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▼ 31日(月) 出エジプト 10の災い
がなければ動かないパロのうなじの堅さは私に通じることを毎回知らされる。
嫌なことが発生したとき、神様はそれから目を反らすな、と仰る。
しかし、私は、目を反らすどころか、それらを黙殺しようとする。
パロが、10の災いに打ちのめされたように思えたのに、エジプトを出るイスラエルを追っていく様は、「人間は(私は)御しがたい」ことをまざまざと教える箇所だ。
諦めが悪い、と思う。
主が、行く道を遮られるとき、素直に首肯する者でありたい、とつくづく考える。
で、アロンだが、彼はどうして生き延びたのだろうか。
モーセは殺されそうになったのを、家族の機転でパロの娘に拾われた。
アロンも殺される運命にあったのでは?
あまり深く追求しないほうがいいかな。
どこかに、辻褄のあう解答が用意されているだろうから、それをネットで捜します。
風邪を引いた。
昨日から薬を飲み続けている。
風邪薬は飲んでも飲まなくてもあまり変わりないそうだから、飲まないに越したことはないのだが、やっぱり飲む。故に、眠い。
仕事に行く途中、薬局へ寄って、喉に効く「ベンザブロックのどスプレー」を買おう。
手をこまぬいているより、少しは良いだろう。
▼ 30日(日) もし、父が見たら
NHKが問題になっている。
亡き父を思い出した。
父はNHKだけしか見なかった。
父が居ないとき、私達は民放を見た。
民放のお笑い番組を見て笑おうものなら、父が怒った。
非常に昔、新聞代が値上げになった。
父は怒って、夕刊を取らない、と厳命した。
が、翌日、夕方には、弟たちが、駅の売店へ(近かった)夕刊を買いに行く日々が始まった。その後、一ヶ月で夕刊は再び配達されることになった。
最近のNHK問題に父が接したら、「NHKは見るな。受信料は払うな」と厳命するだろうか。
現在、NHKの受信料は銀行から1年分が引き落とされる。
私も、「もう、受信料は払わない」と考えることもあるが、銀行へ行っての手続きが面倒なので、そのままにしている。2月に引き落としの日が来る。
結構、NHKは見ているし、聞いてもいるが、NHKは大変稼いでいるようだから、受信料はなくてもやっていけそうなのに。
快く受信料を払えるよう、NHKさん、頑張って下さい。
▼ 29日(土) 牧師に躓く
ある文章を読んだ。
牧師に悩みを打ち明けるべきかどうか迷った。
しかし、返って来る答えが予想できた。
不信仰だというお叱りと、悔い改めと祈りの勧めで終わるだろう。
故に、牧師には相談しなかった、という記事。後に、「躓いた」と続く。
多分、誰にでも経験があると思う。
私も経験がある。
私は、その前の段階、神学生にある質問をした。
その質問には答えがない。
故に、答えるべきではなかった。
それでは、なぜ質問したのか。
それは、カウンセリングの経験がある人は分かると思うが、「答える」のではなく、
「応え」なければならないことだった。私は「応え」を期待していた。
その質問に若い神学生は四苦八苦、奮闘した。
「牧師になることって大変ね」で私は質問とその応えを得ることを断念した。
彼には、「応える」ということがまだ分かっていなかった。
彼は、その答えを答えることに必死だったが、隣にいる私には無関心だった。
昔、ある懇意の牧師に相談の電話を掛けた。
「牧師って忙しいでしょうね」と挨拶言葉で始めた私。
「あなたみたいな人が、電話してくるからね」と牧師。
次の段階に進むかどうか逡巡していた私は、この段階で、相談打ち切り。
一般的な世間話で「サヨナラ」をした。
大変な問題が持ち上がり、パニックになった私は、その当時、教会に行っていた牧師に電話した。祈りの要請だった。
「今、祈祷中で、時間が取れないのでまた後で電話して下さい」と牧師は答えた。
以後、電話していない。
でも、躓いたとは考えていない。
人間として、彼らは当然取るべき態度だった。
牧師類をまるで神様のような位置づけにすると、いわゆる「躓き」が起こる。
隣のどこにでもいる普通の人という位置づけだと、「躓き」は起こらない。
私達が、躓いたり、怒りの感情、喜び、優しさ、哀しさ、などの感情を、激しく持つ人間は、かなり近くにいる人に限られる。
地球の向こう側にいる人で、没交渉の人に対しては、激しい感情は湧き出てこない。
牧師に躓く人は幸いな人だと思う。
それだけ、牧師との感情の距離が短いのだから。
何度もアタックし、躓き、益々、牧師との距離を縮められたらいい。
起伏のある信仰生活になるだろう。
牧師に躓いた、という話を聞くと、なぜか、幼子とおもちゃを思い浮かべる。
自分の思い通りにならないおもちゃに当たり散らし、泣きわめく幼子の姿が描かれる。
なぜかわからない。
躓かない最良の方法は、牧師類を神様にしないこと。
▼ 28日(金) 電池切れ
今日は、教えている高校生と中学生の1校で試験。
朝から、特に祈った。教え、覚えても、最後は神様の力が働く。
理解しているのに不注意な間違いをするのは、人間の力では防ぎようがない感じ。
それから先は、神の領域。
さて、私の携帯電話はよく電池切れになる。
あまり使わないし、誰にも、と言っていいくらい電話番号を教えていない。
いわば、家族間の連絡だけに使われる。
だから、時々、呼び出し音が鳴り響いても、私が気が付かないことが多い。
ある時、借りている集会所のエアコンの状態が悪いのを気にしていたとき、その音が鳴り出した。
私は、エアコンに飛びつき、いろんなボタンを押した。
側で見ていた、小学3年生の女の子、「先生の携帯が鳴ってるよ」と教えてくれた。
先日も、同じ事があった。
我が家で教えている高校生を前にしているとき、鳴り出した。
「はて? 何が音を出しているのだろう?」と見回す私。
高校生が「あの音は携帯の音だと思います」。
確かにバッグの中で鳴っていた。
こんな風だから、電池切れは頻繁に起こる。
使用不可になっているので、公衆電話に駆けつける。10円玉と100円玉は必需品だ。
で、私は、真っ白になった携帯画面(私のは真っ白になる)を見つめながら、
「使えない!!」と呟く。
そして、神様も、「使えない!!」と私を見ながら呟いておられるのではないかと想像したのでした。
御言葉を蓄え、素直に「ハイ、ここにおります。お使い下さい」といつでも言える状態にしておかなくてはと、手の中で、単なる鉄くず(アルミ屑?金属屑)になってしまった携帯を見ながら考えました。
▼ 27日(木) カワハギの思い出
タイトルがおざなりですみません。
昔、娘が2歳頃。
まだ、骨付きの魚を食べさせるのに躊躇していた。
それまでは、刺身を買って、煮付けにして食べさせていた。
が、どうしても、「魚」を意識させねばならないと考えた。
いろいろ、魚を吟味した結果、「カワハギ」が選ばれた。
なぜ?
カワハギは小さいが、骨と身がきちんと離れる。
骨が身にくっついて来ることはない。
安心なのだ。
カワハギの煮付けを娘に食べさせながら、毎回、
「魚には骨があるのよ」を繰り返した。
食べてる最中に、「魚には骨がある♪〜♪」を呪文のごとく聞かせた。
それが功を奏してか、娘は魚の骨に対して抵抗感が全くなかった。
今でも綺麗に魚を食べる。
彼女は、小学2年生の時、団体旅行に参加した。その時、食べ方が綺麗だと、同行の方に褒められたこともあるので、魚だけではなく、全体に綺麗に食べる。
一方、我が連れ合いは、全くもって、驚きの魚の食べ方をする。
「ウナギは小さいのを買ってね」と念を押す。
不思議に思い尋ねた。その答えが、
「小さいウナギにも骨はあるが、大きいのにはもっと、大きな骨がある」らしい。
この時、初めて、ウナギに骨があることを知った。
面倒なので、ウナギは連れ合いには買わない。私一人で「食べたいなぁ」と感じたら買う。
シシャモを、娘は頭から食べた。
私は頭は残す。
連れ合いは、シシャモの骨を綺麗にとって食べる。
シシャモを出したとき、長時間、下を向いて、骨取り作業をする連れ合いを見て、
非常にショックだった。言われ無き恐怖に襲われた。
以来、シシャモを食べていない。
因みに、私は虫歯が1本もない。
連れ合いは、歯医者と仲良しで、どこの歯医者が良いかをよく知っている。
同じ教会員の方の歯医者さんに落ち着くまで、金沢市内のアチコチを渡り歩いた。
さて、カワハギだが、暫くして、カワハギを食べるのを止めた。
ある猫好きの人と話していたら、「家の猫ちゃんにカワハギを一箱買ったのよ。家の猫ちゃん、カワハギが大好き!!」と聞いて、何だか、我が娘が「猫ちゃん」のように思えたから。
ある本を読んでいて、カワハギのことが書いてあったので、昔、昔のことを思い出しました。
▼ 26日(水) 絶滅危惧種
創世記 46:27
エジプトでヨセフに生まれた子らはふたりで、エジプトに行ったヤコブの家族はみなで七十人であった。
「70人」です。
この数字は、「絶滅危惧種」に相当します。それも、かなり危ないです。
アホウドリを思い出します。アホウドリは現在、危機を脱しました。
それが、400年後には、パロから恐れられる存在になるとは。
神様の祝福の約束は生きています。
今や駆除の対象となった、シカを思い出させます。
危惧種になって、手厚い保護のもと、数は回復しましたが、今度は迷惑がられる存在になりました。
絶滅した生物を思うたびに、「人間は絶対に、彼らを生き返らせることは出来ないし、新しい生物を造り出すことも出来ない」を実感させられます。
化石からのDNAで、元の形に復元することは出来ますが、「新しい」とは言えないでしょう。
「造られた者」と「造った方」の違いを知らされる厳粛な事実です。
▼ 25日(火) 猜疑心の固まり
なのは、私です。
創世記 45:8
だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。
エステル記 4:14
あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
という言葉に、時に信頼し、時に疑いを抱く。
「置かれた場所」で神の御心にそう生き方を求められている聖句と受け取っている。
多くの「派遣された」牧師や伝道師も同じように、この御言葉に信頼したり、疑ったりしているのではないかと、想像したりもするが、多分、そんなことはないだろう。
私たちは、一人一人、神様から、今いる場所に「派遣」されている、と考える。
すると、そこで為すべき役割、神の御心に従い、信仰の種まきか、信仰の成長促進剤的な働きか、持続と継続を助ける人になるか、いろんな働きをその賜物によってなすことを、神様から求められている。
していることが、「成功」に見えると、「確かに私は、神様から、この地に遣わされた」と思う。「失敗」しているように映ると「もしかしたら、この地は神の御心ではなかったのでは?」と落ち込む。
特に、聖句から発心し、「ここ(これ)こそが、神様の御心」と「決意」して、人間的な視点から「失敗だった」「神様の御心ではなかった」という結果に辿り着く人は大変だと思う。
私も、クリスチャンとして、少なからぬ年月の間に、「神様の御心ではなかった」という言葉を何度も聞いてきた。最初の頃は、「神様の御心って、そんなにコロコロ変わるものなの?」と心の内で反論もしたが、最初の決意なるものが、元々神様の御心でなかった、と理解すれば、神様の心がコロコロ変わるのではなく、人間の心がコロコロ変わっている。
「神様から押し出され」、「背中を押され」て始めたら、その終着も神様が決めて下さる。
ヨセフ、エステル、そして、ヨナたちはそうだった。自分で「私が好んでこの場所に来た」「そこに行くことは神様の御心です」とは言わなかった。日本人の好きな言葉、「仕方がなかった」「なりゆき」だった。後になって「神様の御心」は人間に証される。
ヨナは大変親しみやすい人物だ。
私は、このヨナのような生き方をしている。
ヨナの行動、一挙手一頭足の全てが私だ、とヨナ書を読みながらいつも思っています。
遣わされ、置かれた所、与えられたものは全て神様から来ています。
ブツブツこぼさず、「御心なのか、ないのか」と疑わず、結果を主に委ねて、穏やかな生活を祈っています。
▼ 24日(月) 創世記 ヨセフ物語と私の感想
創世記
42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」
(困難の前に立ちすくむ私の姿。手をこまねいて一歩も足を踏み出すことが出来ないとき、神様から背中を押し出される時の言葉。見合っているのは、「しなければならないと思う私」と「それでも怖いです、と躊躇する私」。)
43:10(ユダの言葉) もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう。」
(ヤコブがベニヤミンをエジプトに出したくない気持ちを察せず、簡単に人を非難し、責めている。私も、人の気持ちや立場を思わず、簡単に決定を下すことが多々ある。自戒せねば。)
43:14 全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」
(私の好きな聖句に、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」というのがあります。何かを手放さねばならないとき、失ったときに思い出す言葉です。)
43:18 ところが、この人たちはヨセフの家に連れて行かれたので恐れた。「われわれが連れ込まれたのは、この前のとき、われわれの袋に返されていたあの銀のためだ。われわれを陥れ、われわれを襲い、われわれを奴隷として、われわれのろばもいっしょに捕えるためなのだ。」と彼らは言った。
(恐れから来る疑心暗鬼。まだ解決されていない問題が魂に残っているとき、私はこのような状況に陥る。主に信頼することから遠ざけようとするサタンの力が働いている。神様の前に一刻も早く罪を告白し、赦しを得、平安を頂きましょう。)
43:33 彼らはヨセフの指図によって、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらされたので、この人たちは互いに驚き合った。
(神様が全てをなさっているのを知るとき、この世では何も驚くことは起こらない。
それは、伝道の書に書いてある通り。しかし、喜怒哀楽の感情をも与えられたのだから、私は驚いた方が良いときには仰々しく驚き、怒り心頭に発し、哀しみを受け入れ、そして人生を楽しむ)
人生を楽しむ、なんて言うと、クリスチャンの人生は「苦の付く字」で埋まっています。
それが分からないのは、まだまだ信仰が足りません、と仰る方もいるが、信仰が満たされると「苦の付く字」が増えていくのかな?と時々思います。
何だが、その反対のような気がしますが・・・。
今年の冬は暖冬です。
今日も、大変暖かそうな風景が目の前に広がっています。
「そうな」というのは、私がまだ外気に触れていないからです。
自分勝手な感謝ですが、この暖かさを感謝します。
雪がなくては仕事にならない方、ゴメンナサイ。
▼ 23日(日) 主を讃美せよ、主は素晴らしい−2
日曜日の朝、少々遅めに起き、コーヒー片手に新聞を読み、NHKの園芸と新日曜美術館を見るのが出かける前のいつもの日曜日。
我が家の新聞には、滅多に私が読みたくなるような本の紹介は無いが、それでも、日曜日の書評欄は楽しみな記事の一つ。ゆっくり目を通す。
教会でつつがなく過ごし、礼拝後、あっと言う間に教会を出る。
これがこの教会の慣わし。
昼食を近くのスーパーで買う。
定期の雑誌が入荷したら、スーパーの隣の書店にも立ち寄る。
午後は、本当に、ゆっくりと時間を過ごす。
嫌なことは何もしない。
好きなことをする。
お風呂でのんびり、本を読めるのも、日曜日ならでは。
この時には、神様とかなり近い距離にいると感じる。
誰からも、何者からも邪魔されない空間と時間。
何が特別なことがあるのではないが、無いからこそ、主の平安の中にいることを実感する。
全てを委ね、全てを受容する。
信仰生活とはそのようなことではないかと考える。
それ故に、主を讃美する。
主の素晴らしさを称える。
▼ 22日(土) 主を讃美せよ、主は素晴らしい
1週間前に発生した問題があった。
「問題」に「人間」が関わらないことはほとんど無い。
私は、その人間に、もう、頭に来た。
完璧に切れた。
切れたがどうすることも出来なくて、暫く、悶々の時間が過ぎた。
祈った。
主は、「一方的に相手が悪いことはないだろう」と諭された。
気持ちが少し和らいだ。
それは、本当に、たった一言の言葉だった。
文字数も、10字に満たない。
その言葉に、私は切れたのだが、誰も、私が切れたとは思っていない。
そう、他人から見ると、バカバカしいことなのだ。
私が一人、怒っている。
しかし、顔までもが怒っているわけではないので、その場は静かに進行した。
主の言葉、「相手が一方的に悪いわけではない」は当然だ。
相手は、私を怒らせたことさえ気付いていない。
が、再び、その人間に会うことに備えて、私は心の準備をした。
ところが、主は、その人をどこかへ連れて行ってしまわれた。
私の心と魂に平安が訪れた。
故に、私は、主の業を讃美し、主を褒め称えています。
かなり、自分勝手で、妄想に取り憑かれたような1週間でしたが、
問題解決に主が介入されたことを感謝しています。
あまり、些細なことで頭にこないよう、問題を他人の目で見るよう、少々、訓練してみましょう。私も、他人が、いろいろ、愚痴を言っているのを聞くと、「そんなことで・・・」と批評します。ところが、自分に関わることでは、なかなか、他人の目になれないのが哀しいです。これは、新しい祈りの課題となりました。
▼ 21日(金) 「ラッキー」と「アンラッキー」
昨日、ある教会員のお宅で集会があるというので出かけた。
いつもは、火曜日の午後にある集会。
それが、火曜日、前夜式の準備。
水曜日、告別式なので、木曜日に延期された。
私たちは、火曜日の午後は仕事で出席出来ない。
木曜日は、ギリギリ、少し早退するかもしれない程度に出席出来る。
で、行きました。
が、牧師が疲れたとの理由(日曜日から水曜日まで休む間がなかった、と想像します)で、今週の家庭集会は取りやめ。私たちがお訪ねしたときには、あちこちへ、連絡の最中だったようです。
不思議な符号が働きました。
私たちが出席できないことは殆ど分かっているので、普段は連絡を頂きません。
ところが、葬儀関係のことで連絡を2度頂きました。
その時、この集会が火曜日から木曜日に変更された、ということも一緒の連絡でした。
私たちも、午後にある催し物には殆ど参加しません。
3時や、4時から仕事が始まるので、午後の催し物に参加しても、何となく落ち着かないのです。
ところが、何を間違えたのか、「最後まで残ることは出来ないけど、出席してみる?」と私が連れ合いに持ちかけ、「そうだね。」と彼が応じました。
これも、驚きでした。
彼の性格からして、ここは「ウーン」と暫く「熟考」して、あからさまに「ノー」とは言わず、何かと、出席したくない理由を、もの凄く遠回しに、それも「言い渋る」のが普通なのです。それが、簡単に「イエス」という返事。
いろんな偶然、神様の必然が重なって、私たちは出かけたのでした。
もちろん、全ては神様がなさったことですから、玄関口で「今日は、中止になりました。」と聞いても私には、何の変化もありません。
むしろ、時間が空いた分、デスクワークを出来るので「ラッキー」なのです。
今日、小学2年生の女の子が、「先生、この頃、ラッキーなことがある」と切り出しました。私は、ニコニコ顔で、「なに?なに?」と身を乗り出しました。
「お母さんが怪我をして、毎日、病院に行くので、帰りに外で食べてる」と嬉しそうでした。ニコニコ顔が凍り付きました。それ以上の話はなしです。
その子は、お母さんの怪我については何も知らないし、関心もなさそうでした。
外食できるのが「ラッキー」なだけでした。
次に来た小学5年生の男の子も、スポーツの練習が体育館の蛍光灯の修理か何かで出来なくなり、「ラッキー」と言いました。
同じ事に対して、「ラッキー」な人間と、「アンラッキー」な人間が存在することを教えられました。
私たちは、神様の御旨を求めつつ全てをしますので、「ラッキー」も「アンラッキー」もないでしょう。「それが、神様がなさろうとされたこと」なのです。
結果に対して、喜びも哀しみも、悲しみも、怒りも、本当は無いはずです。
素直に、謙って、結果を、神様の御旨を受け入れるのみです。
▼ 20日(木) 祝福の広がり
創世記 39:5
主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。
私も、ヨセフのように、神様から祝福をいただき、また、その祝福が、私の故に、他の人へ伝搬したら良いのに、と思った日でした。
▼ 19日(水) 告別式、
教会である方の告別式があった。
この頃、『百万人の福音』1月号の聖書日課を読んでいる。
「日課」だから毎日読むべきところだが、まとめて読む。
この号の日課は、創世記49:28から50:26。
ヤコブの葬りに関することが書いてある。
告別式に出て、「聖書日課」を読み、考え、感動し、主に感謝する日になった。
以前にも書いたが、聖書を、この日課の書き手、清野隆二先生のように読むことが出来たら、と『百万人の福音』を読むたびに祈っている。
字面だけを追っていては、このように深く読むことは出来ない。
心から羨ましく思う。(『十戒』には反しますが)。
50:10の霊想からの引用。
「愛する友よ。実に、あなたの葬儀はイエス・キリストによってすでに行われていたのです。あなたの葬儀にはヤコブ以上に多くの日数と莫大な費用(犠牲)が必要でした。多くの日数とは、アダムの堕落以後、イエスの出現までに必要だった、多くの預言者と長いイスラエルの歴史です。莫大な費用とは、イエスの十字架の代価です。
『しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。』(イザヤ書53:10)あなたを葬る儀式は、主の十字架の生々しい出来事そのものでした。御子によって葬儀を終えて下さった神様に感謝をささげましょう」
この頃、よく死を考える。
普通に死を考えることが出来るのは本当に感謝なことです。
死を考えることにより、今生かされていることへも考えが移ります。
主イエス様とのこの世での個人的な出合いから、死を超えて、天国でお会いするその日までを楽しみに生きていけます。
▼ 18日(火) 偶然の一致
今日は、私にとっては、少々忙しい日となった。
午前中に仕事。
その後、すぐ、「青色申告説明会」へ連れ合いと共に。
そこに45分いて、車で30分の移動。
仕事へ。連れ合いは、15:30まで残った。
公民館を借りている。
到着し、まだ、靴を脱ぐか脱がないうちに、事務の方がドアを開け、出ていらした。
「今日、お通夜がありますので、最後に玄関のカギをお願いしてもよろしいですか?」
一瞬、「?!」となる。
確か、教会でも今夜、前夜式があるはずだ。
同じ人かな、と思ったら、公民館の管理人さん関係の方だった。
道理で、最後のカギを私たちがしなければならないことになったらしい。
急なことなので、代わりの人が見つからなかったようだった。
9時まで仕事をして、週に1度の食料品の買い出し。
帰ったのが10時。
それから、ゆっくり、のんびり、食事。
このように、いつもと違って、少々忙しい日には、特に祈りの大切さを教えられる。
気がせいているのでいろんな間違いが発生する。
事故を起こしたり、事故に遭遇する確率も高くなる。
慣れない場所を走るときには、道にも迷う。
公民館のカギを掛けることなど初めてのことについては、非常に神経をつかう。
(電灯などの点検も依頼されていた)
よって、朝からずっと、祈り続けた日でした。
車に乗り込む時祈り、走っているとき祈り、道を間違えないように祈り、急いでいても、スピードを出しすぎないように祈り、信号がスムースに変わりますようにと祈り、事故に巻き込まれないように祈り、仕事に間に合うように祈り、激しくなっている脈を鎮めて下さるように祈る。
夕食を終わらせ、筑紫哲也さんのニュースを見る頃になって、やっと、ホッとして、この日を終わりました。全てが無事に為されたことを感謝して。
▼ 17日(月) 物忘れ、一層、激しくなる
出かけようとして、玄関まで来た。
カギがない。
さっき、コートを着ようとして、手近に置いた、と思い、捜すが、どうしても現れない。
いつも、机の右手側に置いている。
それを手に取った。
コートを着るために、一旦、置いた。
そこまでは記憶がある。
だが、どこに置いたのか記憶がない。
とりあえず、今日は、連れ合いのカギで間に合わせる。
仕事から帰って、再思考と再試行。
祈った。
不思議なことに、捜し物の祈りは本当によく聞かれる。
主は、昨日、外出から帰ったとき、カギを使ってないことを思い出させて下さった。
いつもは私が開ける玄関を、連れ合いが開けた。
すると、カギは、バッグから出ていないのではないか?
案の定、カギはバッグの中にあった。
すると、私が、カギを捜すとき何度も口にした、あの言葉は何だったのだろう。
「椅子を立つとき、カギを手にもったけれど、コートを着るために、カギを手から離したので、絶対、この近く(コートの近く)にあるはずよ」。
私は完璧に思い込みに陥っていた。
いつもの机の上、右手側にカギは、その日にはなかった。
なのに、私の目は、カギがそこにある、と見ていた。
見えないものを私は見ていた。
その上、その見えないカギを私は手にしていたのだ。
思い込みと錯覚がなしたことだった。
しかし、恐ろしい。
つい先日も、教会から出ようとして、靴箱に靴を捜すが見つからない。
玄関脇で案内に立っておられる人に、「私の靴が見あたらないのですが」と、尋ねた。
彼女、曰く。「今日は、向こうの入り口から入られましたよ」。
はい、そうでした。
そこに靴はなくて当然なのでした。
先日、あの『バカの壁』で有名な先生が、誰にでも起こる一過性の記憶喪失について話されていたのを聞いていなかったら、今頃は、大変、心配していたことだろう。
その話のおかげで、「こんな物忘れ、誰にでも当然あること」と割り切ることが出来る。
それにしても、見てないものを、「見た」と言い張ることが恐ろしい。
マタイ 13:13
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
を、チラッと思い出しました。
▼ 16日(日) 素晴らしい証の時間
礼拝後、婦人会の新年会があった。
新年会と言っても、お弁当を食べる時間が加わるだけで、特別なことはないのだが、
一応、新年会と銘打ってある。
お弁当を食べながら、順番に短い証をする。
「食べながら」「話を聞くことができる」方は、そうするが、
どちらか一方だけしか出来ない不器用な人間は、早々に箸を止めて、話に集中する。
その上、ボーっと聞いていると眠くもなるので、目を話者に留めて話を聞く。
内容が内容だけに、疎かな態度では聞けない。どの方も素晴らしい証をされました。
が、長時間、神経を集中するので、正直、疲れます。
その証拠に帰ってから、ずっと、横になっていました。
帰りに少々、歩きました。
北陸の冬の良いところは、空っ風が吹かないところです。
太平洋側の空っ風は、コンタクトの目には、大変迷惑です。
太平洋側で育ち、空っ風に悩まされた私は、北陸の湿った冬は好都合です。
吹雪いてさえいなければ心地よく歩けます。
濃密な証を聞いた後、連れ合いとの待ち合わせ場所までの散歩は、頭と心を冷やし、現実世界に戻るのに丁度よい道のりでした。
▼ 15日(土) 焦っています
何を?
去年の8月から、カラシの写真を撮っていません。
と言うことは、今年に入ってもカラシを撮影していないのです。
毎年、新しく、カラシの頁を作りますが、今年はつまづいています。
焦っても仕方がありませんので、カラシの観察も出来るよう、雑用をセッセと片づけましょう。祈りつつ。
▼ 14日(金) C型肝炎に決着
20数年前に輸血をした。
それが、C型肝炎関連で騒がれた。
数年前、輸血した病院と年代から、ギリギリセーフと判断した。
が、去年末、再び騒がれ、今回は、どうも、ひっかかっている。
で、意を決して、検査を受けた。
それが、1週間前。
今日、結果を聞きに行った。
C型肝炎には感染していなかった。
神様に感謝。
ついでに、エイズの検査も。
1週間前、「エイズの検査もします」と突然言われたときには、ギョッとしたが、
こちらも陰性で通過。
これで、長年、もやもやしていたことに決着がつき安堵。
輸血をしていると、献血も出来なかった。
献血手帳は途中でストップ。
少々、かなり?残念。
結果を聞いたついでに、「これからは献血出来ますか」と質問したら、
「今回は、C型を検査したのであって、C以外の感染があるかもしれません」と
告げられ、ショック。
他に、何があるのじゃ?
因みに、B型にも感染していません。
全部調べる必要があるのかな?
▼ 9日(日) 小さな幸せと驚嘆すべき事
礼拝後、書店に立ち寄り、『文藝春秋』を頂いてきた。
そして、お風呂に入りながら読み、お布団に入って読み、読み上げた。
月刊誌をその月の内に読了することは、この頃ほとんど無い。
それが、買ったその日に読んでしまい、当の本人が驚いている。
まだ、『百万人の福音』の1月号を読んでいない。
仕事関係の雑誌も2ヶ月分溜まっている。
いわんや、購入した単行本は数年前のものをまだ読んでいない。
だから、『文藝春秋』を1日で読んでしまったので驚いた。
「読まねばならない」という強迫観念から解放される。
これは、私には、小さな幸せです。
▼ 8日(土) 「バベルの塔事件」がなかったなら・・・
「先生、英語はややこしい」
「英語は、難しい」
「世界がみんな同じ言葉だったら良いのにね」
と、中学生と高校生が曰わった。
私もそう思います。
そして、はるか昔のあの「バベルの塔事件」を思い出すのです。
人間が、もっと謙虚であったなら、あの事件は起こらなかったかもしれない。
しかし、神様の御心だったから起こった。
傲慢と謙虚を繰り返してきた私たち。
今も繰り返している私。
ちょっとしたことで得意になり、傲慢になる。
ちょっとしたことで落ち込み、自分の弱さに気づかされ、謙虚になることを示される。
果てしなく続いてきた人間のこの繰り返しの歴史。
が、「バベルの塔事件」も、語学を学ぶ楽しさ、違った言葉と文化に触れる喜びを与えてくれる。それを研究する方々には生活の糧となる。
全ては主の御心。
今度、「世界中の人が同じ言葉を使ったら良いのに」と、誰かが曰わったら、
昔昔のミステリー「バベルの塔事件」を話して上げよう。
▼ 7日(金) 何と短気な
短気だ。
すぐ決断したがる。
何かを最後まで待つのには苦労する。
CDを焼いている。
数年前、非常に面倒だったので、中止して以来、焼いたことはない。
が、殊勝な方がいて、あるベストセラーのCDを貸して下さった。
その人には、娘さんから送られてきたCD。
「これ、焼いて使って下さい」と言われた。
気が弱いので「いいえ、結構です。焼けません」とは言えなかった。
持ち帰り、焼きに掛かった。
私の機械は最高で12倍速でしか焼けない。
1枚に1時間かかる。
借りたCDは8枚。
8時間・・・気が滅入った。
機械に慣れていないので、進行状態が分からず、何度も「キャンセルボタン」を押して、新しいCD−Rを何枚も無駄にした。
後で、分かったのだが、コピーが終わると、CDは吐き出される。
それを待てばいい。
それが、待てなかった。
最後に意を決して、「待つぞ!!」と観念したら成功。
CDを焼く要領を会得したので、ついでに、前から考えていた歌を焼いて、小学生に配布した。大変、喜んでくれた。自分だけのCDを持てて嬉しかったようだ。
それにしても、チョット、気を長くして作業していれば、もっと、簡単に樂だったのにと、全てが終わったところで後悔し、反省しています。
「短気」でなくなることは「祈りの課題」です。
短気で気短(同じ?)は料理などにも影響する。
焼き魚や焼き肉はが中まで火が通るのを待つことが出来ない。
レンジで設定した時間を守れない。
人との待ち合わせで10分間待たされると、その場所を立ち去る。
外食で15分間、何の連絡もないと席を立つ。
それに比べて我が連れ合いの気が長いこと。
天の配剤に感謝。
▼ 6日(木) 悩みを悩むことができる幸せ
昔、昔、高校生の頃、いわゆる、思春期と言われる時代。
教生の大学生が放った言葉。
「君たちは、悩みで夜眠れない、と言うが、それがどんなに幸せなことか知らない」。
聞いた直後には理解できなかった。
彼曰く。
「重労働に従事している人達は、肉体的な疲れで、夜、考えたり、悩んだりする時間も惜しんで睡眠を取る。君たちは、有り余るほどの睡眠時間があるから、チョットした悩みでも眠れなくなる。」という意味らしかった。
私も思い当たる。
ある問題で「悩み」眠れないことがある。
が、その問題以上のことが発生すると、「眠れない悩み」はどこかへ吹っ飛ぶ。
そして、もちろん、新たな悩みを悩むのだが、
しかし、それも、それ以上の事件が襲いかかると、嘘のように、悩みでなくなることがある。2つも3つもの問題や、悩みがあると、それに対して優先順位が出来てくる。
軽いものは、後退させられる。
・・・で、私が出した結論・・・すぐ結論を出す悪い癖・・・「悩みは相対的なもので、絶対的な悩みはほとんどない、だろう」。
故に、悩みや問題を抱え込みそうになったとき、それらを他人の目で検討すると軽減するのではないだろうか。
この操作は簡単にはいかない。
悩みを悩みたい人もいるようだ。
それゆえに、「そんな問題は誰でも持っているか、経験したことがあるのよ」と、「他人の目で見て」絶対に言ってはいけない。その悩みと問題は、「あなたには特別なこと」と思わせることも大切だと思う。誰でも、「自分の悩みと問題は世界で類のないものであり、歴史上誰も悩んだことがないほどのもの」と思いたがる。
(聖書を読んでいる人には、そんな錯覚と誤解はないとおもう。聖書には、現代の私たちに起こりえるであろう、殆ど全てが網羅してある、と思うから。)
その人達には、悩む時間はたっぷりあり、差し迫ってそれ以上の事件は発生していないのだから、次の問題が起こるまで、じっくり取り組むのが最良の時間の潰し方だろう。
この頃、他人の目で見ると些細な、小さな問題に心を奪われることが多い。
そのたびに、あの教生の言葉を思い出す。
もう何十年も昔の言葉だが、強烈な言葉だった。
「重荷を十字架のもとに下ろして」、主を信頼し、ゆっくり、たっぷり、睡眠を取りましょう。
▼ 5日(水) たった6節でも、もっとも有名な話の一つ
それは、「バベルの塔」の物語。
聖書を紙からデスクトップに変えていろんな発見がある。
裏を返せば、今まで、ぼんやりと聖書を読んできたことの証明でもあるのだが。
なんと言っても、キーワードに簡単に赤線を引くことが出来るようになった。
厳密には、「線」を引くのではなく、文字色を変えている。
キーワードが、私の思考経路を導いてくれるようだ。
物語、歴史、時間の流れ、人の動きが鮮明になった、と感じている。
バベルの塔の話は、もう、何度も読み、教会学校でも何度も離してきた。
なのに、この話が聖書ではたったの6節でお終い、ということに、今朝、初めて気づいた。
もっと、もっと、長い話のように感じていた。
我が家には、「バベルの塔」のジグソーパズルがある。
娘が組み立て、玄関の横壁に掛かっているので、時々話題になる。
その都度、「聖書に登場する有名な話です」と「有名」を強調する。
知らない人は、「有名」に引っかかる。
時間があれば、その由来を説明する。
その絵を見ながら、「高慢で傲慢にならないように」と、毎回思えば良いのだが、
「こんな面倒で時間がかかることをよくしたよ」とそちらに心が動くのが残念!!
▼ 4日(火) 壊れた・・・買い換えなくちゃ・・・
我が家のプリンタは常時、私のパソコンと接続している。
連れ合いは印刷のたびに、自分のパソコンとUSB接続をする。
「このコード壊れたので、今から買いに行ってくる」と、真っ白なコードを、ヘビを抱えるごとくに両手に持った連れ合いがのたまわった。
一瞬、切れた。
なんで、そのコードが壊れるの?
ネズミやハムスターに囓られたわけでもないのに。
どうも、印刷をしようとコードを接続すると、「認識しません」の警告か注意が出るらしい。それで、彼は「壊れた」と考えた。
「認識」しないことはよくあること。
悪いことに、別のコードを使うと「認識」されるらしい。
散々、嫌味を言って、どうにか買いに行くのを思いとどまらせた。
そして、数分後、連れ合いと私が尊敬し、お世話になっている方からのメルマガが届いた。
そこに、「認識されない場合は、コードを抜いて、接続しなおしてください」と書かれていた。で、コードの件は一件落着。
今度は、パソコンが壊れたので、明日、電器屋さんに行ってくる、とのたまわった。
ロゴマークは出るのだが、それ以上、起動しない。
日頃から、データはパソコン本体ではなく、別の箇所に入れるように言っているが、
言うことを聞かない。
余りにも沢山詰め込み過ぎたのが原因らしい。
電器屋さんに行く前に、一応、サポートセンターに電話した。
ものの数分で解決。
サポートセンターの人にも言われたらしく、現在、セッセと、データの移動をしています。
「壊れた、即、電器屋さん」という頭の構造は理解できる。
今まで、パソコンを扱う前まで、殆ど、それが解決への道だった。
が、パソコンにそれを応用していたら、時間とお金が幾らあっても足りないだろう。
パソコンとの対決で修羅場を通っていない証拠だ。
我が家で一番最後にパソコンを手に入れ、いろんな問題解決に私と娘が手助けしてきた。
それで、安易に「チョット、電器屋さんへ」という発想になるらしい。
それでも、祈っていたら、神様がサポートセンターを思い出させて下さったと言うから、これは褒めておきましょう。お正月でもサポセンの方は働いていました。感謝。
▼ 3日(月) インターネットは素晴らしい!!
何を今更、と私も思います。
J−バイブルをワープロソフトの一太郎にコピーした聖書を読んでいる。
書き込みと印付けがグンと便利で速くなった。
紙の聖書には書き込みのスペースがなく、何をどう書くかで考えなければならなかった。
それが、今は、どれだけでも書き込みが出来る。
その上、不明な箇所(私にとって)は、聖書の言葉をそのままwebで検索すると、
誰かが、と言っても、大抵が牧師か神学者のHPであるが、書いている。
説明に納得がいったら、その箇所をそのまま、出典と一緒にコピーし、私の聖書に貼り付ける。次回からそこで、「これなんだ?」と頭を悩ます必要がなくなった。
今朝は、その方法で
創世記 4:15 「カインに一つのしるしを下さった。」
と
創世記 4:26 「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」
の意味が分かった。
重い重い、いのちのことば社の『「新聖書注解』を持ち出す手間と面倒さから解放された。
年末20数章残っていた聖書通読は、結局、31日の深夜まで掛かって読み終えました。
新しい年を、マタイと創世記から始められ、小さくて些細なことですが、喜んでいます。
▼ 2日(日) 礼拝後
町の細い路地を歩きながら考えた。
主イエス様とお会いしてからもう何年になるだろう?
あまり彼のことを知らないと思う。
時々、「まるでのび太とドラえもんの関係」と思うこともある。
問題が起こるたびに、「主イエス様!」と泣きついているのではないか。
自分の内に「何も問題なし」と思える時がある。
その時、主イエス様から遠くに離れて居る孤独を感じる。
裏切ったペテロに注がれた視線を感じる。
突然ですが、去年の8月に¥25で買った金魚がまだ生きています。
もう、5倍くらい大きくなりました。
餌が欲しいとき、私が呼ぶとき、水槽の縁に浮かんで来ます。
2,3粒の餌をパクパクと大きな口に取り入れたら、サッサと潜ります。
「神に近づきなさい。」ヤコブ4:8
を思い出します。
私たちも神様に近づくとき、命のパン、霊の糧を与えて下さいます。感謝。
▼ 1日(土) は・じ・ま・り
マタイ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
全てはここから始まる。
トラブルに陥ったときの魔法の言葉。
困難な壁が立ち塞がったときの呪文。
この聖句が新しい扉を開く。
「まず」第一に求めるのは神様。
祈りが導く国。
祈りが誘う義。
2005年も、この聖句から目と心を離さず主と共に歩きます。
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