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■三条天皇(976年〜1017年)

冷泉院×超子の一の宮です。諱は居貞です。
超子を御生母となさる美形三兄弟(と勝手に呼んでます・笑)の、いちばん上のお兄さまです。烏帽子をかぶられたお姿が、祖父の兼家さんにそっくりでいらっしゃったとか。 その三兄弟の中では、これもいちばんの御長命を保たれました。けれど、生涯を通じてお幸せであられたかといえば・・・。
4歳年下の一条帝の御代に東宮として過ごされました。中宮定子の妹君の原子(道隆女)、道長の異母妹の綏子(兼家女)が入内なさっております。 なかでも皇子をお産みにになられた女成子(済時女)へのご寵愛は格別でいらっしゃいました。興味深いのは、原子と女成子の、それぞれの妹君が敦道親王に嫁いでいる点です。 政治的な思惑が否めない布石のようで、いやらしいかんじです。転びようによっては敦道親王も有力な東宮候補足り得ると考えられていたようなのです。
ところで、この女性問題に関しては、派手に行動なさった他の冷泉皇子たちとは、ちょっと趣が異なるようです。聡明でしっかり者の兄上でおられたのです。 ですが、時に危ないほどの勝ち気なご気性が現れるのは、ご兄弟共通でいらっしゃったようです。
東宮時代の夏の暑い日、綏子に向かって戯れに仰せになりました。「私のことを想ってくれるなら、この氷を私が良いと言うまで持っていてごらん」と。 綏子は素直で大人しいところが取り柄、あるいは欠点でもある女性でした。 今度も仰せのままに、冷え切ったその手が紫色に変わっても氷を離さず持っておられました。東宮はだいぶ経ってからそれをご覧になり、ぎょっとして仰るには、 「しばらく持っているだけだろうと思っていたのに。あれではいじらしいを越して興ざめだね」・・・勝手といえば勝手なご言い分(笑)。 後にこの綏子は、源頼定との密通・懐妊事件を起こすわけですが・・・。
さて、36歳で即位なさってからは、時の権力者である道長との折り合いが激悪で、三条天皇にとって耐え難い苦汁の日々が続きました。 加えて、生来の御目の疾病が進み、周囲を困惑させます。政務にも支障があるのでは?と、同情やら中傷やらの声が上がったりもします。 特に道長の嫌がらせは執拗で陰険、一刻も早い退位を押しつけてきます。なぜなら、次の帝におなり遊ばす敦成親王(後の後一条天皇)は道長女・彰子御腹の皇子だからです。 ストレスばりばりの三条天皇が、「道長の私に対する態度は、無礼にも程がある!」と、お心を許して愚痴をぶちまけられる相手は、皮肉なご意見屋の実資。 実資の残した日記「小右記」に、愚痴られたことが書き残されているそうです。
ところで道長は、抜かりなく自身の女も三条天皇の後宮に送り込んでいます。御名は妍子です。 彼女本人に悪意はなさそうで、父と夫の間で板挟みになり苦悩なさるのです。
三条天皇の御代には当子内親王が斎宮に選ばれておりました。 その後、任を終え帰京した当子は、藤原道雅(伊周男。その頃、伊周系統は道長に押されて失脚)と恋仲になりますが、無駄な摩擦を作りたくなかった父君・三条院の猛烈なお怒りをくらい、仲を裂かれて、ついには亡くなってしまわれます。 この時、道雅の詠んだお歌が有名な、「今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな」 悲しいドラマが多いです・・・。
御目の患いがいよいよとなり、三条天皇はついに譲位を決意なさいます。ご嫡男の敦明親王を次の東宮にすること、という条件つきで。
その翌年の寛仁元年に、耐えて闘って、お力は尽き果てられ・・・42歳で憂き世を後にされるのです。
ところがその後、ここまでして得られた東宮の位を敦明親王は自ら降りてしまわれ、以後は小一条院と呼ばれることになります。 お父君も既に亡く、確かな後ろ盾を失われた今、ある意味賢いご選択でもありましょうが、三条天皇が浮かばれません・・・(涙)。

「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」
憂き世に疲れ、妍子の傍らで、フっとつぶやかれたお歌。込められた切実な思いに胸がつぶれそうです。
不思議なことに、妍子からの御返歌は伝わっておりません。それは何を暗示しているのでしょうか・・・。




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