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▼むかし語り▼





数多くの男性と恋の浮き名を流した和泉式部。
和泉式部は、ただの浮かれ女?
恋多き女ではありましたが、それ以上に心の傷が多かったに違いありません。
深く身に染みるあの歌この歌も、そこから生まれたのです。



父:大江雅致
母:平保衡女
幼名:御許丸

父親は太皇太后宮昌子内親王の大進、母親は内親王の乳母でした。
いわゆる受領と呼ばれる中流貴族階級です。
大江氏の系図をたどっていけば阿保親王につながるとか、つながらないとか。
過去に歌人を輩出したりと、なかなかに教養センスの高い一族なのです。
幼名を御許丸といった和泉さまは、幼い頃から宮廷の雰囲気に包まれて育ちました。
ちょっぴりおませさんで(ときにドキっとするくらい)、
不思議な愛嬌のある女の子だったのではないでしょうか。
父親にかわいがられ、妹や女友達も何人かいて、仲良くしていたようです。
昌子内親王には家族ぐるみでお仕えしていた可能性が高いです。
内親王の邸で出会う洗練された人々との関わりが、
御許丸を社交的でより情感溢れる魅力的な女性へと成長させたのだと思います。
この頃に為尊親王・敦道親王と接触する機会があったとも考えられています。


結婚:橘道貞
恋:為尊親王

年頃のピチピチ娘(笑)に成長した和泉さま。
殿方の目を引く美人さんに、結婚の話が持ち上がります。
お相手は橘道貞。父・雅致の片腕的存在で、実直な人柄です。
お互いの家柄もつり合うし、蓄財にたけているとの噂も・・・!?
とにかく父・雅致さんがノリノリで、すっかり婿殿に惚れ込んでいたようです。
恋愛結婚なのか、見合い結婚なのか、判断が微妙です。
さて、おとなしく?結婚した和泉さま、早くも娘に恵まれます。後の小式部です。
受領の夫の赴任先の和泉の国へついて行ったこともありました。
「和泉式部」とは、道貞さまのこの和泉守にちなんで呼ばれるようになった名です。
(橘許子 ・・・いや、ちょっと呼んでみたかったもので。すみません〜)
道貞さまは野心ある仕事人間で、妻をいとしく想っても、
それを上手く表現するのが得意でないタイプのように見受けられます。
一抹の寂しさを感じたのでしょうか、
和泉さまはプレイボーイで知られる為尊親王(弾正宮)と恋に落ちます。
為尊親王は女心をくすぐる要素をたっぷり持った情熱家の貴公子です。
夫にはない魅力に強く惹きつけられたのでしょう。
身分違いの恋ですが、若い2人はたちまちかっ飛びます(笑)。
つられて世間の悪評も飛びまくるなか、為尊親王が病でお亡くなりに・・・。


別れ:橘道貞
出逢い:敦道親王

永遠の別れを告げられた為尊親王。
いつのまにか疎遠になり、事実上離婚になってしまった道貞さま。
そんな和泉さまの素行のだらしなさを責めて勘当した父親。
ある部分自分が悪いとはいえ、
和泉さまの大切な人はみんな遠くへ行ってしまいました。
憂い顔で美人にますます磨きがかかった和泉さまに、
男達がわらわらと言い寄ってきますが、物足りず。
心の隙間は、ますます拡がるばかり・・・。

さてさて、ここから「和泉式部日記」の記事が始まります。

夢よりもはかない日々が続き、もうすぐ為尊親王の一周忌という頃、
なつかしい顔が和泉さまの前にひょっこり現れました。
為尊親王にお仕えしていた童です。
和泉さまは、親しく近状などを尋ねてやります。
と、童は花橘の一枝を差し出し、敦道親王の使いで来たと言いました。
敦道親王(帥宮)といえば、為尊親王の同腹の弟君にあたる方です。
和泉さまは胸にこみあげる熱い想いを抑えきれず、
つい本心を歌に詠んでお返ししてしまいます。
きっと大丈夫、きっと何ともないと思いながら・・・。


恋:敦道親王
苦悩、苦悩、苦悩

帥宮さまからのお返事は積極的な内容でした。
和泉さまは、
「故宮さまの喪も明けてないのに。私ってば、またヤッチマッタですわね。ふぅ」
と節操の足りない自分を戒めて(↑だいぶ誇張入ってます・・・)、
お引き取り下さいの意味をこめたお返事を差し上げます。
ところが数日後、帥宮さまご自身が和泉さま宅にいらっしゃいます。
そしてその晩、あれよあれよと契りを結んでしまわれます。
和泉さまも悪い気はしない、それどころか、 不思議としっくりした気持ちになったのではないでしょうか。
このお方こそが運命の人なのですから★

恋に落ちた美男美女。絵のようですね。
筆まめな二人は、恋文をしたため、想いを歌にのせて贈り合います。
−−−恋がこんなにつらいものだとは。
−−−恋なんて陳腐な言葉では、この気持ちは表現できない。
月を眺めては恋しい人への想いをつのらせ、
雨が降れば我が涙雨かと物思いに沈む。
お互いの立場、世間の噂、しがらみ、故宮のおもかげ。
・・・様々な障害を抱えて涙し、濡れた袖は乾く暇がありません。
スリリングなデートや感情の行き違いが度重なってきた頃、
帥宮さまから、一緒に暮らそう、と・・・。

ほんの31文字ばかりの歌に、 どうしてあれほど底なしに深い意味をこめられるのか、とっても神秘的。
そうそう、二人の恋文をせっせと運んだ童に拍手を!


お引っ越し:南院へ
愛があれば

帥宮さまが好き!
世間にどう思われようと、プライドを捨てることになろうと、関係ないわ!
和泉さまは心を決めて周囲のごたごたを整理し始めます。
そうしたある日、フラリとお出でになった帥宮さまは、
和泉さまをさりげなーくご自分の邸(南院)へとひっさらってゆかれます。
南院では、和泉さまが少しでも快適に暮らせるように、 帥宮さまがあれこれと気を配ってくださいます。
上流の人々との交流の場にも積極的に和泉さまを連れ出します。
周囲に認めさせようと頑張る帥宮さまが、いじらしくて素敵ですね。
もちろん和泉さまも感無量です。が、ちくちく気になることが1つ。
同じ南院にお住まいの帥宮さまの北の方の存在です。


苦い勝利?

帥宮さまと北の方(藤原済時娘)の関係は、以前から寒々しいものでした。
いよいよ和泉さまを邸に迎えたことによって、それは悪化の一途を辿ります。
久々に帥宮さまがお渡りになっても、北の方ばかりか女房達までもが冷たい反応を返してくるばかり。
これには帥宮さまも逆ギレ(笑)。
噂は東宮妃の「女成子(せいし)」さまの元まで流れてゆきます。
東宮は居貞親王(帥宮の兄君)、東宮妃は北の方の姉君にあたられます。
・・・コレはかなり気まずい関係です。
事の次第に憤慨された東宮妃は車を寄越され、北の方を里帰りさせてしまわれます。
北の方「いっそ尼になってしまいたいわ・・・」
東宮妃「何言ってんの! 帥宮よりイイ男を捕まえて見返しておやり遊ばせ!」
いつの時代も女は怖いです(笑)。

取り巻く状況に対し、和泉さまはどのような心境だったのでしょうか。
「すっきりしたわー!」という悪魔の気持ちと、
「私のせいだわ・・・」という天使の気持ちが複雑に同居していたことでしょう。
そんなとき、帥宮さまとの強い愛に支えられるのです。

「和泉式部日記」は、ここで幕をおろします。
余韻を残しつつ、引き際の鮮やかさ!!
(とは言っても、後世の読者としては、もっと知りたい〜が本音ですよねっ)


世界:二人のために
生涯の恋人

二人の熱々ぶりはヒートアップしていきます。
以前、帥宮さまが約束して下さったように、まさに「潮焼き衣」。
(毎日顔をあわせても、飽きるどころかますます愛おしくなる、というような意味です)

二人で賀茂祭見物に出かけた時のことです。
乗っている車は特別仕様、改造車です(笑)。
なんと簾が縦半分に切られていて、
帥宮さまの側は高く巻き上げられ、和泉さまの側は下ろされていました。
そして美しい衣装の袖と「物忌」札が車からひらひらっと。
車の中で、騒ぎをよそ目に、いちゃつく二人(笑)。
周りの見物人は、お祭りそっちのけでこれに見入ったとか。

藤原公任さまの白河院にお花見に行きました。
公任さまがお留守だったため、帥宮さまが一首を詠み残されて帰りました。
「われが名は花盗人とたたばたてただ一枝は折りてかへらむ」
花盗人と呼ばれても構わない。この花は私が貰っていくのだ・・・そんな意味です。
「花」は人妻であった和泉さまのことです。
邸の「花」と和泉さまという「花」をかけてあるのです。
その後、帥宮さま、公任さま、和泉さまの三人で微妙なお歌をやりとりしています。

男のお子にも恵まれました。(もう一人いるとか、いないとか?)
石蔵宮、あるいは永覚(僧籍です)と呼ばれる方です。
この若君、ぜ〜ったいに、むちゃくちゃ美形だったと思うのですが・・・(笑)。

この愛に満ちた幸せな日々は、わずか4、5年で終わりを告げます。
27歳の惜しまれるお若さで、帥宮さまがお亡くなりになるのです。


花は匂へてみえず 墨染にして

和泉さまの嘆きは、どこまでも深く、深く、深く・・・・・

南院では、和泉さまは帥宮さまのかなり近しい立場だったらしく、
遺品の整理などを取り仕切りっています。
二人で見た花、お召しになるはずだった衣装、日常お使いになられた小物、
そして、我が身さえもが帥宮さまの想い出に変わる中で、和泉さまは思います。
「あたくしと話しをしても、ちっとも面白くないでしょうね。
いつでも帥宮さまのことしか心にないんですもの」
帥宮さまの愛して下さったこの身体を捨てることになるのでは、
ましてや、かずならぬ我が身では、
尼になることも悲しく、ためらわれる、そうも思うのです。
和泉さまは、やるせない、すべての想いを激しく歌にぶつけました。
悲しみを乗り越えるためには、そうするしかなかったから。
このとき詠まれたのが、帥宮挽歌と呼ばれる120首を越える歌です。
和泉さまの涙の跡でにじんでいるような、痛々しいものばかり。
「和泉式部日記」が書かれたのも、この時期ではないかといわれています。

道綱(兼家男)に文を送ったら、大変失礼な返事が返ってきたり、
世のすきもの達が再び言い寄ってきたりと、
和泉さまの気持ちにおかまいなく、あらぬ噂が流れたりもします。

こうして、喪に服す墨染色の1年が過ぎていきました。


道長の罠?
新しい空間:中宮彰子と
結婚:藤原保昌

その頃には美しい歌人としての名声を確立していた和泉さまに、
「宮仕え女房にならないか〜」と、時の権力者・藤原道長からお声がかかります。
皇后定子のサロンに対抗できるものを、中宮彰子にも持たせようと考えての人集めでした。
そこには、赤染衛門、紫式部、伊勢大輔ら才女がすでに集っていました。
和泉さまも、快く承諾します。
初出仕の日は、伊勢大輔がお相手を務めてくれて、記念に?歌を交わしたりしました。
美しく、穏やかなお心持ちの中宮彰子も歓迎して下さいました。
中宮さまには、なんと、娘の小式部もお仕えしているのです。
小式部も中宮さまに大切にして頂いたようです。母娘で幸せ、ほのぼの。
なかには和泉さまの過去を悪く言う女房もいたことでしょうが、
特に目立った問題もなく、日々が流れていきます。
道長さんとはかなり気が合ったようで、冗談っぽいやりとりを何度も持っています。
和泉さまの扇を取り上げ、「浮かれ女」とからかったのも道長さんです。
それらキツめの言葉にも、即座に機知にとんだ対応ができるのは、
和泉さま本来の、陽気で頭の回転の速い性質の賜物でしょう。
その道長さんから、彼の家司を務める藤原保昌との再婚をすすめられるのです。


はるかに照らせ 山の端の月

保昌の妻となり、受領夫人として赴任先の丹後へ行くことになった和泉さま。
気が進まず、まわりの人々にため息をもらします。
道長さんに例によってからかわれ、中宮さまからは優しいお気遣いと扇を賜ります。
いよいよ旅立つ和泉さま。この先のつらい出来事を予感していたのでしょうか?

丹後での日々は、楽しいものではなかったようです。
構ってくれない夫、なつかしい京の都、秘めたる恋人のこと・・・。
それより何より悲しい知らせが、和泉さまを容赦なく襲いました。
小式部が、2度目のお産の後、力尽きてしまったのです。
和泉さまは、またも暗き途の狭間に落とされました。
大切な人の死を嘆く歌を、こんなにも早く、再び詠むことになろうとは・・・。

その後は、悲しい出来事が続きます。
小式部が亡くなった次の年、今や太皇太后彰子が出家されて上東門院と称され、
さらにその翌年には、栄華を極めた道長さんも天に召されます。


和泉式部のおもかげ

和泉さまは、いつまでその生命の灯を保っていたのでしょう?
万寿4年、皇太后妍子の七々日供養に、保昌の妻として玉の飾りを献上し、歌を詠みました。
それが公式の記録に現れる最後の消息です。
長元9年(1036年)の保昌の死に際しての歌は残っていません。
おそらく、和泉さまがそれ以前に亡くなっているからなのでしょう。
それとも、存命していたけれど歌など詠みたくないほど仲違いしていたとか!?(爆)
和泉さまに限って、そんな薄情なことは、なさそうですしねぇ・・・??
(・・・そういえば、道貞さんへの挽歌って!?)
そのようないくつかの手がかりから、
長元7年(1034年)頃が没年ではなかろうか?
一説には、そう考えられています。

昔、和泉式部という女性の体験した、喜び、悲しみ、心の揺らめき。
本当のところは、和泉さま本人にしかわからないことです。
それでも・・・・・

多くの説話や伝説が生まれたのは、後世の人々に和泉さまが愛された証です。
その魂のかけらのような歌は、勅撰集に数多く採られ広まりました。
それらは、今も、これからも、いつまでも、人々の胸を打つことでしょう。



いかがでしたでしょうか。
和泉式部のむかし語りは、これにてとさせて頂きます。
(今後も手直しは、していくつもりです)
最後まで読んで下さった方、ありがとうございました。





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