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■小式部内侍(997年?〜1025年)

和泉式部の愛娘です。
父親は道貞さまです。すでに恋多き女と思われていた和泉さまに向かって、「誰が父親なのやら」と失礼な物言いをする口さがない人もおりました。 その程度ではへこたれない和泉さまは、お歌にまぎらせて「わかる人にはわかるのよ〜」と、鮮やかに切り返しております。
その頃の和泉さまは夫の道貞さまと別離し、父親から勘当されるという状況にあったため、幼い小式部は和泉さまの実家に引き取られ、母親からは離されて養育されました。
結果的に自分を置き去りにした母親に、小式部はどのような想いを寄せて育ったのでしょうか・・・。その後の小式部の様子から考えますと、嫌ったり憎んだりはしなかったようです。むしろ大好きだったように思われてなりません。
宮さまご兄弟(弾正宮さまと帥宮さま)と人の噂になるほどの恋愛の後、両親王とも死というかたちの結末を迎えてしまった和泉さま。 道長さんに請われて彰子中宮のもとに出仕しますが、成長した小式部もここに一緒にお仕えすることになりました。
やはり血は争えないものですね。小式部もやんごとない公達(複数)と華やかに恋愛を重ねました。 お相手は、定頼(公任男)、教通(道長男)、教通に先を越された頼宗(道長男)、公成(実成男)とか・・・。
歌才のほうも受け継ぎました。母親の代作ではないか?との濡れ衣もありましたが、それを取っ払う事件が起きております。百人一首に採られた有名なお歌にからむものです。それは母親の和泉さまが夫(保昌)について丹後に下っていた時のことです。 定頼に「丹後に使者は送りましたか?(母上が不在では代作の歌が詠めないでしょうね〜)」とからかわれた小式部は、定頼を呼び止め、どかーんと一発詠み放って差し上げました。
「大江山いくのの道も遠ければまだふみもみず天の橋立」
遠くにいる母から文(ふみ)なんて貰ってないですわ!(代作ではございませんわよ。失礼しちゃう!)
当意即妙に詠まれたこのお歌は、当然ながら小式部の自作。我が身の敗北を悟り気まずくなった定頼は、ほうほうの体で逃げていきました(笑)。
その定頼とは恋人関係だったのですが、彼はなかなかに食えない殿方だったようです。こちらも父親譲りの気質でしょうか?(笑)
定頼と教通、同時進行で関係のあった小式部。ある日、局で教通と伏せっていたところに折り悪く定頼も訪ねて来て戸を叩きました。 そこで来客中(笑)であることを告げられた定頼はおとなしく(?)引き返しながらも、あろうことか、声のトーンをやや上げてお経を読み上げたのです。 局の内で、二声までは「きっ」として聞いていた小式部。少し声が遠くなってから三声、四声と続くや、「うっ」と呻いて教通に背中を向け、しくしく泣き始めました。 教通は後になって語ったそうです。「あんなに恥ずかしい思いをしたことはなかったな」と。もっともなことです。なんだってお経なんか浴びせられて、ね〜。
教通との間には子供が生まれました。両親の身分の違いの関係で僧籍に入らざるを得なかった、静円と呼ばれる息子です。もう一人娘がいたとか、別の男(藤原範永)の娘もいたとか・・・とも言われております。
万寿二年の冬、公成の子(頼仁)のお産がもとで小式部は若い命を落としました。まだ三十路も踏んでいなかったのです・・・。
幼い子を残して亡くなってしまった娘を悼み、和泉さまは深い悲しみに沈みました。小式部を可愛がっておられた彰子中宮もお嘆きになられて、いろいろとお心を尽くして下さいました。 小式部の衣で経文の表紙もお作らせになりました。母親の和泉さまはたいそう感激して、新しい涙にむせぶのでした。

教通が病を患った時、小式部は自分の身分を憚って、お見舞いに行くことができませんでした。
後日、「どうして見舞って下さらなかったのです?」と、教通から問われてお返ししたお歌です。
「死ぬばかりなげきにこそはなげきしか生きてとふべき身にしあらねば 」
死にそうなほど嘆きに嘆いておりました。生きてお見舞いできる身にはございませんもの・・・。
身分違いの恋に泣いたのは、母である和泉さまと同じ。

小式部は女房三十六歌仙の一人です。
お歌は後拾遺集に初めて採られ、勅撰集には八首入集とありますが、同名の別人などの作が半分ほど混じっております。家集も残されておりません。




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