こちらにお願いします
〜季節のたより〜
このページは私の雑感を思いつくままに・・・、そして近況を掲載しています。
ごゆっくりおくつろぎください。

東日本大震災で、被災されたみなさまに心よりお見舞申し上げます。
一日も早い復興をお祈りいたします。

更新日 2012/2/13

白梅 フキノトウ

今週のこよみ
2/13 2/14 2/15 2/16 2/17 2/18 2/19
二の午
下弦
雨水
旧暦 1/22 1/23 1/24 1/25 1/26 1/27 1/28
月齢 20.8 21.8 22.8 23.8 24.8 25.8 26.8
★雨水…字義は「雪が雨に変わり氷が水になる」の意、春の季語。

光と影
 
  「輝く日の影/はゆる野山/…麓を目掛けてスタートきれば/粉雪(こゆき)は舞立ち/風は叫ぶ…」
この文部省唱歌「スキーの歌」を、長野師範(現・信州大学)付属小学校の6年生だった1935年(昭和10年)に習った。「新訂尋常小学唱歌(六)昭和7年刊」に初出の歌である。
影を日向(ひなた)の反対語としか思っていなかった私は、「輝く日の影」という歌詞に強い違和感を抱き、帰宅すると直ぐに、長野市で宗教新聞を発行していた父に質問した。すると父は大きい辞書を持ってきて、「かげ」の第一の意味は「光」で、朝日影、入日影、春日影などはすべて光であること、私の考えていた「かげ」は辞書では二番目の意味になっていること、その他、「恩恵、庇護」の意味の「おかげさま」など実に多くの意味があることを示し、「辞書遊び」の面白さを教えてくれた。
本稿を書くにあたって改めて辞書を引いてみたら「他人にしられないような祝儀などの心づけ」を「かげ」と呼ぶともあった。この「かげ」は時には汚職のきっかけになりかねない。「春高楼の花の宴/巡る盃(さかずき)かげさして」(荒城の月)の「かげ」は「影、景」と書いて光をさし、祝詞(のりと)の「天(あま)の八十(やそ)かげ」の「かげ」は「蔭、陰、翳」と書き、多くの日蔭を作る立派な高楼、宮殿をいう。現代の都会では、そんな八十蔭が林立して日照権問題を起こしている。
戦後生活がようやく落ち着いたころ「お父さん温泉、僕スキー」というCMが流れた。申し訳ないことだったが、当時の日本のお母さんたちは、「かげ」で家を守るのを、当然の務めと考えていたのだった。

(読売新聞長野県版コラム「倉嶋厚の季節アルバム」08年冬より)




2月9日、日の出前の早朝、前夜満月だった月が西の空に沈む前に富士山と一緒に撮影してみました。
正面の山は愛鷹山です。                                                   
静岡県三島市 mochanさん


読者のみなさまの「季節のたより」をお待ちしています。
どんな話題でも、デジカメの写真でなく普通の印画紙の写真でも、携帯電話の写真(写メール)でも、また写真がなくても結構です。どうぞお気軽にお寄せ下さい。
身近な出来事やお住まいの地域の行事・催し物・風物詩、ご旅行されたときの話など、なんでも、お知らせいただけると嬉しいです。
投稿していただいた写真・コメントなどをこちらの欄に掲載させていただきます。
(匿名希望の方はその旨をお知らせ下さい。但し、投稿時にはその都度
氏名・所在地を必ず明記してください。)
★投稿はこちらまでお願いいたします

次回投稿締め切りは2月19日午前零時とさせていただきます。
  以降の投稿は翌週の掲載となりますのでご承知ください。
★メールアドレスはkurashima_jimusyo@yahoo.co.jpです。(kurashimaとjimusyoの間は「_アンダーバーです)
携帯など直接入力される場合お間違えのないようご注意ください。

 
 こちらでは今年の積雪量は平年より少ないので、スノー・バンク(Snow bank、雪の壁)もまだそれほど高くはありません。とは言え、時々、吹雪を伴ったスノー・ストームに見舞われるため、依然として雪に覆われた風景が続いています。左上は吹雪の後、スノー・ブローワー(Snow blower、除雪機)で出入り口の除雪作業をしているところ。吹雪の後はあちこちで、作動する除雪機のすさまじい音が聞こえると共に、舞い上がる雪煙が見られます。ちなみに、こちらで吹雪よりもっと悩まされる天候は、フリージングレイン(Freezing rain)です。先日のフリージングレインの後も地表という地表は氷で覆われて滑りやすい状態になりました。我が家の外階段も同様。犬(右上)を連れ出そうとして滑って手を打撲。さらに、ツルツルに凍結した我が家のドライブウェイ(出入り口)に砂を撒こうとして、またもや滑って肩を打撲。何度経験してもフリージングレインは厄介なものですが、その翌日は打って変わって空は晴れ渡り、木々を覆った樹氷が陽の光にキラキラと輝く光景(右下)を見ることができました。左下は市内の屋外スケートリンクでアイスホッケーの練習に励む若者たち。こちらカナダでは、屋内リンク(アリーナ)だけでなく、公園や校庭の片隅などを利用した屋外スケートリンクが随所に設けられています。これは自宅のすぐ近くでもアイスホッケーやスケートの練習ができるように、との行政側の配慮・工夫によるものです。言うまでもなく、アイスホッケーはカナダの国を挙げてのスポーツであり、この参加人口たるや相当数に上ると聞きます。我が家の近くでも、自宅の庭に作った小さなスケートリンクで子供たちがアイスホッケーの練習をしている姿をよく目にします。これも真冬の寒さが−10℃〜−20℃になるからこそ可能にしてくれるものであり、冬と向き合うたくましい発想の一つだと言えるのではないでしょうか。

カナダ・ニューブランスヴィック州 Erikoさん (by Eriko in NB, Canada)


1年半ほど日本テレビが私の日常生活や行動に密着取材して作成した30分番組NNNドキュメント「やまない雨はないーうつ(鬱)と生きるお天気キャスター」が、2011年10月30日深夜と11月6日昼と夕方に全国放送されました。事前に東京新聞と週刊新潮に番組内容が紹介された関係もあって、多くの方が見てくださり、ご好評をいただきました。私のHPのアクセス数もふだんより約2000回も急増し、お励ましのメールも数多くいただきました。厚く御礼申し上げます。


2011年9月17日、川崎市高津市民館大会議室で行われた「こころの健康セミナー」で「やまない雨はない〜妻の死、うつ病、それから〜」と題して、で50分間の講演をしました。定員300人を超える市民の方が集まり、熱心に聞いてくださり、感激しました。もう一人の講師は帝京大学医学部附属溝口病院精神神経科の張 賢徳先生で、社会的、文化的背景から「うつ病」を経過して自殺決行にいたるまでの分析を実に明快に延べられ、満堂の聴衆が何度も、うなづきながら聞いていました。日本テレビのカメラ取材も行われておりました。

2011年9月15日18時ごろテレビ朝日の報道スタッフが私の書斎にきて、異常残暑についての感想・見解について取材・収録して帰り、夜の「報道ステーション」で放送されました。全国の多くの方々から「元気そうでよかった」という電話やメールをいただき、感激しました。有り難うございました。

2011年8月30日〜9月1日、このHPのアクセス数が急増したので、不思議に思っていましたが、ローマ在住の方からJSTV(欧州向け日本語放送)で私の著書「やまない雨はない」を原作としたドラマの放送予告があった、と知らせてくださいました。アクセス数の急増の原因は多分、これだと思われます。この方は五十歳代の医師で、お若い頃、NHKの「ニュースセンター9時」の私の天気解説を、いまも覚えてくださっているとか。感激しました。

2011年8月6日、名古屋市ウエスティンナゴヤキャッスルホテルで行われ名古屋内科医師会・愛知県下内科医師会合同学術講演会で「日本の空をみつめて〜気象予報と人生〜」と題して1時間15分の講演をしました。私の場合は文化講演会的内容で、これまでの気象予報の仕事の経験のなかから、ハインリヒの法則、風浪とうねり、一発大波、雪崩作戦、伝達率、3分間の重み、削る美学、愛語の力、鬱病の経験などの話題を選び、人生の思いをからめて、話させていただきました。会場一杯100人以上の内科医の方々が、87歳の老人の話を熱心に聞いてくださり、ありがたく思いました。

公益財団法人・渋沢栄一記念財団発行『青淵』2011年8月号に「日本の暑さについて考える」と題して3ページの論考を書きました。

毎日新聞社刊『いのちの一句〜がんと向き合う言葉〜』(206ページ、\1700)に、俳人の石寒太さんが、「今日一日(ひとひ)生きよう妻よ梅日和」の句とともに、私と亡妻のことを10ページにわたって書いてくださいました。

日本気象学会名誉会員に選出されました。
去る5月19日、国立オリンピック記念青少年総合センターで行われた日本気象学会2011年度総会において、日本学士院会員・松野太郎氏、筑波大学名誉教授・吉野正敏氏とともに、私が日本気象学会名誉会員に選出されました。日本気象学会名誉会員は昨年まで、故人13名を含めて27名おられ、いずれも気象庁長官、大学教授などを務められ諸外国でもその学問的業績が高く評価されている気象学者で、私のような経歴の者が選出されたのは異例のことのように思われ、光栄に存じるとともに、今後も自重して気象学の研鑚に務める所存であります。日本気象学会の名誉会員推薦委員会、常任理事会ならびに理事会が私の「主要な業績」として認めてくださったのは「気象学の啓発活動、民間気象業務の推進への貢献」で、「気象庁において長年にわたって予報業務に携わるとともに、モンスーンの研究でも業績をあげた。気象庁退官後は日本放送協会解説委員、気象キャスターとして気象放送の発展、民間気象業務の推進に尽くした。さらに気象エッセイストとして多数の著作を刊行し気象学の啓発活動に貢献した」と推薦文書に記されています。