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金沢独立キリスト教会では、一般の成人式の代わりに、キリストの御名によって「成人祝福の祈り」が捧げられます。
今年は、教会の奏楽者を母親に持つクリスチャンホーム2世の青年が、岡田主任牧師の司式により「成人祝福の祈り」を受けられました。
この青年は、現在神戸の大学で学んでおり、基督伝道隊の柘植不知人先生が創立された教会に通っておられます。
岡田牧師は、メッセージの中で柘植不知人先生を導いた宣教師バックストーン先生について話をされました。
「宣教師バックストーン先生は、英国貴族の位もすべて捨て、伝道困難といわれる日本へ、しかも山陰にキリストの愛に燃えて来て下さった。そして、山陰の雪深い町々、村々を草鞋を履いて歩かれた。」
この説教をお聞きした時、草鞋を履いて伝道されるバックストン先生を、まるでこの目で見ているように思えました。
雪の中を歩く素足の冷たさが、私の心に痛みとして残り、イエス様の姿と重なり感動となりました。
礼拝が終わった午後、この礼拝の感動とともに、自分を「卑しい」と思う思いがどんどん強くなってきました。
バックストン先生の心にあるのは、キリストへの愛。
私の心にあるのは自分への愛、利己心、自己中心の思い。
何と卑しいことであるのか。
自分の卑しさを思い、悲しく大声をあげて泣きたくなりました。
そのやりきれなさ、辛さを思うと、イエス様にお会いしたくなり、コートを着て、小立野から旭町に至る坂道を大声を上げ、泣きながら、イエス様を呼び続けました。
雨と風と車の音に消されて、泣いている私に誰も気づきません。遠慮することなく「イエス様、イエス様」と大声で泣きながら呼び続け、浅野川の河原に立ち 「イエス様、私の心をあなたへの愛で満たして下さい。」
「あなたへの愛で私を燃やして下さい。」
と祈りを捧げているうちに、
「イエス様、私は、この卑しい思いを捨てます。」
「利己心や自己中心の思いを捨てます。」
「苦労したくない という思い。」
「この世の平安を求める思い」
「試練に会いたくない思い」
「生ぬるい生活を好む思い」
「これらを捨てます。」
という祈りが私の口から出てきました。
私が、捨てようと思っていたわけではないのに、口が勝手に動いて止まらないような気がしました。
一瞬、私の心に不安が横切り、私のように心身共に弱い者、が、試練の中で生きていけるのだろうかと…。
けれど、すぐ私の口からでた祈りは、
「イエス様私は、あなたの最善を信じます。」
「あなたは、最善以外なさらない方です。」
「あなたが与えて下さるものは、私にとって最善であり、与えて下さらない ものは、必要のないものであり、むしろ害のあるものであることを信じま す。」
という祈りを捧げ、このことを信じました。
そして、私が洗礼を頂いてから10年目を迎え、信仰の生活を振り返り、
「あの思いを不信仰というのか。」
「あの思いを疑いというのか」
「あの思いを反抗というのか」
「これも一緒に捨てます。」
思いつくものを「捨てます」「捨てます」と叫んでいきました。
「聖霊なる神様よ、どうぞ私の心にお入り下さい。」
「私は、今ここにおります、すぐに、このところで、私に聖霊を与えて下さい。」イエス様を呼ぶ声と泣く声だけで、祈りらしい祈りではありませんでした。
そして、最後に
「捨てます。信じます。従います。」
この言葉を繰り返し、
「神が私を決意へ導いて下さったことを信じます。」
「ここに感謝します。」
という祈りを繰り返しました。
そして、帰り道コーヒー豆を買うために、ビール券で食料品の買える商店に立ち寄りました。
コーヒー豆選び、レジで香典返しのビール券を1枚出したところ、数十円の不足とのことでした。
現金を持たずに来ていたので、ビール券を2枚出すと、お釣りは出せないとのことで、やむなく、適当に4〜5品買い足しました。
すると、レジの店員さんが、「凄いですね!凄いですね!」と感心するのです。それは、買い物の合計額が消費税込みでビール券2枚分とぴたり同額だったからです。
当の本人も、びっくりしましたが、その店を出て、はじめて「ああイエス様ですね。」
と気が付きました。
イエス様が、「あなたの祈りは、確かに受け取ったよ。私を信じなさい。あなたが考えつかないことをも私は出来るのだよ。」と仰っているかのように思えて、感謝しながら帰路につきました。
私は、祈りの訓練もされておらず、死んだような信仰であるにもかかわらず、この様な決意へと導かれたのです。
追伸
先日の岡田先生の婦人会の祈りをお聞きしながら、私は、憐れみを頂いたものなのだと思いました。
何故、神が私に目を留めて下さったのか。
何故、神が私に憐れみをかけて下さったのか。
理由は、私の側にあるのではなく、ただ、憐れみを頂いた者なのだ、と感じさせられました。
ぜひ、岡田先生の婦人会での祈りを載せたく思い、テープから起こさせて頂きました。
正子(金沢独立キリスト教会会員)
2002.2.24婦人会での祈り
金沢独立キリスト教会 岡田 主任牧師
あなたは、私どもの教会に、この年厳かに御臨み下さって一人の魂を捕らえて下さって、泣き叫ぶまで捕らえて下さって、泣かずにおれないほどに、叫ばずにおれないほどにあなたの霊を慕い求め、あなたの御霊を渇き求めるようにして下さいました。すでにその時からあなたは、その魂をあなたの手に捕らえて下さったことを信じます。
そしてあなたは、浅野川の河原に呼び出されたことを信じます。
浅野川の河原で、この魂にお会いになったことを信じます。
そして満たされるまで叫ばせ給うた事を感謝します。
ついに、すべて捨てさせるほどまでに、あなたの愛で満たして下さり、満たされることの素晴らしさを、満たされることの
如何に如何なる事にも代え難い事であるかを教えて下さり、それを経験させて下さり、それに比べるなら、これもいらないこれもいらない……。正に塵芥の如きに。
世の人々が眩しく感じている宝石のようなものを塵芥のようにお見せになりました。これは何というすばらしい経験でありましょうか。
神の霊が人の心に、そのように、人の目を開かせ給う。
貪欲なこの世の思いに捕らわれている世界にあなたがお下りになって、その魂を変えてしまう。
これは、何という恵みでありましょうか。
そして、そのように捕らえられた器は、何という幸いなものでありましょうか。あなたは、私共の群れに、それを与えて下さいました。
その証しを、この午後なさせ給いました。
そこに向かって全体が進むようにと、あたかも仰せになっているように感じます。ああ、どうぞ、あのかつての、ひかり教育園の母の会におこった不思議な恩寵の業、更に徹底した、更に深い、更に大きな、その御業に至らしめ下さいますように、心から祈り奉ります。
どうぞこの婦人会に出られた一人一人の方々を御祝福下さい。一人一人の方々の上に、あなたが生ける御手をおいて下さいますように。あなたの祝福ある恵みを注いで下さいますように祈り奉ります。一人一人が、そのようにして満たされることが出来ますように。
聖霊を注がれ、聖霊に満たされた婦人会となることが出来ますように。そうしたならば、あなたは、「聖霊汝らに臨むとき汝ら力を受けん。エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、地の果てまで我が証人とならん」とおっしゃいました。
驚くべき、影響力が、この国の霊界に、注がれることを思います。
二匹の魚と五つのパンを捧げた少年のように、私共は、それを捧げることが出来ますように。
それを驚くべき多くの人々に恵みを満たす業として下さいますようにお願いいたします。
まず私共の家庭を顧み、私共の家族を顧み、どうぞ満たされることが出来ますように、聖霊によって満たされることが出来ますように、どうぞ顧みて下さい。
今日の日の礼拝を祝し、この婦人会を祝して下さったことを感謝いたします。
尊き主の御名によって感謝申し上げます。 アーメン
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