営業日誌


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2011年4月より、『営業日誌』ブログ化いたしました。
こちらからどうぞ。

3/31 災厄の月の終わり・そしてちょっとしたお知らせ
3/17 計画停電日記
3/12 震災被害拡がる
3/11 東北太平洋沿岸地震起こる
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3月31日(木)

 いろいろな意味で大変な3月でした。東日本大震災で亡くなったかたがたはもとより、住む家や家族を失ったかたがた、もちろん生涯忘れ得ぬ衝撃を受けられたことでしょう。原子力発電所が大変なことになった福島の人々も、直接的な放射線被害に加えて、さまざまな風評被害によりさんざんな想いをなさっていることと思います。何万人というオーダーの人生が、一瞬にして大きく狂ってしまいました。
 しかしとにかく、生きているのですから、これからも生き続けることが大事です。作物が全部出荷停止になってしまった福島のお百姓さんが、前途を悲観して自殺したというような話も仄聞しましたが、早まったように思われてなりません。今がどんなに苦しくても、生きてさえいればまた陽の当たることもある筈です。
 関東大震災のあと、「復興にまさる供養なし」という標語が流行ったそうですが、まったくその通りだと思います。およそ一世紀を経て、同じ言葉が俄然生彩をおびてきたような気がします。なお、「復興」という言葉自体も、その時に世に広まったようです。「復旧」を超えて、あらたな世の中を興そうという、意志と希望と祈りが込められた言葉だったのです。
 生き残った者が生き続け、希望を持って新しい世界を創ってゆくことこそ、亡くなったかたがたへの何よりの慰めとなることを私は疑いません。日本は何度でも蘇ります。

 とにかく、マグニチュード9.0という世界でもワースト5に入る巨大地震をまともにくらって、死者が1万人台(現在の行方不明者を全部ひっくるめても2万人台)で「済んでいる」というのは、世界的に見れば驚愕すべきことなのです。スマトラ大地震の時のように20万人くらいの死者が出てもおかしくはありません。
 地震で倒壊した建造物もごく少なかったようです。やられたのは大半が津波のせいであって、これはまた別の話でしょう。15メートルだか20メートルだかの津波が押し寄せたというのは、たとえて言えば4階建てとか6階建てとかのビルが、横一線に一斉に倒れてくるのに等しいわけですから、揺れには耐えられてもこれにはひとたまりもないでしょう。こんな巨大津波はほぼ千年ぶりで、さすがにそれを予測できなかったことを責めるわけにはゆかないように思えます。
 原発も、揺れそのものは想定内でおさまっていたという話で、今のようなえらいことになったのはやはり津波が直接の原因ですから、本当は震災というより津災(しんさい)とでも呼ぶべきなのかもしれません。
 建造物の耐震性については、やかましく言われていただけのことはあって、見事に成果が顕れたと私は思います。詳しい検証はこれから専門家の皆さんにお願いしたいところですが、日本の耐震技術がとてつもないレベルのものであったことは、はっきりと証明されたのではないでしょうか。震災のせいで日本の信用ががた落ちになったと心配する人が多いですが、おそらく他の地震多発地域で、これから日本の耐震技術はおそらくひっぱりだこになることでしょう。
 原発については今のところ楽観はできませんが、もしこれをうまく収拾することができれば、これまた多くの原発利用国から参考にされるに違いありません。その意味でも、関係者にはなんとか頑張っていただきたいものだと念じます。
 数年間は苦しい時が続くかもしれません。しかし、われわれにはそれを乗り越える叡智が備わっていると信じています。

 東北の惨状をテレビなどで見れば、関東地方の停電などは大したことではないかもしれません。

 ――停電のせいで、首都圏の人々が被害者意識を持ってしまい、本来の震災被害者へのいたわりを忘れてしまうのではないか。

 という、うがったようなひねくれたような観測を述べる論者も居たようですが、いまだに連日のようにテレビで流されている惨状を見せられながら、自分らのほうが苦労しているなどと思う人はほとんど居ないでしょう。日本人はこの論者が考えているよりは、もう少し思いやりを持っている筈です。
 確かに最初の数日は混乱しました。人々は怒りの声を上げました。ただ、多くの人々が憤っていたのは、情報の発信が遅すぎ少なすぎ、なおかつ整理されていないということについてであって、停電そのものはやむを得ないことだと考えていたのが大部分ではないでしょうか。
 5つのグループが何サイクルか繰り返されるうちに、だんだんと落ち着いてきたように思われます。また、節電の考えが行き渡ってきて、最近は停電が回避される日が多くなりました。東京電力のホームページにある電力使用状況グラフをよくチェックしているのですが、ほぼ毎日、ピーク時でも供給可能量の90%くらいで推移しており、去年の同時期に較べると80%以下の電力需要で済んでいます。これから野球のナイターが始まったり、ディズニーランドなど大規模なアミューズメントが再開したりすればどうなるかわかりませんが、一般の人々は、電力少なめの生活に徐々に馴れてきているように見受けられます。店の看板は別にネオン煌々でなくても構わないし、店内の照明が多少暗くてもそんなに困りません。

 ――なんだ、結構これでも大丈夫じゃないか。

 と思う人が多くなってきました。
 堺屋太一氏によると、人間には本来、「有り余っているものを大量に使うのは格好の良いことだ」という「雄々しい価値観」と同時に、「足りないものを節約するのは正しいことだ」という「優しい英知」が備わっているのだそうで、電気が足りないとなれば、節電が正しく、電力を多く消費するモノやコトは「不正」と見られるようになるのが自然の流れというものです。節電の我慢がいつまで続くものやら、と皮肉に眺めている評論家なども居ますが、一旦それが「価値観」となってしまえば、「我慢」という不自然な心性からは遠ざかるでしょう。製造業の不振を心配する向きもありますが、これからのトレンドは省電力製品となってゆくに違いなく、それに気づいたメーカーは有卦に入るかもしれません。個々に見れば、発想を切り替えられないメーカーは落ち目になるでしょうから、没落する人も多く出そうですが、トータルで見た場合の日本の底力は、決して失われていないと思います。

 大変な時こそチャンスは多いとも言えます。その意味では、「自粛ムード」がいつまでも続くのは感心しません。むしろ新しいことを始めてみてはいかがかと思います。
 前にも触れた宝永の大地震の時は、直後に富士山の爆発があったりもして、世間全体が恐れおののき、すべてが自粛ムード一色となりました。幕府さえも派手なことを控え、倹約を徹底しましたので、長期にわたる不景気となり、すぐ前の時代である元禄の華やぎはもはや二度と戻ってきませんでした。この歴史的教訓を無駄にすべきではありません。
 実際、関東大震災の時には無駄にしませんでした。復興院総裁となった後藤新平は、すかさず帝都大改造計画をぶちあげ、復興需要の喚起と共に、人々の希望をかき立てたのでした。あいにくと後藤の構想が遠大すぎて、実現したのは銀座周辺の街造りだけでしたが、ともかくすみやかに花火を打ち上げたということが重要でした。
 そういうことができる政治家を考えてみると、どうも石原慎太郎氏くらいしか思い浮かびません。4回目の都知事になるよりも、復興の牽引役として、後藤に匹敵する大構想をぶち上げて貰うほうが、ずっと有効ではないかと愚考いたします。

 私の家は、揺れは大きかったものの被害はごく軽微でしたし、計画停電の区域には入っているものの実際に停電したのは3、4回でさほど不便していませんし、まあ文句を言ってはバチがあたるような状態です。
 ただ、地震のあと、いろんな仕事がキャンセルになったのには少々参っています。
 印税・著作権収入とか、作曲編曲料などは、不安定な上に僅かなもので、私の家計は、ピアノや合唱の指導とか、演奏会の出演料とか、言ってみれば日銭頼りです。
 地震以来、合唱指導が2回、作曲の指導が1回、それに演奏会が1回キャンセルになったもので、正直なところ一ヶ月の食費分くらいの収入が入らなくなってしまいました。間もなく住民税やら固定資産税やら国民年金の保険料やらを納めなければならない時期になりますし、かなり心配な懐具合になっています。
 いろいろなイベントが中止されるのはやむを得ないかもしれませんが、私らのようなフリーでやっている人間としてはたまったものではなく、その意味では二次被災者だか三次被災者だかを名乗っても怒られないかと思われます。
 地震当日のChorus STの練習はさすがに無くなりましたが、翌週は団員が集まりました。声を合わせて歌うと、不思議と元気が湧いてくる気がしたものです。「こういう時だから遠慮する」のではなく、「こういう時だからこそ声を出す」ことが、今後への活力となってゆくのだと思うのです。

 さて、長年この形で書いて参りました「営業日誌」ですが、本日をもって終了いたします
 もちろん、日誌そのものはこれからも続けるつもりですが、最近の更新の不活発さを鑑みると、いちいちホームページビルダーを起動させるのが面倒な日が多くなっているようで、4月からはもう少し簡単に更新できるブログの形に移行しようと思います。次回更新時にブログへのリンクを張る予定です。
 しばらくは新旧ふたつの日誌を並べておきますけれども、こちらの更新はおこなわれなくなりますので、ご注意下さい。
 新営業日誌はブログですので、コメントやトラックバックなどもつけていただければ幸いです。
 今後ともよろしくお願い申し上げます!


3月17日(木)

 今日は寒い一日でした。暦の上ではとっくに春なのに、まるで冬のような空気の冷たさでした。被災して避難所などにおられるかたがたは、充分な暖房も無く、大変な想いをされていることと思います。どうかおからだに気をつけていただきたいと願うばかりです。
 家を失った人々から見れば、計画停電など大したことでもなく、甘受しなければなるまいと覚悟は決めておりますが、それにしても不手際なことが多かったと言わざるを得ません。
 まず、初日である14日(月)の計画が発表されたのが遅すぎました。前日22時を過ぎており、私のような夜更かし人間は良いとしても、すでに床についている人も多かったはずです。マダムはもう寝ているかもしれない両親のために、私が調べた停電時間を一生懸命携帯電話でメールしていました。
 聞くところによると、こんなに遅れたのは、首相が自分で発表することにこだわったためで、それがなければ2時間くらい前に発表できていたのだとか。事実とすればまことにもってけしからぬ話としか言いようがありません。原発事故の対応の初動が遅れたのも、首相が現地視察を強行したために、その応対に人手を取られたせいだという話も聞きます。首相の手腕がどうにも頼りないのはもうやむを得ぬこととしても、せめて現場の邪魔だけはしないで貰いたいと思うのは私だけではないでしょう。
 東京電力もずいぶん叩かれていますが、こちらについては私は、時間と人手が限られた中でよくやっていると思います。いつ放射線漏れ事故が終熄するかもわからない福島の原発への対応に大量の人手を割かれる中、丁目単位のブロック分けで停電計画を立てているのですから、社員はほとんど不眠不休状態ではないでしょうか。まったく頭が下がりますが、それはそれとしてやはり不手際は不手際というものです。

 まず最初にあっけにとられたのは、私の住んでいる川口市は、5つにグループ分けされたうちの実に4つまで名前が挙がっていたことです。隣のさいたま市も同様ですし、朝霞市なんて小さなところでも3つに懸かっていました。

 ――なんだとお? これじゃ一日3時間くらいしか通電しないってことか?

 と一瞬、眼をむきそうになりました。
 もちろんそうではなく、川口市の中に4つのグループ(その後3つになった)に属する区域が混在しているに過ぎません。例えば私の家のあたりは第4グループですし、私がピアノを教えに行っている教室のあたりは第2グループでした。しかし、そういう細かいことは、テレビを見ていてもさっぱりわからなかったのです。あわてて東京電力のサイトにアクセスして、はじめて判明したことです。テレビしか情報源の無いお年寄りなどは途方に暮れたことでしょう。実際、当日の朝ゴミを出しに行くと、同じマンションの人が
 「一体いつ停電になるんだろう?」
 と困り顔をしていました。

 それから、停電とされていた時間になっても、一向に停電にならないのも面食らいました。電力需要を見据えながら実際に停めるかどうかを決めるというスタンスを知ったのも後のことです。なるべく電気の供給を停めないようにしたいという東電の心意気は壮としますが、これも先に言っておいて貰いたかったところです。庶民はまだしも、鉄道会社などにも伝えていなかったので、初日は電車が停まったり、停まっているかと思ったら動いていたり、いつになったら運転するのか駅員も知らなかったり、大変な混乱が起きてしまいました。
 「これじゃ無計画停電じゃないか」
 という声がそこらじゅうから湧き上がったのも無理はありません。その後、なんとか鉄道会社にだけは優先的に電気を回したり、早めに通知するようになったようで、今でも間引き運転や全面運休は多いものの、一応は落ち着きました。

 とにかく福島の原発が一段落しないと、次のステップに進むことができないと思われます。放射線漏れも怖いですが、それは東電の現地職員・自衛隊・警察・米軍など収拾に当たっている人々を信じるしかありません。そちらが片づくまでは、代替エネルギーの調達とか、計画停電の見直しなどの段階には行けないのではありますまいか。地震や津波で大丈夫だったのに、原発事故のために避難せざるを得なくなった福島県の浜通りの人々も口惜しいことこの上ないことでしょう。一日も早く原発事故が落ち着くことを祈らずにはおられません。

 地震以来の日録です。
 地震当日の11日(金)は、晩にChorus STの練習が入っていましたが、さすがに中止となりました。集まれても、帰りの電車が動くかどうかわかりません。団員の中には職場に泊まりになってしまった人も居たようです。
 翌12日(土)は、午前中に散髪をしたのち、いつもの通りピアノ教室に教えに行くつもりでいたところ、生徒全員から「今日は休みます」という連絡が寄せられました。全員と言ってもこの日は3人だけですし、みんな大人です。ひとりはいつもクルマで来ますが、道路が混雑しているし、大地震の翌日でいろいろと用事もあったのでしょう。ひとりはかなり遠方から電車で通っていますが、電車のダイヤが乱れまくっていたので、来られないのもやむを得ません。もうひとりは教室からわりと近いところに住んでいるのですが、かなりぎりぎりになって欠席の連絡がありました。結局教室に出かけなくて良いことになり、夕方にマダムと買い物に行ってこの日は終わりました。
 13日(日)「川口第九を歌う会」の練習があり、これは予定通りおこなわれましたので、練習会場の小学校まで自転車で行きました。メンバーの大半は市内の住人ですし、テレビで繰り返し放映される惨状にさすがにみんなうんざりしてきたのかもしれません、かなり出席率が良かったようです。夜は確定申告の書類作りをしていました。
 14日(月)から計画停電が始まりました。私のところは上記の通り第4グループで、午後の時間帯が停電になるということでした。朝の内に税務署に確定申告書を提出してきて、停電時間の少し前にマダムとふたりで自転車で出かけました。停電中はパソコンも使えないしテレビも見られないし、することがないので出かけていようということにしたのです。もっとも、計画停電はこれからどれほど続くのかわかったものではなく、そのたびに出かけているわけにもゆかないでしょう。
 ホームセンターやスーパーマーケットをいくつか訪ねましたが、品物が少ないことに驚きました。特にスーパーでは、お米やパンの棚がまるっきりがらんどうです。トイレットペーパーなども無いようです。輸送経路が破壊されて入荷が無いのかもしれませんが、それよりもどうやら買い占めが始まった様子です。心配なのはわかりますが、少し落ち着いたらどうかと思いました。
 私のところは幸い、お米はつい最近買ったばかりでしばらくはもちそうです。パンはありませんが、代用食としてトルティーヤをけっこう買ってありますし、パスタのたぐいもかなりあるので、当面食べるには困らないでしょう。ただ、トイレットペーパーはそろそろ底をついていて、買わなければならないと考えていたところでした。こんなに品薄では、いつ買えることやら。
 停電予定時間が終わったあとで帰宅しましたが、この日は初日だけあってどこも節電に努めたようで、実際に停まったところは少なかった模様です。

 15日(火)は合唱指導の仕事が入っていましたが、集まるのが大変そうだというので練習は無くなりました。
 また、来週26日に予定されていたちょっとした演奏会を中止する旨の連絡が入りました。とある区の企画した演奏会だったのですが、たぶんお客の安全を確保できないからという理由ではないかと思います。上層部から、中止して欲しいと要請があったそうです。
 しかし、私はこの演奏会のために10曲ばかり編曲をおこなっていましたし、すでに一度演奏者が集まってリハーサルをおこなっています。普通こういう場合はなんらかの補償があるものですが、形式的に「共催」という形であったためか、補償も出さないというので少々むっとしました。中止ではなく、来年度の事業として延期という形にして貰うように交渉して、この問題については決着しました。
 なんだか用事がどんどんキャンセルになってゆくようで、暇ができるのは良いとしても、私のようなフリーの人間にとっては若干生活が心配になります。
 この日は晩に板橋区演奏家協会の役員会がありました。東武東上線などおそるべき間引き運転(夕方ラッシュ時に一時間2本の鈍行が走るだけ)になっていましたが、私はもともと自転車で行き来しています。30分ほどかかりますが、それでも電車で行くより速いのでした。それで問題なく出席できました。他の人も、なんだかいつもより出席率が良いくらいで、意外と集まっていました。
 「な〜んか、妙に暇なんだよね〜〜」
 と言い合っていました。音楽家仲間も、みんな多くの仕事がキャンセルになっているようです。
 なお、この日も私のところは実際には停電がありませんでした。

 16日(水)は上記の演奏会のリハーサルが午前中に入っていましたが、演奏会自体が無くなったので、もちろんリハーサルもキャンセルです。それで午前中、またマダムと一緒に買い物に出かけました。
 ミネラルウォーターなども買う本数を制限され始めているようですが、私のところは近くのスーパーで浄水を貰っています。ご存じとは思いますが、最初にボトルを購入すると、その後は何回でも無料で店に設置してある浄水器から水を汲めるというシステムです。そちらのほうはまだ制限されていないようなので、まずは水汲みをしようとその店に行ったところ、この日は朝に停電の予定だったため、まだ開店していませんでした。1時間以上あるようなので、他の店で用を済ませてからもう一度行ったところ、入口には長蛇の列。間もなく開店しました。さしあたり水汲み以外の用事はその店には無かったのですが、私はふと思いついて、中に入るや否やトイレットペーパーの売り場に走りました。バーゲンセールのような騒ぎではありましたが、なんとか入手。「ひと家族ひとパックでお願いします」と店員が叫んでおり、レジでいくつか没収されている人も居たようです。
 午後はマダムが仕事に出かけました。マダムはフランス語の学校にも通っているのですが、学校は地震以来ずっと休講しています。だから、マダムはこの日の仕事で、久しぶりに電車に乗ることになりました。ちなみに私はまだ地震以後電車に乗っておりません。この日も夕方から板橋に行く用事があったのですが、もちろん自転車です。

 今日、17日(木)は、私は特に用事が無い日でしたが、ついに停電が実施されました。しかも最終時間帯の18:20〜22:00です。いちばん電力需要が多くなる時間帯であり、電気が停まるといちばん困る時でもあります。しかし、最初に書いた通り今日は肌を刺すような寒い一日だったので、朝から暖房などのために電力需要が上がってしまい、もはや猶予が無かったと思われます。
 マダムはまた仕事で午後出かけましたが、もし停電が実施されたら連絡を取って、停電していない隣町の赤羽で落ち合って夕食をとることにしていました。
 18時過ぎた頃、パソコンの電源を落とし、電灯や換気扇のスイッチを切り、コートを羽織って、玄関の灯りだけ点け、本を読んでいました。
 20分になっても灯りは消えません。しばらく待ちましたが、停電する気配はないようです。どうなったかと思ってテレビをつけてみましたが、どうも要領を得ません。なんだか眠くなってきました。
 うとうとしかけた頃に19時のニュースが始まり、始まったかと思うとテレビが急に切れてしまいました。玄関の電灯も消えて、家の中は真っ暗です。とうとう始まったようです。
 家の外に出ると、マンションの非常灯だけは、電源が違うのか点灯していましたので、その下でマダムに携帯メールを打ち、自転車に乗って出かけました。
 うちの近くは高層マンションが多いのですが、それらが真っ暗に静まっているのは異様な雰囲気でした。交差点の信号機も消えています。慎重に渡らないと、すでに停電時の交通事故で死者が出ています。比較的大きな交差点では、警官が出て交通整理していました。
 街灯も全部消え、かすかに非常灯がともっているビルがあちこちにある程度で、なんだか廃墟を歩いているような気がします。もちろん歩行者や自転車、クルマは沢山動いているのですが、建物から灯りが消えるだけでこんなに寂れて見えるものかとあらためて驚きました。
 東京都埼玉県を隔てる荒川にかかる橋を渡ります。埼玉側の土手を過ぎて橋にさしかかると、橋の上の街灯はあかあかと点いていました。ぎりぎりまで東京都側の電気を使っているようです。
 振り返ると、「アド街ック天国」「埼玉のマンハッタン」などと呼ばれていた川口の高層ビル群が、いずれも黒々と寝静まった感じで、何やら荘重な気分になってきました。空を見ると、いつもは見づらい星々がよく見えます。なんとなく、

 ――こんな日がたまにあっても、いいんじゃないか。

 と思っている自分に気がつきました。現代の都会は明るすぎるのではないでしょうか。夜は本来暗いものではなかったか。私が子供の頃は、まだ時々停電がありました。人間は「闇」を忘れてはいけないような気がします。

 停電時間帯が終了する22時の少し前に、食事を済ませたマダムと私は再び橋を渡りました。
 22時10分前ほど、前方の真っ暗な高層ビル群に、一斉に灯りがともりました。街が生き返るさまに、私は思わず知らず感動を覚えてしまいました。


3月12日(土)

 何百人という死者が発生しているわけではない、と昨日書いたのですが、なんだか時を追うごとに犠牲者が増えており、慚愧に堪えません。何百人どころか、すでに4桁に及ぶ死者・行方不明者が出てしまったようです。
 最初の大揺れの報道の直後は、火災もそう出ていないようだし、家屋倒壊などもさほど起こっていないように思えたのですが、度重なる大きな余震と、何より津波によって、どんどん被害が拡大してしまいました。火災もかなり発生したようで、建物が津波に洗われながらなおも燃えているのを見て、不思議な気がしました。
 ついには原子力発電所にも被害が出始めて、炉心融解の可能性があるとか。それがすぐにチェルノブイリスリーマイルのようなことになるとは思えず、いたずらに怖れる必要はないのかもしれませんが、充分な注意と迅速な対策が必要なのは確かです。
 地震の名前も、気象庁の命名で「東北地方太平洋沖地震」となりましたが、被害が拡がるにつれ、「東日本大震災」と呼ばれつつあるようです。太平洋沿岸ばかりか、長野・新潟あたりでも震度6の大揺れがあって、もはや東日本全域が被災地と言うにふさわしいような状態になってしまった以上、その呼称が妥当かもしれません。
 被害の大きかった気仙沼陸前高田の様子は、テレビの画面で見るだけでもまるで激戦場のようで、街があったとは信じられないような惨状になっています。松島の航空自衛隊基地は水没したとか。つい2ヶ月半ほど前にあのあたりを歩いてきたばかりだけに、他人事とは思えません。

 私の住んでいるあたりでは、軽い余震が続いてはいるものの、ほぼ平常な状態に戻りました。もちろん、交通機関などはまだ充分に復旧しておらず、昨夜なども何時間も歩いて帰ってきた人も多かったようですが、とりあえずは落ち着いた観があります。
 拙宅について言えば、積んであった雑誌が崩れた程度で済んだということは昨日書きましたが、停電もせず、断水もせず、ガスは一時止まったようですが私の気づかないうちに復旧したらしく、ほとんど生活に支障の出ることが無かったのは、本当に神様に感謝すべきところです。埼玉県の他の地域とか、東京神奈川・山梨あたりでも停電がかなり長かったというような話を聞くと、うちが全く無事であったのは奇跡的だったような、何やら申し訳ないような。多少は義捐金でも出さないことにはおさまりがつかないかもしれません。
 ともあれ、亡くなったかたがた、家を失ったかたがたはもちろん、帰宅難民で苦労なさったすべてのかたがたにも、謹んで哀悼の意を表したいと思います。

 今回の地震は、日本列島の東側にある日本海溝が、数百キロの長さに渡って一挙に崩壊したことによるものとされているようです。東日本が載っている地殻を北アメリカプレートオホーツクプレート)と言い、そこに太平洋プレートがもぐりこもうとしている場所が日本海溝です。
 もぐりこもうとしても、お互い硬い岩石でできた固体同士ですから、そう簡単にはゆきません。太平洋プレートは後ろからどんどん押されてきますが、北アメリカプレートも頑としてそれを押しのけようとします。しばらくは摩擦力で堪えているものの、ある臨界を越えると、その境目のところが粉々に砕けます。今までぐいぐい押されていたものが、急に圧力を失うので、プレートは反動で跳ね上がります。するとそのプレートの上に乗っている地面は地震に見舞われるわけです。
 日本海溝は北は襟裳沖、南は伊豆諸島沖に達する長い境目ですから、その全域で崩壊が起こったとなると、マグニチュード8.8という、すさまじいエネルギーになったのも無理はありません。
 ちなみにネットなどで、どこかの国の地下核実験が原因みたいなトンデモ陰謀論がささやかれていることがありますが、こんなエネルギーを出せる核兵器はまだ人類の手にはありません。広島型原爆のエネルギーをマグニチュードに換算すると5.5であると聞いたことがあり、5.5と8.8を単純に比較しただけでも、9万倍くらいの差になります。9万発の原爆を一度に爆発させない限り、これだけのエネルギーを解放させることは不可能ということになります。変な噂に惑わされないようにしたいものです。
 ちょっと不気味なのは、日本海溝に由来する今回の地震と、以前からずっと言われている東海地震は、場所が違うという点です。
 東海地震は太平洋プレートではなく、フィリピン海プレートが原因と思われますので、今回のがあったからガス抜きになって発生が遠のいた、などということはまったく無さそうなのです。むしろ誘発されてそっちも遠からず起こるのではないかという懸念があるほどです。
 ただ私が思うに、今回震度5強という揺れを経験した首都圏は、東海地震が実際に起こってもけっこう耐え抜くのではないでしょうか。今回も、北関東では倒壊した木造家屋もあったようですが、ビルが倒れたというケースはひとつも無かったようです。ついこの間ニュージーランドで起こったような悲劇は避けられました。壁が剥落した、天井が落ちたという事件はいくつか起こっているにせよ、その辺は今後すみやかに補強がおこなわれるでしょう。耐震ということがやかましく言われただけの効果はあったということです。10万人の生命が失われた関東大震災から90年近く、われわれの備えはそこまで進化したわけです。
 大きな被害を受けた東北地方のかたがたには申し訳ないものの、首都圏までも強震に見舞われた今回の地震は、遠からず必ず発生するであろう東海地震の、一種の予行演習になったように思えます。こちらも充分な注意は必要とはいえ、決して怖れることはないような気がしてきました。

 すでに海外では、

 ――これだけの規模の巨大地震が発生して、このくらいの被害で済んでいるなど、日本以外の国ではあり得ないことだ。

 という賞賛の声が上がっているようです。他の国だったら万単位の死者が出ていてもおかしくないと思う人が多いのでしょう。
 また、阪神大震災の時にも言われましたが、被災者を含む人々が非常に規律正しく行動していることにも驚かれている模様です。映像を見るとパニックが起きている様子もないし、暴動は愚か略奪すら発生していません。コンビニなどでもちゃんとお金を払って品物を買っています。
 BBCが毎年おこなっている、「世界に良い影響を及ぼしている国・地域」というアンケートがあって、日本は上位常連で、いつも1位タイか2位くらいの位置を占めていました。それがこのところの外交での失態続きのせいか、今年の調査では5位くらいに落ちていました(肯定的評価の率は3位タイだったのですが、中国韓国などで否定的評価が多かったために得失差で5位だったようです)。災害時の人々のふるまいが映像に乗って世界に伝わることで、また巻き返すことができるかもしれません。
 外国の評価はともかくとしても、日本は歴史上大きな不運に見舞われるたびに、より力強く復活することを繰り返してきた国です。その底力は、社会の活力が失われつつあるとされる現代においても、決して無くなったわけではないと私は信じています。


3月11日(金)

 今日の地震はすごかったですね。私は在宅中で、マダムとふたりでちょっとした買い物をしに行こうと思って支度をしている時でした。
 揺れ始めた時は、まさかそんな大地震であるとは露とも思わなかったのですが、なかなか揺れが止まず、それどころかだんだん大きくなるようだったので、これは容易ならぬことだと考え始めました。
 そのうち、棚の上に天井近くまで積み上げられていた雑誌がばらばらと落ちてきました。今までそんなことは無かったので、どうやら私が今まで体験した中ではいちばん大きな地震であろうと思いました。揺れはなかなか止まず、はたしてそのまま沈静してくれるのか、もっと大きな揺れが来るのかがわからないうちは、やはりかなりの不安を覚えました。
 幸い、私の家ではそれ以上の大ごとにはならず、ひとまず揺れがおさまったのでほっとしました。その後も断続的に何度も余震があったものの、本震より強くなることはないでしょうから、一応は安心し、さほどの被害も受けなかったことをマダムとことほぎ合いました。
 台所の戸棚の戸が開いていたにもかかわらず、中の食器類は、多少向きが変わったものはありましたが、外に飛び出て割れるというようなことはありませんでした。本棚にぎっしり詰まった図書類も無事です。
 テレビをつけてみると、どの局も地震特報になっていましたが、津波の警戒を訴えているところばかりで、私の住んでいる埼玉県南部がどのくらいの揺れであったかを知るには、いささか時間がかかりました。まあ、津波はこれから必ず訪れることですから、まずはそちらを念入りに周知しなければならないのは当然です。
 ようやく各地の震度が映し出されました。埼玉県南部は震度6弱。震源に近い宮城県あたりでは7に達していたようです。
 「うわあ、6かあ」
 と思わず叫んでしまいました。ただし、あとでネットでピンポイントの震度を見てみたら、「県南部」というくくりでは6弱でしたが、私の住む川口市は5強ということになっていました。まあ「5強〜6弱」ということで良いのではないかと。

 6弱にしろ5強にしろ、私が未体験であったことに変わりはありません。
 私は昭和39年生まれですから、ちょうど生まれた年に新潟地震が起こっています。自分の記憶としていちばん古いのは1972年の八丈島東方沖地震だったと思います。それから78年の宮城県沖地震、83年の日本海中部地震、もちろん95年の阪神大震災、2004年の中越地震などが記憶に大きく残っている大地震です。
 ただ、自分自身の体験としては、それらのどれも直接には知りません。新潟地震は生まれた年とはいえ、誕生の2ヶ月前に起こったものですし、他の地震も、多少の揺れは感じたものの、いわばニュースとして知ったに過ぎません。ともかく、私がこれまでに体験した最大の震度は4でした。うまく大地震を避けて生きてこられたと言えます。上記の大地震を、ふたつ以上体験した人だって、少なくはないでしょうから、幸運であったと思います。
 今回も震源から遠かったとはいえ、この震度はもはや「大地震を体験した」と言っても大言壮語にはならないのではないでしょうか。

 地震のエネルギーの大きさであるマグニチュードは、最初8.4と発表されましたが、その後8.8に上方修正されました。
 いま地震の年表をざっと見てみると、8.8というのは日本史上最大であるようです。
 もちろん、古い時代のものは推定値に過ぎないので、確実とは言えませんが、とりあえず過去最大と思われるのは1707年の宝永の大地震で、この時はマグニチュード8.7だったとされます。
 前にも書いたことがありますが、マグニチュードの数値はルート1000を底とする対数です。つまり、マグニチュードが2上がるとエネルギーは1000倍になることになります。この計算で行けば、宝永の大地震の8.7と、今回の地震の8.8の差である0.1というのは、1.4倍ほどのエネルギー差に相当します。過去最大の大地震であった宝永の倍とは言わないまでも、ほぼ1倍半に近い規模ですから、どれだけ大きかったかがわかります。
 ちなみに関東大震災のマグニチュードは7.9、阪神大震災は7.3だそうです。マグニチュードはあくまでエネルギーの大きさで、地表での揺れの大きさや被害の大きさとは違います。同じマグニチュードでも、震源が浅ければ揺れは大きくなりますし、人口密集地で起こればそれだけ被害が大きくなります。今回震源に近かった宮城県あたりでどの程度の被害が発生しているか、まだ検証はこれからと思われますが、何百人という死者が発生しているようではないので、まずは「大震災」というほどのことにはならなさそうで安心いたしました。もちろん、少数とはいえ亡くなられたかた、お怪我をなさったかたに対しては心よりお悔やみ申し上げます。

 我が家では雑誌が崩れたくらいで、もともと震災に遭ったみたいな雑然とした部屋でしたので、さほどのダメージも無く済んだのを確かめてから、予定通り買い物に出かけました。
 近くの小学校からは、迎えに来た親に付き添われた小学生たちが、みんな防空頭巾をかぶって出てきていました。公園などに一時避難していた人もけっこう居たようです。
 いくつかの店はブラインドを下ろして営業を中止していました。角の美容院では、店員も客も、店内のテレビに釘付けになっていました。
 消防車が停まっているのを2箇所で見かけました。火災は起こっていないようですが、商店街で壁の崩落した建物があったのです。片方は3階から崩落した壁が、1階の煎餅屋の日除け幕の上に落ちていました。もう片方は4階あたりの壁で、こちらは途中で遮られることなく、地面に激突して粉々になっていました。下に人が居たら大惨事になるところでしたが、幸い怪我人は居なかったようです。
 川口市は埼玉高速鉄道の地下路線を掘る時に、実際に掘ってみたら予想より地盤がゆるかったので、補強工事のため開通が1年遅れたという土地で、決して地盤が強靱な地域ではないのですが、建物の被害がその程度のもので良かったと言うべきでしょう。東海大地震の恐怖でさんざん脅かされてきた関東地方の耐震施工は、充分にその威力を発揮したと言うことができるかもしれません。
 なんと言っても火災がごく少なかったのは良かったと思います。15時ちょっと前という、あまり火の気を使わない時間帯だったのが不幸中の幸いでしょう。

 交通機関はほぼ麻痺しているようです。私のところは幸いふたりとも在宅していましたが、たいていの人は勤めに出ている時間帯で、帰宅が大変なことでしょう。また、家族と連絡が取れずやきもきしている人も多いと思います。くれぐれも落ち着いて、冷静に行動していただければと念じます。

 宝永の大地震の49日後、富士山が噴火しています。今回は場所が違うので、同じ経緯をたどるわけでもないでしょうが、ここしばらくは、何か二次的な大事件が起こらないかどうか、警戒が必要かもしれませんね。


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