2005年6月              5月へ 7月
 
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▼ 30日(木) 霊的洞察力
 
という言葉がある本に書いてあった。
もちろん、あちこちの信仰書、霊想書などに頻繁に登場し、私も何度も眼にし、
読んだに違いない言葉。
が、今回、特に、私の注意を惹いたのは、
「私も霊的洞察力が欲しい」と、身の程知らずにも思ってしまったからです。
 
 
昔、昔、「あなたには洞察力がある」と一人の神学生(権威付け?)から言われたことがあります。その時には、「それなんじゃ?」と一瞬考えて、その言葉は私を通過しました。
その記憶が「霊的洞察力」を見て甦りました。
 
 
「洞察力」プラス「霊的」なもの。それが「霊的洞察力」。
この力を得るのは難しいのでしょうね。
努力して得られる力でもなさそうです。
やはり、「身の程知らず」な願いでしょう。
「我が恵み、汝に足れり」です。
身の丈にあった願いをしましょう。
 
 
▼ 29日(水) ワカッタ、ワカッタ
 
昔から、何度読んでも「腑に落ちない」という聖書の箇所があった。
が、それがやっと、「腑に落ちた」。
 
 
私にとって、数ある不可解な聖書の箇所の一つは、
マタイ 20:1−15 
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
 
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
 
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
 
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
 
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
 
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
 
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
 
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
 
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
 
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
 
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
 
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
 
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
 
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
 
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
 
 
先日から、田川建三著『イエスという男』 作品社発行
を読んでいる。その本の223頁から、この聖書箇所についての説明、田川建三の解釈が書かれている。
私はそれを読み、長年、私の内に燻っていたモヤモヤが霧散。疑問氷解。
ある人によると、著者の田川建三は「ウルトラリベラル」だそうだ。
読み始めて暫くは、私が普段読んでいる信仰書の類とはかなり毛色が違うので戸惑った。
が、それがまた私には新鮮で刺激的だった。
硬い本をあまり読まない私にも面白い本でした。
 
 
▼ 28日(火) 汚れも罪も頑固
 
例年だったら5月に発生する眼のトラブルが今になって起こっている。
多分、1ヶ月は続くだろう。
30分に1回以上の割で、コンタクトレンズの洗浄に椅子を離れなければならない。
かなり面倒だが、これをしないと、字が読めない。
この時期、コンタクトレンズ洗浄液は携帯必需品となる。
 
 
で、コンタクトレンズに付着したゴミを見、汚れを洗い落としながら、「罪」に連想が行ったわけです。
コンタクトを曇らせる汚れも頑固、「罪」も頑固。
右目(だけです)から止めどなく出現する汚れは、眼の中で、「ゴロゴロ」感じます。
小さな小さなゴミですが、大岩が眼の中にあるようです。
本当にウンザリなのです。
 
 
罪もまた同じ様です。
小さいと感じる罪も、主の眼には大きな罪です。
人間には大海の一滴のような罪も、完全な方には眼の中の梁です。
人間の力では洗い流すことなど出来ません。
その罪を許されていることを感謝し、喜びながら、
「私の罪は本当に許され、取り除かれたのだろうか?」と不審がる私です。
 
 
「不審」は「不信」に繋がっているようです。
 
 
▼ 27日(月) 連想ゲーム
 
昨日、NHKのTVを見ていた。
イヌワシとクマタカを追った番組だった。
普通は、イヌワシか、クマタカのどちらか1種を取り上げるだろう。
贅沢な番組だと思いつつ、食い入るように見ていた。
 
 
両種共絶滅の危機にある。
私は自然界には人間が余り介入すべきではない、と考えている。
チマチマした自然保護には、少々ウンザリしている。
 
 
が、滅びの運命にあった都が、神様の介入によって救われた事実を思い出した。
ヨナの物語だ。絶滅危惧〈都〉だったニネベは救われた。
 
 
そして、私も〈絶滅危惧人間〉だった。
正確には、「危惧」ではなく、主にお会いできなかったら、完全に滅ぶべき人間でした。
主の愛が私を救い、永遠の命への道は開かれました。絶滅から免れたのです。
 
 
と、連想しつつ、クマタカとイヌワシに思いを馳せました。
 
 
▼ 26日(日) 納 得 
 
日曜日の朝の新聞の(ここで、「の」の連続ですよ、という警告が出た)書評欄を楽しみにしている方も多いと思います。
あまり、「読みたい」という本はないのですが、それでも、楽しみに目を通します。
 
 
昔、ある書店で働いていたとき、小さな書店だったのですが、働いている殆どの人が、
「朝日新聞」を購読していました。
皆さん、「書評」がお目当てでした。
 
 
さて、今朝の毎日新聞の書評欄に『横井小楠』(徳永洋著、新潮新書)の書評が載りました。その書き出しを読んで、何だか納得させられました。
 
 
「熊本は論を好む土地である。キリスト教の熊本バンドと、国粋主義の神風連を同時に生んだ。」と書いてありました。因みに、横井小楠は熊本出身です。
私の非常に身近に「熊本出身」の人がいます。なるほど、「論を好む土地柄」の人だったのか、と思わず唸り、納得しました。
 
 
くだらないことで「論」をしても時間の無駄だと分かっていても止められないときもあるでしょう。それが、性格なのですから。
聖書には、
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」 エペソ 429
と書かれています。自戒しましょう。
 
 
▼ 25日(土) 悲痛な叫び
 
何から始まったのか不明。
小学6年生の女の子が叫びだした。
「先生、聞いてよ。」
 
 
私は今まで一度も新しい洋服を買って貰ったことがないのよ。
スキーの板も靴も全部、お姉ちゃんのお下がりなんだから。
自転車だって、やっと今度買って貰ったのが初めてなんだよ。
洋服だって、可愛いのを買って貰えると思ったら、お母さんが、
「可愛い服は○○ちゃん(叫んでいる本人)には似合わないから、お姉ちゃんにしよう」
と言って、お姉ちゃんに行ってしまったし。
(これには、かなり同情しました。)
 
 
と、延々と叫び続けました。
私は、長女なので、下の苦労と悲哀はあまり実感できません。
 
 
が、私と言うか、我が家(過去の)では面白い現象がありました。
私が中学生の頃、「お姉さんが、傘を持って来てるよ」と級友が言いました。
「ハテ?ハテ?誰だろう?」と出てみると、そこには母が傘を持って立っていました。
 
 
それから、数年後、知り合いの人が、
「さっき、お姉さんとそこの店で会いましたよ」
「ハテ?ハテ?母とは家でさっきまで話していたのに?」
今度は、私より一回り大きかった(今も多分大きい)妹のことでした。
私はナンじゃ?と摩訶不思議な存在でした。
 
 
6年生の女の子は、先日、折りたたみの自転車を買って貰いました。
雨の日も、風の日も、と言いたいところですが、
雨模様の日に、新品の自転車で来ては、少しでも雨が降り出すと、
お母さんか、お祖父ちゃんを電話で呼び出し、車で帰っています。
お姉ちゃんより大きくなるように、ミルクを沢山飲んでね、
と、頼まれない忠告をしておきました。
 
 
▼ 24日(金) いつでも、どこででも、礼拝
 
ある牧師のメルマガメッセージを読んでいた。
 
 
創世記、ノアが船を出て、祭壇を築き礼拝を捧げた、ということから、
「さて、この新たな日々の初めに「ノアは主のために祭壇を築いた。」と記され
ています。ノアは、神様を礼拝することで新たな一歩を歩み始めたのです。
1日の始めに主を礼拝する。物事の始めに主を礼拝する。人生の節々に主を礼
拝する。礼拝というあり方の上にこそ、神様の愛の対象として造られた私たち
にとっての真の幸福があり祝福があると聖書は教えます。」(6月23日号より抜粋)
 
メルマガ発行人  平塚修久牧師
メールマガジン名:  心がなごむバイブルメッセージ
マガジンID:    0000161185(まぐまぐ)
 
 
日々、聖書は読みますが、「読まねばならない」「今日のノルマは・・・」的な読み方を
この頃している私にはショックでした。
「家庭礼拝」という位ですから、日々聖書を読み、祈ることは礼拝ですね。
 
 
「家庭礼拝」で思い出しました。
昔、ある、牧師の家に泊めて頂いたとき、家庭礼拝がありました。
まだ、幼い2歳の男の子も参加しての家庭礼拝でした。
とても良い雰囲気でした。
まだ、結婚していなかった私は、「このような家庭を下さい」と祈りました。
 
 
このメルマガを読んだ後、明日からは「礼拝」をしよう、させて下さい、と祈りました。
 
 
▼ 23日(木) 大切なことは紙の手帳へ
 
昔、電子手帳が流行った頃。
電子手帳を頂いた。
使用方法が面倒そうなので、お正月の休みまで放って置いた。
 
 
そして、元旦。
最高に暇な時。
おもむろに箱に入った手帳を取り出し、
取扱説明書の「はじめに」みたいな文章を読み始めた。
 
 
なるほど、なるほど、と読み進み、最後の行に辿り着いた。
が、その行を読んで愕然。
「電子手帳は使わない」と決心させた驚くべき注意書きがそこには1行あった。
いわく、「大切なことは紙の手帳に書くことをお勧めします」。
 
 
情報漏洩、流出があちこちで起こっている。
今朝の新聞によると、原発の事故隠しの「密談」までも流出した。(コワイデスネェ)
情報・データを管理する方々にご忠告「大切なことは紙に書いて残して下さい」。
と電子手帳発行の方が言っておられます。
 
 
▼ 22日(水) 父の思いで
 
一風変わった父だったので、思い出は沢山ある。
その一つが「蚊は噛まない。刺す」。
 
 
集会所を借りて英語を教えている。
右隣は神社、左隣は昨年クマが出たお寺。
(全く関係ないのかも知れないが、昔、働いていた所の左にマクドナルド、右にミスタードーナッツがあった。)
春と秋にはカメムシが大量、どこからともなく出没する。
そして、夏は大きな蚊が飛び込んでくる。
 
 
蚊が出始めた。
中学生の一人が「先生、蚊に喰われた」と叫びだした。
私はその度に「蚊は喰わないの。蚊は刺すの」と、負けじと叫び返した。
昔、私は、「蚊に噛まれた」と言っては、父からこっぴどく「蚊は刺すんだ」と怒られたことを思い出しながら。
 
 
親から虐待を受けて育った子は、親になってから、その子を虐待する可能性が高い、と指摘される。私は親から理不尽に怒られたことも、肉体的な虐待も受けた思いはない。
娘を叩いたこともないし、大きな声で怒ったこともない。
むしろ、大きな声で子どもを叱る母親を見ると、「私にもあんな叱り方が出来るといいのに」と羨ましいこともある。
 
 
一度、父から叩かれた。
ほっぺたを、ビシャリとやられた。
理由は、父が飴玉でも買いなさい、と言って渡したお金で本を買ったから。
当時も今も、面白い本に出会うと、読んでしまうまで動かなくなる。
人(当時は両親)が呼んでも返事もしなくなる。
私としては聞こえなかった、と言いたいのだが。
それでも懲りずに、乱読人生を歩んでいます。
 
 
が、子どもが育つ環境を整えることは大切ですね。
主イエス様に出会っていて良かった、と考えたことは、育児期間もその後も度々ありました。環境を整えることが出来るような環境に置かれていることを感謝します。
環境を整えることが出来ない方を責めないように、また、その方々のためにもお祈りします。虐待される子どもがでませんように。
 
 
▼ 21日(火) 馳せ参じる御言葉に
 
私は、いわゆる、「瞬間湯沸かし器」的なところがある。
・・・ところで、この「瞬間湯沸かし器」っていつ頃使われたのでしょうかね。
昨夜、それで、「大失敗」をした。
と、言っても、私だけが「大失敗」と思っただけだけど。
で、私は、その夜の内に、深く深く後悔し、反省し、悔い改めました。
そして、「信仰により全てを受け止めるとき、全てのことは驚いたり、慌てるに足りない」と「悟った」のです。
 
 
ここで、「導かれたのです」と書かずに「悟った」と書くところに「罠」がありますね。
この「悟り」は暫くすると、もろくも崩れ去るでしょう。
 
 
でも、今朝起こったことは、もし、
「日の下には新しいものは一つもない」(伝道者の書1:9)
を思い出していなかったなら、私は、再び、瞬間湯沸かし器と化していたでしょう。
神様がこの御言葉を思い出させて下さったことに感謝です。
神様の言葉には力があります。
神様の言葉から力と助けを得ています。
日々、御言葉を読み、蓄え、「いざ鎌倉」というときに、馳せ参じてくれるようにしておきたいものです。
 
 
▼ 20日(月) トマトからストレス
 
昔、我が家にモルモットがいた頃。
最初はモルモットフードだけを与えていた。
彼は、それを美味しそうに食べて、満足した、と思う。
次に、藁のような草を買い与えた。
それも、美味しく食べた。
 
 
それから、「モルモットは大食漢でレタスなどは丸ごと一気に食べる」という記事を読み、与えた。「丸ごと」は食べなかった。
葉っぱの柔らかい部分だけを食べて、根っこは残した。
それも、レタスの表面から2−3枚は熱心に食べるが、レタスの芯に近い部分をかなり残した。仕方なく人間である私がそれを食べた。
レタスを食べるのが面倒な人間は、それ以降、レタスからサニーレタスに変えた。
お互いに満足を得た。
彼は相変わらず、根っこ5センチ位は残すのだが、丸ごと食べた。
 
 
何が切っ掛けかは忘れたが、ススキの葉を与えた。
これは大成功だった。
サニーレタスよりも好きらしく、両方を与えるとススキに飛びついた。
が、ススキの葉を採ってくるのは努力を要した。
それに、ススキの葉は夏に茂るので虫がいた。
虫が嫌いな人間はススキ採りにあまり熱心ではなくなった。
 
 
ススキのような葉を食べるなら、竹の葉はどうだろうと、実験が好きな人間は考えた。
キャベツ玉の表面の1−2枚は食べる。堅くで筋がある。
チンゲンサイの葉の部分は食べる。茎は食べない。
ニンジンは食べる。コーンは食べない。
などなど、いろいろ与えているうちに、段々と好きそうな野草が分かってきた。
 
 
竹もススキに次いで大成功だった。
旺盛な食欲を示した。
が、竹採りも大変でした。
竹の葉採りはススキがない冬の仕事。
大雪の朝などは最適な日です。
雪で竹がしなり、道路近くまで降りてきます。
その竹の葉をハサミで切るのですが、慣れない最初の頃は、竹のバウンドで何度も
顔面直撃の目に遭いました。
 
 
と、ここまで、書いて、「私は何を書きたかったのだろう」と考えました。
なぜ、モルモットのレタスを思い出したのか?
トマトでした。
先程、トマトを食べながら、「まだ8個も残っている」と呟きました。
残っているトマトにチョット、ストレスを感じ、昔のレタスを思い出したのです。
人間の(と、一般化するな、と連れ合いは言う)発想、連想は、どこから来て、どこへ行くのか?
 
 
ペットには、「フード」以外のものを与えると、「フード」を食べなくなる、と聞いたのはそれから暫くしてでしたが、もう後の祭り。「フード」は余程お腹が空いているときにしか食べなくなりました。・・・残念!!
 
 
▼ 19日(日) 紫陽花万華鏡
 
教会からの帰り、遊歩道を1時間ほど歩いた。
重い荷物は連れ合いが車で運ぶ。
 
 
遊歩道を歩くのは久しぶりであり、それも、夏のこの時期に歩いたのは初めて。
そそり立つ孟宗竹の間を歩くのは私一人。
落ち葉に吸収されて足音は聞こえない。
ヒヨドリや椋鳥の声がかまびすしい。
 
 
辰巳用水に沿った道。
岸辺に点在する紫陽花の変化に驚いた。
同じ種類なのだが、いろんな花の形、蕾の色、花の色と、まるで品種が違うような錯覚を受ける。
 
 
ボンボンのような丸い花の形も良いが、私は、ガクアジサイに惹かれる。
多分、ここに咲いている紫陽花に目を向け、心を向ける人は少ないだろう。
だが、それらはしっかりと咲いている。
咲き誇るのではなく、時が来ると咲かせて頂きますよ、って感じで咲いている。
ここに咲いていて幸せですよ、って咲いている。
「ソロモンの栄華」について書かれたマタイの福音書を思い出した。
 
 
花の写真を撮るときには、完全な花を選びなさい、と言われる。
以前は、そんなのあるわけないでしょ、と心の中で反論したが、
今は、「花は最高の美しさを一瞬だが人目に現す」を信じている。
それは神様が造られた一瞬。
運が良ければ、神様の導きがあれば、私たちはその一瞬に立ち会える。
 
 
▼ 18日(土) 一声かけたい
 
駐車場に車を入れるとき、ふと見ると、前方にお年寄りが座っている。
項垂れている様子に見えた。
声をかけたいが、かける切っ掛けがない。
即座に祈ったが、状況に変化はない。
彼女は項垂れて座り、私は家に戻らなければならない。
 
 
極力彼女の方を見ないようにしてカギを抜き取り、車を出て、カギをかけた。
振り返ったその目の先に彼女が立っていた。
神様が下さったチャンス。
お互いに知らない間柄だが、日本には都合の良い挨拶言葉がある。
「時候の挨拶」と言われるもの。
自然に言葉が出た。
彼女の笑い顔にホッとした。
 
 
「うなだれている」と思ったのは、私の感情移入のし過ぎ。
彼女は単に、散歩の途中で疲れて座っていたようだった。
 
 
自殺者が3万人を越す社会である。
直接的な原因究明が盛んだが、人間関係の希薄さも遠因になってはいないだろうか。
 
 
「小さな親切、余計なお世話」にならないよう、主に示されることからやっていきたい。
 
 
▼ 17日(金) 小さな親切
 
歩いていた。
後ろから元気な声が聞こえてくる。
22,23,24,25,・・・と数えながら幼稚園の年中さんのような男の子が走っている。
ウン、なかなか元気な現代っ子だ、と好ましい感じでその声を聞いていた。
34,35,36,37,38,39,20!
20が一際大きく響いた。
??? 20?
彼は、21,22,23,24と歩数に合わせて数え続けている。
彼が走る前方に車が駐車していた。
元気な声が途切れて、私と目が合った。
ここで私の老婆心が働き、右手で指4本を立て、「39,40」と教えた。
走り去りながら、確かに「39.40」と言った。
が、再び20から数え始めて、39になり、その次の言葉は20だった。
かなりな、「余計なお世話」だった。
 
 
▼ 16日(木) マケルナ、ソウリ!
 
文藝春秋の7月号に「小泉総理『靖国参拝』是か非か」識者81名アンケートが載っている。「難しいことはわかりませんが」と前置きして、「参拝賛成」と言いたいです。
 
 
元々、私は、以前から、総理と言われる人々は靖国に祀られている方々に敬意を表しているのでもなんでもない、と考えています。
彼らは政治的な道化を演じているだけ。
現在のソウリの姿勢からは、我が儘、頑固、しかし、日や時を変えるので気弱さも感じます。「はっきりしなさい」とも言いたい。
 
 
中国がやたら、ナンノカンノト口を挟むので、「マケルナ総理」と言いたくなりました。
・・・・これがナショナリズムに発展の怖れはありません。
クリスチャンとしては、多分、「そんなことを公けに(一応、このHPは公です)口にしてはいけない」とお叱りを受けるでしょう。
キリスト教界は靖国参拝反対の立場だったと思います。・・・「だから難しいことは抜きにして」です。
 
 
そして、文春を読んで「私に」分かったことは、この問題に正否はないということです。
だから、私に出来ることは、祈りつつ、神様がどのように働かれるかを見ることです。
祈りが最高、最善の方法であり、力ですよね。
 
 
▼ 15日(水) パウロと十字架上で回心した犯罪人
 
二人とも劇的に人生を変えた。
十字架上の犯罪人が天国行きの切符を手に入れたとき、
「オヌシやるな!!」って感じがしないものでもない。
が、大いなる安心を与えてくれる。
「彼さえイエス様は受け入れて下さったのだから・・・」と甘い期待が起こる。
「私は、もっと・・・」と考えるとき傲慢の罪に陥る。
彼も私も神様の目には、同じ罪人。
 
 
ダマスコ途上のパウロの回心には、私は少々よそよそしさを感じる。
「彼は選ばれた人だから・・・」
私は彼のようには選ばれないよね、と隙間がある。
もちろん、私たちは主に見いだされて、主の招きに応じてクリスチャンとされたのだから、
一種の「選び」ではあるのだが。
 
 
使徒行伝(新改訳)のパウロの回心を読むとき、いつも、
「私は十字架上の犯罪人の部類だよね」と滅入る私です。
神様の目からはどちらも同じと分かっていてもです。
 
 
現代にもパウロのような人が沢山います。
その様な人々を見るとき、かなり引け目を感じるのです。
神様の目から見ると、オバカですよね。
聖書にパウロのことだけが書かれていたら「私なんて・・・(ここに涙マーク)」というクリスチャン人生ですが、あの犯罪人に向けられたイエス様の温かい眼差しと言葉を想像するとき、「私も・・・(ここにハートマーク)」って思います。
 
 
▼ 14日(火) 子ども、残酷物語
 
小学2−3年生に英語を教えていた。
一人、始まってから何もしない子がいる。
見ると、グラグラしている歯があって、どうもそれが気になるらしい。
ほとんど、1時間、その歯と格闘していた。
 
 
「今日、○○君は何も出来ない日だね」と声をかけ、仕方ないだろう、と考えた。
他の子は、「作業」をしている。
 
 
終わり頃、お母さんが迎えに来た。
すると、グラグラ歯の男の子の隣に座っていた同級生の男子が、
「今日、○○君は何もしなかったよ」とお母さんに報告した。
お母さんが驚いた顔をした。
 
 
「でも、△△ちゃんは頑張りました」と○○君の妹を弁護した私だったが、
何か間が抜けているフォローになった。
 
 
子どもの世界も厳しい、と感じた日でした。
接している子どもたちから学ぶことは多いです。
神様は子どもたちをも、私を教え導くのに用いられます。感謝です。
 
 
▼ 13日(月) 希望はいのちのことば、にあります
 
☆使徒行伝5:20 「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った。
 
私たちが毎日読んでいる聖書は、この世の希望、この世での助け、導き、祝福、恵みだけでなく、「いのちのことば」だということを、時々忘れます。
目の前の恵みや祝福、健康や経済的なことが支えられていることに感謝するだけで終わっている私の信仰です。
「永遠のいのち」を約束する言葉に日々繋がって生きたい、と改めて思いました。
 
 
☆使徒行伝5:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。
 
「御名のためにはずかしめられるに値する者」ということについて、少し考えました。
考えただけです。
「御名のために」教会の外ではすかしめられ、教会の内で称賛されたら、トントンかな?
とおバカな私の頭は、収支計算をしていました。
 
 
▼ 12日(日) 「この人を見よ」
 
昔、誰かの証しの後で、牧師が「この人のようになれたらいいですね」的なことを言っていた。
何だか違和感があった。
ある日、「この人をこのようにされたイエス様を見上げたいですね」と言った。
胸のつかえがストンと落ちた。
 
 
▼ 7日(火) 主の導き
 
「偶然」でも「奇跡」でも呼び方は何でもいい。
火曜日の午後は5時か5時半頃まで小学生の仕事をし、6時半から中学生に英語を教える。
この1時間位の時間を、大抵は、買ったまま本棚に置いてある問題集を片づけることにしている。
時々は、近くに夕食を食べに出る。
普段は、お菓子1個とコーヒーで済ませる。
 
 
今日は、問題集に取り組むエネルギーも、外へ食べに出る食欲も、おやつを食べる元気もなかったので、散歩に出た。
借りている公民館の周囲を歩こう、というわけだ。
年に1度もしないこと。前回は、多分、3年くらい前に暗くて寒い道を歩いた。
 
 
歩くコースの途中に私達が行っている教会がある。
その前を通り過ぎる時、伝道師にあった。
彼は、何処かへ出かけた帰りで、自転車に乗っていた。
 
 
礼拝後は忙しいので話す暇はない。
が、私にはなんとなく、どこかで、いつかは、「決着」をつけたいことがあった。
電話やメールをするほどのことでもない「懸案」を、30分位の立ち話をして別れた。
伝道師の方も、合うなり、「2件、聞きたいことがある」と切り出されたので、
「どこかで、いつかは」「決着」を付けたいと考えていたと思われる。
 
 
神様は、不思議に、働かれるお方だと、感謝した日でした。
 
 
▼ 6日(月) 「主に持って行くとき」 パート2
 
2日(木)に「主に持って行くとき」という題で、僅かな献金でも主が祝して用いて下さるとき、倍増以上にしてくださる、という意味のことを書いた。
ある人に、信仰書の古本を譲った。
以前は、時々引っ張り出しては読んでいたが、この頃は本棚の下、隅の方でほこりをかぶていた。捨てるのも面倒だった。
 
 
その本を譲って欲しいという奇特な人が現れた。
「渡りに船」とまではいかなくても、あまり悩まないで譲る決定が出来た。
元々、連れ合いが結婚の祝いに頂いた本。
一応、彼の承諾も必要だ。
 
 
少々渋るかな?と思ったが、彼もあっさりいいよ、と快諾。
なんと言っても、私よりもその本を触った回数が少ない。
本棚の肥やし(「タンスの肥やし」の別バージョン)にしておくことはない。
 
 
が、私の決心を最大に後押ししたのは、「主に持って行くとき」である。
あの言葉に触れていなかったら、
「それでもねぇ。自分で買うには高すぎるし。手放したら二度と手に入らないよ」
という思いもあった。
 
 
神様は、丁度良い時、私にも、本を譲って欲しいと言ってきた人にも最善の時を備えて下さった。神様の導きとしか思えない。
譲った本は、神様に用いられるだろう。感謝。
 
 
▼ 5日(日) 礼拝前
 
「乾いた声」というのがある。
 
 
TVを見ていた。
報道番組。
靖国問題を取り上げ、関係者が話している。
彼らの言葉には、「心情」が反映され、聞いている私もいつの間にか。
「分かる、分かる。あなたの気持ちが分かります」と相槌を打っていた。
 
 
ところが、所々で入る男性司会者の声が何とも奇妙で耳障りだった。
彼は、「ボク、進行役」で、話し手の心情には全く感応していない、ように私には思えた。
乾いた事を乾いた声で発生している、と感じた。
 
 
その後、園芸関係のTVを見た。
この番組では、今度は女性の司会者の声が気になった。
以前から何か違和感がある、と感じてはいたが、その原因が判明した。
彼女もやはり、「ワタシ、進行役」の仕事をしていた。
「進行中の話題に関心と興味は示していますよ」という仕事上の心構えは伝わるのだが、
植物への関心はあるのだろうか、といつも感じている。
 
 
その後、美術関係の番組を見た。(この3つは日曜日の朝、私が見る定番)
そして、女性二人のしっとりした話し方に、やっと、私の気持ちは落ち着いた。
 
 
で、私は教訓を引き出し、反省しました。
果たして、私は人と話すとき、その人と話題を共有しながら話しているだろうか。
心情を共有しているだろうか。
単に、聞くだけの声になってはいないだろうか。
 
 
昔、言われました。
「あなたは額縁の中に入っているような話し方をする。」
「生活・背景が見えてこない」
「声が軽いので録音出来ない」などなど。
 
 
3日に書きましたが、子どもも話す人の心を見抜きます。
「証し」が昔話と自慢話になったとき、伝えるべきことが伝わりません。
いろいろ考えた朝でした。
 
 
▼ 4日(土) 「ヤシャルの書」
 
ヨシュア記
10:12 主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」
 
10:13 民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。
 
 
13節の「ヤシャルの書」で、読む目が止まった。
ことば社の『新聖書辞典』を見るが出ていない。
それでは、とインターネット検索をする。
グーグルで52件がヒットした。因みに、英語検索では、4610件ヒットしました。
 
 
真面目なもの、オカルト的なものなどいろいろあった。
が、幾つかを読み大変興味深かった。
「日を止める」なんて神さまにとっては簡単なことではないか、と私の単純な頭は考え、
今まで、調べようと思う気持ちも湧かなかった。
 
 
「文明の利器」(インターネット)はありがたいです。
「日が止まった」ことへの科学的な説明に、「フムフム、なるほど」と暫く心を奪われました。
 
 
でも、聖書を知る一番確実な方法は、御国で神さまにお会いしたとき訊ねるのが最良の方法です。今から楽しみにしています。
 
 
▼ 3日(金) 昔話と自慢話
 
昔、教会学校に出席している子どもに、「どんなお話を聞いてる?」と訊ねたことがあった。
「昔話が多い」という答えが返ってきた。
「昔話??」
子どもには、「証し」は時として単なる昔話に思える、ということが分かりました。
そして、「自慢話も」とその子は追加した。
 
 
「諸刃の剣」ですね。
話の軸が少しでも狂うと、証しは昔話になり、個人の自慢話に聞こえるようです。
「そんな風に聞こえるのは、その人の信仰に問題がある」と言うのでは、まだ主イエス様を知らない人には伝道できません。
己を滅却して、ただ主イエス様のみを伝えるのは難しいです。
祈ります。
 
 
▼ 2日(木) 主に持って行くとき 
 
先程、郵便局で、宣教団体2カ所の献金を振り込み帰ってきた。
(中学3年生は、現在完了形を習い終えたところです。この文章を書きながら、
これは、中学3年生の英作文だと考えました。頭は仕事をしていました。)
 
 
そして、メルマガをチェック。
毎日、霊的な励ましを受けている関根一夫先生の文章を読みました。
今朝のメッセージは、マタイ14:17−21の、5つのパンと2匹の魚からでした。
一部抜粋です。
 
 
「手元にあるわずかなものを粗末に取り扱わないで、イエス様のところに持っていったら
イエス様はそれを何倍にもして他者を祝福するためにお用いになるという教訓を含んだ
弟子たちに対する大事なレッスンでした。
『主よ、私の手にあるものは、わずかなものですが、どうぞ、他者の心とからだを潤すために用いてください』と差し出す心は尊いものです。それが時間であれ、献金であれ、労力であれわずかばかりという思いを持ちながらも、イエス様にお渡しする心は大事なものなのです。あなたの持っている「小さい」もの、「わずかなもの」でも、イエス様の手の中で何倍にも膨らんで、やがて5千人を養うほどのものになっていくのです。」
 
関根一夫先生のホームページからこのメルマガは購読できます。
 
私たち(我が家)は、一人の宣教師に毎月献金し、私たちのささやかな塾への入会者があったとき、その入会金を感謝献金として、他の幾つかの団体へ順番に献金している。
時々は、地震など緊急の場合の献金もあるが。
 
 
しかし、「大きな声では言えない」ほど微々たるものだ。
それで、献金した団体からカレンダーなどが送られてくると、「大いに恐縮」してしまう。
文書作成料、封書、切手代金などを考えると、「もう送らないで下さい」と言いたくなる。
 
 
時々、「この程度の献金は、大海の一滴にもならないだろう」とメゲた。
しかし、今朝の言葉に大いに励まされました。
捧げるとき主が祝福して下さる、ことを忘れていました。
 
 
「継続は力」です。
続けることで、私のあるかないかの小さな信仰をも、神さまは、よみして下さいます。
感謝です。
聖書に関するメルマガを発行されている方にも感謝します。
 
 
▼ 1日(水) 短い !!
 
ヨシュア記 4:15 「主がヨシュアに、」
 
初めて気づきました。
ヨシュア記4章15節ってこんなに短かったのですね。
 
私は新改訳を読んでいます。
ちなみに、口語訳は、「主はヨシュアに言われた」
新共同訳、「主はヨシュアに言われた」で、同じでした。
 
 
紙の聖書から、パソコン上で聖書を読むようになって細かいことがいろいろ目に飛び込んできます。
縦書きから横書きに変わり、字の大きさが18フォント、節と節と間が1行空いていますので、かなり読みやすくなりました。
 
 
モーセ5書を簡単に、苦もなく読めたのも初めてのことではないでしょうか。
正直に告白しますと、レビなど固有名詞が連綿と続く箇所は、以前は、スキップしていました。今回は、気になる固有名詞の文字を赤に変えたり、青に変えたりで、睡魔を追い払うことも出来ました。
 
 
紙の聖書の行間と余白は少ないので、気づいたり調べたりしたことを書けませんが、
今は、『聖書辞典』やインターネットで調べたことを思う存分に書き込んでいます。
楽しい通読の時間です。
祈りも、何だかワイドになった気分です。
 
 
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