メディアの倫理と説明責任

 

メディアの外形は刻々変化しながら、同時に内部に抱える問題は、常に連続していると実感する。

まさに、原著者が言う通り、「今日のメディアがずっとよくなっているのは確かだが、まだ質は劣っている。…メディアの進歩は単に好ましい変化に止まらない。人類の命運がそれによって決まる。民主主義だけが人類文明の生き残りを保証し、良質なメディアなしで文明人は存在できない」(序論)

かつてメディアは、市民に「無冠の帝王」の権威を誇示していたが、いまはそれをあまり聞かない。むしろ、読者・視聴者側から「アカウンタビリティ」や「品質管理」の責任を問われている。

二〇年前を思い出す。日本で恐らく初めてというメディア倫理専門記者(読売新聞社新聞監査委員、兼調査研究本部メディア倫理担当研究員)に任命され、欧米各国を取材したり、米大学で客員研究に当たったりする機会に恵まれた。そんな折、一九九五年十二月初め、ASNE(アメリカ新聞編集者協会)で倫理問題をリードしていたフェレル・ギロリー氏(当時、ノース・カロライナ州ローリー市『ニューズ・アンド・オブザーバー』紙副主筆)にインタビューした。その際、強く印象付けられた指摘が、次の二点だった。

(1) メディア倫理の第一は、「アグレッシブ」(攻撃的なほどの積極さ)なことだ。

(2) 日本得意の「クオリティ・コントロール」(品質管理)はメディア倫理の大事な柱だ。

当時、日本のメディアでは、人権侵害事件が多発し、その反動として報道が消極的になっていた。また、「クオリティ・コントロール」は、もっぱら産業界が利潤追求の一環として唱えた「QC運動」の色合いが強かった。そこで、アグレッシブとQCの指摘に意外な感を覚えた。

いま本書は、まさに次のように、「書かないメディア」を厳しく批判し、「品質管理」に新しい評価を与えている。微妙な時代の推移に感慨を深くする。

「日本には、少なくとも最近まで、メディアが天皇、在日韓国・朝鮮人、戦中の日本軍による中国人虐殺、『ブラクミン』(被差別住民)、『ヤクザ』マフィアに触れることを妨げる風潮があった。アメリカでは、クメール・ルージュがカンボジアを支配し、数百万の住民を殺し四年間、テレビネットワークが同国に割いた時間は、ABCが一二分、NBCが一八分、CBSが二九分だった。一九七五年から九五年にかけて、チモールにおける虐殺を報道するために、どこかの国から派遣された記者がいたか?」(第U部第2章)

「『品質管理』は今日までメディア世界ではあまり使われない概念だった。だが、それには以下のような利点がある―それは私的倫理、メディア倫理、そして大衆により良く奉仕するイニシアティブを管理側にもたせることを意味する。その魅力は、中立的で、社会的コミュニケーションの主役すべてを満足させることだ。ジャーナリストにとっては、よりよい製品、高い信頼、社会的地位の向上を意味する。オーナーにとっては、日本の経済的繁栄、ひいては、より大きな利益を想起させることになる。最後にいえることは、それは不言実行という点だ」(第T部第1章)

積極的な報道、すなわち情報の自由と高い品質の保持―原著者は民主主義を擁護するそうしたメディアを実現するために、何よりも必用なものとして、メディアの倫理規定とアカウンタビリティ制度(MAS)の役割を力説し、その具体的なプログラムを提示している。

「メディアが巨大ビジネスに変身した昨今、個人の良心は通用しない。法に関しては、裁判官や警察官があまりにもしばしばプレスにくつわをはめて来たため、あまり信頼されていない。そこで、MASの理念に至る―それは、大衆への責任をメディアに負わせる、何らかの非政府的手段だ」(第V部第1章)

原著者の求めるMAS像は、最近とみに現実的かつ広範囲になっている。プレス評議会や全国オンブズマンにこだわらない。こだわるのは公権力による統制と擬似的MASだ。日本の自主規制組織についても、評価の真意は別にして、いくつもMASとして紹介している。

「社内批評家―アメリカでは、数紙が『社内批評家』を雇用していた。日本は一九二二年以来、記事のための部門を設けている。これらいわゆる『記事審査委員会』は各主要新聞に置かれ、通信社や日本新聞協会にもある。毎日、ジャーナリストのチームが、紙面や記事が規定に違反していないか精査している。場合によっては、「投書」を処理し、苦情をさばく。日本の製品に世界的評価を与えた『品質管理』のプレス版をそこに見る」(第V部第1章)

「ただ、初めに注意したいのは、政府代表を含む擬似評議会があり、その目的は報道機関を口封じすることにあることだ。また、準評議会は、一般人のメンバーを欠くという負の条件を抱えている。それらは、よくても、ドイツやオーストラリアのように、発行者とジャーナリストが協調して作ったものだ。もっと多いのは、一つのグループを代表するもので、日本の場合は発行者(訳者注・新聞各社や放送界が設けた人権と報道に関する各種委員会を指す)、フランス語圏ベルギーの場合はジャーナリストだ。本当の評議会はメディアの利用者を含み、それが全委員の三分の一ないし半数を占めるものだ。理想は、そうしたプレス評議会が、プレスを改善させるのに有効なあらゆる手段を利用できることだ」(第V部第1章)

日本のメディア各社には、QC的な紙面審査や番組考査制度が完備されている。さらに新聞には、ここ数年、様々なアカウンタビリティ制度が生まれている。日本新聞協会加盟一一二新聞社・通信社中、三五社に「報道と人権に関する第三者委員会」が設けられた(二〇〇五年八月末現在)。放送界には、一九九七年五月に放送番組による人権侵害を救済するため、NHKと民放により放送と人権等権利に関する委員会(BRC)が設立され、二〇〇三年七月にはBPO(放送倫理・番組向上機構)に統合された。

しかし、課題は、それらが当面の社会的、政治的批判を回避するための対症療法ではなく、真に権力から独立し、読者・視聴者の側に立ち、閉鎖的なメディアの内部を公開するかどうかにかかっている。

内閣記者会の「首相指南書事件」のあいまいな処理や、取材録音をめぐる「朝日新聞対NHK事件」をみるにつけても、日本のメディアにおける倫理の未成熟とアカウンタビリティの閉鎖性は痛ましいほどだ。

首相指南書事件 森喜朗首相の「神の国発言」(二〇〇〇年五月一六日、神道政治連盟国会議員懇談会で「日本の国、まさに天皇を中心にしている神の国であるぞ・・・」と発言)に対する釈明記者会見の前日(同月二五日)、首相官邸記者室(内閣記者会)で、「明日の記者会見についての私見」と題した文書が見つかった。メディア各社の秘密情報や首相へ助言が含まれていた。週刊誌や一部の新聞が報じたが、大半の新聞は無視した。週刊誌は文書の筆者を「NHK記者」と明示したが、記者会もNHKも深く問題にしなかった。

朝日新聞とNHKの確執 NHKが二〇〇一年一月に放送した「問われる戦時性暴力」が、自民党の安倍晋三、中川昭一氏らの圧力で改変されたと報じた朝日新聞の記事(二〇〇五年一月一二日)に対して、両氏から圧力を受けたと書かれたNHK松雄武放送総局長(当初匿名)が反論。事実をめぐって両メディア社の応酬となった。朝日は、事実解明のため、外部識者による検証委員会を設けが、取材の際の一方的録音を禁じる社内倫理規定を設けていて、録音の存在を明らかにしない。「月刊現代」九月号(八月一日発行。講談社)が、録音と見られる会見内容の詳報を掲載したが、朝日の紙面報道は、なおあいまいだった。

「悲しいかな、政府が抗議する人々を黙らせようと動くと、大メディアは慎重に権力所有者の側につく傾向がある。フランスでは、日本同様、メディアは権力乱用を暴くための存在ではない。それはよく、「文芸春秋」のような雑誌や、風刺誌「カナール・アンシェネ」のような週刊の新聞雑誌によって達成される」(第U部第2章)

前記二件では、その詳しい事実が週刊誌や雑誌で報道されているにもかかわらず、その真相は当の大手メディアで十分に伝えられていない。『ワシントン・ポスト』紙は、「クック記者捏造事件」の真相を調べた社内オンブズマン、ビル・グリーン氏の膨大なレポートを余すところなく報じたが、」それは二〇余年前のことだ(一九三頁参照)。その対照はあまりにも際立っている。

本書も、メディアの「本当の障害」を、以下のように社内やジャーナリスト自身の姿勢に見出している。

閉鎖性―ジャーナリズムの職業は、外部からの攻撃はすべて阻止する。それは驚くに当たらない。しかし、自己規律についても、それをほとんど受け入れない唯一の職業と思われる。…この職業では、他の職業同様に、共謀と紙一重だ。「沈黙の掟」は罪人を守る。

権力志向―メディアのオーナーやジャーナリストは共に、自分たちが権力を振るうことを知っているか、あるいは考えている。第四権力、「報道機関」、「メディア帝国」といった概念が好きだし、たとえ情報を公表しなくても、影響力を駆使できると信じている。そうして、その特権を他と分かち合うことは望まない。権力は腐敗する。

傲慢さ―すでに社会的評価を得た人々は、自分たちが間違いを冒すことを認めようとしない。特に大衆の一人から指摘される場合にそうだ。…外部の介入はいかなる場合も聖域の冒涜とみなされる。その聖域では、ジャーナリストが高位の情報聖職者として、自分自身の啓示に従う。・・・編集部内にオンブズマンを導入することに反対するのは、大抵ジャーナリストたちなのだ。(第V部第2章)

この「閉鎖性」「権力志向」「傲慢さ」の三点は、いままさに日本のメディアが問われている核心的習性といってよいだろう。それを除去し、メディアの信頼を高めるためにも、現存の諸制度の改革、および新聞評議会など今後の新設によって、より開かれたアカウンタビリティの進展が望まれる。 

原著者クロード‐ジャン・ベルトラン名誉教授は、たまたま、二〇〇五年十月、 韓国での国際メディア会議に出席した後、初めて日本を訪れる予定になっている。講演や懇談を通して、日本のメディア関係者にじかにMASの必要性を訴える。

本書の出版は、「世界のメディア・アカウンタビリティ制度―デモクラシーを守る七つ道具」(二〇〇三年刊)同様、明石書店の高橋淳、小川和加子両氏の温かい支援と協力なしには実現しなかった。改めて感謝申し上げる。

最後に、くどくどと自説を述べる代わりに、自由と平和への貢献をジャーナリズムに期待して俳句2句をしょうかいさせていただく(太平洋戦争開戦記念日に、かつての全体主義と現在の自由とを詠んだものと思う)。

十二月八日直立不動と言うことを
旅の少年小声にて読む十二月八日 
     日野智恵 

 

 二〇〇五年八月三〇日                   

                                                          

「メディアの倫理と説明責任―『情報の自由』と『品質管理』のためのテキスト」(クロード-ジャン・ベルトラン著 前澤 猛訳。明石書店刊。2005年9月30日) の「あとがき」から