首切り地蔵

 天正121584)年はじめ、佐野の城主佐野宗綱は、小田原北条氏の出城になっていた藤原城を攻め落とした。その余勢をかって、榎本城に押し寄せて攻めかかった。榎本方では、守備をかたくして籠城作戦をとった。なかなか落ちなかったが、西風の激しい日に西の廓に火を放たれ、本丸まで全焼してしまった。城主榎本大隅守高満(高綱の子)は、のがれて小田原へ落ちのび、北条氏直(氏政の子)にたよった。氏直は、大兵をくり出して宗綱を攻めたが、佐野方はよく防いで退けた。そのとき、北条勢で捕虜になるものが多く、その人々は榎本の東の上泉で残らず斬首された。土地の人たちは、むごたらしく殺された多くの霊をなぐさめ、あわせて榎本方の戦死者を供養するために、そのところに地蔵さまを建てた。だれ言うとなく、「首切り地蔵」という名前がついた。

 むかしは、毎年314日に、地蔵さまにおむすびをあげて回向するならわしだった。しかし、その日は例年のように涙雨が降るので、近年になって、この地蔵を管理している近くの円満寺におむすびを供えるようになった。

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