本田靖春著『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社2005年2月刊)抜粋(526ページ〜531ページ)
「同憂の士」の卓見
この連載のここ数回(第十部およぴ第十一部)、私は正力物にこだわり過ぎている、という印象をお持ち
の方も少なくないのではないか。そういう方々に、ぜひ一読を薦めたい本がある。『表現の自由が呼吸し
てぃた時代― 一九七〇年代 読売新聞の論説」(
である。参考のためコスモヒルズの所番地と電話番号を左に記しておこう。
[〒l02-0072 東京都千代田区飯田橋二−三−一 東京フジピル2F 03-3264-603l]
著者である
は慶応義塾大学大学院修士課程を修了してから記者になったので、年齢は私より一つ上である。
彼が地方から上がってきて社会部の警察回りに出たとき、私は遊軍をやつていた関係で、つき合いとい
うつき合いはまったくなかった。
警察回りを終えた後、
め上げた、その道のベテランである。
元々、学究肌の彼は、専門的知識を深めて、『裁かれる日本の裁判』(エール出版)、『マスコミ報道
の責任』(三省堂)、『米国マスコミのジレンマと決断』(ビジネス社)、『日本ジャーナリズムの検証』(Ξ省
堂)、『Watchdog, A Japanese Newspaper Ombudsman at Work』(コスモヒルズ)、『新聞の病理』(岩波書
店)など、多数の著作を物している。
なお‐司法担当主任の後は、論説委員、新聞監査委員会幹事などを歴任し、退社後は東京経済大学教授
に迎えられたが、先年、ここも停年退職、現在は文筆生活に入っている。いまにして残念に思うのは、読
売に在社中、
もちろん、お互いに面識はあった。しかし、クラブ担当記者は自宅から持ち場に直行し、社に用がある
とき以外は持ち場から直接、帰宅するのが通常なので、本社詰めの私とは部会の折りなどに顔を合わすだ
けである。そのときは、どちらからともなく黙礼を交わしていたが、それ以上には関係が発展しなかっ
た。八十人に近い(現在は約百人か>)社会部という大世帯では、持ち場が異なるとそういうことも起こり
得るのである。
私が、在社中、
代― 一九七○年代読売新聞の論説」(以下、「表現の自由』と略)に接し、読売社内における言論の自由
が、息も絶え絶えになつている状況に心を痛めている「同憂の士」がいたことを知り、そうした問題にお
よそ無関心な遊軍たちに囲まれて、独り精神的な孤独を味わった私にしてみれぱ、退社三十年後に一つの
救いを見た思いがしたからである。
言論の自由を包摂する表現の自由という概念が、民主主義の根幹として明文化されて定着したのは、ア
メリカにおいては一七九一年発効の連邦憲法修正一条においてである。
日本では、敗戦の結果、アメリカの占領政策の一環として導入され、一九四六年に公布された新憲法の
二一条に規定された。
〈さらに「表現の自由」が他の人権と比較衡量された場合、とくに優越的地位を保障されるようになった
のは、アメリカでは一九四〇年の連邦最高裁判決以来だ。その判決で、初めて「表現の自由が生き残るた
めには、息づくゆとりが必要だ」という有名な表現が使われた。その理念は、一九六四年のニューヨー
ク.タイムズ事件連邦最高裁判決で確固たる基盤を得た。その判決は「誤つた意見は、自由な論議に不可
避であるだけでなく、守られさえしなけれぱならない。あぜなら、表現の自由が生き残るためには息づく
ゆとりを必要とするからだ」として、表現の自由の許容範囲を大幅に拡大した。
しかし、日本では「表現の自由の優越的地位」が、憲法上も判例でも、必ずしも確立されていないし、
なによりも、表現の自由の砦となるベき新聞社の内部で、ものをいう自由が十分に息づいていると確信を
もっていいにくい。社によっては、その社論形成過程に携わる人びとに、とくにそうした認識が希薄だと
いえぱいい過ぎだろうか〉
これを読むと、アメリカと日本のあいだの哲学の大きな相違に、いまさらながら深い溜め息が出てく
る。アメリカでは、誤まった意見さえも、自由な論議が息づくためには、守られなけれぱならない、と考
える。そこヘいくと、わが国ではどうか。
政権を長く担当してきた自由民主党は、「民主」主義の基盤を成す言論の「自由」を、本音の部分では
政権運営の邪魔物としか考えていない。
政府与党がそうであるだけなら、まだ救いがある。ところが、言論の府である読売の渡邊恒雄社長(当
時)が、社内の言論の自由は認めない、と公言して憚らないのだから、彼の率いる発行部数日本一の新聞
が、わが国の民主主義を危うくさせているわけで、考えてみるとそら恐ろしいことになっているのであ
る。
〈(読売の論説の)変貌の契機は、現読売新聞社長・主筆の渡邉恒雄氏の論説委員長就任(一九七九年五月)
であり、それ以前との断層が鮮明になつたのはその二年後、同氏が人事権を駆使して社論を一手に掌握し
た一九八○年代初頭といってよいだろう。そしてそれ以来、同社の社論は、実質的に渡邊氏の個人的持論
に収斂され、以来不動である。渡邊恒雄氏自身こういっている。
「……時代は大きく変わつた。その間、私は論説委員長から社長・主筆ヘと変わったが、終始、読売新聞
の社論形成の指標となることを念頭に置いて筆を進めた」(渡邉恒雄著『ポピュリズム批判』博文館新社刊)〉
その結果、読売の社説は次のような問題点をはらむことになった、と
@社論の主筆偏重。実質的に論説委員に論調形成の自由と実権がなぃ。
A社説が論説の枠をはみ出し、ニュース面をも占める。
Bとくに提言報道はアジェンダ・セッティング(報道による意図的な世論誘導)の色彩が強いうえ、社説
とニュースが輻輳し、それらの識別が困難。
読売の体制化を推進した正力松太郎氏は、その晩年において、新聞経営の情熱を失い、代わってエンタ
ーテインメント・コングロマリットの拡大に血道を上げる事業家の相を深めた。そのとき、彼はジャーナ
リズムのあるベき姿さえ見失って、新聞紙面を自分の手掛ける事業の宣伝係ヘと堕落させて、晩節をけが
したのである。
しかし、彼は自民党内閣の閣僚も務めた保守政治家でありながら、私の知るかぎりにおいて、自分の主
張を編集の各部門に押しつけることはなかった。
そこヘ行くと、正カ氏の後、馬場恒吾、務台光雄、小林與三次氏の代を経て社長の座に就いた渡邉恒雄
氏は、確信犯的に自論を論説委員会に強要し、読売新聞の体制化を推進した。実に始末のわるい御仁であ
る。
余談だが、世の中には活字を読まない人が多い。その中で、ほんのちょっぴり物を知っている人間は、
私が読売の出身だと知ると、「え?朝日じゃなかったんですか」などと、失望した声を漏らす。世間で
は、読売の記者はみな体制派と思われているらしい。迷惑千万な話ではないか。
読売の論調が「渡邉社論」ヘと急旋回したのを印象づけたのは「自衛隊の憲法九条解釈」をめぐる社説
だった、と
少々、引用が長くなるが、渡邉社長の言論封殺のありさまがよく描かれているので、その部分を次に引
いておこう。
〈読売新聞の社説は、三権分立尊重の立場から、裁判所による「違憲法令審査権」の積極的な発動を支持
し、そして、政治的判断を重視する「統治行為論」は否定されていた。
茨城県百里基地訴訟でも、一審判決後の社説(一九七七年二月十八日)は「積極的な司法審査権の発動
は、一応評価されよう」と述べている。しかし、渡邊氏が論説委員長になって二年後、一九八一年七月七
日に言い渡された同訴訟の一審判決(東京高裁)では、論調が逆転した。
控訴審判決は、自衛隊の実態と戦力の憲法判断については、高度の政治的問題として司法の審査対象外
とする「統治行為論」を採用した。読売新聞の社説はそれを支持して、「(判決は)第一義的には国会の判
断、終局的には主権者である国民の批判を受けるべきものである、といういわゆる統治行為論の立場をと
ったものである。……立法府は、司法府にゲタをあずけているのではなく、防衛問題についての合意形成
をめざして、国権の最高機関としての役割を果たすべきである」と書いた。
実はこの朝、論説会議に先立って、司法担当だった筆者(
「社説をどう書くか」
「従来は、三権分立の見地から、裁判所に違憲法令審査権の積極的な発動を要望してきたが……」
「それは許さない。國会が国権の最高機関である以上、裁判所といえども国会に従うぺきで、統治行為論
が正しい」
「社論は私の一存で決められない。これまでも会議に諮ってきたが」
「社論を決めるのは私で、会議ではない。君にはこの社説は書かせない」
結局、会議で討議することなく、渡邉氏が自分で決めた「社論」に沿って、この日社説を書ぃたのは、
司法担当外の論説委員だった。