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お墓さま |
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天正 11(1583)年7月、小田原の北条氏直は、大軍を率いて皆川城(いま栃木市内)を攻めた。城主山城守広照は、近くの草倉へ出て防戦し、日暮れまで戦ったが、勝敗がつかなかった。北条勢は大平山に陣どって皆川城を見おろし、すきをうかがっていたが、城兵の守備がかたいので、なかなか攻められなかった。対陣2ヶ月、常陸(茨城県)の佐竹義宣のなかだちで、和解することになった。氏直は、その娘を広照の妻にして皆川氏と親戚関係をつくり、その勢力下におさめることに成功した。やがて、氏直は、婿の広照に、榎本城攻めを命じた。城主は、小山秀綱の次男式部次郎高綱だった。皆川方は、五千の兵をもって、東の小林方面からと西の野田方面からと、大手・搦め手を同時に攻撃したが、城兵は奮戦して敵をしりぞけ、攻防 3日に及んだ。皆川勢が攻めあぐんで後退したとき、勇敢な高綱らは城門を開いて討って出て、出流川(永野川)を渡り、野田で激戦を交えた。乱軍のなかで、皆川方の高田小次郎が射た矢が高綱の乗馬にあたり、馬があばれたので落馬した。彼は、なおもかち立ちで奮闘したが、身に数カ所のいたでをうけ、ついに自刃して果てた。家臣たちは、なきがらを守って城中に引きあげ、自然休戦になった。その後、広照は、使者を榎本城につかわして城主の死をいたみ、かたがた小田原方になることをすすめた。皆川氏と小山氏とは同族だったから、このように、手をにぎり合うために努力したのである。 高綱の妻は、生駒の大森氏からとついだ。彼女は、戦いが終わったのち、実家の屋敷のほど近いところ、巴波川のほとりに、林を伐りひらいて塚にを築き、亡き夫の墓を改葬して、厚くとむらった。 人々は、「お墓さま」と呼んでうやまった。大雪が降っても、この塚にだけは真っ白く積もることはなかった、と伝えられている。 後年、塚の上に八坂神社を勧請した。高綱の命日が 6月15日だったので、その日を祭日と定めて毎年行事を行い、それはこんにちまで続いている |
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