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▼ 30日(金) ベニバナゲンノショウコ・・・咲く
数日前、ベランダの鉢に濃い赤紫の小さい花が咲いた。
忘れていたが、頂いたゲンノショウコの花だった。
その時、「紅い花が咲きますよ」と言われたのを思い出す。
ウエブで調べたら、5月と10月に咲いた花の写真が載っていた。
他の頁には、「ゲンノショウコの紅い花が咲きました。もう秋ですね」と書いてある。
どちらの季節にも合う花だ。
聖書の「野の花を見よ」を読むと、なぜか、ニワゼキショウを思い出す。
小学生の頃遊んだ野原に咲いていた。いわゆる、雑草。
その頃は、「名もない雑草」と思っていたが、長くて立派な名があった。
ベニバナゲンノショウコはそれに似ている。
ただ、私のベニバナゲンノショウコは、写真で見るよりずっと「赤紫」の程度が強い。
ニワゼキショウの清楚さは、「野の花」を連想させるが、ベニバナゲンノショウコは
「マグダラのマリヤ」を思い出させている。何の関連もなく突拍子もない想像です。
先日、『マグダラのマリアと聖杯』を読んだ。
『ダヴィンチ・コード』のタネ本となった有名な本らしい。
正直、あまり面白くはなかった。
ついでに、『ダヴィンチ・コード』の作者ダン・ブラウンの『天使と悪魔』も面白くなかった。・・・私の頭が悪い故です。『レンヌ・ル・シャトーの謎』は面白かったです。
クチナシとカラシとベニバナゲンノショウコの花が咲いているベランダを見ながら、
深まりつつ秋を感じています。
▼ 29日(木) 何度読んでも聖書はいつも新しい・・・再確認
ローマ 15:4 「聖書の与える忍耐と励まし」(新改訳)
ミステリーが好きなので沢山読む。
今年の夏、ある作家にはまり、もう36冊の新書版を読んだ。
もっと読みたいのだが、他のジャンルの本や雑誌も読むので、読みたい気持ちをグッと抑えている。
彼の本の題は大抵が「・・・殺人事件」、紀伊国屋は360冊をリストアップしていた。
題名が同じ様なものばかりだから、題名で、読んだかどうかは覚えていない。
が、記憶が甚だしく悪くなっているのに、幸か不幸か、この手の本は最初の数行で、
その本の結末を思い出すことが出来るので、同じ本を2度読むことはあまりない。
が、聖書はどういうわけか、いつも新鮮。
聖書になると、「アレッ? こんな言葉あったっけ?」となる。
(なぜか、と理由を深く追求する時間はありません)
今朝、心に留まったのは、ロマ書15:4の「聖書の与える忍耐と励まし」と
15:5の「忍耐と励ましの神」。
忍耐に弱い私は大いに励まされました。
私が自分で「忍耐、忍耐」と呪文のごとく唱えなくても、必要なときには聖書が与えてくれる、と聖書自体が約束しているのです。
神様さえも忍耐していらっしゃるのです。
もちろん、旧約聖書では神様の忍耐を嫌と言うほど知らされますが。
自画自賛ですが、この頃、私、少し、忍耐力がつきました。(聖書が与えてくれました)
周囲で展開される事々に、一呼吸置くことが出来ています。
瞬間湯沸かし器で、事に触れると即熱くなり、そして、徐々に冷めるのではなく、瞬間的に冷め、落胆していましたが、「熱くもならず、冷めもせず」の状態が続いています。
いつまで続くか定かではありません。
でも、今、神様に感謝しています。
そして、日々、必要な御言葉に導いて下さる聖霊にも感謝です。
▼ 28日(水) 祈り・・・いつでも、どこでも
聖書に書いてないのだから、目を開けて祈ってもかまわない、と言った牧師がいた。
急いでいるのを理由に車を発進させた後、運転しながら、目を開けて祈る宣教師の助手席に私は座っていた。
当然、歩きながら祈る人もいる。
6月末頃から歩き始めた・・・と言っても赤ん坊ではなく、私が散歩を始めた。
週3−4日歩いていたのだが、この頃は、週2日、それも各15分位の距離。
あまり身体のためにはなっていないだろう。
ゼロより良いかもしれない程度。
今日、歩き始めがきつかった。
歩きたいという気持ちと、歩きたくないという肉体の争いがあった。
顔をしかめて歩いたのでは、すれ違う人に脅威を与える。
心はしかめっ面、顔は穏やか。
心は、「何で歩かなきゃなんないのよ」とブツブツ言っている。
が、ふと、「歩きながら祈る牧師がいたっけ」と思い出した。
考えてみれば、これほど、集中出来る祈りの場はない。
歩くときには、ホント、何も考えていない。大切なことは。
これは良い。
早速、祈り始めた。
普通の祈りだ。
段々集中してくるのが分かる。
そして、心のブツクサが消えた。
一石二鳥とはこのことか。
多分、強制的に穏やかな表情を造らされていた顔も、
自然な造りになっていただろう。
いつでも、どこでも、祈ることが出来る幸せ。
神様は、いつでも、どこにでもいらっしゃるのだから、
「ここで、この時間じゃなきゃダメ」とは仰らない。
そう言えば、黙っている時って、意外と神様と対話してますよね。
▼ 27日(火) ローマ 14:15
「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさな いでください。」
本当に些細なことで人を傷つけていると想う。
なぜ、それが分かるか?
「私も」些細なことで、「傷ついた」と落ち込むから・・・だろう。
「他山の石」という通り、自分が傷つけられたら、「気を付けなくては」と自戒する。
が、本当のところは、相手がどのようなことで傷ついているかは不明なことが多い。
「なんであの人怒ってるの?」とまるで怒っているあの人が悪いかのように裁いている。
私などは、誤解と勘違い・・・私が・・・で大いに「傷ついた−」と日々、刻々、雄叫びをあげている。
ローマ書14章は、何気なく読むと、まるで、小学生の道徳の本のようだ。
何の解説もなしに、21節の「肉を食べないのは良いことです」を読んだ私は、
「明日から(今日ではなく)菜食主義者として生きよう」と単純な頭で決心するかもしれない。手元に良い解説書があれば、このような間違いを避けることができるのだが。
が、生きている限り人を傷つけ、傷つけられ、悩ませ、悩む日々です。
「私が気づかずに傷つけた人の心を癒し、主の完全な平安を与えて下さい」と
祈り、また同時に、「傷ついた私の心も修復して下さい。重荷をあの人に負わせないで下さい」と祈る毎日にしていきたいものです。
▼ 26日(月) カインの心情
ブログにも書いたが、カインの心情にずっと同情し、共感していた。
なぜなら、私の捧げものも、神様は受け入れて下さらないのではないだろうか、と不安だったから。
カインの捧げものを神様が受け取らないのは、神様の御心だとして、ならば、どうしたら受け取って頂けるのか、と考えるのは当然だと思う。
「いいや、受け取らなくても」とふて腐れてもいい。
神様に向かって「勝手にして」と嘯く手もある。
が、「どうしたら」という行動へ踏み出すこと自体が「己の力に依り頼む」となる。
思考停止。
アベルのものが良かった。アベルのものが神様を喜ばせた。アベルを神様は愛された。
何だか依怙贔屓。
哀しいことに、カインがどんなに良い土地からの作物を神様に捧げても、神様は受け取られなかった、だろう。それが、神様の御心だから。
否、カインは地からの産物の最上のものを捧げなかった・・・と聖書に書いてある?、だから神の怒りに触れた。
考えるのが面倒です。堂々巡りになりそうです。
拒否することが神様の御心、と思うより、カインが神様の御心を求めなかった、と解釈する方が人間的には(私的には)安堵します。
よって、・・・と、単純な頭はすぐ、自分への答えをだします・・・私は神様の御心を求める方法を選びました。
足と手が出る前に、鎮まり、御心を求めましょう。
▼ 25日(日) レプタ2枚
今朝のメッセージはマルコ12章のレブタ2枚とは全く関係はなかったが、
どういうわけか、使徒行伝からの話を聞きながら、レブタ2枚を捧げたやもめの女性を
思い出していた。
いな、教会へ行く途中、車の中でも考えていた。
彼女の姿を思い描いていた。
彼女の心情を探っていた。
信仰に勝ち負けはないのだが、「負けてる」と感じた。
私は全てを捧げることは出来ない。
「主のために」と口では言うが、道に落ちているゴミを拾うという簡単なことが出来ない。
今は車で何処にでも行く。
もしこれが、電車の中で、私が非常に疲れているとき、そこに、私より疲れた人がいても、
席を譲ることは出来ない。「私も疲れている」と自分を弁護し、言い訳を考え、正当化す
る。
全てを捧げるとは、主のために生きるとは、を改めて考えるよう示された朝でした。
▼ 24日(土) へんし〜ん
「マッチョメーロ、マッチョメーロ」と歌い出した。
なぜ、これが、そんな歌に変身するんじゃ?と私は内心「怒っている」。
CDを何度聞かせても「マッチョメーロ」になる。
絶対このように歌っている、と譲らない。
本歌は、
What's the matter?
What's the matter?
What's the matter?
I am sick.
What's the matter? Are you OK?
I am sick today.
Oh, no!
(LET'S GO 2)
What's the matter?の部分が小学3年生の男の子には「マッチョメーロ」と聞こえるらしい。
この子は、替え歌の天才で、以前にも「E・I・E・I・O」という歌詞の部分を、
「飴くれなーきゃ、いやいやよー」と連呼し、クラス中に流行らせた。
今回、彼の耳には、「マッチョメーロ」と最後の「オウノウ」だけが印象に残ったらしく、
黒板に大きくこれを書いていた。
暫く、「マッチョメーロ」でいくしかない、と諦める私でした。
▼ 23日(金) 帰り道または家路
今日も仕事をした。
8時頃家路につく。
15分の距離を歩いた。
煮物の匂い、焼き魚の匂い、判別不明の料理の匂いが漂ってきた。
平和を感じた。
万葉集に、
高屋(たかきや)にのぼりてみれば煙立(けぶりたつ)
民(たみ)のかまどはにぎはひにけり .
という歌がある。
繁栄と平和の象徴、かまどの煙。
暗い坂道を降りながらひしひしと空腹を感じていた。
平和でないと空腹は感じない。
空腹を感じるのは、また、平和の印。
この道の途中にイチジクの木がある。
空腹を思いつつ、この木がイエス様の怒りをかったのを思い出した。
道を歩きながらイチジクの木を見ているが、この木は実を付けないのか、
実のある枝を見たことがない、と思っていたら、
数日前、小さな実が2−3個なっているのを発見し、安堵。
あまり歩かないが、歩くといろんな発見がある。
歩きながら祈る牧師もいる。
私も、一人で歩くときには、祈りながら歩き、歩きながら祈りたい。
▼ 22日(木) 道での不可思議
不可思議というより「奇妙」が正解。
今でも、あの4人家族の笑顔を覚えている。
昔、「この道とあの道は繋がっているはずだから」と入った山道があった。
春だったと思う。
走っても走っても、誰にも会わない道で、車が一台留めてあった。
人は居なかったが、「山菜採りでしょう」と連れ合いに言ったのを覚えている。
午後も遅かった。
これ以上走ると、元の道に戻る前に暗くなると考えたので、私たちは引き返すことにした。
が、私は、非常に残念だった。涙をのんで引き返した。
その途中、前方から軽快に走ってくる軽自動車に出会った。
私はその車中を見て、何だかゾッとした。
家族らしいその一団は皆笑い顔だった。
どこへ行くのだろうか。
村や町の名は、この道に沿っては地図に載っていない。
この道さえ、地図上では途中で切れているのに。
もちろん、電灯などもない。
もう30分もすれば真っ暗になる。
今でもその場面を覚えている。
その後、再び、その道を、また途中まで走って諦めた。
道幅が狭く、でこぼこ道。余程心の余裕がないと走れない。
「この道とあの道は繋がっている」と想像した道は、もう1本別の道だった。
いつかまた、あの不可思議な道を走ろうと、考えている。
今度は、誰か人に聞いて、その道の先に何があるのか。
どこへ通じているのかを。
「道」と聞いて思い出すのは、パウロ(サウロ)のダマスコへの道。
イエス様の十字架への道。
エマオへの途上。
アブラハムのカナンへの道。
モーセとイスラエルの民の40年にわたる旅の道。
どこかへの道で神の御使いはよく現れた。
緩くカーブした道と鎮守の森くらいの木々の絵を見ていると、
そこに、立ちたくなる。
そういえば、樫の木の下にも御使いは現れた。
道が途中で途切れていると本当に哀しくなる。
立派に舗装された道が10メートルも行かないうちになくなることがある。
「何のための舗装なの!!」と怒る。
道は村と村、町と町を結ぶと同時に、その村や町に住む人とを結んでいる。
多分、人を求めて道は伸びてきた。これからも、伸びていく。
・・・・シルクロードを走りたい・・・
▼ 21日(水) デフラグ
時々思いませんか?
パソコンをデフラグするように、自分自身をデフラグしたいと。
そして、通り良き管として神様に用いて頂きたいと。
▼ 20日(火) 道が好き
「往きは高速、帰りは一般道」が私と連れ合いの合い言葉。
高速道路は面白みがない。
昨日、帰りの車の中で、私は地図とにらめっこしていた。
国道8号線を走れば少々の渋滞に巻き込まれるかも知れないが、
のんびりとドライブ出来る。
が、それでは、面白くない。
金沢が近くなって一つの道を見つけた。
まだ走ったことがない道だ。
黄色の一般府県道等となっている。
かなり回り道になる、と私は考えたが、連れ合いには黙っていた。
そして、「はい、そこ左折」。
暫く走って、運転交代。
地図を見た連れ合いが「無駄骨。骨折り損のくたびれもうけ」と愚痴っていた。
昔、地図を見ながら、
「ここには絶対に道がある」と考えた。
地図上には細い線もないが、ここにはなくてはならない、と考えた。
山一つ超えれば町と町が繋がる。
人間は、ブルドーザーを利用する前から道を造ってきた。
自分の足で踏みならして。
その道は、お互いの村を結ぶ最短距離の道だった。
どこかの土建業者を儲けさせる無駄はなかった。
だから、「ここには道がなくてはならない」と私は考えた。
(一般の地図では省略されている道は沢山あります)
で、その日から、その道探しが始まった。
何度か、山の中へ通じるであろう細道を行き来した。
標識のない道を、あちらから、こちらから、と試行錯誤の結果、
山の中の町と町を繋ぐ道を見つけたときには、狂喜乱舞、した。
「この道はどこへ通じるのだろう?」と見つめつつ、
少々以上、かなり不安な気持ちで、私にとっては未踏の道を走るのが好き。
そして、頭の中に地図を描くのが好き。
昨日も、黄色の線の道に導かれて出た先で、「なんだ、ここへ出るのか」と安堵した。
実際の地図と現地と頭の中の地図が一致したときには、凄く嬉しい。
人生の道も同じだろう。
平坦な道ばかりでは退屈な人生、と感じる。
高速道路はただ走るだけ。
出発地と目的地を繋ぐ点のみが存在する。
面白みのある道を走りたい。
そして、走り終えたとき、言いたい。
「私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」 創世記 35:3
▼ 19日(月) 神様の祝福と恵み
中村征夫さんの写真展を見に、お隣の富山県福岡町へ行って来た。
往きは高速、帰りは一般道。
時間の差は20分。
殆ど毎年、秋に写真展を見に行くが、どうも、高速を使った記憶がない。
が、なぜか、「往きは高速」が合い言葉になっているようで、「往きは」高速にした。
帰りに一般道を走った。
途中、少々の回り道、寄り道があったが、その時間の差が20分だったので、
「やっぱり、高速の必要は全くない」ことが確認された。
同じ道を、今年の5月の連休に走った。
その頃田圃は田植えの季節だった。
水が張られた田は美しかった。
今日、同じ田圃を見た。
稲刈りは済んでいた。
農家の縁先でくつろぐ老女性の顔に穏やかさを感じた。
刈り入れの済んだ田圃、お年寄りの和やかな語らいを見ながら、
私も幸せな気分になりました。
神様が祝福されている光景でした。
神様の恵みに包まれている情景でした。
竹内敏信、前田真三、岩合光昭、そして、中村征夫と人気作家の写真展を毎年見ることが出来て感謝です。写真集も沢山見ていますが、大画面で見ると迫力が違います。
私が好きな作家の時だけ行きます。
連れ合いにとっては、「この人誰?」ですが、写真館ではとても楽しんで見ています。
時には、トンチンカンな解釈をしてくれますが。
▼ 18日(日) 神様の導き
午後の予定は、当初、二胡の演奏会に行くことだった。
ご近所の中国人の女性が出演する。
前々から、「行きます」と話していた。
数日前、ワールド・ヴィジョンの活動報告会の案内の葉書が届いた。
暫く考えて、こちらの集会に出ることにした。
なんと言っても初めてのことだから、興味がある。
午前の礼拝にワールド・ヴィジョンの方二人が出席された。
午後、私と連れ合いは出かけた。
知っている人は誰も居なかった。
少し遅れて私たちが礼拝出席している教会の牧師が到着した。
活動報告が半分終了し、自己紹介も終わった頃、一人の女性が駆け込んで来た。
以前、同じ教会に居た方だった。
が、それ以上に、私はこの頃、この方にお会いしたいと願っていた。
無理にではなく自然な方法で。
彼女の顔を見て、神様に感謝した。
彼女は娘と同じ病気を持っている。
その病気について、経験者として話しを聞きたかった。
立ち話ではあったが、私の不安を解消するだけの、力強い慰めと励まし、平安を得た。
神様の導きに心から感謝した。
ブログにも書いたが、ワールド・ヴィジョンを通してホワイト・バンドを手に入れた。
子供の死の割合を、3秒に一人から4秒に、5秒に一人の割合に出来たら、神様がしてくださったら、と願い、祈っている。
▼ 17日(土) 普通に感謝
小学3年生と1年生の兄妹が英語と算数を習いに来ている。
今朝、兄の首から、カメラのストラップのような紐に鍵が通されていた。
いつのも光景ではないので、「どうしたの、その鍵?」と尋ねた。
「お父さんに会いに行くんだ!!」と嬉しそうに答える。
終わって、彼だけが残った。
「お父さんとはどこで会うの?」
「お祖母ちゃんの家」
「???」
「だって、お父さん、うちに帰って来ないから」
なんだか、ぼんやりだがわかりかけた。
私が次の言葉を探している間に、
「離婚したから」と続けた。
この兄、妹はとても元気。
まさか、そのような家庭環境とは知らなかった。
周囲でいろんなことが起こっている。
普通に生きることが難しい時代になってしまった。
普通に生活出来るのは、ただ、ただ、神様の哀れみと恵みでしかない。
また、「普通でない」ことが起きても、それも神様の御旨であると信じ、
祈りつつ、御手の介入を待つことが出来る信仰を与えて下さるよう祈っている。
幼い二人の上に神様の導きを祈りつつ。
▼ 16日(金) 牧師のメッセージに感謝
「虫」に関するメルマガを読んでいる。
「顔ダニ」について書かれていた。
遠い昔を思い出した。
その頃、初めて、「顔ダニ」なるものがこの世に、極めて身近に生存していることを知った。「ダニ」=痒い、という公式を私は考えた。「膝が痒い」という方向へ考えは飛躍した。
それから、半年、「膝が痒い」=「ダニがいる」という決意のもと、私は痒い膝をセッセと石けんでこすり、洗った。痒みは一向に軽減しない。軽減しないどころか、益々痒くなる。
ある牧師のメッセージをテープで聞いていた。
「人間、年を取ると肌が乾燥して痒くなります。お風呂では軽く汗を流す程度にして、
石けんで体中の油分を除去する必要はありません。お風呂も毎日入らなくてもいいでしょう」と言っていた。
「痒い」=「ダニ」の公式は覆された。
今度はセッセと痒い膝に油分を塗り込んだ。
そして、膝の痒みは止まった。
幸いなことに、それ以降、痒くならない。
牧師のメッセージに感謝した。
▼ 15日(木) 圧勝ー2
本当は、ブログに書くことですが、今日分のブログにはもう書きましたので、こちらに。
自民党が衆議院議員選挙で「圧勝」した。
連れ合いがそのことにかぶれて、ハエ殺しに「圧勝」した、と意気高々だった。
思い出した。
昔、モルモットを飼っていた頃。
庭に出して遊ばせていた。
余り物事に熱中するとは思えない、ノンビリモル。
彼が、凄い勢いで雑草の根に取り憑き、囓っていた。
その雑草は、夏の暑さと、適度な夕立で1メートルほどに伸びていた。
根元は2センチの太さがあった。
私にも、彼にも、それは邪魔になるものではなかった。
夏の間、雑草と私たち(人間とモル)は、無関係に過ごした。
平和な関係を維持していた。
が、秋の風が吹き始めたある日、モルは雑草の根に猛然と戦いを挑んだ。
何が彼を奮い立たせたのか、誰も知らない。
私たち(人間)は、何事が起こったのか、不思議だった。
その戦いは、モルの圧勝に終わった。
程なく、雑草は「ポキリ」と音を立てて倒れた、ような気がした。
戦い済んだモルは、満足して(動物に感情移入はいけないと言うが、私はします)いつもの自分の居場所に座っていた。
その雑草を食べるというのなら彼の努力と意気込みを理解しますが、
ただ倒すためだけの行動だったら、、「不可解」。
小泉さんも、郵政民営化法案を通過させるための戦いだったら、本当に、「不可解」です。ついでに、「不快」です。
運動会シーズンです。みなさん、「圧勝」して下さい。
▼ 14日(水) 「健忘症」に責任をなすりつけてはいけません
「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」
ローマ 10:21
本当に、よく忘れます。
単なる健忘症とは違います。
喜びの中にあるとき、「あぁ、主の祝福と恵みはいかばかりか!!」
と有頂天になります。
が、失意の底にあるとき、「神はいない。私を助けるものは誰もいない」と嘆きます。
どちらも、同じ状況です。
神様がそこにいらっしゃる、ということでは。
加齢するに連れて益々物忘れは激しくなるでしょう。
神様の存在だけは忘れたくないものです。
▼ 13日(火) 感動、恐竜とご対面
ほぼ、一ヶ月ほど前、お隣の福井県立恐竜博物館へ行って来た。
特別展示の「大空に羽ばたいた恐竜たち展」が目的。
数ヶ月前、『野鳥』に始祖鳥の記事が掲載され、新聞にも何度か、中国で鳥の化石が発見されたニュースが乗った。
私たちは、そこに4時間居た。
昔、メトロポリタン美術館に行ったが、そこには、こんなに長くは居なかった。
絵は好きだが、見ていると、段々、飽きてくる。
その上、ここで、小学2年生だったかの娘が迷子・・・私たちからはぐれたが、本人に迷子の自覚なし、勝手に見て回っていた・・・になったので、1時間位走り回り、疲れたので、美術館を出た、記憶がある。
4時間も何をしていたのか。
ただ、骨を見ていました。化石です。
復元模型もありましたが、なんと言っても、骨には迫力がありました。
骨からは、復元模型にない、「私は生きていた」というメッセージが伝わってきます。
恐竜に「スー」
恐竜に「スー」という愛称をつける気持ちも分かります。
化石には興味があっても、その発掘に関わろうなどとは思いません。
あれ、きつそうです。
そして、忍耐が必要です。
化石を見ていると、「私たちも生きていたことを忘れないで」という言葉が伝わってきます。現在、地球上の王様みたいに振る舞っている人間へのメッセージがあります。
「ぼくらは みんな いきている」という歌があります。
みんな、神様が造られた生きものです。
人間が造ったものではありません。その支配は任されましたが。
人間だけが神様によって造られた、と錯覚しつつ生きている私でした。
いつか、どこかで、誰かが、「かれらは みんな いきていた」と歌う日が来るかも知れない・・・と思いつつ博物館を去りました。
▼ 12日(月) 神様の愛から離れなければ・・・
数日前に「弱い頭」について書きました。
が、弱い頭でも、神様の愛、主イエス様の救いを忘れなければ、
何事も恐れる必要はありませんでした。
自分の罪におののき、おののいた時点で、神様を忘れ、
神様の愛を忘却の彼方へ押しやり、
主イエス様の十字架と復活を力無きものにしている私でした。
パウロも書いていますように、私たちを、主の愛から引き離すものは
何もありません。
離すものは何もないのに、離れていくのです。
愚かな私、と反省しきりです。
▼ 11日(日) 選挙
この国を神様が哀れんで下さることを祈るのみです。
全ては神様の御心です。
淡々と、平常心で受け止めるのみですね。
だけど、何だか嫌な世の中になりました。
▼ 10日(土) 「傘」「鍵」「禍根」
3題話。
ある女性が言った。
傘を持って外出する。
鍵がついている傘立てが設置されている場合には、そこに傘を置くのを常としている。
彼女の息子がそれをしなかった。
故に、というのは論理的でないが、傘を持って行かれた(盗まれた、とも言う)。
息子は、盗まれた傘について、ブツブツこぼした。
母が諭した。
「後で、ブツブツ文句を言うくらいなら、最初から鍵をかけておけばよかったのに。そうすれば、他人を恨まなくてもいいのに」。
ごもっともです。
私はこの女性と同じ様な行動パターンを取る。
連れ合いは息子のようなパターンに類する。
そこで、頻繁に衝突がある。
先日、人間は9種類のパターンに分類される、という話をラジオで聞いた。
第1パターンから順に説明された。
私は確実に第1のパターンだった。
聞いていて背筋がゾクゾクした。
あまりにもピタリだった。
どのパターンが良いとか悪いとかではない。
この9種類の人間がうまく混合されて絶妙な美を醸し出しているそうだ。
不思議なことに(このパターンを説明した女性の言葉)、いつの時代にも、9種類の人口の割合は変わらないらしい。同じ人の数が9種類あるわけです。
不思議でも何でもなく、神様の偉大さを私は思いました。
この人は、こんな行動パターンを取る、と分かれば、「なんで、あの人は、あんなことをするのだろう」とは言えなくなります。ただ、私と違っているだけですから。
クローンなどは、絶対に神様の御心ではないでしょう。
▼ 9日(金) 弱い頭は混乱です−2
「神は、私たちが無意味に苦しませるようなことはなさいません。いろいろ不愉快なことが起こったり、悲しむべきことが起こったとき、「ほら、いつも感謝しないさい、って聖書に書いてあるでしょう。だめなクリスチャンですね。」とか、「ほら、積極的な告白をしなさい。口の告白によって、将来が決まるのですよ。」などとは言われないのです。神は、私たちが受ける苦しみに報いてありあまる栄光を、私たちのうちに用意しくださっているのです。それゆえ、私たちは、今の苦しみを取るに足りないとみなすことができます。」
ロゴス・ミニストリー、「ローマ書」8章後半のメッセージからの引用です。
「ほら、いつも感謝しないさい、って聖書に書いてあるでしょう。だめなクリスチャンですね。」とか、「ほら、積極的な告白をしなさい。口の告白によって、将来が決まるのですよ。」と、他人、特に連れ合い、に対してはもちろん、私自身にも言っています。
これを読んで、非常に落ち込みました。
本当に傲慢で嫌な人間です。再確認しました。
で、暫く、落ち込んだ後、
「落ち込むこと自体、自分で何かを成し遂げようとしていることだから・・・」
「落ち込む必要ないんじゃないの?」と、今度は自己弁護・自己擁護です。
このところ、何が何だかわからない、状態です。
根がしっかりしていないからでしょうね。
昔、昔、カウンセラー講座に参加したことがあります。
その初期の頃、おしゃべりな私は、する必要はないのに、場を取り持つために、
盛んに喋り続けていました。
その時、カウンセラー先輩の女性が訊きました。
「あなたは、自分が本当に話したいことを、話していますか?」
もちろん、自分が話したいこと、心にあることを話しているわけではなく、
口が勝手に動いている、という感じでしたので、彼女の一言はショックでした。
それから、1ヶ月近く、口を開くことが出来ませんでした。
今、丁度、その時の状態と似ています。
が、カウンセラーの講座に参加していたときとは、少々違います。
その頃は、私には指針はありませんでした。
今は、「聖書」があります。
しっかり、聖書を読み、神様との対話を怠らなければ、神様は応えて下さいます。
「怠らなければ」も、自身の力に頼ることになるのでしょうね。
・・・・・・・・・???????
▼ 8日(木) 弱い頭は混乱です−1
「己が全面に出ると、主イエス様の働きを阻害、妨害、邪魔する」というメッセージがある。
「今日は、これだけ沢山聖書を読んだ。」
「これだけ長く祈った」
「多くの人に主イエス様を伝えた」
などなど、深く考えなければ、「まぁ、なんと素晴らしい」と称賛ものだが、
この言葉のカッコの外には、往々にして、「だから私はエライ」という言外の意味があるらしい。
「私の力では、これだけ沢山の聖書を読むことは出来ませんでした。」
的に言わなければならないらしい。
しかし、言葉に出すこと自体が、自惚れている、ことになるので、本当は、誰にも言ってはならない。自分では出来ないことなのだから。
と、言うような意味の文章をこのところ毎日読んでいる。
ふと、マルコ 8:34 を思い出した。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして わたしについて来なさい。」
自分の十字架を負うのは、私なのだから、チョット、頑張らなくてはならないのでは?
でも、このメッセージについても、「私たちの重荷を主が共に負って下さる」が一般的だから、頑張ったり、意識したりして、負わなくてもいいのかな、の辺りから私の弱い脳細胞は混乱に陥ってしまうのでした。同じ脳細胞でもどうも「灰色」ではないらしいです。
聖書な完全。
最初から最後まで統一されている。
その内容に矛盾はない。
と聞くが、本当にそうなの?と言いたくなるときが、度々ある。
聖書は完全で、統一されていて、矛盾はない、が、
それを講釈する人間に問題があるのかな。
その講釈を聞く私にもっと大きくて、沢山の問題があるのでしょう。
神様にお会いしたときに尋ねます。
▼ 7日(水) 負け組・勝ち組
ローマ 8:30
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
1.あらかじめ定めた人々
2.さらに召し
3.さらに義と認め
4.その人々に栄光を与えた
これは並列的に読むのか?
それとも、直列的に読むのか?
一応(?)救われているから、「定めた」人々の類に入るかも知れないが、
第2段階、第3段階、第4段階の部類には漏れている、と考えて、落ち込んでいます。
これは、クリスチャン世界の「負け組」かな、と再落ち込みです。
ある人によると、「栄光を与えた」と過去形で書かれている故、これは、神様が未来から見て、私達にとっては未来ですが、神様にとっては、過去のこと、そう、過去の事実を仰っているのだそうです。
そうすると、私にも希望があります。
神様は素晴らしいです。
▼ 6日(火) 暴飲暴食は身体のために良くないです
数ヶ月前まで暴飲暴食をしていた。
1日に聖書を5〜6章読み、アパ・ルームを数日分読んでいた。
特に、旧約聖書は物語風なので、区切り分まで読まないと落ち着かなかった。
モーセたちが荒野を旅するとき、神様はマナを一日分だけ、確実にその日の分だけお与えになった。それが彼らのために良かったからだ。必要十分な量だった。
暴飲暴食は身体を害する。
私は、時々、聖書を読むのを休んだ。
アパ・ルームも1冊をすぐに読み終わった。
霊的破綻に陥った。
暴飲暴食が身体を壊すように、私は霊的な力、神様からの新しい力を感じなくなっていた。
サマリヤの女を思い出した。
彼女のように「活ける水」を求め、飲ませて頂く必要を感じた。
今は、聖書は1章と、アパ・ルームも普通に読んでいる。
読まなくなった分だけ、瞑想の時間が多くなった。
神様との対話の時間も増えた。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 マタイ 6:34
▼ 5日(月) 「いのちにあって新しい歩みをするためです」
ロマ書6:4
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 Uコリント5:17
わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。 エゼキエル 36:26
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。 ヘブル 10:20
昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。 伝道の書 1:9
ロマ書6章4節を読んでいるとき「新しい歩み」に心が止まった。
聖書は沢山「新しい」ものを私に与えると約束している。
なのに、何だか私は「新しく」ない。
な〜ぜ?
私はかなり頑固なようだ。
聖書が言うところの「うなじの硬い者」に属する。
過去に囚われている。
新しい道と新しい歩みに臆病になっている。
聖書の約束を素直に信じていない。
「新しい天」と「新しい地」が私を待っている。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、
力と愛と慎みとの霊です。 Uテモテ 1:7
▼ 4日(日) 「何もかもはできなくても、何かはきっとできる」
ハリケーン「カトリーナ」の被害状況を毎日TVで見ている。
ニューオーリンズは、昔、昔、テネシーからテキサスに行くときに通過した町だった。
確か、そこで、夕食を食べたと思う。
広大なミシシッピーを渡ったことも思い出した。
数日前、「いのちのことば」という小冊子の9月号を読んだ。
それの、「時代を見る目」にワールド・ビジョン・ジャパンの片山信彦氏が書いていた。
「何もかもはできなくても、何かはきっとできる」と。
この言葉はこの団体の創設者の言葉らしいが、希望を与える言葉だ。
多分、多くの方が、いろんな方法で、いわゆる義捐金を献金されると思う。
個人の場合、その金額は驚くほどには多くはない。例えばニュースで取り上げられるほどには。しかし、何かをせずにはおられない。私に出来ることを。
今朝の礼拝で、彼の地のためにも祈りましょう、と促された。
まず、今出来ることから。祈りから始めます。
▼ 3日(土) カウンセリングを手段をして学んで欲しい
昔、昔、一人の神学生と話していた。
何かの相談をしたのかもしれない。
が、非常にがっかりしたことを覚えている。
「カウンセリング」という言葉はキリスト教界では不人気というか、一種の警戒心を持って取り上げられる。
が、その手段、人間の心に接する手段としては、有効ではないかと考える。
昔、昔、別の神学生とカウンセリングについて話したことがあった。
その時、「カウンセリングで真っ新になった心に主イエス様が入られるように導かなければ」という意味のことをその人は言った。
教会の指導者は、いろんな人からの相談を受ける機会が多いと思う。
私も何度か相談を持ちかけたことがあるが、いつも、相談の中心に行く前に失望してしまう。何とも話の聴き方の下手な方が多い。話を聞かずに、即、意見を言いたがるのが癪に障る。まぁ、忙しいので仕方がないことでしょう。
それに、私も、「問題は人に持っていく前に、主の前に」に徹すればいいことです。
冒頭の神学生も、私の心には全く触れないで、自分の「意見」を言い出したので、早々に切り上げた。新潟地震の被災者に関わった医師が、
「話を聞いてあげることが癒しになる」と言っていた。
「あげる」という言葉は好きではないが、教会の指導者はもっと上手に話しを訊いて欲しいと、秋の気配が見える空を、ボンヤリ仰いでいたら思ったことでした。
因みに、蛇足ですが、私の父は、「お茶淹れて上げましょうか?」と言うと烈火のごとく怒っていた。「お茶淹れましょうか」と言わねばならなかった。これも、昔のことです。
▼ 2日(金) お礼
昨日は自分にばかり焦点を当てて書きました。
少々、恥ずかしいです。
長いことHPを更新しないと、いろんな方からお問い合わせがあります。
思わぬ方かたメールなどを頂き、本当に恐縮しておりました。
体調なども気遣って下さって、本当にありがとうございます。
選挙です。
先程、TVを見ていたら、「地元のためより、国民のため」と言っている候補者がいましたが、地元の人のために何もしない人が、国民のことを考えているとは思えません。
世界の人々の幸福を祈ることは簡単です。
しかし、隣人と仲良くやっていくのは大変なこともあります。
同じ、TVで、この頃「隣人トラブル」が多発しているという話題を取り上げていました。
本当にそう思います。
瞬間湯沸かし器的な私もご近所トラブルで何度も(数年に一度くらい)落ち込み、悔い改め、祈りました。
今思い返して、23年間で3回(3人)、大きな(と、私は感じていた)トラブルを経験しました。トラブルの根を探っていくと、自分の未熟さに到達し、「人生ヤメタロ」的な気分になります。
もし、主イエス様を知っていなかったら、私はこの世にいないかも知れません。
自分を愛し、家族を愛し、隣人を愛し、そして、その愛の輪は世界に広がって行くと思います。もちろん、自分を愛し、家族を愛し、隣人を愛することは、私の努力や頑張りで出来ることではありません。愛の主イエス様から助けて頂かねばなりませんが。
▼ 1日(木) 再決心
7月の終わりに決心したことを、再び繰り返しています。
真面目に書きましょう。
この頃、あまり、頭を使っていません。
何も考えていないようです。
定期購読の雑誌も溜まっています。
パソコン関係の雑誌などは、簡単に読み終えるのに、手を出すのが億劫になっています。
が、図書館から借りた本はセッセと読んでいます。
この頃はまっているミステリー作家の本は、7月中旬からもう20冊は読みました。
寝る前に読むだけなのですが、読み出したら止まらないで、殆ど1冊読み終えるまで眠ることができません。
ミステリーが嫌いな人は、「なんとオバカなことに時間を費やしているのだろう」と思われるでしょう。私の父がそうでした。
まあ、愚痴と言い訳はこのくらいにして・・・。
秋です。
日中の残暑は厳しいのですが、夜と明け方は、涼しいを通り越して寒いです。
何事も主の御心なしには動きません。
ここへ書くのに相応しいネタが途切れないよう、祈りましょう。
しかし、立派なことは専門家にお任せして、私は、「一羽の雀」として、喜怒哀楽を書いていきます。何だか初心に戻った気持ちです。
ここへ書けない間、ブログに手を出してしまいました。
3行位のホントに日記です。日記というより、心を捉えた一瞬の出来事を言葉にしてみました。
気が変わらないうちに、一度お立ち寄り下さいませ。
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