![]() |
鉄火の裁判 |
![]() |
奥州街道をくだって大町郷(いまの大字羽川)を過ぎると、次に藤井郷の宿場があった。いまの小金井あたりである。 いつのころか、この藤井郷と隣の薬師時郷との間に境界争いが起こった。入会地といって、 1帯の山林が両郷の共有地になっていて、それぞれの郷民は自由に出入りすることができた。落葉を掻き、枯れ葉をひろって燃料にした。長年のしきたりだったが、薬師時郷の人々は、ここは入会地ではなくて、もともと薬師時領だったのを、藤井郷の人々にもおこぼれを分けてやっていたのだ、と言い出したのである。そして、古ぼけた絵図面まで持ち出して、領主に訴え出た。領主は役人に調べさせたが、藤井郷のほうは、何も証拠になるものがなかった。「あの絵地面は、まっかな似せものでございます。わしらのじいさまのころから、たしかに入会地だったのに相違ございません。」 こんなことをくどくど申し立てても、役人を動かすことはできなかった。おじいさんたちが、墓場の下から起き上がって、生き証人になってくれるとよいにだが、それはあり得ないことだった。旗色が悪くなった藤井郷の人々は、毎晩名主の家に集まって相談を重ねた。 「こちらでも、絵図面をこしらえたらどうだ。」 「天智天皇さまがお建てなされた薬師寺という尊い寺がいまものこっていたら、ご利益もあったろうに・・・。」 「西風の晩に、あの林に火をつけりゃ、薬師寺郷は 1軒残らず丸焼けになるだろうよ。」だれもが、この問題に真剣に取り組んでいたのである。老人たちは神仏に祈ろうとし、血気盛んな若者たちは、鎌や竹槍をとって押し寄せようとしていた。「皆の衆、わしにまかせては下さらぬか。」 名主の大越大蔵は、ある夜の会合の席で言った。多くの人数で騒動を起こすと、それだけ多く罪人として処刑されなければならない。火つけも人殺しも、首を斬られ、獄門にかけられるものである。村人たちをおさえ。村人たちの利益のために献身するのが、名主たるものの責任ではないか、と彼は決心していたのだった。満座の人たちは、彼のきびしい表情を見て沈黙した。 「わしは、神や仏のお力にすがっても、必ずどうにか目鼻をつけるつもりじゃ。」 日ごろから村人の信頼が厚かった彼は、むろん全員一致で、このむずかしい裁判沙汰を一任された。夜道をもどる人々の声は明るく、あの名主さまならだいじょうぶ、と言い合うのだった。 あくる日、名主大蔵は役人のところへ行った。 「申し上げます。藤井郷一同のものは、薬師寺方の悪だくみを憎んでおります。さりとて、こちらが正しいという証拠がござりません。このうえは、領主さまのおさばきに従うほかはありませんが、お情けをもちまして、どうぞ裁判にかけて下さい。どんなに苦しい裁判でもいといません。もし私が勝ちましたら、あの入会地全部は藤井郷のものとお決め願います。」 役人は黙って聞いていたが、大蔵の熱誠あふれる態度に感動したようだった。さっそく薬師寺郷の代表を呼びだして、大蔵の目の前で申し渡した。 「絵図面には不審がある。そのまま認めるわけにはゆかぬ。そこで、 10日ののち、鉄火の裁判を行うことにする。双方とも十分用意せよ。」薬師寺方は顔色を変えたが、いまさらどうすることもできなかった。大蔵のほうは、かねてからの覚悟だったから、にこやかに役人にお礼を申し述べて退出した。 それからの名主大蔵の毎日はたいへんだった。朝はニワトリといっしょに起きて、鎮守の社に詣でた。昼のうちは、村の人々の家を一軒一軒見まわって、病人はいないか、ひもじくはないかと心を配った。星がまたたくころになると、お寺に行って、お燈明をあげ、本尊さまの前にいつまでも祈念していた。 こうして、 10日が過ぎた。大蔵は村の人々にまもられて、さばきの場に現れた。やがて、薬師寺郷の人も出頭した。役人は、さもおごそかに、「よいか。鉄火の裁判とは、火で熱した鉄の棒を、あちらの棚まで持ってゆくことなのだ。わかっておろうの。覚悟のほどを見たいものじゃ。」 お役所の広い庭の中ほどに、たきさんの薪がつまれ、その向こうに、角材で組んだ棚がこしらえてあった。 1寸(約3センチ)くらいの太さの長い鉄棒も、役人の前にそろえてあった。「よろしいか。」 役人は左右を見て、「では、火をつけよ。」 下役が、薪に火をつけた。えんえんと燃え立った。そこに 2本の鉄棒をくべて、役人がかずをよんだ。「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ・・・それ、もうよいぞ。」 大蔵と彼の相手はいっしょに立ち上がり、火の中の鉄棒を引き出して、両手にささげた。両郷から集まった何百人が見守るなかで、われ劣らじと棚に向かったが、大蔵の信念の力は強く、てのひらが焼けるのをこらえて、いち早く棚の上にのせた。相手は、うしろのほうで気絶していた。 「見事じゃ。あぱれじゃ。これで裁判は決まった。大蔵方の勝ち!」 わっと、歓声が起こった。藤井郷の人々は、両手にやけどをしている名主をいたわりながら、家まで運んだ。あの広い入会地がこちらに手に入ったのは、名主の身命を賭した働きの結果なのだ。郷民たちの感謝が彼に集まるのは当然だった。村の人々は、毎朝交替で、名主さまの馬のかいばを 1駄ずつ刈ってゆくことにした。のちのことだが、名主大越大蔵の功績に対して、笹原部落に「小金井中興之人」という碑が建てられた。また、鉄火塚と呼ばれるところには、その裁判のあとと伝えられるが、いまは 1面の畑地になっている。 さて、この事件があったのは300年くらい前といわれるから、徳川4代将軍家綱の初政ころにあたる。上代には深湯といって、熱湯に手を入れ、やけどをしたほうが負け、というような裁判もあった。江戸時代になっても、ずいぶん非科学的な裁判が行われたが、こんなむごたらしい方法はとられなかったはずである。もっと古い時代のことらしい。 |
||