、会場で数人の子供たちにワッと取り囲まれ、
「ジュ・アヴァ・ワッチ」
 と、やられたときは一瞬、身構えてしまった。わたしは子供たちの顔を一人ずつ慎重に見回し、それから、ややあって、そろそろとワイシャツの袖の下から自分の腕時計を示したのであった。
 この様子を見ていた友人のシカゴアンが後で、どうしたのか、と聞く。わたしは、余程ひどい顔をしていたらしい。それもそのはず、当時、アメリカでは『セイコー』のイメージが非常に高く、セイコーという高級ブランドを持っている日本人は金持ちだ、という噂が広がっているから気をつけろ、といわれていたのだ。わたしはまさに、それを着けていたのである。ただし、あまり高価なものではなかった。
 ここは白昼の博物館、大勢の来場者の中である。子供たちの質問が時間を聞いたのであることは十分に承知している。しかし、文字通りに解釈すれば、
「オマエ、時計持ってるか」
 と、いうことになる。咄嗟のこととはいえ、妙な噂を聞いてさえいなければ、こんな過分なリアクションはなくて済んだだろう。しかし、用心はし過ぎて悪いことはない。襲ってくるときは、こちらの足を止めるために大抵は時間を聞いてくるのだという。
 
 
9.無料(タダ)より高いものはない
 科学館には、休日でもスクールバスで子供たちが見学に来る。20人ばかりの団体が2列に並んで、館内を整然と歩くのを感心して見た。日本では絶対に見られない光景であった。
 展示をしていて、面白いことに気づいた。積んであるパンフレットを持って行く人が少ないことだ。内容を見て興味がなければ返す。必ず持ち去るのは日本人で、中をめくって見もしないで取って行く者も少なくない。日本での展示会場などで目にする、これも主催者がくれる紙製の手提げ袋に一杯、カタログやパンフレットを詰め込む日本人の姿と重なる。何十社、何百社と出展している会場で、自分の専門分野や、興味があって本当に必要とする資料がそんなにあるのだろうか。わたしの場合、せいぜい5種類前後、場合によっては、折角来たというのに、まったく手ぶらで帰ることも少なくない。
 上質紙を使ったカラー刷りのパンフレットは、結構コストのかかるものなのだ。それを会社や自宅に持ち帰り、どれだけ活用したり商用に利用できることだろう。早晩、これらは無造作に屑籠に捨てられてしまう代物ではないのか。このような人たちが資源や環境問題を論じる資格があるのだろうか。
 ここの人々も、熱心に展示品やビデオを見、ときどきは質問をし、パンフレットを手にとって読むことはしても、それをそのまま持って行く人は極めてまれなのだ。中には、
「いくら」
 と聞く子供もいる。そう。彼らの感覚には、『ノー・チャージ』、タダというものは基本的にないのだろう。日本なら、街頭などで配られるティシュペーパーはもとより、紙一枚だって、この国でうっかり受け取れば金を要求されることを知っておかねばならない。ドア一つ開けてもらってもチップを握らせるのが当然の国だ。先のS自動車のS氏が空港で、50ドルも払わされたのも、この種の手合いだ。
 もう一度、あえていおう。差し出されたものも、積んで置いてあるものも、何でも持っていってしまう習性のあるのは日本人に限られる。それ以外の国の人に、こういう行動はあまり見られない。そしてタダは、高く付くことを思い知っておかねばならない。
 幾つかの日本人学術団体もやって来た。彼らが会場にが来ると、すぐわかる。それまでの密かなざわめきが、一気に沸騰するからである。大声、大笑い、記念撮影、われわれ説明者そっちのけで説明してくれる人、傍若無人といっていい振る舞いに、関係者や来場者から顰蹙(ひんしゅく)を買っていることにも気がつかない。
 滞在中、シカゴ・トリビューンやシカゴ・サン・タイムズを初めとする記者たちのインタヴュー、学者ほか専門家たちの来訪を受けた。中には国際学会で馴染みになった人も話を聞きつけて来てくれた。最も熱心なのは、このミュージアムに勤務する人、そして中・高校生と女性が半数を占める。科学館に来る女性であるから当然かもしれないが、一人で来ていて、よく質問をする。日本の政治や経済、国際問題までも質問が及び、科学技術にも深い関心と高い見識を持っていて、よく質問をし理解する。専門家ではない普通の女性も同じである。原子力問題にも熱心で、スリーマイル・アイランドについても詳しい。議論をすると深刻になることがあるので、わたしは原子力の専門家ではない、と逃げることにした。
 中には、
「おまえはドクターかマスターか。どんな大学を出たんだ。日本かアメリカか。東京の人口はどれだけで、そこにどんな規模の大学があるのか」
 と、展示はそっちのけで、根ほり葉ほり聞く者もいる。こういう研究開発の説明はアメリカ育ちのドクターでないといけないのか、といじけてみたりもした。
 
 
10.ローマ字は英語のつもりか
 わたしの『nakky』というニックネームは、この滞在中にシカゴの友人が付けてくれたものだ。当時、まだ日本人の名やヘボン式ローマ字の読みに馴染み薄かったシカゴアンたちには、わずかカナ4文字の平凡なわたしの名でも、呼ぶのに煩わしかったものとみえた。
 それは、ローマ字で綴った日本語の読みと、彼らの音節の区切り方が基本的に異なることによる。彼らは、例えば『YOKOHAMA』を、
『ヨック・オゥ・ヘイマ』
 と、3音節で読む。温度計『thermometer』が『サ・モ・ミタ』であるのと同じ感覚なのだろう。接続詞的に使われる単語中央部の『o(オゥ)』にアクセントを置く言葉は技術用語には少なからずみられ、日本人技術者の英語でのプレゼンテイションを理解されにくくしている。『サーモメーター』や『タコメーター』などと発音するのは英語ではなくローマ字読みの日本語である。しかも、この種のローマ字読みカタカナ語は日本の至る所に氾濫し、日本の学校におけるローマ字教育の大いなる弊害と恥をさらけ出している。
 日本人にとって表象的である漢字やカナは一瞬に読み取れて能率がいい。ところが近年は、特に音楽の分野でローマ字表記が多くなり、テレビ画面などでは読み取る前に消えてしまって満足に確認できた試しがない。だから、最近の歌手の名前は全然知らない。
『by ◆◎★#&▼@♂?』
なんとかいってる間に通り過ぎてしまう。これは、歌詞の中に中学校教科書程度の短い英語を挿入し、口をひん曲げ、どこの言葉かわからない曖昧な発音や舌足らずで歌う嗜好とベースを同じくするものだろう。これがチャパツやガングロと同じだ、とはいわないが、日本人であることの劣等感が潜在した開国以来の『舶来』志向という面で共通だ、といえば『アーチスト(!?)』とそのオッカケたちから反発を食らうだろうか。しかしながら、こうすることに、どういう意味があるというのだろう。こんなのを『個性』だと思っているのだろうか。耳にも目にも、ただ汚いだけではないか。自分の歌に自信があるのなら、こんなマヤカシやコケオドカシは必要ないだろう。髪の毛が黒くても、肌の色が黄色くても、立派な哲学を持ち正しい日本語で話し歌えば、世界の誰もが尊敬してくれるのだ。瞳まで青く染めることはできまいに。
 ついでにいわせてもらうと、あるテレビ局のプロ野球中継では、選手紹介画面で他の部分が全部日本語なのに、年齢だけを『age』と表記している。これは一体、何のつもりなんだろう。今やテレビはすっかりミーハー指向になりさがり、何が正しい日本語表記なのか、とっくに見失ってしまったものとみえる。
 基本的に漢字文化の国である中国や韓国にもローマ字表記があって、プロ野球選手の背中や、今年のサッカーワールドカップでもそれは見られた。しかし、中国と台湾では表記が異なり、仕事で名刺を交換する韓国の人には統一されたものがないようにみられる。もちろんこれらのローマ字を、直ちに正しく発音することは異国人には困難である。現に、IECECという大きな国際エネルギー学会でチェアマンを務めた台湾の大学教授が報告者を紹介するとき、
『Souichirou Takayanagi』(高柳総一郎)
が読めず、グジャグジャと口籠もった挙げ句に立ち往生してしまったことがある。これほど極端でなくとも、彼らは一様に、ローマ字で書かれた日本の固有名詞を読むのに苦労している。見ておわかりのように、やたらと母音が多いのである。ローマ字がお好きな人は、試しに自分の名前を他国籍人に読んでみてもらうがいい。
 ヘボン式ローマ字を英語だと勘違いし、世界中だれでも正確に読んでくれると思うのは、日本人だけの愚かな見当違いである。
『ヘボンとはオレのことかとヘップバーンいい』
 という現実を、もっと知って欲しいものだ。けだし、このパロディがわかる人は、文学者か相当古い人である。ちなみに『ウイルス』という表記も『ビールス』、『ヴィールス』などとあり、植物関係者では『バイラス』という。シクラメンにつくダニはサイクラメン・マイツである。日本語の、何とむずかしいこと。
 それはともあれ、わたしは、このnakkyというニックネームがいたく気に入っているのだ。
 
エピログ
 ニューヨークに対する競争心が強く、自らを『ザ・グレイト・シティ』と呼び、また呼ばれることを好み、何でも大きい物を誇る街、シカゴ。その後わたしは、不幸にして再びここを訪れる機会がない。これから残されたわたしの余命から考えれば、これがわたしの人生の最初で最後のシカゴであった。あの汚く騒々しいループも間もなくなくなったと聞くが、ここで知り合った多くの友人との連絡もいつか疎遠になり、この街もわたしの生活からは遠い異国の一都市に過ぎなくなってしまった。
 それでも今、アメリカ、といわれて先ずこころに浮かぶのは、シカゴの街と人々と、そして春なお浅いミシガン湖畔から舞い上がるタンポポの綿毛である。わたしのシカゴの思い出は、nakkyというニックネームとともに、何時までもわたしのこころに生き続けることだろう。
(この項、終わり)
 
追記:
 今年8月5日外務省が発表した昨2001年度一年間の海外邦人援護統計によると、海外で犯罪被害に遭った日本人は前年に比べて7%増加の8,939人で、1986年に調査を開始して以来、最高を記録したという。この中では、窃盗が未遂を含めて6,832人で被害の大半を占め、強盗とその未遂が1,250人でこれに次ぎ、詐欺とその未遂が581人と、いずれも前年より増加している。
 地域ではアジアが5,989人と前年に続いてトップ、欧州、北米が続く。これらの統計は、もちろん表面に出ただけであるし、最近の大・公使館では少々の被害には門前払いをすると聞く。つまり、これらの海外公館では、自国民の保護を考えてくれなくなってしまったらしい。それでもこの数字なのだ。また、これらの数字は絶対値であるから、日本人が多く行く地域では当然被害の数字も大きくなる可能性もある。更に、被害が大きい危険地域に自覚もなく単独旅行して命を落とす非常識も少なくないから、これらは自殺統計に含めた方がいいかもしれない。
 それはともあれ、最近は国内でも、銀行から出てきた人の足許に千円札をバラ撒き、手助けしようとしたその人の下ろしたての百万円を取っていってしまったり、上着に汚物を引っかけて脱がせ、そのまま持って逃げたりする事件が続発し始めた。この手合いに対しては、この『旅の話』のページ、『旅の支度チェックリスト』の最後の項を読んで注意し対処して欲しい。国内でのこの種の犯罪手口が国際的になってきたことを、肝に銘じて行動して欲しいものだ。

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