文部省などで長い間使用されてきた「精神薄弱」という用語が「知的障害」に変えられましたね。もうひとつ気になる「特殊教育」という用語。その響きに個に応じた特別な「配慮」よりも、有用かどうかの一般と特殊との「選別」ニュアンスを感じてしまう私ですが、考えすぎでしょうか。

精神発達遅滞  

精神発達遅滞
知能面の発達障害である。知能とは目的的に行動し能率的にその環境を処理しうる総合的、全体的能力と定義するなら、学齢期においては学習の場面等に大きな影響が現れることも当然の結果といえる。
思考の働きは、知覚、記憶、推理、判断からなるが、精神発達遅滞児は心理機能の弱さまたは困難さをその特徴としている。
具体的・動作的思考よりも抽象的・言語的思考に困難さを持つ。目前の感覚的・知覚的刺激情報に支配され、背後にある一般性などの間接的・抽象的な理解が困難である。

教科学習の中でも、算数の理解が特に困難であり、機械的な計算は比較的容易でも、応用問題、文章題の理解はきわめて困難になる。重度の遅滞児では、もっとも基礎的な数量概念の獲得・理解も難しいこともある。

しかし、生活行動面では、能力を発揮できる場面も多く、軽度遅滞の子で周囲の子と差がない事も多い。

雑感
  精神発達遅滞児は、日本ではその多くはいわゆる障害児学級(養護学級、育成学級、心障学級、特殊学級)や養護学校に在籍している。

 ところで、かなり以前になるのだが、障害児学級の存在そのものに疑問をもっていた時期があった。しかし何人かの児童を見ていく中で、”ケースバイケース”という当たり前のことに思い至った。
 障害児学級の小集団で、わかることやできることにじっくり取り組むことで自信をつけ、普通学級で学習していた時より、明るく逞しくなった児童がいた。小集団で、担任にも思い切り自分をぶつけ受け入れてもらうことで、普通学級でみせていた暴力的な行為が徐々に減っていった児童もいた。
逆に、障害児学級に入級する事で、学習面での力が伸びた代わりに、普通学級の児童とのつながりが切れてしまい一緒に遊ぶことさえもできにくくなってしまった児童もいた。
一人ひとり違うのだ。その子が今、どんな力をもっているのか。今はどのような状況下でなら、力が発揮できるのか。まさしく個に応じた教育が求められる。学級集団の中で、社会の中で、個のもつありのままの力を遺憾なく発揮できるようにという目的地は一つでも、そこへのプロセスは子どもの数だけあって当然だ。
 ここ数年、コミュニケーション障害ということばを良く耳にする。私自身の解釈ではそれは、従来の障害児教育が障害の克服や諸能力の向上といった事にこだわりすぎてはいなかったかという反省から生まれたのだと理解している。すなわち、それはコミュニケーションの障害を単に障害児・者の能力の問題に起因させるのではなく、かかわり手との相互の問題であるととらえ、かかわり手自身の”障害”や”障害児”の受けとめ方、価値観や教育観、さらにはかかわりの具体活動の在り方なども問うていくという考え方である。
 多分それは、狭義のかかわり手だけの問題にとどまらず、社会の中の一人ひとりが、どれだけ、障害児・者と共に生きる姿勢をとるかということに帰結される問題なのだろう。そしてそれは、ごく当たり前の日常の中の一風景として社会に根づいていく種類のものでもあるだろうとわたしは解釈している。
 そのような考え方、社会的な背景の中ですれば、障害児学級での取組も、障害の克服や諸能力の向上といった意味合いからは解き放たれた、障害児・者の主体性や必要感に立脚した自己実現を目的とするものになっていくであろう。
 障害はあってはならないものではなく、実際にそこにあるものだという認識からスタートし、それを取り去ることに終始するのではなく、そこにある当たり前の事と どう一人ひとりがかかわっていけばいいのかということを問い直すこと。それが、コミュニケーション障害の考え方であり、障害児教育の中でも立ち返らなければならない原点なのではないかと思う。
 
 実際、障害というのはあって当たり前のことであり、決して特殊なものではないのではないか。以前、脳や聴覚や発声発語器官のつくりや機能について勉強したことがあるが、そのあまりの巧妙さに、実際のところ生まれてくる子どもの100人が100人とも問題もなく生まれ育つことのほうが、特殊なのではないかと思ったほどである。そう考えてみると、
世の中には、頭の良い人、良くない人、スポーツのできる人、できない人、絵の上手い人、下手な人、・・・あって当然でそれらが当然である事と同じように、障害も決して特殊ではないのではということに思い至ったわけである。
”障害”は単に、今の社会の中でのその子にとっての生きにくさというニュアンスのものであって、その子が社会の”障害”なのではない。

  「今はできないことや下手なこ とも、努力すれば出来るようになる。きっと上手になる。」
その言葉を支えに、多くの児童は頑張っている。しかし、障害児学級に在籍する児童の多くは、本人の努力にも拘わらず、その発達の緩やかさゆえに、周囲に追い付くことはかなり難しく、挫折感に打ちひしがれることも少なくないのではないか。
 前述のコミュニケーション障害の考え方に戻る。何かが出来るようになることは確かにすばらしい事には違いない。しかし、「できる」ことにとらわれすぎると、知らず知らずのうちに能力主義、発達至上主義の考え方に陥ってしまうのではないか。
 社会そのものが能力主義の神話から自由になれない今、乗り越えていかなければならない課題は大きい。だが、能力主義の社会の中では、おそらくは主役になることも少ないだろうと思われる子ども達、そんな障害児学級のこどもたちだからこそ、能力主義の神話に縛られずにすむという利点もある。社会が変わっていくのを待っているだけでは状況は変わらない。私たちが、私たちの場で考え行動していかねばならない。

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