2004年7月    
 
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▼ 30(金) パーティをするわよ!!
 
と言っているのは私ではなく、金曜日に英語を教えている小学2年生と3年生の女の子たち。数ヶ月前から、空いた時間を見つけて、または、強引に作って、「パーティの計画」なるものを作っている。
 
 
「誰がリーダーになるか」
「リーダーの言うことは聞かなくてはいけない」
は、毎回聞こえてくるのだが、どうもそれ以上は進まないようだ。
1週間に1度、金曜日に顔を合わせた時だけ、この「パーティ」の話題は持ち上がるらしい。聞いている私は少々、やきもきしている。
 
 
彼女らを見ていると、何だか幸せな気持ちになる。
ゆったりとした時間が流れている・・・と感じているのは私だけで、話し合いをしている彼女らは、かなり真剣で、大きな声、緊迫した叫び(?)も時々聞こえてくる。
私からみると、現実味があるような、ないような話だが、彼女らは真剣そのもの。
 
 
このクラスだけでなく、小学生と一緒にいると心がほのぼのしてくるから不思議だ。
そして、毎回、「この仕事を与えて下さって感謝です」と主に感謝の祈りを捧げている。
私の怒りに嫌な思いをした子どもはいるに違いないのだが、私が彼らから嫌な思いをさせられたことはない(と思う。少なくとも記憶にない)。
 
 
小学生も高学年になると人間関係が難しくなる子もいる。
それ故の結果かとも思える事件が発生し、報道され大人は慌てる。
現実に、私も、高学年の男の子が突然(と、私には思えた)切れた場面に仰天したこともあるし、カッターナイフをちらつかせた6年生の男の子もいた。
一人一人の心が主の平安で満たされることを祈っている。
彼らもまた主が愛された子だから。主にお会いするのが私より少々遅いだけだから。
主は、すでに彼らを捉えていらっしゃるかもしれないから。
 
 
低学年のかわいらしい会話や行動を見ていると、「時間よ、止まれ」と願いたくなる。
 
 
▼ 29(木) 「カラシの木の生長記録」更新しました
 
 
 からお入り下さって、お時間があればご覧になって下さい。
 
 
▼ 28(水) ストレスと自律神経失調症?
 
いつの頃からか、体のあちこちに痛みがあるのを感じ始めた。
最初、と言うか、頻繁には右手の甲だったので、マウスの使い過ぎ、くらいに思っていた。
それが、足の甲だったり、くるぶし、肩、お腹、脇、と体中が痛くなりだした。
 
 
酷い痛みではない。
ピリピリ、チクチクする痛みだ。
通風・リュウマチの類かな、と少々心配もした。
 
 
ウェブで検索。
すると、ストレスが原因の自律神経失調症らしいことがわかり、驚いた。
ストレスには強い人間だと、ずっと思って生きてきた。
この年になり、「ストレスに弱い」という事実を突きつけられても困ります。
 
 
それにしても、この痛みは面白いです。
この頃は、次はどこに痛みが来るかと期待?しています。
でも、月曜日に、肩から心臓当たりが痛み出したときには、本当に(80%位)心配しました。昔、心電図を撮ったとき、狭心症に注意、と言われたことがあるからです。
その痛みも去りました。さあ、次は、どこが痛むのでしょうか。
 
 
しかし、何がストレスになっているのでしょう?
仕事量は以前の2.5倍から3倍程に増えましたが、内容は変わりません。
仕事が増えただけなら、体の疲労となって現れるでしょうに。
面倒な人間関係もありません。毎日、殆どの時間を机に向かっているのですから。
 
 
我が身に起こる突発的な事件の時には、主に祈り、助け主聖霊を送って下さるよう祈りますが、習慣的に繰り返される仕事では、それを怠っていたかもしれません。
余りにも些細と思われるので、主を煩わせることもない、ということさえ、頭にも、心にも起こってこなかったのでしょう。祈るということも念頭になかったようです。
 
 
もっともっと、何かが起こった後ではなく、起こる前に、主の導き、祝福、恵みを求めて祈る大切さを、この痛みを通して知らされました。
 
 
ストレスの原因を「仕事」のせいにしていますが、私の心の中には、外に表したくない何かが存在しているかもしれないので、それも探ってみましょう。潜在意識の深いところに。
主がそれを示して下さり、主が示された導きを素直に受容することができますように。
 
 
▼ 27(火) 長い間、お休みしてゴメンナサイ
 
今も、これから、昼寝すべきかどうか迷っています。
今朝未明、理由もなく眠らない(眠れないのではなく)ので、文藝春秋を3時頃まで読んでしまった。起きたのは7時半。チョット、睡眠不足かもしれない。仕事の途中、睡魔に襲われなければいいが・・・と危惧しつつ、でも、このコーナーも書かなくては・・・と
頭は少々、ホンワカとしていますが、書いています。
 
 
このページがストップした最大の原因は、仕事用で使っているPCのウイルス退治に取りかかったからでした。
去年、感染したのを確認しつつ、インターネットをしようすることは殆どないので、そのままにしておきました。
 
 
しかし、今度、野外での野鳥検索にインターネットを利用しよう、と考えてホント、久しぶりにインターネットに接続しました。
すると、数分もしないうちに、「60秒後にシャットダウンします」のメッセージとともに、画面は真っ暗。再起動です。
 
 
ウイルスバスターズを買ってきました。
インストールし、無事終了。
それから、購入してまだ一度もしたことがない、ウインドウズのアップデイト。
これも、長い時間かかりましたが、終了。
 
 
再起動しようとしたところ、再起動しません。
メーカーに問い合わせて、理由がわかりました。
不具合が発生したらしのです。
対処のファックスを送って頂いて、完了。
 
 
と、書くと簡単に1日で完了したようですが、日々の雑用と仕事の合間にするものですから、1週間くらいかかりました。そして、もう、私はダウンです。精神的にか、神経的にか参りました。
 
 
そこへ、娘が、今年2度目の交通事故に遭遇。
病院への送り迎えなどで再び時間を取られて、テンヤワンヤでした。
と、長々と、説明なのか、釈明なのか、単に書かなかった言い訳なのか・・・多分、言い訳です。
 
 
でも、退治したと思ったウイルスが再び出現しました。そして、「隔離」しました。
「駆除」の方法がわかりません。また、あの「60秒後にシャットダウンします」という忌々しいメッセージが現れかねない、と想うと、正直背筋が凍ります。
で、xpでインターネット接続するときには、カバーを開くところから、「現れませんように」と「祈念」しつつ入っていっています。
 
 
7月も最終週になりました。
新潟、福井では豪雨の被害、関東地方では驚くべき高温、九州では、雨が降らないそうです。被害に遭った方の大変そうな顔をTVで見る時心が痛みます。猛暑の中での、水害の後片付けに気が滅入る日々なのではないでしょうか。主の憐れみを祈っています。
 
 
▼ 11日(日) おしゃべり女性3人
 
の内の一人は私。
礼拝後、書店に立ち寄った。
そこで、一人の女性に出会った。
昔、英語を教えた子どものお母さんだが、それ以上の関わりを当時持った。
昔話と、「現代の子どもは・・・」ということに話が及び、延々と話すこと、1時間。
書店の駐車場での立ち話だ。
 
 
その後、書店の隣のスーパーで再び、別の、昔教えた子どものお母さんに出会った。
そして、再び話すこと30分位。
 
 
買い物を終え、投票に行き、帰ったのは午後2時。
私も話すのは好きだが、改めて女性は話しが好きだ、と認識した。
 
 
 
▼ 8日(木) エレミヤ12:1−3
 
12:1 主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。
 
12:2 あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます。
 
12:3 主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。どうか彼らを、ほふられる羊のように引きずり出して、虐殺の日のために取り分けてください。
 
 
どなたでも、一度や二度は、エレミヤが言ったような不平を神様に向かって言い、祈ったのではないでしょうか。
私は、正直な話、何度でもあります。
最終的に、1節の「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。」に戻ることは分かっているのです。それでも、神様に向かい、顔を上げ、延々と文句をはき続けます。
神様は、多分、じっと我慢して聞いておられると思います。私のエネルギーが尽きるまで。
 
 
それは、まるで、駄々っ子の幼児です。
駄々っ子の幼児が、おもちゃ売り場で「これ買ってー」と泣きじゃくるような光景です。
親は、あれこれ対応するより、その子のエネルギーが尽きるのを待つのが最良の方法です。
子どもは泣きじゃくりながら、子どもなりに、いろいろ考えるでしょう。
親の顔色を伺いながら。親がどうしても、おもちゃを買ってくれそうな気配がないのを察知すると、頃合いを見て泣くのを止めます。
 
 
私もそうです。
訴え続けながら、ローマ8:28を思い出します。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
 
そして、私は納得して、怒りは治まります。主イエス様の完全な平安が私を包みます。
アーメン。
 
 
▼ 7日(水) 大きな声で怒ることに慣れていない人の悲劇
 
この人は私の連れ合いです。
彼は大きな声を出して怒ることが出来ません。
大きな声ではなく、小さな声でも怒ることは出来ないでしょう。
怒らない人、というか、怒りを外に現さない人です。
もちろん、長年一緒にいる私は、彼が「怒りの状態」にあるときは、それを察知出来ます。
「なぜ、怒らないの?」と聞くと、「怒っても仕方ない」と言います。
 
 
さて、その様な人生を送って来た彼に、大変な試練が待ち受けていました。
数学を教えています。
中学生で悪いのがいます。
一緒の部屋で教えているとき、彼が大声で怒る声を聞きましたが、何とも悲惨でした。
本当に怒って、本当に怒りの声を発しているのです。
「あぁ、怒り方を知らないなぁ」と思いました。
 
 
幸か不幸か、彼が毎週、怒り心頭に発していた子が辞めることになりました。
チョット、残念です。でも、もう一人、この子ほどではなくても、毎週、「もう、あの子は・・・」と感じている子がいますので、怒り方の練習をするにはいいかもしれません。
二人とも本質的には良い子です。根が良い子だから、本性のままに振る舞うのでしょう。
イエス様が私たちを、ありのままで受け入れて下さっているように、彼らを彼らのままで受容できるとき、問題は解決すると思います。祈っています。
 
 
▼ 6日(火) エレミヤ8:20と10:3&5
 
8:20 「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」
 
独立して現れたこの聖句は、荒涼とした風景を思い出させ、同時に何とも言えない寂寥感を私に与える。昔流行ったトワエ・モアの『だれもいない海』よりさらなる寂しさがある。
「それなのに」が効いている。
 
 
10:3を英語の聖書(NIV:1979年版)で読んでいたら「chisel」という語が出て来た。辞書で調べる。「鑿(のみ)や鏨(たがね)」と書いてある。
文脈から、大工道具らしいことは分かるが、「のみ、たがね」の姿を想像することは出来ない。因みに、新改訳では「なた」になっていた。
こちらは、時々、ニュースや、推理ドラマなどに「なたのようなもの」として登場したりするのでその姿を想像出来る。
今度、ホームセンターへ行ったついでに、のみ、たがねを確認してこよう、と考えた。
確認したからと言って私の人生に変化があるものでもないのだが。
 
 
10:5「きゅうり畑のかかし」を現代の日本人が想像するのも難しいのでは、と考えた。
今、キュウリはほとんど温室で栽培される映像を私たちは見せられる。
もちろん、温室栽培でないキュウリも市場に出てくるが。
温室にはもちろん、案山子は立っていない。温室でなくても日本のきゅうり畑に案山子は立てられていないだろう。
 
 
日本で案山子と言えば、田圃、それも、刈り入れ間近の田圃でお目に掛かる。
中近東のきゅうり畑に立つかかしはどんな姿、顔をしているのだろう。
エレミヤが生きていた時代のように、現代も、案山子はイスラエルのきゅうり畑にいるのだろうか。
 
 
因みに、新改訳で「キュウリ」と訳されている言葉は、英語の聖書では「メロン」になっていました。う〜ん、これなら、案山子を立てて、鳥から守る必要がある、と感じました。
チョット浸った「異文化体験」でした。
 
 
▼ 5日(月) 聖書の思い出
 
「聖書」という言葉を聞く時、フッと、一つの光景が思い浮かぶ。
「聖書、と言ったから聖書を紹介したのに、新約聖書だった。」と少々憤慨したような顔でカウンターのこちら側へ戻ってくる宣教師。
4月恒例のことだった。
 
 
昔、キリスト教書店で働いていた。
4月は新入生の季節。
講義で使用する新約聖書を買いにくるのだが、多分先生は「聖書を買ってきなさい」と言うのだろう、皆さん「聖書を下さい」と入ってくる。
彼らの殆どが聖書を初めて手に取る学生に違いない。
聖書と新約聖書の違いを知っているはずもない。
いろんな聖書を紹介すると、「違う」と頭を横に振る。
先生が紹介したものと違う、という意味だ。
大抵、もっと薄い本、と目で店内を探す。
そして、新約聖書を手に取り、安堵と満足な表情をする。
 
 
日本語ではどちらにも、「聖書」という言葉がついているが、英語は違う。
イギリス人の宣教師を前にして、「バイブル:Bible」と言えば、「バイブル」なのだ。
学生に罪はないのだが(聖書的ではなく、一般的な表現)、4月は私達を混乱させる月だった。
 
 
▼ 4日(日) 私の好きなアイスは何処?・・・
 
と、目を皿にしてアイスを探していた。
アズキアイスが私の好きなアイス。
 
 
礼拝の帰りにスーパーに立ち寄る。
同じ教会の人と出会うことも多い。
そして、このスーパーは、日曜日に冷凍食品を4割引にする。
冷凍食品は買わないが、アイスを1本だけ買う。
 
 
今日も、「アズキアイス」を探すが、ない。
他のアイスは売れたのだろう、空きスペースが沢山ある。
未練がましくアイスの箱を覗いていたら、ニコニコして私を見ている男の子が隣にいる。
一瞬、変な子、と思ったが、待てよ、チョット、見たことがある顔だ。
 
 
その子は、私が英語を教えている子でした。
笑顔が素敵な子です。
その子は近くにいたお母さんの所へ私を連れて行きました。
そして、暫く立ち話。
彼らも礼拝の帰りです。
今度会ったら「あなたのお目当てのアイスは何だったの?買えた?」と聞いてみるつもりです。私は残念ながら買えませんでした。
 
 
礼拝で恵まれるのは当然ですが、その後に、それだけで人を幸せにする笑顔に出会えたこともまた恵みでした。
 
 
▼ 3日(土) 新しいこと3件に胸がドキドキ
 
平凡で、何もなく、淡々とした生活をしていると、チョットした新しいことにも、胸がワクワクする。今日は、その新しいことが3つもあったのですから、朝から、ウキウキした気分になるのも当然です。
 
 
その1.
今まで英語だけを教えていた小学生に連れ合いが算数を教えることになった。
連れ合いに起こったことに、私が何故、胸を高鳴らせるか?
それは、その小学生たちがとても楽しい子たちなので、そこに居るだけで、私も楽しくなるからです。
 
 
その2.
その小学生の内の一人の兄(中学生)が、新しく英語を習うようになりました。
弟が楽しい子なので、つい、兄も楽しい雰囲気の子だろうと、期待していました。
そして、当たりました。
新しい子が来て、今まで女性の中で男性一人だった古い子も、2時間中、ニコニコと幸せそうな顔をしていました。少々、浮かれ過ぎだったかもしれません。
 
 
その3.
仕事を9時(21時)に終えて、家電店の特売に出かけました。
これも初めての経験です。
いくら特売でも、お客はあまりいない、閑散とした店内を想像していた私は大変驚きました。人で溢れています。駐車場も満杯です。
しかし、幼稚園児くらいの子が店内をウロウロしている様は、私にとっては「異次元」の世界です。若い夫婦は共働きなのでしょうか。明日の日曜日も働くのでしょうか。
この時間でないとこれないのでしょうか。いろいろ考えました。
人混みで私は疲れました。
 
 
生活に新風は楽しいことですね。
もちろん、新風は新風でも、嫌なことは「新風」とは言わないようですが。
今日の、3つは前もって分かっていたので、私が「期待」していた「新風」でした。
嫌なことは、不意に起こることが多いようですね。
 
 
教えている英語教室もマンネリに陥らないよう、「新風」を吹き込まなければ、と考えた日でした。慣れない夜遅い外出だったので、無事に帰宅したことを感謝しました。
 
 
▼ 1日(木) 聖書に線引き・・・感動
 
「聖書を読むときには線を引きながら読みましょう」的なお勧めを、本などで読む。
もちろん、牧師が書いた本に書いてある。
疑い深い私は、「本当に、牧師は聖書に線を引いているのかな?」と考え、以後、何人かの牧師の聖書を「横目」で見てみたが、聖書は綺麗な人が多かった。
個人のディボーション用と公の場での聖書は使い分けておられるのだろう、と考えた。
 
 
で、私は線を引きながら聖書を読んでいます。
と、言っても、以前は、読みながら、いわゆる、「感動」したこと、「神様から個人的に示された箇所」に線を引いていたのではない。
 
 
聖書に関する本を読んでいるときに、引用された聖句、全部に線を引いた。
これを10年間くらい続けた。
なぜ、10年間で中止されたのか?
その頃から、もう、新しい聖書引用箇所がなくなったから。
説教で引用されるのも同じ箇所だということも分かってきた。
 
 
時々、これは、絶対に線を引いていない、と期待しつつ、聖書を開き、そこに線が引いてあると、非常にガッカリしたこともある。
数年前、話題になった「ヤベツの祈り」の箇所には、本当に、絶対に線は引いてない、と確信をもって開いたら、昔使っていた黄色のダーマートグラフで、しっかりと線が引かれていた。行間も塗りつぶされていた。・・・・ということは、私はボンヤリと聖書を読んでいるらしい。
 
 
でも、先日は久しぶりに線を引くことが出来て、感動。
それは、6月28日のアパ・ルームで引用されていたイザヤ65:24
 
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
 
この頃は緑のボールペンを使っているので、それで線を引いた。
 
 
私も、ディバーション用と教会へ持っていく聖書は違う。
ディボーションでは新改訳を、教会では口語訳を使う。
ディボーション用の聖書には沢山の線とともに書き込みも多くあるので、聖書の引っ越し・・・新しいのに換えるのは難しそう。もう、かなり、ボロボロ。
ボロボロでも、神様の恵みは変わらない。私が使っている新改訳聖書が恵みをくれるのではない。聖書に書かれた言葉を通して働かれる神様、主イエス様から導きと恵みを頂く。
いづれにしても、線引きされた聖句が一つ増えたことに感謝。
 
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