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■花山院(968年〜1008年)

冷泉院×懐子の第一皇子です。師貞親王、落飾後の法名は入覚です。
居貞親王・為尊親王・敦道親王とは御生母を別となさるご兄弟で、花山院がいちばん長兄です。
「大鏡」「栄花物語」に楽しくも微妙な説話を数多く残されていらっしゃいます。結果的に伊周・隆家の失脚の原因をお作りになられたのも、この方。話題には事欠きません。少し長めにご紹介します。
17歳で即位、そして在位わずか2年で譲位されました。時に愛する女御を失った悲しみにくれる花山天皇は、その弱ったお心を巧妙についた兼家の陰謀によって、出家→譲位の立場へと強引に追い込まれたのです。
そのようにして騙されてお入りになられた出家の道とはいえど、相当に厳しい修行を積まれた末、大変強い法力をお授かりになられたとのことです。法力自慢の僧との験比べでは、院にかなう力の持ち主は誰もいなかったと伝えられています。
また、色の道においてはとかく悪評がつきまといます。この方面では為尊親王と意気投合されておられました(異腹の兄弟というものは、あまり仲が良くないそうなんですけど、この冷泉院の皇子ご兄弟は仲睦まじくされておいでのようです)。 院がお通いになられた藤原伊尹の姫君・九の御方を為尊親王の妻にと譲られ、御自身は同じ屋敷の女房・中務にお手つきなされ、さらに中務と彼女の娘を、母娘揃って孕ませておしまいになられたりと、 まあ、とんでもないです。さらには、産み月の迫った女御(小氏子・しし)を、愛しさのあまりいつまでもお側におかれて実家の里にお帰しにならなかったため、 女御はその疲労が積もられてか、身二つになることなく息絶えられた、とか。この時の院の茫然自失な悲しみを、兼家に上手く利用されてしまうわけですね。
院は父君・冷泉院の狂気なご性質を受け継いでおられました。
ある時は常人とは思えないお振る舞いをされたかと思えば、また別の時は全く正常であられます。この始末の悪さを評して源俊賢曰く、 「冷泉院の狂ひよりは、花山院の狂ひは術なきものなれ」冷泉院のお狂いより、花山院のお狂いはどうしょうもない、と。これを聞いた道長は、俊賢をたしなめながらも大爆笑。 で、どう変なのかといえば、お数珠が大小の蜜柑の実を長く連ねて作られたものだったとか、 なぜか照魔鏡(魔性の者の真の姿を映し出すという鏡)をはめた笠をかぶっていらしたことも。 多数の僧を、それも屈強な不良僧を身近に引き連れられ、怪しげな集団が形成されていたとか・・・。これはかなり怖いですよ(笑)。
反面、芸術や和歌、身のまわりの小道具におけるセンスなどの感性の面におかれては大変斬新な発想をお持ちで、その才も如何なく発揮されました。 築地(屋敷のまわりの土塀)が味気ないと、その上に撫子の種を撒かれたので、やがて花が咲き、思いがけない美しさが人々の情緒を誘ったことがありました。 優れた絵心もお持ち合わせておいででした。中でも走っている車の絵は、車輪の様子を今までにない技法でお描きになられたので、走る車はこう描くべきと人々は感心したそうです。
院の勅命で編まれた「拾遺和歌集」には和泉式部の歌が一首、勅撰集においては初めて採り入れられました。(「くらきより〜」の歌です)
この複雑極まる個性の、台風の目のようなお方も、御歳41で薨去されました。

「足引の山に入日のときしもぞあまたの花は照りまさりける」
このようにあはれな情感をも詠まれる方でした。そこに漂う無常観は、和泉式部の歌のそれにもつながるといいます。




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